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[18488] 恋姫†無双  外史の系図 ~董家伝~
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/08/17 12:06
初めまして、こんにちは。

この度、恋姫†無双をプレイするに至りまして、びびっときたので執筆をしようということになりました。

まぁ先達の方々の後追いということになりますが、頑張って上手な文章が書けるように頑張っていきたいと思います。

厨二病と石を投げつけないでください。
医師も投げつけないでください、大変危険です。


少しでも完結に近づけるように。
読むに値する文章が書けるように。
長く、また、生暖かい目で応援していただければ、嬉しい限りです。

それでは、どぞ。



 ~お知らせ~

えぇっと、以前感想を頂いた方から、タイトルで損をしていると思う、と言われまして。
何分、ネーミングセンスなどミジンコの如く些少なものですから、いい案が浮かびませんでした。
そこで、とりあえず何処の話をメインに書いているのかを分かりやすくするために、と董家伝という印だけ入れることにしました。
……えっ? やっぱりセンスない?
…………それについては、俺はもう諦めます。
という訳ですので、読んでいただいている方も、これから読んでくださる方も。
改めて、どうぞよろしくお願いします。



[18488] 一話~二十五話 オリジナルな人物設定 
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/10/02 14:33
 ここには、恋姫原作に登場していない人物や、正史において不明な点を抱える人物の簡単な紹介をしたいと思います。

 思いっきり、独自の設定ですので、この人物はこういうので呼ばれてたよ、とか、こいつ恋姫では男じゃ無かった?とかあれば、ご指摘をお願いします。


******

・華雄
  姓:華
  名:雄
  字:葉由(しょうゆう)
 真名:??

  字は『三国志集解』での華雄の名を頂きました。
  誤って伝えられたとのことですが、華雄の方が格好いいですよねぇ。
  真名は、待て??話!ということで。


・李確
  姓:李
  名:確
  字:稚然(ちぜん)

  確の字が違いますが、許してください、手書き入力でも出ないんです。
  字ですが、多分別号だと思いますが、それを用いさせていただきました。
  董卓の親からの臣として、中年から壮年な感じです。


・徐栄
  姓:徐
  名:栄
  字:玄菟(げんと)

  李確と共に古参の臣として、ちょっと武官風な中年親父です。
  この方、反董卓連合戦では董卓軍一の戦果を上げているのも関わらず、目立たないというちょっと可哀想な方だったりします。
  皆さんで応援してあげてください。


・徐晃
  姓:徐
  名:晃
  字:公明
 真名:琴音(ことね)

  金の長い髪を頭の後ろにてポニーテールにしている。
  後々に、魏の五将軍となるお方です。
  他の作品にも同じような設定があったのですが、これが一番しっくりくるため、このようなことと相成りました。
  董卓軍では珍しく鎧を着ている、とは言っても急所の辺りだけですが。


・牛輔
  姓:牛
  名:輔
  字:子夫(しぶ)

  短く揃えた黒髪に、切れ長の目をもつ、ちょっと熱血系の兄ちゃんです。
  大人より大きい剣(モン○ン風な)を片手で振り回したりします。
  元々董卓の娘婿なのですが、月には娘なぞおらん!ということで、出てきてもらいました。
  
 追加;燃える男、という意味を持たせようと焔煉という字にしていましたが、どうにも読みにくいかなと思いまして、変更してしまいました。
    うぅぅ、済みません。
    関連ある名前がいいかなとは思ったんですが、娘婿→子供の夫、ということで子夫さんです。
    


・李粛
  姓:李
  名:粛
  字:武禪(ぶぜん)
 真名:陽菜(ひな)

  腰まである長い真紅の髪に、豊満な身体を持つ女性……なんですが、どこを間違ったか、元気印となってしまいました。
  言うなれば、大きい鈴々とでも言いましょうか。
  胸と腰だけという、恋より身軽な服装をしています。
  このお方、正史では牛輔と争っていたりしますが、そこはそれ、幼なじみということで。
  ちなみに、姉が一人で、洛陽にいたりします。
  
 追加;牛輔と同じく優武とかどう読むんだよ、と思いまして変更と相成りました。
    あぁぁ、ごめんなさいぃぃ。
    武、という文字が入れたかっただけなんですが、こう書いてしまうと姉が誰だか分かる人には分かってしまいそうで、ちょっとだけドキワクです。
    牛輔さん共々、よろしくお願いします。


・王方
  姓:王
  名:方
  字:白儀(はくぎ)

  銀に近い髪を肩まで伸ばし、色白な肌と相まって切れ長の眦がどこか冷たい印象を与える青年です。
  ただ李粛と牛輔の古くからの知り合いなので、結構な苦労人ゆえにはっちゃけてたりしますが。
  正史では結構優秀な武将だったりするんですが『演義』においては初陣の馬超に討ち取られてしまってます。
  本来なら武官の筈なのに、何故か文官ですがw


・姜維
  姓:姜
  名:維
  字:伯約
 真名:赤瑠(せきる)

  蒼穹の髪をそれぞれサイドから流すようにテールにして(サイドテール?)身に纏う鎧も蒼のものを使う少女です。
  母親の発育がいつか自分にも、と健闘するであろう健気な少女ですので、皆さんで応援してあげて下さい(ホロリ
  三国志後期において、諸葛亮にその才を見込まれてその後継となる武将ですが、その信に応えようと空回りしすぎて蜀滅亡の一因ともなってしまった、悲劇の将だったりします。
  ちなみに、髪型は筆者の趣味です。
  決して、テイルズやっている弟を見て、とか、戦極姫をしたから、という訳ではありませんのであしからず。 


・姜明

  蒼穹色の髪を長く伸ばして、豊麗な肉体を持つ姜維の母親である。
  溢れる母性と知識で董卓軍の恋姫達の悩みを聞く、いわば蜀の黄忠のような存在です。
  将ではないので字等は出しませんが、彼女が一刀に身と心を委ねる時にでも真名を出したいと思います。


・馬休

  姓:馬
  名:休
  字:草元(そうげん)
 真名:左璃(さり)

  栗色の髪を肩まで伸ばし、文官風の服を着る少女。
  馬超の妹であり、後述の馬鉄とは双子で馬休のほうが妹である。
  何かと慌しい姉達を見て、常に冷静沈着でいようとする。
  正史では馬騰と共に曹操に殺されてしまう将であります。
  馬超の弟であった、ということぐらいしか情報がないので、妹、しかも双子と相成りました。
  

・馬鉄
 
  姓:馬
  名:鉄
  字:元遷(げんせん)
 真名:右瑠(うる)

  馬休と同じ髪型ながら、腿の辺りで締まった腰履きに色鮮やかな服を合わせるお洒落な少女。
  馬休とは双子の姉ではあるが、その性格が反対なのを不思議に思いながらも今日も馬休を振り回している。
  馬休と同じく、父である馬騰と共に曹操に討たれてしまう将であります。
  この方も情報が少なく、何故か元気系な少女となってしまいました。
  ……当初の予定では、物静かな双子になるはずだったのに。


・馬騰

  姓:馬
  名:騰
  字:寿成(じゅせい)

  言わずと知れた馬三姉妹の母親。
  彼女達と同じ栗色の髪を三つ編みで一つに纏めながら、背中まで伸ばしている。
  体型はスレンダーで、娘の馬超が自分の胸を全て持っていってしまった、と常々酒の席で語っている。
  というわけで、無印では父のくせに、真では母となった馬騰さんです。
  こういうキャラを出すと人妻、もしくは未亡人率が上がるとというのに書くことを止められない俺は、きっと末期。
  真名は、姜明と同じくいつか出そうと思います。  
  べ、別に考えていないだけじゃないんだからねッ!?


・庖徳(正式には[广龍]徳)

  姓:庖(ほう)
  名:徳
  字:令明

  黒髪を一つに束ね、頬に十字傷のある少年。
  拐という後にトンファーの起源ともなる武具を用いる。
  黒髪でちびっこい某抜刀斎を思っていただければ、イメージ的にどうかな、と思います。
  正史で関羽とやり合うだけに、それに相応しい力を持ってもらいました。
  作者の筆力はそれに相応しくなかったりしますが。



[18488] 一話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/04 14:40
「救急車を……っ! 救急車を喚べ!」

 しんと静まりかえった聖フランチェスカ学園武道場において、眼下に倒れる男を置きながらも己の呼吸だけが聞こえるその世界は、審判役を務めていた顧問によって唐突に終焉を迎えた。
 数人の大人が慌てふためきながら目の前の男へと殺到する。
 何事かを怒鳴りながら男の頬を叩いたり、その首に手を当て、さらに慌てふためくのをただただ呆然と眺めていた。



 不意に。



 名を呼ばれた気がして振り返る。
 こちらを見る剣道部の面々は、その瞳に驚愕と畏怖の感情を張り付かせ、俺が振り返るとその身をびくりと震わせた。
 中には、ただ起こった事柄に困惑しながらも、俺を心配する視線も少なくは無かったが、俺を見る殆どの視線は刃物を扱うかの如く恐れていた。
 若干冷静になった思考が、素足から送られてくる肌が張り付くほど冷えた武道場の冷たさを感知し、面から漏れ出る吐息が白く染まっているのを認識する。
 ああ、そう言えば今は冬休みなんだなと、不意に思い出し、今なお自室の机に積まれ聳え立つ宿題がふと脳裏に現れる。

「――」

 武道場に取られた小さな窓からは、白い結晶がちらちらと覗き見え、それが雪なのだと思い出すまでにそれほど時間はかからなかった。
 その間にも、大人達は声を荒げながら辺りを行ったり来たりしている。
 誰もがこちらを見ることはせず、ただ一人忘れ去られたのではないかと勘違いするほどの孤独。
 懐かしく、そして味わいたくはなかったその感情は、再び聞こえた気のする己の名に、緩やかに霧散した。

「か――、起き――! ――ずぴー!」

 徐々に大きくなっていく己の名を呼び声。
 それにかき消されるかのように武道場の景色は闇へと消え、肌から感じる寒さと、肉を抉った感触だけが手に残る。
 そして――

「かずぴー! ええ加減に起きいやっ!」

 後頭部を襲う鈍い痛みに、俺の意識は闇から引きずり出された。



  **


 
 甲高く、それでいてどこか抜けたようにその存在を知らしめるチャイムを背景に、授業が終了した教室がにわかに活気立つ。
 聖フランチェスカ学園。
 元超お嬢様学校であり、男女共学となった今なおそこに在学する生徒の大半は超お嬢様であり、俺こと北郷一刀や、叩いてきた及川佑は圧倒的少数な男子なのである。

 ……や、通ってた高校が少子化から廃校となって、編入させられただけだから、俺自身は至って普通な一般人だから。
 そんな誰にとも分からない弁解をしながら、痛む後頭部を押さえて目の前の及川を睨み付ける。
 
「うっ……そう睨むなやかずぴー。ほら、不動先輩が呼んでるで?」

 叩いたことに罪悪感があるのか、或いは俺の顔が怖いのか。
 後者は全力で否定したいところではあるが、それを追求することはなく及川が指し示した方向を見やる。
 開け放たれた扉から、こちらを伺うように教室を覗く姿。
 黒く、光沢のある絹のような髪を腰にまで達せ、引き締まりながらも自己主張する部位は制服の上からでも分かるほどで、その女子高校生としては高い身長によく映えていた。

 不動如耶。

 聖フランチェスカ学園剣道部主将。
 男子の人数不足から男子女子合同の剣道部を取り纏める少女が、そこにいた。





「不動先輩、何か用ですか?」

「単刀直入に言おう、剣道部に帰ってこい、北郷」

「本当に単刀直入ですね」

 恐らく、多分。
 言われることが大体予想できていたためか、言われる覚悟をしていた寸分違わぬ台詞に、くすりと苦笑し、心の奥底が軋む。
 ああ、そう言えば正々堂々を心がける人だったな、と思い出し、その声色が以前聞いていた厳しいものでも、意地の悪いものでも無く、ただただこちらを心配するものだったことに、感謝の念を浮かべながら頭を振る。

「すみません……、何度も誘っていただいて悪いとは思っていますが、戻ることは出来ません」

「しかし、部の者も先生方も、お前が咎を背負う必要はないと言っている。私自身も、あれは事故だと思っているんだ」

 謝罪を込めて下げた頭の上から、まるで触れたら壊れるかモノを扱うような声色が降り注ぐ。


 事故。


 一ヶ月ほど前に、ここ聖フランチェスカ学園内にて起きた、ある一つの事件。
 それを引き起こしたのが俺で、なおかつ剣道部に関わりがあることだから、こんなにも不動先輩は気にかけてくれている。


「俺は……戻ることは出来ません」 


 それでも。


 失礼します、と声をかけ、こちらを伺っていた及川を誘って帰宅の準備を済ませる。
 何か言い足そうな顔をしていたが、無理矢理に引っ張って足を進ませる。
 後ろから呼び止められる声を無視して――

 
 すみません、不動先輩。
 剣道部のみんなも、先生達も、あの事故を知るみんなが俺が悪い訳じゃないと言ってくれても。
 俺は、自分自身が許せないんです。



     ――言葉に出来ない答えを胸に、俺は駆け出していた。





「はぁ? デート?」

「そや。だからかずぴー、悪いんやけど博物館はまた明日ちゅうことで!」

「そりゃまあ……いいけど」

 頼む、と手を合わせる及川の勢いに押される形で、了承の言葉を発する。
 聖フランチェスカ学園に付随する博物館。
 元々、学園長が趣味で集めていた骨董品を展示し、生徒達に見てもらおうと建てられたものだが、その意図に反してその利用数は極端に少ないものだった。
 その事実を認めたくない学園長は、その権限を利用してある課題を全生徒に課す。
 すなわち、骨董品が展示されている博物館を展覧した感想文の提出。
 課題と言う名の強制的な権力によって、俺たち生徒は博物館へと足を運ばざるを得なかったのだ。
 数少ない男子同級生である及川と、その博物館を見に行こうと言っていたのが今日だったのだが、その及川がデートである。
 口を開けばフェチニズムを話し、女の子を見ればまず匂いを嗅ぐ及川が、である。
 及川だけは同類だと思っていたのに、と俺は空を仰ぐことしか出来なかった。

「かずぴー……匂い嗅ぐとかさすがにそれはないわ……。……絶対領域のは嗅ぎたいけど」

「おま、変態か!?」

「そや、変態や!」

 心からのツッコミを華麗に返され、あまつさえ断言された。
 まぁ、それでもこいつはいい奴、よく言えば親友、悪く言えば汚染源だから、特に気にすることもなかったが。
 とりあえず、思考を読まれたことはこの際スルーしておく、俺も変態に毒されかねん。
 この変態野郎と言いながら荒ぶる鷹のポーズを取る俺と、変態じゃない萌の求道師やと喚きながら獲物を狙う蟷螂のポーズを取る及川。
 どちらが毒されているのか、言うまでもないだろう。



「んじゃ、デート行ってくるわ!」

「さっさと行け、んでもって別れちまえコンチクショー!」

 街へ向かう交差点にて、そう言いながら満面の笑みで手を振ってくる及川に石を投げつける。
 及川が向かう方へ行けば、聖フランチェスカ学園男子寮もあるのだが、今現在俺は少し離れた祖父の家から通っている。
 まあ、歩いて一時間ほどだけど足腰の鍛錬にもなるし、バスとか電車は面倒くさい、あれ分かりにくいし。
 ……決して、彼女が出来たら一緒に登下校したいとか思ってるわけじゃないぞ、うん。


 
 そんなこんなで及川と別れ、一人寂しく家へと帰ってくる。
 寺兼道場兼住居というハチャメチャな家ではあるが、住んでいるのは俺と祖父の二人だけ。
 その祖父も、殆ど家に帰ることは無く、もっぱら俺一人で住んでいる状態だ。
 寂しい訳じゃないが、結構な階段を経て山の中にある家は静としており、そこだけ世界から切り離されたようで。
 少し背筋を震わせながら、返事が帰ってくるわけでもないのに、ただいまと声を上げていた。



 *



「げほっごほっ! どんだけ掃除してないんだよ、この倉庫……」

 帰宅早々、居間の机と同じぐらいでかい紙に書かれた文字を見つけ、その内容に絶望した。
 曰く、倉の掃除よろしく、とのこと。
 思い立ったが吉日、それ以外は凶日と声高に言う祖父の命令に、俺は知らず知らず溜息を吐く。
 
「思い立ったんなら、自分でしてくれりゃいいのに……。しかも、日も暮れようかってのに」

 そう言いながらも、蜘蛛の巣を木の棒でグルグルと剥がしていく。
 蜘蛛の巣、というよりも蟻塚ならぬ蜘蛛塚のような巣を、棒を取り替えながら掃除していく。
 夕暮れが開けた扉から入り込み、倉の中はある程度照らされているが、どうにも暗く見通しが悪い。
 しかも、いつから掃除していないのか、堆く積もった埃が足をずるずると滑らせて、危険極まりない。
 っていうか祖父よ、倉の掃除はほんの数時間じゃ出来ないと思うんだが如何だろう、まぁ笑って誤魔化されそうなんで話さないとは思うが。

「……今度の休みの日にするか、風も通さなきゃいけんし」

 うん、そうだそうしよう、決して面倒くさい訳じゃないぞー。
 吉日、要は天命は我には無かったのだ、と一人うんうん納得して、踵を返して倉を後にしようと中を見渡したその視線の先に。
 埃を積もらせながらも、陽光に煌めいた銅鏡が、そこにあった。


「うーん……結構古いな、これ」

 手のひらで埃を刮ぎ落として、銅鏡を見やる。
 装飾こそ教科書に載っているものと大差なく、特に特殊なものには見えない。
 ただ、刻まれた傷や罅からそれが古いものなのだと、無意識のうちにそう感じ、その触れる手つきも自然と怖々してしまう。

「何で銅鏡があるのか分からないけど……まあまた今度にしよう」

 銅鏡と言えば古代中国、紀元前の戦国時代が始まりではないかと言われている。
 使用されていた地域は広大であり、東南アジアから遠くは古代エジプトでも用いられた事例があるらしい。
 これ自体がそういったものではないのだろうが、それでもその佇まいは歴史を感じさせるものだった。

  ふと。

 鏡面部分がきらりと輝く。
 外を見れば、日も沈もうとしており、ビルや山の隙間から差し込む陽光がのぞく。
 おそらくそれが反射したのだろうと、鏡をのぞき込み――


――全身を覆うほどの目映い光に、俺は包み込まれていたのである


 




[18488] 二話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/04 14:41


 黄巾の乱。



 中国後漢王朝末期の184年に、太平道の教祖張角が起こしたと言われる農民反乱である。
 中国全土を巻き込み、そして多くの英傑を生み出す切っ掛けとなったこの乱は、他方より比較的小規模ながらも彼の地、涼州においてもその戦火を燻らせていた。



  **


「ちっ、待ちやがれぇぇ!」

「待てやゴラァァァ!」

「ま、待つんだなぁぁ!」

 黄巾賊とは、目印として頭に黄色の布を巻かれていることからそう呼ばれるのだが、怒声を上げて走る三人の男達の頭にも、黄色の布が巻かれていた。
 その手には一様に片刃の剣が握られており、その雰囲気や声から殺気立っていることが見て取れた。

「待てと言われて待つ馬鹿がいるわけないでしょうが!」

 男達の視線の先。
 男達の怒声に反応するかのような言葉は、逃げるように走る二人の少女の一人から、発せられた。

 二つに纏められた三つ編みを走るままに靡かせ、髪の色と合わせられた服を映えらせており。
 眼鏡の奥から覗く眼光は、疲労の色を濃くしながらも、その切れ味を一欠片も失ってはいなかった。

「詠ちゃん、私はいいから詠ちゃんだけでもっ!」

「月、もう少しだから、もう少しだけ頑張って!」

 月と呼ばれた少女は、詠という少女よりは小柄だろうか。
 月光の如くの髪は、淡いベールに覆われており、走り続けて荒くなった吐息は、頬を染めさせていた。
 地に着くほどの長い裾は既に汚れており、所々はほつれ擦り切れていた。



 故に。
 ほつれ、それによって生じた布きれに月という少女は足を取られる。
 手を引いていた詠という少女もその動きを止められ、気付いた時には既に遅く、少女達は逃げ切れない位置にまで、男達を踏み込ませていた。



 時は古代中国、戦乱続くこの地において、既に日常と化してしまっていたその光景。
 賊が蔓延り、それを取り締まる官僚には賄賂が横行し、力持つ者は大志と野望を抱き、力無き者は嘆き苦しむ時代。
 その少女達もまた、力無き者として、陵辱され、蹂躙され、歴史という流れの中に散っていくのだろう。
 たとえそれが、後世に語り紡がれるべき歴史とは違う流れを刻んだとしても。
決して存在するべきではない異端が、その歴史に名を残すことになったとしても。
 

 俺が、その現実から目を逸らす原因となる訳でもなく――



 
          ――気付いた時には、少女達と男達の間に、その身を投げ出していた。





**



時は少し遡る。



 夕暮れの蔵の中で光に包まれたと思えば、気付いた時には荒野に放り出されていた現状。
 その光というのが、夕暮れの陽光なのか、はたまた銅鏡に反射された何かしらなのか。
 理解が追いつかず、置かれている状況が判断出来ない今を知り得るために、俺は村、あるいは人を探すのを第一とした。
 何をするにもまずは情報、大まかな場所さえ分かれば、家に帰る目処もつくと思ったからである。
 

「本当、一体どこなんだよ、ここは……」

 
 とりあえず、と遠方に見える森を目指して歩くことにした俺は、何度目になるか分からない台詞を口にしながらも周囲を見渡していた。
 とりあえず、森に行けば川ぐらいあるだろう、まずは水の確保と思い立っての行動なのだが、如何せん森までが意外に遠い。
 距離の目安になる対象物が無きに等しく、遙か彼方の山々は全く近づく気配なし。
 地平線が見渡せる程の広大な荒野を歩きながら、俺は先ほどよりは幾分か冷静になった頭で思考していた。

「これだけ広大な荒野は、日本では聞いたことがないなぁ。中国、あるいはモンゴル辺りならばありえるのかも知れないけど、それだと何故に、って言うことにもなるし」

 日本国内なら誘拐されて捨てられて、というのも有り得るかと思ったが、それが外国になるとその可能性も低くなる。
 さすがにそこまでするのはいないだろう、との思ってのことなのだが……いない、よね?
 そもそも、誘拐される心当たりが無い、祖父関係ならばありえない話でもないか。
 うーむ、うんうん唸りながらも一向に解の出ない思案に、頭を振ってそれを中断する。
 
「まぁ、とりあえずは人だな。水が確保出来れば言うことはないんだけど、入れ物も無いし」

 思えば、大分森に近づいただろうか、先ほどまでは視界に映るその形もかなり小さいものだったが、近づくにつれて元の大きさへと変貌していく。
 荒れ地だった地面には緑が徐々に含まれていき、乾燥していた空気は水気を帯び始める。
 人の手が入っている感じではないことから、人がいることは若干諦めながら水を探そうと足を踏み入れる。

「近づかないで!」


 その一歩を踏み込んだ矢先、唐突に聞こえた高い、女性特有の声。
 切羽詰まった、震えるように発せられたその声は、不安と緊張を含んでいて。

 俺は、知らずの内に声の方向へと駆けだしていた。



**



「何だ、てめえはっ!?」

 そして、今に至る訳なんだが、うむ、もしかしなくてもピンチっぽい。
 唐突に茂みの中から現れた俺に、三人の中でも引き締まった身躯を持つ男が怒声を上げる。
 手に持つ剣を油断無く持ち直し、目配せ一つで残りの二人を前へと押しやる所を見ると、そいつがリーダー格で、いかにも場慣れしてますってのが即座に理解できる。

 そんなことを考えて無理矢理冷静になろうとしても、心臓は痛いぐらいに動悸し、あまりの緊張に気持ち悪くなってくる。
 
 どんなに力を入れても膝は定まらず、逃げ出しそうになる身躯を必死に抑えるために、奥歯を噛みしめる。
 三人の男達が持つ、鈍く煌めく剣。
 現代日本であるならば銃刀法違反ものだが、ここが日本だという結論が得られない以上、最悪の可能性も考慮しておかなければならない。
 加えて、数としては三対三だが、俺の背後にいる少女達が戦えるという可能性も、最悪を考えれば外さなければならない。
 三対一、相手は凶器有りでこっちは無し、向こうが攻めでこっちは守り。
 うむ、絶体絶命のピンチである。

「アニキ、こいつの着てるもん、高く売れるんじゃないっすか?」

「ご、豪族みたいなんだな」

「豪族か……、こいつはいい。身包みは売っぱらって、こいつは人質で金が取れる。女共は楽しんだ後に売れる。おい、今日はついてるなぁ」

 ちび、でぶ、そしてアニキと呼ばれた男達が、皆一様に下卑た笑いを浮かべる。
 その頭の中では、これからの計画図でも描かれているのだろうか、ちびの男がにやにやと笑いながら俺へと剣を向ける。
 

「おい、身包み寄越せば今なら――」


「断る」


「助け……あぁん?」


 断られるとは思っていなかったのか、俺の拒否の言葉に先ほどまでの笑みは消え、その視線には怒気が含まれていた。
 っていうか、さっき人質にするって言ったじゃん、そのまま五体満足で解放されるとか思えないわけで。
 故に、俺は再び拒否の言葉を口にする。

「断る、と言った。人質にされる訳にもいかないし、目の前で女の子が襲われるのを見過ごす訳にはいかない」

「てめぇ……っ!」

 そう言われ、手に取るように怒気が男に満たされるのを、右足を引いて半身の形を取りつつ待ち構える。
 祖父から、ついでじゃ、とは名ばかりに武術を教え込まれてはきたが、ここ最近は稽古をつけて貰っていた訳でもなく、今なお以前と同じように動けるかどうかは、分かったもんじゃない。
 それでも、少女達が逃げるか隠れる時間ぐらいは稼げるだろうと、注意を男達に向けたまま背後の少女達へと声を掛ける。

「俺が時間を稼ぐ。今のうちに、速く逃げ――」

「さす訳がねえだろうがっ!」

 やはりというか、それを男達が見逃してくれる筈もなく。
 目の前の男から、唐突に剣が振り下ろされる。
 切られたら死ぬという、死そのものが振り下ろされる感覚を、感情の中から勇気と気合いを振り絞り、迫り来る死を睨み付けることで何とか追い払う。
 そのまま男の懐へ踏み込み、凶器となる剣ではなく、それを持つ拳を払ってその軌道を変えた。

「えっ……なっ!?」

 始め茫然、次いで驚愕に染まるその顔。
 腕で剣を振るう以上、人間の構造上、刃より内側は完全な安全地帯となる。
 まして、剣の軌道を無理矢理に変えられ、かつ切っ先が地へと刺さった状態ならば、その位置は暗器でも無い限りは死角と言ってもいいものであった。
 そんな顔の下に出来た空間へと更に身体を潜り込ませ、密着させた状態から、身体全体を捻転させて、鳩尾部分にある水月へと拳を打ち込む。
 脂肪を抉りこみ、筋肉の継ぎ目を引きちぎるように拳を捻り上げる。
 横隔膜に衝撃が伝わったのか、男の顔色が変わった。  

「ぐ、ぐぉぉぉ」

 口の端から涎を垂らし、潰れた蛙のような声を発する男。
 痛みを逃すために、倒れ伏そうとする男の顎を蹴り飛ばし、残心を持って距離を取る。



「チ、チビをよくもやったんだなっ!」

 身躯を丸めて苦しむ仲間の姿に怒りを覚えたのか、まるで地響きかの如く大地を揺らしながら、でぶの男が突進してくる。
 たわわに揺れるその脂肪が女性のものだったらとふと脳裏をかすめ、横凪に払われる剣を慌てて後ろへと飛んで避ける。
追撃として突き出された腕と剣をかいくぐると、脂肪の壁から打ち込みは無理として、重心のかかっている足を大外刈りの要領で刈り上げる。
 足を取られ、刹那宙に放り出される形となった男の頭を掴み、力の限り地面へと叩き付けた。

 鈍く音を響かせ、声にならない痛みに苦しむでぶの男から距離を取り、囲まれない位置へと陣取るように動く。
 震える手を握りしめ、気を抜けば崩れ落ちそうになる精神と身体を、唇を噛みしめ叱咤しながら、油断することなく再び構えさせた。
 鼓動が五月蠅いぐらいに喚き散らし、ともすれば、心臓が口から飛び出そうなほどの緊張。
 目の前の男達にも、後ろの少女達にも聞こえているのではないか、そう思えるほどの鼓動を隠すように、俺は口を開いた。






「……まだ来るのであらば、それ相応の覚悟を持ってこい。手加減は、出来んぞ」






 

 無論はったりです、はい。
 


 手加減も何も、三人が一斉に襲いかかれば俺に防ぐ術は無く、その場合は本当に時間を稼ぐだけになってしまう。
 それでもまあ、女の子を助けられればそれでいいかと思う辺り、及川のことを言えないなとふと思ってしまうが。
 結局は死ぬのはご免で、このまま退いてくれと、心から切に願うのだが。

 そして。
 実際にはごく短時間なのだろうが、俺には長いとも感じられた静寂は、ぽつりと、忌々しげに零された男の声に破られる。



「……ちっ、チビ、でぶ、ここは退くぞ」

「ぐぅぅ……あ、ま、待ってくださいよ、アニキ」

「ぬぅぅぉぉ……お? ま、待って欲しいんだな」

 そう言い残して踵を返して森の中へ消えていくアニキを、慌てて追いかけるチビとでぶ達。
 その足取りには、未だダメージが残っていたが、置いて行かれないようにと、痛む身体を押しているのが見て取れる。

 俺は、男達が裏へと回り込んで、いきなり襲いかかってくるのではないかと思い、残心を保ったまま消えていく先を見張っていたのだが、その姿が完全に消え、さらにはいつまで経っても襲われず、気配も感じなくなったことから、三人が本当に退いたのだとようやく肩の力を抜いたのであった。


 
「……はぁぁぁぁぁぁぁ、た、助かった……」

 張り詰めていた緊張も、切り詰めていた精神も、一気に弛緩してしまい、震える足に逆らうことなく地面へとへたり込む。
 拳を解けば目に見えて分かるほどに震えており、強く握りしめていた掌には血が滲んでいた。
 冷静になってみれば、身体全体が震えているのが分かる。
 死ななかった、生き残れた、……殺さなくてすんだ。
 緊張が解け、様々な思考に熱を持ち始めた脳に酸素を送るためにと、深く呼吸を繰り返す。

 弛緩し、崩れ落ちそうになる精神を何とか立て直そうと、冷静になろうとする。
 
 そこまで来て。
 
 あれ、俺なんで戦ってたんだっけと、ふと何かを忘れていることを思い出し。






 だからこそ。






「あ、あのぉ?」


「ひゃっ、ひゃいっ!?」






 唐突にかけられた言葉に、俺は驚きをもって答えるしか無かったのである。



 








「…………ぷ、ぷぷぷ、あーはっはっはっは! ひゃ、ひゃいとか、ひゃいとか何ソレっ!? 何ソレェ! ぷぷぷ」

「ちょ、ちょっと詠ちゃん、助けてもらったのに、ふふふ、悪いよぉ。ふふふふ」

 先ほどまでの緊迫した空気はどこへ行ったのか、いきなり爆笑し始めた少女と、それを戒めながらも笑いを堪えきれない少女に、俺は穴を掘ってでも埋まりたい気持ちで一杯だった。
 自分が笑われているという事実、しかも女の子に、ということに俺は羞恥で顔を熱くさせる。
 涙が出ちゃう、だって男の子だもん、グスン。
 
「助けたっていうのに、ここまで爆笑される俺って……」

「あ、あんたが悪いのよ、くくく! あんたがひゃいとか言わなければ、ひゃいとか……くく、はっはっはっは!」

「詠ちゃん、さすがに笑いすぎだよう……。こほん、先ほどは助けて頂いてありがとうございました」

 よほどツボに入ったのか、転げるように腹を抱え、笑いを堪えるかのように、地面に手を叩き付ける少女を置いて、もう一人の少女が咳払いをした後に、謝礼として頭を下げる。
 
 よくよく見れば、儚げながらも、ふわりとした印象を覚える彼女は、その穏和な笑みと、月が如くの髪がお互いに映えあい、衆人がいればその殆どが可愛いと言える少女であった。
 擦り切れ、砂や泥によって汚れた衣服はどこか高貴さを匂わせるが、彼女という存在がそれと相まって、守ってあげたくなるような庇護欲をも沸き立たせる。
 まあ、人によっては匂いに誘われた狼になるやもしれんが。

「くくく……ごほん、まぁ、助けて貰った礼はするわ。感謝してる、どうもありがとう」

 先ほどまで笑っていた少女も、笑い疲れたのか、一つ呼吸を置くと、素直に感謝の言葉を発した。
 眼鏡から覗く切れ長の瞳は、性格を表すかの如く強気を秘めており、その口調と相まって刃物という印象を抱かせる。
 彼女もまた所々に擦り傷や切り傷を作っており、先の少女とは違い、白くのぞく肌に残る赤い痕は、その印象と合わせてどことなく色気を漂わせていた。

 ……っていかんいかん、これじゃさっきの男達と同じじゃないか。 

 それに目を取られそうになるのを理性にて必死で堪え。
 美少女達を前にして緊張するのを見栄にて必死に抑え。
 深く息をすることで己自身を何とか誤魔化す。

「いやいや、礼を言われる程じゃないよ。困った人がいれば、それが女の子なら尚更だけど、助けるのは当たり前じゃないか」

 それでも、結局誤魔化しきることは出来ず、出てきた言葉には、本音が混じったものだったが。

「……女じゃなくて男だったらどうしたのよ?」

「ははは、助ける……と思うよ?」

「はぅ……ぎ、疑問系なんですか」
 
 当然、その部分には突っ込みを入れられ、さらには答えにも突っ込みを入れられた。
 動揺と緊張で、もはや何を言っているのかも、自分では分かっていなかったのかもしれない。
 何コイツやっぱり男ってサイテーっていう視線と、男じゃなくてよかったですと本気で安堵している少女。
 両極端な反応に、そういや猫ってこんな感じだよなぁって思ってしまう、別に他意は無いが。
 殺し合い一歩手前まで逝っていた精神が心安らぐには十分であり、そこまできて、ああそういえば、と人を探していた理由を思い出す。


「まぁ、その話は置いておいて。俺の名前は北郷一刀。ちょっと聞きたいんだけど……ここは何処?」


 迷子が問うような、何気なく、本当に何気なく発した問い。
 少女達の服装を見る限り、外国の辺境でもおかしくはないかと思い始めていた俺の期待は、大きく外れることとなり。
 小振りで、瑞々しい唇から発せられたその台詞は、現状が理解出来ていない俺の頭が、更におかしくなったのじゃないかと錯覚出来るほど、衝撃的なものであったのだ。










「私は姓は董、名は卓、字は仲頴と言います。ここは涼州が石城で、その太守をしています」

「同じく姓は賈、名は駆、字は文和。月、董仲頴の軍師をしているわ」

 

 

 



[18488] 三話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/24 15:13
   
 董卓、字は仲頴。


 生まれは隴西郡臨洮として、青年期の頃から類い希なる武勇を持ってその名を近隣に馳せる。
 黄巾の乱の際には、時流に乗って行われた涼州での反乱鎮圧に向い、その討伐によって勲功を上げる。
 黄巾の乱鎮圧後、何進と十常持の争いから生じた宮廷の混乱に敏をもってこれを収め、時の皇帝である小帝弁を廃し、献帝協を擁立、権勢を欲しいままにした。
 しかし、その暴政を見かねた曹操や袁紹、袁術や孫堅などの有力者は橋瑁の呼びかけに応じ、反董卓連合を結成する。
 董卓と反董卓連合による汜水関や虎牢関での戦いは、後世まで語り継がれることになり、中でも董卓の養子となった中華最強として飛将軍とまで呼ばれた呂奉先の武勇は、無双の士として英傑達を震え上がらせた。

 

 賈駆、字は文和。


 始め董卓に仕え、董卓亡き後は主君を幾度も変えながら曹操に仕え、その知略を持って曹魏の筆頭重臣にまで上り詰める軍師である。
 自身の献策によって曹操の親衛隊である典韋を戦死させた賈駆は、曹操に降ると、降将という理由と、自身が知謀に長けているということから主君の疑心を恐れ、その軍務に身を砕いたという。
 


 これが、俺の知っている歴史上の董卓と賈駆……なんだけどなぁ。
 俺は、目の前で起こされている現実に、その知識を疑うことしか出来なかったのである。


「月、外に出るときには護衛を付けなさいって、何度言えば分かってくれるのよ?!」

「うぅ……、だって護衛さんたちがいたら、街の人たち怖がるし……」



 片や、妹を叱る姉のようで。
 片や、保護者に怒られて項垂れる子供のように。



 恩返しということと、護衛という名目で、董卓が収める都市、涼州の石城に赴いた俺。
 そんな俺を背後に置きながら、初めて会った荒野から街までの間を、ずっと賈駆は董卓を叱りつけている。
 とは言っても、それは自分の主君を心配するのもあるのだろうが、どちらかといえば家族を叱る感じであって。
 街の中を行きながらも続けられるそれに、人々は微笑みを持って見守っているのだ。
 元いた世界からこちらに来てすぐさま殺されそうになった俺だが、この世界にも暖かい場所があるのだと、ふと安心出来た。


 城までの道中話を聞いてみれば、時は後漢王朝皇帝として、霊帝が即位している時代。
 国の主たる霊帝は決して愚鈍な王ではなく、腐敗進む後漢王朝において数代ぶりのまともな皇帝だったらしい。
 しかし、人の身ゆえに高齢と病には勝つことは出来ず、ここ最近は床に伏せっているのだという。
 そんな折、心身ともに弱まった霊帝は一人の女性に寵愛を注ぐようになる。
 何太后、洛陽の街に住む屠殺屋の妹が、一躍霊帝の目に留まり、あまつさえ皇子を授かってしまう。
 霊帝との間に協君を授かっていた董太后は、それに危機感を覚え、宦官の中でも実質上の最高権力者である十常持と手を組むに至る。
 反対に、朝廷でも最高位に近い十常持と敵対することになった何太后は、霊帝に兄である何進を大将軍へと任命させる。
 公然と兵力を握るようになった何太后派と、権力にて応対する董太后派。
 そして、両派閥の対立は朝廷に混乱を生み出し、朝廷の混乱は民を軽んじる現状を招くこととなり。
 故に、それに我慢の限界を覚え、明日を生きるためにと、中華全土において農民の一斉蜂起が行われたのである。

 俺が撃退した三人組もそんな人たちであったらしく、彼ら、黄巾賊の目印でもある黄色の布を頭に巻いていたとのことだった。
 まぁ、命の危機でやりとりをしていたのに、そこまで冷静に状況は判断出来ていなかったのだが。
 ぶっちゃけ、気づいていませんでした。

 そして、いくらかの情報を聞き、冷静になったことで、俺は自分が時を越えたことを認識したのである。
 とは言っても、その前に殺される寸前という衝撃を受けていたためか、それほど驚くことは無かったのだが。
 しかも、明らかに時だけでなく、別次元にも飛んじゃいましたって感じがするし。

 ふと、リアル二次元という、全くもって意味不明な単語が頭を過ぎる。
 が、気のせいだということにしておいて、街並みへと視線を向ける。
 そうしないと、何となく駄目なような気がした、主に精神健康的な意味で。


「結構賑わってるんだなぁ」

 ぽつり、と己自信を誤魔化すかのように呟いた言葉に、賈駆が反応した。

「当たり前じゃない。月がいて、ボクがいるんだから当然の結果よ」

「はぅぅ、私は父様と母様の跡を継いだだけだし……。詠ちゃんや音々音ちゃんが指示を出してくれるからだし、恋さんや霞さん、華雄さんが治安を正してくれるからであって……」

 自信満々、と答える賈駆の言葉を正すように言う董卓、きっと恋や霞ってのも、後々に名を知られる英雄豪傑の類であって、信頼しているってのがよく分かる。
 まぁ、それが誰かなんてのは今の俺では分からないのだが。
 いや、董卓配下の武将って言ったら結構な数が絞れて、その中で後世にも名を知られる英雄豪傑っていえばおのずと定まってくるのだが、その人たちがこの世界でどうなっているのか、あまり考えたくないだけなだったりする。
 どうもこの世界の女性には真名と呼ばれる名があるらしく、それは己が認めた人物以外が気軽に呼べば、首が落ちるほどのものらしい。
 と、実践混じりで賈駆が教えてくれました、はい。
 そりゃ、確かに董卓の真名を呼んだ俺が悪いのだけれども、先に説明しとかない向こうも悪いんじゃないかと思う今日この頃。
首に突きつけられた冷たい感触は未だに脳裏にあり、あれも後には笑い話になるのかなとしみじみ思った。

「いやいや、それでもここまで賑やかなのは凄いのでは? 俺も、他を知らないから何とも言えないけど」

「まあ、涼州は華北と違って黄巾賊の活動も派手じゃないし、ここに至っては田舎過ぎて反乱軍も来やしないしね」

 その賈駆の言葉に、そこらへんは俺の知る歴史と大差ないらしい。
 華北の広大な地域を荒らし回っていた黄巾賊だが、西へは荊州あたりまでが主戦場だった筈だ。
 というよりは、涼州においては黄巾賊というよりも、後漢に仇なす異民族の方が活発であり、董卓はその抑えだった筈である。
 まぁ、その辺の差異はあれど、他地域から見れば比較的平穏であるために人が集まり、物資が集まり、活気が生まれているのだろうが。

「それでも、賊の人たちはやっぱりいるんです。本当は、そんな人が出ないように富ませるのが、私の役目なんでしょうけど……」

 不甲斐ないです、と項垂れる董卓を前に、何故か賈駆に睨まれる俺、ええ俺何かしたっけ、と不条理なものを覚えてしまう。
 そもそも、近代以前の賊と言えば、食うに困った人たちが仕方なく始めるものであり、それを抑えようとするのは事実難しいものだったりする。
 蝗害による収穫の不可、旱魃による森林火災に収穫物の減少と蝗害の被害拡大、水害による住居の損失と精神的不安など、ありとあらゆる災害への対策など不可能に近いのだ。
 郡の太守や州牧などはそれを防ごうと対策を講じても、被害地域に住む人々全ての食料や住居の提供は、物価の上昇や治安悪化などを招くこととなり、自分の首を絞めることにもなるため、積極的にはなれない。
 結果、あぶれてしまった人々は賊へと身を堕とし、彼らに襲われた人々は、食べるために賊へと身を堕としていく。



 負のスパイラル、悪循環。


 どうしようもない、と。
 仕方ない、と。
 上辺だけの慰めの言葉は、簡単に言えるのかもしれない――


 それらを本気で救おうと董卓が考えているのは、その口惜しそうな顔を見ればすぐに分かる。
 そんな董卓を見て、賈駆もそのトーンを下げる。
 平和な世から来た俺にとって、賊と呼ばれる人たちの考えなど、心にも思ったことは無かった。
 何が気に入らないのか、何が不満なのか。
 それさえ知ろうとせず、一方的に悪だと決めつけていた自分を恥じながら、俺は董卓の頭へと手を置いた。


  ――だからこそ、俺は敢えてその言葉を口にした。



「今は仕方ないでしょう。黄巾賊によって民衆は困窮に喘ぎ、不安に脅えています。今日を生きるにも心身を磨り減らし、明日の朝日を拝めるかも分からぬ時代です。……だからこそ、主たる董卓殿は項垂れず、前を向かなくてはなりません。全てを見、感じ、判断しなければ、救えるものも救えなくなります。幸い、良き家臣と、良き友に恵まれているようですので、董卓殿ならば、きっと成し遂げられるでしょう」

「あぅあぅ……」

 ね?と最後に付け足しながら、ぽんぽんと軽く頭を叩く。
 顔を覗き込むように付け足したためか、俺から逃げるように顔を俯かせる董卓から視線を外し、嫌がられるのもと思い、手をどける。
 良き友、の辺りで賈駆が呻き声を上げていたが、董卓が俯いた途端、それが呪詛らしきものに変わった気がするのは気のせい、だろう、だと思う、そうだったらいいなぁ。
 まっ、明らかに呪詛られてますけどね。
 ……賈駆さんよ、俺が一体何かしましたか?




 **




 呪詛の言葉を投げ続けられながら、なんだかんだで城へとたどり着く。
 そこに至るまでに、俺と賈駆との間では激しい攻防、主に賈駆からのみだが、が繰り広げられていた。
 人ってそこまで罵詈雑言が言えるんだって、新たに知ることが出来ました、出来れば一生知りたくはありませんでした。
 そして、案内された広間において、俺はそこである人達に会わされるのだが。










 まあ大体予想はついていましたが。
 ここまで的中するのも、如何なものかと。









「月っちと詠が世話になったなー。 ウチは張遼、字は文遠や」
 前布と後布の間が大きく開いた袴に、サラシを巻いただけの胸、上衣を外套のように羽織る女性は、後に張来来と呼び恐れられる張文遠の名を名乗る。
 端正な顔立ちながらも活発に笑う彼女に、俺は見惚れそうになりながら視線をずらす。
 主にサラシの辺りから。
 男なら仕方のないことだと思うのだが、賈駆にはばれているのか、その視線は冷ややかだった。


「董卓軍にその人有りと言われた武人筆頭の華雄、字は葉由だ」
 動きやすさを追求したのか、必要最低限の防具を着けた女性は華雄を名乗る。
 汜水関において、正史では孫堅に、演義では関羽に斬られる武将なのだが、己の言葉に自信を持つその瞳を見るに、近いうちにそれも事実になりそうである。
 後で賈駆にでも一言言っておくか、とまたしても視線をずらしながら考える。
 張遼もそうだが、この人も露出が多すぎて視線の置き場に困る。
 どうしても滑らかな肌や、たわわな……いや、これ以上は言うまい。


「姓は李、名は確、字は稚然と申す。この度は、月様を助けて頂いて、誠に感謝いたします」
 そして、ここに来て唯一の男性の登場に、内心安堵する。
 穏和そうな笑みは好々翁と呼ぶにふさわしい壮年の人だが、その視線はこちらを探るようなもので、値踏されている感じがする。
 なんて言うか、娘の交際相手を前にしたお父さんみたいに。
「ふむ。……まあ合格点、と言った所ですかな」
 上から下まで眺め尽くされ、不意に言われた言葉に理解が追いつかない。
 合格、何が?
 えっ、失格だったらどうなってたの、俺?



「とりあえず、今いるのはこれだけね。恋……呂布や徐栄なんかは、今はいないから、また会ったら、顔だけでも合わせといて」

 いったい何が合格なのか、と一人悩んでいると、賈駆から驚くべき名を告げられた気がする。
 
「もう呂布がいるのか……」

 丁原の養子で、洛陽に入った後に丁原を裏切り董卓の養子になるのが、俺の知っている知識だったのだが。
 この時点で呂布が董卓の元にいる、さらには恋というのが呂布の真名であるなら、女性ということになる。
 貂蝉の取り合いとかどうするんだろう、とか。
 王允との絡みはどうなるの、とか。
 最早俺の知識とはかけ離れた展開に、歴史なんてこんなものか、と心の隅にでも置いておくことにした。
 地球だって、多くの奇蹟によって生まれたのだから、歴史も様々な要因が重なり合って紡がれていくのだろう。
 そこに、俺のイメージとは全然違う女の子の董卓がいたりとか、もしかしたら絶世の美男子な貂蝉がいても、何ら不思議ではないのだ。
 と、いうことにしておこう、じゃないと心の安寧が得られん。
 そしてこの判断を、俺は後に後悔してしまうのだが、今この俺には、そんなことが分かりはしなかったのだ。


「俺は姓は北郷、名は一刀と申します。異国の生まれにて字はありません。此度のことは偶然に偶然を重ねた結果でして、俺は襲われていた女の子を助けただけです。董卓殿と賈駆殿だからと、助けた訳では無いのです」

 まあ、名乗られたのだから、こちらも名乗らない訳にはいかないだろうと、とりあえずは例に習って名乗ってみる。
 やはり違和感を抱えるが、それでも納得してくれたのか、皆変わった名だと答えてくれた。
 変わってるって言われると、ちょっと傷つくよね……。


「それでも、あなたが私たちを助けてくれたのは事実ですから。本当に、ありがとうございました」
 
 そう言って、玉座に座る董卓が頭を下げると、それに従うかのように、その場にいる全員が俺に向けて頭を下げる。
 名乗りを上げた人たち以外にも、女官や武官、文官にいたるまで全員である。
 見慣れない、一種異様な光景に背筋を振るわせながら、俺は慌てて止めに入った。

「ちょ、ちょっと頭を上げてください! そこまでされるほどじゃ……」

「それでも、あなたが、北郷様が助けて下さったから、私と詠ちゃんは怪我もなく無事に帰ってくることが出来たんです。本当に、感謝しています」

「それに、月様は我ら石城の臣と民にとって、姫君でございますから。北郷殿には、感謝してもしきれないのですよ」

 そう言いながら、再び頭を下げる李確に、それにつられて文官や武官達も頭を下げる。
 多く寄せられる感謝の念に背中をむず痒くしながら、仕方なく俺はそれを享受することにした。

「それで、北郷様は旅の方なのでしょうか? 見たこともない外套をみるに、西方からでしょうか?」

 頭を上げた李確からそう聞かれ、俺は、はたとあることに気付く。
 あれ、俺何の説明もしてなかったけ?
 そう言われれば、気付いた時には荒野で、声が聞こえたと思ったら黄巾賊で、殺されそうになったと思ったら追い返して、あれよあれよという間にここにいる。
 その間に、自分の説明は名前だけという事実に、俺は何やってんだと自己嫌悪してしまう。
 かと言って、俺北郷一刀未来からやってきました、なんて言った日には右も左も分からぬ土地で見捨てられてしまうかもしれない、多分賈駆はいの一番にそう進言しそうな気がする。
 どうしよう、と思った俺は、破れかぶれで誤魔化すことに決めた。


「それが……異国の生まれということは覚えているのですが、この地に来た理由や行程が全く思い出せないのです。気付いた時にはあの荒野にいまして、そこで董卓殿と賈駆殿を助けた次第で」

 と、まあ記憶喪失の殻を被ってみることにした、決して嘘を言っているわけではないし。
 そんな俺の言葉に、董卓少し考えた後、笑いながら賈駆に耳打ちをしている。
 その顔はいいこと考えちゃった、といった風でその考えを聞いた賈駆は、驚愕にその顔色を染まらせた。
 対照的な二人に、一体何を話しているのだろうと不安になっていた俺は、次いで董卓が発した言葉を理解するのに、幾ばくかの時を有したのである。
 
 

「でしたら、行き先など思い出すまでは、この地にて逗留されてはいかがですか? 住まいはこちらで提供させていただきます」



「…………………………へ?」







  ** 







「知らない天井だ……」




 ふと目が覚めて、ぽつりと呟く。




 まぁ、今日で三日目なんですけどね。
 行き先などどこにもなく、とりあえず帰る方法を探そうと思っていた俺にとって、拠点となりうる住居を提供してもらうという提案は、喉から手が出るほど欲しいものだったのである。
 恐らくは純粋な好意から提案してきたのだろうが、自分の案が俺の弱点を突いているなど、董卓は微塵も思ってはいないだろう、賈駆辺りなら、その辺も含めて嫌々許可したのだろうが。
 予期せず住居、というよりも石城の城に一室借りることとなった俺は、この時代の知識がアテには出来ないことから、とりあえず情報を集めることを優先した。

 とは言っても、パソコンや電話がある筈もないこの時代において、人々の情報源は基本口伝である。
 街のいろいろな人に話を聞いて廻っても、聞く地域や人によって内容が違うこともあれば、全く意味のない内容になっているなど、質の悪い伝言ゲームみたいな状況で、初っぱなから前途多難だったのだ。


「ううむ、やはり文書を調べてみるしかないのか……。だけど、読めないしなぁ」

 初め、董卓に頼んで保管されている文書を見せてもらおうかと思い、簡単な史書を見せてもらったのだが、書いてある文字こそ読めるものの、その内容は全く理解出来なかったのである。
 いや、漢文の成績はそこまで悪くは無かったのだが、わざわざレ点や一・二点などの返り点が打たれていなかったりするので、俺が訳すると意味不明になってしまうのだ。
 そのため、仕方なく文書からの情報収集を諦め、街の人々から情報を得ようとしたのだったが、ご覧の有様である。
 はや三日で惨敗ムード全開だった。



「おお、北郷やないか。どうや、有益なんはあったんか?」


 これからどうしようか、などと悩みながら廊下を歩いていると、既に出仕しているのか、難しい顔をした張遼と顔を合わせる。
 彼女の手には竹簡が握られており、おそらくは報告書なのだろうが、美人がぶつぶつと言っている姿は微妙に怖いものがあった。
 
「いや、特に進展はありませんね。今日はどうしようかと悩んでいた所ですが……。張、じゃなかった、文遠殿は難しい顔をされて、何かあったので?」

 俺が承諾すると、董卓から逗留するに至り、お願い、というよりもある指示が為された。
 曰く、他人行儀に呼ぶことはなく、親しく接して欲しいとのこと。
 優遇されることと、世話になるということから俺に否は無かったのだが、さすがに真名を預けられるのはお断りした。
 話を聞いた限りでも、簡単に預けられるものでもないし、預けられても困る。
 さらに、董卓の判断だけで、皆の真名を預かるには、俺の責任が大きすぎるのだ。
 俺自はこの世界にとって異端であり、そもそも、これから何が起きるか分からない状態で、ここの人たちを巻き込む可能性は出来る限り上げないでおきたい。
 故に、あれもだめこれもだめ、という俺に業を煮やした賈駆が、ならば字で呼ぶようにと半ば命令したのであった。
 

「いやなぁ、詠に新しい陣形を軍に覚えさせる時期言われて、どれがええか考えとんやけどな、どれもしっくりこんのや。あんま難しいのでも、覚えとれんし、ウチもぐだぐだ悩むよりは暴れたいしなぁ」

 はぁ、と溜息をこぼす張遼だったが、それでも、一応は上司である賈駆の指示を行おうとしているあたり、根は真面目なのだろう。
 それもこれも恋や華雄が脳筋やからや、と愚痴る張遼に、俺は今はどんな陣形があるのかを聞いてみた。

「横陣、魚鱗、方円、方陣やな。基本的には、大将である月っちを守る陣形が多いから、なんか攻める陣形があればええんやけど……」

 確かに、聞いた陣形と賈駆の考えでいけば、 総大将である董卓を危険にさらす陣形などは、絶対に認めはしないだろう。
 かと言って、張遼や華雄、さらには呂布などの豪傑を守りに回すのは、人材的にもったいない。
 賈駆ならいい案もあるのだろうが、成長を促しているのか、軍師として指示をするだけなのか。
 彼女の真意を掴めないながらも、とりあえず思いついたことを言ってみる。

「逆さ魚鱗、ってのは如何でしょう?」

「逆さ魚鱗? なんやそれ?」

「言葉の通り、逆さにした魚鱗の陣ですよ。通常であれば、一二三と隊を組み、三の部隊の真ん中に総大将を置くのですが、逆さ魚鱗は三二一と陣を組みます。先陣に文遠殿、葉由殿、奉先殿を置けば、攻めでは十分であり、二陣には徐栄殿でしたっけ、その方と稚然殿を置き、最後尾に仲頴殿と文和殿を置く。先陣にて敵を押しとどめ、二陣において後背を抑え、状況に応じ横撃へと移る。正面からの戦いにおいては、臨機応変に対応出来るかと」

 初め言葉で説明するが、いまいち納得出来てなさそうな張遼に分かりやすく説明するために、近くに落ちていた石を用い説明する。
 逆さ魚鱗と言うよりは、鶴翼の陣に近いものではあったが、一番の違いは陣の目的が包囲殲滅か正面突撃かである。
 英雄の指揮であれば、容易に弱点が露呈し、その隙を突かれるだろうが、賊程度が相手なら十分に機能するだろう。
 張遼の話からしても、すぐに決定という訳ではなさそうなので、その辺も踏まえて検討してくれればいいと思う。

 ほほうそんなもんがあるんかいな、と一人納得している張遼だったが、先ほど俺が言った内容を忘れないようにと、竹簡の隅にさらさらと文字を書き入れていく。
 まあ、何を書いているのか理解出来ない俺は、その軌跡を目で追いながら、他になんかあったかなと記憶を探る。


「よし、詠からの分はこれで丸っと。そや、北郷は武の方はどうなん? 賊を三人相手にして、それを叩きのしたって聞いたで」


 一通り書き終えたのか、するすると竹簡を終えた張遼は、背を伸ばしながら俺へと問いかける。
 まあ事実を言えば、不意を突いて急所を狙ったという、武人からすれば怒髪天ものなのだろうが。
 そんな俺に、張遼は爆弾を投げつけてきた。








「どうせ時間はあるやろ? ちょっと息抜きに仕合でもしようや」




[18488] 四話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/10 10:48



 鋭く横薙ぎに払われる槍の一撃を、とっさの反応から両手で槍を構えることで、何とか耐え凌ぐ。
 がつんと、想像していたよりも重たく鋭い衝撃に、両手が鈍く痛み痺れるが、短く息を吐き、身体に喝を入れることで再び持ち直させる。

「おお、防がれるとは思わんかったわ。中々やるやないけ」

「張文遠に褒めて頂き恐悦至極だけど、少しは手加減ってものを……っ!」

「手加減? やぁっと面白なってきたとこやないか、……少し本気でいかさせてもらうで!」 

 迫り来る突きを首を捻ってかわしながら、槍で槍を押さえつけて、それを持つ手へと蹴りを放つ。
 しかし、読まれていたのか、蹴りを蹴りによって止められ、あまつさえ、その体勢から手刀を繰り出してくる。
 

「ぬわっ!? くっ、このぉぉ!」

「おおっ! ええで、もっとや、もっと来いィ!」


 すんでの所で身体を捻ることで回避に成功し、反撃とばかりに槍から手を離し、繰り出された手刀の手首を掴む。
 一瞬だけ拮抗するが、ぴくりと動いた足に急かされるように、一本背負いの要領で投げ飛ばす。
 だが、張遼は途中くるりと手を返したかと思うと、その拘束から抜け出し、あまつさえ投げ出された勢いのままに、器用に地面へと降り立つ。
 その光景に、猫か獣かっての、と心の中で愚痴り、着地した足のバネから滑るかのように跳ねた張遼を、横っ飛びで何とか躱すことに成功し、偶然手元にあった礫を投げつける。
 二度、三度、手元にあった礫と、時には砂だけを投げつけながら、徐々にその位置をずらしながら、槍を落とした地点へと移動していく。

 向こうもその思惑に気付いたのか、態とらしく距離を開けられ、余裕を向けられながら槍を拾いなおし、再び構える。
 右足を開いた上体から、槍を引いた状態で、石突にも横薙ぎにも移れる体勢へと構え直す。
 俺の構えに反応するかのように、張遼は槍の切っ先をこちらへと向け、前方に対しての攻撃範囲を重視した構えとなりながら、じりじりと再び距離を詰め始める。


「まさか、ここまでとは思わんかったわ。そろそろ時間もないし……本気でいかせてもらうでぇ!」

「くっ! おおおぉっ!」


 ぶん、と一度槍を鳴らし、その全身に闘気を漲らせながら、張遼は地面を蹴る。
 先ほどまでとは段違いの速度、これが張文遠の本気かと、完全に虚を突かれることになりながらも、微かに見えた腕の振りにあわせるようにそちらへと槍を構え――






――その反対からの衝撃に、俺は吹き飛ばされていた。









「おーい、大丈夫かぁ?」

 荒く呼吸を繰り返し、痛む身体に問題がないかを確認する。
 まぁ、とりあえずは問題だらけだが。
 握力は落ちて、節々は痛み、打たれた横腹や顎は折れてるんじゃないかと思えるほど、痛みに響く。
 身体は疲労で重く、身じろぎする度にぎしりと揺れる、


「……大丈夫に見えるんですか?」

「うんにゃ」


 そんな俺とは対照的に、特に息を乱すでもなく、常時と変わらず軽やかに歩く張遼。
 ええと、化け物ですかあんたは。
 痛みに悶える俺へなははと特に悪びれた様子もなく笑う張遼を前に、痛みを耐えながら何とか起き上がる。

 なんだかんだで、実に六仕合。
 最初のうちはすぐに叩きのめされていたのだが、慣れてきたのか、四仕合目ほどからそれなりに動け始め、最後にはなんとか健闘は出来た。
 とは言っても、結局は一度たりとも、直撃どころか掠ることさえなく、六仕合とも全敗してしまったのだが。
 俺が弱い訳ではないのだと、そう思いたい、男子の面子として。


「あんがとさん、北郷のおかげですっきりしたわ。……さぁて、うちは詠に報告書持ってくかなー」


 ひらり、と。
 こちらを伺うように顔を覗いていた張遼だったが、身を翻したかと思うと、ひらひらと手を振りながらその場を後にしていった。
 その足取りにはまったくもって疲れの色は見えず、確かな実力差を感じさせた。

「俺はずたぼろなんですが……って、気にしてるかどうかも怪しいな」

 それでも、久しぶりにくたくたになるまで動いたためか、先ほどまでこれからの見通しについて悩んでいたのも馬鹿らしくなってくる。
 とりあえずは、もう少し情報を集めてみようか、賈駆に文字の読み方を教えてもらうのもいいな。
 まぁ、今の目的は身体が求めている朝食を取ることだと己を納得させて、痛みに呻きながら廊下を歩き出した。





  **





 廊下を曲がったところで、竹簡を見ながらぶつぶつと呟いていた詠に出会う。

「おおっ詠、ええところにおった! ほい、陣形についての報告書や」

「あら、霞じゃない。報告書……結構早かったわね。……其れで、どうだった?」


 手渡した報告書に軽く目を通し、再びそれを巻いて持ち運んでいた竹簡の束にうずめた詠は、声を潜めて先日に頼まれていた案件の結果を聞いてきた。
 北郷一刀について、情報を得ること。
 月によって北郷が城に寝泊りするようになった翌日、霞は詠からそのことについて頼まれていたのだ。
 本当を言えば李確か、賊討伐にて遠征している徐栄あたりが適任なのだが、二人は先代石城太守である月の両親からの家臣であり、その立場は非常に重要な位置にいる。
 本人達は、後進である恋や霞、華雄に跡を託し、援護に回ろうとしているのだが。
 ともかく、そのような立場にある徐栄が留守にしている以上、残された李確の負担は大きいものであり、今また無理をさせるわけにはいかない。
 北郷の力量が測れていない以上、どんな可能性も考慮しておかなければいけないからだ。
 ゆえに、武と智を兼ね備える霞に、その役目が廻ってきたのだ。
 
 詠にそう問われ、先ほどまでのやりとりを思い出す。
 陣形について相談したのも、息抜きと称して仕合をしたのも、全てはそのため。
 霞自身、賊を追い払うほどの武を持ち、そして見たことのない外套を着る北郷に、興味を引かれていたのだから、その力量を測ることにも、興味があった。


「智の方は報告書の陣形が即座に出てくるくらいや、それなりの書物を読んで、それを力にしとるんやろ。文字が読めんのはちときついが、それも教えてやれば十分使えるくらいにはなるはずや」

「……そう。行き先が決まらないのであれば、文字を教えることと、なにかしらの条件を付けて引き込むことも検討しとかなきゃね。……それで、武の方は? 使いものになりそう?」

「そうやな、兵より少し上ちゅうとこやけど、下地は十分に出来とる。なんか鍛錬しとったんやろな、結構ええ動きしとった。ただ……少し違和感があんねん」

「違和感……?」

「なんちゅうか、よう言葉には出来んのやけどな……」

 そう言いながら、霞は自身の手を見つめる。
 顔と態度に出すことは無かったが、北郷との仕合で感じた違和感。
 言葉では上手く表現することは出来ず、実際に対峙した者こそ感じるそれ。
 恋にこそ及ばぬものの、己の武において自信を持つ霞でさえ、この時にはその違和感の正体には気づくことはなかったのである。

「……ふぅん、まぁとりあえずその件は保留にしておきましょう。そうそう、早朝に、賊討伐が成功したって早馬が来たから、ぼちぼち徐栄殿たちが帰ってくる頃ね」

 
 石城周辺地域において、掠奪強奪行為を繰り返す賊の討伐。
 黄巾賊の行動が活発になるにつれ、山賊盗賊の類の行動も、目立つようになってきており、石城や周辺での治安は悪化してきていた。
 常に警邏をさせられるだけの兵がいればいいのだが、内実ではその殆どが農民兵であり、通常時は田畑を切り盛りしなければならない。
 常備兵がいないこともないが、その数はごく少数であり、街の全てに目を光らせることは不可能に近いのだ。
 北郷は街が賑わっていると言っていたが、それも減税政策と、ある程度の保証を認めた効果であり、財政面ではそれなりに厳しい状態が続いている。

 今回の討伐でも、街の運営に支障のないギリギリの範囲で募兵したのだが、その数は集められる最大の三割程度である。
 李確と同じ古参である百戦錬磨の徐栄と、武勇に優れた彼の娘、中華最強と名乗ってもおかしくはない飛将軍にその軍師が、討伐に赴いていた。
 騎馬隊を指揮する霞では、馬の補充や休息などの維持費が。
 董卓軍最強の部隊を指揮する華雄では、その装備の費用や戦死者への慰謝料などが、それぞれ財政を圧迫することを見れば、最小の犠牲で最大の利益を得ようとする軍師としては、出来うる限りの編成だったのだ。

 それでも、早馬からの報告によれば、被害は決して軽いものではなかった。
 山賊や盗賊などが合流して膨れあがった賊軍三千に対し、討伐軍は一千は兵を二部隊に分けた。
 陣形を取らず、有象無象の衆としてただ突撃してきた賊軍に対し、討伐軍は五百ずつの部隊で、散々にかき回したとのことだった。
 当然賊軍にそれを迎撃するほどの力はなく、策だけを聞けば討伐軍の圧勝だった筈だ。
 しかし、殺すことを慣れている賊軍に対し、農民兵は慣れているはずはない。
 幾度か矛を交じわすごとに、一人また一人と、殺し殺される恐怖に負け、陣形を脱していく。
 そうすれば、賊軍の餌食となるにもかかわらず、だ。
 結果、討伐軍は賊軍を散々に打ち払い、その半数を切り捨てることが出来たが、討伐軍自体の被害も甚大で、約三割の兵が討ち死、あるいは戦闘不能ということだった。
 
 月を軍師として補佐し進言する役務、全軍の状況を把握し必要な指示を行う役務、石城周囲又は周辺の街においての情報収集、そして戦の後の戦功論賞と戦死者への慰謝料の算出など、様々な役務を抱える詠にとって、少しでも役に立ちそうな人間は、何としても手放したくない存在なのだ。
 見たこともない外套を羽織り、それなりの智と、霞にそれなりと言わせる程の武を持つ北郷一刀は、まさしくそれである。
 加えて、異国の知識を持ち得るだろう彼は、董卓軍が飛翔するには欠かせない存在なのである。

 霞もまた、北郷一刀の武と、彼自身の行く末に興味があった。
 矛を交えた同士でしか理解しえないこの感情は、感じたことはなかったが、不思議と悪い気はしない。
 そしてなにより、あの未完の武が、一体どれほどのものになるのか。
 強い武人と戦いたい、武人なら誰もが抱くものを、霞も持っているのである。
 詠から、そして主君でもある月からの指示でもある、北郷一刀の引き留めは、霞にとって無関係ではないのだ。




 だからこそ。






「ほう……、なら徐英のおっちゃんやら恋達が帰ってきたら、北郷と顔合わせをさせて」



「ええ、その時にでも話をしましょう。……私たちに協力してくれるかどうかを」





 
 知らず、口端がつり上がるのは、楽しみからか、それとも――






  **






「はーくっしゅんっ! ううぅ、ぶるぶる」

「ちょ、ちょっと北郷の兄さんよ!? 風邪は移さんでおくれよ!」

 不意に感じた寒気、というか悪寒に、くしゃみが出てしまう。
 俺が風邪を引いたのかと思ったのか、先ほどまで話し込んでいた肉屋のおばちゃんが、慌てて俺との距離を取る。
 肉屋を営みながら、余った肉を用いて肉まんを作るこの店は、石城の大通りより一本外れた所にあるが、その品揃えとおばちゃんの人柄からか、多くの客で賑わっていた。
 かくいう俺もその客の一人で、張遼との仕合を始めたのが朝だったにも関わらず、いつの間にか昼前にまでなっていたので、朝昼兼用の飯を兼ねて街へと出てきたのだ。
 
「それで何だったっけ? ああそう、道術とか仙術の話だったね! まぁ、とは言っても役に立てる訳でもないんだけどねぇ」

「別に構いませんよ。俺自身、そう簡単に分かるとは思ってませんし。そもそも、それが求めているものなのかどうかさえ、分かってはいないんですから」

 申し訳なさそうにする肉屋のおばちゃんに、俺は苦笑混じりで答えた。


 元々、この時代の情報伝達と言えば、口頭か文書によるぐらいしか手段はないと言ってもいい。
 どちらの手段で情報を得るにしても、それを運び伝えるのは人であるため、どうしてもその内容と信頼度には不安が生じる。
 朝廷や権力者の文書であれば、その信頼度は高まるのだろうが、それも絶対ではない。
 良くてそれなのだから、一般の人々が取り扱う情報が、どれだけ内容が変化し、その信頼度を落としているのか、全く持って予想出来ずともおかしくはないのだ。
 その情報自体がない、という事実も、決してあり得ない話ではないのかもしれない。
 であるから、俺としてはこの情報収集はこの世界の情報を集めるついでと、顔を知り人脈を広めるためのものと割り切ることにした。

 そもそも冷静になって考えてみれば、あの名軍師として名高い賈駆がどんな些細な情報であれ耳に入れていないということは、この石城の街や周辺の村々では、そういった情報は流れていないということなのだろう。
 まぁ、余裕が無くて気づかなかったんですよ、うん。


「それじゃ、また何か情報があれば教えて下さい。その時は、たくさん肉まんを買わせてもらいますから」

「はははははっ! そりゃ楽しみにしてるよ」

 昼食にと肉まんを三つほど購入し、感謝を述べて肉屋を後にする。
 すぐさま次のお客が入ったのか、おばちゃんのいらっしゃいませの言葉を背に受けながら、俺はぶらりと周囲を巡ってみることにした。
 とりあえずは、そうだな、子供達が遊んでいそうな広場にでも行ってみるか。










 と、簡単に決めつけた俺に、後々の俺は一言言ってやりたい。
 お前の安易で簡単で愚直な思いつきで、今後俺は多大なダメージと精神的疲労を受けるのだと、主に財布への面で。








  **









 一つ目の肉まんをのんびりと食べ終え、二つ目を囓ろうかと口に運ぶ寸前、俺はそれを発見した、否、見つけられた。
 当初の目的通り、子供達が遊び、母親達が井戸端で会議と言う名の情報交換を行っている広場。
 そこにたどり着いた俺は近くの木に寄りかかりながら、先に肉まんを食べきろうかと思ったのだが、そんな俺の目の前に、一人の少女が現れたのだ。

 炎のように紅く染まる髪は短く揃えられており、浅黒く日に焼けた肌と相まって、健康的なイメージを受ける。
 短めのスカートから覗く太股もまた健康的で、そこから上に視線を移せば、胸元を隠した服から覗く腰に至るくびれが、対照的に酷く艶やかに見えた。
 華雄の服とよく似た印象を受けるそれらは、見る者に爽やかな色気を感じさせるものだが、それを着る本人と言えば、そんな感想を抱く俺の視線も気にすることは無く、ただある一点に集中していた。







 すなわち、俺の持つ肉まんへと。







 チラ見ではなく、視線を向けるでもなく、それに合う言葉はただ一言、ガン見。



 隠す気のなさそうな食欲の視線と、そうした訳でもないのに餌を目の前し許可を待つ犬のような視線、そしてそれに一石を投じるかのような、ぐるるると獣の鳴き声のような音。
 おそらく空腹からの腹の音なのだろうが、聞こえたその音は視線と相まって、完全に肉食獣の唸り声のようである。
 放っておけば手に持つ肉まんだけでなく、言葉通りの意味で骨まで食べられてしまいそうなその空気に、俺は恐怖を感じ、思わず口を開いていた。




「えと………………その、食うか?」










 もぎゅもぎゅ、もきゅもきゅ。
 広場の木に寄り添いながら、そんな擬音が聞こえてくるかのように肉まんを頬張る少女は、酷く幸せそうな顔で、その味を楽しんでいる。
 滑らかな肌が、肉まんを一口ずつ咀嚼する度に、蠢く様はどうしてか色気を醸し出すのだが。
 その肌を持つ彼女の、無垢に幸せそうな顔がどうしてもそれを霧散させてしまう。

 子供達の笑い声が響く広場、その片隅にある木の陰において、女の子と二人で食事を取る。
 デートと言っても間違いではない、元の世界の俺なら全くと言っていいほど無縁だった行為を、今俺は行っている……のだろうか?
 食べているのは肉まんで、女の子の名前は知らず、そんな空気は欠片もない。

 加えて。

 手に持った肉まんを食べ終えた彼女が、俺が囓ろうとしていた肉まんへと再び視線を向ける、ガン見しているのを見て、知らず苦笑が零れてしまう。

「………………?」

「ああ、別に君のことを笑った訳じゃないよ。……ほら、これもどうぞ」

 笑う俺を不思議に思ったのか、身体全体と雰囲気で疑問を表現する彼女。
 それでも尚、視線が肉まんに向いているのに苦笑しつつ、二個目の肉まんを彼女へと手渡す。
 初め、俺と肉まんを交互に見比べていたのだが、それを自分が食べていいのだと気付くと、一つ頭を下げてそれを受け取った。

 そして再び。

 もきゅもきゅ、もぎゅもぎゅ、と肉まんを頬張りだす彼女に、なんか小動物に餌をあげているみたいだ、といった感想を受けてしまう。
 昨今、元の世界では精神的疲労、ストレスが社会的要因として大々的に取り上げられていた。
 人々はそんな世界の中に癒しを求め、やれ癒し系だの、やれマイナスイオンだの、様々な解決策という名の商売が蔓延っていた。
 だが、今の俺ならば一つだけ言いたいことがある。
 癒しを求めるのならば、彼女に肉まんを与えればいいんじゃないか、と。



 ほわー、と一人癒されていると、不意に彼女が肉まんを半分にし、その片方をこちらへと差し出してきた。
 えっ分捕っておいて半分にするの、とか疑問に思っていたのだが。

「……半分。…………ご飯、一緒に食べた方が……おいしい」

 ん、と俺の手に肉まんの片割れを置いて彼女のその言葉に、まぁいいか、と何となく納得してしまう。
 可愛い女の子に、肉まんだけど、ご飯を手渡されて一緒に食べようと言われているのだ、男としてこれを断ってしまっては義に反するだろう。
 そう誰に対してもなく誤魔化して、肉まんを有り難く頂戴する。

「ありがとな」

「…………」

 素直に感謝の言葉を掛けるのだが、言われ慣れていないのか、少し俯きながらふるふると頭を振る彼女。
 そんな様子に親近感を抱きながら、昼下がりの木陰で、俺と彼女は半分にした肉まんを共に頬張りだしたのだ。




[18488] 五話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/16 07:37




「ハァァァァァァァッ!」

 裂帛の気迫と共に繰り出された一撃は、防御にと構えた槍に当たることなく俺の横腹へと打ち付けられたかと思うと、勢いそのままに俺の身躯を宙へと放り出してしまう、否、吹っ飛してしまう。
 幾度か地面を転がり、痛みにもんどり打ちながら声にならない絶叫を上げるが、俺を吹き飛ばした張本人は、さして気にすることもなく仁王立ちで言い放つ。

「北郷よ、これしきで音を上げられては、月や詠を任せる訳にはいかん! さぁ、続けるぞ、立てっ!」

「まぁまぁ、華雄。ちったぁ手加減ちゅうもんもせな、北郷が死んだら元も子もありゃせんのやで?」

 いきり立つ華雄へと、少し落ち着けとばかりに張遼が口を挟むのだが、一つだけ言わさせて貰いたい、お前が言うな。
 先日散々に打ちのめして置きながらそんなことを言うのか、と恨みを含んだ視線を張遼へと向けるのだが、気付いているのかいないのか、何処吹く風といった顔で知らぬ存ぜぬを押し通される。
 まあ、初めから期待などしてはいないのだが。

 不意に、後ろからくいくいと袖を引かれる。
 そちらへと顔を向ければ、先日広場で出会った肉まんの君、ではなく、中華最強の将である呂奉先と名乗った少女が、こちらへと視線を向けていた。

「…………次……恋とする。……手加減………………する?」
 
「うぉい、疑問系ッ?! 手加減してくださいよ、奉先殿!」

 張遼の言葉に手加減の必要性に気がついたのだろうが、華雄の言葉に別にいらないと思ったのか。
 既に一度手合わせはしているのだが、その時には手加減などしていなかったのだろうか、いや多分してなかったんだろう。
 開始、の言葉と共に吹き飛ばされていたのは、恐らくそういう意味なのだろうから。
 お願いしますよ、と懇願する俺の願いを聞き届けてくれたのか、一つ頷いた呂布は、俺を引っ張って立たせると、少し距離を取って構えた。

「ほほう、やはり若さはいいですな。呂将軍や華将軍の一撃を受けて、尚立ち上がれるとは」

「稚然よ、やはり北郷殿はこれからの成長が期待出来る中々の御仁。これで先代様夫婦にご報告が出来るな」

 そんな喧しい俺たちから距離を取りながら、李確と徐栄はのんびりと茶なぞを啜っていた。
 一体何の報告なのか、そもそも先日から合格だのと一体何のことなのか、こちらを見る二人に、俺はとりあえず一言言いたい。
 いい加減止めてください、助けてください。

「……余所見……危ない。…………いく」

「えっ!? ちょ、奉先殿、ちょ待ッ! ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
  
 そして、中々構えようとしない俺に業を煮やしたのか、一言断りを入れて、呂布が仕掛けてきた。
 断りとは言っても、殆ど言うと同時であったため、あまり意味など無かったが。
 さらには、少しの間に忘れてしまったのか、手加減という言葉などどこにも見あたらないその攻撃に、俺は再び吹き飛ばされ、地面を転がっていく。

「ぐぅ……ぁぁぁぁああぁぁ……」

 肺に衝撃が伝わったのか、数度咳き込みながら、打たれた箇所を手でさする。
 ずきりと痛みはするが、折れている風でも裂傷になっているわけでもない、さすがに全力ではなかったのだろうと、心の中でだけ感謝する。
 というか、あの呂奉先が本気で来れば、いくら訓練用に刃を潰した槍とはいっても、簡単に首ぐらいなら刎ねられそうで怖い。
 後に、出来ないことはない、と彼女自身の口から聞くことになるのだが、今は、とりあえず胴体が繋がっていることを喜ぶべきなのだろう。
 首に当たっていたら折れていたのかと思うと、背筋に冷や汗が流れ、下腹部が縮み上がる。

「大丈夫ですか、北郷殿?」

 有り難や有り難や、と一人命の大切さに喜んでいると、吹き飛んだ俺を心配してか、一人の少女が声を掛けてくる。

「あ、ああ。大丈夫……だと思いますよ、公明殿。少なくとも、胴が繋がっていますからね」

「……成る程、それだけの軽口が言えるのならば、さして問題は有りますまい。では、次は私がお相手をいたしましょう」

「ええぇぇっ!? 徐公明様の武はさすがに私では如何ともし難い……」

「問答無用です」

「ぎゃぁぁぁぁぁ!」

 そう言うやいなや、少女、徐晃は大斧の重さを似せた槍を事も無しげに軽く振るう。
 たったその一振りの風圧で風が生じるほどの威力に、俺はどうしてこうなった、と現実逃避をするほか無く。
 何故今こうして三国志が誇る豪傑達と手合わせをしているのか、と昨夜のことを振りかえることでしか、目の前に迫り来る、主に俺の命と精神の危機をやり過ごす策が浮かばなかったのだ。






  **

 



 ええと、何か数日前にも似たような感想を述べていたと思いますが、それでも言わせてもらいたいのです。
 大体予想はしていましたが、ここまでの現実は如何かと存じます。

 

「姓は徐、名は栄、字は玄菟と申す。稚然と共に先代様より董家に仕えておりますゆえ、此度の件、真に有り難く存じます」
 賊討伐から帰ってきたばかりだからか、所々傷のついた鎧を着込んだ中年の男性。
 俺の知る歴史の中で、反董卓連合軍との戦いの中、多くの戦功を上げた武人が恭しく頭を下げてくる。
 穏和そうな笑みだった李確とは違い、鎧以外にも顔や手足にいくつもの傷を持つその人は、歴戦の武人といった風であり、知らずその風貌に威圧される。
「ふむ、まぁ要検討、と言った所か、稚然」
「そうさな。幸い、これから時があればこそ、北郷殿の人となりというものも見えてくるしのぉ」
 先日は李確だけだったのが、今日はそれに徐栄までついて上から下まで眺められる。
 っていうか何要検討って?
 前回の合格点と言い、一体何がしたいんですかあなたたちは。


「姓は徐、名は晃、字は公明と言います。徐玄菟が一子にして、若輩ながらも副将軍職を務めさせて頂いております」
 灰色を基調とした鎧を、急所を守るように着込み、それに彩りを添えるかのような腰まである金髪の少女は、後に魏の五大将軍として名を馳せた徐公明と言う。
 すらりとした長身に、きめ細やかな金髪がよく映えており、目鼻立ちの整った容姿には見惚れるものがあった。
 今まで見てきた女性武将の中でも異質、いやいやこちらが正解なのだろうが、男性と対して変わりない鎧を着込んで尚、その華やかさは見て取れる。
 
「ねねは陳宮、字は公台なのです! 恋殿の軍師の座は渡さないのですぞ!」
 少し大きめの外套と帽子を整え、声高らかに宣言した少女は、その拍子にずれた帽子を慌てて押さえた。
 陳公台と言えば、初め曹操に仕えたが後に叛逆、当時曹操と敵対関係にあった呂布に従い、最後まで仕えたとされている。
 曹操も、裏切られながらもその知謀を評価しており、彼の死に涙し、その縁戚を厚遇したという。
 歴史的にはかなりのズレが生じているのだが、元々、男性武将が女性になっている世界である。
 それぐらいの差異もあるものと、一刀はそれに突っ込むことはしなかった。

「…………呂布。…………恋でいい」
 そして、つい先ほどに広場で出会った肉まんの君。
 彼女と肉まんを頬張っている時に陳宮に見つけられ、そのまま城へと連れてこられたのが今の状況の始まりなのだが、そんな空気もお構いなしに呂布は増量された肉まんを頬張っていた。
 相も変わらず、もきゅもきゅとか音をさせて。
 否、なんか呂布の周りにそういう字が見える気もするのだが、まぁ気にしないでおこう。


 とまあ、名だたる武将の殆どが女性というこの世界の事実に、俺はまたしても打ちのめされることになった。
 っていうかこの調子でいくと、ゲームや漫画でよく知る三国志の登場人物は、殆どが女性だと思っていたほうがよさそうだ。
 先日、曹操や劉備も女性では、と思ったことが、厭に現実味を帯びてしまったのである。
 とは言うものの、今の段階で未だ会ったこともない人物達のことを考えても、埒があかない。
 女性であってもおかしくはないと、前回と変わらぬ結論だけを、頭の片隅に残しておくだけにしておこう。



「さて……、これで全員と顔を合わせたことになるわね」
 
 やれどこから来たのだの、やれその服が綺麗だの。
 先日顔を合わせた李確や張遼、華雄も含めた董卓軍としても中枢である人物達がその場に集っている中で、質問攻めにされていた俺は、賈駆のその一言で解放された。
 というか、そもそも俺がこの場にいる理由が思いつかないのだが。
 
 まさか、今更滞在費として使用した金を働いてでも返せ、とは言うまい。
 なるべく使わないように、と節約したのだが、商人から情報を得るのに関して、一番手っ取り早いのは品物を買うことである。
 どれがどれぐらいの値段、なんてことはこの世界に来て間もない俺には分かるはずも無かったが、それでも肉まん一個の値段を元の世界の肉まんの値段で換算すれば、結構な額を使っていることになる。
 それも、対して使いそうにない品物ばっかり。
 大体のものは、宛がわれた部屋へと置いているのだが、一回も使ったことのないものばかりなのである。
 ……うん、返せと言われても、おかしくはないな。

「みんな色々あるでしょうけど、軍議の前に一つだけ。……月」

「……うん」

 そんな賈駆と董卓のやばいどうしよう、と今更ながらに慌てる俺だったが、返す当てがあるはずもない。
 肉屋のおばちゃんにバイトで雇ってもらおうか、などと本気で悩み出だした俺は、董卓がそれまで座っていた玉座から立ち上がったのを視界の端に見つけ、不意にそちらへと意識を取られる。
 そして、勢いよく頭を下げながら董卓が放った言葉は、俺にとって予想外な方向へと事態を動かした。


「北郷一刀様、どうかこの地に留まって、我々にお力をお貸し頂けませんか?」





「…………………………は? ええぇぇぇぇぇぇぇっ!? ちょ、えっ何でっ?!」

「うるさいわね、いいから少し落ち着けってのよ」

「ほれ、北郷、深呼吸や。吸ってー、吐いてー。吸ってー、吐いてー」

 ええ何がどうなってんの、と慌てふためく俺。
 つい先日にこの世界にわけも分からず放り込まれ、その世界が三国志、しかも武将の殆どが女性で、この世界に来た途端死にそうになったり、助けた女の子が董卓でイメージとは全く違って。
 そして今また、その董卓が自分達の仲間にならないかと誘ってくる。
 流れに流されっぱなしの急展開に、思考と理解が追いつくわけもなく、とりあえずは落ち着くためにもと、そんな俺を見かねた張遼の指示通り、深く呼吸をする。

「すー、はー。すー、はー。すー、はー」

「ひっ、ひっ、ふー。ひっ、ひっ、ふー」

「ひっ、ひっ、ふー。ひっ、ひっ……って、これ深呼吸じゃねえっ!? ちょっと文遠殿、何をさせるんですか!?」

「はっはっはっは! 北郷、自分おもろいやっちゃなぁ! くくくく」

 張遼の後を追うように始めた深呼吸だったが、釣られてした呼吸に、騙された、と思ったときにはすでに遅く。
 深呼吸から何故かラマーズ法へと移行していた俺を笑うかのように、腹を押さえ爆笑していた張遼を睨む。
 だが、その場にいたのは張遼だけではなく、当たり前ではあるが、その場にいた全員にそれを見られることとなってしまった。
 陳宮は何がそこまでおもしろいのか、地面を転げ回り、徐晃は必死で笑わないように顔を背けて。
 李確と徐栄は大声を上げないこそ、その肩は震えており。
 唯一、呂布と華雄が笑わずにいたが、華雄は何がおもしろいんだと頭をひねっていたし、呂布に至ってはただひたすらに肉まんを頬張っていて、話自体を聞いていたのかも怪しいものだった。
 端に控える武官や文官、侍女達にも笑われてしまい、もはや俺に残された手は、元凶となった張遼を睨む他しかなかったのである。



 それはともかくとして、董卓の提案は、現状を打破しえるものかもしれない。
 今みたいに自由に動くわけにはいかなくなるだろうが、組織の中にいなければ見えないことも出てくるだろう。
 また、このさき生きて行くにしても金銭は必要であり、さすがに全てを出してもらうわけにはいかない。
 となると、継続的に給金が与えられる職に就き、それを足場として情報を集めた方がいいのではないか。
 そもすれば、やはり董卓の提案は、首を縦に振るに値するものがあるのかもしれない。
 さらには、ここ数日見て分かったことだが、ここ石城には文官が足りない。
 今この広間にいる面々にしたって、軍師にしても賈駆と陳宮しかおらず、文官自体の数も武官の半分ほどしかいない。
 文字は読むことは出来なかったが、ようは古い漢文である、勉強すればどうにかなるかもしれない。
 
「どう、結論は出た?」

 張遼達と同じように笑っていた賈駆だったが、幾分落ち着いたのか、まだ少し口端をひくひくと震わせながら、問いかけてくる。
 それでも、そのまなざしは真剣さを含んでおり、その心中では俺が断った時に次の一手、或いは承諾した後の策略が、目まぐるしく構築されているのだろう。
 傍らに座る董卓も同様であり、こちらを伺う眼差しは至極真剣なものであり、俺の言葉を今かと待ち続けていた。

「……俺は、異国から来て、いつかは帰らないといけません」

 そんな董卓の視線に押されるかのように、自然と言葉が口から零れ落ちる。
 自分から発さなかったのは、おそらく、心のどこかで恐れてるのだろう。
 俺の知る歴史と違えど、今ここに時間が流れている以上、この瞬間も後に歴史として紡がれていくのかもしれない。
 この世界にとって異端である俺が歴史に登場する、それが如何に危うく、この時代にどんな流れを生み出すのかは、計り知れないのだ。
 歴史の特異点としてはじき出されるかもしれない、形を保てなくなった世界が崩壊するかもしれない。

 だが、俺という存在がこの世界に在る以上、もはやなるようにしかならないのも事実。
 異端である俺が死んでしまえば、それだけでこの世界にとって矛盾となるのだから。
 
 それに――

「故に、それまでの期間で宜しければ、若輩ながらもこの身、存分にお使い下さい」

 ――差し伸べられた手を払いのけるほど、俺は人間として腐っていないつもりである。
 そこ、腐男子とか言うな、それは違うぞ意味合い的に、俺は断じてそんなものではない。



  **



 その後、護衛兼伝令兼使いっ走り兼奴隷、とかいう訳の分からない、というよりは聞きたくはなかった役職を董卓と賈駆から任じられ、その翌朝に華雄に呼び出されたのが運の尽きだったのか。

 華雄曰く、護衛役の人間の武を計らないことには将軍として前線に行くのは不安である、との理由から開催されてしまった俺対豪傑との手合わせではあったが、悉く惨敗、むしろ生きているのが不思議なくらいである。
 
 呂布と三、華雄と四、張遼は先日のこともあって二、徐晃に三、李確と徐栄が一ずつと手合わせを行ったのだが、呂布と華雄に至っては手加減という文字を知っているのかどうかさえ怪しく、その全てが一撃で吹き飛ばされるという敗北だった。
 李確と数合打ち合えたのが最大で、張遼と徐晃は多くて三合、酷いときには初撃で破れ、徐栄に至っては明らかに手加減されながらも、その老練な技術に翻弄されたのだ。

 もはや獲物を持てない程に打ちのめされ、大の字に身躯を投げ出した俺はへとへとで、未だ動き足りないのか、華雄は呂布と戟を打ち合っていた。
 なんていうかあれだな、自分に向けられないのだったら見えるかと思ったけど、無理。
 視認する速度と体感速度には、その見方によって若干の違いが確認できる、なんて何かで読んだ気もするが、あそこまで行くと全くもって意味がない。
 打ち付け合う甲高い音だけが聞こえ、その動きには目が追いついていかない。
 突き、なぎ払い、打ち付け、突き上げ、と意識している間に、どんどんと展開は進んでいくのだ。

「ありえない……。何なんだ、アレ……?」

「そうかぁ? ウチからしてみりゃ、こんだけ喰らってまだ意識のある北郷の方が信じれんけどなぁ」

「そうですぞ、北郷殿。儂らなど、もはや手合わせをしようなどとも思わんのですからな」

「お前と一緒にするな、稚然。とは言うものの若い頃ならともかく、歳をくった今では、恋殿や華雄殿、張遼殿には敵いもしませんがな」

「……すると父上、私には勝てるとでもお言いになると?」

「うっ! むぅ……琴音にも勝てんのか……」

 華雄と呂布の剣戟音を聞きながら、娘に頭の上がらない徐栄に、笑い声が上がる。
 申し訳ないと思いつつも、俺も久方ぶりに笑ってしまい、じろりと徐栄に睨まれ慌てて抑えた。

「……朝から騒がしいと思ったら、あんた達だったのね」

「ああ、文和殿。おはようございます。それに公台殿も」

「おはようなのです……ふわぁぁぁぁ」

 顔を洗ってきたのだろう、眼鏡の位置を直しながら現れた賈駆に、眠たげな眼をこすりながら現れた陳宮だったが、その欠伸でずり落ちそうになった大きな帽子を支え、頭に乗せてやる。
 うぬ、とか未だ寝ぼけているために、何が起こったのかは分かっていないだろう。
 俺は苦笑しながら、賈駆へと視線を向ける。

「それにしても、二人とも眠たそうですね」

「……あんたが参加するに至って、文官や軍の編成について、いろいろと考慮しなければいけなかったのよ。指揮系統や伝令班のこともしないといけないし、頭が痛いわ」

「それは、まぁ……実に申し訳ない」

 そんな苦笑も、暗に俺のせいだ、と言外に責められ、引っ込めざるを得ない。
 昨夜、承諾の意を示した俺は、護衛兼伝令兼使いっ走り兼奴隷などという役を頂いた訳だが、その内容には様々なものがあった。
 
 一つ。
 戦場においては、本隊である董卓と賈駆の護衛を任とし、指示があるまではそれを遂行する。

 二つ。
 伝令班の統括、ようするに班長としてこれを指示し、前線の各隊へと軍師の指示を送る。

 三つ。
 多忙で身を空けることの出来ない董卓と賈駆に代わり、その欲するものを買い求める。

 四つ。
 平時において、指示が無ければ街の警邏を任とし、指示が入りしだいこれを優先とする。

 五つ。
 賈駆の奴隷として、彼女の指示に従い、これを崇める。

 まぁ他にも細かいものがたくさんあるが、概ねこんな感じである、一部意味不明なものもあったが。
 伝令班の班長と言うのも、何の実績も持たない俺が董卓や賈駆、他の将軍達と共にいるのはおかしいだろうということで、臨時に創設した役職である。
 ただ、伝令と言えば将の周囲にいる軍兵が偶々その任に就くのが一般的ということもあり、現時点では特にすることはないのだが。
 現時点で、というのはこれから勢力が大きくなっていき、戦の規模も大きくなるに伴って、伝令を専門とした部隊を作ることは賈駆や陳宮が元々考えていたことらしく、この世界に慣れたら部隊創設を手伝うということになっている。
 将来的には、偵察にもこの伝令部隊を用い、ある程度の戦闘も可能な部隊を作りたいとのことらしい。

 そんなこともあって、俺がいてもおかしく状況が作られた訳なのだが、こう叩きのめされてしまうと、それで本当に良かったのかと疑問に思えてくる。
 
「みなさん、おはようございます」

「おはようございます、仲頴殿、ではなかった仲頴様」

「…………」

「……あの、仲頴様?」

 そんなことを考えていると、不意に背後から声がかかる。
 とは言っても、春夜の月光が如く柔らかいその声の持ち主は、俺の知る限りでは董仲頴しかいないのだが。
 麾下になったということもあって、殿ではなく様呼びになったのに不服なのか、見上げられる形で睨まれてしまった。
 図らずも、美少女から、である。
 その破壊力は凄まじいものがあり、睨む、というよりは拗ねると言ったほうが近いその有様に、俺は押されてしまう。

「……仲頴様?」

「…………」

「……仲頴様…………はぁ、仲頴殿」

「はい、おはようございます。北郷さん」

 最早どうにもならん、と仕方なく、本当に仕方なく董卓の無言の圧力に屈してしまったのは。
 抵抗出来るか、いや出来るはずはなかろう、段々とまなじりに涙を溜め、その頬に紅が差していくのである。
 もはや、直視出来たものではない、しかし、視線をずらせば何故か負けた気もする。
 そんな俺に打てる策は既に無く、不承不承と呼び方を変えるしかなかったのである。
 
 呼び方を変えたところで、ぱぁぁっと変貌した董卓の笑顔である。
 反射的に俺は視線をずらしてしまっていた、だがこの場合は仕方がなことだろうと、声高らかに主張したい。
 とりあえず色々やばい、俺の精神状態が。

 そんな俺に気がついたのか、それとも呼び方を戻したのが気に入らなかったのか。
 ふと視線に気づくと、今度は賈駆が睨んでいた、否、蔑んでいた。
 明らかに両者であろうが、賈文和なら気づいて欲しい、あのような董仲頴には決して敵わないでしょうと。

 あっ、目を逸らした。

「………………恋、お腹すいた。…………ねね、一刀も」

「あっ、えっ……!? ちょっと、奉先殿?!」

「恋殿早く行こうなのですよ! 奴隷、仕方がないから貴様も来るのです!」

 何時の間に近寄っていたのか、不意に腕を拘束されて、半ば引きずられる形で食堂へと連れて行かれる。
 見れば、先ほどまで呂布と手合わせをしていた華雄は倒れており、その肩は大きく動いていながらも悪態をつく元気があるので、意識はあるらしい。
 とはいっても、あの呂奉先にぼこぼこにされたのなら、しばらくは動けないかもしれないなと思い、後でまた覗いてみることにした。
 それはさておき、奉先殿、腕を抱えて引っ張るせいで当たっています、。
 何が? それは言わぬが仏かと。

 そして、呂布を先頭に、みんな揃ってぞろぞろと食堂を目指すころには、朝食の香ばしい匂いが、俺の鼻腔へと届いていた。




 **




 涼州石城において、北郷一刀が叩きのめされる数刻前。
 その地より遠く離れた緑茂る山中において、暗闇の中に人がいた。

 色こそ闇夜に紛れて判別が難しいものの、そのゆったりとした服は動きを阻害しないように作られているのか、その佇まいにも隙がなく、周囲と同化するようであって一つの刃物のように張り詰めていた。
 
「ただいま戻りました」

 不意に、背後から声がかかる。
 凛としながらも透き通り、どこか甘さを漂わせるその声は年若き女子のものであり。
 その声を発したであろう女子は、頭垂れるかのよう片膝をついていた。
 それは、従者の主に対して礼のようであり、それ自体は間違っていないのだろう、その女子の言葉に、それは満足気に頷いた。

「ご苦労だった……。して、奴らはこちらの言うことを聞いたか?」

 そして、そう答えた声は力強くも耳に響く男のものであり、その雰囲気と相まって一層刃物らしくあった。
 
「はっ、ご指示の通りにしましたところ、思うところはあったのでしょうが、承知したとのことでした」

「そうか……。概ね、こちらの予定通りというところ、か」

「…………しかし、あのような者達などに頼らなくとも」

 しかし、男の言葉に不満を隠すことなく答える女へと、男は苦笑混じりに答える。

「仕方が無いだろう。少なくとも、俺が手を出すわけにはいかん」

「それは……承知しておりますが」

 徐々に小さくなっていく女の声。
 それを置き、男は闇に染まる前を見据え、そこにある何かを掴むかのように手を伸ばす。

「どちらにしろ、全ては動き始めた……。最早、止めることなど出来ん」

 そして。
 男はその両手を広げたかと思うと。
 衆に告する王のように。
 物語の開幕を、宣言した。

「全ての時は動き出したッ! 北郷一刀よ、この新たな外史で、貴様はもがき苦しみ、そして消えるのだッ!」

 全てが闇夜に染まる空間の中にその声は消えていき、後に残ったのは、虫も鳴かぬ静寂と、それを表現するかのように妖しく煌く、男の顔半分を覆う白い仮面であった。
 


  **


 
 俺が董卓配下となって、数日後。
 文字を学び、護衛として動けるようにと連日の如く叩きのめされていた俺は、何かに急かされるように駆け込んできた伝令によって、騒然の渦に巻き込まれることとなる。
 
 
 黄巾賊襲来、賊目指すは涼州が石城。



[18488] 六話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/20 16:37


 黄巾賊襲来、その報は瞬く間に駆け巡り、石城は騒然の渦へと叩き込まれた。

 初めは後漢王朝の圧政から民を救うため、と蜂起した黄巾賊も、いまや略奪暴行殺人なんでも有りの、史上最大規模の賊徒である。
 それらの凄惨さを知っている民は、ある者は巻き込まれるのを恐れ逃げ出し、ある者は己の家を守るために兵となり、ある者は全てを諦めた。

 その数、およそ五千。

 全兵で二十万、信徒も含めれば百万は下らまいと言われる黄巾賊からしてみればその数は遥かに少ないが、それでも石城において即動が可能な兵力が二千ということを鑑みれば、二倍以上となる。
 
 篭城か、出撃か。

 どちらの策を取るにしても、勝利以外には安寧を再び得ることは叶わず、民としても己の命を優先として騒然とするのは、至極当然のことと言えた。





「打って出るッ! 賊徒なぞ、我が武にて叩きのめしてくれるわ!」

 そして、その対策を練るためにと集った城の広間において、華雄の第一声が軍議の開始を宣誓する。
 宣誓と共に槍の石突にて打たれた床は鈍く振るえ、生じた音からよほど力を込めて打ったものと推測された。

 陳宮に文字を教わり、呂布に鍛えられ、張遼に警邏に連れられていた俺は、城からの呼び出しに応じ、張遼と共に合議の間へと辿り着き、そこで華雄の声を聞いたのだが。
 華雄だけでなく、そこにいる全ての人が俺の知る皆ではなく、武人武将の顔へと変わっており、その空気までもが、引き抜かれた刃のように研ぎ澄まされていた。

「やっと来たわね。早速だけど、軍議を続けるわ。時間が惜しいの」

「すまん、ちょっと荒れとんのがおったんや! 状況はどないな?」

 張遼の緊張した声に、つい先ほどまで笑いあっていた彼女の面影はどこにもなく、俺は改めてここが三国志、戦乱渦巻く古代中華なのだと思い知らされる。
 そして、彼女たちが作り出す空気は真剣そのもので、状況が予断を許さないものだと、暗に示していた。
 俺自身も、黄巾賊が責めてきたという現実と、この広間の緊張感に押しつぶされそうになるのを、丹田に活を入れることでなんとか耐える。

「斥候の報告によれば、黄巾賊の総数は四千から五千。周囲に待機している部隊もないことから、即席に出来上がった部隊、というよりも自然に出来上がった群衆といったところかしら」

「それにしても、ちと数が多いぞ。如何にして対する?」

「決まっております、玄菟殿! 全兵にて出撃し、賊などは蹴散らしてしまえばいいッ!」

 徐栄の問いかけに、華雄が勇ましくそれに答える。
 とはいっても、少ない日数ながらも華雄がそう言うであろうというのは、浅い仲の俺でも予測出来ていたことだが、ここまで予想通りだというのも凄いものがある。
 どことなく、彼女は武、力を信じて疑わない節があるように思う。
 どの時代、世界にもこういった人物はいるもので、時には知識、時には金銭、と多種多様に妄信するのだ。
 そういった人達はえてして不安定なもので、信じる拠所を失ってしまえば簡単に崩壊してしまうのは、容易に考えれることなのだ。
 そんな危険性を感じる華雄を見やりながら、頭痛を抑えるかのように李確が呟いた。

「葉由よ、戦は打って出れば勝てるものではないと、常から言っておろう。敵を知り、己を知って、機に乗じることで、勝利を収めることが出来るのじゃと」

「うぐっ……。し、しかしこのまま篭城すれば、いずれは門を破られ、民にまで被害がッ!」

「じゃからこそ、安易に流れるなと言っておる。幸い、斥候の話ではここに至るにはまだ時間があるとのこと。群衆ゆえに、行軍は統制が取れておらんらしい」

 歴戦の将である李確に言い含められ、若干大人しくなる華雄。
 その様は噴火前の火山のようで、静かに怒りと憤りを溜め込んでいるかのようである。
 それでも、古参の臣である李確には強く出れないためか、その発散場所を求めて瞳を血走らせていた。
 そんな華雄に、溜息をついた李確は、軍師である賈駆へと視線を向ける。

「詠よ、何か良い策はあるか? 籠城にしろ出撃にしろ、策無しでは些か厳しいぞ」

「左様、このままいけば苦戦は必至。ねねも、何ぞ策は無いのか?」

「むむむ、うーむ……。ま、まあ恋殿がいれば、策など不要なのですぞ!」

「………………あるわ」

 徐栄の言葉に、呂布の武ならばと言い放つ陳宮だったが、それでは先ほどの華雄と同じである。
 案の定、徐栄は頭を抱えるのだが、そんな空気を切り裂くかのように、賈駆がぽつりと零した言葉に、その場の皆が反応する。

「本当、詠ちゃん?!」

「とは言っても、こちらの兵数が少ない以上、総力戦になるけどね。ただ、相手の統制が取れていないのなら勝機はこちらにあるわ」

「……詠、凄い」

「この若輩、如何様な命にでもお応えしましょう。して、その策とは?」

 董卓に誉められたからか、若干紅潮した頬を隠そうともせずに、賈駆は地図を指さした。
 その地点は、両横を山に挟まれながらも、軍が機動するには十分な広さを有している平原であり、黄巾賊が石城に至るには通らなければならない場所でもある。
 そこを覗き込む徐晃の問いに答えるかのように、何故か俺を見やりながら、賈駆は自身満々にと言い放った。




「逆さ魚鱗よ」





  **





 あと数里で石城の城壁が見えるだろうという地点、皆一様に黄色の布を身につけた集団の中に、一人だけ馬に乗る男がいた。

 馬元義。

 黄巾賊はその内実、二つに分けられる。
 結成初期の頃、教祖である張角を筆頭に、張宝と張梁を含めた三人を慕い敬愛し、そして今まで付いてきた黄巾賊。
 その初期の黄巾賊の勢いに便乗し、生きるためや己が欲望を果たすためにと合流した黄巾賊。
 今や賊徒暴徒と成り果てた黄巾賊の中で、馬元義は後者に分類される側だった。
 とは言っても、生きるため、という訳ではない。
 村と見ればこれを襲い、子供老人と見ればこれを殺戮し、女と見ればこれを陵辱する。
 先に襲った村でもこれを実践し、黄巾賊の手本とも言うべき男である。

 そんな彼だが、今はこの集団の指揮をしていた。
 というのも、先日ある女から指示されたものだ。
 涼州石城において、その地に住む白き衣を纏った男を殺す、他の者、太守である董卓やその軍師の賈駆などは、思う存分に陵辱して遊べばいい、とのことだった。
 白き衣を纏った男、などという曖昧な指示ではあったが、女の顔半分を覆う白い仮面に、馬元義は震えを覚えながら頷くしか無かったのである。
 
「……まあいい。石城は栄えていると聞くからな、女も金も選り取り見取りだぜ」

 石城の董卓の下には、優秀な将が多いと聞くが、先の情報ではこちらの半分以下の兵しかいないと聞く。
 いかに将が優れていようとも、戦いは数である、負ける要素など探す気になどならなかった。
 唯一警戒すべきは、洛陽か西涼からの援軍だったが、要請の早馬を出したという情報もない。
 どちらにしろ、明日には石城を指呼の距離にとらえれるのだから、今更では間に合わないというのもあるが。

 石城に踏み込んだ後のことを考え笑いが止まらない、そんな時だった。
 前衛から伝令が届いたのは。


「董卓軍、石城を出撃しこの先の地にて、布陣しております!」  
 





「魚鱗の陣か……。なるほど、官軍よりは頭のいいのがいるらしいが……無駄なことを」


 奉川から石城に至るまでの道程、その途中に董卓軍はこちらを待ち構えていた。
 見れば、董卓軍の両横には山が聳えており、側面からの攻撃に弱い魚鱗の陣であるからして、そこには兵が伏してあるに違いない。
 かといって、後方に回り込もうにも、層の厚い魚鱗の陣からならば、如何様にも部隊を出すことが出来、それは困難を極めるだろう。
 となれば正面攻撃しか手は残っておらず、それならば兵力の差はそれほど関係は無くなる。
 地の理を活かした見事な陣形に、馬元義は感嘆すると共に、しかしそこに勝機を見つける。

 前方に布陣する董卓軍は、見ればおおよそ千五百ほどか、山に潜む兵を加えても二千には届かまい。
 この地においてこちらを待ち構えていたのは、こちらの半分以下の戦力で最大限の戦果を上げる、つまりは勝つために、ここしか無かったのだと推測される。

 ならば、策を構えるこの道を外れ、他方から攻め寄せるも良策ではあったのだが、策を逃れれば策に捕まるということを、馬元義は理解していた。
 そして、このような策に頼る以上、どちらに向かってもそれが防衛線であり、拒むものはなにもないだろうとも。

 
「ならば、そのような愚策に付き合う理由もあるまい……。聞けぃ皆の者、これより我らは前方の董卓軍へと攻撃を仕掛けるッ! 数はこちらの方が上だ、恐れることは何もないッ! 強奪殺戮陵辱何でも有りだ、己が欲望を果たせ! 温まりながら享受するしかない軟弱者共に、地獄を見せてやれい! 全軍突撃!」

 ならば、全軍をもってそれを食い破ればいい。
 見れば、前衛たる部隊には真紅の呂と、黒淵の華の旗があるが、その総数は五百にも満たないだろう。
 それを全軍にて一呑みにし、そして後衛をも食い破れば、最早止めるものは誰もいないだろう。
 石城へと襲いかかり、そのまま石城太守として天下一統を目指してもいい。
 そのついでとして、白き衣を纏った男を殺し、報告のついでに白い仮面の女も襲ってしまえばいい。
 女などに使われる自分ではない、逆に自分が女を欲望の捌け口に使えばいい。
 
 最早、負ける要素などどこにもなく、ただただ勝利の二文字を待ち望むだけである。

「ふん、董卓軍恐るるに足らず! このまま石城まで突っ切ってくれるわッ!」



  **



「……とか何とか言ってそうね。簡単に想像出来るわ」

「へぅ……。詠ちゃん、いくら何でもそこまでは……」

「いいえ、仲頴殿。俺も文和殿に賛成です」

 視界の向こう、ほんの少し行けばそのただ中に身を置ける距離に黄巾賊を捉えたかと思うと、その全軍がこちらへと前進してきた。
 結構な余裕を持って布陣をしてるため、あり得ないことではあるのだが、その咆哮がここまで聞こえてきそうである。
 
 一里、日本では四キロメートルであるが、古代中国は五百メートルほどだったらしい。
 それだけの距離を、後衛に就く徐栄の部隊から離れ、俺の属する董卓の部隊はあった。
 とは言っても、総勢百ほどしかいないこの部隊は非常事態の護衛にしか過ぎず、軍としての兵力はほぼ全てが対黄巾賊へと当てられている。
 ほんの少しだけ高地になっているそこからは、その様がよく見えた。

「予想通り、全軍で恋と華雄の部隊に当たってくれたわね……。伝令、全軍に指示を。予定通り、少しずつ後退していってと伝えて」

「はっ!」

 賈駆が呼ぶやいなや、近くにいた兵が頭を垂れ、その指示を仰ぐ。
 かと思うと、すぐさまに近くに留めてあった馬へと乗り込み、前衛へと駆けていった。
 うぅむ、そのうち俺がこういったのを纏めるのか……まずは馬に乗れるようにしなければ。
 乗れなければ話にならないと言われ練習しているのだが、連敗続きの乗馬訓練を思い出し、心なしか尻と背中が痛んでくる。
 
「恋さんと華雄さん、大丈夫かな? 怪我とかしてなければ……」

「大丈夫でしょ、あいつらなら。ねねも付いてるんだし、指示通り動けているみたいだしね」

 言われてみれば、伝令が届いたのか徐々にと後退していくのが見える。
 呂布はともかくとして、猪突猛進を描いたかのような華雄が、よく指示を理解出来たなと思ったりもしたのだが、決して面と向かっては言えまい。
 冗談無く、首が宙を舞いそうで怖い。
 ともかく。
 魚鱗の形のままに後退していく様に、董卓軍がよく調練されているのが分かり、その将の指示も的確なことは理解出来た。
 いやそれにしても、今度陳宮に華雄の御し方を聞いておこう、仕合と言う名の虐待を止めてもらえるように、うんそうしよう。
 
 そんな董卓軍の動きとは対照的に、逃げていく餌を追いかける魚の如くの黄巾賊は、段々とその体勢をを細く長くと変形させていく。
 統制が取れていない故のその変化は、必然的に呂布と華雄が当たる黄巾賊の兵数が減ることを意味していた。
 統制が取れていないとは、何も軍としてのものだけでない。
 ここで、黄巾賊の成り立ちが関わってくるのだが、彼らは大まかに生きるためにという人々と、欲のためにという人々に分けられる。
 どちらにしても賊徒ということに変わりはないが、目の前にいるのは中華最強の武である呂奉先と、董卓軍最強の部隊を率いる華葉由である。
 生きるためにという人々はその命を惜しむために後退する董卓軍を追う速度を緩め、欲のためという人々は、将であっても美女美少女である呂布と華雄を得ようと、その速度を速める。

 結果、先ほどまで密集して呂布と華雄に当たっていた黄巾賊はその体勢を崩すこととなり、欲のためという人々が前衛、生きるためという人々と本体が後衛という形に分割された。
 
 そう、五千の兵が半分、二千五百ずつへと。

 それを待ち望んでいた賈駆は、その変化を見逃すはずもなく、すぐさまに伝令を呼び出す。
 

「両翼の張遼、徐晃へ伝令! 件の如し、とな!」

「ははっ!」

「月、時は今しかないわ、命令を!」

「うん……。全軍、反撃!」

 賈駆の指示と、董卓の反撃の声。
 それを待ち望んでいた董卓軍は、すぐさま行動を開始する。
 初め、こちらを飲み付くさんとした黄巾賊を、今度はこちらが飲み尽くすように動き始めたのだ。
 後曲両翼に位置していた張遼と徐晃の部隊は前進し、呂布と華雄の部隊を追い越す。
 そしてそのまま黄巾賊の両側へと出るやいなや、すぐさまにその側面へと攻撃を開始した。
 呂布と華雄は間を空け、その隙間には損傷していない徐栄の部隊が埋まり、そこを基点に反撃を開始する。
 空いた隙間から攻め寄せようとした黄巾賊は徐栄の部隊に蹴散らされることとなり、群衆から離れ出て突出した者達は、張遼と徐晃から横撃を喰らいて撃破されていった。


 魚鱗の陣を逆さにすることによって、瞬く間に鶴翼の陣へと変化させる。
 賈駆の指示によって、張遼が俺を試した際に答えた逆さ魚鱗の陣、それをさらに改良させた今回の策、逆さ魚鱗の計。
 鬼謀神算、賈文和が編み出したそれは、今まさに黄巾賊を食らいつくさんとしていた。




  **




「馬鹿な……っ! あり得ん、認められるかこんなことがァッ!?」

 先陣壊滅。
 董卓軍二千を覆い尽くすためにと突出していた黄巾賊二千五百は、魚鱗の陣から鶴翼の陣へとその姿を変えた董卓軍によって包囲され、その多くを討ち取られることとなった。
 賢明に奮戦した者もいるらしいが、生き残った多くは投降し、初め五千あったこちらの兵力も、いまや半数以下へと数を減らしてしまっていた。
 
「董卓軍、反撃と共に前進しておりますッ!」

「分かっておるわ、そんなことッ! 後退だ、後退せいッ!」

 嵌められた、そう嘆く前に馬元義は後退の指示を出す。
 その数を大きく減らしても、それでも董卓軍よりは多いのだ。
 その中からある程度を壁にすれば、この地を脱することも叶うだろう。
 しかる後に、再び兵を集め攻め他方より寄せるもよし、別の土地にて同胞に合流するのもいいだろう。
 そんな未来予想図は、しかして後方からの悲鳴に破られることとなる。

「ば、馬元義様! こ、後方に……」

「今度は何だっ!? 後方に何が……」

 混乱の最中、慌てるように駆けつけた伝令の言葉に、これから撤退するであろう後方を見やる馬元義。
 その視界の先、既に対陣した地点から大きく離れた見えたそこには、両横の山から下る軍勢が見られた。
 戦の初めに、兵を伏しているだろうとした山からである。
 その予想は的中したことになるのだが、失念していたことも含めて、この時ばかりはそれを恨んでしまう。


 飾ることのない、白地に李の文字。


 董卓軍最古参の将として徐玄菟と対を為す、李稚然の旗印。
 己を飾ることなく、主を支える忠を示すための白地の旗は、しかして黄巾賊にとっては黄泉送りのための使者にしか見えることはなく。
 ここに、黄巾賊は全方位を囲まれることとなったのである。

「ぐぬぬぬぅ。 全軍反転し、一気に駆け抜けるぞッ! 者ども、続――」

「させない」

「けぇぇ……ぇ?」

 そして、反転し後退しようと馬を返した馬元義は、そのままに駆けようとし。
 不意に後ろから聞こえた声に、違和感を感じてしまう、否、感じてしまった。

 動かそうとする体の感覚が消え、もどかしさを感じてしまう。
 気怠いような、それでいて睡魔に襲われたか如く朦朧とする意識の中で、視界に先ほどまで自分の身躯だったものが映り込み。
 
 まるで滑るかの如く、己が何をされたのかさえ理解出来ぬまま、馬元義の首は地へと転がり落ちることとなった。
 
「……敵将、討ち取った」

 それをなした赤毛の少女、呂奉先は再び無造作に戟を振るう。
 力でもなく、技でもなく、ただそれが当然かのように振るわれた戟は、その軌道上にあった悉くを切り伏せることとなり、周囲には首と鮮血が舞った。

 そして事ここに至って、黄巾賊は自分達が最早攻めることも退くことも出来ないのだと気づくに至り、逃散する者、投降する者、反撃する者とそれぞれが動くこととなった。
 そうなってしまえば、先ほどまで群衆だった黄巾賊は最早烏合の衆と成り下がる。
 そんな黄巾賊が組織的な行動を行える筈もなく、董卓軍の徹底した攻撃によって、実に二千余名が討ち取られ、千五百名ほどが投降することとなった。


 
 こうして、石城周辺における黄巾賊との戦いは、董卓軍の電撃的な勝利という形で幕を閉じ、董卓軍は周辺地域においてその武名を知られることとなる。
 それは都である洛陽を始めとして、西涼、荊州、揚州、幽州、豫州と各地において広められ、各地にて割拠する数多の群雄にも知られることとなる。
 そしてその情報には、ある一つの噂が付き従うことになる。
 北郷一刀が、そして董卓軍の面々がそれを知るのは、黄巾賊との決戦を目前に控えた時だったりするのだが、この時の彼らには想像だに出来る筈もなかったのだ。




  **




 そんなこんなで、倍以上の黄巾賊を打ち破った董卓軍は、石城の民の熱狂にて迎えられることとなる。
 十倍以上もの黄巾賊を押しとどめた呂布に華雄、その部隊を巧みに操った陳宮。
 神速を以て黄巾賊に痛撃を与えた張遼に徐晃、そして徐栄。
 そして最後の止めとばかりの李確の軍勢。
 それらを束ねた董卓に、策を投じた賈駆もまた熱狂の渦に巻き込まれる形となり、彼女達に従う俺もまた、済し崩し的にそれを余儀なくされた。
 いや、凄いね人の波って、乗車率四百パーセントの電車に乗るインド人の気持ち、よく分かった気がします。


 人の波に飲み込まれた兵を置いて、首脳陣だけでなんとかこうにか城にまで辿り付くことが出来た俺たちは、早速広間へと集まり軍議を起こす。

「此度の勝利、皆さんの頑張りのおかげです。本当に、お疲れ様でした」

「いやいや、月様だからこそ皆従い戦ったのです」

「父上の言う通りです、月様。この徐公明、月様と石城が民のため、これからも励みたいと存じます」

 その場にいる全員の気持ちを代弁した徐親子の言葉に、董卓はもう一度頭を下げて慰労の言葉を残す。
 その言葉に、人それぞれに応えているのだが、俺としては特に何かを成した訳でもないため、それに応えることはなかった。

「それで、捕らえた黄巾賊は如何なさいますか? ちと、数が多いですが」

「それについては、軍役を望むものは兵に、それ以外は希望を聞いて必要な物資を配給することにするわ。特に何も無ければ畑を耕してもらおうかしら」

「なるほどな、軍備増強と働き手の確保、両方やろうちゅーわけか。新兵の訓練は華雄か?」

「ええそう。ここもそれほど裕福という訳ではないし、いつまた黄巾賊が襲ってくるかは分からないからね。頼める、華雄?」

「任されたッ! 早速草案を練ってくるゆえ、先に失礼する!」

 本当に今日一戦してきたのだろうか、そんな疑問を有するほどの勢いで広間を出て行った華雄の背中を見送って、再び広間へと視線を向ける。
 戦場では鬼神の如くな呂布が舟を漕ぎ始めた以外は通常であり、そんな彼女にしょうがないといった顔をしながらも賈駆は続けた。

「明日からは各部隊の被害状況を纏めて、必要な物資や兵があれば早めに申告すること。霞は周辺地域に偵察を派遣するのも忘れないで。……他に何かある? 無ければ、今日の所は解散ということで」

 賈駆も疲れているのだろうか、よくよく見てみれば疲労の色が見て取れる。
 まぁ、確かに出撃が決まって不眠不休で働いていたのは知っているのだが、元が元気そうなだけにすっかり失念していた。
 急かすように周囲を見渡す賈駆から視線を外せば、皆同じように疲労を感じさせていた。
 ……なぜ、華雄だけがあれほどまでに元気なのか、謎なところではあるが。
 そして、誰からともなく頷いたかと思うと、いつの間にか暮れていた日に従うが如く、その場は解散となったのだ。





「だからと言って、眠れるわけでは無いんだよなぁ……」

 と呟きながら、城壁に至る階段を上っていく。
 俺がしたことと言えば、逆さ魚鱗の計の元案となった陣形の提案と、戦の最中に周囲に気を配っていたことぐらいだ。
 戦闘に関わったわけでもないし、かといって走り回ったわけでもない。
 何にもしていない、それこそ口を出しただけである。

「うーむ、酒でも飲めればいい感じなんだけど……」

 敢えて言おう、俺は下戸です、一杯呑めればいい方です。
 祖父は根っからの酒飲みで、それこそ水の如く飲んでいたのだが、俺は母親に似たのか殆ど呑めない。
 父親はそれなりに呑めたらしいのだが、今更言っても始まらない。
 仕方なく、夜の海に沈む街並みでも眺めるか、とらしくなく詩人のように考えた俺だったが、城壁の上に見知った顔を見つける。

 向こうも俺に気づいたみたいで、こちらに近づいてくるのだが、その髪と雰囲気が薄く輝く月に映えて、一つの芸術のようであった。


「どうされたんですか、北郷さん?」



 董仲頴、董卓軍の長たる少女が、そこにいた。
 



[18488] 七話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/24 15:17


「……月?」

 喉の渇きにふと目が覚めて、水を飲んだついでに、主君であり幼なじみでもある月の寝室を覗いてみる。
 普段からよく出入りをしているから、様子を見るというだけだったのだが。
 覗いたその部屋の中に、探し人は見つからなかった。

 一瞬嫌な予感が頭を過ぎるが、ふと城壁の上に月光に光るものを見た気がして。
 そこでやっと、探し人がいつもの如く部屋を抜け出して、夜風に当たっているのだと気づく。

「……おじ様とおば様も、よく抜け出していたものね」
 
 初め、若くして石城太守となった月の父は、政務の途中でも息抜きと称してよく抜け出していた。
 多くの者がそれを戒め、そのときはそれを聞くのだが、少しすればまた抜け出すのだ。
 押し問答のような日々が続くにつれ、周囲も段々とそれを許容して、収束していったのだが、最後までそれを良しとしない武官がいた。

 それが月の母。

 男にひけを取らない武に、柔軟な発想は石城において無くてはならない将だったのだが、ただ一つ、月の父の脱走癖だけには厳しく当たっていたのだ。
 他の者が諦めようとも、そう言いながら雷を落とす月の母と、それから逃れる父は、石城において名物と言っても過言では無かった。
 
 元々、洛陽の官僚として勤めていた月の父だったのだが、優秀過ぎるが故に周囲に疎まれ、若さも相まって僻地である石城へと、名目上は栄転として赴任してきた。
 そんなものだから、猜疑と見栄に塗れた生活に嫌気が差した彼は、必要最低限の仕事をするに止まるのだが、そんな中に物事をはっきりと言い、感情さえも真っ直ぐにぶつけてくる月の母が現れたのである。

 月の母もまた、女だてらに石城一の武を誇り、文官に負けず劣らずに働くものだから、周囲からは疎んじられていた。
 この時代、男より優れた女など、数え切れないほどいる。
 そんなものだから、下らない自尊心ばかり尊大な男は優れた女に劣等感を抱き、質が悪いのになるとそれを公然と表すのまでいる。
 中には力ずく、という男もいるのだが、そういったのは大抵身を滅ぼすことになった。
 月の母もまさにそれで、本心では争いを好まないながらも身を守るためにと強くなっていったらしい。
 そんな中、自分という存在を知ってなお態度を変えず、また自分自身をぶつけることが出来、さらには面倒そうながらもそんな将達の関係を改善させようとする、月の父が現れたのである。
 後に、配下の将同士が仲違いしてたら仕事が滞ってさぼれないから、と本人から聞くはめになるのだが。
 共に聞いた、否聞いてしまった月の母に感じた恐怖は、未だに忘れられるものではない。

 そんな二人の仲が零になるのは、さして時がかからなかった。
 が、人間恋をすると変わると言いますか、結果として脱走癖を持つ者が一人から二人に増えたのである。
 それは、月が生まれてからも変わることはなく、古くからの臣である徐栄や李確が苦言しても変わることは無かった。
 ボクも、月と共にその背中を見て育ったのだが。
 そんな両親に似てしまったのか、月もたまに抜け出すようになってしまったのである。
 月自身は、民の生活を近くでみて実感する、という理由ではあるのだが、こればかりは、月の両親でも恨み言を言いたいかもしれない。

 あの男、北郷一刀に助け……を拾った日も、街の外に抜け出ようとしていた子供が黄巾賊に襲われそうになっているのを、抜け出した月を見つけた時に偶々助けたのだ。

 脳裏に浮かんだ北郷一刀を頭を振って消し去ると、目指す城壁の上からふと声が聞こえた。
 儚げながらもよく聞こえる声は月のものだが、話をしているもう一人は誰のものだったか。
 
 近づくにつれそれが男のものだと気づくのだが、聞き慣れない声に李確でも徐栄でもない男の存在を探して。
 先ほどまで浮かんでいた人物像をはたと思いだし――


 ――あああいつか、とふと気づいた。




  **




 涼州石城、その城壁の上。
 戦勝の名残は、そこかしこで未だ続けられる宴に見られ、石城の街全体がそれを祝っているかのように、街は活気の中だった。
 肉を食べ、酒を呑み、皆で笑い、生を実感する。
 そうすることで、民達は明日を生きる希望とし、明日を望む欲にするのだと、俺は後々に聞くことになるのだが。
 そんな喧噪が、夜が帳を下ろしても尚続けられるのを、俺と董卓は見下ろしていた。

 普段のベールをかけた服装ではなく、至ってシンプルな、それこそ民の女の子が着ているような服に上衣を羽織っただけの董卓は、いつもとは違う雰囲気を纏っていた。
 いつもは豪華な服に隠れる形で、どちらかと言えば儚げな印象だったが。
 今の彼女は、どこか芯が通っているような、そんな印象を受けた。

「……騒がしかったですか?」
 
 そんな風に考えて、はっきり言えば見とれていたのだが、不意にかけられた言葉に邪念を追い払って答える。
 申し訳なさそうに話す董卓は、ここで知り得た董卓ではあったが、それでも街を眺めるその横顔は普段とは違うように見えた。

「いいえ。みんなと違って俺は働いていないから、疲れていないんですよ、眠ろうにも眠れないんです」

「くす、私もです。眠られないから、こっそり抜け出して来ちゃいました」

 苦笑する俺に、頬笑みで返す董卓。
 女性の、というよりも悪戯が見つかった子供みたいなそれは、彼女の新たな一面を俺に見せてくれて。
 ついつい、俺の口調も悪戯小僧のようになってしまう。

「それはそれは、文和殿に露見すればさぞご立腹のことでしょうね」

「そうなんです。ですから、北郷さんには、口止めをお願いしたいんですけど」

「ふむ、あの文和殿を誤魔化す……。勝算はおありで?」

「ふふ、そこは北郷さんの手腕に頼る、ということで」

「これは大変、仲頴殿の期待を裏切るわけにはいきませんな」

「ええ、期待していますよ」

 そこまで言って、お互いにくすくすと笑い始める。
 それは段々と大きくなっていき、そしてどちらからともなく声を上げたものになっていた。
 ここ最近、こちらの世界に来る前も含めてだが、声を上げて笑うことなど無かったかもしれない。
 苦笑ばかりだったかな、と久方ぶりの笑いを堪能しながら思考して、不足してきた酸素を深呼吸で取り入れる。
 見れば、董卓は未だに笑いから帰ってきてはなく、そんな彼女に石城の人々はよく笑うのか、と考えてしまう。
 ……賈駆にいたっては、初対面で爆笑されたしなぁ。
 眼下の街から聞こえる笑い声に混ざるかのように上げられたそれだったが、ふと呟かれた董卓によって遮られる。

「…………黄巾賊の人達とは、本当に戦わなくてはいけなかったのか? もしかしたら、共に笑いあえる方法があったかもしれない。……そう悩んでいたら、眠れなかったんです」

 先ほどとは違う、苦笑混じりに言う董卓に、俺は何も言えなかった。
 この時代において、民を含め多くの人はいつ死ぬとも知れない生活を送っている。
 運が良ければ、争いに関わることもなく、安寧平穏に過ごして寿命を全うすることも出来るかもしれない。
 だが、いつ争いに巻き込まれるか分からない情勢の中、やはり己の命を守るためには戦うしかない。
 たとえそれが、食う生きるに困窮している人々が相手でも、である。
 元々は同じ民であったのに、今を生きる人々は互いに殺し合う。
 それを救える方法があったかもしれない、戦わずに分かり合える方法があったかもしれない。
 そう董卓は、涙を流すことなく慟哭していた。

「私にもう少し力があれば……黄巾賊の人達も救えたかもしれない。もっと頑張っていれば、涙を流す人もいなかったかもしれない……。そう思うと、本当に私が太守をしててもいいのかって、どうしても悩むんです」

 詠ちゃんには心配しすぎってよく怒られるんですけど。
 そう言ってはにかむ董卓だが、その笑顔もどこかぎこちない。
 太守、その仕事がどういったものかは、俺は理解出来ていないのだが、それでも、混迷するこの時代の中で、どれだけの太守が董卓と同じ悩みを抱えているのか。
 否、抱えている者が少ないからこそ、今の現状があるのかもしれない。
 賈駆や街の人々から聞いた話だけでも、それは容易に想像出来ることである。
 これから先、俺の知る歴史では多くの群雄がしのぎを削り、大陸の覇権を争っていくのだが、そんな中で董卓が悩むことがない世が出来ればいいと、この時の俺は思い始めていた。
 それは即ち、董卓が力を持ちそれを大陸中に行き渡らせる、大陸統一ということ。
 争いを好まない董卓ではあるが、そんな彼女だからこそ、この時代には必要なのかもしれない。

 とまあ考えた所で、不意に強く風が吹いた。
 聞いた話では、今は初夏にかかろうかという春ではあるのだが、やはり夜はそれなりに冷え込む。
 冷たい風に身を縮まらせて震える董卓に、小動物みたいと決して言えないであろう感想を抱きながら、俺は着ていた上衣、といか聖フランチェスカの制服を手渡す。
 そこ、なんで制服着てるのとか言うな。
 寝間着以外にこれしか羽織るものが無かったんだよ。

「……えっと、北郷さん?」

「夏は目前とはいえ、やはり夜は冷え込むでしょう? それに、ここで風邪を引かれては、事がばれたときに文和殿からの叱責が怖いですからね」

「くす、あんまり悪口を言っていると、詠ちゃんに言っちゃいますよ? ……でも、ありがとうございます」

 そう言って、おずおずと聖フランチェスカの制服に袖を通した董卓だったが、うんズドンと何かが打ち込まれたね。
 やはり体格差からどうしても大きいのだが、股までになる裾に、手の甲を覆い隠すほどの袖と何かを連想してしまう。
 ああそう言えばワイシャツをはだ……ゲフンッゲフンッ、何故だか殺気やら何やらを感じたので、慌てて妄想を頭から追い出す。
 自分で渡しておいて何だが、ちょっと直視出来そうにないので、少し視線をずらすのだが、分かっているのかいないのか、小首をかしげるように董卓が不思議そうにする。
 ……汚れていてごめんなさい。

「……その、悩んでもいいんじゃないでしょうか?」

「えっ……?」

 お願いですから、暖かいです、なんて言いながら頬を染めないで頂きたい頼みます董仲頴様。
 いろいろと、主に精神的に大変ダメージがでかいんです。
 そんな己を誤魔化すか如く、視線を外したまま熱くなった頬をかきながら言葉を放つ。
 そんな俺の言葉が意外だったのか、不思議そうに董卓が答えた。

「人も時代も、時と共に流れ落ちる水のように、その形は変化に富んだものです。安寧に満ちれば穏やかに形取り、戦乱が満ちれば荒んだ形となるでしょう。ならばこそ、その理想とするものに正解などはありません。型など意味を成しはしないでしょう。であるからこそ、悩み藻掻くことによってその理想に近づける、そう俺は思います」

「………………えと、その……あ、ありがとうございます」

 平和な世界でたかだか十数年しか生きていない俺だが、それでも人としての在り方や考えを間違えることは無いと思う。
 自慢出来るものではないが、これでも色々な出来事を経験してきたのだから、そこまで間違えてしまうと、亡き父母にどやされてしまうのが目に見えていた。
 
 何故だか俯いてしまった董卓から視線を逸らすと、至るところで行われていた宴も、ぼちぼち終了みていで、その喧噪が少しばかり小さくなっていた。
 月が大分傾いているのを見ると、結構な時間話し込んでいたのだろう。
 冷え込み始めた風に身を震わせながら、そろそろ寝所に戻る旨を伝えようとしたのだが。

「仲頴殿……仲頴殿?」

「……」

「もしもーし、仲頴殿? ……姫君様?」

「へぅっ! な、なんでせうかっ?!」

 呼びかけても反応のない董卓に、李確や徐栄が言っていた姫君という単語で呼びかける。
 すると、まるで電流を流したかのようにビクリと反応した董卓は、驚きを隠すことも出来ずにわたわたと手を振りながら、舌を噛まないだろうかと心配になるほどの口調で答える。

「いや……そろそろ俺は寝所に戻りますが、仲頴殿は如何されますか?」

「えっ、ああ……私は、もう少ししてから戻ります」

「そうですか……護衛は――」

「大丈夫ですよ、すぐそこに警備の者もいますし。それに、こう見えてそれなりに強いんですよ、私」

 そう言われ、城壁の下を覗いてみれば、確かに城門前に四人ほどの兵士がいるのが見えた。
 それに、城門の端にも見張り台みたいなものがあることから、そこにも数人の兵士がいるのだろう。
 加えて、若干胸を張りながら答える董卓に、心配も杞憂だったかと安心する。

「それでしたら、俺はここで。明日寝坊しないように、早く寝てくださいよ」

「わ、分かってますっ! もう、北郷さんは意地悪なんですね」

「ええ、そうなんです。では、意地悪な俺はこれで。……おやすみなさい、仲頴殿」

 服は明日で構いませんので、とだけ告げて、城壁を下る階段を下りてゆく。
 途中、怨嗟というか恨みというか呪いというか、なんだかよく分からないものの気配がしたが、董卓も気付いたのか、大丈夫です、と言われたのでそのまま下った。

 階段を下りきった後に、一度だけ城壁を仰ぎ見るが、そんな俺に気付いた董卓に、一度だけ頭を下げて城へと戻る道を行く。
 階段の上り下りをしたからか、身体が睡眠を求め始めたので、ぐっすり眠れることだろう。
 さて、明日は何をしようか。



 などと考えている俺の後方、城壁の上。
 そこにいる董卓の、ぽつりと、それでいて恥ずかしそうに紡がれた言葉が俺の耳に入るはずもなく。
 風に舞いながら、闇夜の街中へと消えていった。



「おやすみなさい…………一刀さん」







  **





 
 明くる朝、賈駆からの呼び出しに広間へ赴くと、何故だか顔合わせ一番に賈駆に睨まれた。
 昨夜のことがばれたのか、それとも董卓が言ってしまったのか。
 それともあるいは、と考えそうになるが、ひとまずは呼び出された用件を聞かなければ成り立たない。

「文和殿、お呼びとのことでしたが、一体いかなるご用で?」

「……はぁ、文字の方は大体覚えられた?」

「? ええ、まあ。俺の知っている文字と元々似ているので、大まかなものは大体」

 睨まれ、挙げ句には顔を見られながら溜息をつかれたのだが、昨夜のこと以外には思い当たりのない俺は、首をかしげるしかない。
 いや、昨夜のことを知られれば、これぐらいでは済まない、それこそ罵詈雑言を並べられても文句は言えないからと思っているのだから、本当に謎である。

 そんな俺の言葉に、一つ頷いた賈駆は、何故だか張遼と華雄の方を向くと、これまた一つ頷く。
 それに答えるように二人も頷くのだが、華雄はいざ知らず、張遼の顔は歪んでいた。
 こう、どうやって弄ってやろう、ってな具合に。

 そんな俺の不安に答えるかのように、半ば予想通りの言葉が、賈駆の口から飛び出した。

「それならば、今日一日は霞と華雄の仕事を手伝うこと。二人も、出来そうな範囲で仕事を割り振って頂戴。警邏や調練の方は、こちらから通達しておくから」




 それでまあ、特に断る理由もないので承諾したまでは良かったのだが。

「……この目の前に聳え立つ竹簡の山は、一体何なんでしょうか?」

「んなもん決まっとるやんか」

「うむ、今日の北郷の仕事だ」

「……えぇー、何でこんなに量が……」

 とも愚痴りたくなるほどの量。
 学校の教室の半分ほどの政務室に、会議を行うような机が三つほどあり、その上に山盛りの竹簡という、ある意味蔵書室にも見える部屋に案内された俺は、目眩を押さえながらその山を見やる。
 一つ手に取ってみれば、中にはずらりと漢字が書かれており、いくら勉強したからといっても、殆ど読めそうにない。
 一体どうすれば、と泣きそうになる俺に、あっけらかんと張遼が言い放つ。

「とは言うても、背表紙の題目の上に書いてある種類別に分けるだけやけどな。農とか練とか。さすがに中身の確認はうちらでせなあかんから、出来る範囲でええで?」

「はあ……そう言えば、文遠殿と葉由殿はどちらに?」

 種類別にするだけでも、かなりの量なんですが、とはさすがに言えなかったが、これほどの仕事を俺に任せて二人は何をするのかとふと疑問に思った。
 これで、うちら食い倒れに行ってくるわ、とか言われたら本気でどうしようかと思ったのだが。
 
「ああ、うちらは街の周辺の探索や」

「うむ、小規模ながらでも黄巾賊が確認された以上、周辺を警戒するに越したことはない。それに、他方においても黄巾賊は劣勢らしい、敗残兵がこちらに来ないとも限らんしな」

 そう言って、己が武器を確認する二人、そこに三国志の英傑たる姿を見て、俺は自然と微笑んでいた。

「分かりました。こちらのことは心配せずに、どうか石城のこと、お願いいたします」

 古代中華での敬礼といったものが分からない俺は、文官や武官がしているのを見よう見まねでしてみる。
 片膝ついて、とかじゃないだろうから、両手を合わせて前に出す、みたいな形で。
 
「では頼んだ。張遼、行くぞ」

「あっ、ちょっと待ちーな華雄。ほな北郷、行ってくるで!」

「はい、行ってらっしゃいませ」

 俺の言葉に満足げに頷いて、華雄が張遼を急かすように扉を開ける。
 それにつられていく張遼と華雄を見送るために、扉の外まで出て言葉を掛ける。
 何故だか満面の笑みで手を振っていく張遼を送り出して、俺は再び政務室へと入る、、足を踏み入れてしまう。
 まあなんだ、やれるだけやってみるか、と俺は一つ目の竹簡を手に取った。



**



「それで、お前はいつまでニヤニヤしている?」

「んー、ちょっと嬉しいんやから、別にええやんか」

 石城を出発した二百の騎馬隊にて構成された偵察隊の先頭、巧みに馬を操りながら華雄は張遼へと問いかけた。
 議題としては、北郷一刀に見送られてからの変にニヤニヤする張遼について。
 とりあえずうっとしいことこの上ないのだが、それも聞くのも何だか嫌な予感がしたのだが、それでもこのままでいい分けもないので、意を決したのだ。

「なんつーか、今まで見送られることってあんま無かったから、新鮮でな。……家族みたいで、嬉しかったんよ」

 元々、自分は幼い頃に先代である月の両親に拾われ、そのまま世話になっている身である。
 産みの親こそ覚えていないが、拾われてからの記憶には、見送られたことはそれなりにある。
 しかし、張遼は元は馬賊の出と聞いたことがある。
 記憶の始まりの頃には一人で馬に乗っていたのだと酒の席で聞いたことも踏まえて、彼女は家族というものを知らないらしい。
 それから様々な経歴を得て、董卓軍に拾われる形となったのだが、どこか心の奥底でそういったものを求めているのかもしれないと思った。

「そー言う華雄こそ、悪い気はしてないんちゃう?」

「…………むぅ」

 そしてそう言われ、張遼の言う通り悪い気はしていなかったのだと、自分自身でも驚いてしまう。
 考えてみれば、先代が生きていたころは当たり前だったものが、亡くなった後はあまりの忙しさにすっかり忘れていたのだ。
 先ほどの北郷の一言で思い出したと言ってもいい。
 
 家族。

 久しぶりに感じることとなったその感情に、知らず口端がつり上がってしまう。

「ほらな、結局華雄かて笑っとるやんか」

「ふん、否定はせん。……さっさと行くぞ」

 にしし、と笑う張遼から顔を隠すように、馬の速度を上げる。
 後ろから何か言われる声が聞こえるが、それを無視してさらにその速度を上げる。
 だが、奴かて神速の名を得た将である、自分が追いつかれるのも時間の問題ではあるのだが。
 若干熱を持った身体に、風が心地よかった。





 昼食を抜き、殆ど缶詰になって何とか分別を終わらせることが出来た俺は、帰ってきた張遼と華雄を出迎えた。
 特に収穫は無かったとのことだったのだが、何故だか機嫌のいい張遼と、それを戒めながらもこちらの機嫌のよさそうな華雄に、俺は首を傾げるしかなかったのである。
 
 




[18488] 八話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/29 10:41


「大豆に胡麻、とな……?」

「はい。現在大豆は搾油用、胡麻は漢方薬として栽培されていますが、どちらも食用として人が生きるために必要な力が多く含まれています。また、大豆は様々な用途が可能であり、胡麻も搾油用としても期待出来るのです」

「ふぅむ……。どう思う、玄菟?」

「そうさな……異国の知識なら、間違ってはおらんやもしれん。検討の価値は十分じゃな」

 石城の一角に設けられている田畑に、俺は早朝から徐晃に呼び出されて赴いた。
 と言うのも、先日は張遼と華雄の手伝いをしたと思ったら、今日は徐栄や李確、徐晃の手伝いをしろと言われたのだが。
 またも書類の分別かと思った俺の期待を裏切って、田畑に連れてこられた俺は、唐突に切り出された言葉に頭をひねることになった。


 食用のもの以外で、何か栽培するに値するものはないか。


 この時代の主食としては主に米や麦などが栽培されているが、何故だか唐辛子やピーマンなども栽培されていたりするのだが、そこら辺はまあ追求はしないでおこう。
 16世紀の大航海時代ぐらいに伝わってきたものなんだけどなぁ。
 そこで、異国出身ということにしてある俺の知識から何かないかと問われて、一番に思いついたのは油である。

 現在流通している多くの油は、魚を搾って取る魚油か、先の大豆から取る大豆油、少数ではあるが菜種油などがある。
 主なものとしては魚油なのだが、用いられた魚の量からでは酷く効率が悪く、また動物性のためか時間が経てば生臭くなる。
 そのため、専ら料理に使われるのは大豆油などの植物性のものなのだが、大々的に生産していないためにどうしても量が少なく、それによって高価なものとなってしまうのだ。
 
 それならばと、比較的効率がよく、また大量に仕入れることが出来るものと言えば大豆や胡麻であり、またその二つは様々な用途で使用することが出来る。
 そう思って、これだ、と勧めたのだが。

「……北郷殿の言うことが本当ならば、我が軍だけでなく、この大陸にとって非常に有益なものとなる。その情報は、如何なさるのですか、父上?」

「大量に栽培し、食料とすることで多くの飢えた民を救うことが出来る。月様という人を鑑みるに、恐らくは広めようとするじゃろうな」

「左様、目に浮かぶようじゃ。だが、かといって無償と言うわけにもいくまい。何かしらの益が我らに入らねば、敵を富ませるだけとなってしまう」

 ううむ、と考え込み始めた三人から視線を逸らし、田畑を耕す民達に向ける。
 比較的寒く乾燥した石城ではあるが、それでも作物の実はなるらしく一生懸命に豊作を祈って耕している。
 旱魃や蝗害がほぼ毎年各地で発生している時代の中で、それでも逞しく生きる人々に、俺は少しでも役に立ちたいと、思ってしまう。
 それは平和で、食料が飽和する世界で生きてきたエゴなのかもしれない。
 それでも、その気持ちは本物だった。

「……それでは、特産として売り出す、というのはどうでしょう?」

 結構な時間を思案していたのだが、それでもいい案が浮かびそうにない三人に、俺は漏らす。
 というかですね、どんだけ悩んでんだよ。

「胡麻や大豆が食用に出来るというのはある程度有償の情報として広め、それから作り出せる加工品はその方法を明かすことなく、安く売り出す。これならば、各地に流通させつつ財を得ることが可能かと」

「……なるほど、恩を売りながら財を得る、か。異国の知というのは、中々に興味深いものばかりです。この若輩、勉強させてもらいました」

「琴音の言う通り、異国とはまこと面白き所みたいですな。これは一度、よく話を聞く席を設けねば」

「その時は儂もじゃぞ、稚然。この歳になっても、己の知への欲があることには驚きじゃが、北郷殿からはさらに驚きが得られそうじゃ」

 作り方占有して、加工品売り出せばいいんじゃね?
 と軽い気持ちで言葉にしたのだが、思いの外良策だったらしく、また知らない知識という興味に、三者三様に瞳を輝かせる。
 いつの時代にもこういった学知を求める人はいるものなのだと知り得たのだが、それを追い求める人もいるということを、俺は後に知ることになる。

 俺としてもこの時代の飯は嫌いではないが、どうしても食べ慣れたものを食べたいと思っていたのだから、これ幸いである。
 豆腐などは既に存在しているのだが、その前の豆乳などは無いらしい。
 また、大豆を熟す前に採取する枝豆などはもの凄く不思議な顔をされたので、今度試してみることにした。
 ごま油などは中国料理には不可欠だったため、製造に成功すれば安定した需要を得るはずである。

 次々と浮かび上がる未来予想図を前に、遅くまで俺は三人といろいろ話し合ったのだ。




  **




 とまあそこまでは良かったのだが。
 徐栄ら三人と存分に話し合った俺は、翌朝にまたもや賈駆に呼び出された。
 しかも、今度は広間ではなく彼女の政務室になのだが、何故かその場には賈駆以外にも三人の人物がいたのだ。

「やっと来たのです! ほら、さっさと座るがいいのですぞ!」

「一刀……隣」

 その内の一人である陳宮に急かされ、空き椅子が用意されてあった呂布の隣へと腰を落とす。
 楕円形の机に、陳宮と呂布が隣り合って座っており、その横に俺。
 その反対側には、俺を呼び出した張本人である賈駆と、三人目の董卓がいた。

「皆さん、おはようございます。……何で俺は呼ばれたのでしょう?」

 その顔ぶれを見て思ったことだが、今いち呼び出された理由が不明である。
 董卓と賈駆と陳宮ならば、当主と軍師が集って軍事関係について聞かれるとは思うのだが、そこに呂布がいるのがよく分からない。
 妥当にいけば、陳宮がここにいるから、というのはあるが、わざわざいる必要があるのか。
 うーん、と悩む俺の心中を察してか、いつもの口調で呂布が口を開く。

「ご飯……おいしい。…………いろいろある」


 うむ、全くもって意味不明である。


 さらに頭を悩ませることになるのだが、そんな俺を見かねてか、溜息混じりに賈駆が説明してくれる。

「稚然殿から上がってきた昨日の報告書をねねと確認してたら、恋に見つかっちゃって。そこであんたが異国の料理の話をしていたって書いてあるもんだから、付いて来ちゃったのよ」

「ああ……なるほど」

 要は食い気か。
 呂布らしいと言えばそれまでだが、当の本人は至って気にする風でもなく大あくびをかましていた。
 そんな俺と賈駆の視線に気づいてか、頭にハテナを出しながら首をかしげるのだが、そんな彼女になんかどうでもよくなってくる。
 さらには、お腹空いた、なんて言うものだから、脱力してしまって最早どうにもならない。

「……あとで食べに行きましょう? それまで、少し我慢してくださいね」

「…………………………ん」

 今すぐ食べに行きたいのか、俺の言葉にすっごい悩んだ末に、承諾と頷く。
 それと同時に、ぐー、と可愛らしい音が鳴るのだが、音の持ち主は気にもせずに、机の上にある菓子をぱくつく。
 なんて言うか、すげー和むわぁ。

「まあ恋は置いておいて……この報告書のここなんだけど」

「何です……衛生について? これが何か?」

「その……そこに書かれている石鹸、というものなんですが、作ることは出来ますか?」

「はぁ?」

 賈駆に見せられた報告書の中に、確かに衛生関係の項目に石鹸という文字が見える。
 そう言えば、風呂の話をした時にそんなことを話したっけ、と今いちよく覚えていなかったりするのだが、そこに書いてあるので確かに言ったのだろう。
 そして、董卓はそれを衛生管理に使えないかと言ってきたのだ。
 
 この時代において、死者の多くは餓死と疫病が理由とされているらしい。
 特に食料を用意すればいい餓死と違い、疫病においてはその対策法が確立されておらず、そもそも疫病とはどういったものなのかも知られていなかったらしい。
 そこで、俺が病気なんかの菌、元を石鹸で洗い流すとか言ったものだから、それを使うことが出来ないか、という話になったみたいである。

 確かに、石鹸が作れれば多くの病気にかかることは減るだろう。
 また、その石鹸自体も特産として売り出すことが出来れば、董卓軍としても損にはならない。
 ゆえに、俺のその作り方を教えて欲しいということなのだろうが。

「……食べ物、違う?」

 うんごめん食べ物じゃないんだ、と心中で心底がっかりしている呂布に謝りながら、俺はどうしたものかと悩む。
 石鹸を作る上で一番簡単なのは水酸化ナトリウムを使うことだが、この時代ではそれを作り出すことは難しい。
 海水を電気分解すれば作れるのだが、そもそもその電気を作ろうにも知識も設備もないのだ。
 となると、残るは古い製法である炭を使ったものなのだが、悲しいことに俺はその製法で作ったことがない。
 一度、何の因果か及川が自由研究と称してしていたことがあったのだが、この時ばかりはそれを真面目に聞いていなかった自分を悔やんだ。
 何で女の子にモテるために石鹸を作ろうとした及川を信じられなかったのか、まあ意味不明だったからだが。
 
 とりあえず、炭と油で作れるとは思うということを伝えてみることにした。

「ほぉー、異国にはそんなものがあるのですか。 むぅ、知らないことばっかりなのです」

「とは言っても、実際に作れるかどうかは分かりませんよ。作り方の話を聞いたことがある、というぐらいですから」

「それでも何にも知らないよりはマシよ。……材料自体はすぐ手に入るから、後は作り方ってことね。月、後で職人達と相談してみるわね」

 すると、意外にも悪くはなかったのか、その場にいる俺以外がやる気らしく、俺としては失敗されると非常に悪い気がする。
 一言ことわっておいたのだが、それでもいいと言ってくれた賈駆を、どうしても疑ってしまう。
 っていうか、その瞳が嘘だったら許さないと暗に言ってるので、ぶっちゃけ石鹸のことを話したのを後悔しました。
 女の子がいい匂いしたらいいなと思っただけ、とはさすがに言えなかった。

「うん、お願い詠ちゃん。 ねねさんも、詠ちゃんを手伝ってあげて下さい」

「任されるのですよ!」

 勢いよく自分の胸を叩いて軽く咳き込む陳宮が面白いながらも、ふとこちらを見る董卓に気づく。 
 ニコニコしたと思いきや、何故か顔を赤くしながら見続ける董卓に頭を傾げながら、次の言葉を待つのだが。

「か、一刀さんは、他に何か使えるものがありましたら、また報告をお願いしますね」

「はい、承知しました。…………えと、まだ何かありますか?」

「…………はぁ、いえ何もありません。……………………一刀さんの馬鹿」

 何故だか溜息つかれた?!
 後半は声が小さくて何て言っていたのかよく分からなかったのだが、賈駆と陳宮は聞こえたみたいで、何故だか睨まれた。
 ええと、俺何かしたのかな、泣いちゃうぞ。


 

 そんなこんなで奴隷という肩書きに相応しく、その日その時によって様々な将について仕事をこなすようになった俺は、あっちに行ったり向こうに使いっ走りになったりと、色々な方面にて顔を広めることになった。
 元々それが目的だったのか、と思わないこともないのだが、明らかに張遼や華雄、陳宮は俺に任せっきりという感じがする。


 朝、政務室に行けば聳える竹簡が俺を待ち構え。
 昼、親睦を深めるという名目で飯を奢らされ。
 夜、仕事が終わったのを見計らって酒を呑まされる。

 
 俺未成年なんですが、なんて文句が聞いてもらえる筈もなく、慣れない酒を翌日に残しながらも仕事を続ければ慣れるもので、三日もすれば酒を翌日に残すことは無くなってきた。
 えっ、仕事には慣れないのかって? 無理に決まってるだろ。
 
 始めのうちは、というか始めだけ簡単なものだったに段々と難しいものが回ってくるようになって、仕舞いには部隊の兵全員と手合わせとか、石城の農耕人口から取れる作物食料の目安の算出とか、乗馬訓練のついでに偵察任務とか、とりあえず無茶言うなというレベルばかり回されるのである。
 朝から晩まで働いて、翌日にはまた同じことをして。
 サラリーマンのお父さんもびっくりと言えるほどの仕事量に、もはや元の世界に戻る方法とか探す元気さえ無かったのだ。
 その心中を、察してほしい。

 まあ華雄の乗馬訓練のは、俺としても有り難かった。
 それでも乗り慣れないものだから、次の日には尻がやばいことになっていたけど。




 そんな慌ただしくも平穏な日々に、俺は忘れかけていた。

 時は後漢王朝末期、三国時代という歴史の扉の前。

 困窮した民が黄巾として乱を起こし、群雄が幸いとばかりに力を蓄えるそんな時の流れの中で。

 多くの命が散っているということに。

 

そんな中、俺はある一つの決断を迫られることになる。






 涼州石城の隣県に位置する都市、安定からの急使。

 その者から発せられた言葉は、否応なしにそれを俺に強いたのだ。

 
「安定、黄巾賊の襲撃を受け陥落寸前ッ! 至急援軍をお願いしたいッ!」












~補完物語・とある日の夕食~

 
 仕事が一段落したその日、俺は張遼に誘われて、城の食堂へと向かった。
 彼女から食事、というか酒に誘われることはよくあるのだが、城の食堂にというのも珍しい。
 大抵は街に出て、飯を食べた後に酒屋をハシゴするというおっさんルートだったのに。

 そうして、食堂の扉を開いた俺の視界に、張遼以外に、というか董卓を筆頭に首脳陣が集っていた。

「え……っと、これは一体?」

「ふふ。なに、月様の発案でお主の歓迎会をしようとなったまでよ」

「そうじゃ、ほれ主賓が座らねば儂らも食べられん。早く座るがいい」

 徐栄と李確にそう勧められ、言われるがままに空いた席へと座る。
 丁度上座になる所で、隣にはそれぞれ董卓と張遼が座っていた。

「遅かったやんか、先に始めるとこやったで」

「お疲れさまです、まずはお茶でもどうぞ」

「あーっ! ちょっと何月にお茶汲みさせてんのよッ!? あんたなんかコレでも呑んでればいいのよ!」

 腹ぺこや、と喚く張遼の頭を抑えながら席に着くと、反対側の董卓が近くにあった急須でお茶をついでくれる。
 かと思えば、それはすぐさま賈駆によって奪い取られ、代わりに彼女の手元にあったお茶を渡される。
 俺が来る前に淹れていたのか、既に冷め切ったものだったが、喉が渇いていたのでまあいいやと一口飲む。

 冷えたお茶独特の苦みが口の中に広がるが、それでもほっとすると、身体が食物を求め始める。

「むぅー…………詠ちゃん」

「うぅ、だって……えと……その……ええぃ、あんたが悪いんだからねッ!」

 何でっ、理不尽だ!
 そう思って視線を賈駆に向けるのだが、ギロリと睨まれてすぐさま視線を逸らす。
 隣の張遼に視線を移せば……既に呑み始めていた。

「おいしい。……一刀も食べる」

「あ、ああ。ありがとうございます、奉先殿」

 そして例の如く肉まんを頬張っていた呂布が差し出した肉まんを受け取ると、やはりと言うかなんと言うか、その隣にいる陳宮が呂布にもの申した。

「恋殿、わ、わたしも肉まんが欲しいのですぞ!」

「まだ、一杯ある。……はい」

「ほぉぉぉ、恋殿からの肉まん! この陳公台、感激ですぞッ!」

「……ん」

 まあいたっていつもの光景であるので、特には気にしない。
 見れば、李確と徐栄はそれぞれ少し離れたところで酒を呑みながら何かを話し合っている。

「最近はどうだ?」

「うむ、中々の働きぶり。聞けば、女中や侍女の中にも好感を抱いている者もおるらしい」

「なんと、やはり人柄としては合格であったか」

「近頃は恋や葉由に鍛えられ、武においても成長しとるしな。いずれ董家に相応しい将となるだろう」

「ふむ、楽しみじゃのう」

 相も変わらず、何を話しているのかはよく分からないのだが、とりあえず身の危険を感じるものでは無いはずだ、多分。

 さらに視線を移せば、華雄と徐晃も何やら話し合っている。
 こちらは至極真面目な顔なのだが、話していることは物騒極まりない。

「華雄殿、武とは一体何なのでしょう?」

「公明か……。武とは力、いかに早く戟を振るい、いかに強く叩き伏せれるかが、武にとって精進すべき課題だ」

「なるほど、若輩の身には勉強になります」

「うむ、最近は北郷がいい動きをしている。やつを叩きのめせるか、それが一つの目安となる」

 …………そこから先は聞かないでおこう、眠れなくなりそうだ。

 とまあ普段通りのその食卓を囲んでいると、不意に董卓に袖を引かれる。

「一刀さん、これ私が作ったんですけど、お味は如何ですか?」

 そう言って差し出されたのは餃子。
 パリパリに焼かれた少しだけ焦げた皮の中に、細かく、しかし濃厚な味を示すそれに、俺は素直な感想を口にしていた。

「美味しいですよ、仲頴殿。料理上手いんですね」

「はい、こういうの好きなんですけど、詠ちゃんが許してくれなくって……」

「えぅ……だ、だって月が料理したら侍女が仕事無くなるんだよっ?!」

「もぅ、いっつもそう言って誤魔化す」

 若干ふて腐れた董卓に賈駆が狼狽するのが面白くて、ついつい口がにやけてしまう。
 そのいつもとは逆の力関係ににやにやしていると、不意に視線を感じて、その発信源である張遼へと向く。
 すると、そこには董卓と同じようにむくれる張遼がいた。

「えっと……文遠殿?」

「…………月、いつの間にや?」

「えっと……霞さん、何がですか?」

 ええっと、何がなんだかよく分からないのだが。
 俺と同じようにハテナを出す董卓に、そっかそういうやつやった、と意味ありげに呟いた張遼は、空いてあったお猪口を俺へと押しつけて、それに酒を注ぎだした。

「ほれ、一刀! ウチの酒も呑めやッ!」

「ちょ、ちょっと文遠殿、溢れてますって!? ありがたく頂きますが……」

 酒塗れになった手を布巾で拭いて、注がれた酒をちろりと舐める。
 そんな俺を見ながら、何やら上機嫌で一気に杯をあおる張遼に、今度は俺が酒を注ぐ。

「では、今度は俺が文遠殿に注ぎますよ。どうぞ?」

「おおっ、ありがとな。……………………なんや、気づかんのかい」

 何がでしょう、と視線を張遼に向けるのだが、何故だか彼女は再びむくれてその顔を背けてしまう。
 頬を少し膨らませて、まるで子供がその感情を表現するような顔に、思わずくらりとしてしまうのだが、不穏な空気に視線を移せば、今度は董卓がむくれていた。

 否、むくれていると言うよりは睨まれていた。
 そしてそれに反応するかのように賈駆にも睨まれ、こちらは若干怒気もこもっていたが、その空気に触発されたためか、李確と徐栄はいつの間にか席を外していた。

 逃げられた、そう思った時には既に遅く。
 

 董卓からは、何故だか執拗に食事を勧められ。
 張遼からは、執拗に酒を注がれ、注げと言われ。


 俺の歓迎会だった筈の席は、いつの間にか俺を四面楚歌へと誘っていたらしい。
 

 結局、張遼を大量の酒で酔い潰し、董卓を誘って酒で酔い潰すまで、それは続けられた。


 
 余談ではあるが、董卓を賈駆が、張遼を俺が寝室にまで運んでいく際に、一言釘を刺されたのだが、本当にそれだけでよかったと心底安堵した。
 漫画にすればとげとげの吹き出しで言われたであろうそれは、実剣で刺されなくてよかったと思わせるものだったのである。
 
 
 





[18488] 九話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/02 16:18

 


 豫州、洛陽から涼州に入る手前を、数百ほどの騎馬が駆け抜けていた。
 男ばかりのそれは、皆一様に急かすように馬を手繰り、その器用さをもって彼らの目指す処へと駆けていた。
 
 その一団の先頭、一際巨大な剣を背負う男が傍らに従う副官へと問いかける。

「安定までの道のりは、あとどれぐらいある?!」

「どんなに急いでも、あと三刻は下らないかと! 隊長、少し落ち着かれては……」

 三刻。
 古代中国において、一刻は一日を十二等分した時間であり、現代で訳せば二時間になる。
 つまりは、どんなに馬を急がせても六時間はかかるということになるのだが、それは馬が保てばである。
 休息を入れれば、もう一刻は増えるであろう。

 そしてそれは、脅威にさらされている安定の街が、それだけ危機を享受しなければならないということでもあった。
 自分が生まれ、育てられてきた安定がそのようになっている状況で、男はさらに馬の速度を上げる。
 それを戒める副官の言葉に耳をかすこともなく、である。

 仕方なく、副官も馬の速度を上げるのだが、それに残りの数百の者も従う。
 
 彼ら、涼州安定軍の中でも最精鋭を誇る騎馬隊は、皆一様に安定で生まれ、育ってきたのだ。
 その隊長である男が急かさなくても、駆けつけたいのは彼らも同じであった。

 そして、そんな彼らが何故洛陽から安定を目指さなければならないのか。
 その理由を思い出して、男は忌々しげに吐き捨てる。

「あのくそ太守、これで壊滅などしてみろ! あの脂肪に埋まった首、叩き斬ってやるッ!」

「それには全く同意ですが……馬に無理をさせすぎれば、間に合うものも間に合わなくなります。ここはひとまず落ち着かれてください」

「ぐぅ……。ちっ、分かったよ! これより四半刻の小休止を入れる、後は休まんぞ! 今のうちに腹でも満たしておけ!」

 副官のまったくの意見に、男は仕方なしに休息の指示を出す。
 確かに、馬を潰してしまえば本末転倒である。
 即座に馬の状態と安定までの距離、必要な時間を計算して指示を出す男に、副官は人知れず息を吐いていた。

 皆思い思いに洛陽から、と言うよりは援軍要請という名目で洛陽に一人だけ避難した太守から分捕ってきた兵量を腹に入れていた。
 その護衛に安定のほぼ全兵力を持ち出すなど馬鹿げた太守だったのだが、事もあろうに洛陽に戻ったとあって奴は喜んだのだ。
 結果、あっ虫が、と嘯きながら一発ぶん殴った後に、名乗り出た数百人で安定の救出へと向かっているのだ。

 しかし、安定に押し寄せていた黄巾賊は、当初の情報では数千、下手をすれば万に届こうかという数だと聞いていた。
 安定に残してきた兵力はたったの三百であり、指揮官たる人物もいない。
 普通に考えれば、間に合う筈もないのだが。
 男、牛輔は、安定を出る前に後を託した人物へと思いを馳せる。


「…………頼むぞ、陽菜」


 牛輔の言葉は距離を埋めることは無かったが。
 その言葉から、彼の者への信頼が見て取れた。
 




 
  **






「さて……此度の安定への救援、これに依存ある者はおるまいな?」

 安定からの使者を別室にて休ませた後、俺達は広間へと集っていた。
 議題はもちろん、安定を襲撃する黄巾賊の対処についてである。
 襲撃する、というのは使者の話によるのだが。
 安定は地理的に安定の南西に黄巾賊を確認したということに他ならないのだが、その総数が一万を超えるほどのものであるという。
 洛陽と西涼を結ぶ交通の要所であり、また西涼が異民族に落とされた時の最終防衛線という意味合いもあってか、後漢軍の一部が駐留していた。
 一部とは言ってもその数は二千は下らなく、その数があれば籠城の末の援軍によって勝利も容易いだろうというのではあったが。
 使者の口から放たれた言葉は、俺達の予想を遙かに上回るものだったのだ。


 
 曰く、朝廷から派遣されていた安定の太守は、援軍要請の名目をもってして洛陽へと逃げた。



 その際に安定に駐留していた後漢軍の実に九割を自身の護衛にと当てたために、現在安定にいる兵は三百ほどだと言うのだ。
 また明確な指揮官もなく、最高指揮官であった男もその護衛に連れ出されてしまったために、安定は滅亡必至の目前へと叩き込まれている。

「北郷殿……安定救援に兵を出す理由、分かりますかな?」

「……安定はここ石城からも近く、また洛陽と涼州を結ぶ要所でもあります。また、以前黄巾賊を撃退したが故に石城には食料財貨があると勘違いさせてしまい、安定が落ちた後はこちらへとその矛先を向けてくるでしょう。ならば、注意が安定に向いている今、安定と協力して黄巾賊を打ち払うが上策。そういう意味ではないでしょうか」

「北郷の言うとおりよ。安定が落ちれば、次はこっち。さらにはその勢いに乗って、各地に潜む不穏分子まで動きかねない。そうなれば、如何にこちらに優れた将がいても、持ちこたえることは不可能に近いわ」

「さらには、西涼において馬太守が異民族に押されている、という情報もあるのです。もし詠殿の言う通りになってしまえば、そちらにも勢いを渡すことになり、ねね達は文字通り四面楚歌となってしまうのです」

 故に、残された手は援軍に赴きそれを討つしかない、それは誰も口に出すことは無かったが、誰もが理解していること。
 かと言って、言うほど簡単なものではなかった。

「前回とは違い、今回の戦は所謂攻めになる。恐らく、黄巾賊は安定を囲んでおる、見方を変えれば布陣しているとも言う。となればこれを攻めるになるが、相手はまたしてもこちらの数倍、簡単にいく相手でもあるまい」

 徐栄の言うとおり、以前攻めてきた黄巾賊には、地の利を活かした待ちの戦法を用いることが出来たが、今回はそんな悠長なことを言っている場合でもなく、さらにはこちらから進まなければならないため、黄巾賊に準備する時間を与えることになる。

 周囲の情報を得、策を練り、罠を用いて、万全の体勢を整えることが出来るのだ。
 いかに賊軍とはいえ、それぐらいに考えられる人物はいるだろう。
 なばらこそ、それに当たるにはこちらも万全を期さなければならないのだ。

「今回、稚然殿は石城に残って、もしもの場合の防衛準備。残りは出撃するにあたり、恋と華雄と霞を先陣にした鋒矢の陣でまずは安定の北東を目指す。長期戦になることも考えて、本陣をそこにある山裾にて構築し、指示はそこから出すわ」

「詠殿、私と父上は如何しましょうか?」

「琴音と玄菟殿は、鋒矢にて安定に近づいた後は別働隊となって、迫るであろう黄巾賊の足を止めてちょうだい。こっちを狙う数は少ないだろうけど、もし全軍動けば私達が踏みつぶされるのは目に見えているもの」

「なるほど……その隙に本陣築いて、腰を構えようちゅーわけやな」

 こちらに来て学んだことだが、防衛側の救援は、まず城門前を確保することから始まるらしい。
 これは、救援側と防衛側によって攻め手を挟撃するために、とのことらしいのだが、今回のように防衛側の兵力が低い場合、それはあまり意味を持たさない。
 少数の防衛側が城門を開いた場合、多数の攻め手にそれを突破される恐れがあるからだ。

 黄巾賊を追い払い、ある程度の治安が約束され、そして俺がもたらした知識によって、少しずつではあるが石城は富んでいった。
 それによって人口は増加し、伴って兵に志願してくる人々も増えて、今や石城の兵力は五千にも及ぶ。
 太守である董卓が争いを好まないために、兵の徴募は大々的に行われることは無いのだが、それでも石城を守るという志で志願する人は多かった。

 よって、いざという場合の防衛兵力である千を残しても、四千によって救援へと駆けつけることが出来るのだが、安定の兵力が三百ほどしかない状態では、挟撃を行うことは難しいと言えた。
 だがしかし、賈駆はそれでもなお城門前の確保を第一目標と掲げたのである。

「三百では万の黄巾賊は防げないわ。そこで、城門前が開けたら玄菟殿と琴音は千を率いて安定に入城して。そこで指示を出している人と話をして、協力して当たれるように」

「はっ、この徐公明、承知致しました」

「華雄達は、琴音達が入城した後に安定を囲む黄巾賊を各個撃破すること。城壁に取り付いているということは、その方向は塞がれているということ。三隊にて三方向を囲めば包囲となって、戦いやすくなるでしょう。霞は、足の速いのも探しておいて」

「そんなもん、どうするんや?」

「黄色の布を付けて、賊の中を走り回らせて。安定はもうすぐ陥落する、っていうのと、援軍が来た、って叫ばせてちょうだい。逃げるのと固執するのとに分けられれば、こちらの負担もかなり減る筈だから」

 要するに、分裂させることが出来ればいい、ということだ。
 確かに、黄巾賊の最大の驚異はその数にある。
 如何に訓練を積んで、それこそ一騎当千の域にまで及んでも、一度に対処できる人数はたかが知れている。
 それを超えた人数を相手にすれば無事では済まず、もしそれを凌いでも次が来ればまたそれを相手にし、負傷する。
 それを繰り返していけばどんなに精鋭でも、たちまち徒花として戦場に散ることとなるだろう。
 だからこそ賈駆は、黄巾賊を逃げる者となお戦おうとする者に分けることによって分裂させ、一度に戦わなければならない人数を減らすという策を用いることにしたのだ。

「……それでは、詠ちゃんの策でいきましょう。兵四千にて安定に接近後、本陣を構築。しかる後に、安定の城門を確保して各個撃破。それでいいですか?」

 それまで黙って軍議の行く末を見ていた董卓の言葉に、皆一様に彼女へと視線を向ける。
 そこには、先日戦うことを悩んでいた少女の姿は無く。
 民を守り、地を守り、兵を守らんとする君主たる董卓の姿があった。

「徐玄菟、月様の指示のままに」

「同じく徐公明、父と同じく月様の命に従います」

「……恋、頑張る」

「ねねも恋殿と共に頑張るのですぞー!」

「この華葉由の武、存分に使うがいい」

「張文遠、出来る限りやったるわ」

「老いぼれながら、この李稚然、励まさせてもらいましょう」

 思い思いに頷くみんなを見ながら、ふと視線を感じそちらへと視線を向ける。
 董卓と、賈駆がこちらを見ていた。
 さらには、いつの間にか他の面々もこちらへと視線を移しており、その場にいる全員に見られていることになっていた。
 
 それらの視線に若干押されてしまうが、ここで退くわけにはいかないのだ。
 月夜の城壁で董卓の理想を聞き。
 張遼や華雄、呂布らには厳しいながらも、互いに武を話し合い。
 賈駆や陳宮と俺の知識について語って。
 李確や徐栄、徐晃とともに石城の街を富ませて。
 石城の街では、色々な人と触れ合って。
 俺は、なによりもそれらを守りたいと思い始めていたのだ。

 だからこそ、自分の口からすらりと出た言葉にさして驚くことはなかった。



「……北郷一刀、及ばずながら、尽力させてもらいましょう」





  **





「でぇぇぇぇやぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」

 怒号と喧噪の最中、城壁の出っ張りを用いて上り切った黄巾賊を、一刀のもとに切り捨てる。
 頭部を失った身体を城壁から蹴り落とすと、さらに上ってきていた黄巾賊に当たって、被害を拡大しながら悲鳴と共に地へと落ちていった。

「もう一丁!」

 背後から斬りかかってきた黄巾賊を、下から上へと斬り上げる。
 己に血がかかるを厭わず、股間から頭部へと切り裂かれたそれには目もくれず、兵の一人に襲いかかっていた黄巾賊へと獲物、中国刀を突き出す。
 意識を兵に向けていた黄巾賊は、その喉を貫かれたと気づく前に絶命した。

「あ、ありがとうございます李粛様!」

「いいっていいって、困った時はお互い様。今度、僕が大変だった時に助けてくれれば」

「は、はいっ!」

 血に染まりながら、それよりなお濃い真紅によって色づいている髪。
 それに映えるかのように豊満で、それでいて成熟した身体に、その兵士は見とれていた。
 美女、というのは全体の容姿をさして言うものだが、戦場の緊張状態にあってそれは目にとって毒とも言えるものだった。
 時が時、その男がもし賊なら放ってはおかないであろうその身体の持ち主は、その容姿も整ってはいるのだが。

「あー、それにしても多すぎだよぅ。まあ、一杯戦えるからいいんだけど、にしし」

 こともあろうに、動きやすいという理由から胸と腰回りしかない服装の合間を縫って少女、李武禪は腹をぼりぼりと掻いたのである。
 その反動から胸がたゆやかに揺れるのだが、その行動と、色気を感じさせることのない満面の笑みに、兵士はふと現実に戻った。

 涼州安定。
 今現在、黄巾賊の大軍にて包囲、攻撃されている城壁の上に、自分がいるということに。

「それそれそれぇぇぇぇぇ! この李粛、黄巾賊相手には負けないんだからー!」

 そしてそんな悲鳴轟く中、安定において名家とされる李家において、知謀に優れる姉と双璧を成す妹、李武禪は、感情の高ぶりを抑えることなく破顔した。

「だから早く帰ってこないと無くなっちゃうよ、子夫!」

 そうして、彼女は己に安定の後を託した青年へと叫ぶ。
 愚図太守を洛陽に連れた後に必ず帰ってくる、そういって安定を離れていった青年へと。
 普通であれば、圧倒的不利で助かる見込みもないことは決定的なのだが、彼女はそれでも諦めることはしない。
 それは、青年の信頼を裏切ること。
 彼女自身として、そして名家である李家の代表として、それだけは許されるものでは無かった。
 
「それにー、どこか知らないけど、助けも来てくれたみたいだしね!」

 それゆえに、李粛は視界の先に移った旗印を、さしたる驚きもなく受け入れた。
 どことなく、予想していたのかも知れない。


 安定に近い石城において、数倍に至る黄巾賊を追い払い。
 治安も良く、笑顔に満ちているとされる石城を収め。


 そして。
 
 天下において見たこともない衣を纏い、その智は天上のものとも思える深さを有し。
 乱世を収めるために天より降り立った御遣い、民の間では天の御遣いと呼ばれているらしいが、その男がいる。


 涼州石城が太守、董仲頴。
 その御旗が、確認された。



[18488] 十話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/09/09 15:56


「さて……予定通りに陣を構えることは出来たわね」

 そう言って胸を張る賈駆に連れられ、視線を前方、安定の方へと向ける。
 高く聳え立つ城壁に群がる黄巾賊は、遠目から見ると大きな虫へと群がる蟻に見えた。
 それと違う点と言えば、その動きには統一性が無いことか。
 まるで生き物ように動き、蠢くそれを見て、不意に背筋が震えた。
 
 偵察からの報告によれば、安定を襲う黄巾賊には明確な指揮官がいないらしい。
 どうも、小規模な集団が合流して出来た群衆らしく、組織だった行動はしていないのだ。
 董卓軍が陣を構える前でもそうで、大多数は安定を囲み続けたが、一部は董卓軍へと標的を変え襲いかかってきたのである。
 もっとも、それらの殆どは天下無双の呂布を始めとした豪傑に討たれることになったのだが。

 そんな彼女達の働きにより、董卓軍は大して損害も無く本陣を構えることが出来た。
 その指揮を執ったのは賈駆であり、攻め込みにくく守りやすい、と手本のような陣が出来上がったのだが。
 そんな彼女達の傍らで、それを手伝った俺は疲労困憊だった。
 否、手伝わされたと言ったほうが正しいか。
 その指示を出したのは、もちろん賈駆である。

「大丈夫ですか、一刀さん?」

「はは、大丈夫……だと思いますよ仲頴殿? 二の腕が震えて物が持てなかったり、立ち上がる時に膝が笑ったりするのが大丈夫と言うのならば、ですが」

「……何よ、何か文句でもあんの?」

 心癒される董卓にほんわかしながら、ぎろりと賈駆に睨まれて慌てて首を振る、もちろん横に。
 そんな俺にふんと鼻を鳴らして再び前を見据える賈駆の横顔を眺めながら、生まれたての子鹿のように足を振るわせながら、なんとかこうにか立ち上がる。
 
「大体、あんた貧弱すぎんのよ。同じ仕事した兵がぴんぴんしてんのに、へばってるのあんただけよ」

「いやー、これでも少しは鍛えてたんですが……。大変面目ない次第で」

 確かに、見れば兵糧を確認する兵や、武具の予備を確認する兵などは共に木を運んだ仲なのだが、その歩きや佇まいには疲労の色は少ししかなく、それは賈駆の言葉を正当化するだけのものがあった。
 しかも、二人とも女性だったりするのだから、なお質が悪い。
 なんて言うか、泣きたくなってくる。

 女尊男卑ではないが、膂力にしろ権力にしろ、やはり女性が力を得る時代なのだと改めて実感する。
 男からすれば、ちっぽけな自尊心でも悲しいものではあるのだが。
 もしかしたら、遙か未来の先には女性主導による国際連合なんかがあったりするのかな、とふと思ったり。

 そんな暢気なことを考えていると、賈駆の視線の先、前衛から一騎の騎馬が駆けつけてくる。
 俺の提案で実現した、とは言っても部隊を色ごとに分けただけのものだが、袖口に縫われた紺の布から張遼の部隊からだというのが分かる。
  
「伝令! 張文遠様、呂奉先様、華葉由様、部隊の再編成終了とのこと! 加えて、徐玄菟様、徐公明様の両名とも出撃準備が整ったとのことです!」

「そう、ご苦労様」

 伝令に労いの言葉をかけ、賈駆は厳しい顔で董卓へと向く。
 董卓もまた真剣な表情で賈駆を見据え、ただ一つだけ頷く。



「……行こう、詠ちゃん。安定の人達を、救うために」



 安定救援戦の、開幕である。






  **






「およ、向こうさんも動き出したみたいだね」

 突き出された槍を蹴飛ばすことによって矛先を変えた後に、それをなした黄巾賊の目線を切り裂く。
 痛みと、己の視界を奪われたことによって暴れる黄巾賊の胸ぐらを掴んだかと思うと、李粛はそれを城壁の外へと放り投げた。
 数人か巻き込んだのか、幾重にも重なった悲鳴を聞きながら、援軍に駆けつけたのであろう董卓軍を見やる。

 先頭にそびえる張、呂、華の旗から見るに、董卓配下でも豪傑として名を馳せる張文遠、呂奉先、華葉由だろう。
 陣を構える先に黄巾賊を蹴散らしたその戦いぶりから、音に聞こえる噂に違いは無いらしい。

 その後ろに並ぶ異なる徐の旗は、おそらく古参の徐栄に、その娘となる徐晃のものだろう。
 戦巧者の徐栄に、これまた豪傑と知られる徐晃とあっては、董卓軍がいかにこの安定救援に力を入れているのかが手に取るように理解出来る。
 その心意気に感謝しつつ、それでもなお攻めを緩めようとしない黄巾賊に焦りを抱く。

 今回、安定防衛のための兵力は三百と、それこそ董卓軍にて確認されていた数と同じものだったのだが、その援護として数百人の街の人々が名乗りを上げていた。
 これは、古くから街の有力者として李家が名を知られており、今回の防衛戦において安定指揮官である牛輔に後を託され、その李家の代表として李粛が指揮を執るためでもあった。
 
 防衛戦に用いられる兵力とは、何も城壁の上にいるだけが全てではない。
 矢を揃え、油を煮炊き、食事を作り、武具を磨く。
 投石用の岩を砕く者もいれば、街で不安に怯える人達を宥める者もいるのだ。
 それらに従事する者達も兵力とするのであらば、この時の安定の兵力は実に千を超えていることになる。
 李粛は、それこそが安定が未だ陥落しない理由だと思っていた。

「それでも大変なのには変わりないんだけどねー」

 振り向きさまに黄巾賊の顎を断ち切ろうとするが、半ばで刃が止まってしまう。
 見れば、人の血と脂によって切れ味を落とした剣が、それでもなお斬ろうとして幾箇所か欠けていた。
 仕方なく、黄巾賊の男が持っていた剣を奪い取り、その胸を蹴飛ばす。
 
 手に持った剣だけで既に六本目で、それ以前のはどれもが切れ味を失い、刃こぼれによって切れ味を失ったために破棄したのだ。
 愛用、と言うほどでもないが日頃から使い慣れてきた剣などは、既に半ばから折れて使い物にはならなくなっている。
 名家にあって贅沢をせず、一般の兵と同じ剣を使っていたためか。
 唯一、李家に伝わる家宝の中国刀『虎狼剣』は、その切れ味を落とすことは無かったが、それでも幾人をも斬ったために、その刀身には陰りが見えていた。
 しかし、それでもなお攻めを緩める気配の無い黄巾賊に、心底うんざりしてしまう。

 戦うことは好きだけど、こう続くと面倒なんだよね。

「お姉ちゃんがいれば、もう少し楽だったかも……」

 智に優れ、李家の麒麟児として名を知られる姉ならば、この劣勢の中でも勝機を作り出せるかもしれない。
 そう愚痴りながら、剣を投擲する。
 一人の兵を斬ろうとしていた黄巾賊に向けられたそれは、見事に後頭部に刺さった後に口から剣を生やすこととなった。
 胸が揺れるのを気にすることなく駆け寄ると、それから剣を抜いて血を払う。

「あ、ありがとうございます李粛様!」

「ほらほら、もう少し頑張れば援軍が来るんだから。頑張れ頑張れ」

 ばしばしと背中を叩いて次に向かおうとすると、ふと城壁の上の黄巾賊が少ないことに気付く。
 ここ安定は古くからこの地にあり、その太守は概ね朝廷から派遣された者がしてきた。
 しかし、そういった者達の大体は朝廷から左遷された者ばかりであり、彼らは再び朝廷に返り咲くためにと金銭を民から搾り取って、賄賂をすることにしか興味は無かった。

 そして、もちろん城壁が老朽化しているからと補修をする筈もなく、安定の城壁はそれこそ指をかけられる隙間が出来るほどまで荒れていたのである。
 故に、防衛戦が開始した直後から黄巾賊は城壁を伝って上ってきていたのだが。
 李粛は不思議に思い、城壁の下を覗くと、そこには――


「どけどけぇぇぇぇぇ! この徐公明の大斧、貴様ら賊如きに止められるものではないわァァァ!」



 ――蒼銀の長い髪を振り乱させて、両手に構えた大斧を振りかざす鬼がいた。



「……いやいや、鬼じゃないって」

 一瞬、そのあまりにも的確な表現に意識を持って行かれそうになるが、寸でのところでなんとか留まる。
 木を切る斧よりも刃を巨大にさせて、かつその武器自体をも大きくさせた大斧を両手に構える。
 見た感じ、大の大人が両手でようやく振れそうなそれを、その徐公明と名乗った少女は片手ずつに持って事も無げに振り回しているのだ。
 安定において、指揮官である牛輔にこそ負けるが、一般の兵に負けたことのない李粛にとって、己の武は自慢出来る類のものであったのだが。
 さすがに、あれに敵うとは微塵にも思わなかった。

「いやはや……大陸は広いよ、子夫、お姉ちゃん」

 安定に生まれ、安定で育ち、安定で学んだ李粛にとって、武と智の頂きはそれまで牛輔と姉だった。
 兵となり、めきめきと頭角を現して将となった牛輔と。
 書物を読み、古き叡智と新しき知識を得ることによって朝廷の文官にまで上り詰めた姉と。
 その二人に学んだ李粛だったが、眼下で繰り広げられる徐公明の舞とも呼べる武は、全く知り得ないものであったのだ。

 だからこそ、惹かれた。
 董卓軍の布陣を見るに、恐らくはあの徐公明でさえ頂では無いのだろう。
 あの先陣を駆けた張、呂、華の旗を持つ者こそが。
 徐公明でさえ敵わぬと感じるのに、さらに上がいる。
そして、そんな人物を纏め使いこなす董仲頴という人物がいることに。
 その事実に背筋が震え、心臓の鼓動が跳ね上がる。
 

 故に。


「安定の指揮を執る者よ! 我が名は徐晃! 我が主、董仲頴様の命により馳せ参じた! 開門を願う!」


 徐公明からの呼びかけに、李粛は疑うことなく諾、と答えていた。





  **





「……琴音達は、無事に安定に入れたみたいね」

「琴音さんと玄菟は無事なのかな?」

「大丈夫でしょう、あの二人なら。玄菟殿も公明殿も、賊程度に遅れを取りはしないでしょうし」

 視界の向こう、安定の城門が開かれ、その合間を縫って徐栄と徐晃の部隊が入城するのを確認して、俺を含めた三人は大きく息を吐く。
 先に城門前の黄巾賊を払ってはいたのだが、それでも城門が開くとなると殺到するもので、周囲に展開していた黄巾賊は城門を目指した。
 その大半は呂布達の部隊に阻まれることになるのだが、ある程度はそれをすり抜けてしまった。
 そのまま城門から中へと入られる、そう思ったのも束の間、城門から飛び出してきた赤い髪の人物がそれを叩き伏せてしまったのだ。

 遠くからでよく見えなかったのだが、何か揺れていたと思うのだが、きっと気のせいだろう。
 うん、胸の辺りで揺れるのが見えただなんて、ありえないってそんなこと。

「第一段階は完了、ってところね。……よし、退き銅鑼を鳴らせ!」

「はっ!」

 じゃーん、と銅鑼特有の音を三回鳴らす。
 待機は一回、突撃は二回、撤退は三回と前日に教わったのだが、この音の大きさまでは学んでおらず。
 近い、それこそ目と鼻の先で鳴らされたそれを、耳を塞ぎながら睨む。

 とは言っても鳴らされたものは最早どうしようもないので、仕方なく撤退してくる張遼達の方へと視線を向ける。
 三部隊が一列に並んで撤退してくるのだが、その後ろには黄巾賊が迫ってきている。
 もっとも、少しだけ高位置にあるここからならよく見えるが、撤退してくる進路の先には既に賈駆の指示によって兵が伏せられており、その旨は張遼達には伝えてある。
 
 文字通り、本当に伏せているんだけれども。

 土の色に合わせた服を纏って、土色に塗られた鎧を着込んだ兵が、今か今かとその時を、文字通り伏せて待っているのだ。
 なんて単純な、とはそれを聞いた俺の言葉だが、それを聞いて賈駆は自信満々に言い切った。

 曰く、単純なほど効果は高い、と。

 それでもなお、俺はその効果を疑ってしまうのだが。
 
「あそこまで近づいて、気付かないなんて……」

「人間、目の前に意識を集中させれば、大きく動かない限り気になんてしないわよ。恐らく、大きめの岩でもあると思ってんじゃない?」

 今度は俺の目を疑うことになってしまった。

 予定地点として撤退経路の両脇に伏せていた伏兵部隊の間を、黄巾賊は特に意識することもなく移動していくのだ。
 確かに距離があるって言っても、それでも五十メートル程か。
 賈駆の言ったとおり、黄巾賊は目の前で逃げる董卓軍しか見えていないらしく、その先に罠や策が待っているなどとは、微塵も疑っていないみたいである。
 視線を移せば、人がいることぐらいは分かってもおかしくはなさそうな距離ではあるのだが、結局黄巾賊は気付くことなく、千五百にも及ぶほどの人員をそこに割くことになった。


 追撃してきた黄巾賊の後ろを伏兵によって襲い。
 撤退と見せかけていた張遼達の部隊が反転した後に反撃を行い。
 結果、大した損害もなく瞬く間に追撃してきた黄巾賊の大半を生け捕りにしてしまったのである。








「という訳で霞達には悪いけど、すぐに行動するわよ」

 とりあえず、捕らえた黄巾賊達をそのままにしておくには兵力がもったいなく、またそれだけの余裕もないため全員を逃がすこととなった。
 その際に、次刃向かえば命はない、と華雄が脅したために包囲している黄巾賊に合流することはなかったが。
 さらには嬉しい誤算として、数十人が董卓軍に協力してくれることとなった。
 そして、彼らに聞く話によると、黄巾賊の内部では慢性的な食料不足が目立っており、最早安定に至った時のことで士気を保つしかないと言うのだ。
 
 そこで賈駆は決意する。
 安定を救援するには、今しかないと。

「それはええけど、さっきので大分兵力は減ってもうたで? 死んだんは少ないけど」

「私たちが鍛えた兵が賊などに負ける筈がないだろう。皆一騎当千の強者ばかりだ」

「…………お腹空いた」

「予定とは大分、それこそ陣が殆ど無駄になった感じだけど、黄巾賊を打ち払うには今が好機なの。大変だとは思うけど、頼んだわよ」

 負傷した兵を本陣へと下がらせ、その減った分を本隊から捻出して前衛の兵力を整える。
 信用に足るかどうかは分からないため、元黄巾賊の面々も本陣ということになるが、思ったよりも負傷していたのか、その数は大きく減ってしまう。
 結局、本陣の中でも董卓と賈駆の周りには俺を含めて十人ほどだけを残し、負傷兵や元黄巾賊で本隊を形成しなければならない有様だった。

「しゃーないな、ほな華雄、恋行くで」

「ふん、お前に言われなくても分かっている」

「……ご飯」

 若干一名士気が上がりきらないのがいるが、それでも張遼と華雄についていく辺り、己のするべきことは理解している……のだと思う。
 隊の再編成を行っている陳宮に、期待しよう。


 そんなこんなで第二回戦、とも言える戦いに赴くために前衛に再び向かう張遼達を見送って、賈駆はてきぱきと指示を出し始める。
 負傷兵の治療だとか、元黄巾賊を偵察に出したりとか、戦闘可能な兵数の確認だとか。
 手伝えることがあればいいんだけど、やられても邪魔だから、と言われてしまえば何にも言えない訳で。
 結局のところ、董卓と賈駆の傍にいながら戦局を見ることしか、その時の俺には出来なかったのである。

 とは言っても、賈駆が慌ただしく指示を出し、周りの護衛を兼ねた人達も伝令に動く中、董卓はいいにしても俺まで動かないってのは、何となく居心地が悪い。
 
「少しその辺りを見てきます。……って誰も聞いてないな」

 ゆえに、暇つぶしというか、いたたまれない空気から逃げ出すというか、そういったこともあって声をかけるのだが。
 董卓と俺以外は皆慌ただしく、董卓もまた時々賈駆に問われるものだから誰も返事をしてくれるわけでもない。
 仕方なく、本陣の中でも軍幕をかけるそこから抜けだし、山の方へと言ってみるか、と一人呟く。
 木々が生えるでもなく、岩肌に覆われたそこに誰かが伏せていないとも限らないし、と先ほどの伏兵の如き兵がいるかもと、そちらの方へと足を運ぼうとし――



「きゃぁっ! あ、あなた達は一体ッ!?」

「くっ、ボク達から手を離しなさいよッ!」



 ――軍幕の向こうからの叫び声に、思わず来た道を逆走していた。



 軍幕をくぐり抜けた向こう。

 倒れ伏し、ぴくりとも動かない護衛達と。
 黄色の布を頭に巻く男達と。
 彼らに捕らわれた董卓と賈駆が、そこにいた。



[18488] 十一話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/06/12 11:53






 199X年、某日。
 
 何かが爆発する、電子レンジで間違えて卵を温めてしまった時よりも一際大きな音が、闇に沈んでいた俺の意識を表へと引きずり出す。
 それと共に周囲の音も耳から脳へと送り込まれるのだが、初め、俺はそれを理解出来なかった。

 否、信じたくなかったのかもしれない。

 人の怒号と、叫びが辺りを覆い尽くし、それにアクセントを加えるかのように辺りでは爆発音が混ざり合い、揺らめく炎が彩りを与えていた。
 油と、血と、ゴムの焦げる匂いが混ざり合い、お互いが強調して不協和音を奏でる。
 その中に隠れるかのように匂うそれは、台所でよく母親が匂わすものに似ていて。
 それが、人の焼ける匂いだということには、その時の幼い俺が気づくことは無かった。

 ガコンッ、と大きな音がしたそちらを見れば、炎の熱からか、それとも上に乗るそれの重みからか。
 一台の自動車が、その天上を崩壊させていた。

 そこまできて、ようやく自分がいるその現状、惨状に目がいく。
 
 自動車による事故。
 幾重にも自動車が連なり、それぞれがへこみ、欠け、原型と留めていないものもあるが、幼いながらにもそれは理解出来た。
 一生懸命何かを引きずりだそうとしている者。
 己の失った腕を探し求める者。
 もはや人かどうかも識別出来ないモノを抱きしめる者。
 その現状が、どういったことかも。

 そして、ふとどうして自分がここにいるのかを考える。
 自分の手足はある、探すためではない。
 周りにいる人達の顔は知らない、助けるためではない。
 
 惨状のその最中で、俺は首を傾げるのだが。
 その自動車、それこそ一つの紐のように連なっている自動車の列を、順番に見やっていく。
 黒、白、赤、青など様々な色があり。
 大きいの、小さいの、中ぐらいの、レースに出るような自動車があって。
 その先頭、自分がそれまで見ていた反対方向に視線を向けて、その動きを止めた。


「…………あ」


 ぱちぱち、と炎に包まれるソレ。


「…………あ、あァ」


 おじいちゃんを連れて旅行に行こう。
 そう言って、以前のものよりも大きいソレを買ったのはいつ頃だっただろう。
 思い切って買った、と言うと怒られていたのを覚えている。


「……あ、あぁアア」


 もはや原型を留めず、その前半分は大きなトラックによって下敷きにされており。
 かすかに見える人の手らしきものは、ピクリとも動く気配はない。
 その日の朝、俺の頭を撫でた大きな手も。
 はしゃぎ疲れて眠る俺の頭を撫でた優しい手も。


 
 決して、動くことはなく。



「……ア゛ア゛ァァァアあああアァアああぁあアアァぁあ゛あ゛あ゛!」



 県境高速道路多重玉突き事故。
 高速道路が出来てから後の世、史上最悪の事故と呼ばれたその事故で。


 俺は六歳にして、父親と母親を失った。






  **





 涼州安定を望む董卓軍本陣の中。

 軍幕をくぐり抜けた向こうで、董卓と賈駆が黄巾賊によって捕らえられているのを見つけた俺は、彼らの手に剣が握られているのを見つけ、その動きを止める。
 血錆によって鈍く煌めくそれは、俺が動けばすぐさま董卓達の柔肌へ食い込み、その喉を斬り裂くだろう。
 動きを止めてその隙を窺うのだが、ふと董卓と賈駆を捕らえる黄巾賊の顔に見覚えを感じ――
 ――不意に後ろから衝撃がかかり、強かに胸を打ち付けながら俺は倒れ込んだ。

「背後ががら空きなんだな! い、一度言ってみたかったんだな」

「ぐぁぁっ!」

 ミシリッ、と骨が軋む音が響き、背中から伝わるその重量に肺の空気が押し出される。
 ぼきりと聞こえなかっただけマシではあるのだが、こいつ一体どれだけ重いんだよ、とそんな状況ながらふと思ってしまう。
 かといって、このまま下敷きにされている訳にもいかまい。
 俺は、搾れるだけの力を総動員して身体を浮かせようとするのだが、そんな努力も空しくぴくりとも動かない。

「おいおい、そりゃ無理だぜ。デブの重さは、大人三人分を優に超えてるんだ。一人で持ち上がる訳がねえ」

「俺の場合は五人分になりやすけどね、アニキ。ん、んん? あっ、アニキこいつあの時の奴ですよッ!」

「この! う、動くななんだな!」 
 
 とりあえず、このままでは呼吸でさえ困難になってしまう。
 ひとまず胸の辺りだけでも隙間を作ろうと腕を動かすのだが。
 そんな俺の動きに、俺の上で座り込んでいるデブは持っていた剣の柄で殴りかかってきたのだ。
 後頭部を強かに打ち付けられ、緩んだ力は再び俺に重量の衝撃を与えたることとなった。

「ぐぅっ!」

「一刀さんッ!?」

「くっ、ちょっとあんた達、この手を離しなさいよ!」

 そんな俺を見て、黄巾賊の束縛から逃れようと暴れる董卓と賈駆だったが、元の世界ではどれだけ膂力に優れていても、この世界では非力な少女である。
 大の男に捕らえられては、それから抜け出すほどの力もないのだ。
 これが呂布や華雄や張遼ならば話は別なのだろうが。
 結局、黄巾賊から逃れることは出来ず、逆にその喉元に剣を突きつけられてしまう。

「確かに、あの時の小僧だな。ということは、こいつらはあの時の女ってことか? ハハッ、こいつぁ運がいい!」

「へい、アニキ! あの時は逃げられやしたが、今日は最高の日ですぜ!」

「さ、最高なんだなっ!」

 そして、そんな俺達を見て笑い声を上げる黄巾賊の男達が、俺がこの世界に来た直後に董卓と賈駆を襲っていた三人組ということに気づく。 
 董卓と賈駆も気づいたのか、驚愕の表情を浮かべながら、賈駆は悔しそうに吐く。

「くっ、あの時に手配しとけばこんなことには……っ!」

 しかし賈駆のことは俺にも言えない。
 あの時は彼女達を救うことと、自分が殺されるかもしれないということで気が動転していて、彼らが黄色の布を付けていたということにさえ気づかなかったのだ。
 その顔を思い出すのにも時間がかかった手前、さらには手配をするということにさえ気が回らなかったのだから、俺としても賈駆にしても、もはや後の祭りである。
 

「気味悪ぃ白い仮面を付けた奴の言うことなぞ信用出来んと思ってたが……中々どうして、あの女が持ってきたのはいい話だったわけだなオイ!」

「へぇ、董仲頴と賈文和を思う存分に痛めつけろ、邪魔する者は殺せってのは無茶かとは思いやしたが。護衛だけは叩きのめす、ってので疑わしいとは思ってやしたが、結果としては上々ですね」

「月とボクが狙い……? 一体誰が?」

「わ、私達が狙いなら、一刀さんは離して下さい! な、何でもしますからっ!」

 下卑た笑みを浮かべて笑う黄巾賊の男達の言葉に、賈駆はその狙いを考察し、董卓は俺の命は救えと言うが、その言葉に黄巾賊の男達はまたも笑い声を上げる。
 その笑い声は気に障る類のものであったが、それよりも俺はある一つの事実に意識を取られていた。


 白い仮面を付けた、おそらくは女性であろうその人のことを。


 董卓の下に呂布がいて、その彼女もまた黄巾賊と戦うなど、俺の知る歴史とはてんで違うものではある。
 おそらく、その女性の存在もまた俺の知る歴史とは全く違うものではあるのだろうが。
 白い仮面、という単語に意味も無く背筋が震えた。


「董卓様よぉ、何でもするってのは大変嬉しい言葉だがな……こいつを助けるってのは出来ん相談だなぁ」

「俺とデブを叩きのめしたこと、忘れたとは言わせんぜ。こいつだけは、殺させてもらうかんな」

 叩きのめしたという事実は忘れてはいないが、それが誰だったかは覚えていない。
 なんて言ったら即座に殺されるんだろうな、頭上で煌めく剣で首を斬られて。

そう言って俺を見るチビの視線には恨みが籠もっており、その言葉が本気だということをいやがおうにも感じさせる。
 
 とは言われても、あの時董卓と賈駆を助けなければ俺の今は無かった。
 恐らく、何処かの荒野で腹ぺこで息絶えるか、山賊盗賊に襲われて息絶えるか、という結末しか待っていなかったのなら、あそこで彼らを見逃すという選択はあり得なかったのだ。
 それを恨まれても困る、と声を大にして叫びたい。

「という訳だ。デブ、さっさとそいつを殺せ!」

「わ、分かったんだな!」

 チビに殺せと言われ、デブはその手に持った剣を高く振り上げる。
 何とか顔を動かせば、その切っ先は鈍く光るのが見え、それが偽物ではなく正真正銘の人を殺せるものだと認識してしまう。
 かと言って、その男の下から抜け出せる筈もなく、どんなに力を入れたとしても僅かに隙間が出来るぐらいである。
 っていうか、大人三人分って二百キロ近いってことか。
 ベンチプレス二百三十キロとか出来る人なら抜け出せるだろうが、俺にそんな筋力があるはずもない。
 そう考えてみれば凄えなベンチプレス上げる人達、と素直に感心してしまう。

 何て考えてみても冷静になれる筈も、事態が好転する筈もなく。
 
 デブが振り下ろした剣によって、俺の首は切り落とされ――



「ちょっと待て」



 ――ることはなかった。
 アニキと呼ばれた男の一声により、俺の首直前で剣は止められたのだ。
 そのことに心から安堵するのだが、続いて発せられた言葉に、安堵した心は冷え固まった。

「どうせなら、そいつの目の前でこいつらを犯しちまおうぜ。好きにしていいって言われたんだ、こいつらが喘ぐのを見せて、その後に殺せばいいだろう」

「なっ!」

「へぅっ!」

「さっすがアニキ! 絶望を与えてから殺すんすね! 俺達には思いも付かないことをしてのける、そこに痺れる憧れるゥゥゥゥ!」 
 
「ア、 アニキはやっぱり凄いんだな」

 鬼の首を取ったかのように騒ぐ黄巾賊達だったが、その腕の中で董卓と賈駆は震えているのが見えた。
 その瞳には涙を溜め、賈駆は男達を睨むように目をつり上げる。
 しかし、それは男達の加虐心をくすぐるだけにしかならず。



「おら、最初はテメェからだ!」



 賈駆を捕らえていたアニキは、その服を掴んだかと思うと一息に破り裂いた。






  **






 両親を亡くした俺は、父方の祖父に預けられた。
 母親は元華族の家の生まれらしく、そんな生まれの者が通う高校に通っている時に父親と出会い、愛を育んだらしい。
 どこぞの家とも知らない父親と結ばれたものだから、母方の親戚は俺の父親を憎んでいるらしく、その影響を受けないようにと父方の親戚は俺を引き取ることを拒否したのだ。
 故に、俺は祖父の住む寺兼道場兼住居へと移ることとなった。
 言い方を変えれば、祖父しか俺を引き取ろうとはしなかったのだ。

 とは言っても、引き取られてはい終わり、というわけにもいく筈もなく。
 俺は、魂が抜けたように生きていた。


「……一刀よ、儂に子育ては出来ん。あいつ、お前の父の時もばあさんに任せっきりだったからのう」


 何で俺だけ生き延びたのだろうと、当時の俺は常に考えていた。

 後に救助のために駆けつけた一人のレスキューに聞いたのだが、俺の両親は事故の時にはまだ息があったらしく、逃げようと思えば逃げることも可能だったらしい。
 助けを呼ぶ両親の声を聞いた、という人もいたらしい。
 事故の際、その列の先頭にあった自動車に乗っていた俺達は、居眠りによって突っ込んできたトラックによって多重衝突の事故へと巻き込まれた。
 そして、正面からぶつかり、後ろから追突された自動車は運悪くトラックの下へと潜り込んだという。
 
 両親の座る前半分が。

 少し意識を失っていた両親は、すぐに事故を起こしたことに気づく。
 すぐさまそこから逃げ出せば生き延びることも出来たのかもしれないが、不運なことが起きていた。

 後ろの座席で寝ていた俺が、彼らの足下へと飛んでいたのだ。

 今でこそ、その事故によって後部座席でのシートベルト着用を義務づけるようになったが、当時はシートベルトが付いている自動車すら珍しかった。
 結果、俺のように事故の時に飛んだ人は少なくなかったのだ。
 そして、両親はそんな俺を助けるのを第一としてくれた。
 トラックの重さに軋み、段々とその天上が下がり始めていた車内で、父親はその天上を支え、母親は俺を助けたというのだ。
 
 そして、トラックによって自動車が押しつぶされる瞬間、母親は俺を投げ飛ばした。

 トラック、とはいっても様々あるが、その時のそれは大型トラックとも言えるもので、総重量が十トンを超えるそれを支えることは、乗用車には不可能であったのだ。
 
 両親は、俺を守るために死んだと言えよう。
 言い換えれば、俺が両親を殺したのだ。


「だからと言って、お前を甘やかすことは出来ん。親が死んで可哀想などと、思ってはやらん」


 だというのに、自分の息子と嫁を殺した俺を、祖父は厳しくも確かに育てた。
 決していい親代わりでは無かった。
 優しさを学び、尊さを学び、厳しさを学んでいく年頃において、俺は剣を持たされ武を鍛えられた。
 無論刃は潰されていたのだが、後に真剣を渡すべきか悩んだという話を祖父から聞いて、本当に助かったと思ったのは高校に入ろうかという頃か。
 齢六つにして銃刀法所持違反という犯罪者にならなくて済んだと、ほっとしたのだ。


「よいか、一刀よ。北郷流タイ捨剣術は、おおきいと書く大を捨て、からだと書く体を捨てる。この意味が分かるか?」


 それでも六歳児、これから成長していくだろう子供にはそれはあまりに重く、俺はいつもそれに振られる毎日だった。
 それでも、幾万回数振ればそのための筋力もつき、それに用いた年月は俺の身体を大きくした。
 次第に剣を自由自在、とまではいかなくとも振れるようになる頃には、俺は武を鍛えることを楽しみとし始めていたのだ。
 

「大とは流れ、体とは形。つまりは、形式張った枠組みといったものを作らず、状況に応じて相対する。元来の意味とは違うが、その目指す処は同じよ」


 そして、両親を殺したことに悔やみながらも、俺は成長していった。
 幼いころから剣を振るってきたために、周囲の子供達とは一線を画していたが、それでも友達と呼べる存在も出来た。
 祖父を剣の道で超えたいという願いも出来た。
 

「守るための力。しかし、守るためとはいえ、それは人を傷つける力じゃ。そして、使う者を傷つける力でもある。表裏一体、力とは持つこと、振るうことに覚悟が無ければどうにも出来ん。じゃがな一刀、力が無ければ何も守ることは出来んのだ」


 高校に入学して、友達も出来て、守りたいと思える居場所が出来た。
 守りたいと思える、時があった。
 それを守るために過ちを犯してしまった。

 そのためにこの手を血に濡らしてしまったとしても、後悔はしていない。
 それでも、けじめをつけるために俺は剣を置いていた。

 

「お前の父は、お前の母を守りたいがために強くあろうとした。くっくっく、あの洟垂れが指導を頼み込んできた時には、一体何事かと思ったものだが……。あやつが守る力を得たために、お前は生まれた」


 幼いころには周囲の子供に不気味だと言われ。
 過ちを犯したこともあってか、何故祖父は俺を鍛えてくれたのか、なんて疑問に思うこともあったし、幼いころにはその感情をぶつけたこともあった。
 その度に怒られたり、一緒に泣いたり、怒られたり、笑ったり、怒られた……あれ、怒られてばっかり?
 

「よいか、一刀。力を得たから守るのではない。守りたい、という半端な軟弱な気持ちで力を得られる筈がない」


 でも、爺ちゃん。
 引き取られてから色々なことがあって、怒られて迷惑ばっかりかけてた弟子だったかもしれないけどさ。
 両親を亡くして、後悔して生きていくだけだったろう人生を救ってもらえて、俺は本当に感謝しているよ。


「よいか一刀よ、男なら――」





  **





「きゃ……きゃあぁぁぁぁぁ!」

「え、詠ちゃんッ!?」

 黒を基調とした服を、喉元から一気に破り裂かれて、その合間からシンプルながらも確かに主張する白の下着が覗く。
 裂かれた本人と言えば、腕でそれを隠そうとするのだが、その腕を捕まれているのであればそれも成らず、そこに男達の視線を受けることとなる。
 成せぬゆえに暴れる賈駆に、黄巾賊の男達は下卑た笑みを隠すことは無かった。

「ひ、久しぶりの女なんだなっ! おでも犯りたいんだな!」

「あぁ? オメェのだとガバガバになっちまうじゃねえか! 最後だ最後、今は大人しくそいつを抑えとけ!」

「うぅぅ……や、約束だかんなっ!」

「悪いな、デブ。さぁってと、それじゃ頂きますかね」

「さ、触るなこの! くっ!」

 自身の胸へと伸びていくその手を、身をよじるようにして逃れようとする賈駆だが、大人の男に少女が叶うはずもなく。
 それ以上動けない賈駆へと、手を触れようとする。
 その抵抗をも興奮へと変えているのか、欲情した獣の顔へと変わった男の下――


 ――こちらを見つめる賈駆、と視線が合った。


 恐怖で、不安で泣き叫びたいのに、彼女の誇りがそれをさせないのか。
 これから己を襲う絶望に震え、諦めの色が濃くなったそれが――



 ――闇夜の中、覆面の男に襲われる少女と同じ視線で――

 ――あいつと同じ学校の、あいつを見る少女達と同じ視線で――

 ――両親を殺し、全てがどうでもいいと思っていた頃の俺と同じもので――



  ――そんな視線に、俺は知らずのうちにその身に力を入れていた。


 それに気づいたのか、デブが俺を潰そうと躍起になる。
 だが、祖父に教え込まれたのは何も剣術だけではないのだ。

「お、お前諦めないんだな。でも、おでを退かすことなんか出来ない……ん……だ、な」

 丹田に力を込め、心身医学を元に己の芯へと活力を与える。
 
 それによって生じた力で、身体構造によって腕と脚を外から捻るように内側へと綴じ込む。

 それ以上開くことのない手足は俺の身体の下へと潜り、これを浮かせ。

 祖父に鍛えられた己の肉体によって、押さえつけてたデブごと持ち上げる。

「な、な、ナァァァァァ! この、大人しくしとくんだなッ!」


 九州肥後を生まれの地として、示現流や真貫流の元ともなったタイ捨流剣術。
 それに、温故知新を表したかの如く新時代の様々な技術を取り入れたのが、祖父が作り出した北郷流タイ捨剣術だった。
 それこそ柔術に体術などの古武道に始まり、物理学や人体力学、精神医学などの学問の分野も取り入れたのだ。
 剣を以て剣とせず、体を以て体とせず、智を以て智とせず、それ全てが教えであった。

  自らを持ち上げる者などいないと思っていたのか、唐突に持ち上げられたことに驚きながらも、デブは己の仕事をしようと更に体重を乗せようとして。


 俺は不意に右手側だけ、力を抜いた。


「なぁぁっ?! ゴフゥ!」

 そしてその教えの中には、抑えられた状態からの応対も含まれている。
 意識を用いて活力を得、活力によって剛となし、剛をもって術となす。
 押さえつけようとしたところに不意に抵抗が無くなったために、デブはその体勢を崩されて地面へと腰を打ち付けた。
 そして、それは俺を抑えるものは無くなったということであり。
 解放された俺は、デブが持っていた剣を奪い――



 
 覚悟を決めろ北郷一刀。

 傷つけ、傷つくことを恐れるな。

 過ちを犯した俺でも、再び守りたいと思うモノが出来たんだ。

 ならば力を振るうを戸惑うな、臆病な自分から抜け出せ。

 


 *



「よいか、一刀よ。男なら誰かのために強くなれ。女子であろうが、己の子供であろうが、大切な者達であろうが。己が決めたとあらば、どれだけ辛かろうが、どれだけ苦しもうが、歯を食いしばってでも守り抜け」 

  


 *




「えっ?! ちょ、待っ」

 ――俺は一息にその脂肪に埋もれた喉元を切り裂いた。











[18488] 十二話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/06/15 16:38


 
 涼州安定、その城壁の外。

 崩れかけた城壁は苔と堆く積もれた汚れによって緑と黒に彩られているのだが、そこへ新たに鮮血による朱が混じる。
 その朱の持ち主であった男はその下顎から上を失った身体を城壁へと叩き付けられながら、今また新たな朱をまき散らした。

「はぁぁぁぁぁぁッ!」

 そしてまた一人。
 その腸を斬り裂かれながら、その中身を城壁へとぶちまけていく。
 気づいていなかったのだろうか、己の腹を見たその男は、気を失うかのように倒れたかと思うと、二度と動く気配は無かった。

 それを成した人物、華雄は次の獲物を探して周囲を見極め。
 同僚の背中を襲おうとしていた黄巾賊の首を、大斧の一降りにして刎ねる。
 徐晃のように片手で振るうことを想定している手斧とは違い、華雄のそれは両手で振るうためにかなり大きなものとなっている。
 戦斧(せんぷ)やハルバードみたい、とは北郷一刀の談だが、言うなればそれだけ自身の武が異国の者が知っているほど有名なのだと華雄は捉えていた――春婆度というものはよく分からなかったが。

「貴様ら匪賊如きの武で、私が討ち取れると思うなよッ! 我が名は華葉由、董仲頴の臣下なり!」

 そんな華雄の裂帛の気迫に、彼女の周囲にいた黄巾賊はたじろいだ。
 その大斧で、幾人もの同志が城壁に朱を散らしていったのだ。
 その仇を取ろうと思いつつも、元は農民という出自からか、己の命を優先とするものは我先にと逃げ始める者が出始め、それでもと挑みかかってくる者は新たに城壁の色彩となった。

「……来るなら、容赦しない」

「オラァァァァ! うちの偃月刀の血錆になりたい奴は、名乗りでぇ! この張文遠、逃げも隠れもせんでぇ!」

 そして、そんな華雄の周りでも多くの黄巾賊がその命を散らしていた。
 天下無双の士、呂奉先。
 神速の将軍、張文遠。
 ある時は突き、ある時は薙ぎ、ある時は柄で数人まとめて吹き飛ばし。
 そんな彼女達の前に、命を賭けて挑む者は減っていった。

 元々、生きるにも食うにも困った人々が多い黄巾賊である。
 安定を襲撃したのもそのためであり、命を捨ててまでという志はないのである。
 これが、黄巾賊首領である張角の教えに感銘した者達ならば別ではあろうが、華雄達が蹴散らした黄巾賊の殆どはそういった者達であった。

 故に、安定を包囲する一角を撃滅した時、その他の黄巾賊が逃散を始めたのは当然だったのかもしれない。
 総数の上でいけば、未だ安定を包囲する黄巾賊の方が多いのだが、それを解放しに来た董卓軍の強さは、その優位を忘れさせるほどのものがあった。
 陣を構える前の前哨戦、そして城壁外での戦闘で黄巾賊の多くは討ち取られた。
 その事実が己の死という恐怖となって全体に廻るころには、安定を包囲していた黄巾賊はその殆どが逃げ出していたのだ。

「……なんや、張り合いの無い。まあええわ、思ったよりもはよー済んだしな。損害は軽微、戦果は上々。うちらの勝ち、ちゅうわけやな」

「上々? お腹一杯食べられる?」

「んあ? ああ、恋はそればっかやなぁ。まあ宴はするやろうし、いざなったら一刀にでもたかれば飯奢ってくれるやろ」

「……ん、たかる」

 城壁と地が血に濡れ、周囲に転がる骸が付ける黄巾を朱へと染める中で、呂布のお腹から可愛らしい音が鳴り響く。
 見る者が見れば異質なそれは、この戦乱の世では至極ありふれたものであり、他家であっても当然のものであった。
 この時、遙か幽州涿県では、義兄弟の契りを結んだ末妹がくしゃみをしたとかしないとか。
 
「……文遠、妙だとは思わんか?」

「なんや華雄、何か気になることでもあるんか?」

「勝敗がほぼ決し、追撃するか否かという時に、文和からの伝令が来ない。いつものあいつならば、有り得まい」

「……そいや確かにそうやな」

 華雄の言葉に、そう言われれば、と張遼は思い当たる。
 普段は偉そうに口を聞いても、それでもその智は華雄は当然として、張遼自身も到底及ぶものではない。
 唯一、呂布付きの軍師である陳宮ならば、その足下ぐらいには辿り着くであろうが、そんな彼女がここに至って指示を出さない筈がないのだ。
 董卓を信奉していても、己がするべき任を忘れるような人物ではない筈なのだ。
 ならば、何故ということになるのだが――


 そこまで思い至って、張遼は馬へと飛び乗る。

「ちょっと様子を見てくるわ! 華雄はうちの部隊も使って残敵を潰しといて!」

「……ああ、そっちは任せるぞ」

 恐らく華雄も同じ考えに至ったのか、同じように馬へと乗るその雰囲気はそれを物語っていた。
 

 ――本陣において、何か問題が起こったのではないか。

 元黄巾賊の反乱か、あるいはもっと別の、他のことか。
 何にせよ、伝令が送られてこない状態であるのは間違いないのだ。
 信用に足らない兵や、怪我人ばかりではそれに対処するのは難しいのかもしれない。
 ならばこそ、神速をもって駆けつけなければならないのだ。



 かくして、張遼は本陣へと馬を走らせた。

 丁度同じ頃、一人の男が覚悟を決めた頃に。






  **





 ゾリッ、とも、ゴリッとも取れる音とともに剣を振り抜いた後に、俺は倒れゆくデブの前から身体をずらす。
 数瞬後、忘れていたとでも言うかのようにその喉元から大量の血が噴き出される。
 噴水のように噴き出された血は、いくらかの後にその勢いを弱めた後でも止まることはなく。
 あの冬の日にも聞いた空気と血が混じった呼吸は、既に聞こえなくなっていた。


 呆然。


 董卓も、賈駆も。
 黄巾賊の男達でさえ何が起こったのか理解出来ていないのか、賈駆の服を破り割き、彼女にのし掛かろうとしていた男は、震える声で呟いた。

「…………デブ……?」

 しかし、その言葉に応えるべきである男は既に物言わぬ骸と化しており、その言葉が耳に届いた途端に俺は剣を握る拳を振るわせた。


 俺が殺した。
 俺が断った。
 俺が斬り割いた。

 
 その感触は未だ手に残っており、食肉でも、魚を切ったものでもなく、命を斬ったそれに、知らず俺は震えていた。

 だからと言って、それに震え続けている訳にもいくはずもない。
 男の拘束から抜け出せたとはいえ、未だ董卓と賈駆は捕らわれており、危険なことには変わりないのだ。
 加えて、彼らの仲間を殺したのだから、逆上されて董卓と賈駆が害される恐れもあった。
 そんな心配もあって、彼らの注意をこちらに向けるために剣を向けようとするのだが。

「……あ、ああああアアアアァァァァッ!」

 しかし、そんな心配も虚しく、董卓を押さえつけていた男がその剣を振りかぶりながら斬りかかってきたのだ。
 小柄な体型を活かして切り込んでくるその男は、縦に横にと剣を振るう。
 そのどれもに殺気が籠もっており、男が本気で俺を殺してきているのだと嫌でも理解出来た。
 
 殺されるかもしれない。

 その事実に、剣を避けながらでも背筋が震えてしまう。
 避けきれない剣戟は剣で叩き落とすも、器用に突きを混じえるために突破口が見つからないのだから、それも時間の問題かもしれないのだが、だからといって殺されたいわけでもない。
 ならばどうするか。

 殺すしか、それでしか俺も董卓達も救うことが出来ないならば、俺はそれをしなければならないのだろう。

 俺が一歩後退して距離を取るのを図ってか、男が突きを繰り出してくる。
 正確に俺の眉間を狙ったそれを最小限の身体の動きと頭を動かすことによってギリギリに避ける、少しばかり左目の下を斬られたが。
 そして、がら空きになった胴部へと潜り込みながら、俺は抜き胴の要領で剣を振り切った。


 皮を。
 肉を。
 そして臓物を。


 振り抜かれた剣は腹から背までを斬り割いており、その剣には血と脂と汚物がこびり付いていた。
 その濃厚な臭いに気が遠くまで飛ばしそうになるが、唇を噛みしめることで何とか耐える。

 そして、胴を切り裂かれた男は、自身の傷口から溢れ出る血と臓物を押さえようとして――
 ――そのまま息絶えて、地へと倒れ伏した。

 
「チ、チビッ!? この野郎、よくもデブとチビを殺り――ヒッ?!」


 自身の部下を二人とも殺され頭にきたのか、捉えていた賈駆を放り投げで斬りかかってきた男へと、俺は剣の切っ先を向けた。
 その喉へと刺さる直前男はなんとか踏みとどまるが、それ以上動こうとはしなかった。
 恐らくではあるが、その喉元に突きつけられた剣で殺されてしまうとでも思っているのだろう。
 
 しかし、そのまま一歩でも前に進めば男の喉へと突き刺さるであろう剣を、俺は下ろした。
 そして、董卓と賈駆に出会った時と同じ言葉を、口にする。





「まだ来るのであらば、それ相応の覚悟を持ってこい。手加減は、出来んぞ」




  
「ッ?! く、くそぉぉぉぉ!」

 その俺の言葉に、男は剣を投げ捨てたかと思うと、一目散に軍幕をくぐりその場から姿を消した。
 その足音が消え去り、気配さえもが感じ取れなくなるのを確認して、俺は剣から手を離した。
 自分の掌が強張っているのを無理矢理に開くと、カラン、という音とともに地へと落ちた剣はその切っ先に付いた血脂を地面へと染みこませる。
 
 一つ深呼吸をして董卓と賈駆の方を見やると、未だ呆然としながらも確かに生きている彼女達が、そこにはいた。
 守れた、守ることが出来たという想いが自分を覆うのを感じ、知らず緊張していたのだと理解する。
 俺は、聖フランチェスカの制服を脱ぐと、それを賈駆へと羽織らせた。

「申し訳ありませんでした、文和殿。仲頴殿も、危険に晒してしまい――」

「いえ、一刀さんがいなければ、今の私達はありませんでした。本当にありがとうございます」

 俺の謝罪の言葉を遮るようにして董卓が発した言葉に、幾分か救われた気がした。
 一つ深呼吸をして賈駆に視線を移せば、何処か申し訳なさそうにする彼女がそこにはいて、俺は我が目を疑った。
 かと思えば、その胸元に白く輝く下着が見えて慌ててあさっての方へと顔を向けたが。

「あ、あの……あんたのおかげで助かったから……。あ、ありがと」

 そんな俺の視線に気付いたのか、俺が羽織らせた聖フランチェスカの制服の前を隠すように合わせて、賈駆はぽつりと感謝の言葉を口にした。
 俺としては、どこ見てんのよ、と怒られるかもと思っていたのだが、いやはや助かった。
 深呼吸しながらそんなことを思っていると、勢いよく軍幕が開けられ俺は再び黄巾賊が来たのかと身構えながら賈駆を背中へと回す。
 董卓を手招きでこちらへと寄せて、不意の事態にも備えたのだが。

「月、詠、ついでに一刀、無事かッ?!」

「俺ついでッ!?」

 慌てて駆け込んできたのは張遼であった。
 その目は獲物を狙う肉食動物のように研ぎ澄まされており、放つ気はまさしくそれのものであった。
 その気に当てられてビクリと身を震わせてしまうが、こちらの無事を確認出来たからか張遼はそれを解いて普段の彼女へと変わっていた。
 一つ呼吸をして、何があったんや、と悩む張遼に事の顛末を教えた。

「つまり、黄巾賊のが護衛を倒して月と詠を襲った、ちゅうわけやな?」

「多分そうだと思います、文遠殿。あいつらは仲頴殿と文和殿が目的だったみたいで、一人は逃げました」

「ふーむ、黄巾賊のが奇襲はあっても本陣を狙うっちゅうのは聞いたことはないけどなぁ」

「……そうね、ボクの知る限りだと無いと思うわ。恐らくは、そう指示を出した人物がいるはずだけど……今からじゃ追いつくのは無理だろうし」

 こちらの情報を教えれば、向こうの情報を得るのは当然のこと。
 安定を包囲する黄巾賊と相手をしているはずの張遼が何故ここに、という疑問を解消すべくどうなっているのか、と問いかけたのだが。
 一方向の黄巾賊を撃退したら他のまで逃げ始めた、とは思わなかった。

「なら、とりあえずは安定に入りましょう。指揮をしていた人と話をしなくちゃ駄目でしょうし、琴音さん達とも合流しないといけないし」

「そう、ね。ここで考えても仕方がないわ。霞は華雄達を一旦読んできてちょうだい。一軍として入る以上、系統を纏めておかないと甘く見られちゃ困るからね。ええっと、あんたは――」

「すみませんが、少し外れます。安定に入る前には帰りますので」

 どうする、と賈駆が聞き終わる前に一言断りを入れ軍幕をくぐってその場を後にする。
 一つ呼吸を入れて周囲を見渡せば、少し歩いた所に森が見えたので、出来るだけ早足でそこへと向かう。
 向かう途中、元黄巾賊や怪我人の合間を縫っていくのだが、その周囲には血と脂の臭いが立ちこめていた。



 


 そして、森へと入った俺は、丁度いいところに小川を見つけ――



 ――そこが、我慢の限界だった。



「ぐぶぅっ! おえっ、おえぇぇ……げぇぇ、ガハッゴホッ」

 ビチャビチャ、と胃の中から食物やら水分やらよく分からないものを逆流させて、俺は派手にぶちまけた。
 内容物が全て出た後も胃酸らしきものが逆流して、喉が焼けるかのように熱い。
 鼻水と涙が嘔吐に連鎖するように零れ落ち、俺の顔をぐしゃぐしゃにしていった。

 どれだけ覚悟を決めても、俺の手で人を殺したことには変わりない。
 どれだけ立派な理由を持っても、俺が人を殺したことに変わりはないのだ。

 深呼吸すれば意外と吐き気も楽になる、とは何かで読んだ気がするのだが、それが事実だったかどうかは今いち立証出来なかった。
 とりあえず董卓や賈駆の前で吐くことは我慢出来たのだから、あまり求めてもいけないのだが。
 董卓とか絶対気にするしな、自分のせいで人を殺したからとか言って。

 
 収まったわけでもないが、胃の中も空っぽになって幾分か落ち着くことが出来た。
 そうすると周囲の音や気配も感じ取れるようになってくるのだが、ふと背中をさすられていることに気付く。
 優しく、それでいて気遣うかのようなそれは暖かく、安心出来るものではあるのだが。
 一体誰が、と疑問に思ってしまう。
 よもや、熊とかパンダとは言わないだろうな。
 川の妖精だとか言って、筋骨隆々のビキニ一丁の男だとかだったらどうしよう……何となく逃げなきゃいけない気がした。

「ちょっとあんた大丈夫!? 医者を呼んだ方がいい?!」

 まだ見ぬ、というよりは決して見たくはない人物像を頭から追い出していると、不意に耳元で覚えのある声を聞く。
 いつもの強気なものでも、先ほどの弱々しいものでもないその声は、純粋に俺を心配してくれているもので、しかし俺はその声の持ち主が何故そこにいるのかということしか聞け無かったのだ。





「文和殿、どうしてここへ?」






  **






「聞いてねぇ、聞いてねぇぞあんなのがいるなんてッ!?」

 涼州安定から少し外れた山奥。
 彼の地にて構築されていた董卓軍本陣から逃げ出したアニキと呼ばれていた男は、生い茂る木々を払いのけながら疾走していた。
 
 思えば、最初から何処か怪しかったのかもしれない。
 白く光る衣を纏った男に邪魔をされた後、特に行く宛もなく黄巾賊の集団に紛れていた時に誘われた一つの依頼。
 石城太守である董卓とその軍師である賈駆の暗殺。
 偶々黄巾賊に襲われる安定救援のために出撃し、偶々長期戦を辞さない構えから本陣を構築し、偶々本陣周辺にいるのが元黄巾賊や怪我人だからという理由で、行われたその依頼は結果から言えば失敗となった。
 直属の護衛は引き受ける、しかし董卓と賈駆、騒ぎを聞きつけた者の相手は任せると当初は言われたのだが、どうにもおかしいことだらけだったのだ。


 何故、護衛のみで董卓と賈駆に手を下すことは無かったのか。
 何故、あの男が本陣にいる時に引き受けなかったのか。
 そもそも、何故自分達だったのだろうか。


 他にも武に優れている同志がいる中で、何故自分達が声を掛けられたのか、理解出来ないのである。

 自分達があいつらを知っているから。
 否、それが何か意味をなすのか。

 自分達が適任だった。
 否、武智に優れる同志、それこそ将軍でもそれはなせる。

 自分達三人のうち誰かがいなければならなかった。
 否、自分もチビもデブも天涯孤独から黄巾賊に身をやつしたのである、そういった関係は全くと言っていいほど無いと言い切れる。

 ならば何故、ということになるのだが、自分が上げた考察の一つが正鵠の射ているとは、男はその命果てる時まで思うことは無かった。


 そして木々を抜けた先、少し開けた広場にて男は目当ての人物を見つける。


 その辺りだけ木々が生い茂っていないのか、夜が訪れる前の夕暮れに男は染められていた。
 先ほどのあいつとは違う病的なまでに白い衣を纏い、所々には紋様が見える。
 その立ち振る舞いには一分の隙もなく、ほんの少しの武を持つ自分にさえその実力は図れた。
 そして、顔の右半分を覆うその白い仮面は、それ単体で見れば無表情ながらも、夕暮れに染まる様は血に濡れているようであり、口元は微笑んでいるようにも見えた。

 ぞくり、と背筋が震えるが特に構うことはないと足を踏み出そうとして――

「おい、あんたッ! あんたが言ったから俺達は――って……え?」

 ――違和感を感じたかと思うと、自分の左胸に刃物が刺さっていた。
 その刃物から視線を移せば、それを手に持っているのは自分達に話を持ってきた女がいた。
 ひらひらとした腰布を巻き、その胸部は深蒼の鎧の上からでも分かるほど膨らんでおり、彼女がれっきとした女性であることを知らせていた。
 蒼銀の髪は後頭部で纏められており、その輝きをもってその肉体に映えていた。
 ただ、惜しむらくは目鼻整った端正な顔立ちの左半分を白い仮面で覆われていることか。
 そこまで考えて、自分の意識がだんだんと闇に呑まれていくのを認識して。

 意識を失う直前、自身の血に濡れた無表情な仮面が、嗤った気がした。









[18488] 十三話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/06/20 16:04



「……」

「……」

 賈駆を手近な岩へと座らせた俺は、その傍らに立ちながら必死に思考を回転させていた。
 自分の意志で人を殺し、その精神的苦痛から一人外れて吐いているところを背中をさすってもらった。
 そこまでであれば俺を心配してくれて、とも取れるのだが。
 どうしてここに、と問いかけてみれば無言の返答が返ってくるのみで、さらにはギロリと睨まれてしまえば口の挟みようもない。
 結果、小川のせせらぎと葉擦れの音だけがその場を満たしていた。

 どうしたものかと視線を賈駆に移せば、いまだ聖フランチェスカの制服を羽織っており、その前は手によって閉ざされている。
 そのことからその下は先ほどのまま、と気づくことは出来るのだが、同時になんて危険なとも思ってしまう。

 生死をかけた戦いは、人の生存本能を刺激すると聞いたことがある。
 命を失う可能性がある場合、己のDNAを後世に残すための行動、ということらしいのだが。
 俺が歩いた場所、言い換えれば賈駆が歩いた場所はそんな戦いを済ませた兵達の真っ直中であり、その論からすれば、彼女は生存本能に餓えた男達の間を抜けてきたことになる。
 加えて、董卓の評に隠れがちであるが、賈駆自信もその厳しい部分を省けば所謂美少女に分類されるのだ。
 民の間でもそれは噂されており、彼女に好意を抱く兵や民もいると聞く。
 もう少し自分のことを考えればいいのに、と知らず溜息をついてしまうのだが、どうやら別の意図として思われてしまったらしい。

「……何よ、人の顔を見て溜息なんて吐いて。さっきの質問といい、ボクがここにいちゃいけないわけ?」

「いや、そういうわけではないんですが……」

「じゃあ、どういうわけよ?」

 と言われましても。
 まさか、文和殿は可愛らしく兵からも人気がありますのでそのような劣情を抱かれても文句の言えない格好で歩かないで下さい、とは言える筈もない。
 その白く艶めかしい首筋とか、ちらりと覗く鎖骨とか少しは気にして下さい、などと言えるわけがないのだ。
 なんとなくだが、言った瞬間に首が飛びそうな気がした……今この瞬間にも飛びそうな感じではあるが。

 何故だか不機嫌な顔で問われれば、それに答えられる筈もなく口を閉ざし。
 そんな問答が、先ほどと同じ沈黙を作り出していた。


 しかし、そんな沈黙は意外にも賈駆によって破られる。


「その……本当に大丈夫なの?」

 途端に先ほどまでの雰囲気はなく、こちらを心配する視線と共に吐き出された言葉は、本当に俺を思ってのものだった。
 下から眼鏡越しの上目遣いとか、上から見えそうになるその胸元とか、その他諸々に意識がいくのを必至で引き留めている俺を、である。
 なんだか申し訳ない気持ちで一杯なのだが、そんな俺に気づくはずもなく、賈駆は続けた。

「引きつった顔で笑われても、説得力は無いわね。月も霞も、心配してたわよ」

「……心配かけて申し訳ありません。でも、本当に俺は大丈夫ですよ」
 
 引きつった顔、と言われても俺に自覚はないのだが、そう言われたのならと精一杯に笑えるように顔を動かすのだが。

「……はぁ」

 溜息つかれました。

 言っても分からないのかこの馬鹿は、みたいな顔されて、何故だか唐突に手を引かれた。
 視線でその理由を尋ねても、いいからそこに座れと視線で脅さ――促されてはそれに断る理由も無く、賈駆が座るその対面に座ることになった。
 先ほどまで俺が上から見下ろす形だったのが逆になったのであるが、俺を上から見下ろす賈駆の視線には何故だか威圧感が備わっていた。
 
「……引きつった顔で何言われても大丈夫には見えないって、何度言えば分かるの? それとも何、みんなが心配してくれるのは無用の長物とか言いたいわけ?」

「い、いや、決してそういうわけでは……」

 威圧感を備えながら上から怒られる、そのけがある人ならば大喜びの状況であろうが、あいにくと俺にはそのような属性は備わっていない。
 加えて口ではなんと言おうが俺自身、自分が大丈夫だとは思っていないのだから、心配してくれているという申し訳なさも含めて、反論の余地さえ無かった。
 
 怒られてはそういうわけでは、とはぐらかしていると、不意に賈駆からのお叱りという名の罵倒がぴたりと止んだ。
 これはもしかしてアレか噴火前の火山の沈黙みたいなものか、とその噴火に備えて心中を正し身構えるのだが、予想に反してぽつりと零された言葉には、涙声が混じっていた。
 ……って、涙声ッ?!

「……何よ、ボク達の心配なんか、やっぱりいらないんじゃない。何を言っても大丈夫って……助けてくれた人を心配するのがそんなにお節介なわけ? これじゃあ、感謝したくっても出来ないじゃない……」

「えぇっ?! ちょ、そんなつもりじゃないんですってば! ぶ、文和殿、泣かないでくださいよ……」

 あれだな、女の涙は武器、とか言われているけど、された方からすれば破壊兵器だな。
 
 俯き、溢れる涙と嗚咽を堪えるように肩を振るわす賈駆の前で、俺はわたわたと慌てるしかなかった。
 常に自身と勝気に溢れ、董卓軍の頭脳とも言える賈駆が泣いているということもあるし、彼女自身も先ほどまで襲われそうになっていたのだ。
 男に押さえつけられ乱暴される寸前だったとはいえ、衣服を剥ぎ取られた賈駆の不安は如何ほどのものだったのか。
 女性にしか分からないその恐怖と不安を抱えながら、それでも俺を心配してくれた彼女は一人でここまで来てくれた。
 そのことに有り難さと申し訳なさを感じながら、俺は自身を恥じた。
 

 だからこそ、そんな賈駆に少しでも報いるために、俺は決意したのかもしれない。


「……文和殿、俺はね――」 


 この世界に来て、忘れることが出来るかもしれないと思った。
 この世界で、その罪を抱いたまま死んでいくのもいいのかもしれないと思った。
 だけど今、目の前の少女が俺を心配してくれるのであらば、今の俺自身を構成するその罪をも話さなければいけないのだろう。
 それを聞いた彼女はどう思うだろう。

 軽蔑する?
 気持ち悪がる?
 恐れる?
 
 そういった感情を向けられれば、俺はまた傷つくのだろう、それを表に出すことはなく、決して癒えることのない傷を抱えるのだろう。
 だけど今、目の前で俺を心配してくれる少女ならば、俺は信頼出来るのかもしれない。



 だからこそ、俺はあの冬の日のことを話すことにした。





「……文和殿、俺はね――人を殺したことがあるんです」







  **







 事故で両親を亡くした俺だったが、祖父の稽古という名の血反吐を吐くような修行と、親しくしていた近所の人達の助けもあり、無事に高校へ入学しようかという歳まで成長した。
 そして、入学する高校を厳選しようかという頃に、俺は当時の担任からある情報を聞くことになったのだ。
 亡き母親が通っていた女子校の聖フランチェスカ学園が、翌年度から共学になると言うのだ。
 元々想定していたお嬢様などの生徒数減少による門戸開放、ということらしいのだが、俺はそれを聞いてすぐさまに第一志望をそこへと決めた。
 幼い頃に亡くなった両親は写真こそ大量に残してあったものの、俺自身そこまで彼ら達のことを覚えているわけではなかった。
 極限状態下での一種の記憶喪失、と医者に言われた俺は、両親との思い出が欠如していたのだ。
 
 そんなこともあって、祖父は俺が母親の母校である聖フランチェスカ学園に入学することを渋々了承してくれた。
 渋々、というのはそこに至るまでが山有り谷有りの決して平坦な道ではなかった、ということなのだが……内容は察してくれたまえ。
 儂の屍を超えて行け、と言われた時には本当にどうしてやろうかと思うものである、とだけ知らせておこう。


 ……何、父親の母校?
 市町村の合併の余波で、影も形も跡地も無かったよ。


 そんなこんなで聖フランチェスカ学園に入学した俺は、剣道部に入部した。
 男子の第一期生ということで同級生には数えるほどしか男子がおらず、そのうちの一人である及川などはハーレムだ、と喜んでいたのだが……まぁ現実はそれほど甘くはなかった、とだけあいつの名誉のためにしておこう。
 とまあ、同級生の男子と仲良くなったり、そのうちの一人が何故か主人公属性でフラグを立てまくって、それを及川が悔しんだり。
 剣道部の主将である不動先輩を超えたい壁としながらも、そんな彼女も友人によってフラグを立てられたり。
 

 そんな毎日を過ごしながら迎えた高校初めての冬。
 数日後に控えた近隣の剣道強豪校との練習試合を控えたある日の夜、部活動の帰りで遅くなった俺は、その暗闇の中で声を聞いた。

 少し高めの、近づけば女性のもとだと分かるそれはどこか助けを求めているようであり、さらに近づけば別にくぐもった声も聞こえた。
 近くにあった公園、その茂みの中から聞こえたその二つの声に、俺は部活動で使っていた竹刀を取り出して近づいていった。
 暗闇で若干目が慣れていなかったが、茂みを抜けた先には、フルフェイスのヘルメットを被った黒ずくめの人物と、その衣服を破り取られてそのヘルメットの人物にのし掛かられている女性の姿があった。
 
「あ……た、助けてくださッ!?」

「おい、あんた! 何をしているんだッ?!」

 ヘルメットの人物越しに俺を確認したその女性は、すぐさま助けを呼ぼうと声を上げるのだが、それをその人物が見過ごすはずもなくに口を塞ぐ。
 だが、助けを呼ぼうとした事実のみでいえば、目の前の二人は恋人などと甘いものではなく、襲い襲われる二人なのだと理解する。
 そう理解した俺は、すぐさまに竹刀を構えてヘルメットの人物へと詰問した。

 ビクリ、と肩を振るわせたヘルメットの人物は背後の俺を確認すると、周囲をきょろきょろとしたかと思うと、一度だけこちらへと視線を向け、そのまま逃げ出したのだ。
 襲いかかってくると思っていた俺は意表を突かれそいつを追いかけることは出来なかったが、女性、着ていた制服から今度練習試合に来る学校の女生徒ということが分かり、警察に事情を説明してその日は終わった。



 数日後、俺を含めた一年生の実力試しも兼ねた練習試合を行うために、前日に助けた少女も通う高校の一団が聖フランチェスカ学園の門を潜る。
 一年生唯一、というよりは剣道部唯一の男子生徒として出迎えにかり出された俺は、一人の男子生徒と視線を合わせた。
 茶色に染められた髪は適度に揃えられており、きつめ、というよりかはどこか肉食系とでも呼べそうな雰囲気を持つ少年は、何故だか俺を睨み付けていた。
 他校の生徒に目を付けられる覚えのない俺は、その時には既にそれを忘れて練習試合へと思いを移していたのだが。
 その男の視線が、頭から離れなかった。


「胴ォォォォォ!」

「一本!」

 不動先輩の抜き胴が相手の胴を叩いて音を立てる。
 ……通常ならばパシーンとかバシッとか聞こえるはずなのに、ドゴンッとか聞こえるのは何故なんだろう。
 何か崩れ落ちるように床へとへたる相手が、気を失っているのではないかと思えてしまう。

「大丈夫だ、峰打ちでござる」

 とは当の本人である不動先輩の談ではあるのだが……先輩、一つだけ言いたい。
 竹刀に峰はありません。
 そもそも、剣道であろうと峰打ちであろうと、あんな音が出るはずはないんですけど。
 
「ふっ、私が強かった。ただそれだけでござる」

 いや、それで済ませるにはあまりにも相手が不憫なんですが、と続ける暇もなく、不動先輩は後ろに控える女生徒軍団の中へと埋もれていった。
 この女子校時代はお嬢様が集う聖フランチェスカ学園の中で、不動先輩はお嬢様の中のお嬢様でありながら、他の女生徒からはお姉様と呼ばれたりもしているらしい。
 あれだけ綺麗で強くて、お家柄も優秀とあればそれも分かるものである――語尾のござるは意味不明だが。
 
 ともあれ、順調に勝ち星を重ねていく部活仲間を前に、俺も興奮していることが分かる。
 なんでも、俺の相手は相手校で一番強い男子であり、それがあの時視線を合わせたやつだということらしい。
 そんなやつを対面に礼をして身構えれば、確かに、その動作に隙は無く、強いということがよく分かる。
 もっとも、不動先輩には及ばないが。
 しかし、そんな中でふと気づいたことがある。
 目の前の男を見る、相手校の女生徒の視線が異常なことに。
 憎悪、嫌悪、恍惚、様々な色が含まれているのだ。

「始めっ!」
 
 その正体が何なのか、と考える暇もなく審判のかけ声をかけられる。
 それと共に脚を動かして距離を乱す俺に特に気にすることもなく、その男はどっしりと構えていた。
 さながら山のようではあるのだが、その面の奥から感じる視線は威圧したものであり、大型の肉食獣を前にしているようでもある。
 動き回ることの無意味と体力の消耗を考えた俺はそれを止め、相手と同じようにどっしりと構える。
 中段、至って普通の構えからなるそれは攻撃防御ともに展開が早く次へと繋げやすい。
 祖父の北郷流タイ捨剣術ではあまり用いられないが、剣道とならば別である。
 それを表すかの如く面を打ち込もうとした矢先、一瞬早く相手が動く。

「くぅっ!」

 喉元を狙って突きを繰り出してくるのを、竹刀を滑らすことでなんとか防ぎそのまま鍔迫り合いへと持ち込む。
 とはいっても、体格で言えば相手の方が上であり、このままでは不利となってしまう。
 北郷流を用いれば抜け出し、なおかつその頭部に一刀を叩き入れることは可能であるが、それは祖父から止められている。
 曰く、守るものがないのに力を用いる無かれ。
 仕方なく、剣道という競技の中で勝つことを模索するのだが、不意に声がかけられる。

「……やっぱり、テメエはあん時の奴か」

「……あの時? 一体何を……?」

「ああ、俺はヘルメットしてたから分からねえか。あの夜にテメエに邪魔された暴漢魔とでも言えば分かるか?」

 面の奥からにやりと歪められた顔から発せられた言葉に、俺は知らずのうちに距離を取っていた。
 ヘルメット、夜、俺が邪魔した、暴漢魔。
 それらの単語が俺の頭へ染みこんでいくと、一つの過去を思い出した。
 あの日のヘルメットの人物が、目の前のこいつなのか。
 そう思った矢先、再び突きを繰り出してくるのを何とか防ぐ。

「くく、こいつは運がいい。俺に楯突いた女を犯す邪魔したやつがこの学校にいるとはな。おいテメエ、この勝負、俺が勝ったらあの不動とかいう女を人気のない所へ呼び出せ。ああいう気の強え女には跪かせるに限る」

「なっ! あんた、巫山戯てんのかッ!?」

「巫山戯てなんかいないさ。ああ、あいつが無理なら別の女でもいいぜ? 元お嬢様学校なだけあって、随分とレベルが高えしな。お嬢様がどんな声で鳴くのか、興味がある」

 俺を無理矢理にはじき飛ばした男は、俺の体勢が整わないうちに竹刀を振り下ろす。
 このまま反応出来ずに一本を取られれば、言葉少なではあるが、こいつなら言ったことをするだろう。
 その視線、その口調、その雰囲気はそれを黙に表していた。

 だから、俺は即座に男との距離を詰める。
 その空いている胴へと打ち込もうとするが、即座に判断して防御へと回された竹刀によって、三度鍔迫り合いとなる。

「へえ、意外とやるじゃねえか。やっぱり自分のペットは守ろうとするんだな」

「お前と一緒にするんじゃねえ。俺は誰ともそんなんじゃねえんだよ」

「なるほど。だが、テメエがそうでも、誰かしらそういう奴がいてもおかしくはねえな。AVでもよくあるだろ、愛玩動物にされたお嬢様ってなぁ」

「ッ! みんながそんなことをする筈がないだろう、巫山戯るな!」

「いい子ちゃんぶってんじゃねえよっ! 所詮女、つっこんじまえばヒィヒィ言う雌豚に過ぎねえんだ。お嬢様という皮を被ったな!」



 ――その一言に、俺の思考は先ほどまで逆上していたにも関わらず冷静になる。

 ――つまりそれは俺の母親もそうだったと言いたいのか、と。

 ――文字通り命をかけて救ってくれた母親を、お前は雌豚と言うのか。

 ――俺という人を理解して、迎えてくれた不動先輩や同級生のみんなを、雌豚と言うのか。

 ――そんな居心地のいい場所を、お前の欲望のみで怖そうとするのか。



 ならば、負けるわけにはいかないんだよ。



 爺ちゃん、言いつけ守るけどゴメン。
 心の中で一言祖父へと謝罪した後に、俺は男を押しのける。

「はっ! ようやくやる気になっ――ブフゥッ!」

 かと思うと、すぐさまにその頭上へと竹刀を振り落とす。

 通常、身体を正面へと向けて手で竹刀を動かす剣道では、その振りの早さは身体の使い方や腕の筋力に因るところが大きい。
 それは剣術にも言えることであるが、ならば、と祖父は身体を引くことを考えついた。
 即ち、振り落とすと同時に身体を左に引くのである。
 右利きなれば左手が下、右手が上になるその構造を利用することによって、身体を左に引けば必然的に左手も引かれることになり、身体全体を使った振りは従来よりも速度が増すのである。
 もちろん練習は不可欠であるが、北郷流タイ捨剣術じゃ、とか言われながら祖父に叩き込まれてきた俺にとっては、造作もないことである。
 不動先輩と同じような音がなった面はその勢いにて若干ずれ、勢いよく振り落とした竹刀は勢い余って床へと叩き付けてしまう。

 そのためか、バキリ、と竹刀が割れてしまったのだが、俺は気にするわけでもなく次の動作へと移る。
 否、都合がいいと思っていた自分がいた。

 横に割れた竹刀は多くのささくれを造りながら、一つの刃物でもあった。
 その柔軟性を見いだして竹刀に用いられる竹ではあるが、折れた時の断面は人を刺すには十分なものである。
 古来から竹で造られた罠だったり、竹槍などその実績は十分なのだ。
 

 面がずれて防具に隙間が出来た男の喉元。

 叩き付けて折れた、十分な殺傷能力を持つであろう竹刀。

 そして、油断したところを叩かれて呆けてしまっている男。


 それらの好条件が重なってしまった時、俺は思ってはいけないことを思ってしまったのだ――



 ――俺の今を壊すのであらば先に壊してしまえ、と。




「なっ! テメエ、それは……ッ!」




 だから、男の喉元へとその竹刀を突き出すことに、その時の俺はなんの抵抗も感じなかったのである。
 





[18488] 十四話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/06/27 15:35



 喉という急所を貫かれた男は、雪が降る日だったことも相まって救急車が遅れ、そのまま死亡した。
 当然、俺は罪を問われるものと思っていたのだが、男が剣道部のみならず多くの女生徒を陵辱していたこと、特待生である男を守るために学校側がそれをひた隠しにしていたこと、部活動中だったことと聖フランチェスカ学園という名から、俺はお咎め無しということになった。
 結果的に、俺は守りたかったものを守ったのだ。

 しかし、それは音を立てて崩壊した。
 事故として処理されたとは言え、俺が人を殺したという事実に変わりはなく、そんな俺から多くの生徒や教師達は次第に近づかなくなっていった。
 及川や一部の男子生徒、不動先輩なんかは以前と変わりなく接してくれたのだが、守りたかった居場所は俺がいることで壊れ始め、俺がいることで剣道部は機能しなくなり始めていた。
 ならば、と俺は剣道部から去った。

 人を殺すという重罪を犯してまで守ろうとしたものを、俺自身がこの手で壊してしまったのだ。
 それまで育んできたものも、それから育むものも。
 両親の過去と未来を奪ってまで生き永らえたのに、俺はまたしても過ちを犯してしまった。


 だからこそ俺は剣を置いた――守れぬ力は過ぎたものだから。

 だからこそ俺は力を捨てた――力があればまた傷つくだけだから。

 だからこそ俺は――こんなにも恐れているのだ、この世界で得た居場所を失うことを。


 警邏に廻ると飯を奢らされた。
 書類仕事をしていると仕合に駆り出された。
 飯を食べると酒を呑まされた。
 何もしていないのに跳び蹴りを喰らった。
 
 大変な日々だったけど、そこには確かに笑顔があって、俺がいた。
 両親を亡くして失い、人を殺めて失った日々が、確かにそこにはあったのだ。
 だからこそ、その日々を守りたくて、俺は三度この手を血に染めた。


「だからと言って、後悔してるわけじゃないんです。確かに、あの場所は俺が壊してしまいましたけど、守りたかった人達は守ることが出来たんです。だから、そんなに心配して頂かなくても結構ですよ」


 あの日々を失うことになっても、俺は満足です。
 文和殿と、仲頴殿を守ることが出来たんですから。


 守りたかったモノは、大切な居場所か、大切な人達か。
 自分が笑える居場所があった、自分が自分でいられる日々があった、それは確かにとても尊いものだと思う。
 だけど、戦乱渦巻くこの世界で、それに負けず笑う人達に出会って――俺はその笑顔を守りたいと思ったんだ。
 きっとそれは、他の誰でもない董卓だからこそ生み出せるもの。
 彼女だからこそ、みんな自然に笑いあえるのだと思う。

 だから、そんな董卓と彼女を補佐する賈駆を助けたことに、何の悔いもないのだ。
 自分がいてもいいのだと思える居場所を失ったとしても、きっと後悔はしない。


 例えそれが、無理矢理に固めた決心だとしても。


 だがしかし、目の前の彼女はそれを許してはくれないらしい。




「あんた……馬鹿でしょ?」

 さて、とその場を立とうとした俺へ、その頭上から、というよりは目の前からの何故だか呆れたかのような声がかかる。
 否、正確に表現するのであれば、あんた、の部分は呆れて、馬鹿でしょ、の部分は若干怒りが込められている感じである。
 気のせいであって欲しいけど、きっと気のせいではないんだろうな、と視線を前へ移せば、眦をつり上げた賈駆の表情に、気のせいではないのだと理解してしまう。
 
 また泣かせてしまうだろうか、などと考えてみるのだが、賈駆の雰囲気はそんな感じではなさそうである。
 言うなれば静かな怒りとでも言おうか、噴火前の火山、という表現が厭に似合う。
 ふと、そういやポンペイってこの時代には火山灰で既に埋まってるんだよな、とか思ってしまう。
 現実逃避? その通りだ。

「あんたが過去に人を殺してしまって、それで周囲が変わって、あんたの立ち位置までもが変わってしまったっていうのは分かるわ」

 賈駆の言葉に一つ頷く。
 自分の罪を人に言われ心中動揺してしまうが、それを顔へと出さないように努めて平静を装う。
 とは言っても、賈駆ほどになればそれでもばれてしまいそうではあるが、気づいてか気づかずか、彼女はそのまま続けた。

「そして、今またボク達を守るため、黄巾賊とはいえ人を殺めてしまい、同じように居場所がなくなると思っている。……大体そんなとこね」

 その言葉にさらに頷く俺に、賈駆はついっと俺から視線を外すと、意味有り気に溜息を吐く。
 あれかな、さっき吐いたのが顔で凄いことになっちゃってたりするのかな……顔洗いたくなってきたな。
 そう思って、もぞりと動いてみれば、何故だか強烈に睨み付けられて。
 一体俺はいつまでこうしていればいいのだろう、なんてことを考えていると、賈駆から再びぽつりと、それでいて先ほどよりも大きく感情を込められているであろう言葉を投げつけられる。

「あんた……馬鹿でしょ?」

「二度も馬鹿って言われた!?」

 親父にも言われたことない――と思う、覚えがないだけかもしれないけど。
 そんな俺を見ながら、やれやれといった風に頭を振った賈駆にギロリと睨み付けられて、内心気圧されてしまう。

「そもそもが、どうして過去と今を同じこととして扱っているのかが、理解に苦しむわ。あんたのいた場所ってのがこことは違うとはいえ、人を殺めることが罪っていうことは分かる。この大陸でもそう、平時で人を殺めるのは罪に当たるわ。――だけど、それが何? それと居場所をなくすことが、どんな関係が在るって言うの?」

「えっ、いやでも……、罪人が近くにいるのは気分がいいものでは――」

「そうね、いいものではないと思う。でもそれは、あんたの周囲であって、あんた本人が決めるものではないのよ。過去に、あんたから周囲が遠ざかっていったのはそいつらがそう思ったから。――だからと言って、過去と今は違うのよ。一緒にしないでもらいたいわ」

 こんなことも分からないの、と言われては口を慎むしかないのだが、賈駆の言いたいことは何となく理解出来る。
 結局は怒っているのだ、俺が過去のみんなと賈駆達を同じだと決めつけているから。
 過去がこうだったから今でもきっとそうなる、そうなる前に、傷付く前に。
 そうやって逃げている俺にも、彼女は怒っているのだ。


「それに、そんな顔で悔いは無いって言われても信じられる訳ないでしょう――今にも泣きそうな、そんな顔で」

 そんな訳はない、違う。
 そう口にするのは簡単なことなのに、何故だかこの時ばかりはそれが出来なくて。
 ぽろり、と。
 溢れ出たものは言葉を紡ぐことはなく、一筋の軌跡を俺の頬に残した。


 いつからだろう、人との関わりあいを諦めるようになったのは。
 いつからだろう、再び居場所を失うのを恐れて人と関わるのを求めなくなったのは。
 いつからだろう、俺が悪いのだから仕方がないと自分を騙してきたのは。

 いつからだろう――きっと、両親を死なせてしまった、あの幼き日から――




 ――俺は、自分自身が許せなかったんだ。




 両親の命の上に座り込み、人の命を犠牲にしてまで守ろうとしていながら、全てを諦めていた自分を。
 居場所を求めているのに、結局はすぐ失うとそこにいる人達を信じようとはしなかった自分を。
 心配してくれる人達に、俺のことなんか分かるはずもないと決めつけていた自分を。

「間違ってもいい、失敗してもいい。悩み藻掻いて、理想に近づいていけばそれでいい。そう言ったのは、他でもないあんたじゃない。だから――」

 ぽつりぽつり、と。
 自分の中で答えを結んでいく度に増えていく、頬を伝う雫。
 止めることも、堪えることも出来ないその涙は、たちまち地面へと吸い込まれていき、小さくない湿った点を作っていく。
 溢れ出る感情のままの涙を流すというのは、いつぶりだろうか。
 だからこそだろう、いつの間にか賈駆に抱きしめられていたのに気付かなかったのは。
 ふわりと香る女性特有の匂いが、古い記憶にある母親のものと似ていて――


 ――俺は、両親が死んでから初めて声を上げて泣いたのだ。



「――今は泣いてもいい。自分を許して、また笑える時が来れば、それでいいわよ」









 と、一通り泣いて感情を流し終えた俺は、ふと冷静になった。
 今現在賈駆は俺を腕の中に抱いたままであり、どうして、とその理由は不明ながらもとってもいい匂いの中に俺は包まれている。
 女性特有の甘い匂いとか、少しだけ混ざる汗の匂いとか、ちょっと心拍数を上げるものではあったのだが。
 途端、先ほどまでの彼女の状況が脳裏をかすめた。

 えーと、黄巾賊に服をはぎ取られて、その上から俺の制服を掛けてあげたんだよな。
 俺と話しをしているときは前を手で押さえていたのだけど、その手は今や俺を覆うように抱きしめられている。
 ああだからか、と達観、言い換えれば諦めてしまった。
 

 目の前に、きめ細かく煌めく肌が描く緩やかな曲線と、それを覆う白い下着が見えるのは。


 ふむ、これはあれですな、いわゆる女性のバストですかな。
 はっはっはー……賈駆の性格を考えれば、ぶん殴られるパターンですよねー。

 俺が泣きやんで自分の現状に気づいたのか、わなわなと俺を覆う腕が震えだし、視界に入る肌が段々と赤みを帯びていく。
 いる場所が違えば色気があるであろうその変化も、陥っている危機では些かも嬉しくない。
 
 我慢出来なくなったのか、唐突に離れた賈駆から、平手が来ると読んだ俺は歯を食いしばってその時を待つのだが――

「……? えーと、文和……殿?」

「…………何よ?」

「い、いえっ! 何でもありませんです、ハイッ!」

 ギロリ、とも、じろり、とも違う、それこそギョロリ、と表現してもいいんじゃないかと言える視線に、俺は反射的に背筋を正してしまう。
 悩んで悔やんで泣いて、と精神的に落ち込んでいるためにどうしても弱気になってしまうんではあるが、その賈駆の視線はそれを抜きにしても、十分に怖かった。

 賈駆のほうも何か悩んでいるらしく、あれは違うあれは違う、とか、泣いてるのが可愛いだなんて思ってなんかないんだから、って言っているのか、今いち聞き取りにくい声でぶつぶつと呟いていた。
 突いたら藪蛇な気がした。

「その……ありがとうございました、文和殿。大変ご迷惑をかけた次第で――」

「……詠よ」

 だからと言って俺を心配してくれて、あまつさえ俺の答えまで導いてくれたのだから、そこは感謝をしなければならない。
 賈駆に自覚があろうとなかろうと、俺は彼女のおかげで先へ進むことが出来たのだ。
 そうしたら、何故だか賈駆の真名が返ってきた。

「え、えーと、文和殿? 一体どういう理由で――」

「詠でいいって言ってるのよ。二度も助けてもらって、それで信頼しないほど狭量な人間じゃないわ。け、けど勘違いしないで! あんたって人間を信じたのであって、男としては信頼してないんだからねっ! 月に手出したら、ただじゃおかないんだからっ!」

 ふん、と鼻を鳴らしながらそっぽを向く賈駆の顔が赤いことには触れないでおいた。
 今となっては俺が信じられなかったから、という理由も理解出来るのだが、元々初めて会った時に真名を許すと言った董卓や張遼などの中で、賈駆が自分のは許すことは出来ない、と言ったことが今まで字で呼んできたもう一つの理由である。
 確かに、黄巾賊とはいえ男に襲われそうになっておいて、男に真名を許すのには抵抗があるだろうなとは思っていたのだが、当然の如く当初は酷いものだったのだ。
 それが、今や真名を許してくれるというのだから凄い変化である。
 俺自身も自分を偽ることはもう止めた、とそれを甘んじて受け取ることにした。

「分かったよ……ありがとう、詠」

「ふん……どういたしまして」

 敬語も禁止、あんたの敬語気味悪いもの、と先に釘をさされたので友達に話す感覚だったのだが、それほど気にはならなかったのか、至って普通に返されてしまった。
 
 それでも、ここからまた始めていこう。

 そう思った俺は、安定の街へ向かおうと腰を上げた――



 ――もちろん、ここで終わらないのがお約束ではあるのだが。

「へぅ、詠ちゃんばっかりずるい。一刀さん、私のことも月って呼んでください」

「一刀、うちのことも霞って呼んでーな」

「ふむ、お二方が許されるのであれば、私のことも琴音、とお呼びください」

 がさがさ、と背後の茂みが鳴ると、何故だか董卓と張遼がむくれた顔で現れて、その後ろにやれやれといった徐晃がいた。
 黄巾賊が返ってきたか、と一瞬強ばってしまうが、唐突に現れた三人に俺は開いた口が塞がらず、賈駆に至っては董卓に言われたことを反覆して一人動転していた。

「え…………と、もしかして聞いてた?」

「大丈夫やて、詠が泣いたへんからしか知らんから」

 めっちゃ最初のへんじゃんか。
 賈駆が泣いて、俺が泣いて、抱きしめられて、あわわとしているのを見られて。
 ……なるほど、穴があったら入りたいとはこういう心境を言うのか。

「なッ! ちょっと霞、誰も泣いてなんかいないわよ!?」

「へぅ、泣いてた詠ちゃん可愛かったよ。一刀さんも、そう思いますよね?」

「えっ? あ、ああ、可愛かった……かな」

「ひぅ! あ、あんたまで何言ってんのよッ?! ッ……ああもう、先に安定に行ってるからねッ!」

 董卓に問いかけられて、ふと賈駆の泣き顔を思い出してみる。
 眼鏡の奥で潤む瞳、頬には紅が差し、常の賈駆からは想像出来ない崩れ落ちそうな儚い印象の少女。
 うん、十分に可愛いよね。
 と思った時には本音が漏れており、それを聞いた賈駆は瞬間的に湯を沸かしたかのように真っ赤になった。
 それがまた可愛くて、にこにこと笑みを浮かべる董卓の無言のプレッシャーに負けて、賈駆は一人安定への道を走っていった。

「さて……俺達も行かないと。……ああ、そうだ。月、霞、琴音、心配かけてごめん。ありがとうな」

 いくら黄巾賊に勝って安全を手に入れたとはいえ、賈駆一人で行かせるのは些か危険である。
 服に付いた土を払って歩く直前、そういえばと董卓達三人の真名を呼ぶ。
 許されるのならば、出来るだけその信頼に応えたい。
 真名を呼ばれて、さらには先ほどの俺の話を聞いていた三人は、みな笑みを浮かべて頷いてくれた。

「はい。一刀さん、これからもよろしくお願いしますね」

「そやで、一刀。うちらも頼るさかい、一刀もうちらを頼ってや」

「ふっ、気になさらないでください。私達は同志であり、仲間であり、家族ですから。心配するのは当然です」

「……うん、これからもよろしくな」

 だから俺も、出来うる限りの笑顔でそれに答えたかった。
 今はまだ自然に笑うのは難しいかもしれないけど、賈駆が言ってくれたように、いつか自分を許して笑えると時が来ると信じて。

「……へぅ」

「……反則や、そんな笑顔」

「……なるほど、これは中々破壊力が高いですね。あの詠様がおちたのも、無理は無いかもしれません」

 小さく呟かれた三人の言葉を聞き取ることは出来なかったが、とりあえず追求はせずに、俺は安定への道を歩き出した。
 三人とも顔が赤いから疲れたのかもしれないな、そんなことを考えながら。





  **




 安定より少し離れた山奥。
 先ほどまで痙攣していた黄巾の男は既に動くことはなく、その傍らに立つ男の後ろには一人の少女が跪いていた。
 その両者ともに白い仮面を顔半分へと付け、男は右半分を、少女は左半分をそれによって覆い隠している。
 ひとつを半分にしたほどの対照的なそれは、闇夜へと移り変わっていく時の中で、笑みを増していくかのようであった。

「……これで予定通り、北郷は董卓の下を離れることはないだろう。このままいけば、戦火を免れることは出来まい」

「しかし仲達様、北郷が董仲頴の下を離れないなどと、確信はあるのですか? わたしからすれば、些かあり得ないと思うのですが……」

「なるほど、確かに儁乂がそう危惧するのも無理はない。しかしな、北郷ならば間違いはあるまいよ」

 遙か視線の先、小さな森から数名の一団が安定を目指すのを見やりながら、仲達と呼ばれた男は口端を歪めた。

「……儁乂、貴様は予定通りに袁紹の元へと赴け。指示はおって下す」

「はっ! ……仲達様、いつになったら真名で呼んで下さるのですか?」

「……外史の定めた名など、俺が呼ぶはずがなかろう。疾くいけ」

 刹那、項垂れた儁乂と呼ばれた少女だったが、己が主と定めた男の命に逆らうはずもなく、一度だけ頭を下げたかと思うと、暗闇が広がり始めた森に溶けるようにその場から姿を消した。
 その場には仲達と呼ばれた男のみとなったのだが、不意に、その場に響くように声が現れた。

『……なるほど、それがあなたの策ですか。……今は司馬懿、と名乗っているのでしたね』

「……何が言いたい、于吉。他の外史で手一杯なお前と左慈を手伝ってやろうとしてるんじゃないか。感謝こそすれ、口を出される謂われは無い筈だが?」

『ふふ、あなたがそう言うのであればその通りなのでしょうが……。私も左慈が怖いのでね、余計な詮索をしなければならないのですよ』

 ああ、でも怒った左慈に感情をぶつけられるのならば、それはそれでいいですね。
 恍惚とした声が自分の周囲を覆おうのに顔を歪めながら、仲達と呼ばれた男、司馬懿は舌打ちした。

「ふん、話がそれだけならば俺も行くぞ。生憎と、暇じゃないんでな」

『それは申し訳ない。それで、参考までにどちらへと行かれるのですか?』

「……お前なら気づいているんだろう? まあ、別に構わないがな――」

 そう言って、儁乂と呼ばれた少女、張郃と同じように暗闇に溶ける直前。
 司馬懿は、己の行き先をぽつりとだけ呟いた。



「――何進だ」






[18488] 十五話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/02 16:07



 
「これは一体どういうことだ……?」

 洛陽に元太守を送り届け、返す足で故郷を守りたいという勇士にて結成された三百人の軍勢を、牛輔が率いて安定に辿り着けば、そこにいるであろう黄巾賊の姿は無く、黄巾の切れ端が舞い散るだけだった。
 万はくだらまいと思われていた賊徒はどこにも見えず、安定の城壁には戦いの痕こそ残されているものの、城壁が賊徒に破られたとは考えにくい。
 ならば城門からか、とも思ったのだが、あの幼馴染みがそう簡単にそれを許すはずもないと一蹴する。
 
 周囲の勇士に視線を配ってみても、同じように動揺しているのか、行動を決めかねている様子がよく分かる。
 元々戦の無い地方だった安定では、満足な経験を得る機会など賊討伐ぐらいしか無かった。
 訓練はある程度こなしてはいたのだが、無能な元太守がその必要性を感じ得なかったために、それもたかがしれていた。
 故に、簡単に動揺してしまう兵が出来上がってしまったのだが、この勇士にしても数十倍になろうかという黄巾賊に相対する勇気は持っていても、その他の兵と同じであるのだ。
 かく言う牛輔も、その人並み以上の膂力とある程度の智があったからこその隊長ではあったのだが、経験不足は否めなかった。

 数十倍の黄巾賊相手に激戦、下手をすれば、それこそ下手をしなくても全滅の可能性があっただけに、覚悟を決めてきた側からすれば、些か拍子抜けではあった。
 既に黄巾賊が安定を占領し、周囲に伏兵を配しているのかと偵察を放ってみても、特に異常は無かった。
 
「……埒があかんな。これより安定に接近する! 者ども、気を抜くなよッ!」

 周囲に問題は無い以上、現在の状況からすれば中に問題があるのやもしれぬ。
 そう考えた牛輔は、安定に接近する部隊と、いざというときの場合にそれを援護する部隊とに、二つに分ける。
 もし中から黄巾賊が襲ってくれば、接近した部隊が盾となりて、残りの部隊で周囲の諸侯へ援軍を呼びにいくためだったのだが。
 城門を確認出来る位置にまで移動した牛輔達は、そこでさらに驚くことになる。


 城門が開けられているのだ。


 夜間は賊の突然の襲撃を防ぐために閉じられる城門だが、攻められた時も当然それは閉じられることになる。
 万に及ぶ黄巾賊を数百の新兵しかいない現状で守るのであれば、それは頑なに閉じられているのだろうと思っていたのだが、それを裏切られる形で、牛輔の目の前で城門は開かれていた。
 
 一体どういうことだ、と再び小声に出した牛輔だが、その問いに答えられる者はその場にはいるはずもなく、その場にいても仕方がないと警戒しながら城門へと近づいていく。
 
 そして城門を眼前にしようかという手前、一人の少年が牛輔の前へと歩み出た。



「牛輔様ですね? 私の名は北郷一刀、李粛様と我が主、董仲頴の命によりお出迎えに馳せ参じました」
 




  **





 牛輔が安定に入城する数刻前に、話は遡る。


 森を抜け出た俺達は、城門前で待機していた呂布と陳宮を連れて、当初の予定通りに安定へと入城した。
 徐栄の言で、董卓軍の首脳たる人物達が入城するのに、天下無双の呂布を連れていないのはおかしいだろうと言うことで待機していたらしいのだが、彼女達も董卓と賈駆が襲われたのを知っているのか、何処か心配した風であった。
 だから、何故守らなかったですかー何のための護衛なのですかー、と某仮面のヒーロー的な跳び蹴りを俺にみまう陳宮には何も言うまい。
 元々軍師である筈なのだが、何故だかそんな所だけ運動神経のいい陳宮の蹴りを受けつつ、今度その跳び蹴りの技名でも教えてあげよう、などと考えていた。

 華雄は既に軍を連れて先に入城しているらしいのだが、天下無双の士を連れて入る、という案によく賛同したものだと思っていたのだが。
 そんな俺に、徐晃がくすりと笑いながら教えてくれた。 

「私があなた方のお迎えに上がる際に、父上が声を掛けられまして。董卓軍最強の将が軍を率いておらねば安定の民が不安に思うのは必定、ならばこの任は貴殿にしか出来ぬこと、と言い含められておいででしたね」

「ああ……なんとなく想像出来る」

 徐栄に言い含められて、ならば自分が行くしかあるまい、と意気揚々と軍を率いて安定に入っていく華雄――想像に難くない。
 実際、華雄もそうとうに綺麗な女性であるためにそういう体裁でも見栄えはいいのだから、それも正解ではある。
 あの猪突ささえなければ勇将として名を馳せるだけの人物ではあるのだが――

「まあ……そこが華雄殿らしいと言いますか」

 ――無理だろうな。

 くすくすとポニーテールに纏められた金髪を揺らしながら笑う徐晃から視線を移せば、安定の民から熱烈に歓迎されている董卓がいた。
 馬は一通り華雄が連れて行ったので徒歩での入城となったのだが、董卓の姿を見つけるやいなや、街からは声が爆発したと言えるほどの歓声が鳴り始めたのだ。
 そして、城門から城へと続く道を歩けば出てくる出てくる、多くの民が董卓へと声を掛けているのである。
 
 ありがとう、助かりました、命の恩人です、お姉ちゃんキレー、という感謝の言葉のみならず、うちの倅の嫁に、いやいやうちの甥の嫁に、てやんでぃ俺の嫁に、などなど。
 それらの言葉に、董卓は笑いながら応えていた――後半部分は賈駆に怒鳴り散らされていたが。
 それでもなお掛けられる感謝の言葉に、渋々ながらも賈駆も応えていくのである。

「さて……そろそろ先を急がねば、華雄殿が突進しかねませんね。月様達を急がせますので、北郷殿もお急ぎなされよ」

「ああ、分かったよ、琴音」

 そう言われて気付いてみれば城への道程は遠く、今のペースでは日が暮れてしまいかねない。
 俺の了解の意を受け取った徐晃は、その歩調を速めて董卓と賈駆の元へと急いだ。
 そして彼女が俺より離れると、何故だか唐突に視線を感じた。
 ふと気になって周囲を見渡しても、何故かいじける張遼以外には特に変わったことはない。
 そうかと思えば、先ほどよりも多くなった視線を感じた気がして、ふっと後ろを振り向く。

「……?」

 しかし、それでも誰が見ているのか分かることはなく、まあいいか、と隣を歩いていた張遼へと声を掛ける。

「……んで? 何で霞は拗ねてんの?」

「……拗ねとらんわ。誰も、折角真名教えたのに何で琴音とばっかり話すねん、とか思ってへんわ」

「……それは世間一般で言えば、拗ねてるって言うんだよ」

 ふん、と。
 まるで、私は怒っていませんよプーンだ、と子供のように拗ねて頬を膨らませる張遼に苦笑しつつ、先で俺達を待つ徐晃へと視線を向ける――のだが、董卓と賈駆に言い寄る男達を千切っては投げを繰り返しながら、饅頭や肉まんの匂いに誘われてあっちへふらふら、こっちへふらふらする呂布を陳宮と二人がかりで押さえようと奮闘する彼女が見えた。

 ちらり、とこちらを見た視線が、早くしろよ、と語っていたのは決して気のせいではないのだろう。

「…………霞、今度酒奢るから早く行こう?」

 じゃないとヤバイ、俺の首が。
 未だ徐晃の人となりがどんななのかは掴みきれていないが、董卓軍の他の面々からみるに、一度噴火したら手も付けられなさそうなのは目に見えている。
 その噴火したのが俺に降りかかるというのも、既に承知している。
 だからこそ、出来るだけそれは未然に防がないといけないのだ。

 隣にいる霞もそれを分かってくれたのか、渋々といった形で頷いてくれた。

「……しゃーないなぁ。……琴音怒らすと後怖いし」

 それを見た俺は、よし、と徐晃を手伝うために走り出したので、張遼が呟いた言葉を聞き取ることは出来なかったのだが。
 首筋がひんやりとしたのは気のせいだったということにしておこうと思う。









 そして、やっとこさ安定の城へとたどり着くことが出来た俺達は、そこの文官に案内されるままに付いていくのだが、その目的地が中庭であるということを聞いて、首を傾げる。
 この時代の人間ではない俺が知るはずもないのだが、こういう場合って広間で顔合わせて感謝の言葉を贈ったりするんじゃななかろうか、と。
 そのことを案内してくれる文官に尋ねてみるのだが、返ってくるのは苦笑と曖昧な言葉ばかり。
 含みをもたせるでもなく、ただただ申し訳なさそうなその雰囲気に、俺はさらに首を傾げることになるのだが。



 開けた中庭が視界に入った時、その謎は氷解した。


 
「でやぁぁぁぁぁぁッ!」

「甘いわッ! おらおらおらぁぁぁぁッ!」


 二人の女性が、勢いよく戟を交わし合っていました。

 

 一人はよく知る華雄だというのは分かる。
 普段使っている大斧ほどではないが、それでも重量のある大斧を模した模擬刀を、軽そうに振るい回している。
 対する少女も、一般の兵が使うような模擬刀で上手く華雄の攻撃を捌いていく。
 胸と腰回りだけという、ある意味華雄よりも危険と評せる服装から覗く健康的な肢体を元気良く振り回して、右へ左へと攻撃を避けながら華雄へと反撃していく。
 その際に、その胸が縦へ横へと激しく動いているのは、きっと俺が疲れているのだということにしておいた。

「李粛様! 董卓様が来られ――ああもう、聞いてないし」

 申し訳ありませんが少し待っていただけますか、そう言ってその場を去っていった文官の背を見送りながら、ああだからばつが悪そうだったのかと理解した。
 徐晃から、安定の指揮を執っていたのは李粛という少女であり、安定でも名門で知られる李家の代表であると聞いていた俺は、粗相がないように気をつけなければいけないと思っていたのだが、華雄と相対する少女はそんな人物には見えない。
 
 だがしかし、三合、四合と華雄と戟を重ねる少女が安定の指揮を執った李粛ということは分かったのだが、何故に華雄と打ち合っているのかが理解出来ない。
 ならば、と俺はその理由を知っているだろう人物へ話しかけることにした。

「……それで玄菟殿、これは一体どういうことでしょうか?」

「いやなに、そなたたちが来るまでの間、暇だと李粛殿が言われてな。それに華雄がならば、と答えたまでよ」

 ああなるほど華雄なら言いそうだな、と納得してしまうのがどうなんだろうとは思ったのだが。
 ふと気になって、徐栄へと尋ねてみる。

「……ちなみに、防衛の指揮を執った者と、援軍に来た一将軍が会談もせずに戟を合わせるって、いいんですかね?」

「…………」

 中庭を望む石の上に腰を下ろして華雄と李粛の仕合を見ていた徐栄へと声をかけるのだが、俺の追求に額から汗を流しながら視線を俺からずらした。
 ようするには、駄目だと思う、ってことですよね。
 はてさてどんな問題が湧くことやら、と溜息が出てしまうが、そんな俺達に気づくことなく華雄と李粛の仕合は佳境を迎える。

 とはいえ、祖父が溜め込んでいた兵法書やらの中に埋もれていた三国志に関する書物は読んだものの、あまりに膨大な内容だったためにいまいち覚えていない俺の知識の中でも、李粛という武将がそれほど有能だったとはない。
 華雄といえば、反董卓連合を組まれた際に汜水関という要所の守将を務めるだけあって優秀だったのだろうから、その結末はだいたい読めたものだった。

 華雄の横撃を屈んで回避した李粛は、そのバネを利用して一気に華雄の懐へと攻め入った。
 そのままの勢いで華雄へと斬りつけようとする李粛だったが、不意に華雄がその顎を狙って蹴り上げたこともあって脚を無理矢理に止めてしまう。
 そこを、一度振り切っていた模擬刀を切り返すことによって、華雄は李粛の模擬刀をはじき飛ばしたのだった。

「……ふっ、これで私の三連勝だな」

「三戦も?! やり過ぎでしょう、葉由殿!」

 どんだけやってるんだよ、どんだけ戦うの好きなの、何で徐栄止めないの、等々色々言いたいことがあったのだが、ぱたぱたと手に何かを持って駆けてきた文官にそれを止める。

「ああ、ようやく終わってくださいましたか、李粛様。いよいよ水をかけねばならないかと思ってましたよ」

「え~、だって面白かったんだもん。まあいいや、それで、誰が董卓さん?」

「へぅ、わ、私が董卓です。董仲頴と申します」

「ふぅん……董卓さんって綺麗だね」

「へぅっ! そ、そんな私なんかより詠ちゃんや霞さん達の方が!」
 
 ちっかけ損ねたか、とぼそぼそと呟いた文官に背筋を冷やしながらいると、中庭ではあるがようやっと会談が始まった。
 まあ、会談というよりも顔合わせ的なものなのだが、ぐるりと俺達を見渡すと、李粛は頭を深々と下げた後に笑みを浮かべた。

「僕は李武禪。今日は助けに来てくれてありがと、兵と民もとっても感謝してるよ!」

 もちろん僕もね、と付け足した彼女は、とりあえずこんなところではなんだから、と広間へ移動しようと持ちかけるのだが。
 溜息をついたその時の文官の気持ちをが手に取るように理解出来る。

 なら初めからいてくれよ、と。

 出会って少ししか経っていないが、あの李粛の性格から言えば相当苦労してるんだろうな、ってのがよく分かる。
 董卓軍にも全く考えずに動く人達がいるしな。
 妙な親近感を抱きながら移動を始めた俺達だったが、そんな時だ、安定の兵から一つの報告が入ったのは。



 洛陽へと行った軍の一部隊が帰ってきた、と。



  **



「――という訳でして、恐らく暇であろう俺が僭越ながらお迎えに来た次第でございますよ」

「それは、何というか……感謝いたします、北郷殿」

 董卓と賈駆は当たり前として、他の面々も戦功論賞などの関係から手が離せないとあって、特に功を上げるでも無かった俺がその部隊と相対することになった。
 洛陽へ行った軍の装備をした黄巾賊ではないか、という危険性もあっていざというときには城門を閉ざし兵を動かすことも構わない、ということではあったのだが、向かい際に李粛から伝えられた牛輔の人物像が見事に一致していたために、それも杞憂であった。

『黒くて短い髪で、こーんな目してでっかい剣持ってるから、すぐ分かると思うよ』

 指でつり目をしながら牛輔のことを教えてくれる李粛に、どんだけでっかい剣なんだよ、と苦笑していたのだが、いざ目にしてみれば確かにでっかい。
 でかい、でかいにはでっかいんだが――まさか人並みにでかいとは思わなんだ。
 刃の全長だけで人並みにでかく、持ち手を入れれば優に頭一つ分はでかい。
 横に並んで歩くだけでその威圧感に気圧されそうになるのだが、それを持つ本人は何処吹く風で易々とそれを持ってのけていた。

「……常であれば、客人と言っても過言ではない貴殿に出迎えさせるなど言語道断なのでしょうが。何分、今は人手が足りておらず……面目ない次第です」

「いえいえ。こちらこそ、俺なんかの身分で差し出がましいことをしてやいないかと、心配していたところです。それを許してもらえるのであれば、全然構いませんよ」

 でも、いえいえ、ですが、ですから。
 そんなことを言い合いながら、ふと気づけばいつのまにか城へとたどり着いていた俺達は、歩いていた文官に董卓と李粛がどこにいるのかと問いかけ、示された部屋へとまた進んだ。
 その時に、とは言わず安定に入った直後から様々な人が牛輔に声をかけるあたり、彼が慕われているというのがよく分かる。
 まあ確かに男の俺から見ても格好いいんだけどさ。

 短く切りそろえられた髪は浅黒く焼けた肌によく合っており、その巨大な剣を振るう二の腕は引き締まっていながらも十分に太い。
 歴戦の戦士といった精悍な顔立ちは、貫禄さえ感じさせた。

「……牛輔様をお連れいたしました。…………?」

 そうこうしてる内に示された広間の扉へとたどり着いたので、俺はノックをして入る旨を確認したのだが、一向に返事がない。
 もう一度してみても同じであるから、背後にいる牛輔を振り返ってみるのだが、彼も分からない顔をしていた。
 
 まさか城まで黄巾賊が襲ってくることはないだろう、と思ってはいたのだが、もしやと思い扉を開ける。
 が、そこには董卓含め全員がいたのでそれも杞憂だったか、と安堵するのだが。
 ならば何故誰も返事をしないのだろうか、とふと疑問に思う。
 そして視線を移してみれば、皆が一様に驚いた顔をしており、その視線はニコニコと笑う李粛へと向けられていた。

 いよいよよく分からないな。
 かと言って、俺が李粛に問いかけるのもあれかと思ったので、一番近くにいた陳宮へと声をかけてみた。

「公台殿、これは一体どうされたのですか?」

「……」

 だがスルー。
 仕方なくその横の呂布へと視線を移してみるのだが、難しい話が続いていたのか、くー、と可愛い音を立てて寝ていた。

「……おい、陽菜。これは一体どういうことだ?」

 がっくし、と肩を落とした俺から視線を外した牛輔が李粛へと問いかけると、今気づいたのか、笑みをいっそう深めて李粛が笑った。

「あっ、子夫、帰ってきたんだ! お疲れさま!」

「ああ、ありがとう。……それで、質問に答えろよ」

 陽菜、というのは李粛の真名なのだろう、彼女を表す最良の言葉じゃないだろうかと思ってしまった。
 そして、子夫、というのが牛輔の字なのか、とも。
 前漢に衛子夫という皇后がいたのだが、それとは何か関係があるのだろうかなどと思っていたら、李粛の口からとんでもない言葉が飛び出してしまった。

「どういうことと言われても、僕は普通のことを言っただけだよ? 安定を董卓さんの下に付かせてくださいって」

「…………は?」

 と、ついつい変な声が出てしまったのだが、続く牛輔の言葉にさらに驚いてしまう。

「あ、それは俺も賛成。……ああ、だからこうなってるのか」

「えぇぇぇっ!? 何でそんなにあっさりと?! 簡単に決められることでは無いでしょう!?」

 ちょっと冷静に考えてみよう。
 
 元々、太守という役職は後漢王朝によって任じられるものである。
 ある者は力で、ある者は金で、ある者は徳で得るものではあるのだが、根本的にはそういうものであり、それ即ち後漢王朝からの管理代行という形となる。
 だから、どんなに地方であろうとそれを勝手に決めるのは後漢王朝への叛意に他ならず、勅命を受けた軍勢が襲いかかってくる可能性も否定は出来ないのだ。

「そんなに難しく考えるものでもありますまい。太守兼任、代行、どうにでもなります。さらには、いつ黄巾賊に襲われるやもしれない街の太守など、野心無くばいらないものでしょう。すんなり収まりますよ」

「…………確かに、今の状況であれば上手くいくかもね。石城だけではどうしても物資や情報の交流が閉塞してしまうから、受け入れてもいいのかもしれない」

「……ですが、それをすれば片方ばかりに注力する訳にはいかないのですぞ。石城を富ませ、安定をも富ませる。資金物資には限りがあるため、難しいとは思うのですが……」

 牛輔の言葉に段々と思考が落ち着いてきたのか、董卓軍が誇る軍師、賈駆と陳宮が善手を打つために模索を始めていく。
 確かに、石城は彼女達のみならず、張遼や華雄の働きもあって治安もよく、発展していると言える。
 だが、十分というわけではない。
 こんなご時世であるためか、噂を聞きつけた難民は後を絶たず押し寄せて来るのだが、受け入れられる数には限りがある。
 元々それほど大きくない石城であるからして、その限界値は小さいのだ。
 かといって、規模を拡大しようにもそれだけの人員も資金も物資すらない。
 そのため、現状手詰まりであった状態なのだ。

 さらには、牛輔も言っていたが人員不足というのもある。
 安定の主たる文官は後漢から派遣されていた太守と同じであり、彼が洛陽に帰るということもあって大多数が付いていったらしい。
 先ほどの文官などは安定の生まれのために残ったらしいのだが、数人だけで街を動かせるわけもなかった。
 だからこそ、安定は董卓の名の下に下ると言うのだ。
 加えて、董卓軍には文官たる人物があまりにも少ないのだ。
 賈駆と陳宮、本職ではないが経験から李確と徐栄も出来るのではあるが、それではあまりにも少なすぎる。
 一応、最近では俺が手伝ってはいるのだが、何分今いち読み切れないためか、そこまで役に立っているとは言い難い。
 
 とまあ、色々模索はしてみるのだが、結局のところ董卓が決断しなければ話にはならない。
 賈駆も陳宮も、他の面々もそれを分かっているために董卓へと視線を移すのだが、そんな視線に答えるかのように柔らかくほほえんだ彼女は口を開いた。

「詠ちゃん、困ってる人達が頼ってくれてる……。私は、それを救いたい」

「……分かったわよ。ボクは月を補佐するからさ、思ったことをすればいいと思うよ」

 それに、手伝ってくれるのはボクだけじゃないしね。
 そう言って周囲を見渡す賈駆に、そこにいた殆どの人が頷く。
 若干一名、未だお休み中ではあるのだが。
 もちろん、俺へと向いた視線がにやりと笑うのを、俺もにやりと笑いながら頷いて返した。


 あの日の夜に聞いた董卓の言葉。
 力があれば守れたかもしれない、救えたかもしれない。
 でも、それはきっと儚い願い。
 どんなに力を得ても、守りきることは出来ないことは俺がよく知っている。
 どれだけ力を得ても、全てを救うことは出来ないことは俺が体験している。
 
 それでも、俺はその願いを守りたいと思った。
 彼女が作る笑顔を、守りたいと願った。
 きっと、これからも人を殺めなければならないだろう、それは大変な苦痛だと思う。
 でも、この時代でそうすることでしか守れないというのなら、俺はどんな思いをしてでもそれを守ろうと思う。
 辛くても、苦しんでも、傷付いても。
 帰れる居場所がある、守りたい笑顔がある、だから俺は―― 


「うん、皆さん、ありがとう。……李粛さん、牛輔さん、これからよろしくお願いします」

「うん! こっちこそよろしくだよ!」

「戦うしか能のない私と陽菜ですが、どうぞこき使って下さいませ」

「ちょっと、子夫と違って僕は頭良いんだからね! 一緒にしないでよ!」

 もー失礼しちゃうなー、とぷんすかと怒る辺りどうにも子供っぽい李粛に、その場に笑いがおこる。
 一番笑っているのは牛輔なのだが、それを見た李粛が、むー、と怒るのだから分かってやっている風である。
 それでも、李粛がみんなの笑いにつられて笑い始める頃にはその怒りも収まっているのか――ビシビシ叩いている辺り、そうでもないらしい。
 痛い痛いという牛輔の必至さが、李粛が本気だということを理解させた。


 ――歯を食いしばってでも、守り抜きたいと思う。




 董仲頴、安定を得て勢力を広げる。
 その報は、瞬く間に各地へと散っていった。



[18488] 十六話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/10 14:41







 小鳥さえずる朝焼けの中、俺は手に持った木刀を正眼に構えた。
 木刀、とはいっても手頃な重さと長さを兼ね備えた木を削りだしたものなので、俺のよく知る木刀よりは些か形が悪い。
 持ち手の部分こそヤスリの代用として砂で削ったのだが、完全には慣らせなかった。
 それでも、この木刀を用いて数日もすればそのボコボコも手に馴染むものではあったのだが。

 一度木刀を振るえば空気を切り裂く音が聞こえるのだが、その感触は俺が求めたものとは違った――それも当然ではあるのだが。
 あの冬の一件以来、俺は剣を置き力を持とうとはしなかった。
 それまで日課としていた鍛錬も止め、必要最低限の体力維持しかしてこなかったのだ。
 半年近く剣を振るい技を磨いていないのだから、鈍っているのも無理はないのだ。

「かと言って……これはちょっと予想外だな」

 振り落とした木刀を、見せ付けるかのように右足を引きながら下段へと構える。
 タイ捨剣術は右半開を始として左半開で終とする、それは北郷流でも変わることはなかった。
 その構えこそ様々にあるが、その根底は揺るぐことはない。

 下段に構えた木刀を、右足を踏み込みながら上へと切り上げる。
 仮想敵を作り出すことはせず、ただひたすらに疾く鋭く振るう。
 振り上げた木刀をそのままに振り下ろせば、左半開にして袈裟斬りというタイ捨剣術の基本となる。
 そこから振り下ろしたバネで前方に突きを繰り出す、日本刀での刃の部分を上にして。
 突き出した木刀を刃の方に、すなわち上へとさらに切り上げると、伸びた体を縮めるかのように身体を回転させて左足で蹴りを放つ。
 誰にも、何にも当たることはないその蹴りはそのまま空気を切り裂いたが、俺は特に気にすることなくそのままの勢いでさらに身体を回転させる。
 そして、右足を軸にして回転させた身体は左半開になるように足を付き、右手に持っていた木刀を、俺は目線の高さで一気に振り切った。
 あたかもそれは、居合いで抜き終わった形となっていて、俺は木刀を鞘に納めるかのように腰へと移した。
 そして、呼吸とも、溜息とも取れるものを吐き出す。

 木刀を作って数日、鍛錬の時間を取ることが出来なかった俺としては、今日久しぶりに本気で剣を振るったのだが。
 そのあまりの衰えぶりに、少しばかり肩を落とした。

 傷ついてでも、苦しんででも守ると決めたのだからまずは己の身を守れるだけの力を付けねば、と思い立って始めた早朝鍛錬だが、思いの外、前途は多難である。
 筋力と体力のトレーニング、そうして作られた身体に北郷流の技を思い出させる鍛錬、そしてそれを実用可能な段階まで鍛え上げる実施、と数え上げればきりがなかった。
 実施を行うための相手が不足しないのが幸いなのだが、何よりも必要なものが今は不足がちであるからいつになれば元に戻すことが出来るのか、と俺は溜息をついた。
 
「まあ……焦らずに一歩ずつしていくしかないんだし、やるしかないんだけど」

 分かりやすい目標としては張遼や呂布、華雄に勝つことだが、この腕の錆びっぷりでは打ち合うことさえ難しいかもしれない。
 剣術だけが北郷流ではないのだが、一武人としては正々堂々勝ちたいものではあるのだが――無理だろうか。
 仕方がない、と諦めることは簡単なのだが、それを認めるのは少し早い気がした――いつまでもつかは分からないが。
 とりあえずは、と汗をかく程度に柔軟だけした俺は、手ぬぐいで汗を拭いながら食堂へ行くことにした。



 安定で寝泊まりを始めて数日ではあるが、ここの厨房の人達は朗らかに笑う人達ばかりで好感がもてる。
 今日もまた、互いに笑顔を交えながら、やれ麻婆豆腐が上手いだの、青椒牛肉絲が辛いだの言い合いながら朝食を終えた俺は、食堂を出て廊下を歩くのだが。
 朝の出仕を控えて、侍女や文官達が竹簡やら書類やらを携えて歩く姿を見て、先ほどとは違う溜息をつく。

「……きっと今日もなんだろうなぁ」

 遠い視線で遙か彼方の故郷を思う俺を、ある者は訝しげに、ある者は気の毒そうに見ては廊下を歩いていく。
 訝しげに見られるのは別段構わないのだが、気の毒そうに見ていく人達の多くはその目的地はきっと一緒なのだと思う。
 気の毒そうに、申し訳なさそうに大量の竹簡を運んでいく文官達からの視線に、なら運ぶなよ、と言いたいところではあるのだが、それをすれば多くの人に迷惑がかかると思えばそれも出来ない。

 仕方なく、とここだけは諦めて自室へと脚を進めるのだが、どうにもここ数日で見覚えた光景が待ち構えていそうで憂鬱になってくる――自室に所狭しと詰まれた竹簡やら書類が待っているであろう、俺の自室へ。


 そうして廊下を曲がればその先に自室があるのだが、そこから出てきた侍女と視線が合えば、ふい、と申し訳なさそうに視線を逸らされてしまい、否が応にも覚悟を決めねばならなかった。
 そして、動悸する鼓動に手は震え、頭の中が真っ白になる程の緊張感を携えながら部屋の扉を開けてみれば。


 机には書類が積まれ、部屋の壁には竹簡が堆く詰まれた想像通りの部屋が視界に映った――しかも昨日より多いし。


「やっぱりかぁぁぁ……」

  
 がっくし、と肩を落とした俺は、その惨状に今一度視線を向けると本日三度目の溜息をついた。
 あれだな、もっと文官欲しいな、じゃないと死ねるぞマジで。




  **




 安定を麾下にすることとなった董卓軍は、本拠をそれまでの石城から安定へ移すこととなった。
 それには諸々の理由があるのだが、大きなものとしては董家軍としての機能の拡充と、対外交渉に関する世間体というものが上げられる。
 
 小さい勢力ながらも五千もの兵力を持った董卓軍ではあったが、石城は少し手狭であったのだ。
 というのも、董卓と賈駆の指示の元に涼州でも比類無きほどに栄えた石城ではあるが、元々大きな都市では無かった。
 しかし、治安もよく黄巾賊にも勝った、という情報から人口数は上昇を続けそこに元黄巾賊の兵が加えられたのである。
 そして多くの人は自分の領域に足を踏み込まれると不快感を抱くといいますか、民衆は黄巾賊への嫌悪から、元黄巾賊はそれへの反発から大小様々ないざこざは後を絶たなかった。
 そこで今回、安定を麾下にしたこともあって、大多数の兵力は安定へと移されることになった。
 元々石城にいた兵二千を残し、新しく参入した元黄巾賊を加えた五千の兵が安定へ入ることになったのだ。
 石城より大きい安定ならば、五千の兵が入っても十分な広さがあった。
 石城と同じように元黄巾賊という身柄からいざこざは起きるであろうが、とりあえずの所は解決出来たと言えよう。

 もう一つの理由は案外簡単なもので、本拠よりも麾下の都市の方が大きいのは如何なものだろう、という理由である。
 正直なところを言えば、石城はそれほど綺麗という程ではない。
 以前に李確から聞いた話だが、石城は地方都市ということもあって後漢王朝からあまり気にとめられていないらしい。
 治世支援金という名目での王朝からの資金も、石城には殆ど入ってこないらしい――もっとも、その実態の多くは賄賂や贈賄などである、とのことだが。
 そんなこともあって、常に慢性的な資金不足に陥っていた石城は、董卓の代になって賈駆が軍師になっても解消されることはなく、半ば自転車操業な運営となっていたのだ。
 それでも、元黄巾賊を参入させて人口を増やして、と着実に成果は上げているのだが。
 だが、そんな石城も安定の大きさには敵わず、これから朝廷や諸侯と相対するにあって安定の方が何かと便利、ということで本拠を移すことになったのだ。

 となると、石城に誰を残すかということになるのだが、これは防衛指揮に残った李確がそのまま残ることになった。
 先代からの忠臣でもある李確は石城のことをよく知り、また民も李確のことをよく知っている。
 これ以上の適任はおらず、満場一致で李確に使者を出すことになったのだが、そこで一つ問題が起きた。
 もし黄巾賊が襲来した際に、李確一人では迎撃から防衛に至るまでの指揮が執れないということだ。
 なら数人が戻れば、ということになるのだが、安定の兵はその殆どを元黄巾賊で構成されており、その訓練のためには武官文官ともに数がいる。
 かといって、石城に文官たる仕事が出来る人間が李確だけという訳にもいかない。
 そこで出た結論が、徐栄であった。

 李確と共に先代より仕えてきた徐栄ならば彼と共に石城を任せられる、という話になったのだが、それで終わりというわけにもいかなかった。
 智勇兼備の将が二人ともいなくなるということは、その武官と文官の間に立つ人間がいなくなるということでもある。
 いちいち董卓や賈駆伝いに指示を仰ぐわけにもいかないのだから、その重要性は言わずともしれた。
 そのため、彼らの後任となる人物が早急に必要だったわけであるが――ここまでくれば分かるだろう、お察しの通り俺が任命されたのである。

 理由は至極単純――俺だけが暇だった、ただそれだけ。
 張遼と華雄は軍兵の訓練を、徐晃は城壁の修復箇所の確認、呂布と陳宮と李粛は警邏で、牛輔は安定の民衆の混乱を治める、董卓と賈駆は当たり前のように忙しい。
 結果、それまで賈駆の手伝いをしていただけの俺が、急遽として文官と武官の橋渡しをするはめになったのだ。
 とは言っても、それほど難解な事象が待っているわけでもない。
 それぞれに対する指示や不満、要求などを分類ごとに分別し、それを担当の場所へ送ったり返事をしたり、といった仕事である。
 ただ唯一、新任の武官や文官が増えたことによってその数が膨大な量に及ぶことを抜きにすれば、であるが。
 そのため、ある人物が俺の補佐となった――安定に残った唯一の文官である王方、字は白儀、その人である。


 王方といえば、董卓配下として名を上げて、後に李確らと共に挙兵して長安を占拠する将だったと覚えている。
 それだけであれば武官だと思っていたのだが、俺が向き合う机の端に積み重なる竹簡を片っ端から読んでいくその王方は、とてもそうは見えなかった。
 竹簡を開く指は白く細く、それを見つめる眦は切れ長で少し冷たい印象を受ける。
 少し色の抜けた髪は異民族の血が混じっているのか――と、そういえば俺の知る限りでも色んな人がいるんだった、気にしないでおこう。 

 文字を書き終えた竹簡を脇へと避けて一つ伸びをする、体中の骨が盛大な音を立てて軋んだ――おおぅ、いい音。
 それこそ鳴らない箇所は無いぐらいに体中が鳴ると、傍らで竹簡を纏めていた王方がくすりと笑った。

「お疲れ様です、北郷殿。少し休憩されては如何ですか?」

「お心遣い感謝します、白儀殿。けど、まだまだ残ってますから」

 そう言って視線を移せば、未だ開くこともされていない手付かずの竹簡が目に入る。
 量? はははは……はぁ。
 俺の視線の先にあるものを見て俺の心配していることが理解出来たのか、再びくすりと笑って王方は口を開いた。

「ああ、それなら大丈夫ですよ。とりあえず先ほど纏めたものをあるべき所へと返して、残りは分別しなければいけませんので。そうですね……半刻ほどなら時間もありますから」

 そう言う王方につられて部屋に視線を走らせれば、なるほど、確かに分別さえしていないものが多い。
 ですからどうぞ、と促されては断る理由もない。
 俺としても、ずっと座りっぱなしで尻が痛いので少し歩きたい、と思っていたので丁度良かった。
 
「……それでは済みません、少し出来てきます。何か食べるものでも買ってきますので」

「ああ、それなら龍泉庵の肉まんがいいですねぇ。まあ、期待して待っておりますので」

 ……普通そこは期待しないで、ではなかろうか。
 そんなこと言われたら買ってこないと何か怖い気がしたので、俺は慌てて無言で頷いた後に部屋を飛び出していった。
 出際に、そういえば今日の警邏は華雄と牛輔だったか、と確認して、道中見つけることが出来れば誘おうか、とも考えていた。





 それではいってらっしゃいませ、と背中に声を受けて送り出されたが、ふと思い至ることがあった――龍泉庵って何処にあるのだろう?
 ……まあ何とかなるか、などと冷や汗を流しながら、とりあえずは飯が食えるところを探そうと街を歩く。
 石城ほどではないが、それなりに賑わう街を歩けばそこら中からいい匂いが漂ってくるので、ついつい腹が鳴ってしまう。
 幸い、賑やかな街並みに埋もれて衆人に聞かれることは無かったが、それでも小っ恥ずかしくなった俺は慌てて近くにあった店へ入ろうとしたところで――視界の端にあるざわめきを見つけた。

「なんだ、あれ?」

 安定の中心、城門から城へと伸びる主要道の外れ、一本裏道へと入ろうかとする場所で騒然としている人垣を見つけた俺は、そこへと近づいてみた。
 野次馬根性発揮である。
 
「あーあー、あの子も可哀想に……」

「ちょっとすみません、何かあったんですか?」

 とは言っても、見えるのは人の頭で出来た山だけである。
 何か言い争っているのは聞こえるのだが、何分野次馬の数が多すぎて、ざわめきで今いち聞き取れない。
 仕方なく、人垣に近づいた俺は近くにいた男性へと何があったのかを問いかけた。
 
「ん? いやなに、あの子の母親が兵士達にぶつかっちまったらしくてね。それだけならいいんだけど、兵士の奴ら、何を思ったかあの子達を黄巾賊の密偵だと言って取り調べるとか言いやがったのよ」

「黄巾賊の密偵って……。証拠はあるんですか?」

「そんなもん、あるわけないよ。ありゃああれだね、詰め所につれて帰っておいしく頂かれちゃうね」

 ここは昔から行商人なんかが多いからね、ああやって難癖つけてはってのが多いんだよ。
 それだけ言って居心地悪げにその場を離れていく男性から視線を外し、人並みの中心へと視線を向ければ――見えた。


 長く伸ばした蒼穹の髪を頭の斜め横で二つに束ね、土埃で汚れた面差しは幼いながらもしっかりと芯があるように見える。
 体型こそ小柄ではあるが、それでも武芸に関しては素人ではないだろう、その立ち振る舞いがそう感じさせた。

 対して母親であるが、同じ色の髪を腰まで伸ばしており、その豊満な肢体を覆う服に沿うかのように艶やかに流れている。
 病でも抱えているのか、上気した頬に潤んだ瞳、と色気を感じさせるセットに、なるほど、先ほどの男性の言が当たっていると確信した。



「母上に触らないでッ!」

 

 だからこそ、少女の叫びに反応してしまい気付いたときには人垣を掻き分けていた俺は、少女の母親に手を伸ばす兵士の手を掴んでいた。

「誰だ、貴様はッ!? 邪魔だてするなら容赦はせんぞッ!」

「まあまあ、この方達が何かしたという訳でもないんでしょう? ここは一度引かれた方がよろしいのではないですかね?」

 己の母親に手を伸ばす兵士に対して、今にも噛み付かんとばかりにいきり立っていた少女を背中へと回し、兵士の前へと躍り出る。
 三人、兵士の数ではあるが、いざ揉め事となったときにギリギリ相手出来る数ではあるか。
 服を調えるふりをして懐にあるモノを確認した俺は、こちらを睨み付ける兵士達に視線を向けた。

「民如きが我らに諫言すると言うのかッ!? 我らはこのたび安定を支配することとなった董卓軍だぞ、領主の子息如きが口を聞ける立場ではないのだッ!」

 だからそこを退け、と三者三様に怒鳴る兵士達に、こめかみに痛みを覚えてしまう。
 董卓軍だ、と名乗る彼らに見覚えがないことから、今回の件で新たに参入した元黄巾賊か安定の兵士だということが分かる。
 少なくとも、石城のころからの兵士達とは調練や警邏で一度顔を合わせているのだから、何かしら見覚えがあってもいいはずである。

「そも、黄巾賊の密偵と疑わしきだけで取調べとは、些か早急ではありませんか? まずは指揮を執る将に確認をとって、指示を仰ぐべきでしょう」

「ふん、我らは既に指示を仰いでおるわッ、疑わしきは罰せよ、とな」

「……指示を出した将を聞いても?」

「貴様如きがそれを聞いたところでどうなる訳でもなかろうが、特別に教えてやろうッ! 董卓軍にその人在りと謳われた華将軍よ!」

 その言葉を聞いて、俺の中ではああなるほど、という理解と、そんなわけがないだろう、という確信が生まれていた。

 華雄は、そりゃ確かに猪のところはあるし人の話は聞かないしちょっとばかり考えるのが苦手だったりするが、それでも疑わしいというだけで罰することはないと言い切れる。
 まずは己で確かめ、それから動くということぐらいは俺にだって分かるのだから、華雄にだって分かる筈だ――と言い切れるかどうかは人それぞれだけども。
 だけれでも、華雄がそう言わないことだけは確信出来る。

 それと同時に、目の前の兵士達がどういった人物なのかも理解出来た。
 ようするには――

「――なるほど、虎の威を借る狐、ではなく小者と言ったところか」

「なッ!? き、貴様ァァッ!」

「おや、お気に召さなかった? ならば言い直しましょうか、下郎、とでも」

 故事成語である虎の威を借る狐であるが、そのエピソードは戦国時代、楚の宣王とされる。
 この時代では学を得ることは難しいため知らない人の方が多いとも思ったのだが、俺の言に頭にきたのを見る限りでは目の前の兵士も知っていたらしい。
 真っ赤に染めた顔で怒りを表した兵士は、こともあろうにその腰に構えた剣を抜いた。

 途端、それまでざわめきが支配していた空間は、絶叫と悲鳴が塗りつぶした。 
 ある者は慌てて逃げ出し、ある者はとばっちりを避けて知らぬ顔をし、ある者は助けを呼びために兵士を呼びに行った。
 そんな周囲の変化を気にする風でもなく、一人につられて他の兵士も慌てて剣を抜いた。

「小僧ォ、貴様も同罪だッ! 今ここで、その首刎ねてくれるわァァァッ!」

 なるほど、どうにも俺が丸腰と思って強気なのか、その切っ先を俺へと向けて兵士が怒鳴りつけてくる。
 後ろの二人が剣を抜いたという事実に愕然としているのにも気づかず、兵士は俺の首を刎ねるために剣を振るった。


 だが。


「なっ?!」

「悪いけど、簡単にやるわけにはいかないんだよ、この首は。守らなきゃいけないものもあるしな」

 それも、俺が懐から出したモノによって受け止められてしまう――甲高い音を響かせながら。

 木刀を作るとき、俺は何も最初から自作しようとは思ってはいなかった。
 まず初めに武具を扱う店や鍛冶屋に行ってみたのだが、木刀という概念がないのか、どこにもありはしなかった。
 仕方なく自作しようということになったのだが、そう決めた鍛冶屋にて俺はあることを聞いてみたのだ。
 木刀――木の中に鉄を流し込むことはできるのか、と。
 鉛を仕込んだ木刀というのは、意外のほか重たいのだが、鉛が精製出来るか怪しいこの時代でそれに代わるものとして鉄ではどうか、と尋ねてみたのだ。
 結果としては不明ということではあったが、その発想が面白いと言ってくれた鍛冶屋のおっちゃんに、俺はさらに頼み込んであるモノを貰い受けた。
 

 それが今まさに俺の手の中にあるモノ――兵士の剣戟を止めた、鉄の棒である。


 ただの鉄の棒であるのだが侮ることなかれ、チャッチャッチャーンと土曜日夜九時から始まる番組で多くの凶器となったそれは、十分に実用可能なことを証明しているのだ――脚色が含まれてはいるが。
 こんなもので良かったら、と結構な量をもらった内の一本をいざという時のために懐に忍ばせておいたのだが、まさしく想定した通りに用いてしまった。 

「ぐゥッ! 刃向かうというのなら容赦はせんぞ、おい、こいつを囲めッ!」

「あ、ああ!」

 俺が防ぐとは思ってもみなかったのか、呆然として力が緩んだところで押し返された兵士は、後ろの二人へも声をかけて前と横の三方から俺を囲んだ。
 そのどれもが剣を抜いており、普通に考えれば剣と鉄の棒では相手にならないのは当然であるのだが、俺は至って冷静の内にいた。

 二人の女性を背に、三人の男と相対する。
 それはこの世界に来て初めての時と同じで、それがもう遥か昔のことのように思えながら、顔に出さないように笑う。
 懐かしさを感じるという、その場にそぐわない異質な感情を抱きながら、俺は鉄の棒を兵士へと差し向けた。

「虎の威を借り、それが通じぬ相手とみるや武威を見せ付ける、か。小者ここに極まり、だな」

 やれやれ、と肩を竦めた俺に、兵士はさらに顔を朱に染めていく。
 それは羞恥か、それとも怒りか、あるいは両方か。
 どれとも取れる色に染まった顔を見やりながら、自分でも驚くほどに淡々と言葉が口から出てくる。

「数多の血を散らし、多くの犠牲の上に成し得た勝利の中で、貴様らがしようとしていることがどれだけ影響を及ぼすのか――思い至らぬようなら、少しでも考えろ」

 そこまで発して、ああ俺は怒っているのか、と理解した。
 安定を支配する――李粛と牛輔は自ら下ってくれた、それを侮辱する言葉。
 華雄が指示をした――それは彼女という存在を貶し、侮辱する言葉。
 そして何より――その行いは、生きるために、勝利のために命を散らしていった多くの兵を侮辱するもの。

「人心未だ収まらず、何れ再び崩れる束の間の平穏とはいえ、それを先んじて壊そうとするなど――恥を知れ、下郎」

 ちょっと前まではその下郎の中に俺もいたけどな、と心の中で付け足す。
 だらだらと引きずりたいわけではないが、それでもこうやって引き出すあたり、今いち覚悟が足りていないのか。

「ぐっ……貴様ァァァァァッ!」

 人知れず苦笑した俺だったが、その笑みが自分達を小馬鹿にでもしたと思ったのか、兵士達が一斉に剣を振りかざして襲い掛かってくる。
 前、左右の三方からの襲撃に、後ろへ控える少女とその母親が息を呑んだ気配がしたが、俺はさして気にすることもなく油断無く構えた。


 時間稼ぎは十分、それは段々と大きくなるざわめきが教えてくれた。
 来る役者は十二分、それはざわめきに混じるその名が教えてくれた。
 
 それを知らしめるように、いつもの武芸に励むものとは違う、己の職務を全うする声が響き渡る。


「――ふん、よくぞ言った北郷」


 董卓軍にその人在りと言われた華将軍その人が、その場へと現れたのである。




  **




 そこからはあっという間だったので、割愛しておく。
 ただ一つだけ、お前らは特別調練だ、と言われた兵士達に向けられた警邏の兵士達の哀れそうな視線だけが、脳裏にこびりついていた。
 未だに聞こえる叫びだけが、その内容を物語っていると言えよう。


「ありがとうございました、葉由殿。お陰で俺も彼女達も怪我はありません」

「なに、警邏の任であれば当然のことだ。私としても、兵が徒に騒ぎを起こさなくて助かった。礼を言おう、北郷」

 どうも安定に残っていた兵が弛んでいるみたいでな、と頭を上げた華雄の言葉に、それも無理らしかぬことかと思ってしまう。
 安定を守り、その立役者である董卓軍に参入が決まったのだから、己が大きく見えてしまうのも仕方がないのかもしれない。
 特に、安定に残っていたのは新兵ばかりだからこそ、その現実に酔っていてもおかしくはないのだ。
 此度の件にしても、華雄が出した指示は疑わしい者がいれば逐一報告するように、とだけだったのだ。
 一体何がどうやってあのような勘違いをしたものになるのか、一度じっくり聞いてみたい気もした。

「今回の件でまだまだしごきようが足りないことが良く分かった。悪さが出来ないようにしてしまうのも、悪くはないな」

 どうやって、と言及するには余りにも憚られる雰囲気の華雄に、背筋に冷たいものが通り過ぎると同時に、周囲で騒ぎを鎮める兵士達に同情の念を拭えない。
 連帯責任、いい言葉ではあるが無情の言葉でもある、そう思わないだろうか。

「……ふむ、いい顔をするようになったな北郷。武人のものだ」

「葉由殿に言ってもらえれば、嬉しいものですね。……心配をお掛けしました」

「べ、別に心配などしてはいないッ! 未だぐじぐじ言っているようなら、叩きのめしてやろうとは思っていたが、それも杞憂だったな。…………ちっ、仕損じたか」

 ありがとう、の感謝を笑顔と共に送る。
 未だぎこちないものではあったが、自分では意外と上手く笑えたと思ったのだが、それを見て不意に逸らされた華雄の視線に、もしかして俺の笑顔って気持ち悪いのかな、なんて思ってしまう。
 そう言えば張遼達も逸らしてたし、賈駆に至っては敬語使いが気持ち悪いとさえ言われたのだから、それも間違いではないのかもしれない。
 ズーン、と落ち込んでしまい華雄が最後に呟いた言葉を聞くことは無かったが、不意に引かれた服に、後ろを振り向く。

「はぅっ! はわはわ……」
 
 ああそういえば、と出来る限り怖がらせないように、と笑顔で振り向いたのだが――即効で視線を逸らされてしまった。
 はわはわ、と可愛い慌て方に一瞬和みかけるが、その事実が俺をさらにどん底に陥れてしまう。
 そか、気持ち悪いか俺の顔……ははは、俺もう疲れたよ。

 ああ、でも、はわはわと慌てる少女の横で、ズーン、とも、どよーん、とも取れる落ち込みをしている俺。
 傍から見ればどれだけシュールなことか、と思っていると、睨まれるように少女に見つめられた俺は、些か慌ててしまう。
 あれかな、俺もはわはわと言った方がいいのかな、なんて思いながら。



 そして、少女の小さな口から名乗りが出た時、この世界に来て何度目かは知らない驚きによって、俺は開いた口が塞がらなかった。






「せ、姓は姜、名は維、字は伯約と申します! わ、わたしを董卓様の軍に参加しゃせてくだしゃにゅッ! はわはわ……また噛んじゃったよぅ」






 ――カミカミである。




 






[18488] ~補完物語・とある日の不幸~
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/11 16:23

 ~補完物語・とある日の不幸~



「きゃぁぁぁ!」

 董卓軍が安定に入城し、そこを本拠としてから数日後のこと。
 膨大な量の書類と竹簡を片付けた俺は、草木も眠る、夜も更けきったころにやっとこさ就寝出来ていたのだが。
 起床の時間となって目を覚ましてみれば、耳に届いたのは女性特有の高い叫び声で、俺はそれが聞こえたと同時に飛び出していた。
 誰の声かなどと確かめる必要もない、それこそ守ると誓った一人のものだからこそ俺は慌てていた。
 
 まさか、という思いが胸を締め付ける。
 安定を本拠にした後に、一番にしたことと言えば治安の改善である。
 降伏したとはいえ元黄巾賊という肩書きを持つ兵士達に、街の民衆は厳しい目を向けていた。
 確かに、董卓軍が救援に来なければ蹂躙されていた、というのだからそれも当然の反応だとは思うのだが。
 多くの兵士達は心を入れ替えて働く者ばかりだったが、一部の者達はそうはいかなかった。
 民衆に反発し、悪さをする者もいれば、安定を離れて再び賊と成り下がる者もいた。
 もしやそういった輩が、と危惧していた俺は、声を発したであろう人物の部屋へと辿り着いた。

 人の気配はするが、争っている風ではない。
 だが、もし口を押さえられているとしたら、などと考えて、そんな猶予はなのかもしれない、と意を決して俺は扉を開けた。

「詠、大丈夫――」

「ちょ、入ってくるなぁッ!」

「――かッ……って、え?」

 そこで見たものとは。

 半ば想像してた通りに寝間着を大きくはだけさせ――先に言っておくが、決して見たいと思った訳ではないぞ、たまたまだ――その胸元がギリギリのところまで露わにされており、乱れた裾から覗く白い太腿はやけに色っぽく濡れていた。
 ――傍らで割れていた、花瓶の水によって。

 なんていうか、大人のビデオ――及川所有物である、断じて俺ではない――にあるような着物が水に濡れている状態とでも言うのか、まさしくそんな感じで賈駆がそこで座り込んでいた。

「み……み……み……ッ!」

 艶やかでありながらどこか神秘的で、薄紫の寝間着と白い肌がさらにそれを助長させているのだが。
 ぷるぷる震える身体に不似合いな固くにぎしめられた右腕と、涙を溜めながらもこちらを睨み付けるその瞳が、どこか庇護欲を感じさせながら、恐怖をも感じさせた。


 敢えて言おう――俺ピンチじゃね?


「み……見るなぁぁぁぁぁぁ!」

「ぐっふぅぅぅぅぅぅ!」

 そう思った刹那、目にも止まらぬ速さで繰り出された右腕は俺の顎を的確に捉え、下からの軌道に沿って俺は宙へと浮いた――否、飛んでいた。
 後に、あの張遼をもってして、呂布の剣戟と同じかそれ以上かもしれない、と言わしめた拳を受けた俺は、飛んだ衝撃そのままに地面へと落ちて転がった。
 ああなんで俺がこんな目に、と脳裏に浮かんだ時には、俺の意識は闇へと埋もれていた。




  **




「――と言うわけで、今日一日ボクは不幸の固まりだから。出来るだけ近づかないほうがいいわよ」

 朝起きて、水を飲もうと思ったら水瓶を置いてきた机の脚が折れて、水瓶が割れたのを片付けようとしたらたまたま前日に位置を変えていた花瓶が落ちてきて水に濡れた。
 その状態で呆然としてしまい、慌ててその場を片付けようとするのだが、水に濡れた寝間着は意外にも重たく、悪戦苦闘している間に乱れてしまい、そこに俺が来た――これが一連の内容であるらしい。
 どんな漫才かコントか、とも思ってしまうのだが、月に一度ほど超絶に不幸な一日があると話してくれた賈駆の顔色から、それが意外にも切羽詰まったことなのだと理解する。

 未だ痛む顎をさすりながら集められた広間にて、賈駆の口から発せられた一言は意外にも大きな影響力を持つらしい。
 張遼や華雄、呂布や陳宮、徐晃は言うに及ばず、常なら常時並んでいるはずの董卓でさえ賈駆から距離を取ったのだ。
 その威力を知らない俺や牛輔、李粛や王方だけはその場を動くことは無かったが。

「ですが賈駆殿、近づかなければ仕事にも支障があるの――」

「お茶をお持ちしまし――キャッ!」

 董卓の軍師として、また文官の纏め役としての賈駆に近づかなければ仕事にはならない、そう進言しようとした王方のタイミングに重なって侍女がお茶を運んでくる。
 まさかそこまでベタじゃないだろう、と考えた俺が浅はかだったのか、たまたま顔の前を飛んでいった蝶に視界を奪われた侍女は、何も無いところで躓いてしまった。
 ――ご丁寧にも、王方にお茶をぶちまけて。

「…………」

 ぽたぽた、とお茶も滴るいい男となってしまった王方は、頭を下げて謝る侍女を宥めて無言のままに張遼達と同じ距離まで下がってしまった。

 ごくり、と喉を鳴らしたのは誰だったか。
 自然に目配せをしあった牛輔と李粛が、立ち上がる。

「あ、あー! そういえば僕急ぎの仕事があったんだー! さ、先に行くか――キャウンッ!」

「……そういえば、俺も急ぎの件があったな。先に朝食に行かせて――ブグフゥッ!」

 だが。
 足早にその場を去ろうとした李粛は零れていたお茶によって足を滑らせてしまい、強かに腰を打ち付けて。
 李粛につられるように朝食を取りに行こうとした牛輔は、割れた茶器を片付けにきた侍女が開けた扉によって顔を打ち付けられた。

 となると当然、残りの一人である俺へと視線が集まる。
 またまた謝る侍女を宥めて張遼達の場所へと下がった牛輔と起き上がった李粛までもが、俺の一挙一足を見つめている。

 背後からの無言のプレッシャーに、ガタリ、と席を立つ――何も起こらない。
 一歩、席から離れて賈駆を見る――何も起こらない。
 一歩、賈駆に近づくか離れるか悩むが、近づいてみる――賈駆が息を呑むが、何も起こらない。
 一歩、二歩、三歩と賈駆に近づいていく――が何も起こることはなく、さして何もないままに俺は賈駆の元へと辿り着いた。

「…………何にも起こらないじゃないか、むっちゃ緊張したのに。大体、どれもこれも偶々だよ、偶々。運が悪かっただけなんだって」

 俺に何も起こらなかったことで驚愕の色に染まる賈駆や董卓達に視線を向けながら、やれやれ、と賈駆から離れていく。
 たまたま偶然が重なっただけじゃないか、俺が吹っ飛んだのだって人災と言っても間違いではないし。
 そう考えながら先ほどまで座っていた椅子まで離れた時、それは飛んできた。

「あ、危なぁぁぁぁいッ!」

 牛輔が顔を打ち付けた扉、侍女が顔を冷やすものを持ってくる、ということで開けられたままのそれから、唐突に一つの陰が飛来する。
 それは空気を切り裂き、その先にいる陳宮目掛けて飛んでいた。

「ヒィッ!」

 その先にいる陳宮にはそれが何かが分かったのか、驚き、怯えた声を上げたのだが。

「……フッ!」

 その横にいた呂布によって、ソレは蹴り上げられたかと思うと、広間の天井へと深々と突き刺さった――刃は潰されているとはいえ、あの軌道でいけば人へ突き刺さってもおかしくはないであろう、剣が。
 広間の扉から見える庭にて、早朝鍛錬をしていた武官の手が滑って飛んできたということなのだが、その軌道は明らかにおかしかった。
 あれかな、不思議な世界だから万有引力とかないのかなここは、と思えるぐらいに。

 へなへな、と腰を抜かした陳宮だったが、己を持ち直したのか、何故だか俺を睨み付けてきた。
 何だ何だと思ってみれば、陳宮以外にもみんなして俺を見ていた。
 いやもしかしたら俺の後ろにいる賈駆かも、とも思って振り返ってみれば、どことなく頭痛を抑えるような、嫌そうな表情で俺を見ていた。

 えっ、マジで俺何かした?
 と再び振り返って董卓達を見やれば、歯がゆそうな董卓と張遼を押さえて、呂布が前へと進み出た。
 そして、その可愛らしい唇から零れ出た言葉は、俺の今日を幸せなのか不幸なのかよく分からない境地に叩き落とすものだった。



「……詠が、一刀といれば、解決?」



 かくして俺、北郷一刀はアンチ不幸のスキルと、不幸キャンセラーの称号を手に入れたのだった。




  **




「なんであんたなんかと一緒に……月、ボクに恨みでもあるの?」

「その不幸体質に関して言えば、恨みの一つ二つあるんじゃないか? 今朝の件で陳宮にも一つ出来ただろうし」

 今日一日、北郷一刀と賈文和は離れずに仕事をすること。

 我らが主である董卓がそう任じたからには、それは守り行わなければいけないことではあるのだが。
 その任を不服としてか、それともただ単に俺が近くにいるのが気にくわないのか、広間で解散した後にとりあえず部屋に行こうと廊下を歩いていると、隣を歩く賈駆からの愚痴攻撃に早くも心が折れそうだった。
 
 あの後、賈駆からある一定の距離でアンチスキルが発動することが判明した結果、まず始めに俺の取り合いとなった。
 張遼と華雄が俺を調練に連れ出そうとすれば、董卓と王方がそれを引き留め、酷い目にあった陳宮と呂布が俺と散歩したいと言えば、牛輔と李粛がそれをさせじと動いた。
 もてもてである――もてもてではあるのだが、何だか嬉しくないぞー。
 そして、結論が出ぬまま出仕の時間となった時、本当に珍しく閃いたかのように放たれた呂布の一言によって、董卓が決断したものであった。

「うぅ……そりゃ確かに、お茶掛けちゃったり服汚したりしたのは一度や二度じゃないけどさ。ボクだって、好きでしてるんじゃないし……」

 あの董卓であるからして、恐らくではあるがそれぐらいで怒るようなことはしないだろうというのは、よく分かる。
 かといって、それで全てが我慢出来る、というわけでもないのもよく分かる。
 あれだよね、顔はニッコリ笑っても心で怒るって結構出来るよね。

 とまあ考えてみても、賈駆の不幸体質が消えるわけではないのでここで止めておく。
 目下として、まず解決しなければならない問題があった。

「それで……どっちの部屋で仕事する?」

「……仕方がないけど、あんたの部屋にしましょう。多分、ボクの部屋はまだ片付けられてないでしょうから。…………一つ言っておくけど、変なことしようとしたらただじゃおかないわよ」

 じろり、と睨み付けられながら言われた言葉に反射的に、出さないよ、と口を開こうとしたのだが。
 何故だかさっきより鋭く睨み付けられてしまえば、その気も無くなってしまった。
 結局、文官や侍女の協力もあって俺の部屋に机と椅子、賈駆の仕事を運んできて両者共に仕事を行うこととなったのである。




 いつもなら俺の補佐という形でいてくれる王方も、先ほどのことがよっぽど応えたのか部屋に立ち入ることはなく、ある程度の量を纏め終わったら侍女に持っていってもらう、という形で仕事は進行していった。
 先に分類等はしてくれていたらしく、予想していたよりも苦労することなく進んでいくのだが、先ほどよりどうにも不可解な視線を感じていた。

 視線を感じて顔を上げてみれば、そこには竹簡に向き合う賈駆がいて誰かが見ている訳でもなく。
 気のせいか、と竹簡を見れば再び視線を感じて顔を上げる。
 だが、そこにはまたしても竹簡を見る賈駆しかおらず、俺はただただ首を傾げるばかりであった。

 不幸スキル大が発動中の賈駆の恐ろしさを身を以てしっているのか、アンチ不幸を持つ俺が近くにいるとはいえ侍女と文官以外誰も近づこうとしない部屋は静かで、カロカロ、と竹簡を纏める音と筆を走らせる音以外には何も聞こえはしなかった。

 いつからか、そこに雨の音が混じっていることに気付いた時には既に日が暮れる時間帯であり、どうやらいつもより集中して仕事をしていたらしい。
 視線の先にいる賈駆も同じらしく、俺が背中を伸ばすと同時にパキポキと鳴る骨の音に導かれて、俺達は視線を交わしあった。

「……昼飯食べ損ねた」

「大体片付けられたわね。月に判を貰わないといけないのもあるから全部ではないけど、いつものこの日なら全然仕事は進まないのに」

 腹減ってる時って、自覚すると凄いお腹が減るよね、今の俺がまさにそれ。
 ぐぎゅるるる、と盛大な音を立てて飯を寄越せと訴える腹をさすりながら、大体の仕事が終わったので、と片付けを始めていく。
 王方も、今日はこれぐらいでいいだろう、なんて言ってくれたから大手を振って片付けることが出来たのは、とっても嬉しいことであった。



 だから、気が緩むというのは仕方がないということである。
 アンチスキルが緩んでしまったのも仕方がないのだ――どうやって使い分けるとか知らんけどさ。



「さあさあ、賈駆様も北郷様も一息ついてお茶にしませんか? 美味しいお饅頭もありますよ」

 なんて言いながら、ニコニコとお茶とお菓子を持ってくる侍女を見やりながら、ふと彼女に見覚えを感じてしまう。
 ええとどこで見たことが……ああ、王方にお茶を…掛け…た……侍女?
 そこまで思い至って、疑問を感じてしまう。
 何であの人またお茶運んでんの、と。

 そりゃ確かに、最初にお茶を零したのは彼女で、それは賈駆の不幸スキルのせいだと言っても過言ではないかもしれないけども。
 それでアンチスキルを持つ俺が近くにいることで不幸スキルの心配をしなくてもいいかも、なんて思うのも無理はないかもしれないけども。
 何となく嫌な予感がしてしまうのは、人としての本能か、はたまたこの世界で培った勘なのか。
 
 これから待ち受けていそうな光景を不意に想像してしまい、背筋が冷えてしまう。
 慌てて止めようと口を開けようとするのだが、ちょっと待て、と考えてしまう。
 ここで声を荒げれば驚いて転けてお茶をひっくり返すパターンではなかろうか。
 ならば、と静かに声を掛けようと思い口を開くのだが。

「あっ! ちょっと、あんたが運んだらまたお茶が零れるじゃないッ!」

 どこまで不幸なんですか、少し考えたら分かるじゃないですか、そもそも俺のアンチスキルは既にオーバーフローして一杯一杯なんですか、などなど突っ込みたいことは山ほどあったが、とりあえずやることはただ一つ――被害を受けないように机の上の書類を抱えて机の下に避難する、ただそれだけである。

「えっ! あ、申し訳ありませ――あぁぁっ! お饅頭が!」

 賈駆に怒鳴りつけられた侍女がビクリと反応し、それによって詰まれた饅頭がこぼれ落ちそうになるのを必死で止めようとして――までを確認した俺は、慌てて机の下へと非難した。
 だから、そこから先の展開は視界に入れることは出来なかったのだが、その光景は容易に想像出来てしまったのだ。

「え? なっ! こ、こっちに来るんじゃないわよッ!? って、きゃぁぁぁぁ!」

「うわわわわぁっ! 賈駆様、避けてぇぇぇ!」

 ドンガラビシャァゴンガッション、という謎の音を響かせて、恐らくは転けてしまったであろう侍女とその被害を受けたであろう賈駆を思いながら、静かになった部屋を見渡すために机の下から顔を覗かせる。

 先ほどまで綺麗に積み重ねられていた書類は無惨にも崩れ落ち、しとしと降る雨の湿気によってゴミなどを吸い付けながらぐちゃぐちゃになっていた。
 そこから視線を進ませれば、これまた綺麗に詰まれていた竹簡は崩れており、どんな不幸だよと言わせたいのか、竹を纏めていた紐が切れてばらばらになっていた。
 そこから先、机に頭をぶつけたのか侍女が目を回して気を失っており、その足下には一つの潰れた饅頭が散らばった書類を汚していた。
 そして極めつけといえば、机の傍でお茶塗れになった賈駆と、同じようにお茶をぶちまけられた机の周りにあった書類と竹簡だろうか。
 何をどうすれば、と言いたくなるように見事にお茶によるシミを作りだしている書類の上で、饅頭がこれまた何故か割れて中のアンコが絶妙なアシストをしていた。

 目を覆いたくなるような惨状、だけどそれは憚られて。
 ぷるぷると震える賈駆に、俺は何と言っていいのか、と言葉を探した。

「…………んた………よ」

 そこでふと、震えながらも賈駆の口がぶつぶつと何かを紡いでいることに気付く。
 それは、初めは聞き取りにくいほど小さなものだったのだが、段々と大きくなるにつれて形取っていく。

「あんたの…………あんたのせいよぉぉぉぉッ!」

 だから、その声が形となって俺へと降り注いでくると、俺は反射的に口を開いていた。

「ええぇぇッ! り、理不尽だッ!?」

「ボクはあんたのせいで不幸なのよッ! あんたがいなければッ!?」

「俺悪くないよッ!? 俺いなかったらみんなが酷い目に――」

「やっぱりあんたのせいだぁぁぁ!」

「何でだよッ?!」

 ジャイアンでももう少しマシ……だったような、じゃなかったような、と思えるほどの持論を展開していく賈駆から逃げつつ――もちろん書類と竹簡は被害の及ばない位置にまで避難させた――どたばたと部屋の中を走り回る。

 やり直しがほぼ決定しているからか、丸められた竹簡を惜しげもなく投擲する賈駆には恐れ入るが、お茶に濡れたまま走られるのには遠慮願いたい――ここ俺の部屋だぞ。
 もちろんそんなことに賈駆が気付く筈もなく――気付いててわざとな気もするが、俺達の狭い追いかけっこは侍女と同じようにお茶を運んできた王方が来るまで続けられた。

 

 ちなみに。
 ドロドロのグチョグチョのヌメヌメのゲロゲロという成れの果てとなった竹簡と書類はすぐさまに破棄され。
 賈駆と、何故だか俺の二人は翌日の日が昇るまでその再生に尽力したのであった。

 一言だけ言わせてもらいたい。
 ――今回一番不幸だったのって、俺じゃね? 





 




[18488] 十七話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/13 16:00




「きょ、姜維と申しましゅ! わ、わ、私を董卓様の軍に入れて頂きぇましぇんきゃッ!? はわはわ……また噛んじゃった」

「へぅ……だ、大丈夫ですか?」

 姜維とその母親を助けた俺は、騒ぎで目立った彼女達を城へと連れて行った。
 姜維が望んだ董卓軍参入、という話とも関係はあるのだが、ひとまずとして、彼女の母親の状態を気にしてのことだった。
 城へと帰った後に残って仕事を片付けていた王方へと話を通し、夕方の董卓達への面会と医者の手配を取り付けてもらった。
 というのも、安定に董卓軍が本拠を移すとなって石城で董卓を慕う豪族や民、また安定に住んでいた豪族などがこぞって董卓へ面会を求めていたのだ。

 これは、戦国時代にもよく見られた光景らしく、その地の領主や大名が変わる度に己の権利を主張したり確認したりするため、ということらしいのだが。
 そんなこともあって董卓への面会までの時間、俺は姜維とその母親を客室へと案内していた。

 医者の話では、姜維の母親は病ではなくただの疲労ということもあり、とりあえず昼時だったということもあってか食事を取らせた。
 消化によさそうなものを、ということで食堂のおばちゃん達に作ってもらった食事は意外と好評だったみたいで、そのことにおばちゃん達も喜んでいた。

 一休みした姜維の母親は顔色もよくなり、面会の時間となって広間へと彼女達を案内したのだが。

「なんだ、この空間は……?」

 未だ仕事から帰ってこない人物をのぞいて、この広間には董卓と賈駆、俺を含む三人と姜維とその母親の計五人がそこにいた。
 一応面会という形ということで、俺の位置としては連れてきた推挙人というよりも、董卓軍の一員としてその場にいることになったのだが。
 目の前で繰り広げられるカミカミの姜維と、ほわほわの董卓の応酬に、俺は知らず視線を逸らしていた。

「ちょっと、あんたがあれ連れてきたんだから、目逸らすんじゃないわよ。……そもそも、あれ使えるんでしょうね?」

「あ、それは大丈夫だと思う。見る目は確かな方だと思うから」

 見る目、というよりも持っている知識か。

 姜維といえば、初め魏に仕えていながらもあの諸葛亮にその才を見出され、蜀に下った後にはその後継となって蜀を支えた武将なのだから。
 老いたとはいえ五虎将軍の一人であった趙雲と互角以上に戦い、あの諸葛亮の策を逆手にとって彼を危機に陥らせたりと、才覚溢れる将であったという。
 惜しむらくは諸葛亮ほど内政を重視しなかったことか、度重なる北伐は蜀の国力を疲弊させていき、内外に問わず不信感を募らせてしまう結果となったのだから。
 全てという訳ではないが、後に蜀漢が滅亡した一因とも言えよう。
 だからと言って、それが目の前にいる姜維の評になるかと言われれば否であるのだが。
 
「……」

「な、なんだよ?」

「別になんでもないわよ」

 恐らくは董卓軍の助けとなるであろう人物、と姜維を評してみれば何故だか賈駆から睨まれてしまった。
 姜維の評に何か問題でもあったのか、と問いかけてみても特に何かを言われるふうでもなく、一つ鼻を鳴らした後は顔を逸らされてしまった。

「……ふふ、賈駆様は拗ねておいでなのですよ、北郷様」

 一体なんなんだ、と頭を抱えてみても答えが浮かぶはずもなく――それで答えが浮けば、元の世界でもう少し見える世界が違ったかもしれないのに、主に赤ペンで書かれる数字が。
 何だ何だと悩んでみれば、答えが飛んできたのは思わぬ方向からであった。

「拗ねているとは…………えーと、お名前何でしたっけ?」

「ああ、これは申し遅れました。亡き姜冏が妻、姜維が母で姜明と申します。赤瑠――娘がお世話になれば、北郷様とも末永いお付き合いとなりそうですね」

 くすくす、と。
 たよやかに笑うその表情は女性特有のもので、不意にドキリとしてしまうほどに綺麗だった。
 そんな俺を見てますます笑みを浮かべる姜明に恐縮しながらも、いつの間にか董卓の隣へと進んでいた賈駆へと視線を促す彼女を見ていた。

「赤瑠――他の娘ばかり褒められては、殿方の近くにいる女子からすれば拗ねるのも当然ですよ。見れば、賈駆様を一度も褒めたことがないのでは?」

「む……まぁ、その通りですが」

 貶されることはしょっちゅうあるんですけど、なんてここで言おうものなら、もし聞こえたなら、と考えてしまい慌てて口を塞ぐ。
 それを見られればまた笑われてしまい、俺はどうにも居心地が悪い思いだった。

「女子は殿方には褒められたいもの、それが気になる方とあれば特に、ね。……あら、お話が終わったようですね」

 そう言われて見れば、なるほど確かに。
 視線を移してみれば、お願いしぇまひゅ、とどうやったら出来るのか聞きたいぐらいに噛みながら頭を下げる姜維がいて、それをまた心配している董卓がいた。
 俺連れてきただけなんだけど、将を加えるのってこんなに簡単でいいのかなぁなんて考えてしまう――でも牛輔と李粛もいつの間にか参入しているのを見ると、案外そんなものなのかもしれない。

「それに――褒めておけば、貶されることも少なくなるかもしれませんよ?」

 となると、今の俺の仕事量を減らすために文官をどこかから捜してきてもいいなあ、とついつい考えてしまう。
 いやだって、王方だけじゃ足りないのよ圧倒的に。
 いくら俺が慣れてないとは言っても、さすがに連日深夜まで仕事をすれば身も心もすり減ってしまうのよ。
 やっぱり文官、或いは軍師とか欲しいよね、この時期なら徐庶とか荊州にいそうだし、探してみれば諸葛亮とか龐統とかいないだろうか。
 そんなことをちょっとワクワクしながら考えていると、姜維の元へと行こうとしていた姜明がすれ違い様に囁いていった言葉に、俺はピタリと動きを止めてしまう。

 そんな俺を訝しげに見る董卓と賈駆、姜維の視線の裏腹で、くすくすと笑う姜明に敵わないと思うと同時に感謝した。
 そう、この時をもって俺の行動思考の順位は文官を捜すことから董卓軍の姫達を褒めることへと変わったのだから。
 賈駆は当然として、陳宮も褒めたほうがいいのかな、主に俺の心身共の安寧を得るために。



 でもやっぱり文官も欲しいよな、と思う今日この頃であった。





  **





 それでも、少しでも気遣ってくれていることに感謝して、打算抜きで褒めるべきであろうか。
 ううむ、悩むところである。

 
「北郷様ー! 持って行ってきました!」
 
「ありがとう、伯約。ちゃんと詠に渡してくれたか?」

「はい! 相変わらず汚い字って言われてました!」

「ぐふっ! そ、そう……そんなに字汚いかな」

 董卓軍に参入した姜維であったが、彼女が初め上司と仰いだのが、何を隠そう俺ということになった。
 そこに至るまでに様々な問題――主に、張遼が俺に女の部下を付けることを反対したり、董卓もそれに倣ったり――があったが、概ね大きな混乱もなく姜維は董卓軍へと馴染んでいった。
 まあその理由は少々複雑ではあったりするのだが、根本的なものとしては俺を将軍へと押し上げようというものであった。

 功として評価されることは無かったとはいえ、董卓と賈駆を二度も守り、その武は並の兵士では及ばぬが如し、文官の仕事をさせればなんだかんだでやりこなす。
 極めつけが先の姜維と兵士との一件であり、それを治めた俺に対して民の評価が上がったということもあり、また兵士の失陥から不信感を抱かれないように、という理由があった。
 ようするには、安定支配のための御輿、という肩書きである。
 そして、そういった俺の下に姜維が付く、という事実がそれを堅固にした。
  
「伯約を北郷殿の下に付かせることで、董卓様の度量の深さを民に知らしめる。……賈駆様も、中々に厭らしい策を考えるものです」

「はは、詠らしいと言えばらしいけどね。むしろ月の名を落とさないという点に関していえば、詠以上の適役はいないと思うよ」

 結果として、姜維を従えた俺が董卓の下で働けば働くほど董卓の名が上がって民心が定まる、という好循環が生まれることとなり、安定の街は董卓軍が入って早二週間ほどで現状に馴染むかたちとなったのである。

「まあ、こういったのは詠や公台殿のほうが得意だし、俺は自分に出来ることをしないとな」

「その意気ですよ、北郷殿。……そういえば、伯約?」

「はい、何でしょう?」

「お願いしていた昼食は、如何なさいました?」

「…………は、はわはわはわッ! わ、忘れてましたぁぁ! 取ってきまじゅ!」

「はぁ……」

 そして、結論から言えば姜維は優秀だった。
 一を聞いて十を知る、とまではいかないが、それでもその働きは十分に感嘆するものであり、このままいけば俺が抜かれるのもそう遠い未来ではなかった。
 ただ、彼女の一点だけが、それに霞をかけているのだが。

「またですか……。どうにも、伯約は一つの事しか見えないみたいですね。将になろうかという人間があれでは、先が思いやられると言いますか……」

「は、ははは。まあでも、見えている一つの事に関して言えば優秀なんだしさ、白儀殿もそう言わないであげて下さい」

 ぱたぱたと慌てて廊下を駆けていく姜維を見送れば、それを見計らって王方の口から零れ出た評に、俺も内心同意してしまう。
 集中する、といえば聞こえがいいが、どうにも彼女は一つのことにかかると気がいかなくなるらしい。
 以前も、竹簡を陳宮の所に持っていって、ついでに先日の警邏の際に発生した問題の詳細を聞いてきてくれ、と頼んだものなのだが。
 何故か詳細を聞いて帰ってきた姜維の腕の中には渡すべき竹簡が残ったままで、急ぎだったそれは王方が慌てて持っていったのである。
 今回もそう、賈駆へと竹簡を持っていたついでに、昼食を三人前持ってくる、それが出来なければ姜維が先に食べた後に俺と王方の分を持ってきてくれと頼んでいたのだが。
 結果は先の通りである。

 そして今また。
 ドンガラガッシャン、とお約束的な音が廊下から伝わってきて、それを誰が起こしたかも知れぬというのに王方は天を仰いだ。

「姜維様ッ! またあなたですかッ!?」

「はわはわはわーッ! ご、ごめんなしゃいでしゅぶッ!」

 しかししてその後に、食堂で厨房を仕切っているおばちゃんの怒声と、姜維の慌てた謝罪が聞こえてくれば誰が起こしたかは明白なのだが。
 がっくり、と肩を落とした王方は、一言俺に謝るととぼとぼと食堂への道を歩いていった。

 ……なんで王方が姜維の世話を焼くのかって?
 それはね、彼が姜維の一応の教育係に任命されたからだよ。
 彼のこれからに、俺は祈りを捧げたかった。
 




  **





 司隷河南省に位置する都、洛陽。
 雒陽とも、洛邑とも呼ばれるこの都は古来からの王朝にとって政治経済の中心とも言える場所であり、兵家必争の地でもあった。
 前漢王朝の皇族でもあった光武帝によって後漢王朝が立てられると、洛陽はその都とされ歴代皇帝の治める地としてきた。

 しかし、叛乱を防ぐために光武帝によって権力が皇帝へと集められると皇帝に取り入るための権力争いが起き始め、結果として外威と宦官によって政治は混乱していくこととなる。
 そんな混乱の最中、時の皇帝である幽帝が寵愛を注ぐことによって権力を得た人物が、洛陽の城を闊歩していた。

「仲達! 仲達はおらんのかッ!?」

「……御呼びでしょうか、何大将軍様?」

 何進、字は遂高。
 妹である何皇太后が霊帝に見初められたことが彼女の栄達に繋がると、黄巾の乱以前に大将軍となった人物である。
 月光の如くの銀髪を艶やかに流しており、それを映えさせるかのように豪華な簪が挿されていた。
 着物をはだけさせ、豊満な肉体は局所を隠すだけに留めた彼女は、己が呼びつけた男へと怒鳴り散らした。

「お主は言った筈だ、宦官を害することによってわらわへの忠誠を誓うとな?!」

「確かに。何大将軍様の言うとおりにございます」

「ならばなぜ、いつになっても動こうとはせんのだッ!? 張譲を始め、宦官共は皆わらわを害そうとしておる! このままでは、やつらの前にわらわが殺されてしまうではないかッ?!」

 その美貌を怒りによって歪める何進に慌てる風でもなく、仲達と呼ばれた男――司馬懿は一つ呼吸を置いた。

「何大将軍様、物事を成すには成すべき時――すなわち、天運というものがあります。今はまだその時ではないのですよ」
 
「そんなことは分かっておるわッ! だが、このままではわらわは……ッ!」

「私をお信じ下さい、何進様。このような風体の私を、あなたは重用して下さった。その信に報いるために、私はこの命、何進様のために用いる所存です」

 初め、司馬懿が洛陽に赴いたとき、朝廷の者達は彼を用いようとはしなかった。
 寒気さえ感じさせる白い衣、顔半分を覆う白き仮面からは怜悧な瞳が覗き、自分達の裏側を見られているようだという。
 その才には目をむくものがあったが、そういった風体からか誰にも用いられなかったところを、たまたま通りかかった何進が気まぐれに拾ってみたのが始まりだった。
 
 自分の身体を目当てにする者、自分の権力に縋り付こうとする者、大将軍となって多くの者を見てきた何進にとって、己の命を投げ出してでも自分に尽くしてくれようとする司馬懿の存在は、存外に大きなものであった。
 
 例えそこに、女としての気持ちが混ざろうとも、自分を慕い信ずる司馬懿を傍から外すことなど、この時の何進には到底考えられなかった。

「仲達……ならば信じよう、お主のその言を。……わらわを、裏切るではないぞ」

「御意にございます」

 だからこそ、何進は自分を信ずる司馬懿ならば、と背中を向けてその場を後にする。
 宦官相手ならば、背中から刺されるやもしれぬ、と常に護衛に囲まれていないといけないものだが。
 自分を信じ、自分が信じられる者がいるということはこれだけ心地いいものかと、何進は幾許かの暖かい気持ちを抱き始めていた。










「――ふん、ああも騒ぐことが出来るとは。やはり、元は肉屋の娘というところか」

「これは張譲殿。何用で私めに声をかけられたのですか?」

 不意に、何進が去ったのを見てか曲がり角から一人の人物が出てくる。
 霊帝の寵愛を受け、十常侍と呼ばれる十二人の宦官の一人としてその実力者でもある張譲、その人であり、また何進の最大の敵対者でもあった。

「あの何進がお前の前では女の顔をするとはな……。なるほど、殺す前にお前の目の前で兵に犯させるのも、存外悪くはないのかもしれぬ」

 くくく、と喉を鳴らして笑う張譲だったが、それもすぐに飽きたのか鼻を鳴らして司馬懿の顔を見た。

「何進に仕えながら、我ら宦官に通ずる。まさか、朝廷に仕えたいと申していたお前を放り出した我らに、何進の暗殺を持ちかけるとは……」

「あのお方の下では天下は収まりません。力を持つ物、宦官の皆様でしたらそれも可能と思ったまでです」

「……なるほど、お前の言はまこと理に適っておる。だが、さきほどまで何進に甘い言葉を吐いていたお前を、はいそうですか、などと信ずることは出来ん」

 ――だから問おう、お前が求めるモノは何だ?

 そう張譲から問われた司馬懿は、その右半面を仮面に覆われた顔を俯かせた。
 その行動に張譲は訝しみながらも身構えた、その懐から懐剣が飛んでこないとも限らないのだ。
 司馬懿を信じその背中を預けた何進と、その策略に乗りながらも司馬懿を信じ得ない張譲。
 対極にある二人がいがみ合い、そして対立することは当然のことなのかもしれないが、その場にはそれを指摘する者がいる筈も無く。
 ただただ、司馬懿の口から問いの答えが出てくるのを待つばかりだった。

 そして、その口から答えが発せられた時、張譲はその意味を得ることはなく、ただ頭を掲げるばかりであったのだ。



「私が望むモノ――それは、この世界のあるべき姿ですよ」





  **





 かくして。
 緩やかに、そして着実に進められていく時の針は、たった一人によって定められた点へと歩み進んでいく。

 この段階で誰が気づけるわけでも無く、それを変える術を持つ者がいるわけでもない。
 抗う者こそいれど、その力は余りにも無力であった――外史の系図を作り得し者と出会うまでは。

 そんな彼らは今はまだ廻り逢うことは叶わず。
 外史は、新たな段階へと進むこととなる。





  **





 豫州、荊州、冀州、青州、そして涼州。

 小規模な叛乱を収め、黄巾賊を防ぎ、己が牙を研磨する領主や太守達。
 それらの人のみならず、その地に住まう人々に取って、その光景は次代の夜明けか、はたまた絶望の深淵か。
 中原を覆い、まるでそれ自体が一個の生き物であるかのように蠢く黄色の塊が確認された。


 各地を治める領主、または太守達がおざす城に各々の軍兵が駆け込んできたのもそんな時である。
 そして、彼らは一様に驚愕をもってしてその報を伝えた。





「こ、黄巾賊が各地にて一斉に蜂起ッ! そ、その数五十万とも百万ともの賊兵によって、各地の郡県が襲撃されておりますッ!」






 後漢王朝の腐敗に始まり、中華全土を巻き込みながら燃え上がった黄巾の乱。

 その乱において最大の激戦が、各地において繰り広げられようとしていた。
 



[18488] 十八話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/20 19:20




 初めに気づいたのは、早朝から朝餉の用意のために薪を取りに行った少年だった。

 小鳥の声や、人々が営みを始めていく音が響く中、家から出た少年は少し外れた倉庫にまで薪を取りに行った。
 少し外れたとは言っても村から出ているわけでもなく、周囲はそれなりに視界が開けているために特に危ないということもないのだが。
 朝霧に包まれたその時もまた、少年はさして危機感を抱いているわけでもなかった。

 薪を三本、自分の親から言われた分だけを脇に抱えた少年は、不意に視線を感じて朝霧へと視線を移す。
 だがそこに何かが見えるはずもなく――少年はそう思って振り向こうとしてが、ふと視界の端に何かを捉えた。
 それは空気の流れだったのかもしれない、一瞬だけ朝霧の中に陽光が差したのかもしれない。
 それが何であれ、それに意識を引っ張られた少年は再び朝霧へと視線を移して――朝霧を切り裂いて飛来した矢が少年の額に突き刺さった時には、既にその意識は闇の中であった。


 少年が絶命する際に落とした薪は、村中へ賊の襲撃を知らせる鐘の役割を果たしていたのだが、それは事態に間に合うことはなく村には既に黄巾賊が入り込んでいたのだ。


 かくして、この村は歴史と人の記憶から消えることとなる――傷を負い、瀕死の重体となりながらも、黄巾賊襲来を知らせるために一人の青年がその命を賭して駆けた安定の街を除いては。



 黄巾賊総勢六万。
 今まさに、それらが安定に牙を剥こうとしていた。




  **




 安定の城にある広間。
 そこで談義される議題と言えば、もちろん今まさにここを狙い進軍してくる黄巾賊のことである。
 それはもちろん大事な議題ではあるし、俺としてもそれをすることには賛成ではあるのだが。

「はぁぁ……」

 目の前で現在進行形で起こっている事象について、俺は溜息しか出なかった。
 李確と徐栄って凄かったんだな、なんて思いながら。
 
「ええかげんせえよ、華雄ッ! 相手はこっちの十倍以上おんねんぞ、打って出るだけじゃ勝てんゆうのが分からんのかッ!?」

「ならば城に篭って戦えば勝てるとでも言うのか、文遠!? 今こうしている間にも力無き民が賊徒に襲われているのだ、早急に出陣せねば救えんではないかッ!」

「だからそれを話すっちゅうねんッ! そんなんやから、稚然のおっさんに敵知って自分知って、機に乗じんと勝てん言われたんやないかッ! ええ加減に学べや、ボケェ!」

「ぐぅ……ぐぬぬぬ」

 この世界に来て初めて参加したものと同じ展開で始まった軍議だったが、李確と徐栄がいないだけでこうも違うのか、となんとなく感心してしまった。
 武官と文官の橋渡し、なんてことを言われて後を任されてみたものだが、武官と武官の橋渡しをしろなんて一言も言われてはいないと声を高くして叫びたい。
 出陣を主張する華雄と、策を考えるのが先決と張遼。
 どっちがより重要か、というのは何となく分かるものだが、かといってそれが正解という訳でもない。
 今こうしている間にも、黄巾賊の進路上にある村が襲われているのかもしれない、という点から考えれば華雄の主張も理解は出来るのだ。
 だからといって、どちらにしてもこのままで言い争っているのが正解という訳ではないのだが。
 
 背後ではわはわ慌てる姜維で和んでいるわけにもいかず、俺は視線を賈駆へと向けた。
 後を任せられたのだから、いつまでも目を逸らしているわけにはいかないのだ――決して睨み合うあの二人が怖いわけじゃないぞー。

「何か策はあるか詠、公台殿? このままだと堂々巡りだぞ」

「むむむ、恋殿の武とねねの智があれば賊徒など赤子も同然なのですが……。十倍以上とはさすがに多すぎですぞ」

「それに、今回は安定だけを守るわけにはいかないしね。ここでボク達が負ければ、石城、引いては涼州に黄巾賊が流れることになる。……それだけは、なんとしても阻止しないと」

「うん……詠ちゃんの言う通りだよ。それだけは、絶対に防がないと」

 賈駆の一言をしっかりと確認するかのように、董卓が深く頷く。
 洛陽から涼州へと続く道程において、安定はその入り口といっても過言ではない。
 洛陽側には古くは帝都として栄えた長安があるが、それを抜けてしまえばあとは涼州までは大きな都市は無いのだ。
 故に、ここで黄巾賊に敗れるということは、長安、涼州問わずにその侵入を許してしまうということになるのだ。
 だからこそ、ここは絶対に負けられる筈がないのだ――歴戦の将ならすぐに思い立つぐらいに、それはすごく単純なことなのだ。

 その覚悟を改めて認識した俺は、兵から報告を受けていた牛輔へと視線を移した。
 元々安定にいた牛輔はその上に董卓軍が入った今、その地の利を生かして斥候部隊を率いてもらっている。
 これは元々俺が就く予定であった役職ではあったが、色々な思惑から俺が将見習いになるに当たって牛輔へと譲渡されたらしい。
 かくして、主に騎馬によって編成された斥候部隊の隊長である牛輔は、その報告を口にした。

「斥候からの報告によれば、賊は手近にある村を襲いながらこちらをまっすぐに目指しているとのことだ。その数は初めの通りに六万。これまでの賊とは違い明確な指揮官がいるらしく、指揮系統とその装備も統一されているらしい。生半可な策では、太刀打ちすら出来んだろうな」

 ちらり、と睨み合う張遼と華雄へと視線を向けた牛輔だったが、その視線の意図に気づく二人ではなく、今なお言い争い睨み合いが続いていた。
 こういうことをしている場合じゃない、って言わなきゃ分かんないだろうな、あの二人は。
 牛輔も同じ考えに至ったのか、同じタイミングで溜息をつけば、それも容易に推測できた。

 こういった殺伐とし始めた空気を破るのは李粛の十八番なのだが、生憎と彼女はその名家の名を活かして民心の安定にために街へと入ってもらっている。
 あの朗らかな笑顔は安心感を与え、あの豊潤な身体は恐怖以外のものを思い描か――ゲフンゲフン、恐怖を払ってくれることだろう。
 彼女こそが適役なのだ。

 そしてこういった馬鹿をする人間に平気で冷気を帯びた言葉を浴びせる――時には冷水を本当に浴びせる――のは王方であるが、残念ながら彼もまたこの場にはいなかった。
 どんな策を取るにしろ出陣は絶対であり、いざその時のために必要な物資や武器防具を揃えるために走り回っているのだ。
 牛輔と同じで彼もまた暗愚な太守の元で政務に励んでいたお陰か、王方は平均的な文官より遥かに仕事の効率が良いのだ。
 時に飴で、時に鞭で、時に冷水で、はたまた最後に冷水で。
 こんなことは王方の前では言えないのだが、彼に睨まれてしまえばそれだけで机に向かわなければと俺だって思ってしまうものだ――勿論、冷水をかけられたくない、というのもあることは否定しない。


 そんなこんなで、その場を強引にでも収める人物は此処にはおらず、俺はただただ頭を痛めるばかりであった。
 なんでこの歳で中間管理職ばりに悩んでるんだ、と涙しながら。



  **



 同時刻、安定の城の一角にて数人の人物がその廊下を歩いていた。

「母様、いくらなんでも兵をぶっ飛ばすのはやり過ぎじゃあ……」

「別に気にする必要はないさ、死なない程度にしておいたしね。そもそも、こっちを見ればやれ黄巾賊の刺客だ密偵だ、と騒ぎ立てる向こうが悪いのさ」

「そうだよ、お姉様。おば様の言うとおりだと蒲公英は思うな」

「そりゃ、わたしだってそう思うけどさ……。なぁ、二人だってやり過ぎだと――って、あれ?」

 先頭を歩く人物――引き締まっていながらも、その粛々に主張する胸部から女性ということが分かるが、その後ろに二人の人物が続く。
 先頭の女性とは違い、こちらの二人はその服装と豊満な胸部、雰囲気から女性――と言うよりも少女と呼べた。
 その少女の一人、短めの腰布を纏い、栗色の長い髪を後頭部で一つにまとめている少女が辺りを見渡した。
 何かを探すようなその動きに残りの二人もその意図に気づいたのか、少女と同じように辺りを見渡した。

「……やれやれ、またあの二人は逸れたのかい。まったく、いったい誰に似たんだろうね」

 その女性の言葉に、二人の少女は一様に女性へと視線を向けるのだが。
 それを全く気にする風でもなく、溜息混じりに女性は言葉を発した。

「翠、蒲公英、二人を探しておいで。私は先に行ってるよ」

「ちょ、ちょっと母様!」

 端的に用件だけを伝えた女性は、後は任せたと言わんばかりに手を振ったかと思うと、困惑する二人の少女を置いて先へと歩き出した。
 少女がそれを止めようとするもそれを気にすることはなく歩いていく女性に、そんな女性をよく知っているのか、少女は肩を落としながら息を吐いた。

「あはは、こんな状況にあってもおば様はおば様らしいね。仕方ないよお姉様、右瑠ちゃんと左璃ちゃんを探しに行こう?」

「うぅぅ……分かったよ、蒲公英の言うとおりだな。よし、とりあえずは来た道を戻ってみるか」

「蒲公英も賛成!」

 仕方ない、とだけ呟いた少女は、ニコニコと笑うもう一人の少女に促されて、来た道を戻り始めた。
 その少女を追うように、もう一人の少女も後を付いていくのだが、ふと足を止めた少女は天を仰いだ。

「……何か面白そうなことが起こりそうな予感」

「おーい、蒲公英! さっさと行こうぜ!」

「あっ、待ってよお姉様!」

 その呟きが誰に聞こえるわけでもなく、ただ風に乗って散ったそれはどこへ吹いていくのか。
 何の確信もない予感である己のそれがよほど楽しみなのか、少女はくすり、とだけ笑うと自分を呼ぶ少女の元へと駆けていった。




  **




「はぁ……一体全体どうしたものやら。改めて稚然殿と玄菟殿の凄さが身にしみるなぁ」

 一向に進もうとはしない軍議から姜維を伴って抜け出した俺は、彼女にお茶の手配を任せると少しぶらつきたくなって、廊下を歩いていた。
 董卓軍が本拠を安定に移して結構な時間が経ったが、その間書類やら竹簡によって部屋を出ることが出来なかった俺にとって、その廊下の光景でさえ見覚えのあるものではなかった。
 その見覚えのない新鮮な光景を眩しく見ながら、とりあえず手持ちぶたなのもあれなので、トイレ――厠へと行こうとしたところで、ふと人声が聞こえた。

「はぁ……どうする左璃? 私達、迷子だよ?」

「ええ、迷子ですね。ちなみに、その要因として十三の行動が挙がりますが、そのうちの十二が右瑠が主なものとなります」 

 片や明るく、片や静かに。
 その対照的な声はどことなく幼い感じがするもので、黄巾賊襲撃を控えピリピリとした雰囲気のこの安定の中で、声の持ち主である二人――少女達という存在は、どこか異質に思えた。
 否、異質に見えた、と言ったほうが正しいのか。

 服で言えば、明るい少女はこの世界に来て俺が始めて見たであろう、お洒落を意識したものであるのに対して、静かな少女といえば文官調の大人しめな服であった。
 それだけであればどうと言うことはないのだが、ただ一つだけ、それらを異質たらしめる要因があったのだ――すなわち、その顔が全くの同じということに。


 一卵性双生児。
 詳しいことは知らないが、古来よりそれなりの確立で生まれる双生児において、まったくの偶然として生まれると聞いたことがある。
 双生児自体見たことがなかった俺にとって、それがどれだけそっくりなのか想像の中でしかなかったのだが、なるほど、いざ目の前にしてみればその類似性はまるで鏡で映しているかのようであった。


 栗色の髪は両者共に肩までで切り揃えられており、髪留めらしき布の色がそれぞれ赤と青であるということぐらいか。
 その白く陶磁のような肌も、滑らかな曲線の先にある薄く咲く桃色の唇までもが同じであった。
 唯一、それぞれの性格を現すかのように少しだけ垂れた目と釣り上がった目だけが、彼女達を彼女達本人として分けているようであった。
 それでも、遠くから見ればそれも判別することは能わず、普通であれば彼女達が誰であれ、判別が可能な距離にまで近づくことは無かったのであろうが――と、そこまで自分で考えて、はて、と首を傾げる。

 俺としては、彼女達が誰か、それこそ黄巾賊の刺客か密偵かも分からぬ状況で安易に近づくことはしなかった。
 ただ、迷子になっているとはいえ、城の入り口に立つ兵士が入れたのであれば、城の関係者の子供か、あるいは陳情を持ってきた子供のお遣いか。
 どちらにしても、もし泣き出すようなら連れて行こうか、などと考えていたのだが。

 その容姿が確認出来て、あまつさえその見分け方まで気づくなんてどうしてだろう、と思った俺は、無意識に思考の海に沈んでいた意識を表へ引っ張り出した。

「道が分からなければ、この覗き見をしていたお兄さんに聞けばいいと思うの。これで私のせいだ、っていうのは無しだからね」

「右瑠のせいも何も、この方に気づいたのは私の方が早かったと思いますが? そもそも、この方に道を聞いたからと言って、正たる道が分かるかどうかは現時点では予測不明でしょう。もしそうだった場合はどうしますか?」

「うぅぅ……お兄さん、左璃がいじめるよぅ」

「……………………はい?」


 そしたらね、いたんですよ――目の前に。
 意識を引っ張り挙げた俺の視界目の前に、涙を目に浮かばせながら何故か俺へと手を広げている少女と、その首根っこを無表情で押さえてそれを引っ張る少女がいた。
 同じ顔でそれをするものだから何か一人でコントをしているみたいだ、とは心の中だが、それが表へ出てしまったのか、幾分か気の抜けた返事を右瑠と呼ばれた少女に返してしまっていた。

「ほらみなさい、この方も困惑しているではないですか。そもそも、右瑠はむやみやたらと人に抱きつかないように、と翠姉様に言われたばかりではないですか。……すみません、ご迷惑をお掛けして」

「い、いや……別に何かあった訳でもないし。えーと、道に迷ってる……でいいんだよね?」

 ぶーぶー、と悪態をつく少女を置いて、左璃と呼ばれた少女が静かにこくり、と頷く。
 双生児は双生児だけど、こうやって近くで相対すれば、その性格の違いに驚いてしまう。
 董卓軍で言えば性格的に李粛と呂布みたいなものか、とも思ったのだが、その中身は全然違うか、とそれを振り払った。




 頭を振ったその動きは、途中で止まることとなる。




「恥ずかしながら、母と姉達に連れられて来たのは良いのですが、途中で逸れてしまいまして。途方に暮れていたところにあなた様が通りかかったので、お声を掛けさせていただきました。申し遅れました、私は西涼太守馬騰が娘、姓は馬、名は休、字は草元と申します」

「あっ、左璃だけずるいよ! 私は姓は馬、名は鉄、字は元遷って言います。よろしくね、お兄さん」

 
 馬休、そして馬鉄と言えば、馬騰の息子としてよく父を補佐し、正史、三国志演義、どちらを問わずとも、父と共に曹操に討たれた人物でもある。
 そして、かの猛将の弟達でもあるのだが。


「あ、こちらこそ。ええと、俺の名前は――」

「――そこの男ッ! 私の妹達に、手を出すなぁぁぁぁぁ!」

「北郷か――って、ええええぇぇぇぇぇぇ!?」


 自分の名を名乗ると同時にその猛将の名前を頭に思い浮かべたとき、聞こえてきたのは俺が名乗った自分の名――ではなく、馬休と馬鉄を妹達と呼ぶ声であった。
 そして声の方を見てみれば、まるでその距離など元から零であったかのように一足で駆ける少女がいて、嫌な予感が脳裏を駆けた時には、それが正解だと言うかのように少女は名乗りを上げた。


「この馬孟起の銀閃は悪を貫く白銀の槍! 悪人らしく大人しくくらいやがれ、このやろぉぉぉぉぉ!」

「だ、誰が悪人かッ!? って、うわぁぁぁぁぁぁ!」


 ふと、両親がまだ生きていたころのことを思い出した。
 テレビを見ていた時、画面では逃げる犯人と追いかける刑事という構図では必ずと言っていいほどよく聞く台詞があった。
 大人しくしろ、待て、諦めろ、などなど。
 幼い頃にはそれらの台詞を守ろうとしない犯人に憤っていたのもだったが、今の俺ならその犯人達に謝罪しつつその気持ちに同情出来る。
 自分がどうなるかって時に、その言葉に従う理由などないのだと。
 だから俺も、目の前で槍を振りかざす少女の言葉に頷く必要などはなく、それに抗ってもいいのだと――両親のことを思い出したのが、決して走馬灯ではないのだと願いつつ、懐に潜ませていた鉄棒を取り出した。


「なッ?! 私の一撃を受け止めた……ッ! 右瑠、左璃、その男から離れるんだッ! こいつ、只者じゃないぞ……」

「痛っつ……なんて力――って、て、鉄の棒が曲がってらっしゃるぅぅぅ! 鉄を曲げるとか、どんな馬鹿力してんだよッ!?」


 ガギンッ、と。
 先日の兵士より明らかに重たそうな一撃を受けるために両手で構えた鉄棒へ、少女――馬超はその武を振るった。
 まるで腕を直接殴られたかのような衝撃を受け鉄棒を握る両手が痺れるが、それをなんとか耐えて見せると、それに驚いたのか馬超が後ろへと飛びのいた。

 俺としては、その戟の鋭さと馬鹿力加減に驚くほかしかないのだが。
 上に振りかぶっていたから頭に落としてくるだろう、と半ば博打的に構えた鉄棒だったが、その勘が当たってくれて本当に良かったと、心の底から安堵できる。
 これがきっと横薙ぎだったり、頭ではなく肩などへ落としていれば、今ここにいる俺が五体満足でいられるとは到底思えなかった。
 それこそ、首がそこら辺に転がっていた可能性もあったのかもしれない――そう思うと、首筋がヒヤリとした。

「その武、見たことの無い服……あんたが兵が言っていた黄巾賊の刺客だなッ! その首取って、共闘の手土産にしてやるッ!」

 そう言って槍を鳴らして構えた馬超は、有難くもなく俺の武を認めたのか、今度こそ本気とでも言うように俺へと殺気を放つ。
 纏わり付くようで、心臓を摑まれたと錯覚しそうなほど濃厚な死の予感に、俺は知らず鉄棒を硬く握り締めていた。
 黄巾賊の刺客、というのはいくらなんでも誤解ではあるが、そう言って聞いてくれそうなほど穏やかな雰囲気でもない。
 ならば、取れる道は一つしかなかった。

 

 覚悟を決める。
 鉄棒を、使いやすい形に持ち直す。
 おそらく、保ってあと数撃ほどか。
 一撃で止めて、馬超を無力化するしか、道はない。
 どれだけ無謀なことか、考えなくても分かる。
 これは呂布や張遼達とやるような仕合じゃあない。
 勝たなければ殺される、将同士の一騎打ちなのだ。
 三国志を代表するような豪傑の本気の一撃が俺に止められるかどうかも怪しいものだが、成せねば死ぬのだと、自分に言い聞かせた。



 一つ深呼吸をして、その中にある意識を迎撃へと切り替える。
 それを馬超も感じ取ったのか、殺気がさらに濃厚になるのを感じ取りながら、その一挙一足を凝視した。


「いっくぜぇぇぇぇぇぇ――」


 そして、馬超が一気に駆け出した――








「いい加減にしないか、馬鹿娘が」








「――あいだァッ?!」

 ――直前、その頭を叩いた人物によって、その殺気は霧散した。
 否、その殺伐とした空気はぶち壊された。



「……こんな忙しい時に軍議を放り出して、何やってんのあんたは?」

「……あれ? 何で詠がここに……月と霞までいるし」

「一刀さん……」

「一刀……どんだけやねん」

 俺といえば、先ほどまでの覚悟は何だったのか、と思えるぐらいに拍子抜けしてしまい、不意に叩かれた後頭部の痛みもそこそこに、どうしてこの場に董卓達がいるのかと疑問だった。
 いや、いること自体はさしたる問題ではない。
 ここは安定の城で、俺も先ほどまでその一室にて軍議に参加していたのだし、騒ぎを聞きつけてここに来た、ということでも別に不思議ではない。
 ただ唯一、馬超を止めた人物と一緒だった、ということだけが理解出来ないでいたのだが。

 その人物が放った、娘、という単語に、冷静になり始めていた思考は、その正体を大まかに予想していた。

 

 そして、その予想は当たることとなる。




 何やら荒ぶる馬超へともう一発拳骨を落としたその人物は、俺へ視線を向けると共に、こちらへと歩いてきた。
 そして、その口から予想通りの言葉が出るのを若干期待して――







「馬鹿娘達が迷惑を掛けたみたいだね、私は西涼太守にして、西涼連合が盟主、馬騰、字は寿成と言うもんだ。お初にお目に掛かれて光栄だよ、天の御遣い、北郷一刀殿――いや、最近では天将殿、と呼んだほうがよろしいのかな?」







 ――全く想像だにしていなかった言葉に、大きく裏切られることとなった。






 天の御遣い?
 天将?
 何それ、である。



[18488] 十九話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/28 15:30



 渭水。
 
 中華において長江の次点に位置する黄河の支流であり、その流域の盆地は関中と呼ばれ、その土壌によって黄河下流域における中原に次ぐ生産力を誇っていた。
 古くには秦や前漢がこの地を支配し、その生産力と、四方を険しい山々で囲まれた天然の利によって、その支配力を高めていった。
 この地を支配したことが、彼の国が天下を統一出来た要因とも言える程に、戦略上において渭水は大変重要な河川だったと言える。
 王城の地、百の敵に対して一の兵で戦える、との評がそれを物語っていよう。




 ううむ、もしかしたらこの光景を始皇帝も見たのだろうか、とも思ってみれば、そんなわけでもないのに何だか偉くなった気がした――無論、しただけである。
 断じて今現在の俺の役割を勘違いしたわけではないのだと、先に言い切っておく。
 それでも、三国志の歴史を、中華の歴史を囓った者からしてみれば、数多の戦場となり歴史を刻んできた地を望むのはいかにも感慨深い。
 このまま渭水を下って長安、果ては洛陽にまで行ってみたい気もするが、今現在の状況と役割からして、それは無理かと思い直した。

「出陣の準備が済んだよ、お兄様」

「い、いつでも出られるぞ、ご、ご、ご主、ご……」

 きっと今それを成そうとすれば、次こそ本気で斬られそうな気がする――そう確信させるに至る、それを成すであろう人物である馬超は、顔を真っ赤にして盛大に狼狽していた。
 その光景を見る馬岱の笑顔がやたら爽やか過ぎて、それに馬超が反応して睨んできて――一体全体、俺にどうしろと言うのだろう。

 とは言うものの、馬超がそこまで狼狽するのに、俺が全く関係が無いのかと言えば嘘になる。
 むしろ、盛大に関係していた。

「ありがとうございます、伯瞻(はくせん、馬岱の字)殿。後は指示があるまで待機、と兵達に伝えておいてください。……孟起殿は、少し落ち着かれてください。言いたく無ければ無理をしなくてもいいと思いますし」

「ぐっ……あ、あんたのせいでこうなったって言うのに……」

「あれはお姉様が悪いと蒲公英は思うんだけどなー。おば様もそう言ってたし」

 ぐぬぬぅ、と馬岱によって攻められた馬超のなんと可愛いこと――と言えば、すぐさまその槍が飛んできそうなので口には出さないが、それと同時に同情を抱くのを禁じ得ない。
 あの叔母あってこの従妹ありか、とは一部始終を見ていた牛輔の談ではあるが、なるほど、こうして近くでその様を見ていれば、あながち間違ってもいないと思えてくるから不思議だ。

「ほらほらー、お兄様のこと何て呼ぶんだったけー? ちゃんと言わないとおば様に言いつけちゃうよー?」

「ぐぅ……そ、そしたらこいつと……ま、毎晩…………駄目だ駄目だ、それだけは駄目だッ!」

 勢いよく頭を振る馬超に、一体どんな想像をしたのか、と意地悪な気持ちで問いかけてもみたいのだが、そんなことをすれば今度こそ首が飛びそうな気がしてそれを諦める。
 だが、馬岱はそんなことを気にすることもなく、一体何が駄目なのかなー、なんて聞くものだから、いよいよもって馬超の顔が真っ赤へと染まる。
 そしてその皺寄せは俺に来るのか、と出来れば認めたくないその事実から目を背けつつ、何でこんなことになっているんだろう、とふと思い至ることとなった。
 まあ、全ては馬騰の一言から始まったんだけどね。

「くっ…………ええい、ご主人様ッ! これでいいんだろう、蒲公英ッ?!」

「きゃは、お姉様ったら顔真っ赤にしちゃって可愛いんだから、もう。ほらほら、お兄様もお姉様に何か言わなきゃ!」

 そして、その姪はどうあっても俺を巻き込みたいらしい。
 片や期待と好奇心に瞳踊らせ、片や呪いやら恨みやらが籠もった視線をそれぞれ向けられつつ、最近多くなったなぁ、と思える溜息を俺はついた。
 いやはや、本当、いったい何でこんなことになったのだろう

 


 ただ、言葉にするのは簡単なのである。
 馬騰が発したのは実に単純明快なものであった。



 馬超と俺が夫婦になれ、たったそれだけである。





  **





「……共闘、やて?」

「はい。此度の来訪、我々馬家は黄巾賊への対応策として、共闘の意を伝える使者としてまかりこしました」



 安定の城の一室。
 様々な騒動――主に馬騰に始まり、馬三姉妹に関することばかりなのだが、それらを経て俺を含む董卓軍の面々と、馬騰達はそこへと集うこととなった。
 先ほどまで軍議をしていた部屋よりは広めに間取られたその部屋は、馬騰達に加え、先ほどまで軍議に参加していなかった王方や徐晃などが入ってなお十分な広さがあった。
 
 そして、その部屋の中央で董卓軍と馬騰達を隔てる机を挟んだ俺達であったのだが、何故かチラチラと感じ取れる視線にくすぐったさを感じながら、どうしてだろうと首を傾げる。
 とりあえず、馬超に睨まれるのは無理もないと思う――彼女の誤解だということは既に説明済みであるが、そうすぐに思考を切り替えられる筈もないだろうし、そもそもそれが出来る人なら誤解などしないだろう。
 だからその分には目を瞑る。
 もちろん董卓や賈駆、張遼の視線にも耐えてみせよう。
 姜維がお茶を運んで来た後に、いつまでたっても帰ってこない俺を心配し、なおかつ金属音が響いたと思ったら俺が危うく斬られそうになっていた、となれば心配して損したばかりか、この火急の時に何をしているんだ、と思われても仕方がないものだと思う――張遼のはどことなく違う感じもするが。
 こう、玩具を見つけた子供か猫か、みたいな感じ。

 ならば誰の視線か、ということになるのだが。
 考えるまでもない、俺の目の前に座る馬家の面々のものだった。
 無表情の馬鉄は他として、何故かニヤニヤと笑いながらのものではあったが。

 そんな視線を感じつついると、ふと馬鉄と視線が合う。
 その無表情さに、今なお本当に馬休と双子なのかと疑心してしまうのだが、隣の馬岱と何か楽しそうに密談する馬休を見れば、いよいよもって疑心が確信へと変化しそうである。
 性格が違うとか問題ではなく、全くの別人ではないのだろうかとも思えるその表情を眺めていれば、ふいに俺から視線を逸らした馬鉄が口を開く。

 そして、その唇から漏れ出た言葉こそ、董卓軍に対する共闘の要請――すなわち、同盟の言葉であったのだ。


「なるほど。西涼を治めるそちらにとって、ボク達が破れることになれば、黄巾賊が西涼に雪崩れ込む可能性は捨てきれない。ならば、先に共闘して事に当たることによって、その可能性を少しでも減らしたい――そんなところかしら?」

「……さすがは董仲頴が鬼謀、賈文和殿です。その見解に相違ありません。万に満たない董家の軍が、六万にも及ぶ黄巾賊に当たるにはあまりにも脆弱です。そして、もし董家が破れた場合、その勢いに乗って黄巾賊が石城はおろか、益州ならびに涼州へ雪崩れ込むであろうことは必定と言えましょう。ならば――そう思い至ることは、自明の理でありましょう」

  
 外に異民族を迎え、内に火種を抱える我々にとって、両者を共に相手すること、それだけは避けねばならないことなのです。

 そう続けた馬鉄は、ちらり、と俺を見やった後に、その視線と馬騰へと移した。
 その視線に込められた意味が理解出来るはずもなく、首を傾げる俺をちらりと見た馬騰は口を開いた。


 ――と言うより、さっきからなんでこんなに見られているんだ、と俺は内心更に首を傾げるのだが、その理由が判明するのはもう少し後だったりする。


「ぶっちゃけて言えば、こちらの兵を貸すから黄巾賊を倒してくださいってことさ。騎馬千、弓兵千、歩兵三千の計五千。こちらも色々と事情があるからこれ以上は出せないが、それでもこれだけの兵力がいれば十倍以上の戦力差が五倍近くにまで減るんだ。……まぁ、受ける受けないは董太守の決断次第だろうけどね」

 そう言う馬騰に促されて董卓へと視線を移せば、なにやら考えているようで。
 おそらく、ではあるが結論がほぼ決まっているであろう董卓の思考をわざわざ邪魔する必要もなかろう、と声をかけることはしなかった。
 と言うよりも、それしか道がなければそれをしなければならないことは明白であり、董卓が否と言っても説得するしか他にないのだが。

 そして、みんなもそれを知っているからこそ董卓の思考に口を挟むことはしない――それよりも、皆一様に疑問を抱えているからでもあった。
 華雄だけは、馬家の兵力など無くても、といつも通りではあったが。

「手ぇ組んで、黄巾賊をぶちのめそう、そう言うのは分かるんやけど、それにわざわざ西涼の太守様が出張るっちゅー理由が分からん。その辺きちんとしとかんと、信頼せぇちゅう方が難しい話や」

「……さらに解せんこともある。馬太守のみならず、その娘達まで来る必要があるのかどうか、とな。事情があるならば、文官一人、来ても馬家の一人で十分事足りるだろうに。それが馬家の面々総出で来た――その理由は一体何だ?」

 その疑問を問いかける張遼と牛輔の声に、知らず緊張が場を支配する。
 思考していた董卓もそれが気になっていたのか、それを中断してまでその理由を知るであろう人物――馬騰へと視線を向ける。
 そしてその理由は馬家の面々も知らなかったのか、馬超のみならず馬岱や馬休までもがその視線に加わる。
 唯一、馬鉄だけがそれに加わらなかった――どころか、何故か俺へと視線を向けているのである。
 一体何故に?


 その疑問は、直後氷解することとなる。
 馬騰が放った、その一言で。



「んー、まあ隠してても意味が無いんで言っておくけど、元々はそこの天の御遣い殿――天将殿だったっけ? まあどっちでもいいけど、彼を見たかった、っていうのが一番の理由ね」



「へっ……俺を?」

「……そもそも何、その御遣いとか天将って? こいつにそんな価値があるとか思えないんだけど?」

 そう言って指を差された後に、他にも治安とか市の繁盛具合とかまあいろいろあるけど、と言う馬騰の言葉に、むしろそっちが本命ではなかろか、などと勘ぐりたくなってくる――というかしてしまう。
 それは賈駆も同じだったらしく、それを疑問に思う声に同意を隠せないのだが。
 だが、その疑問は予想していた馬家の面々ではなく、意外な人物――牛輔が解いてくれた、というかさらに驚いてしまったとも言えるが。

「……知らなかったのですか? 安定の民の間で噂されているのですよ――石城、董仲頴の下に一人の青年現る、天下にて能わぬ衣を纏いし彼の者、天下に比類無き智を以て涼州の地を富ませる天からの御遣い也、と。最近では姜維殿を配下に加え将となった、ということから天将とも呼ばれているそうですが……。馬騰殿の言をみるに、恐らく涼州中に広まっているのでしょうな」

「む……だが兵からも民からも、そのような北郷が御遣いなどという噂は聞いたことがないぞ? 確かに武はそれなりかもしれぬが、天将などと……」

「……恐らくですが、ここ安定には漢王朝から派遣されていた太守がいました。龍と言われる皇帝にとって、天とはその拠り所、そのものでもあります。その名が一個人に付けられる――それがどれだけ危険なことか、民は理解していたのでしょう」


 馬鉄は言う。
 後漢王朝の皇帝が龍であり天であるならば、その名で民に慕われる俺が後漢王朝にとって邪魔になるのは目に見えている――それこそ、民にも理解出来るぐらいに。
 だから、民は知られず知らせず、密かにその名に縋っていたのだろう。
 だがそれも終わりを告げた――安定を董卓が有することによって。


「だからこそ、天の御遣い、天将の名は堰を切ったかのように密かに、そして確かに広がり始めた。西涼の民が知っているぐらいですから、恐らくは長安はもとより洛陽、遠くは徐州、揚州まで広がっていたとしても不思議ではありません。となればこそ、その人物に興味を抱くのは無理らしかぬことなのですよ」

 そう言って俺に視線を移す馬鉄を見れば、馬騰と馬休、それにそれまで興味の無さそうだった馬超までもが俺へと視線を注いでいた。
 その視線の裏に、この時代に生きる民やまだ見ぬ英雄豪傑の視線を見つけ、知らず身体を震わせていた。
 恐怖でもなく、武者震いでもなく、自分を見極めようとするその視線。
 決して気持ちのいいものではなく、だが知らず手を握りしめるその感覚は不思議と気分を落ち着かせた。

 となると同時に、ふとその名についてに思考が及ぶ。
 天の御遣い、その名が持つ意味がどうであれ、自分がそう呼ばれているということは事実なのである――多少恥ずかしいものはあるが、それでもその名は民の拠り所になろうとしている。
 自分にそれだけの価値と魅力があるとは思えないし、思うこともないが、それでもこの名を求める人々がいるのであれば、それを利用することも視野に入れなければいけないのかもしれない――丁度、黄巾賊が襲来しようかという今みたいな状況ならばこそ、である。

 俺の思考と同じ考えに至ったのか、ふと視線が賈駆と合う。
 それは覚悟を求める類のもの、それこそ、初めて自分から強くなりたいと願った時の祖父のものと似ていた。
 見渡してみれば、賈駆以外にも、張遼や牛輔、華雄に至るまでが同じ視線であった――姜維だけが、俺を心配してくれるものではあったが。
 そして視線を移してみれば、董卓もまた、俺へと視線を向けていて。
 俺は、その視線に答えるように深く頷いた。

 そして、俺の覚悟を飲み込むかのように、董卓が口を開いた。


「……分かりました。共闘――同盟の件、お願いします」


 と。
 









「さて……じゃあ共闘の件はそれで終い。実は、境界まで兵を連れてきてるんだよ。右瑠、ちょいと早馬になっておくれ」

「了解だよー、母様。それじゃお兄さん、またねー」

 そうと決まれば、と手を鳴らした馬騰は、傍らにいた馬休へ早馬として指示を出す。
 境界にまで兵を連れてきている辺り、もしかしたら拒否された場合攻め入ろうとも、なんて思ったものだが、馬休から違うと言われればそうですかと答えるしかなかった。
 というか、拒否と答えていればどうなっていたのだろう、とふと疑問に思ったのだが。
 無表情を崩して、くす、と笑った馬鉄に恐怖しか感じ得ないのは、俺がただ臆病なだけなのだろうか?

「とりあえず、馬鹿娘――馬超と馬岱は置いていくから、扱き使ってやってくれ。生半可な鍛えはしてないから、役立たずではないと思う」

 すぐに無表情になった馬鉄に、どんな思惑があって笑ったのだろうと怖いもの見たさで考えてみれば、馬騰の声に驚くほかなかった。
 錦馬超が援軍とか、どんだけ豪勢なんだよ、としたところでふと思い至る。
 呂布に始まり、張遼や華雄や徐晃などの豪傑、賈駆や陳宮の軍師に、脇を固める李粛に牛輔。
 王方と老いてなお盛んな李確と徐栄は後方支援とし、止めに馬超と馬岱の援軍。
 あれだな、ゲームで言えば天下統一出来る戦力だなこれ。
 
 などなど、そんなどうでもいいことで俺が感嘆してみれば、指示を出し終えたのか再び手を鳴らした馬騰が、瞳を爛々と輝かせた。
 どう考えても、厭な予感しかしない色である。

「最後になったけど、この馬鹿娘の処遇についてだが、そちらの要望は何かあるかい?」

「ちょ、母様ッ!? 処遇って何だよ、処遇ってッ?!」

「処遇は処遇さ。……それとも何かい? あんたは他所様の将を殺そうとしておいて、何の罪もなく許してくれると思ってんのかい?」

「うぐっ……」

 馬騰の言葉に己のことが含まれていたからか、それまで終始不機嫌な顔で黙っていた馬超が、そこで久しぶりに声を上げた。
 慌てるように己の母に問いただす馬超ではあったが、母から返されたその解に自分も思い至っているのか、うぐ、と声を詰まらせたかと思うと、何故だか俺を睨んできた。
 その頭をパカンと馬騰が叩けば、その視線はそちらへと移ったのだが。

「へぅ……処遇と言われても、これから共闘する方々に罰を与えるというのはちょっと……」

「……それに、それで恨まれて策自体が崩れでもしたら、本末転倒だしね」

「ふぅむ、そう言われてもねぇ……天将殿はどうだい、何かあるかい?」

 共闘することになって話し合ったことではあるが、馬家の軍師である馬鉄と董家の軍師である賈駆と陳宮で考えついた策で、ということになった。
 何やら話し込んでいる内容自体は今いち理解しずらいものであったのだが、その顔がいやに悪そうだったことだけ表現しておこうと思う。
 お主も悪よの、いえいえお代官様こそ、というレベルだった。

 そして、董卓と賈駆が危惧することは、もし馬超を罰した時に起きる誰彼が悪いという恨みによって、その策が機能しないかもしれないというものである。
 馬家の軍兵五千が増えたとはいえ、その戦力比こそ減りはしたが絶対的な戦力差が覆ることはない。
 黄巾賊の総数が六万なのに対し、こちらが動かせる最大限の兵力は当初より五千増えただけなのである。
 石城と安定の防衛戦力を残したとしても、董卓軍が捻り出せるのは五千まで、馬家と併せれば一万ほどでしかない。
 戦いは数だ、とは誰かの言葉ではあったが、それからしてみれば実に頼りない数である。
 それでも当初の絶望的な状況よりは多少ましになったのであるから、ここでそれに亀裂を入れるわけにはいかないのだ。

「うーん、何もありませんね。そもそも、特に怪我があるわけでもないですし」

 だからこそ、俺も当たり障りのない答えに留めておいた。
 死にそうになった以外特に実害も無かったので、それでもいいか、と思ったのである。
 一応被害者だからということか俺にまで意見を求める辺り、馬騰もその辺は真面目な人らしい――そう思っていた時が、俺にもありました。


「そっか、何もないのか。それは残念だ実に残念だなー」

 全然残念そうには聞こえない棒読みの声に、先ほどの厭な予感がふつふつと蘇る。
 それは馬超も同じだったのか、或いはそういう時の馬騰がどんな人物なのかを熟知しているからなのか、その額に汗を流しながら怯えたように己が母親へと問いかけた。

「え、えっと母様? そ、そろそろ帰ったら――」

「よし、ならうちの馬鹿娘の罰はうちで片付けさせてもらうよ」

 だがしかし、その問いも虚しく――というよりは思いっきり無視した馬騰は、口を開いた。
 俺の視界で、馬鉄がもの凄く申し訳なさそうに頭を下げる辺り、彼女は何を言うのかを知っているのかと思うと同時に、とてつもなく厭な予感が的中してしまったのを知ってしまった――否、理解してしまった。



 つまりである、西涼太守であり西涼連合盟主でもある馬寿成は、己の娘に対してこう言ったのだ。







 馬孟起に命ずる、天将、北郷一刀と夫婦となりてその子を成せ、と。





 

  **






 は?

 馬騰の言葉の後、無言の室内に響いた戸惑いの言葉は一体誰のものだったのか。
 俺自身も何を言われたのかが全く理解出来ずに、ただただこちらに申し訳なさそうにする馬鉄と、何やらニコニコと笑う馬騰の視線を受けて困惑していた。
 それが刹那のことだったのか、それとも一瞬のことだったのか、あるいは光陰のことだったのか、と全然落ち着けていない思考で考えてみれば、ようやくその意味を理解するに至ったのだ。



 古来より、婚姻関係を結んでの同盟強化というものは決して少なくはなかった。
 中華の歴史ではよく知らないのだが、日本の戦国時代には極当たり前のようにそれが行われており、有名なとことでは甲駿遠三国同盟や織田と浅井の同盟などがあり、数え上げればきりがない。
 家臣団強化というのであればこの時代にもあったのであろうが、まさか共闘が決まったばかりの相手に、しかもその一臣に対してというのは、いくら俺が天の御遣いなどと呼ばれててもありえないだろうとは思ったのだが。

 馬騰からしてみれば、それほど荒唐無稽なことではないらしい。
 天の血が馬家に入れば、それに縋ろうとする民を治めるには好都合であるし、後漢が続こうと乱世になろうと、どちらにしても意味がある、ということらしいのである。
 のであるのだが、こちらにしてみれば全然旨みがない。
 そう言った馬騰は、馬超を人質ということにしたのである。

 この状況、古今東西でも同じ表現をするのだろうか。
 嫁に出す、とはこのことを言うのだろうな、と何故か人ごとのようにそう思っていた。

 
 結局、夫婦となって子を成すなんて、と顔を真っ赤にした馬超の猛抗議によってその馬騰の案は潰えることとなる。
 必死になって嫌だと言われてみれば、そんなに嫌われているのかと少し鬱になってしまうのだが、馬超とは別に反応した董卓軍の面々に、それも止めて慌ててフォローすることとなった。
  
 董卓は、夫婦とは恋人の延長であり恋人ということはそういうことをするということでありそういうことをして初めて子が成せて、とぶつぶつ言っていたかと思うと、へぅ、と顔を真っ赤にして煮えたぎり。
 賈駆は、しばらくの無言の後に最低、と呟いたきりその不機嫌さを隠すことはなく。
 呂布はその意味が分かっていないのか頭を傾げ、陳宮は董卓と同じく顔を真っ赤にさせていた。
 姜維も同じく顔を真っ赤にさせている横で、先越されたけどまだ手はあるで、と何やら不穏なことを口走る張遼がいて。
 牛輔は我関せずを貫き、華雄だけが空気を読んだのか読んでいないのか、それは目出度いと祝ってくれた――祝われているのにあんまり嬉しくないとはこれ如何に。

 
 馬超の抗議と俺の説得によってお流れとなった案にぶーぶー言いつつも、ならば、と馬騰は代替え案を出してきたのだが。 
 それが、ご主人様と呼んで俺を慕うこと、とはあまりにも不憫である――誰が? 馬超の感情をぶつけられる俺がに決まっているだろ。


 
「ま、まぁその……悪かったよ、巻き込んじゃって」

「いやまあ、孟起殿というよりも寿成殿に巻き込まれた感が強いんですけど……」

「その、母様はいつもあんな感じなんだ。周りを巻き込んでは被害を大きくしていく、まるで竜巻だ」

 ああなるほど、言い得て妙である。
 今回の布陣にしてもそう、騒ぐ馬超を放っておいて馬鉄と共に淡々と布陣を決めていた時には、何故だか馬超、馬岱と共に俺が西涼部隊へと編入されていたのだから。
 賈駆には勝手にすれば、と放り出され、放心していた董卓が助けてくれることも叶わず、しかも唯一の味方である姜維まで取られてしまった。
 馬寿成、裏心丸見えである。

 そこまでして天の血が欲しいのか、と問いただそうとも思ったのだが、その時はその時で孫の顔が見たい、とか言われそうだ。
 結局、その指示通りにするしかなかったのである。

「それになんだ……ご、ご主人様もあたしなんかより、蒲公英とか右瑠や左璃の方が可愛くていいだろ? あたしみたいな可愛くなんか無いのよりさ……」

「うーん、伯瞻殿や草元殿達も可愛らしいですけど、孟起殿も可愛いと俺は思いますよ? あ、だからと言って子が欲しいという訳では無くてですねッ!? その、孟起殿も可愛いんですから何時かいい人がいたら、そんなこと言わずに女の子としてですね――」

 自分で自分を可愛くないと言ってシュン、と項垂れる馬超。
 こんな武器使ってるしさ、等と乾いた笑いで笑う馬超が痛々しくて、そしてふと可愛いとか思っちゃって、俺は柄にもなく本音を話してみた。
 とは言っても、子が欲しいという訳じゃないぞ。
 そりゃ俺も健全な男子ではあるからそういったことに興味がないわけじゃないが、それでもそういったのは本当に好きな人とするものだと俺は信じている――そこ、妄想言うな。

 だけども本音をこうやって零すのは非常に恥ずかしい。
 それに負けて後ろへと振りかえってみれば、何故だかカチャリと音がした。
 …………カチャリ?

「あ、あんた――いや、ご主人様は、そうやって女を口説いてるんだな……ッ! 右瑠と左璃もそうやってッ!?」

「い゛い゛ッ!? な、なんでそんなことに――って、銀閃を構えるなぁぁぁッ!」

 その音を不審に振り返ってみれば、何かのオーラをまき散らす馬超がいて。
 彼女が己の武器を構えた音が、背筋に氷を差し込んだかのように恐怖を倍増させていた。

「あたしが可愛いって嘘ついて……みんなにも可愛いって言って騙して……そんなご主人様、修正してやるー!」

「い、いや嘘じゃないって――ってうわぁぁあぁぁああ! 擦った、ほらパラリって髪が! 下手したら首落ちてたってッ!?」

「…………それもいいな」

「いいわけあるかッ!?」  

  軽々と空気を切り裂いて振るわれた銀閃を、慌てて後退して何とか避けた。
 見極めが甘かったのか、避けきれなかった前髪数本がひらひらと地面へと落ちていったが、首が落ちなかっただけ良しとしておきたい。
 ご主人様がいなくなれば、とか不吉なことを呟きながら迫る馬超から、じりじりと距離を離していく。
 熊と会ったときは背中を向けず視線を合わせて後退する、だっただろうか、等と一つも関係なさそうで実に今の現状と関係しているその知識に、俺は縋り付いた。
 ていうかだ、そんな理由で首落とされてたまるか。

「……あたしの目が黒いうちは、右瑠と左璃に手を出すことは駄目だかんなッ!? もちろん蒲公英にもだッ! あたしのことをか、か、可愛いって言うのも禁止だぁぁぁぁ!」
 
「真っ赤になるぐらい恥ずかしいなら言うなよッ?!」

 とは怒鳴ってみたものの、下手なことを言えば本気で首を落とされかねないと思った俺は、慌てて振り向いて走り出す。
 それを逃亡と取ったのか、はたまた自分の命令への拒否だと受け取ったのか。
 まるで猛る牛馬の如くで俺を追いかけ始める馬超から逃げ出すために、慌てて足腰に力を入れる。
 速度を上げた俺に追いつくために、同じように速度を上げた馬超から本気で逃げ回りつつ――それは、馬岱が出陣の指示が来たと告げに来るまで続けられた。



 やっぱり不憫だった。


 



[18488] 二十話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/28 15:57

 渭水から安定に至る道すがら、六万もの群衆となった黄巾賊の中心。
 白いものが混ざり始めた髭をさすりながら、趙弘は上機嫌だった。

 
 元々趙弘は、荊州南陽において黄巾賊を指揮する張曼成の配下の将であった。
 今回の各地同時蜂起においても、張曼成が指揮する本隊が南陽を攻めるにあって、別働隊を率いて南郡を攻める予定であった。
 事実、南陽を攻める本隊九万のうち二万を率い、いざ、という時ではあったのだが。
 急遽、華北にて各地を攻める黄巾賊本軍からの使者を名乗る青年――半分に割れた白い仮面を付けた于吉という青年は口を開いた。


 曰く、兵を率いて涼州へと攻め入れとの指示でございます、と。


 口元は緩めて笑いながらも、その瞳が一つとして笑みを浮かべていないことなど、趙弘としては気付かない筈はなかった。
 それを知られながらも尚している気がある辺り、どうにもその青年を信用することは出来なかったのだが、本隊からの指示とあっては、と慌てた張曼成は涼州方面の指揮を趙弘へと受け渡したのだ。

 涼州方面の指揮権を得たのは幸運ではあった、だが趙弘はすぐに涼州に攻め入ろうとは思わなかった。
 南郡を攻める予定であった二万の兵をそのまま用いる、ということになったのはいいが、それで涼州へ攻め入るには些か少ないと考えてのことだった。
 華北では数十万という兵が動いて各地にて官軍を討ち攻めてはいるようだが、華南ではそれほど兵が集まっている訳ではないのだ。
 これは黄巾賊の教えがどうとかいう以前の問題で、ただ単純にその地に住まう人が少ないだけなのだが。
 だからこそ、華南に位置する荊州では、黄巾賊本軍の半分ほどでしかない九万しか集めることが能わなかったのだ。

 だが、そんな趙弘の考えを看破してか、心配はありません、と青年は口を開いた。
 渭水周辺、古来より戦地となりながらも人の営みの絶えぬ彼の地であれば、黄巾の教えに賛同する者は多いことでしょう。
 趙弘様の教えによっては華北の本隊よりも大きな兵力と成り得るやもしれませぬ、そう青年が口を開けば、張曼成はその考えに同意し、趙弘へとそれを成すようにと指示を下してきた。
 無論、趙弘としてもその可能性を否定するには情報が足りず、その指示に否と答えればどのような末路が待ってるやもしれぬとあれば、嫌応無しにそれを成さねばならなかったのだが。
 しかして、彼の地にて趙弘を待っていたのは、被害を受け怨嗟を黄巾賊へと向ける民ではなく、圧政からの解放者として多くの信徒が待つ渭水周辺の人々だったのだ。
 兵に、と志願する者も後を絶たず、結果として趙弘が指揮する黄巾賊は二万から六万へと膨れあがったのである。
 
 さらには、涼州方面にはさほど大きな勢力を持つ郡はない。
 中華一とも言われる西涼騎馬隊を有する西涼太守である馬騰ぐらいなら障害となるかもしれないが、その馬騰も、異民族の侵入を警戒してすぐに行動へ移ることは難しかろう。
 石城と安定を勢力とする董卓が涼州の入口ではあるが、先の襲撃からさほど時間が経っていないために、そこにいる戦力も少ないものだと趙弘は考えていた。
 そして、その地がここ最近になって富める地となっている、そんな噂を聞きつけてしまえばそれを目指さぬわけにもいかないだろう。
 六万もの兵を食わるには、富める街を襲わねばならず、さらには亡き同志への仇討ちもしなければならないだろう。
 天の御遣いとか天将だとか、民の希望となる男がいるとあって人の数も結構多いらしい。
 実に現状において都合が良かった。


 故に、趙弘はその進路を安定へと向ける。
 食料、人、そして希望。
 それら全てを奪い尽くすために。




 **




 安定まであと数理、馬を飛ばせばあと半日といった所まで軍勢を進ませた趙弘は、その軍中においてこれからの行軍針路を思考していた。
 時刻は昼前、今の行軍速度であれば明日には安定を指呼の距離へ捉えることは可能である。
 だがしかし、兵とて人であり疲労を生む、このまま突き進んでみても疲労困憊の状態で安定に攻めかからねばならないのでは、速度を重視したとて意味はない。
 かといって、現状この地に詳しい者がいるわけでもなく、地の利が完全に無い状態であれば、いつどこで安定から出立した軍に襲われぬとも限らないのだ。
 近くに村でもあればそこを襲い拠点とすることで、安定周辺の情報や地利を集めることが出来る――そう考えた趙弘が先んじて斥候を放とうとしたそんな時である。
 一騎の騎馬が、接近しているとの報を受けたのは。





「お目通りに叶い光栄です。我が名は旺景(おうけい)と申します」

「ご苦労、黄巾党涼州方面軍を率いる趙弘という。……して、この先にある村を制圧したというそなたの話は真か?」

 黄色の布を頭に巻いて現れたその騎馬は、誰彼と尋ねた群衆の先頭に立つ兵に対して、指揮官に会わせろと声を放った。
 これが常時であるならばそれも否として、はたまた密偵だとして私刑なり死刑なりで処罰されるのであるが。
 事実、それを聞いた兵の一人は密偵だと訝しんで腰元の剣へと手を伸ばしたのである。
 だが、それは抜かれることはなく、それ以前に止められることとなった。
 彼が放った言葉によって。

「はい。この度、趙弘様が兵を率いて涼州を王朝の腐敗から救ってくださると聞き、黄巾の教えに従う同志にてここから二里ほどにある村、そしてその周辺に位置する村々を制圧しております。財貨はそれぞれ村ごとに中心に集め、村人達も同じ所に集めておりますれば、お手を煩わせることもないでしょう」

 見れば未だ幼さを残した少年ではあったが、その佇まいと雰囲気には凜としたものがあり、少年がどれだけ憂国の志を抱えてきたのかを言葉少なに趙弘へと知らしめた。
 武装らしい武装はなく、ただあるのは背中で斜め十字にされた二本の長い鉄棒ではあったが、その雰囲気も相まって少年が中々の腕前を持つことが分かる。
 民衆の群衆であって有能な副官がいないこともあってか、趙弘は状況が落ち着けば少年を副官に、と思い始めていた。

「……現状、我らの中にこの地に詳しい者はおらん。旺景よ、地元民であるそなたの言、信用させてもらうぞ」

「御意にございます」

 だからこそ、趙弘は少年を信じることに決めた。
 それに周囲にいた護衛の兵から反対の声が上がったが、民の協力無くば漢王朝打倒などと無理な話ぞ、と言えばすぐに折れた。
 腐敗したとはいえ一時は栄華を誇った国を相手にしているのである、兵力差で勝っているとはいえ本職の兵相手ならばそれでも危うい。
 それこそ、大将軍である何進や州牧が動けばたちまち鎮圧されてしまうことなど、目に見えているのだ。
 だからこそ、例え状況を見計らったかのように現れた少年でも信じざるを得ない、その現状に趙弘は知らず溜息をついていた。

「……よし、軍を五つに分けるぞ。お主らはそれぞれの指揮官となりて村へと入れ。これからはそこを拠点として、周囲へと勢力を伸ばす。旺景は儂の傍にいてもらおう」

「……はっ!」

 はてさて、信用が果たして信頼となるかどうか、見極めさせてもらおうか。


 趙弘は、黄巾の教え、というものにさしたる興味はなかった。
 人より優れた体躯を持ち、生きるために剣を振るい始めた頃から、主義主張など持ちはしなかった。
 ただ唯一、知りたかったことはある。
 己が、どれだけ強いのかということだ。
 人として、武人として、将として。
 己の上役であった張曼成も愚鈍では無かったが、それでも自分より強いと思ったことはない。
 官軍にさしたる強者がいない以上、自分がどれだけ強いのかなど知りようも無かったのではあるが、涼州の馬騰ならばそれを知りうることが出来るやも知れないと思っていた。
 彼の者ならば、自分がどれだけ強いのかを知ることが出来る、と趙弘は知らず口端を歪めていた。
 安定など、その前座でしかない――この時の趙弘は、そう思っていた。




  **




「兵士さんや、私達は一体どうなってしまうのかのぅ?」

「ご老体よ、心配は無い。賊徒どもを打ち倒すために董卓殿が兵を率いているゆえ、じきに村へも帰れるだろう。今は安心して避難するがよい」

「おぉ、有り難や有り難や」

「ほら行こう、お婆ちゃん?」


 安定の城門、そこで各村々から避難してきた民を見守る牛輔は、孫であろう少女に連れられていく老婆から視線を外して、遙か先、渭水の方面へと向けた。
 城門へ流れ込む、まるで川のように連なったそれは人のもので、元々安定に住んでいた牛輔でさえ、知らなかった程の数であった。
 遠く、所々で川の縁を蠢くのは護衛の騎馬であろうか。
 まるで、川で幼子が遊び回っているようだと思うと同時に、牛輔は知らず感嘆していた。

「まさか……賊の進路上にある村から民を全て避難させるとはな。民にとって家――住まう地は財産ともなれば、それも難しいだとうとは思っていたのだが……」

 民にとって、財産とは人であり地である。
 その地に住まいて根を張り、その地に住まう者同士で集団を作ることで、そこは村となるのだ。
 村を生み、村を育んできた民達にとって、村から離れるということはそこにあるそれまでの自分というものを捨てるということでもあるのだ。
 故に、牛輔は黄巾賊から逃れるためと言っても、それが容易に進むとは思っても見なかったのだが。
 いざ蓋を開けてみれば、さしたる混乱もなく、ここ安定に民達が集いつつある。
 この調子でいくのなら、明日までには村々の全ての民が安定に収納出来ることだろう。


 驚くべきは、それを即決した董仲頴か。
 結果的に、それが善と判断した賈文和と馬草元か。
 或いは。
 その策を論じ、さらには逃れる民の希望である天の御遣い――北郷一刀か。


 馬家と共闘することが決まった後、では黄巾賊への策を考えるとなった時に彼が漏らした策。
 それは、両家の軍師である賈文和と馬草元の目に止まったのか、或いは同じ事を考えていたのか。
 少なくとも、現状において取れる最大限の策だと両者が思ったからこそ、その策を煮詰め此度の策となったのだが。
 まさか自分の策が採用されるとも思っていなかったのか、半ば呆然とした北郷は中々見物であった。
 安定に来てから、何処か張り詰めていた彼のそんな顔が見られるとは思いもしなかったのもある。

「北郷一刀、か……。はてさて、どんな時代を見せてくれるのやら」

「はうはうぅぅぅッ!? い、一体どうすれば……?」


 北郷一刀が描いた策で紡がれる時代とは、そう思いを馳せていた牛輔の耳に、ここ数日でよく聞くようになった――というよりは、殆ど毎日聞いている声が届く。
 何処か慌てたような、それでいて途方に暮れている声を辿れば、その声の発生源である人物へと至った。

「どうなされた、姜維殿? ……そこで泣く子と何か関係があるのか?」

「あっ! ぎゅ、牛輔様ぁぁぁ! はわはわ、た、大変なんでしゅぶッ!」

 いつものように不思議な慌て方でカミカミな姜維に、牛輔は視線を向けるのだが。
 その傍らで泣きわめく六つ七つほどの少年に、自然を視線が向く。
 その少年をあやすようにしていた姜維は牛輔の姿を確認するや、慌てて言葉を放つ。

「あ、あのッ! この子が人形でお姉さんが村なんでしゅッ!」

「……すまん、言いたいことがよく分からない。どうした、少年? 何かあったか?」

 カミカミで、なおかつ言いたいことが分からないことを理解したのか、はわはわ、と言いながら項垂れる姜維に構うことなく、牛輔は傍らの少年へと語りかけた。
 姜維の大声にビクリッと反応した少年は再びその眼に涙を溜め始め、それを見た姜維が再び慌てようとするのだが。
 それを無視して、牛輔はなるべく少年が落ち着けるようにと静かに問いかけた。

「ひくっ……ぐす……お、おれ……」

 それを姜維も理解したのか、いつものようにはわはわと言いそうになる口を両手で押さえると、少年の言葉に耳を傾ける。
 泣いた子は静かに語り先を促さず、安定を阿呆太守が収めている時代、警邏の途中に泣きわめく子と出会った牛輔が、李粛に教えられた言葉である。
 教えられた、というのはまあ当然の如く泣く子をさらに酷くしたからのではあるが。
 李粛に馬鹿じゃないの、なんて言われたのはあの時が生まれて初めてであったのだから、二度と同じ轍をを踏まないようにしようと固く決めた牛輔としては、今回は上手く出来たと言えるものである。
 
「おれ……人形、村に置いてきて……。そしたら……姉ちゃんが……姉ちゃんが……」

 そこまで言い切って再び泣き出す少年から視線を外し、牛輔は遙か彼方、民の列が連なる渭水の方面へと視線を移す。
 全てを言い切った訳ではなかったが、それでもその言いたいことが理解出来たのだ。
 そして、それがどれほど危険なことかも。
 子供の脚と鑑みても、それでも最初の避難民が来てからかなりの時間が経過している。
 この少年とその姉が先頭の避難民と同じ村だったとしても、既に追いつける距離ではないことを、牛輔は理解してしまった。
 馬を飛ばそうにも、知らせるにしても到底届かない距離にあって、牛輔は密かに願った。


 願い届き叶うならば天将へ、と。











 そして、一人の少女は村へと入る。

 己と弟が住んでいた家へと急ぎ、その中へと入る頃。

 その村を指呼の間に捉えた黄巾の群衆が、それを飲み込まんと接近していた。
   





[18488] 二十一話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/08/05 16:19
注:数カ所ほど、女性の身体の一部を表す言葉があります。
  一五禁というほどのものでもないですが、気にする方、不快に思われる方がおりますれば、戻られるか、気を付けてお読み下さい。






 広大な、どこまでも続くとも思われる平野。
 遙か地平に険しい山々が霞む中で、そこを駆ける集団の一人が彼方に影を見つけた。
 小さく、しかし確かにあったその影は、距離を駆けるにつれ徐々にその全貌を表し出す。
 
 寂れた小さな村。

 今にも崩れそうな木造の家々が立ち並び、その周囲には申し訳程度の柵が施されている。
 平時であれば、それは夜盗を防ぐ盾となり、獣を近づかせぬ壁となるものであった。
 そこに住む村人によって建てられ、用いられ、修繕されてきたそれは、彼らにとってどれだけ頼りになるものであったか。


 だが、駆ける集団――黄巾を纏いし者達にとって、それは如何ほどのものがあろうか。


 時には柵を、時には隊を、時には軍を、そして城壁を打ち破ってその財貨を求め奪ってきた彼らにとって、村を囲うほどでしかない柵などは、児戯程度でしかなかった。
 それを証明するかのように、黄巾を纏った一人が柵へと手を掛ける。
 木を削りだし、藁で編まれた縄によってそれを固定しただけのものであったが、さすがに一人の力ではそれを外すことは能わなかった。
 しかし、後ろから二人三人とその手が増えていけばそれもさしたる問題ではない。
 数は力である。
 小型の昆虫である蟻が、大型の昆虫を捕らえられるのがひとえにその数によるように、後ろから後ろから伸び出る手は柵を掴んでいく。
 そして、絹を割くかの如く引き剥がされた柵は、徐々にとその姿を残骸へと変えていった。
 一箇所だけではなく、その柵に隣接する者達によって行われたその行為によって、村を覆い守る柵はこじ開けられてしまったのである。




  **




「えと……この辺に――あ、あった!」

 ゴソゴソと、避難勧告を受けてから取るものだけを取って荒れていた家の中を、一人の少女が彷徨っていた。
 背中までに伸ばした髪は所々汚れて乾いているものの、その少女らしい精一杯のお洒落である髪型は、年相応のものであった。
 着ているものこそ平服ではあったが、汚れを落とし綺麗な服を着てみれば、という少女は、乱雑に散らばった衣類の中から一つの人形を取りだした。

 薄汚れたそれは人型のもので、長い髪らしき布と腰巻き、さらには女性特有の胸部を示すそれが、女性を形取ったものだというのが分かる。
 少女はそれをどこな懐かしげに見つめていたのだが、ふと遠くから響く乾いた音に意識を取られた。

「今の音は……警鐘?」

 村の中央に備えられた警鐘、それは非常時――外敵である夜盗や獣が柵を襲撃した時のみならず、村内で起きた事態を知らせるために、村を囲む柵に何かしらの衝撃を与えた時に、縄を伝って鳴らされるようにしているものである。
 それが鳴らされた、しかも誰もいない村であるならばそれが外からのものに鳴らされたとあって、少女は慌てて人形を手に家から出た。

「ひっ!」

 だが、その行動は正だったのか、はたまた邪だったのか。
 家から飛び出した少女を待っていたのは、極度の緊張がもたらした勘違いでも、村に誰かいないかと確認に来た安定の兵でもなく。
 少女を見つけそれを獲物と捉えた幾万もの野獣の眼光と、その喜びを示す幾重にも重なった雄叫びだった。

 




「あの女はどこへ行ったぁッ?!」

「ちっ! 女もめぼしいものもありゃしねえじゃ無えかっ!? 一体どういうことだッ!?」

「さっきの女を捜せッ! 情報を引き出してから犯してやらぁ!」

 震える身体を抱きしめるように押さえつけ、少女は口から悲鳴が飛び出るのをも押さえつけた。
 黄巾賊に見つかった時には終わりか、とも思ったが勝手知ったる村とあって、その姿を隠すことについては意外と簡単なものであった。
 だが、それも村の外から見る黄巾賊の視界から、ということである。
 家と家の間、幅も狭く水を溜める瓶やら何やらが置かれている所にその身を伏せる少女であっても、村中を闊歩する黄巾賊の目を盗んで村外に出ることは難しかった。
 これが十数人であれば逃げ切れるやもしれなかったが、それどころの数ではない――それこそ、万に届こうかという程の賊徒が、村のそこかしこに蔓延っているのだ。
 村を守る自警の手段こそ学んではいたが、それは村を、身を守るためのものであって、賊徒を討つためのものではない。
 そんな自分がこれだけの数を相手に出来る筈がない、と少女は震えることしか出来なかった。
 きっとここで隠れていれば助けがくる、賊達を追い払って村を守ってくれる――そう信じて。

 だが、数とは力であると同時に、情報でもある。
 一人が下を見なくても別の一人がそこを見て、一人が横を見なくても別の人間がそれを確認する。
 二つの目で見えなければ、別の目がそこを見ればいい――それが幾万にも及べば、一体どうなることか。
 その問いは、少女の視界を影が覆うことによって解となる。

 家と家の間、水を溜める瓶の影に潜んでいるとはいえそれまで視界にあった影が急に暗くなったことを、少女は不思議に――そして心の片隅で希望を抱きながら、賊が動き回る方へと視線を向ける。
 助けが来て、それで自分を探してくれているのだと。
 だが、そんな少女の希望は淡く、あまりにも儚いものであった。



「けけけ……見ーつけた」



 黄色の頭巾を巻いた男が、ニヤリ、と厭らしく獣のように笑んだ。





  **





「……見えた」

 小高い丘を駆け下りる馬蹄の音、その一つである馬に乗る呂布がぽつりと呟いた。
 大地を蹴り、砂煙を上げ、興奮やら緊張やらで溢れる咆哮の最中でありながら、その声は酷く静かに響いた。
 その声に促されてみれば、確かに村を覆いつくさんとする黄巾賊を華雄は確認した。

「見たところ七、八千ちゅうとこか? 大体一刀と詠の読み通りやな」

「あいつらは万程度と言っていたがな……。だが群衆というのは当たりのようだ、どうにも指揮が執れている様子ではない」

「……一刀と詠、凄い」

 横を走る張遼も確認したのか、彼女のおおよその予想に、その通りだと思うと同時に当初の予定より少々少ないことを華雄は危惧した。
 だが、今それを言ってどうなる、と意識を切り替えて己の獲物である大斧――金剛爆斧を握り直した。

「それにしても、中々に際どい策を取るもんやで――分断しての各個撃破やて。こっちが撃破されたらどうにもならんやろうに」

「ふん、そうならんようにすればいいのだろう? それに、我らは武人。軍師の策に従い、武を競って功を成せばいいだけだろうに。いらんことを考えれば穂先が鈍るぞ、文遠?」

「恋、詠と一刀が言うとおりに戦うだけ。……考えるの、苦手」

「……そうやな、恋と華雄の言うとおりや。……なんや、けったいに動き始めよったで」

 華雄はともかく恋にまで言われてもうた、と頭を掻いていた張遼だったが、不意に進行方向の村を睨んだかと思えば、緊張した声色で言葉を零す。
 それが警戒の色が濃いことを察した華雄は、己も村へと視線を移し、そこに黄巾賊の不思議な動きを見た。
 村を中と外から覆い尽くさんとしていた黄巾賊が、その拡大を止めて徐々に中央へと集中していくのだ。

 当初の予定では村の中央に董卓軍から財貨を残すという案が、北郷から掲げられた。
 これは、黄巾賊に潜む密偵からの案を確実にするためのもの、ということだったのだが、しかして安定に入って未だ収穫のない董卓軍では、それだけの物資がないということでお流れとなった。
 その案が成されていれば、現状目の前で起こっている不思議な動きも認めることが出来るのだが、それが成されていない以上どうにも不可解なものではあった。
 しかし、その疑問は呂布の一言によって氷解する。



 女の子がいる、と。





  **





「おぅら、こっちに出てきて一緒に遊ぼうぜ!」

「そうさ、何にも怖いことなどありゃしないからなぁ」

「へへっ、女なんて久しぶりだぜ」

 隠れていたのを見つけられた少女は、それを成した男によって村の中央――祭事や集会を行う広場へと連れ出された。
 この地で生まれ育ってきた少女にとって、そこは様々な思い出がある場所でもあった。
 隣の家に住んでいた女の子の生誕。
 村長の娘と商人の息子の結婚式。
 豊作を祝っての祭り。
 今は亡き両親の魂を送る祭り。
 それこそ殆どの祝い事や祭事を覚えている少女ではあったが、現在自分を取り巻くその光景は、そのどれもでも見たことはなかった。
 幾数もの視線、そのどれもが獣性の色を宿しており下卑たものを求めているのだ。
 それらの視線の行き先が自分の胸や腰、下腹部に向かっているのを、気づきたくもないのに気づいてしまう。
 ぶるり、と身体を震えてしまうのを、両手で抱きしめた。

「ふへへ……生まれたての馬みたいに震えてやがるぜ。可愛いなぁ、犯しがいがありそうだ」

「けけ、生まれたての馬は服なんか着てやしねーよぅ。さっさとひん剥いちまおうぜ」

 だが、それでも震えは止まらない。
 悪寒か、嫌悪か、恐怖か、はたまた絶望か。
 知らず涙が零れるが、それを気にする場合もなく後方へと後ずさる。
 それは、目前に迫り来る絶望の先から逃れるためか。
 その怯えた様子に、少女へと近づいていく黄巾賊の男達は一様に笑みを深める――獣の如く、本能を剥き出しにした、その笑みを。
 それを受けて、少女はますます後ろへと行くのだが、ふと後ろからの声に顔を向ければ、その方向にも黄巾賊がいて、少女は慌てて方向を変える。
 だが、そちらにも黄巾賊はいて――と、少女はいよいよ何処へも動けなくなった。
 徐々に狭まる包囲、いよいよ迫る絶望の時に、少女はぼろぼろと涙を流し始めた。
 
 だがそれも、賊徒を興奮させるものでしかなかった。
 目の前の男が手を伸ばしてくる直前、少女は知らず抱きしめていた人形に意識を取られる。
 それを作り出した経緯を思い出して、また、その姿形を思い出して、少女は儚い、本当に微かな希望を乗せてその名を浮かべた。



 助けてお母さん、と。




「へへ、ほうら脱ぎ脱ぎしましょうね」

 だが、その願いも悲しく少女は四肢を捕まれる。
 後ろから、横から、前から。
 そして、眼前に迫った男は、少女の服に手をかけたと思いきや、一息のままに一気に引き裂いた。

「きゃあぁぁぁぁ! や、止めて、許してッ! 弟が、弟が待ってるんですッ!」

 ここにきて初めて抵抗らしい抵抗として暴れる少女であったが、ある程度自警を学び力があるとはいえ、大の男の拘束から逃れるほどではなかった。
 引き裂かれた服の合間から覗く白く滑らかな肌と、少女から成熟していく途上の乳房に、黄巾賊の中から歓声――狂声が沸き上がる。
 
 羞恥からか、或いは恐怖からか――賊徒は興奮からと受け取ったようだが、少女の肌に紅がさすと、男達は一斉に舌なめずりをした。
 その様が異様で、異質で、恐怖であった少女は、いよいよ全てに絶望するしか無かったのである。

 そして、それは賊徒達にも知れたのか、或いは受け入れると思ったのか。
 いよいよ観念したと思った少女の目前の男は、その小降りな乳房へと手を伸ばして――





 ――その意識は首と共に宙を舞うこととなった。
 
 恐らくは、何が起こったのかも分からぬまま。




 **




 もし。
 黄巾賊が少女だけに気を取られていなかったら、遠く響く馬蹄の音に気づいたかもしれない。

 もし。
 少女がこの場におらず、黄巾賊が当初の予定通りに動いていれば、これだけ容易にはいかなかったかもしれない。

 もし。
 北郷一刀が考え掲げた策でなかったのならば、黄巾賊はこの村に来ることはなく、少女は穏やかに健やかに生きていたのかもしれない――それが正史と違うとしても。

 
 もし。
 この地に来たのが彼女達で無ければ、きっと少女の精神は狂態と恥辱の宴で壊れていたことだろう。




 **



「……え?」

 初めに零したのは少女だったか、黄巾賊の一人だったか。
 少女を押さえつけていた左右の男、そして少女に手を伸ばしていた男の首が宙を舞った時、零された言葉を意に介さぬままに、その三人は降り立った。


「……やれやれ、何とか間に合ったちゅう所か」

「ふん、覚悟は出来ているのだろうな、匪賊共よ? 民に危害を加えんとした罪、償ってもらうぞ」

 一人は、風になびく外套を肩に羽織り、その豊かな胸をサラシにて巻き付けた女性。
 一人は、最低限の部位だけを守るものを付け、巨大な斧らしきものを高く掲げる女性。
 そして最後の一人は、少女の前に降り立った赤い髪と所々解れた腰布を風にながれるままにした女性――そして、その手に持つ戟とその髪の色を持つ武将の名に、少女は心当たりがあった。
 以前、石城から洛陽に行く途上で村に立ち寄った商人の口から聞いたその人物の名に、商人が酷く興奮していたのを覚えていた。
 

 戟を振るえば十の首が宙を舞い、馬を駆れば放たれた矢の如し、その武、天下無双。


 自警のために武芸を学んだとはいえ、それほど才があった訳でもない少女であったが、それを聞いた時にはさすがに誇張しすぎだろうと思っていたのだが。
 いざその人物を目前にしてみれば、それも間違いでは無かったことに気づいた――間違いなどではなく、そう評するのが彼女を一番に表す言葉なのだと。
 そして、少女はぽつりとその名を発した。
 商人に聞き、遠い噂で天下の飛将軍とも呼ばれたその名を。


「……呂、奉先」


 そして、その少女の言葉に気づいたのか、首だけ向けたその人物――呂布は、その体勢で器用にも首を掲げた。



「……大丈夫?」







[18488] 二十二話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/08/17 11:57



 脳天目掛けて振り下ろされる剣を自身の剣で防いだ俺は、覆い被さるように力を入れていく黄巾を被った男の腹を力の限りに蹴飛ばす。
 腕に力を入れていた男にはその蹴りを受け止めることは出来ず、蹴られた勢いのままに地面を転がるのだが。
 そんな男から視線を外した俺は、右から斬りかかってきた黄巾を腕に巻いた男の斬撃を剣で弾いた後に、がら空きになった男の腹部へと剣を突き入れる。
 ぐじゅり、とまるで腐った果物に刃物を入れたような感触に知らず顔を顰めるが、それを堪えて崩れ落ちそうになる男の顎を殴りつけた。
 だが、殴りつけた腕をその男に掴まれて、男が崩れるままに俺の体勢も崩れてしまう。
 抜け出そうとしても力一杯――それこそ噛み付かれるのではないかと思えるほどに腕を捉えられれば、それも実に難しい。
 そして、それを好機と見た黄巾賊の数人が、一斉に俺へと斬りかかってくる。


 だが。


「でぇぇぇぇぇいッ!」

 その声と共に繰り出された横からの一撃によって、それらの黄巾賊の男達は一様に、近くにあった家の壁へと叩き付けられることとなった。
 それを見た俺は、腕を掴む男の腹から剣を抜き出すとその首元を斬りつけ、拘束が緩んだのを抜け出して、俺を助けた人物――馬岱と背中合わせとなって周囲を警戒する。

「助かりましたよ、伯瞻殿。恩に着ます」

「えへへ、どういたしまして、お兄様。それに、お姉様のお婿さんを死なせる訳にはいかないしね」

「……孟起殿は俺のことをご主人様と呼んでいる筈ですが?」

「あのおば様が、そんなことで諦める筈ないよ。からかいはしても、冗談は言わないんだから」

 俺より背も歳も低い女の子に背中を預けるというのは些か悲しい――いや、男の面子とか拘っている訳ではないのだけども、それでも生死が飛び交う戦場の中で軽口を言えるぐらいには、頼りになる。
 まあ、錦馬超に隠れがちだけど、蜀漢の成立から諸葛亮の死を経てあの魏延を討ち取る、と並べてみれば中々の武勇を誇る馬岱に対して、頼りになるだなんてどんだけ図々しいんだろうな俺。

 そして、そんな馬岱の言葉に、彼女が言うのだからそうなのだろうな、といやに簡単に諦めてしまう。
 からかうも冗談も同じ意味な気もするのだが、どうにも馬騰は違うらしい。
 うむ、あまり関わらないほうが身のためな気がしてきたよ――それでも巻き込まれる気がするのは、気のせいだと信じたい。

 
 渭水から安定の途上、数里ずつに点在する村々という、時を置けば次代の邑ともなるであろうその一つで、黄巾賊九千と涼州軍五千は激突した。
 数だけで見れば黄巾賊は涼州軍の倍近くあり、また勢いということをとっても涼州軍よりも優位であった。
 事実、黄巾賊涼州方面軍の趙弘から臨時の指揮官に任じられた将は、その理由から負けるはずがないと考え、涼州軍との戦端を開くに至ったのだが。
 その将の決断は非常に理に敵っていた――戦場が、村の中でさえなければ。
 いかに臨時の指揮官に任じられる将とはいえ、その一人で九千もの手綱を握れるはずはない。
 常の軍であれば、千人百人単位で隊長格がそれらを纏めるのだが、元農民が集い群衆となっただけの黄巾賊ではそれもままならなかった。
 故に、涼州軍に対して組織的な攻めをしようとも、村の中という狭い戦場の中で指揮が行き渡らない黄巾賊は討ち取られるままに任せ、それから逃れようと村を抜け出した賊徒もまた、村の周囲を囲う騎馬からの騎射によって、地に倒れ伏す者で溢れたのだった。


 騎馬隊を率いて村を囲う馬超に代わって村内部へと攻め寄せるのは、馬岱率いる涼州軍の歩兵三千ほどである――勿論、騎馬隊の指揮など出来るはずもない俺は、そちらの部隊へと組み込まれることとなった。
 トラウマとも呼べる自身の過去と向き合うと決めたとはいえ、理性では分かっていても本能の部分ではそれまでの感情を鮮明に引き起こす。
 人を傷つけるのが怖い、血を見るのが怖い、居場所を失うのが怖い――傷付くのが怖い。
 この世界に来るまでにいた現代日本では当たり前とも取れるそれらの感情が、戦乱起こり陰謀渦巻くこの世界では足枷となるなんて、予想だにしていなかった。
 まあ、俺の場合はちょっと違う気もするが。
 それでも、それらの感情に押しつぶされて後悔するなど――命を失うことなど出来るはずがないのだ。
 故に、今また一人、本能を理性で塗りつぶして、俺は黄巾の男の胸へと剣を突き入れた。
 
 一人殺し、一人追い払い、また一人殺め。
 俺が四苦八苦する中、馬岱が怒濤の如く黄巾賊を打ち払っていけばさすがに危機を感じたのか、指揮官たる将から退却、本隊との合流の指示が飛んだ。
 既に半ば壊走しかかっていた黄巾賊は、その指示の途端に一斉に逃散を始めるのだが、村の周囲を包囲していた馬超率いる騎馬隊が狭めた包囲網によって、黄巾賊はじりじりと村へと押し込まれていく。
 そして、その村の中では馬岱率いる歩兵がその黄巾賊を攻めていき、結果として、黄巾賊は内と外から同時に攻められる形となったのである。
 
「賊徒達に告ぐ! 降伏の意思あるならば、武具を捨てその場に伏せよ! 捨てぬ者は意思無しと見て、八つ裂きにさせてもらうッ! 返答や如何に!?」

 その形を好機と見てか、はたまた潮時と見てか、俺と隣り合って武器を振るっていた馬岱が口上を開く。
 降伏勧告。
 ちょっと小生意気な女の子、しかも悪戯好きという印象を抱いていた馬岱が開いたその口上に、やはり彼女も三国志の武将なのだと改めて知ることになった――後に、彼女にそう話すと悪戯が増えることなど、この時の俺は知る由も無いのだが。
 
 馬岱がそう口上を上げると、村の外からも同じような口上が聞こえ、それが馬超のものだと知る。
 村の外からも聞こえた降伏勧告に、それまでその殺気を沈めなかった黄巾賊の中から、一人、また一人と武具を手放していく者が現れ始める。
 これ以上の戦いは無意味としてか、はたまた自分の保身のためかは分からないが、その動きは瞬く間に波と化し、黄巾賊へと広がっていった。

 そして、唯一武具を手放さなかった指揮官である将が逃げ出していくが、それをわざわざ見逃すはずもない。
 村の外に待ち構えていた馬超の一矢によって、その将は額を貫かれて落馬したのだ。


 勝敗は、既に決していた。



 **



 敵軍襲来の報と、先行していた部隊が壊滅したとの報を趙弘が受けたのは、ほぼ同時であった。


 董卓・馬騰の連合軍が執った策は、後に考えてみれば至極簡単なものであった。
 兵力の大小を問わず、戦に勝つために一番に考え得るその策――各個撃破を執られることを、勿論趙弘は理解していたし、それを危惧して各指揮官へと伝えていた。
 既に占領してある村に軍を分けるというのも、それから考えれば愚策ではあったが、董卓軍の拠点である安定まで未だ距離があったこと、即席の連合軍では機敏な行動を起こせず各個撃破など無理であろうとのことであったのだが。
 現状を鑑みれば、その考え事態が愚かであったとしか言えないものであった。

「ぐぬぬぅ……何故だ、連合軍にこちらの行動を知られる筈が……」

 万全を期し、先に軍を分けた四隊のうち、兵数の少ない二隊を先行させていたのが幸いしたか、軍の被害からすれば六万の内の二万にも及ばない程度であり、戦闘にさして問題は無かった。
 趙弘はすぐさまに伝令の兵を発し、無事な部隊を合流させて連合軍へと備えるために動き出していた。
 三分の一の被害は壊滅的とも言えるものだが、渭水周辺で集まった一部であり、荊州から従う本隊には微塵の被害もないのだから、その趙弘の決断も間違ってはいなかった。


 ただそれも、指揮官たる趙弘が在れば、の話ではあったが。


「……そもそも、村を制圧しているとの貴様の言が真であれば、このような事態にはならなかったのだ。この責任、どう取るつもりだ、旺景よッ!?」

 それでもなお、責任の所在は明確にしておかねばならない。
 軍において、指揮官の失態は軍の全滅に繋がる。
 兵一人一人から見れば、それは己の命の損失であり、何にもまして防がねばならない事態であるのだ。
 訓練された兵でさえそれなのだから、命を繋ぐため欲を満たすために黄巾賊に参加している元農民にあって、それはさらに顕著になる。
 そして、軍の命運を、しいては自分達の命を預けるに値しない指揮官であると判断した場合、彼らがどういった行動に移るのかというのも、趙弘は理解していた。
 古来より、無能な指揮官の末路は――死、である。

 故に、趙弘やその配下の将がどう思うにせよ、兵の憤りの行き先を定めておかねば、軍としての機能を失うばかりか、自分の命まで危ないのだ。
 如何に強者としてでも、数で攻め寄せられれば一溜まりもないとして、趙弘はその責任の所在を旺景へと定めることにしたのだ。
 なまじ優秀そうなだけに、その才をこんな所で潰すのも勿体ないものではあるが、現状からいけば仕方のないことなのだと自分に言い聞かせて。

 だが、そんな旺景から返ってきた言葉は、趙弘の思惑とは全く別のものであった。


「……旺景でござる」






「……? 貴様、何を言って――」

「旺景、追系――おうけい、でござったか? ううむ、旦那様の国の言葉は些か発音にしにくいでござるな……」

 自分の名を呟いたと思ったら、幾度か自分の名らしき音を呟いた旺景に違和感を覚えて問いかけようと口を開きかけるが、静かにこちらへと視線を移した旺景に慌てて閉じる。
 何故か、口を開けば自分は終わりのような気がしたのだ。

「旦那様の国では、おうけいとは了承の意を示す言葉らしいでござるよ。なに、趙弘殿が訝しげに思い、知らぬのも無理はござらん。拙者も初めて聞いた時には不思議に思ったでござるからな」

 見た目幼い少年ながら、その発する言葉の節々には落ち着いた雰囲気があった――むしろ、貫禄と言ってもいいものが。
 言葉遣いこそ聞き慣れぬものであったが、その意味を受けるのに難しいということはないのだが。
 旺景の――少年の雰囲気も相まって、いやに不明瞭に聞こえてくる。

「ですが、不思議と耳に馴染むでござる。おうけい、それを名として呼ばれればどんな思いをするかと思えば……拙者の慧眼は間違いでは無かったということでござる。実に心躍る一時を過ごせ、趙弘殿には感謝するでござる」

 気がつけば、少年の両手にはそれぞれ鉄棒が握られていた――腕に沿うように。
 少年の背中にで斜め十字に背負われていたものということに気づくが、その持ち方に少々の疑問を趙弘は覚えた。
 初め、それはただ鉄の棒を簡素な武具に見立てて、それこそ鞭のように用いるものばかりと思っていたのだが。
 鉄棒から出っ張る取っ手を握り、肘よりも若干長めのその武具に、趙弘は見覚えが無かった。

「拙者は拐(かい、旋棍の一種)と呼んでいるでござるよ。旦那様にはとんふぁあ、とも呼ばれ申したが……やはり、これが一番使いやすい」

 そう言いながら器用に取っ手の部分を回してみれば、手から伸びる角のようにも、腕を守る装具へともその姿を変えていく。
 さらには、その握る部分を変えてしまえば、獣の爪の如く刈り取るように取っ手が形取り、言葉の通りに変幻自在にとその用途を変えていった。
 
 その動きを見て、趙弘は気づいた。
 自分では、叶う力量ではないのだと。
 
 まるで水のようにくるくるとその姿を変えていく拐という武具と、それを自在に操る力量の少年に、自分では少年に叶うことはないのだ、と。
 親子、下手をすれば祖父と孫ほどの歳が離れているであろう少年の武の片鱗を垣間見た趙弘は、知らず震えていた手を握りしめて周囲に存在する筈の兵を呼ぼうとするのだが。
 そんな趙弘の動きに、少年は唇を歪めた。

「周囲に兵はいないでござるよ。少しばかり眠ってもらっていてござる。伝令の兵も、そこら辺にいるでござろう」

 そう言うやいなや、少年はその歩を趙弘へと向かって進め始める。
 そのあまりにも自然な動きに、趙弘は一瞬反応することが出来ずにいたが、ハッと我に返り腰の剣を抜き放った。
 だが、それでも少年はその歩を緩めない。
 それどころか、剣を抜き、殺気を放つ趙弘へとその手に持つ拐ごと、少年は構えた。

「なお立ち向かう姿勢は見事でござる、感服いたした。趙弘殿に降伏の言葉をかけるには、些か失礼でござるな」

 それまで強者と戦ってきたことは多々あれど、そのどれもに勝って今を築いた趙弘にとって、その少年はあまりにも異質であった。
 武才に溢れる若者はさして珍しくもない、黄巾賊として襲ってきた村々にもそういった者はいた。
 だが、そのどれもが経験不足であり、人を斬ったことなど皆無のような者達ばかりであった。
 実戦経験が伴わなければ、どれだけの才があろうとも無価値なものであった。
 だが、目の前の少年は違う、と趙弘は感じていた。
 その視線、その雰囲気、その言葉遣い、その立ち振る舞い。
 それらの全てを見た上で、本能が警告しているのだ――少年の才は、無価値なものではないのだと。

「我が姓は庖、名は徳、字は令明と言うでござる。趙弘殿の姿勢に応じて、全身全霊をかけてお相手仕るでござるよ」

 名を明かすのはその証と思って頂きたいでござる、と言い放って、少年――庖徳は一気に駆け出した。
 その速度は矢の如しではあったが、目で追いきれぬほどではないし、対処出来ぬほどでもないことに、趙弘は内心安堵した。
 そして、そうと分かればいつまでも臆している訳にもいかないと、趙弘は手に持つ剣を高々と掲げた。
 どれだけ雰囲気があっても、結局は経験が足りていないのだと。
 少年の才を価値あるものと判断した本能を、勝てるという理性にて無理矢理に押さえつけた趙弘は、近づく庖徳の脳天を叩き斬るために、一気呵成に剣を振り下ろした。


 それまでの相手であれば、その趙弘の一撃を避けきることは能わず、脳天でなくともその身体を引き裂かれて死んでいった。
 だが、今回もそうなるであろうとした趙弘の予想は、外れることとなる。


「安心するでござる。人は死ねばめいど、という所にたどり着くと旦那様は言ってござった。そこは薄く暗い、冷たい水の底のようであり、着飾った女子のように華やかで楽しげなものとも。一息に、送ってしんぜよう」

 両手に持つ拐を十字にして趙弘の剣戟を受けた庖徳は、一気のそれを押し返した。 
 それに押される形で体勢を崩された趙弘は、次撃に移ろうと剣を振りかぶって――衝撃と痛覚を感じた途端に、その意識を闇へと沈めていった。



 こすぷれ、だの、もえ、だの旦那様はよく分からん。
 意識が完全に墜ちる前、そう聞こえた庖徳の言葉と共に。





*ホウ徳ですが、正式に[广龍]徳としますと、PCは大丈夫ですがケータイでは認証されずに徳だけとなることが分かりました。
 ケータイでも読めるように、庖徳といたしましたので、そんなのホウ徳じゃねえ、という方もご了承をお願いいたします。



[18488] 二十三話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/08/24 11:06

 第一報。
 張遼を指揮官とした董卓軍奇襲部隊、若干の差違はあれど当初の予定通りに村に入った黄巾賊の壊滅に成功。
 討ち取った賊徒数千、捉えた賊徒三千なり、引き続き予定通りに本隊に合流しようとする黄巾賊の追撃に移る。

 第二報。
 馬超・北郷を指揮官とした涼州軍奇襲部隊、若干の遅れがありながらも予定通りに黄巾賊の壊滅に成功。
 降伏した賊徒二千、他数多の賊徒を討ち取りて、引き続き予定通りに追撃に移る。
 尚、北郷の指示にて数百名の兵に黄巾を纏わせて紛れ込ませる。

 第三報。
 黄巾賊指揮官の下に潜んでいた庖徳、敵指揮官を討ち取ったとのこと。
 予定通り、混乱に乗じて退却するまで身を潜めるとのこと。



 安定を出撃して数刻、黄巾賊と接敵してからひっきりなしに届いていた報告に、いよいよ黄巾賊を討つための準備が整ったとの報が届いたのを、賈駆は知らず口元を歪めて確認した。
 幾分かの差違はあれど、安定の広間にて話し合った当初の予定通りに事が進んでいるのを喜ぶと共に、この策の原案があの男――北郷一刀からもたらされたことが、どうにも腹立たしかった。
 賈駆自身はそう思って、口元を歪めていたと思っていたのだが、どうにも彼女の主であり幼馴染みでもある少女の見解は違うらしい。
 そんな賈駆を見ながらクスクスと笑う彼女――董卓に、知らず眉をひそめていた。

「ふふ、詠ちゃん嬉しそうだよ」

「そりゃそうよ、月。こっちが予測していた通りに敵は動いてくれて、且つ勝利が目の前にまで来ているんだから。でも油断はだめよ、ここから引っ繰り返された例なんか腐るほどに――」

「――ふふ、一刀さんの策だもんね、絶対失敗は出来ないよ」

「なッ!? あ、あいつの策だからって関係無いでしょ?! なななな何言ってんのよ、月ッ!?」

 ふふふ、と笑う董卓から熱くなった顔を背け、自然とうなり声が出るのを賈駆は止められなかった。
 董卓の言うように、嬉しいことには違いない。
 こちらの策がまんまと嵌り、そしてなお策の途中ながらにして最高の戦果を誇っているのだ。
 それは軍師としては得ようと思っていても得難いものであり、賈駆――だけでなく、陳宮や馬休もそうであるが、軍師としての才が十二分に発揮されているのだから、軍師冥利に尽きるものであるのだ。
 だからこそ嬉しいし、自分が軍師として主の役に立っていることも嬉しかった――決して、そこに策を思いついたのが北郷一刀だから、などという気持ちはないのだと思っていた。

 そりゃ確かに、役に立たないよりは立ってくれたほうが使えるし、嬉しいことはないけどなんだかホッとするし、ってボクは何考えてんのよ。
 ぶんぶん、と頭を振って熱くなった思考を無理矢理に中断し、賈駆は前方――董卓・馬騰連合と黄巾賊がぶつかっているであろう方向へと視線を向けた。
 

 黄巾賊涼州方面軍と董卓・馬騰連合軍が戦端を開く前日。
 董卓軍と馬騰軍が共同戦線を張るために同盟を結ぶという歴史が刻まれた後、ある一人の少年――まあ北郷一刀だが、彼がご主人様と呼ばれる原因となった談義の前、両軍の首脳によって行われる会話の内容は、その共通の敵となる黄巾賊への対応の話となった。

 対応、とは言っても、向こうからすれば安定の街は目的を行う場所に過ぎず、その地にて暴虐の限りを尽くして初めて目的は達成されたと言えるのだ。
 そんな彼らが大人しくこちらの言うことを聞くことなどなく、もし聞くのであれ、その場その場の対応によって十分と感じていた両軍の軍師は、それが成されなかった――つまりは、初めの通りに黄巾賊と如何にして戦うか、という話し合いへと内容を移していった。

 だが、話し合いの進行は困難を極めた。
 急遽構成された連合で綿密な連携が取れず足を引っ張り合うのではないかという意見もあれば、未だ脅威の少ない涼州から来た馬騰達が本気で戦わないのではないかと意見も出たのである。
 無論、馬騰達からしてみればそんなつもりがある筈も無いが、命を賭ける兵からすればその限りでもない。
 董卓とその周囲だけで軍を動かせるのであればそのような意見も出ることはないが、つい先日に安定に入った董家にあって、その実力やら何やらを疑う者は未だにいるのだ、そういった者達が次々に口を開いていけば、そのような事態になることは目に見えていた。
 だからといって、彼らを除け者とするなど出来ようはずもなく、その時の賈駆は戦術を話ながらも頭痛を抑えるので一杯だったのである。

 だからこそだろうか。
 紛糾し、困難を極め、各々が意見を出し合い思考が疲弊し始めた頃、それまで一言も発さず場の流れに流されるがままになっていたと思われる彼――北郷一刀が放った一言が、軍師としていやに惹かれるものとして聞こえたのは。


 曰く、村を餌にすればいいのではないか、と。


「渭水からこっち、ろくな休息もせず進軍してきた黄巾賊にとって、それが出来る場と現地の情報を与えてくれる協力者を得るということは喉から手が出るほど願うもの。こちらが用意した者によって村々へと分散させた黄巾賊を、うちの軍と涼州の軍でそれぞれ叩けば連携の心配もない。黄巾賊の強味はその数だけ、精兵と謳われた涼州の兵はもとより、うちの軍にも適いはしないでしょうね」

 六万、といわれていた黄巾賊のために、急遽ではあるが村人の協力と承諾を得て用意した誘い込む村の数は、八。
 黄巾賊の行軍路や状況にもよるが、そのうちの五つは使用されることを考えれば、分散される兵数は万前後となる。
 さすれば、涼州軍五千にとっても董卓軍五千にとっても、当初の十倍より遙かに落ちて倍程度である。
 元農民の黄巾賊では、如何に半分とはいえ専属の兵士に敵うはずもないだろう。
 事実、伝令から伝えられた報告によって、こちらも涼州軍もさしたる被害もなく黄巾賊の一隊を壊滅させているのだから。
 運が良ければ、他の隊が壊滅したことを知らない別の隊も捉えることが出来、指揮官が率いる兵数は激減することとなるのだ。
 戦場は、もはや策通りに動いていた。

「……それにしてもあの馬鹿、こっちの許可を取りなさいってのよ」

 唯一懸念があるとすれば、涼州軍の将である馬超のお目付役――ただ、これは周囲の目に対しての体裁であり、内実とすれば馬超がご主人様と呼ぶ北郷こそが指揮をする将であったりするのだが、その彼が独断で行った黄巾賊本隊への潜入であった。
 無論、その独断がどのようにして行われたものかなど、賈駆としてみれば十分に理解出来る。 
 恐らくではあるが、黄巾賊への協力者として潜り込んだ涼州軍の若者――確か、名を庖徳と言ったと思うが、彼の救出を行うと同時に、涼州軍と董卓軍が黄巾賊本隊を攻める時の攪乱をするつもりなのだろう。
 その案は賈駆としても考えついていたし、可能であれば取り入れる策でもあったのだが。
 だからといってである――だからといって、北郷一刀本人がその潜入部隊に組み込まれているのは、如何なものだろう。

「……本当にこっちの迷惑を考えないわね、あの馬鹿は」

「へ、へぅ……一刀さんも、庖徳さんと仲良いから自分で行きたかったんじゃないかな? 旦那様って呼ばれてたし」

 でも何でなんだろう、と小首を掲げる董卓に、賈駆は大体はその理由が読めていた。
 とはいっても考えてみれば至極簡単なことなのだ、恐らくではあるが、馬超が北郷と夫婦になれば涼州の兵にとって次期主の旦那なるから、とそんな理由であろう。
 その想像に内心いらつく自分を不思議に思いながらも、いつまでもこうしている訳にもいかない、と賈駆は頭を振って想像を追い払いつつ董卓を見やった。

 最後の一手。
 董卓軍も涼州軍も己の役割を十二分に果たし、そして今、黄巾賊内部はその指揮官を失い混乱の極みにいることだろう。
 このまま放っておいても、分散した軍が壊滅したこと、そして自分達を導く指揮官が死んだという報によって、自然のうちに瓦解していくことは目に見えていた。
 だからこそ、涼州における黄巾賊をここで壊滅させておかねばならぬのだ。
 その好機が今にあって、後々に遺恨を残さなければならない理由など、あるはずも無く。
 そんな賈駆の視線に応えるかのように、董卓は一度頷いた。



 そして、賈文和の指示の下、董仲頴率いる董卓軍本隊千二百は進軍を開始する――その姿を、黄巾賊の前方に映すようにと。
 黄巾賊の逃げ場を塞ぐように、楔が打ち込まれた。
  



  **



 
「さすが詠なのです。最高のた、た……たみんげ?」

「……たいみんぐ、ちゃうか?」

「そう、それ、たいみんぐなのですよ! こちらも涼州の軍も、いつでも行ける準備を終えた時。黄巾賊が逃げるか進むかを決めかねている時という、実にいいタイミングなのですぞ!」

 遙か視線の先に黄色の集団が蠢く様と、そちらの方向へと進んでいく見覚えのある紫を基調とした董卓軍の動きに、陳宮は知らず声を出していた。
 北郷が言っていた異国の言葉――涼州の面々が言うには天の言葉とも言うらしいが、最も適した時期、という意味を持つその言葉が出てこず、張遼に教えられて慌てて声を荒げていた。
 だが、陳宮の周囲にいる面々は、そんな陳宮を笑ったりすることはない。
 それは、そういう人達が集まっているということもあるし、何より董卓軍本隊が動いたという事実がそうさせた――終幕が、始まったのだ。
 
 軽口のように応えてくれた張遼でさえ、その視線は強張っている。
 無理もない、と陳宮は思う。
 初め、安定を、董家を狙う黄巾賊の総数は董卓軍の十倍以上にも及んでいたのだ。
 西涼の馬騰の軍が協力してくれることになったとはいえ、その数は未だ五倍以上となる。
 それを策によって分割し、さらにはその少数となった一隊を壊滅させたとはいえ、既に長里を駆け一戦、しかもこちらより数も多く、組織的に動けたとはその行動が制限される村の中で戦っているのだ。
 陳宮の周囲にいる呂布や張遼、華雄は連戦の疲れなど微塵も見せはしないが、彼女達に付き従い敵陣を切り開いていく一般の兵達はそういうわけにはいかなかった。
 見るからに疲労困憊という者も、ちらほらと見えた。
 こちらからは確認出来ないが、恐らくは涼州軍の中にもそういった者がいるであろうことは容易に想像出来た。
 しかも、涼州軍はその戦力の大半を騎馬隊で占めていれば、村の中で戦闘を行ったであろう歩兵の疲労は、こちらの比ではないのかもしれないのだ。
 その中には、きっとあの男――北郷も入っているのだと、陳宮は知らず予想していた。

 だからこそ、彼を意識している張遼のみならず華雄、果てには呂布までもが緊張しているのだとも。
 陳宮は呂布と共に伝え聞いただけだが、安定救援の戦いの後、北郷は人を殺した自責によって嘔吐したという。
 人を殺しなれない、または殺したことのない人間にとって、同じ人間である人を殺すというのは非常に苦痛が生じることは、知識としてだけならば知っていた。
 未だ人を殺したことのない――賈駆から言わせれば、軍師は策を考えた時点で殺しているともいうが、直接的に人を殺めたことのない陳宮にとって、その苦痛は計り知れなかった。
 そして、彼が自責の念だけでなく、それによって今ある居場所を失うのではないかと悩んでいたことも、後に賈駆から聞いた陳宮は彼への評価を変えてみようとも思ったものだ。
 一度だけ、思案してみたことがある。
 自分が何かしらの理由で人を殺め、今の居場所――呂布の隣を失うばかりか、彼女から嫌われ、疎遠になってしまう、ということを。
 酷く悲しく、絶望して、何となしに呂布に泣きついたことは、誰にも言えない秘密ではある――もっとも、呂布の口からその事実が漏れ出ていることは、陳公台と言えども予想は出来ていない。

 一度そんな経験をしてしまえば、二度と人を殺めることなど考えられないと陳宮は思っていたのだが、だが北郷は再び戦場に立って剣を振るうと言うのだから、正気を疑ってしまうほどだった。
 
「何か思うところがあったのかもしれんな……。男、というものはよく分からんが、武人としていえばそれは成長とも言える。何か吹っ切れたことがあったのかもしれんぞ」

「男が吹っ切るゆーたら、女を抱くことちゃうかなーとは思うけど、そんなようには見えんしなあ。まあ正直なところ、一刀が沈みっぱなしちゅうのも想像出来へんし、良かったんちゃうか」

「一刀……どんどん強くなる。……凄い」 


 だからこそ、三者三様なれど董卓軍が、中華が誇る三将に認め褒められる北郷を、陳宮は不覚にも羨ましいと思ってしまっていた。
 彼女達に認められるということもあるが、何よりにも、過去という事実があったにも関わらずに、それを飲み込み再び歩める、という北郷自身をも。
 

 だからこそ、挑んでみたいとも思ってしまった。
 呂布のみならず、その他の将にまで認められていく北郷一刀。
 肩書きも能力も自身の方が上だと陳宮は断言出来るが、そんな彼に認められたい、と。
 呂布には認められているが、賈駆はもとより張遼や華雄からは未だ軍師として認められていないと思う陳宮にとって、北郷に認められるということは、彼女達からも認められることだと認識していた。
 故に、このような戦場で倒れることなど罷り成らないのだ――自身も、北郷も。

 そのついでとして助けてやればいいのですよ、などと考えながら、陳宮は周囲の三将へと指示を飛ばした。

「先陣は三つに分かれ、それぞれ霞と華雄が左右から、恋殿が中央から切り込んで敵の勢いを削っていくのですよ。そうすれば、最精鋭の本隊が攻撃を仕掛け、涼州軍も切り込んでいくのです」

「ははっ、我が隊の精鋭達だ。あやつら達がいけば、勝利など後から付いてくるわ」

「よっしゃぁぁ、腕が鳴るわ! うちは左から行くでぇぇぇぇ!」

「恋……真っ直ぐ行く。…………ねね、女の子頼む」

 張遼が左、華雄が右から黄巾賊へと駆けていく中央を呂布が駆け抜けていくのを見送った陳宮は、ふと傍らに控える兵へと視線を向けた。

 軍というのは、何もその全兵力を戦いへと向けるわけではない。
 その割合の中には輜重隊や救急隊、軍楽隊や馬の控えを引く者など多様に及ぶ。
 今回の状況ではそういった者達は連れてはいないが、かと言って全ての兵力を一気に押し当てることなど、陳宮はしなかった。
 五千の兵を二つに訳、先の村の攻防では半分を、今では残りの半分を前線へと押し出していた。
 これは兵の疲労という面もあるし、いざという時の援軍にも成りうることが出来るのだ。
 さらには、戦場の周りに斥候を放ったりするなどの様々な雑事を行うことが出来るのだが、その兵のうちの一人――華雄隊に次ぐ精鋭を誇る呂布の隊の一人の馬へと視線を向けた。
 その兵――確か高順とかいう女性兵士だったが、その背中には一人の少女が括り付けられていた。
 常の戦場であれば負傷した者などが居座るその位置ではあるが、彼女はどこも怪我をしている訳ではなかった。

 村の攻防に入る直前、黄巾賊の面々によって陵辱と恥虐の限りを尽くされようとしていた、あの少女である。

 緊張の糸が切れたのか、呂布達が助けに入った後は急に意識を失ったのだが、命に別状は無く、しかしと言ってあの村に起きっぱなしと言うわけにもいかなかったので、呂布の別名を受けた彼の女性兵士に背負われる形でここまで運ばれて来たのだった。

「しかし……なんとも気の抜けた顔を……。これではあの男にそっくりではないですか」

 すやすや、と。
 まるで昼寝でもしているのではないかと思えるぐらいに穏やかな顔のその少女に、陳宮は知らず愚痴を零す。
 それを見てくすり、と笑う女性兵士を一度睨み付け――陳宮は知らぬことだが、彼女の周りにいる兵からすれば背も小さく威厳の無い彼女の睨みは非常に和むものなのだが、そういったことに気付くことなく、陳宮は再び戦場の方へと視線を移した。 

 騎馬隊が主力の涼州軍が共闘相手にあって、その機動力と均一にするために部隊の大半は張遼が率いている騎馬隊で構成されている。
 その機動力をもってしてか、先ほどまで周囲にいた三将は、既に戟を振り上げながら黄巾賊へと肉薄する前であった。
 まるで、作り上げた砂山を子供が削り倒すようにその姿を削られていく黄色の群衆に、当初危惧していただけの抵抗がないことを見抜いた陳宮は、勝利を確信した。


「勢いも天運もなく、今また指揮官もおらず……。敵ながら可哀想なのですな……」

 もはや軍としての機能どころではなく、その形を留めるのも難しいであろう黄巾賊にそんな感情を抱くが、だからといってここで見過ごすわけにもいかないのだ。
 陳宮はぐるりと周囲を見渡す。
 今近くに残っている兵は、先の村で戦闘した面々の中枢であり、その内実は負傷兵やら消耗の激しい兵であった。
 これ以上の無理を強いるには厳しいとあって残ることになったのだが。
 周囲を見渡していく陳宮の視線に、皆一様に頷いた。

「涼州の兵ばかりか、我らが将軍ばかりに戦わせては董卓軍の名折れです。なに、疲れや怪我など戦場では茶飯事、今更何を気にすることがありましょうや――何より、数倍の敵を打ち倒す、それを成すというこれだけ昂揚する戦で戦わぬなど、武人として我慢出来るはずがございませぬ。故に公台様、是非にご下知を」

 そういう女性兵士の言葉に、先ほどまでヘロヘロで立つのも難しいと思われていた者達までが、声を――獅子の如き咆哮を上げた。
 獣臭さも、欲も、そういったものを感じさせないその咆哮は、しかして自然へ、大地へ、風へと戦い挑まんとする獅子哮だった。
 普段であるならば、そのような願いなど聞き届けるはずは無かった――効率、死傷者への手当、女性兵士に背負われた少女を呂布から託されたことなど、普段の陳宮であるならば、そのような無茶な願いを聞くことは無かったのである。
 だが、挑む、と決めてしまった陳宮ではどうかと問われれば――震える感覚が、その答えであった。


「……死ぬことは許さないのですぞ?」


「応ッ!」


 だからほら。
 その獅子哮に答えるかのように強くなる震えによって、陳宮の決心は固まった。

「よろしい、いい返事なのです。……張遼、華雄両将軍の左右を固めつつ、黄巾賊を押すのです! 後方の包囲していない方へと押せば、勢いに劣る黄巾賊のこと、必ずやそちらへと敗走を始めるのです。その時が好機、一気に押しつぶすのですぞッ!」

「応ォォォォォォォォッ!」

 陳宮の指示を受けて、今や今やと解き放たれるのを待ち望んでいた獅子達は、その戦場へと解き放たれる喜びによって、一層高い咆哮を上げた。。
 一応は陳宮自身の護衛と少女を背負う女性兵士はそれには参加することは無いが、それでも陣を進めるということに、陳宮自身昂揚していることが自覚出来た。
 それでもなお、周囲への警戒は続けるが。
 


 遙か彼方にあった勝利は、今や目前にまで迫っていて。
 陳宮は、何かを――それこそ挑戦状を叩きつけるかのように、高く上げた腕を振り下ろした。



「突撃なのですッ!」


 

 



[18488] 二十四話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/08/28 12:43



 怒声、そして喚声。
 やれ董卓が来ただの、騎馬隊が来ただの、呂奉先や華葉由が来ただのと騒ぎ立てる黄巾賊の中にあって、俺は無意識に剣の所在を確認していた。
 敵の中にあって力の拠り所を探すなど心が弱い証拠じゃ、と祖父ならば言うだろうが、いざその状況に放り込まれればそれどころでは無かったりするので、許して貰いたいものである。

「……大丈夫でござるよ、旦那様。拙者達が付いているでござれば、何ら心配は無用に」

 そんな俺の心中を察してか、馬超様の婿を死なせる訳にもいかぬしな、とカラカラと笑う庖徳に、幾分か力が抜けていくと共に未だにその話を引きずるのか、ここが戦場であってもとついつい脱力してしまう。
 そういうわけではない、と反論しても良かったのだが、それをすれば噂を広めつつある馬岱、その先で彼女へと指示を出しているであろう馬騰が余計に噂を広めてしまったりして被害が増えるだけなのだが――これはあれか、本人達を置いておいて外堀から埋めていこうという作戦なのか、とつい疑ってしまう。
 それを庖徳に問えば、正にその通りでござる、と俺の知る限りでは武者やら侍やらが使っていそうな言葉遣いで断言されそうで、怖くて聞けないのだが。
 本当、何故にこんな歳で神経をすり減らしているのでしょうかね、俺は。

 
「そうだよお兄様、令明の言うとおり。蒲公英達がいれば大丈夫なんだから」

「……そもそも、その伯瞻殿が何故ここにいるのかが問題なのですが? いくら、その……男の格好をしている、とはいえ」


 そして、先ほどまで怖くて見ることが出来なかった方向から声が聞こえれば、いよいよに諦めてそちらへと視線を移す。
 普段頭頂部の横で纏められている栗色の髪は後頭部で止められており、彼女が敬愛する馬超の如き髪型で。
 橙を基調とした可愛らしい服装に身を纏うことなく、普通の男性の民が纏う平服のようなものを着ている。
 態とらしく汚された頬や服から見てみれば、村や町の中を元気に走り回る少年――磨けば光るとでも言えそうな少年が、そこにいた。
 とはいえ、その着替えの一部始終を――というよりは、その少年に扮した馬岱に無理矢理に同じ天幕で着替えさせられただけであり、見たというよりは見られたに近いのだが――共にした俺も、馬岱と同じような服を纏っていた。
 とは言っても、俺の場合は聖フランチェスカの制服を脱いでその上から平服を羽織っただけであるが。


「男の格好をしているとはいえ、伯瞻殿は女の子なんですよ? もしばれてしまえば、如何様な目に遭うかは理解しているでしょうに……」

「蒲公英が襲われちゃうって? んふふ、心配してくれてるんだー?」

「勿論、心配ですよ。伯瞻殿は可愛いんですから、自分の価値をもう少し認識して下さい」

 端から見れば美少年というほどではないが、悪戯っぽく笑うその表情やコロコロと笑う表情には妖しさはなく、一種清純な色気があった。
 砂泥に塗れたその頬や肌の上を汗が一筋つたっていく、その光景に不覚にもドキリとしてしまうのを、俺は周囲を警戒するように頭を巡らせて何とかこうとかに誤魔化した。
 そもそも、馬岱は女の子であると自分で言ったばかりなのだ。
 男の格好をしていても女の子であって決して男としての馬岱に見惚れたわけではなくてでもその馬岱は可愛い女の子で男の格好をしていて、と一体何が考えたかったのかと思考が茹で上がりそうになるまでに思考していた俺は、いよいよ苦しくなって周囲の警戒へと意識を移した。
 あのままであれば、頭に血が巡って倒れるか鼻血が出るか、どっちにしろ馬岱にからかわれそうな状態であるのだ。
 馬超との嫁婿の問題をだしにして、今また先ほどまでの俺の葛藤もネタにされては敵わないのだが、しかして一言もそういったことに言及してこない馬岱に気を取られれば、周囲の警戒など出来ようはずもなく、俺は馬岱へと視線を移したのだが。


「……」


「…………伯瞻殿?」


 何故だか遠くを――それこそ、ボーともポーとも表現出来そうな感じで見ていれば、段々と朱に染まっていく頬に首をかかげる。
 敵に囲まれているという状況で興奮でもして熱が出たか、と思って庖徳へと視線を移せば、面と向かって溜息をつかれてしまった。
 くそう、俺年上なのに、威厳なんか微塵も――まあ、初めから存在しないけどもさ。
 そうして、付き合いきれませんな、とばかりに肩を竦めた庖徳は、呆れた視線を俺から外すと、周囲で騒ぎ立てる黄巾賊を警戒していた涼州兵の元へと歩いていった。
 遠くを見れば、既に予定通りに董卓と賈駆がいる本隊がこちらからも見える位置にまで動いてきており、その動きに合わせるかのように馬超率いる涼州軍と一応華雄が将軍となっている董卓軍が、黄巾賊を挟撃するようにと動き始めていた。
 その動きはまるで生き物の如く脈動しているかのようで、食いついたら離れることのない獣のもののようにも見えた。
 なるほど、味方である俺でさえその動きに圧されるのだから、敵である黄巾賊の恐怖は計り知れないものだろう。
 よくよく聞いてみれば、周囲からも、降伏の言葉が聞こえ始めていた。


 タイミング的には今、か。
 兵と状況を確認していた庖徳もまたそう気付いたのか、つい、と動かした俺の視線に頷くことで応えてくれた。
 あとは馬岱だけなのだが……如何せん、未だ虚空を見つめていた。
 元に戻るのを待ってもいいのだが、どれだけの時間がかかるかも分からない――さらには、庖徳やら涼州の兵やらが、さっさと動かせよ、と視線で催促してくるものだから、そのままにするわけにもいかなかったりもする。
 かといってどうすれば――と思った俺は、とりあえずその頭を撫で回してみることに決めた。
 うん、砂泥に汚れていても、サラサラの髪って触ってみたくなるよね。
 きっと及川なら、髪フェチか、と突っ込むとこだと思う。


「きゃわっ!? お、お兄様一体何を……ッ?! にゃふん!?」

「ぐーるぐーるぐるぐる。……どうですか、伯瞻殿? 目は覚めましたか?」

「むー……起きてるよー」

 撫で回す、というか、どっちかというと頭を振り回すに近いことをしてみれば、くるくると目を回したという何となく珍しい馬岱を見ることが出来た。
 サラサラの髪は十分に堪能出来たし――って違う違う、虚空を見つめることを止めた馬岱は、目を回したという不快感に顔を顰めて、乱れた髪を整え始める。
 唇を尖らせて不満をぶつけてくるその様が年相応のようで――いやまあ、普段の悪戯をする様も年相応、もしくは若く見えるものではあるが、そんな馬岱に知らず頬が我慢出来ずに微笑んでしまえば、何故だか再び頬を朱くされてしまう。
 再び呆然とされては不味いと、俺は反射的に口を開いた。

「伯瞻殿、時は今、です。行動を今起こすことによって、この戦の最後の一手となります。……準備はよろしいですか?」

「……うん、お兄様に掻き回されちゃってガクガクだけど、蒲公英はいつでもいいよ」

 そう言う俺に、息を整えた馬岱が至極真面目な顔をして頷く――その言葉遣いがどことなく蠱惑的ではあるのだが、まああまり気にしないでおいた方がいいだろう、主に俺のために。
 それを証明するかのように、すぐに庖徳へと視線を移した俺の背後で面白くなさそうな呻き声が聞こえるあたり、先ほどの台詞回しが態とであると暗に示していたのだが、とりあえず今はそれに構っている場合ではないので無視しておく。
 俺の意図と同じであった庖徳が頷くのに俺も頷きで返すと、俺は勢いよく剣を引き抜いて空へと掲げた。



「生を求め、糧を求め、彼方から付き従ってきたがそれもままならぬとあれば、未だ黄巾の教えに縋り付く理由は無し! かくなる上は、黄巾の教えを捨て敗兵なれど降伏し、この命救う他にしか道はない! 我と共に来る者は、黄巾を捨てて我に続けぇぇ!」


 
 似合わない口上――賈駆と陳宮が俺でも様になるようにと考えられたそれを、覚えた通りに声へと出すのだが、なんというかあれである、自分でも似合わないと思うよ。
 まあ元々は降伏勧告のための口上なのであって、降伏の同志を増やすためのものではないのだから、それも当たり前なのかもしれないが。
 天の御遣いという俺の肩書きを最大限に利用して、降伏する数を増やすのが最大の目的ではあったのに、外からよりは内からの声の方が降伏の勧めが効くだろうという俺の独断によって、それも泡へと消えた――きっと本隊では賈駆が烈火の如く怒っているのだろうと思うと、ゾクリと視線で射抜かれた気がして、背筋を振るわせた。


「なッ!? き、貴様、大賢良師様の教えに逆らうと――ガフッ!?」

「拙者、黄巾を捨てるでござるよ! 黄巾の教えでは腹も膨れぬ、家族も養えぬでござれば長いは無用、早く降伏するでござるー!」

「蒲公――じゃなかった、ぼくも降伏するぞー! 黄巾なんかもうたくさんだー!」

 そして、俺の声を反乱分子と受け取ったのか、黄巾賊の部隊指揮官らしき将が俺へと近づいてくる。
 その手は既に剣の柄へと伸びていて、俺の受け答えによってはすぐさまに引き抜かれるであろうことは予想出来た。
 だがそれも、その将がそれまで黙っていた庖徳の傍を通る時に、彼によって叩きのめされることで裏切られることとなる。
 その庖徳の行動は、先ほどまで俺の提案に付くかどうかを考えていた面々の気持ちを方向付けたらしく、彼の後へと続くかのように声が上がっていく。
 俺も、我も、僕も。
 それらの声は、互いが互いを増長させるようにどんどんと増えていき、俺の周囲を覆い尽くすまでになっていたのである。
 庖徳の声に反応して周囲へとそちらの方がいいのでは、と思わせる予定であった――つまりはサクラであった馬岱や同じように潜伏中の涼州の兵達もこれには驚いていたが、それでも自分達の任をこなさなければ、と慌てて声を上げ始める。
 そしてそういった声に、黄巾の教えにではなく、生きる糧を求めて仕方なく黄巾を纏っていた人達がそれに呼応することによって、さらに大きな声へとなって賛同者を集めていったのである。
 そういった人達の多くが、渭水から黄巾賊に参加した人達だ、と戦いが終わってから気付くことになる。



 黄巾に頼るな、降伏すれば飯が食えるぞ、等々。
 黄巾に縋り付くよりも降伏した方が糧を得られる、その意味を含めた言葉を騒ぎたてながら、周囲でそれに抵抗しようとする黄巾賊の兵を切り伏せていく。
 その途中にも呼びかけていけば、外から迫り来る軍と、内から食らい破らんとする反乱兵に気圧されてか、徐々にと賛同する人達が増えていった。
 数万――先だって万程度の部隊を二つ潰し、ある程度の兵を削ったことから四万程度と考えられるが、その黄色の群の中で生まれた小さな固まりは、徐々に、そして確かに脈動しながらその規模を広げていった。
 そして、その数が数百、数千を超えて万に届こうかという時になって、開戦当初にあった戦力差はその殆どが消え去り、今や覆ったと言ってもよいほどであった。



 そして今――



「生きるため、食うために、まずは董卓軍本隊と合流するために道を切り開く! 続けぇぇぇぇぇ!」



 ――勝敗が、決しようとしていた。





  **





「くっ! まだ負けてはおらん、懸命に押し返せと伝えろ! 数はまだこちらの方が上なのだ、一気呵成に押しつぶせッ!」

 臨時の指揮官である韓忠の指示に圧され、それまで押されていた黄巾賊は一時的に優位へと立つことが出来たが、しかし相手の勢いに飲まれれば再び押し返されることとなった。
 その光景に再び声を荒げるが、今度は相手を押すことはなく、後ろへ後ろへと押し込まれることとなる。

 どれだけ声を荒げても、口では何と言おうとも、この戦い、黄巾賊が破れることを韓忠は理解していた。
 元々南陽黄巾賊において部隊を指揮していた韓忠であったが、共に張曼成の配下であった趙弘に涼州方面軍の指揮権が移ってからは、さらにその下で部隊を指揮するという役目に当たっていた。
 多くの軍を見て、多くの戦を戦ってきた韓忠にとって、今日この場で黄巾賊が負けることなどは、ある意味自明の理でもあった。
 補給の見込めない敵地での戦闘、勢いだけに任せた進軍、現地兵調達での指揮系統の混乱、なにより情報が足りなかったのである。
 先にもって偵察の兵を出すなり密偵を出していれば、この戦場で対峙するのが董卓軍だけではないことは知れていたであろうし、相手の策の一部分だけでも知ることが出来たかもしれないのだ。
 それを知ることが出来なかった理由はただ一つ、趙弘がそれを知ろうとしなかった、ただこれだけである。
 

「くそっ、趙弘のやつめ! 面倒ごとを起こしよってからに! これでは儂の命が危ないではないか」

 だが、韓忠からしてみればそんな趙弘の指揮下に入ることに、さしたる不満は無かった。
 将として、武人として趙弘に劣っていることは己で理解していたし、彼のように強い敵や困難が好きなどということもない。
 ただ唯一としてあるのは、自身の欲を叶えて楽しく生きることである。
 もしこの場に天の御遣いがいれば、高校生みたい、或いは自己中心的だ、等と言われるであろうその生き方は、しかして韓忠としてみれば特別変わったことではなかった。
 そう思うことが自分にとって普通だと思っていたし、であるからこそ、それを叶えることが出来る黄巾賊なんぞで将をしているのだから。
 飯を食いたい時に食うことが出来、寝たい時に寝て、女が欲しい時に抱く――それらの行動が他人から奪い取るものであったとしても、さも奪われるのが悪いのだと言わんばかりであった。

 だからこそ、現状において自身が陥っている状況を、韓忠は我慢出来なかった。
 今回、涼州方面軍に付いてきたのも、噂から董卓の収める石城や安定が富んでいると聞いたためであり、自身が欲するものが出てくるかもしれないと思ってのことだった。
 当初の話であれば、董卓の兵は数少なく、正面から踏み潰していけば苦戦することなど何もない、そう聞かされていたのだが――


「――ちっ、趙弘も張曼成も、決して役に立ちはせん。やはり頼れるのは己のみ、ということか……。おい貴様ら、儂のために壁となって死んでいけ。大賢良師様に貴様らの奮戦ぶりを伝えおいてやろう」

「は……はっ! あ、ありがとうございます!」

 結局のところ、仮面の男に騙されていたか、と思い至った韓忠ではあったが、それに別段構うこともなくすぐさまに思考を働かせる。
 騙し騙され、など戦乱の常であり、それが実際にどうなどと気にする必要もないと感じていたからだった。
 現状で考えなければならないことはただ一つ――自身がどうやって生きるかである。
 まあ、名も無き兵を壁にして後方へ引けば助かるだろうと閃いた韓忠は、すぐさまにその指示を下す。
 初め、暗に死ねと伝えた韓忠に対して怪訝そうな表情を向けた兵達ではあったが、大賢良師――つまりは黄巾賊の頭首である張角に自分達のことを伝えてもらえる、と聞けば、韓忠からの指示はすぐさまに張角からの指示へと変貌したのである。
 黄巾賊の中には、その兵達のように張角に崇拝を捧げる者は多い。
 韓忠からしてみれば、あのような小娘に――まあ発育は良かったが――命まで捧げるなど考えられないことであった。
 だが、とふと考えてみれば、その崇拝は使えるものでもある。
 何かしらの手を使って――それこそ、男として張角とその妹達である張宝と張梁を侍らすことでも出来れば、全土において暴虐に暴れ回っている黄巾賊とその頭首である小娘は、自分のものとなるのだ。
 それもまた一興だな、と下卑た笑みを浮かべた韓忠は、とりあえずの目的地を黄巾賊本軍がいる華北と定め、近くにいた兵から奪った馬の踵を返し――



「おおっと、逃がさへんで。あんたが指揮官やな? その首、貰いに来たで」



 ――その進行方向を、一人の女によって塞がれることとなった。








「……何者だ、貴様――まあ、董卓の兵の一人だろうがな、その貴様がここで何をしている? 武功に逸ったか?」

「言うたやろ、あんたの首を貰いに来たってな。大人しく観念する言うんならそれで良し、せんのなら首を貰うで」

 まるで、そこらにある物をちょっと借りるとでも言うように韓忠の命を奪うといったその女に対して、シャキン、と韓忠は一般の兵のものよりも遙かに上等な剣を抜いて応えた。
 肩に担ぐ獲物こそ畏怖を示すかのように龍を形取っているが、自分を大きく見せたいがためにそのような意向にする者を多く見てきた韓忠にとって、それは大した問題では無かった。
 今問題なのは、目の前にいる女がどれだけの使い手なのか、ただそれだけである。
 武には少々自信があるとはいえ、それでも趙弘に負けるあたりそれほど才覚が無いことを自覚している韓忠は、無駄な戦いをしようなどと考えはしなかった。
 ただ、周囲にいる兵でどれだけの時間稼ぎが出来るほどの武なのか、だけである。
  
「……ふん、なるほどな。だが、儂とて簡単に死ぬ気もない。おい、お前達! この女を倒せば、好きにしても構わんぞ! 自分の女だろうが、奴隷だろうが、道具だろうがなッ!」

 だが、そう考えるのも馬鹿らしい。
 如何に豪傑でも、韓忠の周りにいるだけで十人以上いるのだ、これだけの数を相手に出来る筈もない。
 胸はサラシを巻いただけ、見たこともない腰巻きから覗く肌や腹のくびれは酷く扇情的であったらしく、韓忠の言葉にその全てが歓声を上げた。

「うげー……やっとれんわ」

 そんな兵達に心底からの嫌悪を顔に表した女の言葉を無視して、韓忠は馬の踵を再び返す。
 兵に敗れ、押し倒される女の痴態を見ても良かったが、このままここに残れば最終的には董卓によって破れることが決まっているのである。
 それこそ自分の命が危険な状況なのだ、わざわざその渦中に残ることもあるまい、と韓忠は馬を駆けさせ始めた。
 気の強そうな女を屈服させるのも楽しいが、如何せん胸がでかすぎる――小振りのほうが趣もあるしな、と韓忠は馬の速度を上げた――



「逃がさへんって言うたやろ? 観念しいや」



 ――その横を、さも当然かのように先ほどの女が馬を駆けらせていた。



 
「なっ!? き、貴様、どうやって……?!」

「どうも何も、全部叩き伏せたに決まっとるやないか。まあそれはええ、ほな、いくで」

 ちらりと先ほどまでいた場所を見てみれば、女の言葉を示す通りに、先ほどまで韓忠の周りにいた兵達が地に倒れているのが見えた。
 信じられないことではあるが、女が言っていたことは本当のことらしい――そして、そこでようやく韓忠は女の武がどれほどか、それこそ韓忠からすれば天と地ほどの差があることに気づいた。
 それを示すかのように韓忠が女へとむき直した時には、一瞬にして韓忠の視界は白銀へと染まった。
 

 そして、その意識が完全に闇と同化する直前。
 女は胸やない、と女の声が聞こえたのは気のせいだったのかもしれないが、もはやそれすらも理解出来ぬままに、韓忠は先ほどまで己の身体であったモノを、生気のない瞳で見つめていた。




 **




 そして、戦場に一際大きな声が響き渡る。

 敵将、張文遠が討ち取ったり、と。

 もはや瓦解寸前にまで追い込まれていた黄巾賊は、それによって完全に崩壊を始め、ある者は降伏し、ある者は黄巾の教えに最後まで縋って死んでいった。
 当初六万とまでいわれた黄巾賊は、その殆どが散々に打ちのめされることとなり、黄巾を見限って降伏した数千以外は、討ち取られたか、逃散していた。
 
 一方の董卓軍と涼州軍であるが、こちらも連戦による疲弊した者や負傷者などはかなりの数に上り、また戦死者にも多くの名が挙がった。
 だが、損害は大きくとも、それでもなお守るべきモノを守ることが出来たのである。
 多くの兵はそのことに喜びの声を上げ、いつしかそれは、戦場を覆う勝ち鬨の声へと変わっていった。

 


 後に、渭水安定の戦いと呼ばれることとなる戦いは、こうして幕を閉じたのである。
 





[18488] 二十五話  黄巾の乱 終
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/09/09 12:14


 朝靄に埋まる安定の街中。
 餌を求めるために鳥が飛び交い、朝を知らせるように鶏が甲高い声を響かせている中、相も変わらずに、俺は城の一室にいた。
 無論、いつものやつ――朝早くから積まれた書類の処理である。


 大豆などの畑を増やしたいので用水路の数を増やして下さい――財政と農畜の担当へ指示書を出しておきます。
 新しい戦術を考えたので検討して下さい――賈文和または陳公台にその概要を提出し指示を受けて下さい。 
 最近食い逃げが頻発しているとの報告があります――警邏に出る各将軍に話しておくと共に対応策の検討をしておきます。
 城壁の補修用資材が足りなくなってきてますので補充をお願いします――担当官の方へ伝えておきますので早急に対応します。
 董卓様が綺麗で可愛くて生きているのがつらいです――華雄将軍に伝えておきますので死ぬほど調練してもらいに行って下さい、むしろ逝け。
 警邏中に会ったあの子のことが気になるんですけどどうすればいいですか――むう、俺も経験が無いからよく分からんがまずは話をしてみることが大切……えっ、相手男?君も男だよね?ま、まあお互いによく話し合ってだな、意見を尊重しあえばいいと思うよ俺はうん。


 などなど、途中から今いち理解不能な問題があったりしたかもしれないが、さして気にすることなくそれらの提案書やらなんやらを片付けていく。
 どうにかこうにかそれらの書類やら竹簡やらを纏めると、今度は別の山へと視線を移す。
 先の渭水から安定までの戦いにおいての論功論賞のための勲功一覧作成、戦死負傷者等の割り出し、囮とした村々の復興のための資金や資材の必要分の算出及び調達、等々。
 先の戦が終わって数日、ようやく街や軍も落ち着きを見せ始め、俺としてもそういった仕事が来るであろうことは予測していたのではあるが――何というかである、ちょいと数が多いような気がするのは気のせいだろうか。

「あ、あの、北郷様……?」

「んー、ああ、その辺にでも置いておいて下さい」

 そしてまた、数人の侍女が持ってきた竹簡やら書類によって、新たな山が出来上がる。
 ちらりと見てみれば、どうやら軍方面からの提案書らしく、どうにもミミズが這ったようにしか見えない文字がつらつらと並んでいた。
 文章の最後に『華』と押された印に、思わず苦笑してしまった。

「えーと……これは装備関係……こっちは部隊運用に関して……なんだこれ、詠からだ。なになに、新兵の運用方法についての検討書の提出? 俺じゃなくて霞や葉由殿の仕事だろ、これ……」

「えーと、北郷様、これは一体どちらへ?」

「ああ、すいません! えっと、そこの端にでも置いておいて下さい」

 そうやって一通りに目を通していけば、再び文官の一人が腕一杯に持ってきた竹簡によって、また新しく山が出来た。
 まあ、今回のは先ほどの侍女達の分よりは少ないので、些か楽そうではあった。



 だが。

「北郷様、財政担当からの報告書です。あと、市井への予算をどうするかとご相談が――」

「北郷様、将官の方々から模擬戦の要望書です。それに関して場所を決めて欲しいと――」

「北郷様、賈駆様から街の有力者との会談に出るようにとのご連絡ですが――」

「北郷殿、伯約が聞いてまわった民からの提案や要望を纏めた書を持って来ましたが――」

「北郷! 調練をするぞ、武器を取れッ!」

「一刀、酒呑もう! ほらほら、早く行こうやッ!?」

「……一刀、セキトと遊ぶ?」

「お前の意見を聞きたいのです! これなのですが、どう思うのですか!?」

 こうも次から次へと来ると、どうにもこうにも立ち回らなくなるのは当然のことであり、さもすれば、作業効率が低下するのも当然であった――なお、自分達の仕事は済んだとばかりに部屋を訪れた方々には丁重にお帰り頂いた、具体的には暇なら手伝えという言葉で追い払ったとも言える。
 塵から山へ、山から山脈へとなるように積まれていく書類と竹簡を出来るだけ見ないようにしながら、俺は人知れず溜息をつく。
 本当、なんでこんなことになっているのか、と。
 戦の前にもある程度の仕事があるにはあったが、現状はそれどころの話ではない状態である。
 それこそ。
 全ての仕事が、一旦俺を介しているかのように。

 それが自分の預かり知らぬものであるならば、誰々がさぼっているのだ、と開き直る――もとい、諦めることも出来るのだが……あれ、あんまり変わらないような気が。
 まあそれはともかくとして、何故こんな現状になっているのか――明確に言うのなら、何で俺に宛がわれた執務室の壁が書類と竹簡げ埋め尽くされているのか、であるが、それに心当たりのある俺は、再び溜息をついた。
 本当に、なんでこんなことになってしまったのだろう、と。



 ただ一言、了承をしただけなのに。 





 **





 勝利。

 その二文字は、多くの軍が求め得ようとするものであり、もっとも得難いものでもある。
 人が人として在り始めて後の世、それを求めるだけに生きている人達だっているのである。
 それほどに得難く、尊く、そして甘美なそれを携えて、董卓軍と涼州軍は安定の門をくぐった。


 
 黄巾賊との決戦。
 当初の六万対一万という絶望に覆われていた戦いは、当初の予想を大いに覆して連合軍の勝利に終わり、軍の内部からは奇跡とも、各々の将兵達の奮戦の賜ともの声が上がっていた。
 無論、そのどちらとも言うことが出来るし、或いは軍師達による策が嵌っていた時点で勝利は確実なものだったという智者もいたりはするのだが。
 まあようするに、である。
 そういったことを話せるだけには落ち着いた状況であり、また議論するほどに勝利の興奮に身を委ねているのではあるが――どうやら、それは戦況を見守っていた民達も同じだったらしい。
 二列に並んで安定へと入った董卓軍と涼州軍、その両者を待ち受けていたのは歓声の嵐であったのである。

「董卓様、ありがとうごぜえますだ! これで安心して畑を耕せますだ!」

「賈駆様ー! その鋭い眼差しとその知謀、そこに痺れる憧れるッ!」

「おお、あれが天下無双と豪語する華将軍か。あの佇まい、まさしくその通りよ」

「張遼様、またいい酒入れときますんで、呑みに来て下さいよー」

「呂布様も、肉まんを用意しておきますから、来て下さいね」

「陳宮様、今日も可愛いですぞー!」

 などなど。
 見渡す限りの人――それこそ、安定中の人達が賛辞を述べるためにここに集っているのではないかと思えるぐらいの声の多さに、董卓軍の面々はそれぞれに応対しながら道を進んでいった。
 まあ、董卓が誉められて照れたり握手を求められたりすると賈駆が睨んでそれを押さえ込んだり、天下無双と呼ばれて鼻を高くした華雄が回りとの歩調を考えずに先に先にと進んだり、酒と肉まんがあると聞いた張遼と呂布がそちらへ流れるのを陳宮が服を引っ張って止めたり、と。
 大勝利の中にあっても常日頃となんら変わらない董卓軍の面々に、俺はどことなく居心地の良さを感じていた。

 ふと視線を移してみれば、涼州軍でも同じような感じであった。
 馬超が誉められて顔を真っ赤にして慌てれば馬岱がそれを宥めつつ引っ張っていく、庖徳はのんびりと軍を纏めて行進していた。



 


 そんな軍の一角にて、俺も慣れぬ手つきで馬を歩かせていた。
 戦場で勢いよく駆ける分には気前よく走ってくれるのだが、どうにもこういった混雑した所を歩くのはお気に召さない俺の馬は、いつでも走れるといったばかりにいきり立っているようだった。
 ならもう少し気性の大人しい馬に乗れば、ということになるのだが――いや、まあうん、こいつしか乗れる馬がいないのだから、仕方がない。
 語るも涙、聞くも涙――馬岱から言わせれば前者はそれまでの苦難と痛みを思って、後者はその話を笑って――というエピソードがあったりもするのだが、それはまあ、割愛しておくとしよう。
 
「……一刀、疲れた?」

「ふん、これしきのことで疲れるなど、軟弱者なのです。そのような者が恋殿と同じ将軍となろうなどと、百年早いのですぞ!」

 自分の馬に乗るまでの課程を思い出して沈んでいる俺の横へと、呂布が馬を寄せる。
 紅い身体に炎のような鬣を持つその馬に跨る呂布、その馬が赤兎馬かどうかは分からないが、これが人馬一体か、と言えるほどの風格を携えていた――その呂布の前に、ちょこんと陳宮が座っているために台無しではあったが。

「大丈夫ですよ、奉先殿。心配して頂いてありがとうございます。公台殿は……まあ、面目ない」

 分かればよろしいのです、と鼻をならして胸を張る陳宮から視線を外して、そんな陳宮の頭を器用に撫でる呂布へと視線を移す。
 片手で手綱を引いて片手で撫でる、そんな芸当を俺がしようものなら、すぐさまに跳ね飛ばされるのは目に見えていた。
 というか、そもそも陳宮は疲れるようなことをしたのだろうか。
 まあ、それを聞けば最近日常になりつつある跳び蹴りを喰らうことになりそうなので、言わないでおいた。 

「それにしてもお疲れ様でした、奉先殿。張、華の両将軍と共に黄巾賊の陣を散々に打ち破ったと聞きましたが……あー、全然疲れてなさそうですね」

「……ん」

「恋殿はお前なんかとは違うのですぞッ!」

 そして、社交辞令とばかりに俺も呂布に対してお疲れと言おうとしたのだが、ふと彼女の状態を確認してみれば、服やらは常と変わらず、手綱を持つ手で器用に支えられた方天画戟は汚れも痛みもない。
 さらには、特に問題はないとばかりにけろりとされては、それを口に出すわけにもいかなかった。
 同じ時間を戦場に立っただけでへとへとな俺とは、天地ほどの差である。
 そんな俺を気遣う視線を送ってくれる呂布に、少しだけ和んだ。



   


 そんなこんなで城へと辿り着いた俺達は、その一室へと集った。
 外からは未だに歓声が聞こえ、まるで祭りでもしているかのような――後に本当にしていたことが判明する――賑やかさの中にあって、その部屋の中は静かであった。
 その議題は、当然のことながら黄巾賊への対策である。

「それじゃあ……まずは、みんなお疲れ様。厳しい戦いだったけど、今日勝てたことはみんなの働きのおかげよ」

「はい、詠ちゃんの言うとおりです。特に馬超さんと馬岱さんには、大変感謝しています」

「えへへ、そう言ってくれるのは嬉しいけど、翠姉様と蒲公英だけじゃ勝つことは難しかったと思うよ。翠姉様、イノシシだし」

「そうそう、わたしと蒲公英だけじゃあ――って、誰がイノシシだ、蒲公英ッ!?」

「なっはっはっは! うちにもイノシシはおるから気持ちは分かるで、なあ華雄?」

「うむ、よく分かるぞ……ん? これだと私がイノシシみたいではないか?」

「う、うわっ!? 孟起殿、ちょっと落ち着いて下さいよッ!? 霞もちょっとは空気を読んでッ!?」

 今回の戦では勝利を収めることが出来たし、多くの兵力を潰すことが出来たことによって、当分の間は黄巾賊が活発な動きをすることはないように思えた。
 だが、それでもその勢力は健在であり、いつまた牙を剥くとも限らないのだ。
 それこそ、である。
 過大な表現も含まれているのであろうが、黄巾賊百万、この全てがもし安定を襲おうとするのであれば、いかに馬騰の西涼などに助けを求めてもどうすることも出来ないのである。
 だからこそ、勝利したとは言え、黄巾賊の勢力を削れたとは言っても、その新たな対策を講じることは無駄になることはないのだ。
 
 だと言うのに。
 そんなことなどお構いなしにいつものように騒ぎが起こり始めるのを、俺は苦笑しながら見ていた。
 俺が知る三国志という歴史の中で、後の世となっても英傑と数えられるその面々を見ていれば、例え百万もの敵が攻め寄せてきても勝てる、と思えてくるから不思議でならない。
 そして、そう思える人達だからこそ、人は英傑と呼ぶのだと、何だか不穏な空気が流れ始めた面々を見てそう思った。 
 
 そして、話し合いなど気にすることもなく、馬岱を追って馬超が、張遼を追って華雄がそれぞれ追いかけようとするのを、後ろから腰に腕を回してどうにかこうにか押さえた――ええと、柔らかくていい匂いがしました、汗かいてるはずなのに甘い匂いとはこれ如何に。
 これ以上被害を広げないで、などと俺の意見が聞かれるはずもなく――馬超は、俺が腰に手を回したら真っ赤になって止まったが――張遼に言われた言葉の真偽を何故かしら俺に聞いてくる華雄を宥めて、どうにかこうにか賈駆に議題の進行を促した。






 そして。

「……」

「……」

「……」

 黄巾賊への対応が一通り決まった――偵察斥候を増やして情報を掻き集め先手を打ち、馬騰達西涼との連絡連携を密にする――その後に、俺は賈駆に呼ばれて先ほどまでの部屋に残っていた。
 仕事の話、ということだったので当然のように董卓も一緒で、並んで座る彼女達の対面に俺が座ることとなる。
 そして、俺を呼び止めた賈駆が口を開くのを待つ……待つのだが、一向に口を開こうとしない彼女に首を傾げてしまう。
 普段であればどんなに言いにくいことでもずばりと言う彼女が、どんなことを言うにせよ言い淀むというのは実に珍しい光景であった。
 その事実にますます首を傾げるしかない俺に、ついには賈駆ではなく董卓が口を開いた。

「あの……一刀さんに、お願いしたいことがあるんです」

「いや、やっぱりボクから言うよ、月。……あんたに頼みたいことがあるんだ」

 そして、結局は口を開いた賈駆のみならず、董卓のその緊張した面持ちに、俺は知らず身体を強張らせていた。
 彼女達がそれほどまでに言いにくいこと、それが一体どんなことなのか理解出来ない以上、賈駆の口が開くのを待つしかない俺にとって、その数秒とも言える時間は永劫にも感じられた。



「あんたに……将軍をしてもらいたいの」


「……はい?」



 しかし、待ち構えていた言葉は意外なものであって、俺はその意図を知ることなくあまりにも呆然と声を出していた。

 というか、将軍?えっ、元々なる予定じゃ無かったの?

 俺の今現在の肩書きは将軍見習いだったと記憶している。
 それはつまり、後々には将軍として呂布や華雄、張遼と同じように――いや、あれだけの働きをすることは無理だし、そもそも武力からして段違いなのだが、それでも同じ立場として戦場に立つことになるのだと思っていた。
 しかし、賈駆は将軍になってもらいたいと言う。
 わざわざ伝えなければならないことなのか、と首を掲げた俺へ、賈駆は呆れたように呟いた。

「多分だけど、あんたの考えていることとは違うわよ。……ボクが言ったのは将軍、つまりは将ではなく、文字通り軍を任せられる将軍にならないかと言うこと。分かりやすく言えば、漢王朝でいう大将軍になってくれないか、と言うことなのよ」

 大将軍。
 この時代では何進がその役職にあったと記憶しているが、その意味としては、各地の太守や州牧、軍閥を纏めるものである。
 つまりは元締めだ。
 そして賈駆が言うところは、董卓軍にとっての大将軍に、俺がならないかということなのであろう。
 それを聞いたとき、俺はふと思っていた――何かの冗談か、と。

「武官文官に顔が通じ、戦を生き残るだけの武と、数倍の敵を打ち倒せるだけの策を考えつく智があって、あんたをただの将軍にするにはあまりにももったいないの。それに、石城だけならまだしも、安定をも支配下にいれたとあっては、同時に攻められれば月とボクだけでは両方を対応するのは難しい」

 だからもう一度言うわ、あんたに将軍になってほしいの。
 武官としての将軍ではなく、戦場を任せられるだけの将軍に。
 そう告げる賈駆と、自分も同じ気持ちだと言わんばかりに頷く董卓の視線に、俺は知らず視線を彼女達から逸らしていた。
 董卓軍の将軍と言えば、董卓軍最強部隊を率いる華雄、飛将軍と呼ばれ天下無双を誇る呂布、その部隊運用の疾さから神速将軍と呼ばれる張遼がすぐさまに挙がる。
 彼女達の武勇はこれまでも見てきたし、俺なんかがその末席に加えられるなど、と思って時間があれば鍛錬を繰り返してきたものだが。
 何がどうして何があれば、末席であった将軍職が、いつのまに彼女達を指揮する将軍へと変貌してしまうのか、まったくもって謎である。

 そもそも、俺よりも呂布達董卓軍が誇る三将軍の誰かがなればいいじゃないか、ということになるのだが。
 そんな俺の疑問を感じてか、賈駆がずばりと言う。

「駄目よ、華雄達は部隊運用ぐらいなら考えるけど、戦術とか全く考えないもの。言うなれば馬鹿、なのよ。だから無理。もちろん、軍師であるボクやねねでは前線に出るわけにはいかない。なら、両方を兼ね備えたあんたっていうのは当然だと思わない?」

「いや、思わない、って聞かれても……。あれだ、その…………本当に俺、なのか?」

「ええ」

「はい」

 当然、そういわんばかりに頷かれて、知らず頭を抱えてしまう。
 どうにも本気らしい――裏に馬岱とか馬騰がいたような気もしたのだが――董卓と賈駆に、正気なのか、と本気で問いただしたいぐらいだった。
 ただ、彼女達の言いたいことは理解出来る。
 董卓に天下を狙うという意志は見えないとはいえ、現状で二つの街を勢力圏としているのだ。
 現状でさえ独自に動ける軍は必要とも言えるし、これから飛躍する――俺が知っている歴史へと移っていくのであるならば、絶対に必要と言えた。
 まさか、その軍を指揮するのを自分がしろと言われるとは思わなかったが。

 それでも、将軍という地位は、待ち受ける歴史へと準備をするには十分に好都合なものである。
 軍の編成、その兵力、行軍経路、策略を決められる立場であるならば、あるいは。
 そう思った俺は、いよいよに覚悟をもって口を開いた。



 
 そして。
 その時をもってして、将軍、北郷一刀が誕生したのである。




  **




 もっとも、歴史より何より、待ち構えていたのは仕事仕事の連続なのだけれど。
 そう心中でだけ愚痴を吐きつつ、伸びをする。
 朝早くから椅子に座っていたためか、ゴキゴキと音をならせば幾分かすっきりとした――時々、メキッ、とか、ミシミシッ、と聞こえたのは気のせいだよね、と痛みと共に見過ごした。

「ご主人様、飯持ってきたぞ」

「ありがとう、翠。一緒に食べようか」

 そうしていれば、手に盆を持って馬超が部屋へと入ってくる。
 結局の所、馬超は西涼へと帰らなかった――帰れなかったと言った方が正しい気もするが。
 彼女の母親である馬騰と従妹である馬岱、彼女達の策略によって俺をご主人様と呼ぶこととなった馬超ではあったが、何の因果か、はたまた呪いか、多分ではあるが悪戯によってそのまま安定に残るようにと指示を出されたのであった。
 母親からの指示に初めは反抗した馬超ではあったが、さっさと軍を纏めて西涼へと帰還を始めた馬岱に置いてけぼりを喰らい、はたまた追いかけようにも衣類やら細かいものを隠されて、更には愛馬である馬を連れられていればそれも叶わず、残ることとなったのである――なお、馬は後日庖徳が連れてきました。

 そして、ついでとばかりに賈駆によって俺の副官に任命されてしまったのだから、何とも申し訳ないものである。
 まあ、その縁もあって真名を預けてもらえたのだから、悪いことばかりでは無かったのかな。

「……それにしても、相変わらず仕事多いな。何か手伝えればいいんだけど」

「ああ、別に構わないよ。そもそも、軍方面に関しての指示を伝えてくれるだけでも相当助かっているんだし、翠には感謝してるよ」

「べ、別にご主人様のためって訳じゃなくてだなッ!? え、えと、その……そうだ、ご主人様が仕事溜めたら他んところに迷惑がかかるだろ、それを心配してんだよッ!」

 そうそううんうん、と一人納得している馬超に苦笑しつつ、心配してくれていることに内心感謝する。
 俺が将軍になって今日で三日目。
 初日と二日目などはあまりの仕事量の多さに飯を食べに行くなど考えられないぐらいであったが、そんな現状を見てか馬超が運んでくると言ってくれた時には、本当に感謝したものである。
 姜維が、はわはわ私の仕事が取られたです、などと悲しんでいたのはちょっと罪悪感があったが――でも伯約殿、あなたが何事もなく飯を持ってこれたこと、一度でもありましたっけ。
 姜維が飯を持ってきて何かに躓いてそれをひっくり返し書類やらをグショグショにしてしまうのをリアルに想像出来て、俺は背筋を振るわせながら汁物を啜った。



 結局の所、姜維も、つい先日まで俺を手伝ってくれていた王方でさえ、あまりの忙しさに忙殺されていれば、それも叶わぬことではあったのだ。
 安定に本拠を構えたとはいえ、当初であれば董卓軍を歓迎するというムードは、ほぼ皆無であったと言っていい。
 漢王朝から派遣された太守、それが自分達を見捨てて逃げ、その代わりとして董卓軍が街を救ってくれたとはいえ、新たにきた太守を信じろとは言っても再び見捨てて逃げるのではないか、と疑うのは当然のことであった。
 王方が言っていたように、俺が助けた姜維が董卓軍に参加し俺の補佐をする、という印象緩和策でさえ、さしたる成果を上げることはなかったのだが。
 命をかけて、誇りをかけて、十倍になろうかという黄巾賊に挑み、そして勝利して守ってくれたという実績が、それを覆してくれたのだった。

 となると、当然覚えをよくしようと訪れる商人の数は増えるし、俺も俺も、と軍に参入する志願兵も増える。
 であるからこそ、董卓軍において暇な人物など、殆どいなかったのである。
 西涼からの半ば同盟の人質みたいな形でいる馬超も、その騎馬技術を買われて斥候部隊の訓練や騎馬隊の調練に駆り出されていたりする。
 それでも昼や晩になれば飯を持ってきてくれる辺り、本当に感謝してもしきれない。





 そんなこんなで、数日が経過する。
 相も変わらずに忙しかったが、それでも黄巾賊戦の後始末が終わればそれも徐々に収まりつつあった。
 まあ、その時に囮にした村々の復興は献策した俺の義務でもあるけどさ、何でその村々に関しての一切合切を俺へと回してくるのかが、未だに謎である。

 そして、再び迫るであろう黄巾賊の脅威への対応策や、活発になりつつある群雄諸侯の動きへと注意を払っているある日の午後。
 『張』の印が押された模擬戦の提案書――っていうかつい昨日もやったばかりなんだけど、どんだけやるんだよ――に目を通していた俺は、馬超が持ってきた報にしばし呆然としてしまった。
 それは驚きであるとともに、俺にとっては意外なものであって。
 本音を言えば、その報が各地へ飛び交うのがもう少し後であればよかったのに、と言えるものであった。




 すなわち。
 各地にて蜂起した黄巾賊、尽く壊滅す。
 
 その報は、一つの転換点として時代を舵取り、そして待ち受ける歴史へ突き進めていった。  
 



[18488] 二十六話~ オリジナルな人物設定 (李需&劉協)追加
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/11/16 14:52
・張莫
  姓:張
  名:莫
  字:孟卓
 真名:紅瞬(こうしゅん)

  背中まである紅い髪を、飾りのついた布で一つに纏めた少女。
  スラリとした長身に文官風の服を纏いながらも、腰にぶら下げた剣は飾り物ではない。
  バクの字が難しいので『莫』とさせてもらいました、これが一番それらしいかな、と思ったので。
  正史では陳宮に唆されて後に曹操を裏切りますが、はてさて、一体どうなることやら。


・魏続(ぎぞく)
  姓:魏
  名:続

  ぼさぼさ気味の茶色の髪を適当に流している少女。
  幼く両親を亡くし、弟と二人で畑を耕して生きてきた所、黄巾賊に襲われそうになったのを董卓軍に助けられる。
  十分な栄養の不足とこれまでの肉体労働のためか、発育に乏しい身体に日々思い悩む。
  字と真名を付ける前に両親を亡くしたためそれらは無く、後に呂布によって付けられることとなる。
  というわけで、高順じゃなくてすみません。
  正史では呂布の縁戚である魏続です。
  呂布に重用されたにも関わらず、後に呂布と陳宮を裏切って曹操に寝返った魏続ですが、この作品ではどうなることやら。


・李需
  姓:李
  名:需
  字:文優
 真名:時雨(しぐれ)

  幼い劉協の側近として朝廷に仕える女性で、李粛の姉でもある。
  武に優れた李粛とは異なり、知謀に優れその手腕を振るう。
  濡れ羽色の長い髪を腰まで流し、その女性にしては高い身長と起伏の少ない体型を映えさせているのだが、本人はそれを不満に思っている。
  豊満な肉体の李粛とよく見比べては、落ち込んでいる。
  というわけで、李需です。
  正史やらいろいろな二次創作を見ても、どうにも悪人にしか見えないお人ではありますが、そこはそれ、李粛の姉となってもらいました。
  個人的にはナイスバディな女の子と自分の身体を比較して落ち込む少女とか萌えー、という作者の個人的なツボからぺちゃp(ry
  

・劉協
  姓:劉
  名:協
  字:伯和
 真名:伏寿
 
  霊帝の子にして、後に後漢王朝代十三代皇帝、献帝と呼ばれるようになる少女。
  溢れるほどの金髪を持つが、あまりに長すぎてちょっと邪魔だと思っている。
  血が繋がっていないにも関わらず、姉馬鹿とも言える李需の暴走に振り回され気味なちょっと可哀想な妹属性な少女です。
  というわけで、漢王朝版ラストエンペラー、劉協です。
  劉協と言えばこの時期は幼い筈だったな、ということで幼女になりました……なんで男じゃないのかって? だって可愛くてちっちゃい男の子より、可愛くてちっちゃい幼女の方が、萌えるですよ?
 



[18488] 二十六話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/09/19 11:25




 ガキン、ゴギンと金属同士がぶつかり合う音が、辺りを包み込む。
 それは決して一つではなく、二つ三つ、という数でもなく、それこそ数千といったほどが、その場を支配していた。

 戦場。

 黄色の群集と、青とも黒とも取れる集団。
 数だけで言えば圧倒的なほどに黄色の群集の方が多いのだが、しかして対する集団は徐々にではあるがそれを切り崩していった。
 その先頭に、一人の女性を走らせて。

「黄匪など、この夏候元譲の敵ではないわぁぁッ! 敵将、何処だ、出てこいッ!」

 腰まで届くであろう黒髪を靡かせ、その手に持つ片刃の剣を振るう女性は、その姿だけならば美女として謳われる類の容姿であったのだが、その言葉遣い、その獲物にこびり付いた血、そしてその武威から見てみれば、それも到底遠いものであった。



 だが、そんな評も彼女からしてみれば不要か。
 黄色の群集を切り崩していく黒髪の女性――夏候惇を横目で見やりながら、水色の髪の女性が夏候惇の突撃によって集中の剃れた黄色の群集の横へと部隊を進める。

「全く……姉者も少しは軍としての戦術を学んで欲しいものだ。いつもいつも突撃では、軍の損害も大きくなるし、何より華琳様をお守りするのに苦労するではないか。……まあ、そんな何も考えていない姉者も、可愛いのだが」

 水色の髪の女性――夏候淵はそう呟いて、自らが率いる部隊へと指示を下す。
 放て。
 その一言で全てが通じるように伝達してあったのか、部隊の半数が構えていた弓から、次々と矢が放たれていく。
 まるでそれ自体が一つの群れであるかのように飛来していく矢は、狙い澄まされたかのように、夏候惇の行く末へと吸い込まれていった。
 しかし、夏候惇に当たることはついぞ無い。
 まるでそれが当然とでも言うかのように、夏候惇はその走る速度を上げた。
 それでもなお放たれる矢は、その進路へと放たれていっては、彼女の行く先に立つ黄色の布を付けた賊徒を、一人また一人と崩していく。
 姉である夏候惇を信じて、また、夏候惇も妹である夏候淵を信じて、それを緩めることはせずに、一気呵成に切り込んでいった。
 そして、その穿たれた穴を切り開くかのように、夏候惇は再び剣を振るった。



 視界の先で自身が憧れる女性が剣を振るったのを確認して、それに伴って吹き飛ばされた首や人を確認する。
 七人。
 それだけの人が、たったの一振りで命を奪われたり、戦闘の継続が不可能になったのである。
 首を飛ばされた者、盾で防御したがそのまま吹き飛ばされた者、それに巻き添えをくらった者などなど。
 その内容に違いはあれど、それを成すことの出来る武威は、少女――許緒にとって憧れより強いものであった。

「はぁ……やっぱり春蘭様は凄いなぁ。僕なんか、まだ多くて五人ぐらいしか倒せないのに」

「それだけ倒せれば十分だってのよ。そもそも、あの馬鹿猪を前提に考えているのがおかしいって気付きなさいよ、季衣」

「うーん、僕、頭悪いからそれが普通だと思ってたんだけど……やっぱり桂花は凄いなぁ」

 憧れの女性は夏候惇ではあるが、幼いがゆえに自らが持たないものを持つ桂花と呼ばれた猫の耳のような頭巾を被った少女――荀彧に向けられた無垢な視線に、知らず向けられた本人は息を呑んでしまう。

 そもそも許緒にとって、今の軍に入ったのは全くの偶然であり、それまではただの農民として生きてきた。
 黄巾賊が蔓延るようになってからは、その人並み外れた膂力によってそれらを撃退してきたのだが、それも所詮は素人のものであった。
 だが、今目の前で繰り広げられるものは、彼女が知っているものとは一線を画していた――遙かに違うのだ。
 許緒が住んでいた村の人よりも多い人数でありながら、その動きは実に機敏で、的確で、軍として機能していた。
 それを成す将軍として、また武人としても自分より強い夏候惇に憧れてはいるが、自分より頭のいい荀彧、その両方を兼ね備える夏候淵にも憧れるし、そんな彼女達を束ねる自らの主にも憧れているのである。
 


 不意に、クスクスと笑い声が聞こえると、許緒も荀彧も、その声の方へと身体を向けた。

「ふふ、桂花も季衣の前では形無しね。――いい、季衣? 今のあなたは私の親衛隊だけど、いつかは軍を率いてもらわなければならない時が来るわ。そのためにも、これからも桂花からいろいろと学んでいきなさい。早きに越したことはないのだから」

「はい、分かりました、華琳様! これからもよろしくね、桂花!」

「うッ!? か、華琳様~!?」

 金髪を二つに纏めた髪の少女が、椅子に座りながら頬杖をついていたのだが、何が面白いのやらとクスクスと笑う。
 その笑いを好意的とっている許緒は屈託無く笑うのだが、その笑顔を向けられた荀彧としては、己の主が一体どういうつもりでそのようなことを言ったのかが理解出来ていた――つまりは、自分を虐めて楽しんでいるのだ、その微笑みの裏に閨でしか見せないあの意地悪な微笑みを隠して。
 
 敵意や畏怖、侮辱を向けられることは、荀彧としても慣れてはいるのだが、どうにも純粋な好意を受けるのは尻込みしてしまうのである。
 今に至る前、袁紹の所にいた時は才能ゆえの嫉妬から、ここに来てからは主の寵愛を取り合って夏候惇などから敵意――というか羨ましがられるたりもするのだが、純粋な好意を受けた記憶というのは、両親縁者などの少数しかいない。
 ようするには受け慣れていないのだが、かと言って、いつも夏候惇に対するように口を開くのもどうかと思うし、いざそれを成した時に許緒がどう取るかが想像出来ない。
 笑って流すか、泣くか――もし夏候惇のように怒ってしまえば、あの膂力によって自分がどうなるかは、用意に想像出来てしまった。

 

 ニコニコと笑う許緒、その視線を受けて何故か泣き出しそうな荀彧、その光景を見てクスクスと笑う――その中身はニヤニヤと笑っている金髪の少女の後背、一人の女性が歩み寄った。
 燃えるような朱い髪を緩く纏めたその女性は、汚泥と血泥塗れる戦場にいながらも、その佇まいは凜としていた。
 衣服は文官風ではあったが、その歩みに一切の隙は無く、腰にぶら下げられた剣は質素な装飾でありながらも、どこか使い慣れたようであった。

「華琳、各地で蜂起した黄巾賊の報告、届いたわよ――また桂花を虐めて楽しんでいたの? いい加減、その性癖直した方がいいと思うんだけど」

「ありがとう、紅瞬(こうしゅん)。それと、私の性癖に口を出さないでくれる? もっとも、あなたが閨に付き合ってくれるのなら考えても――」

「――ごめん、桂花。諦めて」

「そ、そんな、紅瞬様ー!?」

 閨で虐められるのは大歓迎だが、人前で虐められるのはあまり嬉しくない荀彧は、それを言っても逆に嬉々として虐め出すであろう主よりも、彼女に唯一対等に意見出来るであろう人物へと期待を寄せた。
 だが、そんな荀彧の希望も虚しく、紅瞬――張莫は、閨に誘われるのはご免だ、と言わんばかりに荀彧へ向けて謝罪した。
 幼い頃からの親友である金髪の少女の性癖はよく知っている――何度か危ない目に遭っているのだが、張莫自身は至って普通の性癖を自負していた。
 親友に負けない男を婿に、と考えている張莫に、本当に残念そうに溜息をついたその親友――曹操は、張莫が持ってきた報告書へと目を通す。

 既に勝敗は決している。
 如何に黄巾賊が大軍であろうとも、それは指揮系統がまとまっていればの状態であり、今現在はそのようではない。
 すでに大方と呼ばれていた将軍は、夏候惇によって討ち取られているし、もしそれが無事であり指揮系統がまとまっていても負ける気などしなかった。
 夏候惇の武、夏候淵の部隊運用、荀彧の戦術と智、許緒の護衛があって、それで負けるのであるならば、自分の主としての才などただそれまでのことなのだ。
 だから、負ける気はしない。
 自分の才は、自分が信じられるものなのだから。

 

 幽州、荊州、揚州で立った黄巾賊の報告を読んでいた視線が、ある一つの項目で止まる。
 涼州。
 その州は別段構いはしない、各地で蜂起した黄巾賊がそこに行かないという理由もないのだから。
 だが、そこで起きた黄巾賊を鎮圧した軍の名前に、聞き慣れない名を見つけたのだから、どうしても気になってしまう。

「ねえ、紅瞬?」

「ん、何か用かしら、華琳? 言っておくけど、閨には行かないわよ」

「ああ、別にそれは今はいいの。それよりもこれ、これは本当のことなの?」

「……ああ、それは私も気になって再度調べさせたんだけど、事実みたいよ。――涼州方面の黄巾賊が、董卓という人物の軍に鎮圧された、っていうのはね」

 董卓。
 その名前に聞き覚えは無いのだが、董家は知っている。
 優秀な官僚を輩出したのだが、彼がなまじ優秀で清廉であったがために疎まれて、涼州の僻地とでも言える石城の太守として飛ばされたということなのだが。
 よほど優秀であるのなら、いつかは召し抱えたいと思っていたのだが、彼の名は董卓だっただろうか、と疑問に思えば、報告によればどうやら少女――娘らしい。
 
 と、そこまで考えたところで、ふと思い出すことがあった。
 確か、安定に黄巾賊が攻め寄せたのを撃退し、末には安定を勢力へと取り込んでしまった太守。
 その者が、董卓という名前では無かったか、と。
 そこまで思い出して合点がいったのだが、それでもどうにも不思議なことがある。
 報告によれば、董卓の軍勢は総数が七千ほどだということである。
 普通、太守にもよるが一つの街に駐屯する兵は一万程度なのだが、二つの街を勢力とする董卓にとってこれは少なすぎる。
 まあ、その理由などはどうでもいいのだが、これでは防備の兵を残しても動かせる兵は五千ほどでしかない。
 如何に馬騰が救援を差し向けたとは言っても、一万対六万でよくもまあこれだけ損害が少なく勝てたものだと感心する。

「優秀な軍師でもいるのかしら?」

 そう思ってみれば、軍師の欄には賈文和の名があった。
 だが、その名よりも一つ下の欄、そこに記されていた名に、曹操は視線を取られた。
 


 天将、北郷一刀。




  **




「……ふぅ」

 一つ溜息をついて、女性は眼鏡を外して磨き始める。
 艶やかな身躯を沿うように流れる黒髪を掻き上げて眼鏡を掛け直した女性は、先ほどまで行っていた報告書の確認へと再び戻ろうとした。

「冥琳、お酒呑まない?」

「……見て分からないかしら? 私は今、仕事をしているのだけれど」

 しかも、あなたの分までね。
 そう言外に視線で投げつけたのだが、それを気にする風でもなく部屋へと入ってきた女性に、冥琳――周喩は、再び溜息をついた。



 呑まないか、と問いかけをしてきたのに、杯が二つあるのはどういうことなのか。
 断られると思っていなかったのか、或いは断られても呑まそうと思っていたのか――恐らくは後者であろうことを思考しながらも、どうにも目の前の女性がしでかすことには流されてしまうことを、周喩は自覚していた。
 だからこそ、無言で注がれた杯を受け取る。

「もーう、そんな気むずかしい顔でお酒を呑んだって、美味しくなんかないんだから。ほらほら、そんなに睨むと眉間に皺が寄ったままになっちゃうわよ?」

「なるわけないでしょう。そもそも、戦が終わった途端にふらふらと何処かへ消えていたあなたに言われたくないわね、雪蓮?」

「あー、それね……ちょっと、ね」

「あなたが消えることなんかいつものことだから気にしていないけど、戦が終わったあなたは危ないんだから、一言言ってから消えて頂戴。いつ民から陳情が来ないかと、ヒヤヒヤしてたのよ」

 うんまあね、と笑う雪蓮――孫策に対して、彼女にしては曖昧な笑みだな、と周喩は杯を空けながらにして思う。
 常であれば笑みを絶やさないという印象がある孫策であるが、今日みたいな笑みは周喩の記憶の中でも、さして見た記憶はない。
 あるとすれば、陽蓮(ようれん)様――孫堅様が病で亡くなった時ぐらい、か。
 


 孫堅、字は文台、真名は陽蓮。
 その名にふさわしく太陽のように輝いたかの御仁は、その武威によって名を広め、その治世によって徳を成した。
 江東の虎、それが彼女を表す二つ名ではあったが、連戦連勝を築き上げてきた虎も病に勝つことは出来なかったのである。
 母の亡骸に縋り、泣き喚く小蓮――孫尚香。
 王たるもの、喚くことをよしとせずに嗚咽を堪えた蓮華――孫権。
 そんな二人の妹を控えて、姉たる孫策はどういった心境だったのだろう。
 当主交代という混乱の中にあって、機を狙った袁術の手によって孫家は衰退、袁術の客将という形となってしまったのだが、その時の笑顔に似ている、と周喩は思った。

 不安、決意、困惑、自虐、そういったものが混在した笑いであった。
 黄巾賊を撃退したことによって孫家が再び名を売ることが、それを思い出させたのか、もしそうであるならば如何様にすればそれを取り除くことが出来るのか。
 そう思考を始めていた周喩であったが、いつものニコーとした笑顔で孫策が覗き込んでくれば、ふと不思議に思った。

「うふふ、心配してくれるのは有り難いけど、今回の分はちょっと違うの。なんて言えばいいのかな、ええっと……覚悟、うん、覚悟を決めてきたの」

「覚悟? なんだ、まだ決めていなかったというのか、孫伯符ともあろう者が?」

「うーん、と……冥琳の言う覚悟とはちょっと違う、かな。楽しみなの、きっと天下は乱れるわ。それこそ、私達が飛躍出来る時が来るぐらいに。その時に、私はきっと楽しいことがあると思うの。それを、迎え入れる覚悟」

「楽しいことと言ったって……結局は雪蓮の勘でしかないのでしょう? あなたの勘は信じられるものだけど、いくらなんでもそんな先のことまでは――」

「――ううん、絶対来るわ。それも、とてつもないものが、ね」

 そう言って、くい、と杯を空けた孫策は、酒に酔ったのか、はたまた心中を吐露したからかは分からないが、いたく上機嫌で周喩の部屋を出て行った。
 出際に、祭は何処かな、と言っていたあたり、厨房で酒を貰っては再び飲み直す気なのであろうが。
 しかも、祭――黄蓋も孫策を止めずに呑もうとするから、余計に質が悪い。
 一度でも止めようとしてくれるのならまだしも、自らも嬉々としているのだから、なんとも頭の痛いことだと、周喩は眉を顰めた。



「全く、雪蓮にも祭殿にも困ったものだ。今度見つけたら、何かしらの罰を与えねばな」

 そう言って、周喩は再び――五度目になるが、報告書へと視線を落とした。
 荊州方面の黄巾賊は、孫家が壊滅させた。
 袁術からの命令ではあったが、救援に向かった先々の村々の有力者に顔を通すことが出来たし、いざという時の約束をも取り付けた。
 幽州方面は、公孫賛と袁紹がお互いを利用する形で壊滅させていた。
 まさか、公孫賛の本隊が黄巾賊を引き留めている間に、別働隊が袁紹を引きつけて――もとい、釣り上げて黄巾賊の後方へと廻ったなどという策とは思わなかったが。
 袁紹が軍を出すことを知り得たこと、公孫賛の軍が黄巾賊を引き留められると考えついたこと、そして袁紹を釣り上げた後に黄巾賊の中を突っ切って公孫賛の軍に合流出来るだけの武威を備えた将がいたこと。
 その全てに驚き、それを成した劉備なる将に、周喩は注目していたのだが。

 涼州の報告書で、どうしても視線が止まってしまう。
 何度見ても、内容が変わることはない。
 だというのに何故だろう、何度でも読んでしまう、何度でも視線を止めてしまうのは。
 董卓という人物と、西涼騎馬隊を率いて有名な馬騰との連合軍は、その数五倍以上の黄巾賊を相手に勝利したというものである。
 董卓、馬騰、共に損害は軽微。
 それはいい、策が予想通りにはまればそういったことは多々あるし、あの近くは渭水がある。
 水を引き入れて水計が出来れば、軍が衝突しての損害などほぼないであろう。
 だが、報告書にはそんな策が書かれてはおらず、その変わりとして単純な文が書かれていた。
 


 北郷一刀の献策により、村々を囮にしての各個撃破、と。




  **




「ふう、雛里ちゃん、こっちは終わったよ」

「あっ、もうちょっと待って……ん、しょ、と……朱里ちゃん、私も終わったよ」

 カラカラ、と乾いた音を立てながら墨の乾いた竹簡を巻いて、既に出来上がっている山へと載せる。
 崩さないように載せたその山以外にも部屋の中に鎮座する竹簡や書類やらの山に、二人の少女は知らず溜息をついていた。

「あぅ……やっぱり文官さんがいないのは、厳しいよね」

「仕方ないよ、朱里ちゃん。今の私達は白蓮さんの好意で城を間取りしているだけで、根拠地なんてものはないんだよ。白蓮さんにお給料を貰っているのに、劉家として文官を雇うわけにもいかないし……」

 そう言いながら、腕一杯に抱え込んだ竹簡を一カ所に集めていく。
 一つ一つであればそこまで重たくはないものだが、数が集まれば存外に重い。
 こういうときに男手があれば、とは朱里――諸葛亮も思うが、彼女が仕える劉家軍で男性は簡擁ぐらいしかおらず、彼も彼で多忙を極めておりこれだけのことで呼び出す訳にもいかないのだ。
 仕方がない、と諸葛亮はまた一抱えの書類を山へと積み重ねた。

「ん、しょと……ふう、これで終わり、かな。また兵の皆さんに頼んで、運んで貰わなきゃ」

「そうだね。……じゃあ朱里ちゃん、ちょっと今の状況でも確認しておく?」

 そう言いながら雛里――庖統は、先の黄巾賊戦の報告が書かれた竹簡を数個取り出した。
 五百ほどでしかない劉家軍の中から騎馬の扱いがそれなりの者や、諜報活動が得意な者を選りすぐって――内実としては元農民の兵からでは出来うる者の数が少ないだけなのだが、それでもそうやって選ばれた者達から送られてきた報告書には、必要な分だけの情報が書かれていた。



 幽州方面の黄巾賊は、主である劉備の友人でもある公孫賛との協力で、庖統と諸葛亮が考案した策によって壊滅させることが出来た。
 まさか、黄巾賊撃退に出撃していた袁紹の軍勢を挑発して黄巾賊の後背を突かせる、という策とは思いもしなかったのか、主たる面々が驚愕していた――劉備だけは、よく分かっていなさそうではあったが。
 だが、主君たる袁紹の力量、実質軍勢を率いる顔良、文醜の力関係など、公孫賛からの情報の提供もあって予測した通りに袁紹軍が動いてくれたおかげで勝利し得たのだから、彼女達にも感謝はしなければならない。
 結果として、黄巾賊に襲われた村々の復興やその後始末などを押しつけられる形となったことは仕方がないのである。


 荊州方面は、その大部分を占める劉表ではなく、その地方の支配を目論む袁術が戦果を欲して軍勢を起こし、壊滅させたとある。
 ただその実情としては、かつて江東の虎と呼ばれた孫堅亡き後に袁術の客将となった孫家軍が、討伐軍の主力であったとのことだが。
 客将とはいっても、一勢力を保持するだけの実力を持つ孫家軍が執った策は、策無しという極めて無謀なものであった。
 涼州を攻めるために割いた二万の兵がなくなったとはいえ、荊州方面に蔓延る黄巾賊は七万にも及んだ。
 これは、孫家軍八千、袁術七千の一万五千で立ち向かうにはあまりにも多い数であり、それに策無しで攻めるなど勝利を取らぬ所業とも思えたのだが。
 報告書を読めば、その謎も氷解した。
 孫家軍が攻めたのは、涼州方面を攻めるために二万の兵が発った、その直後であったのである。
 元々荊州南部を攻める予定の軍を動かしたとはいえ、それをそっくりそのままという訳にはいかない。
 道程の糧食のこともあれば、装備のこともある。
 荊州南部は山岳が多いことから騎馬は使いづらいが、涼州へ攻めるには騎馬は必需である。
 そういった再編成を終え、涼州を攻めるために二万が減ったその直後に攻められた黄巾賊は、大混乱を喫した。
 そもそも、軍を動かすという知識に欠ける賊軍なのである、やれ騎馬が無い、武具が無いという事態になるのは目に見えていた。
 そこを、孫家軍は的確に突いたのである。
 結果として、その半数を討った孫家軍はその名を荊州のみならず各地に轟かせることとなり、好機と見た袁術は孫家を引かせた後に総軍を動かして、体勢を整え直した黄巾賊によって少なからずの痛撃を受けたのである。

 

 諸葛亮は、その報告書に自然と息をついた。
 攻める時機、引く時機、さらには策無しとも言える突撃にもかかわらず、その采配の巧みさに見ほれてしまう。
 中軍と左軍が攻め、右軍と後軍がそれを補佐する。
 それぞれがそれぞれを引き立てるように攻めることによって、予想以上の戦果を出していたのだ。
 今の劉家軍に、それが出来る将は少ない。
 主軸たる張飛はもとより、関羽でさえそういった細かな采配は未だ無理であろう。
 かといって、諸葛亮や庖統が補佐をするにしても、孫家軍のように連携して、というのは難しいものがあった。
 相手に出来て、自分には出来ない。
 そのことが、実に悔しかった。
 周喩。
 諸葛亮は、その名を胸に刻み込んだ。



 そして、視線を動かせばふと涼州のものでそれも止まる。
 董卓と馬騰連合による協同戦、それはいい。
 自分達劉家軍も公孫賛と協同したのであるし、荊州から発った涼州方面の黄巾賊は、渭水の地にて二万から六万にまで膨れあがったのであるから、そういった策を取ることもやむを得なかったであろう。
 
 だが、どうにもこうにも、黄巾賊に対する策こそが不思議で――そして不気味でならない。
 村々を囮として黄巾賊を引きつけつつ分割し、それを各個撃破する。
 文に、言葉にすればいたく簡単なものであるが、いざそれを行おうとすればそれが難しいことは理解出来る。
 もしその通りに黄巾賊が動かなければ、壊滅していたのは連合軍の方だったのだから。
 だが、結局のところ、勝利したのは連合軍である。
 それはさして問題ではない、戦うということは勝利を求めるということであって、それを成したことを特に気に留めることでもない。
 
 だが、その後のことはそれどころではない。
 村々を囮にしたということは、そこで戦闘があった場合は荒れるということである。
 勿論、それの復興のために策を出した董卓軍が財貨を放出することになるのだろうが、それはすなわち、そういった村々は董卓の下に庇護される――言い換えれば、その勢力として組み込まれるということではないのか。
 村を襲うであろう黄巾賊を撃退し、その復興のために尽力する。
 そこに住まう民が、董卓軍を歓迎し、その勢力となるのは想像に難くないのである。
 無論、そういった村ばかりではないだろうが、そういったことがあっても、復興の名目で無理矢理勢力に組み込むことが出来るとあっては、その考えも殆ど意味はないだろう。
 
 戦に勝つための策を導き出し、戦後において勢力を拡大することをも視野に入れたその策。
 自分でも考えつくと諸葛亮は思うが、それはすなわち自分と同じだけの智を持つ者がいるということでもあった。
 もし。
 その者と戦い、智を競わせることがあれば、自分は勝つことが出来るのであろうか。
 自分より優れた戦術眼を持つ庖統ならば、勝つことは出来るのであろうか。
 それが不気味で――言い知れない恐怖でもあった。



 そして、視線は自然とその策を献策した者の名を探す。
 何度も探したからか、すぐさまに諸葛亮はその名を見つけた。



 天の御遣い、北郷一刀。




 **




 曹操。
 周喩。
 諸葛亮。

 正史の三国志において、秀逸とされる知謀を持つとされる三者が、一様にその名を脳裏に刻みこむ。
 
 ある者は、自らの覇道の強敵となることを喜び勇んで。
 ある者は、友の夢を邪魔するであろう障害として。
 ある者は、自らの才に匹敵、凌駕せんとする壁として。

 その思惑はそれぞれ違えど、その思うところは同じであった。



 天将、或いは天の御遣いと呼ばれる男、北郷一刀。 
 彼は一体何者なのか、と。







[18488] 二十七話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/10/02 14:32



  
 ギィン、と。
 振り下ろした剣を弾かれた俺は、その勢いを利用してその場で身体を回転、そのまま反対側から斬りつけるように腰に力を入れる。
 普通に考えれば隙だらけのその行動も、相手の獲物が槍なことからその懐へと迫り、さらには動きを阻害するかのように身体を密着させれば、転じて威力を増した斬撃となる。
 
「ははッ、ご主人様も中々やるじゃないかッ!? だけど、まだまだ甘いッ!」

「錦馬超にそう言われるとは嬉しい限り――って、グフォォォォァァァッ!」

 そう言って、右半身を前にするかのように槍を突き出していた相手――馬超は、その槍を振るおうともせずに、右脚を軸にして身体を回転させていく。
 それに俺が気付いた時には既に遅く、まるで鞭とでも言えるしなりを響かせて、馬超が放った横蹴りは俺の横っ腹へと直撃した。
 ミシッ、とか、メキッ、とか聞こえたのはきっと気のせいではないと思う。
 その染み一つ無い綺麗な脚のどこにそんな力があるのか、そう思えるほどの蹴りを受けた俺は、肺から空気を押し出されて、本日一度目の気絶を味わった。
 ふと、花畑の向こうで父親と母親が手を振っていた――光景が見えた気がする。



「はっはっはッ! 北郷よ、この私の一撃を受け止めることが出来るかッ!? 受け止めたら全力で叩き斬るがなッ!」

「ちょッ! それって、俺に一体どうしろと言うんですか葉由殿ッ!?」

 ゴウッ、と空気を切り裂いて迫り来る戟を受け止めようと腕を動かすが、受け止めたらと言う以前にそんなことをすれば剣が折れると思った俺は、慌てて横っ飛びでそれを回避する。
 訓練用に刃を潰している筈なのに、それを感じさせない音を発しながら地面にめり込んだ戟に冷や汗を流しつつ、体勢を整えて華雄が次の動作に移る前に勝負を仕掛けるために、脚に力を入れた。

「これでッ!」

「――甘いわぁぁッ!」

 普段は片手で持つ剣を両手で構えて、力の限りに横に――華雄の横腹へと薙ぐ。
 常であれば女性に傷を付ける行為など、とも思うのだが、華雄や呂布にそれをすればこちらの命が危うかったりするので、彼女達に対してはそれも別、本気でいかなければならない。
 だが、たとえ俺が本気を出したからといって、その実力の差が埋まるのかと問われれば――断じて否であるのだが。
 そんな俺との実力差を表すかのように、俺の横薙ぎの攻撃は――そこまでを予測していたのか、はたまた臨機応変に対応したのかは分からぬが――地面にめり込んだ戟を無理矢理に縦にすることによって、受け止められることとなった。

「げッ!?」

「中々に良い判断だったが、受け止められた後のことも考えておかねば、その時点でお前は死ぬぞ? ふんッ!」

「ぐふぅぅぅっ?!」

 ガァン、と鈍い音を響かせて止まった俺の剣に視線をやりながら、実に楽しそうに笑う華雄であったが、相対する俺としては呆然とするしかなかった。
 地面にめり込んだ戟を無理矢理に立たせて防ぐとか、無茶苦茶過ぎるだろ。
まさかあの体勢から防がれるとは思わなかった俺は、心の底から楽しそうに笑う華雄が目の前にいるにも関わらず、呆然としすぎて次への動作が遅れてしまっていた。
冷静になってみれば、剣を防がれたからといって攻撃の手を緩めることにはならないのである――まあ、剣を受け止められたという隙を華雄が見逃してくれればの話であるが。
だが、それとしても俺がいた世界での歴史でも、この世界に来て見た限りでも、華雄を含めこの世界の武人達が俺の常識に入りきらないのだと思い出すべきであった。
 思い出せなかったからこそ、俺は華雄が横腹へと繰り出した蹴りを避けることが出来ずに、地面を転がっていった――馬超とは反対の方である、内臓大丈夫かな俺。
 膝を打ち、頭を打ち、胸を打ち。
 ようやく止まった時には打ち付けていない箇所はない、と言えるほどにズタボロになった俺は、擦れゆく意識の中で笑う華雄を見たのを最後に二度目の気絶を味わった。



「翠も華雄もちょっと本気だった。……恋もちょっとだけ本気出す」

「ええッ?! いや奉先殿に手合わせしてもらえるだけでも嬉しいのに本気まで出して貰ったら何と言いますかとりあえずまずは俺が死にますよねッ!?」

「いく」

「話を聞いて――うわおぉぉぉぅぅぅッ!?」

 馬超の神速の戟も、華雄の破壊力満点の戟も凄まじいものがあったけど。
 さすが三国無双と謳われる呂奉先であって、その戟は凄まじく――先ほども痛感したことだが、俺の常識の中では有り得ないものであった。
 自分が反応出来たのが信じられないぐらいの速度で振るわれたそれは、呂布にとってはまるでそれが自然であるかのように、右から左へと振るわれただけ。
 だと言うのに、その動作が全く見えなかったのは俺の技量が低かっただけなのか、それとも知らずのうちに目を瞑っていただけなのか――いや十中八九前者だけれども、或いは両方という可能性もなきにしもあらず。
 ふと何かの匂いを感じて鼻を動かせば、何となく焦げ臭い感じがした。

「……避けられた。一刀、凄い」

「お褒めに与り光栄ですけどももう少し手加減を――ひゃわぁぁぁぁッ!?」

「……また避けた。もうちょっと、本気出してみる。……一刀?」

「な、何でしょうか、奉先殿? ええっと、何故そんなに楽しそうで――」

「死んじゃダメ」

「えっ、ちょっ、ぎゃあああああぁぁぁぁぁっ!?」

 避けられるとは思っていなかったのか、いつもの感情の変化に乏しい表情を若干驚きに変えた呂布は、俺の言葉を待たずに再び戟を繰り出してくる。
 幸いというか何というか再び避けることには成功したのだが、そんな俺の行動が何かしらに火を付けたのか、再び戟を構えた呂布から感じる気は先ほどまでとは違っていた。
 何て言えばいいのか――獲物を前にした獣、そう表現するのが一番正しい気がする。

 結局の所、少しだけながらも本気になった呂布の一撃を防ぐことなど俺の武力で出来るはずもなく、当初の予想通りに、気づいたときには強烈な衝撃と共に俺は空を飛んでいた。
 実に、本日三度目の気絶である。
 数刻のうちに三度も気絶するなんて身体の健康上何の問題も無いのだろうか、なんて考えながら、真っ暗な意識のまま俺は地面へと着地――もとい、激突した。




  **




 黄巾賊との戦闘の後処理がほぼ終わり、残る所とすれば民を受け入れるとの噂を聞きつけた人々の受け入れのための施策を考えなければならないという頃。
 事務仕事に忙殺された二週間によって、俺はそれらを完結させることが出来た。
 まあ、戦後処理を済ませることが出来ただけであって、他の仕事は未だ健在であったりするのだが。
 それでも、一応に肩の荷が下りたことにほっと息をつくぐらいには落ち着いた状況を、俺は満喫していた。

 だがまあ神様――と言うよりは現状、或いは周囲か、まあそういったものはどうにも俺を休ませたくはないらしい。
 俺の仕事が一段落したのを見計らってか、はたまた見張ってたのかは知らぬが、問答無用とばかりに馬超に連れて行かれれば、そこは中庭であり、華雄と呂布、張遼が待ち構えていたのである。

 結果は、まあ言わずもがななのであまり触れないで欲しい。
 天下無双クラスの豪傑とはいえ、女の子相手に三戦全敗はさすがに俺でも落ち込んでしまうのですよ。



「……うぅん。…………あれ、霞?」

「おっ、やっと起きたんか、一刀。うちとやる前に気絶されたらかなわんで」 

 呂布との一戦からどれだけの時間が経ったのか。
 神速の横薙ぎに文字通り吹き飛ばされたのまでは覚えているのだが、そこからの記憶が無い辺り、どうやら気絶していたらしい。
 痛む節々やら横腹やらを確認して、おや、と頭を抱える。
 思いっきり後頭部を打ち付けたと思っていたのだが、それほど痛くはないのだ。
 それどころか、妙にふわふわとして――むしろ柔らかい。

 さらに気になるのは、何故に張遼の顔が俺の上にあるのか。
 いやいや、俺が寝ているのを覗き込んでいるのかもしれない――のだが、横目に見えるは剥き出しの臍、軽く視界を覆うのはサラシに巻かれた張遼の胸という光景に、どうにもこうにもある一つの事柄――というよりは、一つの体勢しか思いつかない。

「ええっと、霞……?これは一体――」

「ん? なんや、一刀はそんなことも知らんのんか? 男の夢、膝枕やないか」

 いやむしろ太腿枕か、何ていつもの笑顔で言う張遼に、ああやっぱりか、と自分の現状がどうなっているのかなんてすぐさまにでも理解出来た。
 あまりの恥ずかしさにそこから抜けだそうとしても、先の馬超やら華雄やら呂布やらとの一戦においてこっぴどくやられた身体は言うことを聞かず、ずきずきと来る痛みに叫ぼうとしても、張遼を驚かすわけにもいかずにそれを耐える。
 そんな俺の心中を知ってか知らずか、何故か嬉しそうな笑みで張遼はさらさらと俺の髪を梳いていった。
 ……何か周囲が桃色に見えて、恥ずかしくて死にそうです。

 せめてばかりもの抵抗として顔を横に背けようにも、にこにこと張遼に額を抑えられてしまえばそれも出来ず。
 張遼の臍やら胸に視線が行くのを誤魔化すために、俺は瞳を閉じた。

「……なんや、一刀はうちの胸を見るのが嫌なんか? 整っとる、とまでは言わんけど、崩れてる訳でもないんやけどなぁ」

「……いや、そんなこと聞かれても返答に困る」

「それもそか。まあ、その真っ赤な顔が既に答えになっとるけどな」

「うぐっ……分かってるなら聞くなよ」

「いやいや、その反応が可愛くてなぁ」

 可愛い、などと言われたことも無い――と思うのだけれども、そんな俺にとってその言葉は十分に照れるものであった。
 なおかつ、どんな意図があるにせよ、張遼のような美人、美女に分類される女性に可愛いなどと言われてしまっては、無性に恥ずかしい。
 何故だか実に楽しそうに髪やら頬、鼻や終いには唇を触ってくる張遼の拘束を解くことが出来ず、俺は仕方なしにそれを諦めて力を抜く――そこ、もっと堪能したいだけとかいうなよ、悪いか、開き直るぞ。
 そんな俺の心中に気づいてか、からからと笑う張遼の声に決して不快感を感じるわけでもなく、俺は張遼のなすがままになっていた。

 勿論、馬超がそれを見咎めて、ご主人様のスケベ変態、とか何とか騒いだのは当然のことである。
 その騒ぎを聞きつけて、呂布とか華雄が私もしてやろう、とか、賈駆にすっごく冷たい視線で射抜かれたりとか、董卓が何故か涙目になったりとかも、当然のこと――じゃないと思うんだけどなあ、どうなんだろ。



 だけどまあ、仕事が落ち着いたからといってものんびりしている訳にもいかない。
 戦後処理は一通りの落ち着きを見せたが、今度はこれからの対策やら対応をしていかなければならないのだ。
 一戦も出来ないことに文句を言う張遼に今度酒を奢るということを約束して宥めた俺は、痛む身体を引きずりながらどうにか自室へと戻った――戻ることが出来た。
 俺凄え、と自分の身体に感謝である。
 用意していた手ぬぐいで汗を拭いて服を着替えると、新たに将軍となって董卓と賈駆に用意された執務室へと赴いた。
 ただ、である。
 用意してくれたことには感謝するし、それに応えるために頑張ろうとは思うのだが――もう少し質素なものは無かったのだろうか。
 何も董卓や賈駆と同じ規模じゃなくてもよかったのに、とは秘密である。

「北郷様、おはようございます! あ、あの、今日からまたよろしくお願いしますッ!」

「張り切りすぎて、また書類にお茶を零さないようにしてくださいよ、赤瑠。北郷殿、私もまたお世話になります」

「おはようございます、伯約殿、白儀殿。遠慮無く頼りにさせてもらいます」

 部屋へ入ると、そこで仕事の準備をしていた二人――姜維と王方からの挨拶に応える。
 戦後処理の時は人手が足りないこともあって他方の補助へと廻っていた二人であったが、それも落ち着いたとあって再び俺の補助へと戻ってきてくれることとなったのである。
 感謝感激、というものだ。

「……そう言えば、馬超殿は何処へ? 軍事での副官だとお聞きしていたのですが」

「ああ、翠は葉由殿と霞から騎馬隊の調練に付き合って欲しいって言われて、そっちに行ったよ。結局のところ、こっちにいても意味はあまり無いし」

「護衛、という任もあるでしょうに。そもそも、錦馬超と名高い馬超殿が副官とは……」

「ああそれは……うん、無駄遣いだよね」

「はわはわ……そ、そんなはっきりと」

 王方が積み重ねていく竹簡の一つを抜き取って開く。
 軍部から来た徴兵の要望であったが、この件に関しては俺の独断で決定するわけにはいかない。
 自領を守る戦の準備のために兵を集めるとはいえ、そこで集められ戦うのは俺達と同じ人であり、剣や矢を受ければ死んでしまうのだ。
 そういった人達が増えるのを、董卓は酷く悲しむのである。
 よって、これに関しては董卓へ上奏する分に纏めておく。

「まあ、俺としても自分の身を守れるだけの武があるとも思えないし、軍事関係――特に騎馬隊のことに関しては本当に助かっているんだし。その辺は大目に見てくれると助かるなあ」

「北郷殿の言うことは分かっているつもりですよ。我々としても、あなたに――天の御遣い殿に死なれると非常に困りますからね。各諸侯、民、漢王朝、どれをとってもその名は効果的に用いることが出来るでしょうし」 

 そう言ってニヤリと笑う王方に苦笑で答えつつ、目につく竹簡やら書類を片付けていく。
 俺は戦後処理でどたばたと忙しくあまり関わることは無かった――いやまあ、俺に関することなんだけども、黄巾賊との戦いが終わり各地での黄巾賊もほぼが鎮圧されたとの報を受け、賈駆は真っ先に天の御遣いの名を前面へと押し出したのである。
 勿論、董卓の下に天の御遣いがいて、という前提は崩さなかったものの、天から遣わされた御遣いの知謀によって匪賊を打ち倒し、そんな彼を従えて復興の指揮を執った董卓という構図は、おおよその民に受け入れられることとなったのである。
 天の御遣いという名は、彼を従える董卓という名は、暗く混迷とした時代を生きる人々にとって、光輝く希望となりつつあった。

 だがまあ、そんな恐れ多い希望を向けられても、何の実感も湧かない本人からすれば特に気にするものでもないのだが。
 勿論出来うる限りのことはしたいと思っているし、期待に応えたいとも思ってはいるのだが、何分つい先日まではただの高校生だったのだ、いきなり英雄になれと言われても実感も湧かなければその道のりを描くことも出来やしないのである。
 だから、実感を持って自分を天の御遣いと呼べるようになるまでは、利用価値のあるその名を利用するだけしてもらおうなんて考えていたのである。
 それに賈駆なら悪いようにはしない――だろうと思うんだけど、どうだろうなあ。



 そんなこんなで、久方ぶりに王方や姜維との会話を楽しみながらも、手と目は休めることなく出来るだけ要領良く仕事を片付けるように努力する。
 俺で裁量出来るものは俺で、各方面の専門の方が詳しいことはそちらに、徴兵の件みたいに董卓の意見が必要なものは上奏するものへと纏めて。
 戦後処理が済んだからこそ特に問題もなく仕事が進んでいくし、何より仕事の量が少ない。
 壁を覆い隠し、机を潰すのではないかと思え、部屋を浸食していた竹簡と書類はなりを潜め、その数は机の上に積み重ねるぐらいであるのだ。
 俺は、心中で安堵の涙を流していた。



 安定の城壁の修復、食料事情の改善、来たる難民の受け入れ措置、周辺地域の賊討伐、などなど。
 黄巾賊の脅威が一応の終結を見せたとはいえ、やらなければならないことはまだまだ山積みであり、時間などいくらあっても足りないほどであった。
 事務を片付けて、姜維がお茶をひっくり返して、軍の調練に顔を出して、華雄にぶっ飛ばされて、姜維がお茶をひっくり返して、呂布にぶっ飛ばされて、張遼にぶっ飛ばされて、姜維がお茶をひっくり返す。
 本人に言えば、そんなに零していません、などと可愛らしく文句を言いそうだが、如何せん一日一回ひっくり返されれば、擁護のしようが無かったりするのですよ姜維さん。




 そうして、俺が何とかこうにか牛輔と打ち合えるぐらいには成長したころ。
 名目のみとはいえ中華の支配者である幽帝がおわす洛陽から発せられた文書は、俺が知る歴史へと――彼女達にとっては悲劇へと、現状を進ませるには十分なものであった。
 



 **




 洛陽の中でも一際豪勢な装飾が施された――帝が住まう城の廊下を、一人の女性が歩いていた。
 歩く度にカツカツと杖をつく音が鳴り、杖をつかなければならないほどに丸められた背中からみるに、女性というよりも老婆と表した方が正しいようであった。

「……やれやれ、わたしも年かねぇ。あれしきのことを止められないだなんて」

 質素な服を纏いながらもかもされる上品な佇まいは、擦れながらもはっきりとした口調も相まって、確かな人物を感じさせるものである。
 その足取りは見た目に反して力強く、彼女が年をくろうとも決して衰えたわけではないことを表していたのだが、その一言と共に急に弱々しくなる。
 一つついた溜息には、どれだけの感情が込められていたのか。
 年はくいたくないねえ、と頭を振った彼女だったが、ふと何かに気付いたように顔を上げた。

「うふん、王司徒ともあろうお方が、物憂げに息を吐く。私が男なら、保護欲を刺激されてきっと放っておかないわん」

「ふふ、若い頃ならそういった男もいただろうけどね、今はただのしわくちゃ婆さ。……あんたの忠告があったにも関わらず、あんたが危惧する方へと事態は動いてしまった。……本当に、申し訳ないねえ」

「うふ、それはいいのよ、別に。元々避けようがないことなんだし、私としても、助けて貰った恩を返したかっただけなのよ。気にする必要はないわ」

「ふふ、あんたも存外優しいねえ。漢女なんかじゃなく、ただの男だったならわたしも放ってはおかなかったよ」

 幾分か軽くなった感情をもって振り向いた王司徒と呼ばれた老婆――王允は、先ほどまで誰もいなかった空間に人がいることを確認した。
 筋骨隆々、長く朝廷に関わってきた王允でさえ見たこともない鋼の肉体とも呼べるそれは、この場にいない天の御遣いならばピンクのビキニ、と称するであろうものだけを履いていた。
 それだけを見るのであれば、筋肉自慢の男が自己主張のためにそういったものを履いている、と解釈することも出来るのだが、それが実に女らしく身体を動かすのであれば、そういう訳でもなかった。

 二房の三つ編みには桃色の布が可愛らしく巻かれており、その口元は女っぽく彩られている。
 ともすれば、それらと動きを見れば女なのでは、とも思えるのだが、その鋼の肉体と履いている腰布の一部が少しばかり膨れていれば、彼が男だということはすぐさまに分かるものである。
 だが、その動きは女。
 真に奇っ怪な存在であった。

「王司徒にそこまで言われるなんて、漢女冥利に尽きるものだわ。ご主人様に会った時に、漢女に磨きのかかった私のこと気付いてもらえるかしら?」

「まあ、あんたぐらいなら忘れたくても忘れられはしないだろうねえ。自信を持ちなさいな、貂蝉」

「ありがとう、王司徒。私、頑張るわ」

 乙女のように瞳を輝かせるそれ――貂蝉から視線を逸らすと、王允は再び歩き出した。
 それに合わせて、貂蝉もくねくねとその後を付いていく。
 端から見れば、老婆を襲おうとする刺客――もとい、化け物のようであるが、誰もそれを見咎めることなく、廊下を歩いていく。
 そもそも、誰もいないのだから見咎められる筈もないのだが。
 
 謁見の間に集められた文官、武官。
 その前に進み出たそれらの纏め役――大将軍である何進が放った命令に右往左往していのであろう。
 王允からすれば耳を疑い、命令を発した何進の神経を疑うものであったが、漢王朝に仕える臣としては自身の上役である何進に逆らう訳にもいかないのである。
 だからこそ、王允は自身の執務室の扉を開け、長年使っている椅子に座り机を前にした。

 
 如何にそれが愚策と思えども、主君たる皇帝が認めたことならば従わぬわけにもいかぬ。
 ならば自分が出来ることは、その愚策によって漢王朝が被る被害を出来るだけ少なくすること。

 
 そう思いながら、王允は筆をとった。
 



  **





『黄巾の匪賊ここに殲滅し、その祝いを洛陽にて行うものとする。ついては、その後に黄巾の残党をも殲滅させるために、各々軍を率いて洛陽に来られたし』
 
 そう書かれた文書が、大将軍何進の名で各諸侯へと送られたのは、その数日後のことであった。

 




[18488] 二十八話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/11/09 11:48


「あら、御遣い様じゃないかね。珍しいね、今日は一人なのかい?」

「こんにちは、おば――お姉さん。ちょっと時間が空いたから警邏ついでに昼飯を、ね。とりあえず、肉まんを三つほどちょうだい」

「あいよ。……しかしなんだね、御遣い様はちっとも御遣い様らしくないよねえ。そこら辺にいる、普通の兄さんみたいだよ。はいよ、肉まん三つね」

「ははは、俺もその方が気楽でいいんだけどね。んじゃこれお金ね、ありがとうございました」

「ああ、また来ておくれよ」

 仕事の目処が一段落した俺は、目に入った飯屋で包んでもらった肉まんを頬張りながら、街の様子を確認するためにぶらぶらと歩く。
 つい先頃――とは言っても既に半月ほど前のことになるのだが、黄巾賊の驚異が目の前に迫っていた、などということは微塵も感じ取ることは出来ないぐらいに活気づいていた。
 あの戦いで多くの黄巾賊を討ち取ることは出来たのだが、それと同じように董卓軍の兵士にも多くの犠牲が出たことは、その後処理に奔走していた俺としては身にしみるほど理解しているつもりであった。
 
 俺の策で多くの人が死んだ、などと自惚れることは無い――と言うか、賈駆と陳宮から自惚れるなと言われたことは今も記憶に新しい。
 献策したのは俺とはいえ、それが使えると判断し細部を決定したのは自分達だ、とまるで宣言でもするかのように、彼女達は俺へと言ったのだ。
 さらには、それに合わせるかのように華雄や張遼からは、精一杯戦って死んでいった者達に感謝こそすれ後悔など不要、あいつらも守れて死んだのだから悔いは無いだろう、とも言われてしまったのである。

「おまけに琴音や翠にも言われたしなあ。……俺って、そんなに顔に出やすいのか?」

 徐晃や馬超、さらには王方や姜維に牛輔や李粛にも言われているのだからその通りだと認めてしまえばいいのだろうが、それを認めてしまうと何となく悔しい気もする。
 それでも、心配してくれているということは分かるので、それは受け入れなければいけないよな、と肉まんを一つ口にするとふと見知った顔を見つけた。



「……一刀、お昼?」

「ええまあ。奉先殿はもう?」

「うん、食べた」

 けぷ、と可愛らしくげっぷする呂布の頭を撫でて、その傍でこちらを睨む陳宮へと視線を移す。
 食後の幸せな時間を邪魔するな、と言外に視線で語られれば気圧されそうになるのだが、その視線が一つではないことに気づいた俺は、頭を掲げた。
 呂布と陳宮は二人でワンセットと思っていただけに、それを疑問とした俺はその視線の出所を探してみた。
 周囲は昼飯へと駆り出す人達やそれを受け入れる店の人達の声で騒がしい。
 だが、それらの人達は特にこちらを気にする風でもなく、あったとしても飛将軍と呼ばれる呂布や天の御遣いと呼ばれる俺を気にするぐらいであるのだ。
 そうした人達が俺を睨む、というか敵視するような視線を放つとは思えないのだが――ええと、俺何かやらかしたかな。
 きょろきょろ、と周囲を見渡して唐突に悩み出した俺をさして気にする風でもなく、呂布は思い出したかのように自身の背中へと視線を移した。

「……一刀、新しい友達」

「ううむ、心当たりは無いと――って、え? 新しい友達?」

「うん……ぎー、って言う」

「れ、恋殿、それは名前ではありませぬぞ」

 うんうん、と悩んでいた俺は呂布の声に反応して彼女の背中へと視線を移す。
 決して整えられているとは言えない茶色の髪を背中まで流し、その身は動きやすそうな武官の格好をしていながらも些か細い印象を受ける。
 微かに膨らむ胸部が、その人物が女性――見た目も合わせれば少女なのだということを、表していた。
 そんな俺の視線にあからさまに嫌悪感を滲ませながら、その少女は小さく名乗りを上げた。

「……魏続、と申します」

 そう呟いて再び呂布の背中へと隠れる少女――魏続に苦笑しつつ、視線を魏続を嬉しそうに撫でる呂布から陳宮へと移す。
 視線で誰、と問いかければ、陳宮は溜息をもって答えてくれた。

「……この間の黄巾賊との戦いの中、囮とした村の娘なのです。黄巾賊が襲う間近、忘れ物を取りに戻り、黄巾賊に見つかって襲われそうになっていたのを助けたのですよ」

 それから恋殿にべったりなのです、と若干うっとうしそうに言う陳宮に思わず苦笑してしまう。
 本当は魏続から呂布を取り返してべったりしたいのに、彼女の心理を考えてそれを遠慮してしまうほどに陳宮が優しいことは、よく理解しているつもりだった。
 それと同時に、黄巾賊に襲われそうになったということは男――つまり俺に対して嫌悪感を抱くことも当然のことだと気づく。
 男に襲われることなど無い俺にとっては――そんな機会など欲しくもないのだが――襲われそうになった女性の心理を理解することなど出来るはずもない。

 結局の所、魏続の視線に含まれている敵意をどうすることも出来ずに、俺は彼女達からある程度の距離をとった状態で話しかけた。

「魏続殿は――あー、何をするわけでもないのでそんなに身構えないでください」

「……ぎー、一刀は大丈夫」

「……恋さんがそう言うなら」

 話しかけた途端、魏続は身体をビクリと震えさせたかと思うと、敵意を通り越した殺気混じりの視線と唸り声を俺へと向けてきた。
 戦場で向けられるものや、張遼や華雄から半ば本気で向けられるそれらよりは比較的軽いものではあるのだが、かと言って向けられているという事実が変わるわけでもなく、率直に言えば非常に心苦しいものであった。
 これが恋、などと言えるほどボケられる空気でもないのでそれは自重して、それでも敵意の混じった視線を向けてくる魏続に苦笑しつつ口を開いた。

「魏続殿は……えと、その、俺を恨んでますか?」

「…………え?」

「いや、俺が魏続殿の村を囮とする策を献策したから、魏続殿がつらい目に遭いそうになった訳でして……俺を恨んでも仕方のないことだなあ、と」

「……もし、恨んでいるとしたらどうだと言うのですか? その首、頂くことになっても構わないと言われるの――」


「ええ、構いません」


「――ですか……って、ええッ!?」

 まさか俺がそう言うとは思わなかったのか、意表つかれたかのように驚きを顔に貼り付けた魏続に、どんな形であれ俺は初めて彼女の感情を見た気がした。
 まあ、敵意だけはずっと向けられていたので初めて、という訳でも無かったりするのだがその辺は置いておこう。

 そもそも俺のこれまでの経緯を考えれば、自分でも驚くほどにそういった出来事を嫌うというのは自身理解しているのだ。
 ただ自分を受け入れてくれた人達が穢され犯される、という理由ではなくとも一人の人間として、また男としては当然受け入れられるものではなかった。
 だからこそ、魏続をそういう目に遭わせそうにしてしまったという負い目はあるし、元々そういった関係の上で人を殺したことのある俺であるから、その代償として自分の首をかけるぐらいは当然のことだと思っていた。

「ただ、この身は卑しくも将軍となりました。今は多忙、故に天下が泰平となって、私がいなくても天下に問題が無くなった後になりますが。その後ならば、この首なり腹なり、お好きな所へ刃を突き立てて――」

「――駄目。一刀は死なせない」

 未だ驚愕に瞳を開いている魏続の表情に苦笑しながら、俺は言葉を発していく。
 死にたい、とは特別思うものではないが、かといって用済みになってしまえばどんな目に遭うかは現状では分からないのだ。
 天の御遣い、天将、それらの名が民にもてはやされるのも、今の世が戦乱であり、そこに不安があるからなのだ。
 不安の中に救いを求めた結果が天の御遣いであり、それさえ拭われてしまえば俺という存在が不要になるのは目に見えていた。

 それこそ、漢王朝と対立してしまうことだってあり得る。
 だからこそ、不要とされて死んでしまうよりも、俺に恨みを抱く人の捌け口となって死ぬのも有りかも、とも思ったのだが。
 そんな俺の心中を知ってか知らずか、幾分か鋭い視線で呂布は俺の言葉を遮った。

「で、ですが奉先殿? わだかまりを持ったままに天下が泰平となっても、そこには必ず綻びが生じるもので……」

「恋でいい」

「え、ええっと、そういう訳にもいかないんじゃないかと……それに今は呼び方の話では……」

「恋」

「あ、あのですね……」

「恋」

「ううっ……」

「……」

「……分かった分かった、分かりましたよッ――じゃなくて、分かったよッ! これでいいんだろ、恋」

 おかしいな、さっきまで首が欲しいかそらやるぞ的にシリアスな場面だと思っていたのに、いつのまにこんなことになってしまったのだろうか、とついつい首を掲げる。
 じい、と無表情に見えながらもその実、無垢と言い表せるほどに澄んだ呂布の瞳をむけられ――睨まれているとも言えるが、ついには折れた俺に呂布は嬉しそうに笑った。
 そんな嬉しそうに笑う呂布の頭をついつい撫でている俺に、魏続は訝しげに口を開いた。

「……本気、ですか? 本気で首をやるなどと――」

「ありえないことなのですが、この男の言うことは常に本気だったりするのです。ぎー――ではなく魏続殿も、早めに慣れた方がいいのですぞ」

 本当に馬鹿な男なのです、とやれやれと言わんばかりに首を振る陳宮だったが、ふと思い立ったように俺へと視線を向けてきた。
 もしかして呂布の真名を呼ぶことになったことへの報復か、と身構えそうになる俺であったが、陳宮の視線の中にそういった感情が含まれていないことに疑問を抱いて首を捻った。

「恋殿が真名を許した以上、ねねもお前のことを少しは認めてやることにするのです。今度からはねねのことも真名で呼ぶがよいのですぞ」

 そもそもお前に字で呼ばれるのは気色悪いのです、と忘れずに呟くあたり嫌々なら別にいいのにとも思うのだが、陳宮の纏う雰囲気はそんな負の感情を含んではおらず、むしろ新たな決意なり目標を抱いた者が纏うものであった。
 どんな心境の変化があったのかは分からないが、俺としては蹴られないのなら何でもいい。



 俺に真名を預けたことが新たな決意を抱くことに繋がるのか、と意味を全く理解出来ない陳宮の行動に頭を悩ましていると、ドタバタと走る音が近づいてくる。
 何事か、とそちらへと視線を向ければ、そこには見覚えのある兵士がいた。

「北郷様、呂布様に陳宮様も、こちらにおいででしたかッ!?」

「そんなに慌てて、何かあったのか?」

「は、はいッ! 賈駆様から、将軍の方々をすぐに呼び戻せとの命令を受けまして。北郷様達も、城へとお戻り下さい!」

 他の将軍を捜さねばならぬので、そう言って再び走り出した兵士の背中を見送った俺は、呂布と陳宮へと視線を移す。
 その意味を受け取ってくれたのか、コクリと頷いた彼女達と共に城への帰路を急ぐために俺達は走り出した。





  **





 城に戻って四半刻。
 城外で部隊の調練をしていた華雄と徐晃が帰ってきて、その一室には董卓軍の主要たる面々が集うこととなった。
 さすがに魏続をそんな中に連れてはいる訳にもいかず、客間にて呂布の愛犬であるセキトと留守番してもらっていたりする。
 


 そして、集った面々をぐるりと見渡して、賈駆は口を開いた。

「黄巾の匪賊ここに壊滅し、その祝いを洛陽にて行うものとする。ついては、その後に黄巾の残党をも殲滅させるために、各々軍を率いて洛陽に来られたし」

 静かに、そして確かに発せられた賈駆の言葉は、その部屋に集う者達を途端に騒がせた。
 賈駆が言葉にしたにせよ、その内容はどう考えたって彼女のものではない。
 となると誰のものかということになるのだが、その最後にあった覚えのある地名にふと思い立つことがあった。

「……なるほど、洛陽――漢王朝からの命か」

「はい、牛輔さんの言うとおり、何大将軍からの文書にそう書かれていました。恐らくではありますが、各地にある諸侯へも送られているものと思われます」

 そんな董卓の言葉を受け、賈駆は一同が集う中心にある机に地図を広げる。
 地図とはいっても、大まかな中華大陸の図の中に、これまた大まかに各諸侯の勢力図やら主要な都市の名前やらを書いただけのものであるが、今はこれで十分である。
 何もやることが無くなれば地図を作るために各地を巡ってもいいなあ、なんて思いもするものだが、現状を考えればそれも無理かもと諦めざるをえなかった。
 暇になるとか絶対にあり得ないし。 

「恐らく、四世三公を輩出した冀州の袁紹はもとより、東郡太守の橋瑁、済北国の相である鮑信、騎都尉の丁原や名ばかりの西園八校尉の典軍校尉である曹操など、様々な諸侯が集められることになるわね」

「……勢力だけで見るならば、大陸のほぼ全ての勢力、といっても過言ではないな」

「にゃはは、総数だけで見るなら一番の勢力だよね。ただ――」

「――そう、それに各諸侯が応えればの話、だけどね。漢王朝、大将軍の名を用いているとはいえ、対立する宦官を相手するのに本気を出しましょうってことだけで、わざわざその話に乗る必要はないの。いくら命令とは言っても、断り文句なんかいくらでもあるんだし」

 それこそ黄巾賊被害の復興のために手が離せない、なんてのも有りかもね。
 地図を見ながらうむむ、と唸る牛輔と李粛にそう言って、賈駆は地図を覗き込む面々へと視線を回す。
 
「とは言っても、これは好機であることに変わりはないわ。黄巾賊の残党を討つにはいい機会だし、洛陽で名が広がれば石城と安定の政もしやすくなるし流民が噂を聞きつけて多くの民を助けることが出来る。ボク達が飛躍するためにも、今回の洛陽への出征は必要なことだと思う」

「なるほど……霊帝に名を売ることが出来れば、いずれ何進に替わることも出来るやもしれませんね。出来ないにしても、これから勢力を拡大するしないにしろ有利に事を進めることが出来る可能性も出てくる。確かに、好機ではありますね」

「はわはわ……な、何だか事が大きくなっていってますけど、現状保持のためにも何かしらを一手打つのは必要かと思います。それが洛陽に赴くことなのか、それとも別のことなのかは未だ分かりませんけど……」

 ふむ、と顎に手を当てて考えだした王方の後に続いた姜維の言葉に、俺はざっと地図を見渡してみる。
 黄巾賊の残党は青州を主として、未だ華北で激しい抵抗を続けているという。
 これが俺の知る歴史の通りに進んでいくのならば、劉備やら曹操がこれらの残党をも片付けながら勢力を拡大していくのだ。
 とりわけ、残党の中でも一際強大である青州黄巾賊は曹操と激戦を繰り広げ、その尽くを勢力下においたことは曹操――曹魏において飛躍する原動力であるとも言えた。

 董卓軍が勢力を拡大していく上で、それは出来うる限りなら阻止したいことではあるし、それを考えると洛陽からの文書に応じる必要も出てくるだろう。
 または徐州をもって飛躍する劉備、揚州に地盤を築いて勢力を拡大する孫家、あるいは益州の劉焉や荊州の劉表など、後に一大勢力を築き上げていくそれらの勢力の先手を取るのも悪くはない手である。 



 だが。
 だが、である。

 もし、俺の知る歴史においても同じような話がされ、そして同じような考えに至り行動していたとしたら。
 もし、全く同じ道筋を辿る訳ではないにしろ、その行く先が同じ結末――反董卓連合の結成へと至るのだとしたら。
 もし、その先に待ち受けるのが、董卓軍の瓦解――董卓の死、だとしたら。

 
「……そんなの、受け入れられる訳ないじゃないか」
 
 
 だからこそ――
 故に――




「私としても、未だ黄巾賊の脅威に怯える人達を救いたいんです。都での権力争いなんかも絡んでいると思いますが、それでも、私は民を救いたい。皆さん、どうかお力を貸してはもらえないでしょうかッ!?」

 意を決したように頭を下げる董卓。


「ボクは月に従うよ。大丈夫、月は民を助けることだけを考えて。都での権力争いの方はボクが何とかしてみせるから」

 どう手玉に取ってやろう、と笑う賈駆。


「ふふ、諸侯達が率いる軍がどれほどのものか、我が武にとって不足無しか、実に楽しみだ」

 いずれ出会う豪傑を楽しみにする華雄。


「洛陽には強い奴も上手い酒もごろごろあるんやろうなぁ。華雄の奴やないけど、うちもめっちゃ楽しみやで」

 強者を望み、嗜好の酒を求める張遼。


「……美味しいご飯、ある?」

 未だ見ぬ大都市とその食事などを楽しみにする呂布。


「きっとあるのですぞ、恋殿。食べ歩きの際は、このねねも誘って下さいのです!」

 主との都を楽しみとする陳宮。


 その他にも、様々な形で洛陽へと出征することを楽しみだと話すみんなの前で。




「俺は反対だ」




 ――俺はきっぱりと断言した。







[18488] 二十九話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/10/16 13:05



「武官の方々は各諸侯の軍を駐屯出来る土地の確保を、文官の皆様は諸侯達への召喚に応じたことへの謝礼と駐屯中の兵糧の確保をお願いいたします」

 てきぱきと的確な指示を出していく己の臣下――司馬懿の背中を見つめながら、何進はふと思考に耽った。
 司馬懿が洛陽に、何進の元に来たのはたまたまの偶然であった。
 たまには、と思い軍の調練へと顔を出したその帰り、城の門付近で見かけた男が目についた。
 その男は何とか入れないだろうかと思案しており、話を聞けば朝廷に仕えたかったが宦官には馬鹿にされて相手にされなかったと言うのだ。
 常の何進であればそれだけで切り上げただろうが、その頃は宦官の勢力が増していたこともあって、その通りにはならなかった。
 宦官が話も聞かなかった男を自分が取り上げるのも悪くない。
 それで宦官が動揺すればそれでよし、男が使えなくてもただ捨てればよいのだと、その時は思っていた。

 だが、男は予想に反して優秀であった。
 文を読み解き万人にも分かりやすいように整え。
 剣を握らせば軍兵の誰よりも優れた使い手であった。
 そんなものだから男の存在は瞬く間に大きなものとなっていき、何進にとっても漢王朝にとっても、いつしか無くてはならないものとなっていた。
 宦官共の――張譲のあの苦虫を噛み潰したかのような顔はいつになっても忘れられん、と何進は笑いを堪えた。

「何大将軍は、宦官にこちらの思惑を気取られぬよう、細心の注意を……何を笑われておいでで?」

「いやすまぬ、なんでもない。して、注意だったな、宦官共が気づくとは思えんが仲達がそう言うのなら気をつけておこう。――して、仲達?」

「はっ、何用で?」

「いや何、袁紹や丁原などを呼び寄せるのは分かるのだが、宦官の孫である曹操や、地方の役人の娘である董卓などという小娘を呼び寄せる必要があるのか、と思ってな。西園八校尉の曹操はともかく、董卓など役に立つのか?」

 たかだか黄巾賊の一軍を撃退した程度、何進にとって董卓というのはその程度の認識であった。
 自軍の倍以上の賊軍を相手に勝利を収めてはいたようだが、それも練度も低く明確な指揮官のいない黄巾賊相手のことであって、さして評価を上げるようなものでもない。
 また、荊州方面の一軍が勢力を拡大しながら涼州へと侵攻したのを撃退したとはいえ、それも涼州連合の一派として名を馳せる馬騰の軍が助勢したからであり、その功は殆どがそちらのものであろうとも考えていた。
 だからこそ、何進は何故に司馬懿が董卓を呼び寄せようとするのかが理解できなかったのだが。

「何大将軍の言うことはもっともでございます。ですが、石城安定を勢力下とする董卓を御するということは、ここ洛陽において西方の守りを固めるということと同義でございます。董卓に西方を任せ、宦官に味方しようとする者共への抑えとする。彼の者の父親は洛陽にても名の知れた者であったとのこと、その娘である董卓ならばきっと任を全うすることも出来るでしょう」

 信頼する司馬懿にそう言われてしまえば、うむむ、と何進は頭を抱えた。
 今回呼び寄せる多くの諸侯は――というよりも、董卓以外の諸侯は洛陽より東方に割拠している者達である。
 これは、黄河と長江の下流域が肥沃なためでもあるのだが、そういった理由もあって肥沃とはほど遠い地を勢力とする董卓に期待するというのは難しいものであった。
 だが。

「……それに、彼の地には近頃民の間でも噂される天の御遣いとやらがいるとか。嘘か真か、一人で万もの黄巾賊を相手にしたとあっては、目を付けぬ訳にもいきますまい。それに、董卓を御するということは彼の者をも御するということ。民の指示を受け、宦官を討つ名分を得られることでしょう」

 信頼する臣が笑みをたたえながらそう言えば、何進としては頷く他ないのである。
 自身の女の部分が冷静な思考を邪魔する筈もない、そう言えば嘘になることは何進とて十分に理解している。 
 端正な顔立ちに鋭利な眼差し、そんな中見せる笑みに乙女のように顔が熱くなるのを止めることが出来ない何進は、ふい、と視線の中に司馬懿を入れぬようにと顔ごと動かした。

「……お主の言を信じよう。よきにはからえ」

「仰せのままに」

 紅くなっているであろう顔を隠すように、その事実が目の前の男のせいでなっているという気恥ずかしさを隠すように、何進は顔を背ける――司馬懿が考えることならば、決して間違いはないのだという信頼をも隠すように。


 だからこそ。


 顔に張り付いたままの笑みの裏側に隠された司馬懿の思惑に、何進はついぞ気づくことは無かった。





  **





「一体全体、どういうことなのか説明してもらおうかしら? あんたが反対って言う、その理由を」

 俺の一言で空気が固まった部屋を解すように、賈駆が言葉を発する。
 その表情には、こいつは何を言っているの、という感情が張り付いており、下手な受け答えでは感情を逆撫でするということは容易に想像出来た。
 見渡せば、他の面々も同じように――こちらは俺が反対した理由を探っているものではあったが、各々に感情を貼り付けて、俺の言葉を待ち構えていた。

「……まあ、理由としてはですが、石城安定の復興に勢いが出始めたとはいえ、その完了までは未だ遠い道のりであります。そんな中、洛陽にまで軍を発し黄巾賊残党を掃討する、そんなことをすれば政を圧迫し民にも被害が及ぶ恐れがあります」

 そもそも、黄巾賊に破壊された安定の城壁の修復は未だに終了していないのだ。
 捕らえた元黄巾賊を従事させているとはいえ、街一つの城壁を直すのにどれだけの数がいようとも瞬時に直る訳でもないのだ。
 結果として、未だ六割ほどの修復しか済んでいない安定の街が、洛陽に軍を発している間に黄巾賊残党に襲われてしまえば持ち堪えられるかは微妙な所である。

 さらには、渭水周辺地域への対応、対策もある。
 黄巾賊に促されたとは言え、あの地から多くの民達が黄巾賊に参加し安定に攻めたこともあって、警戒はしておかなければいけない事案であった。
 今は牛輔の指揮の下、統率された偵察隊がその動きを監視している所であるが、それもいつ爆発するかは分からない。
 それこそ、黄巾賊残党と共謀して安定を攻める可能性も否定出来ないのである。



 それ以外にも新兵の調練、馬家との連携の強化、収穫物の見込み収入などなど、多くの懸念すべき事案があってどうして軍を発することが出来ようか、などと思ってしまうのであった。
 もちろん、俺が考えつくことなのだから賈駆も当然予想はしているだろうし、先手や対策を打っているであろうことは想像に難くない。
 だからといって、それだけならば反対などすることも無かったのだが。

「……なるほど、あんたの言いたいことは理解出来たわ。ようするに、時期尚早、そう言いたいわけね?」

「話が早くて助かるよ。確かに洛陽まで軍を率いれば、漢王朝はもとより何進、果てには各諸侯の覚えもよくなるだろう。だけど、それは目先にぶら下がっている勲に過ぎないんだ。それよりは、先に待つ大功を得るために今は力を蓄えるべきだと、俺は思う」

「だけど、それで時代のうねりに取り残されてしまえば? いずれ都で権力と財力と兵力を携えた勢力によって、私達は飲み込まれてしまうのは目に見えているわ。ならばこそ、そうなる前に出来るだけうねりに取り残されないように動いて、先手を打つ必要があるの。こうしている間にも、何進の呼びかけに応じた諸侯は出立しているでしょう。時を、一刻を争うのよ」

「だけど、そのために民を苦しめたら元も子もないだろう。民あっての国ならば、今は兵を鍛え国を富ませることが――」

「――もういいわ。あんたの言いたいことは分かるけど、だからといってボクも引くつもりはない。決して妥協点の見つかりそうにない議論をしたところで、時間の無駄だもの」

 だから。
 そう言って賈駆は、主たる董卓へと視線を移した。
 それに合わせて、俺と賈駆の成り行きを見守っていた面々のみならず、俺の視線までもが董卓へと注がれた。

「月が決めてちょうだい。洛陽に軍を出すか、出さずに力を蓄えるか。どちらになったにしろ、ボクは全力を尽くすよ。……あんたも、それでいい?」

「……分かった、俺もそれでいいよ。悪い、月。面倒を押しつける形になっちゃったけど」

「へ、へぅ……い、いえ、一刀さんの言うことも理解出来ますし、詠ちゃんの言うことも分かるんです……」

 だけど道筋は決めなければならない。
 そう小さく呟いた董卓は、ふと思案するように瞳を閉じた。
 俺としては、ここで諦めてくれた方が都合が良い――というよりは、諦めてくれればおおよそのことに決着が付くのだ。
 俺の知る歴史において、細かい理由は多々あれど董卓が帝を、洛陽を手中に収めた最大の要因はその行動の速さであったと思う。
 機を見るに敏となる――それこそ、今の賈駆であれば俺が危惧する通りに事が進むであろうことを想像するのは容易であった。

 だが、先の話を思い出しても、董卓自身は洛陽へ軍を出すことには前向きなのだ。
 黄巾賊残党によって苦しめられる可能性のある民を助けたい、そう思う志は立派であると思うし、守っていきたいと思う。
 ならば、最早力を蓄えるようと説得するのは諦めて、俺は次の打開策を考えることに決めた。

 一番に考えつくことは、出来うる限り遅めに行くということだ。
 それならば俺の知る歴史とは差違を生じさせることが出来るし、その差違からいざ戦いが始まったとしてもこちらの損害は少なくすることが出来るだろう。
 そのためには、この軍議を出来るだけ延ばすこと――最良なのは諦めて洛陽には行かないことなのだが、もし洛陽へ軍を出すにしても無理のない範囲で時間を延ばしたい所である。
 賈駆が本気で準備の指揮をすれば瞬く間に洛陽へ発する準備は整うだろうが、それでも細かい所を延ばせば結構な時間となる。
 

 要するには、だ。
 俺は甘く見ていたのかもしれない――歴史が、そんなに簡単に変わるはずもないのに。
 



 結局の所、董卓は俺の案を聞き入れることは無く、洛陽へ出征するための準備の任をその場にいた面々に下した。
 無論その中には俺も含まれる訳で、俺の案をとらなかったことを董卓は酷く恐縮していた。
 賈駆からの刺すような視線にさらされながら董卓を宥めた俺は、早速とばかりに出征の準備と平行して打開策を模索、検討していったのである。


 


  **





 そして、五日後。
 
 涼州から洛陽に至るまでのいくつかの道筋の一つ、その入口にて俺は馬へと跨っていた。
 この世界に来たばかりで馬に乗ったこともなく、またそういった知識も無かった俺を、唯一乗せてくれた馬――真っ白な毛並みを持つ白毛であることから、俺は白(はく)と呼んでいるのだが、初めて乗れた時には感無量であったのは、記憶に新しい。
 そこ、名付けが安直とか言わない。

 そして、訓練の時は気にしたことは無かったのだが、俺が天の御遣いと言われる理由でもある聖フランチェスカの制服を纏って跨れば、上も白、下も白という非常に目に痛い色になっていたりもした。
 これは、董卓やら姜維やらが綺麗と言ってくれたりもしたので嬉しかったりもするのだが、俺としてはどうだろうなと頭を掲げるばかりであった。



 そんな俺の隣に、一人の騎馬が近づいてきた。

「はっはっは、中々にお久しぶりですな、北郷殿。中々苦労されていると聞きましたが、いやはや、いい顔をするようになられた」

「お久しぶりです、稚然殿。稚然殿や玄菟殿の苦労が、ようやく分かった気がしますよ――っていうか、凄いと尊敬さえ出来ます」

「おおう、中々に言ってくれるわ」

 無骨ながらも所々にある傷が歴戦を匂わせる鎧を纏った李確を隣にして、俺達はその形態を整えていく軍勢を、少しだけ小高い丘の上から眺めていた。
 洛陽に出征する、という董卓の決には従った俺であったが、それでも石城と安定の守りの主張を翻すことはなく、結果として董卓軍総数の半分で洛陽へと赴くこととなったのである。
 その数、実に五千。
 黄巾賊戦において総数七千ほどであったのが、黄巾賊からの降兵や新規に参加した兵などを含め、多少の出たり入ったり――出た兵の多くの理由は華雄達武臣の訓練が厳しいというものであったが、そんなことをがあって董卓軍はようやく一万とも言える兵力を整えたのである。



 そして、その内の四千を有する石城から二千の軍を任されたのが、李確であった。
 とは言っても、任されたというよりは奪い合いで勝った、というのは本人の談である。
 
「いやなに、玄菟の奴も儂に行かせろと五月蠅くての。仕方なく剣で決着を付けてやったのよ、なっはっはっは」

「なっはっはっはっ、ではありませんよ、稚然様。董家の御重鎮ともあろうお二人が、子供のような理由で剣など振らないで下さい。下の者に示しがつかないではありませんか」

「おお、琴音。玄菟がよろしゅう言っとったぞ。あと土産――洛陽の名物酒もよろしく、とな」

「知りません、そんなことは。信じられますか、一刀殿。父上と稚然様、洛陽の酒を先に呑むのはこの儂だ、という理由で洛陽への出征を希望したんですよ」

「それは、まあ……何と言うか……」

 そして、俺を挟んで李確の反対側へと徐晃が馬を進めた。
 その表情はどうしていいやら、と何やら諦め顔で、李確を注意する声にもいつもの覇気は無い。
 まあ、徐晃にとって李確は幼い頃を知るもう一人の父とも言えるのであろうから、本当の父である徐栄と例え殺さずとはいえ剣を振るわれては、心配なのもしょうがないものではあった。
 まあ、彼女の場合はあまり顔に出したりはしないのだけれども。



「準備が出来たみたいだぜ、ご主人様。琴音と李確殿も、早くしないと詠がきれちゃうぜ」

 徐晃に責められる李確を苦笑しながら見ていれば、不意に背後から声がかけられる。
 声に反応して振り向いてみればそこには馬超がいて、出立の準備が終了したとの報をもたらした。

「ああ、分かったよ、翠。稚然殿も琴音も、早く行きましょう」

「分かりました、翠殿、一刀殿。ほら、稚然様も早く行きますよ」

「分かっておるわい、そう急かすな」

 年寄り扱いするでない、と愚痴る李確を徐晃が引っ張っていくのを後方から眺めながら、俺は馬超と馬を並べた。

「翠は洛陽に行ったことはあるのか?」

「洛陽? ああ、あるよ。母様が漢から呼ばれた関係で、一度だけどな」

「寿成殿か……まあ、独立勢力に近い西涼連合の最大勢力だもんな、そう不思議なことではないか。どんな場所だった?」

「どんな場所? んー、簡単に言えば人が多かったな。民も官も、どちらにしてもだけど」

 器用に手綱から手を離して腕を組む馬超、腕を組んだことによって主張が激しくなったその胸から視線を外し、俺は首を前へと向けた。
 幸いなことに、馬超は気づいていないらしく、横目で窺えば何とも可愛らしく頭を抱えていた――再び胸へといきそうになる視線は、無理矢理に引っぺがした。

「あと飯は美味かったな。安定のも美味かったけど、何かこう……使ってるものから違うというか……」

「当然よ、洛陽は周辺の地域や諸侯から上納として作物などを得ているの。その中には当然、各地域の名産やらが含まれているのだから、翠が感じるようになっても無理はないもの」

 整列した軍勢の前。
 先ほどまで指示を飛ばしていた将達の中から、俺と馬超の言葉を聞きつけた賈駆が歩み寄ってくる。
 その顔色を見るに、先日の口論の影響が残っているようではあったが、俺が特に気にしていない風なのを知ると、あからさまに俺の顔を見ながら溜息をついた。
 
「……まあ、その違いは洛陽に行ってから確かめて頂戴。今は出立の時、あんた達も早く持ち場に着きなさい」

「はいはい、分かってるよ。疲れたらちゃんと近くの兵に言うんだぞ、月も詠も、体力無いんだから。無理はするなよ?」

「はいはい、あんたの言いたいことは分かってるからさっさと持ち場に行きなさいよ。……全く、本当にお気楽なんだから。…………ボクがあんなに心配したのだって、無駄だったじゃないのよ」

「ん? 何か言ったか、詠?」

「何も言ってなんかないわよッ、さっさと行きなさいッ!」

「ひえっ! ご、ご主人様、早く行こうぜ!」

「ああ――って、翠ちょっと待てよ、俺を置いていくなッ!?」

 まるでゴロゴロという音が聞こえるかのように落とされた賈駆の雷に、俺と馬超は慌てて馬を走らせた。
 ふん、と賈駆が鼻を鳴らしたのを背中で聞きながら、俺と馬超は与えられた持ち場へと急いだのだった。





  **





 そして、石城安定を出立してから数日。
 途中に数度の休息を入れながらも出来るだけ急いだためか、当初の予定より大幅に早くあと少しで洛陽を遠くに望めようかという距離にまで近づき、俺達は最後の休息をとった。
 洛陽に入る前に出来るだけ疲れや汚れを取って体裁を整えた方がいいだろう、ということで簡素な陣地を構築した俺達は、ほんの一時の安らぎを楽しんでいた。


 
 だがそれも、賊や黄巾賊の残党を警戒するために発していた斥候の一人が、ある報を持ち帰るまでのことである。


「洛陽方面にて詳細不明の砂煙を確認ッ! 徐々にこちらへと近づいてきている模様ですッ!」






[18488] 三十話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/11/09 11:52



 一閃。
 白銀の煌めきが僅かばかりながらその場を支配すると、少女の周りにいた数人の男達が叫び声を上げながら吹き飛んでいく。

 一閃。
 剣を振り上げて襲いかかろうとする男の喉元へと槍を突き出した少女は、すぐさまにそれを引き抜き同じように、続いてそれを横へと振るう。
 
 一閃。
 繰り出される剣を槍の腹で器用に受け止めた少女は、くるりと槍を回し剣を絡め取ると、槍を振るい男の首を刎ねた。



 幾重にも重なる骸を前にして、またその骸から流れ出た血溜まりを前にして、纏う白き衣を朱に濡らすこともなく、少女は眼前に迫り来る男達を一瞥した。
 数十人の男を相手にしながらその息づかいは乱れた所無く、その視線には一切の疲労の色も無かった。
 白き衣と蒼穹の髪を風に流せるままにするその姿は、およそ戦場という地においてはあまりにも不似合いなものであった。

「ふむ、大将軍子飼いの兵というからどれほどのものかと思えば……ただの夜盗崩れではないか。そのようなもので私が討ち取れるなどと、片腹痛い」

 ふふ、と。
 まるで女が男を誘うかのように艶やかに笑った少女は、静かに槍を構えた。
 いや、実際に誘っているのかもしれない。
 その違う所は、それが閨か槍の範囲か、というだけのものであるが。

 そうして誘われた一人の男が、横に振るわれた槍の穂先に捉まってその首を宙へと放り出した。
 自らが死んだことすら知覚出来ずに倒れ伏した男を前にして、その少女は声高らかに名乗りを上げた。

「我が名は趙子龍、常山の昇り龍なりッ! 我が愛槍、龍牙の露になりたい者はかかってくるがいいッ!」





「おおー、星ちゃんのりのりですねー。あのまま追い払ってくれないでしょうか」

「いくら星殿でも、さすがに三百程の相手は難しいと思うぞ、風。もっとも、ここまで派手にやらかしたんだ、そろそろ助けが来てもおかしくはない筈だが……」

 名乗りを上げる少女――趙雲から少し離れた場所で、二人の少女は趙雲を視界に収めていた。

 水色を基調とした服を身に纏い、ふわふわとした金色の髪の上に人形らしきものを載せた少女は、眠たげな口調で期待を口にした。

 だがそれも、紺色を基調とした服を纏う少女に覆されてしまう。
 きらり、と光を反射する眼鏡の奥に見える瞳は冷静な色を称えており、趙雲一人対三百人という絶望的な状況でも何ら心配などしてはいなさそうではあるが。
 
 前か後ろか、そうぼそりと呟いた眼鏡の少女の背後から声が発せられた。

「あ、あの、あの方は大丈夫なのですか? いくらあの方が武芸に秀でていても、あれだけの数を相手にすればいくらなんでも……」

「……助けてもらったことには感謝していますが、彼女が引きつけている内に逃げることは叶わぬのですか? 見たところ、彼女は武芸に秀でているのでしょうが、あなた方はどうにもその域ではない様子。逃げるなら今では?」

 先の眠たげな少女に劣らぬふわふわとした髪に隠れながら、気弱な声がぼそぼそと紡がれる。
 音量だけで聞くのなら小さいとも言える声であるが、いざ実際に聞くことになれば驚くほどにすんなりと耳に入るものであった。
 それに眼鏡の少女が驚いていれば、そんな声を遮るかのように冷徹な声が発せられた。

 同じような眼鏡をかけていながら、その奥から覗く双眸は酷く冷たい。
 明らかに警戒されている、と眼鏡の少女が気付くほどにであるのだが、背後に守るようにしている先の少女を見る時だけは、その中にも温かさが灯るみたいであった。

 文官風の身なりながら、用いられている布や装飾が絢爛なことから鑑みるに、どうやら朝廷の関係者であるらしいのは、初め見たときから知れたことであった。
 そのような者が一人の少女――それも自分達より遙かに身なりのいい彼女を守るということは、その少女がどれだけの地位にいるのかがよく分かる。
 実際にはどのような身分なのかは知らぬが、それも戦場ではあまり関係のないことだと、眼鏡の少女は視線を戻した。
 ただまあ、いくら朝廷の関係者が守るとは言っても皇族でもあるまいし、と考えながら。



「稟ちゃん、ぼちぼち下がりますですよー。どうにも、星ちゃんが押され気味みたいですし」

 そう言われて眼鏡の少女が視線を移せば、先ほどまで趙雲に切り崩されていた固まりが、徐々にではあるが彼女を――自分達を覆い尽くすかのように蠢いているのが確認出来た。
 指揮官らしき人物は確認出来ないため、彼らが適当に命令された一団だと言うのは分かるものだが、どうやら多くの仲間を討たれていよいよに頭を使い始めたらしい。
 いくら趙雲の武が優れているとは言っても、それにも限度がある。
 さらには、自らのみならば趙雲でも身を守ることは叶うかもしれないが、この場にいる四人を守ることは難しいことは自明の理であった。

 故に、敵がこちらを囲もうとするのなら囲まれないように退く。
 こちらが後方へ退いていけば敵はまず趙雲を囲んで討とうと動くのだが、少し動けばこちらへと手が届きそうな距離を保つことでそれを防ぐ。
 いざこちらへと動こうとした者がいたとしても、それを優先して討つ趙雲の前に、敵もそれが成せない状況であった。
 まあ、一度に全部がこちらへと来れば防ぎようなどないに等しいのだが。

「ふむ……そろそろ本気で逃げた方がよさそうですね」

 それでも、そのような状況が続くはずもなく。
 敵の中でも機動力に優れた騎兵が、こちらの前方を塞ごうと動き始める。
 護身用にと馬に乗せてあった弓を放つが、元々武芸に秀でるわけでもない自分ではそれもどれだけの効果があるのか、と思う。
 だが、やらないよりはまし、とばかりに眼鏡の少女は弓を引き絞っていた。





「ちぃッ!?」

 徐々に、徐々に。
 じりじりと押されてきていることが分かっているのにどうしようもない現実に、趙雲は知らず舌打ちした。
 五十を斬った後からは面倒くさくなって数えていないが、それでもまだ脅威となる数が残っているのは見て取れる。
 さすがに疲れが出始めているのか、と趙雲は槍をしっかりと持ち直して眼前の敵を見やった。

 女だから、と甘く見て一人ずつで襲いかかってくることが無くなった敵は、途中から三人或いは四人の組で斬りかかってくるようになった。
 それだけの数で負けるとも趙雲は思っていなかったが、それが積み重なってくれば直接の負けには繋がらなくても、どうしても疲労は積んでしまう。
 その時こそが勝負の時だろうな、と趙雲はその時に向けて出来うる限り体力を回復させたいと思っていた。

 だが。
 それを敵が見逃す筈もない。

「くぅッ! あっ、待てぃッ!?」

 一瞬ばかり思考を別のことに用いた隙を突いて、三人の男達が一気に趙雲へと襲いかかってきたのだ。
 疲労がなければ、それだけの数は恐るるに足りないものであるが、今この時としてはそれもままならない。
 一人は斬りつけ、一人はその首へと槍を突き立てたものの、最後の一人に穂先を撫でらすまでには至らなかった。
 振り落とされた剣をかろうじて受け止めた趙雲は、視界の端を走り去っていく騎馬へと声を荒げるが、彼らがそれを聞き入れることもない。
 すぐさまに追いかけたいものではあるが、体重を加算して力の限りに押しつぶさんとする男の剣を今は押しとどめるので精一杯であった。

 そんな趙雲を見て、次々と男の背後から騎馬が飛び出していく。
 先に逃げる少女達を狙っているのは明確であったが、そんな趙雲の思惑とは裏腹に、数人の男達が趙雲を囲むように動き始めた。
 剣を押しとどめるので精一杯ではあったが、男達から聞こえる下卑た笑い声に、彼らがどのような顔をしているのか容易に想像できる。
 それを表すかのように、身体の各所――胸や太腿、その奥までを舐めるかのような視線を感じ、趙雲はぞくりと背筋を振るわせた。

 逃げるか。
 瞬時に脳裏に浮かんだ選択肢を、趙雲は頭を振って否定する。
 今ここで逃げることは十分に可能である。
 目の前の男を蹴飛ばし、槍を一気に振るってこちらの武に怖じ気づいている所を突破する。
 それだけならば、いくら疲労に塗れたとはいっても十分に実現可能な手段であった。
 だが、騎馬が駆けていった方向にはこれまで共に旅してきた同士がいる。
 今ここで自らが逃げ出せば、彼女達が自分の変わりに男達の標的なることは当然のことであり、周りにいる男達から見ても汚辱にまみれることもまた当然のことであった。
 
 だからこそ逃げる訳にはいかない、と趙雲は四肢に力を込めた――

「げへへへ、綺麗な肌してやがるぜぇ」

「ひゃぅっ!?」

 ――その瞬間、趙雲の剥き出しの二の腕が、不意にさわりと撫でられた。

 不意の感覚に不覚を取った趙雲は、慌てて抜けていく四肢の緊張に力を込めるが、力の抜けた瞬間を狙われて、地面に押し倒されるかのように剣を突きつけられる。
 最早こうなってしまえば、単純に体重と力の強い男の方が優勢であって、蹴飛ばしたからといってどうなる風でもない。
 さらには、視線を動かせば先ほど腕を触った男のみならず、反対側や頭の上からも男達が近づいてくるのが確認出来た。

 不覚。
 そう口の中で呟くが、そう言ったから状況が好転するわけでもない。
 迫り来る男という脅威と汚辱される瞬間を前にして、趙雲はいよいよここまでか、と諦めかけていた。
 願わくば、共に旅してきた二人と助けようとした二人が無事に逃げ切れることを。
 そうして、趙雲は全ての絶望を受け入れようと力を抜こうとした――



 ――その視界に、一本の矢が飛来する。





  **





 一本の矢が一つの命を今まさに奪わんとしている頃。
 皇帝がおわす洛陽の城、その一室において、三つの命の灯火が今まさに消えようとしていた――否、一つは既に消えていた。
 
 先ほどまで痛み、苦しんでいたソレが最早物言わぬ骸となって転がっているのを、司馬懿は冷徹な瞳で見据えていた。
 痛みから逃れようと伸ばされた腕は二度と持ち上がることもなく、何かを掴むように開かれた指はぴくりとも動く気配はない。
 口から吐かれた血が床と口周りを赤黒く変色させており、ソレが纏っている輝かんばかりの衣服をも所々汚していた。

「輝かんばかりの服……これがあの男の骸であったならば、どれだけ助かることか。まあ、そんなに簡単に事が済むのなら、左慈も于吉も手こずったりはせん、か……」

「ごほッ! かっ、かはっ」

「ぐふっ。き、貴様……ッ!?」

 実に残念だ、とばかりに溜息をつく司馬懿だったが、ふと思い出したかのように視線を動かした。
 ソレから少し離れた所、二人並ぶように地に伏せるソレを司馬懿は見やる。

 ごほごほ、と咳き込めば息と同時に血を吐き出し、その豪華絢爛な衣服をも朱に染めていく白銀の髪を持つ女性。
 その豊かな肢体は男の情欲の行く先になるには十分なものである――が、それも胸の谷間に突き入れられている剣がどうにも邪魔なものであった。
 少しだけ心の臓をそれた剣の切っ先は、しかして肺や気管支を傷つけたのか、彼女が呼吸をする度に空気の抜けていく音がするようであった。

 もう一人も、先の者ほどではないにしろ絢爛風靡な衣服を纏い地に伏せていた。
 ただ、その腹部には剣が深々と突き入れられており、彼女が痛みに蠢く度にカチャカチャと不愉快な音を立てて鳴っていた。
 背中まで突き抜けていた剣をどうにかしようにも、力を入れるごとに痙攣するかのようにビクリと動くものだから、余計に耳障りである。
 それでも、その瞳から覗く気概は、さすが朝廷の権力の殆どを手にした宦官ならではか、と司馬懿はソレ――張譲へと視線を向けた。

「何かご用ですか、張譲殿? もっとも、その傷では話すことはおろか、息をすることさえも苦しいでしょうが」

「ぐっ……がふっ……き、さま、何をしたの、ガ……ぐふっ」

「ええもちろん、分かっていますよ。あなたに幻術を見せ、殺すように仕向けただけですよ――あそこに転がっている、霊帝をね」
 
 そう言って、司馬懿はソレ――霊帝の骸に視線を向けることなく答えた。
 


 何進が各諸侯へ軍勢を率いて洛陽に来い、との命令を出したことによって、多くの宦官はそれを恐れることとなった。
 何進と対外的にも対立しているのは張譲であるが、自分達宦官が幽帝亡き後の次期皇帝として擁立しているのは何進が擁立している劉弁では無く、劉協なのである。
 この機会を好機として対立する自分達へと矛を向けることは至極当然のことであり、宦官達からとってみれば絶体絶命の危機でもあった。

 各宦官が保有する私兵をもって何進と一戦交えればそれでもよいが、宦官の全兵力を集めたとて五万がいいほどであった。
 何進が保持する兵力は二万と、宦官の勢力には遠く及ばないものであるが、それも各諸侯が加わればその限りではない。
 謀略で手に入れた大将軍とはいえ、その名は絶大であり、その命とすれば従わぬ訳にはいかないのだ。
 故に、たった三万ほどの戦力差では不十分なものがあるし、いざ一戦となった所で、百戦錬磨の各諸侯の軍と、ならず者やら黄巾賊崩れやらを金で雇っただけの宦官の私兵では明らかに練度の差があるのだ。
 


 軍事での決着が付かないのであれば、もはや宦官としては主格たる張譲に期待するしか他はない。
 張譲もそれを理解しているからこそ、彼女は信頼出来る手の者によって人払いの済んだ城の一室に司馬懿を呼び出し、何進の首を取れと囁いたのであった。
  
「もっとも、あなたが私――いや、俺を疑っているからこそ、容易に幻術にかけることが出来たのだがな。力を十分に発揮出来るのならそのような面倒くさいこともないのだが……まあ、上手くいったからとやかくは言うまい」

 だが。
 張譲の予想を大きく裏切って、司馬懿は張譲へと剣を向けた。
 時は今、と張譲が囁いた後、司馬懿は突然に剣を抜いて張譲へと襲いかかった――張譲にはこう見えていたのだ。
 それゆえ、張譲はとっさに懐に潜ませていた短剣にて司馬懿――と見せられていた霊帝の胸を突いたのだった。
 そして、その騒ぎを聞きつけて――というよりも、元々その張譲の動きを待ち構えていたであろう司馬懿によって連れてこられた何進によって、自らも剣によって突かれることになったのだが。
 しかも、その何進は背後から司馬懿によって剣を突き刺されるといった始末であった。
 ここまで来れば――ここまで流暢に物事が進んだのならば。
 そう考えると、張譲もようやくそこへ思い至った。

「がふっ……ま、まざが、初めからそのためだけ、に……ッ!?」

「ご名答。貴様らが俺を追い返すことも、何進が俺を拾うことも、今この場で貴様らが死ぬことも、すべては俺の手の上だ。もっとも、貴様らがこうなることはただの通過点――いや、始まりに過ぎぬがな。その基点として、貴様らには洛陽大火の礎となってもらおうか」

 司馬懿はそう言って、部屋を照らす蝋燭の燭台を倒した。
 途端、まるで初めから油でもまいていたかのように瞬く間に火は炎と化して、部屋の中を蹂躙していく。
 倉庫として使われていたのか、部屋の隅に置かれていた竹簡や書類は瞬く間に炎を広げるための燃焼剤となり、それは当然の如く張譲の近くにも積もれているものであった。
 まるで腹を空かした獣のように燃えるものを探す炎は、そこを経由して張譲へとその牙を剥いたのであった。

「ぐぅっ……おのれぇ……おのれぇぇぇぇぇッ…………」

 炎に包まれる直前、張譲は床に落ちていた剣へと必死に腕を伸ばした。
 このまま――司馬懿だけに一人勝ちをさせる訳にはいかない、と自らの中で警鐘を打ち鳴らす後漢王朝の臣としての自分の意に従って。
 司馬懿をこのまま世に放てば、後漢王朝が――しいては中華の大地がきっと未曾有の事態に巻き込まれるであろうことを懸念して。

 そして。

 あと少し、という所で炎は張譲の身体を覆い尽くし、延ばされた手が剣を掴むと彼女は二度と動くことは無かった。



「さて……何か言い残すことはあるか?」

「ひゅー……ひゅー……」

 動かなくなった張譲から何進へと司馬懿が視線を移すと、話す気力も体力もないのか、彼女の気管から漏れる空気の音だけがその場を支配する。
 二人の周囲ではごうごうと炎が燃え上がり、張譲に続いて幽帝の骸をも飲み込もうとしていた。
 このままであれば、いずれそれは何進をも飲み込むことは必至である。
 胸の傷から見て、それが骸であるか否か、の違いはあるが。

「まあ、気管が傷付いていれば話すことどころか、息をするのもつらいだろうがな。……一息に殺すわけにはいかんのでな、炎に巻かれながら死んでいくがいい」

 そう言って何進から視線を外して背を向ける司馬懿に、何進は何も言わない。
 もはや司馬懿の声が聞こえているのかも怪しく、もはやその姿を確認できているのかどうかも、生気のない瞳では怪しいものがあった。
 ただただ苦しそうな息づかいとそれによって零れる空気の音を聞きながら、司馬懿の姿は炎にまかれたかのようにその場から掻き消えた。





「ひゅー……ごほッ……ふふっ」

 司馬懿の消えた部屋の中、肺へと入り込んだ血にむせながら何進は知らず微笑んでいた。
 彼女自身とすれば微笑んでいるのかどうかも知覚出来ないほど血が流れているのだが、確かに頬の筋肉は動き笑みの形を作っている。
 だんだんと朧気に――黒とも白とも言い表せぬ色の思考を塗りつぶされて息ながら、何進は知らずの内に口を開いていた。

「――れて、信頼した男に殺される、か……かはっ。金と贔屓で権力を取ったわらわにしては、実に似合わぬ、死に方じゃな……。……のう仲達、お主は気づかなかったであろうが……わらわはお主のことを…………」

 


 
  **





 そして。
 部屋から零れる声が途切れた頃。
 部屋の中を蹂躙し燃やし尽くした炎は、いよいよを持って世へと放たれる。
 扉から溢れる炎を朝廷に仕える文官が見つけた時には、既に遅く。
 まるでそれが決められていた事のように、炎は部屋を飛び出し瞬く間に城を燃やし尽くさんとした。
 
 そして、天高く立ち上る煙は衆目――洛陽の人々にも知れ渡ることになり。
 まるで示し合わせたかのように、街は騒乱の渦へと叩き込まれることとなった。

 そしてまた。
 これを機に動き始める者達も、確かに存在した。

 

 何進の命令によって洛陽を目指していた、諸侯達である。
 
 





[18488] 三十一話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/11/09 11:43



「ぐうっ……あああああぁぁッ!?」

 トスン、と。

 空気を――その状況をも引き裂くように飛来してきた矢は、自らにのし掛かっていた男の右目へと吸い込まれるのを、趙雲は半ば呆然としながら見つめていた。
 地面に押し倒されている体勢では見ることは能わぬが、もしかしたら先に逃した者達がこちらの窮地を知ってとって返してくれたのでは、と思うがすぐさまにそれを否定する。
 続けて二射、三射と続けられるのであればそれも期待出来るであろうが、それも十、数十を超える数になれば、どだい無理な話となる。
 それと同時に馬蹄の音が地面を伝わって聞こえてきたのならば、そこから紡がれる解は一つしかない。

「ふふ……どこのどなたかは知らんが、実にいい頃合いだ。まるで見ていたようでもあるが……今それを考えるのも詮無きこと、か」

 援軍。
 その事実が、先ほどまで萎れかけていた胆に再び活力を漲らせるのを、趙雲はぞくりと背筋を振るわせながら受け入れた。
 乙女の危機に駆けつける、まるで古くからの大衆受けする伝承のようであったが、いざその渦中になってみると実に心躍るようである。
 そのようなことがあって自然に沸き上がる笑みを抑えることも出来ず、趙雲は降り続ける矢に呆然とする男を蹴り飛ばして立ち上がった。
 
 それを見ていたのか、ピタリと止んだ矢の雨に合わせるかのように、趙雲は槍を一薙ぎして周りの男達をも吹き飛ばす。
 一振りによって男達の腕やら脚を切りつけ、その痛みで男達が呻いた隙をついて二振り目によってその首を刎ねる。

 そうして窮地を脱したのを見計らって周囲を警戒した頃には、虚を突かれた敵軍はそちらばかりに意識を取られて、先ほどまで迫っていたこちらのことなど意識にないようであった。
 視線を変えて敵軍を攻めている軍を見れば、その多く――と言うよりはその全てが騎兵であり、その練度からしても相当な軍であると理解出来た。

「ふむ……中々によくまとまっているようだな。涼州の馬騰か董卓か、はたしてどちらなのか……」

 精強と謳われる涼州騎兵を主力とする西涼の馬騰の軍か、はたまた優れた武官を揃え騎兵のみならず歩兵弓兵どれを取っても練度が高いと言われる董卓軍か。
 洛陽からの援軍はほぼ無い、と助けた二人組の女性に言われていたことから、おそらくはそのどちらかだろうと当たりを付けた趙雲は、こちらへと駆け寄ってくる一騎の騎馬を見つけた。



「おおい、無事――だったみたいだな。大丈夫だったか?」

「うむ、そちらの援護のおかげで大事ない。感謝する」

「いいってことよ。ああそうだ、私の名は馬超。とりあえず、騎馬隊の指揮を任されてるよ」

「我が名は趙子龍と申す。それよりも、馬超……ということは西涼の馬騰殿の軍が我々を援護した、と考えて相違ないのかな?」

「いや、西涼の軍じゃないんだけど……まあ、その辺はご主人様に聞いた方が早いかもな」

「……ご主人様?」

「あっ、いやこっちの話だッ。……まずは部隊と合流しよう、付いてきてくれ」

 とりあえずは先に逃がした者達と合流するのが先か、と考えていた趙雲はこちらへと近づいてくる騎馬を警戒したが、その騎馬が女性であり、かつこちらを心配する風な口ぶりにそれを若干緩めた。
 見た目だけならば見目麗しい少女であるのだが、その手に持つ十文字槍と馬を駆る技術がただ者ではないことを教えている。
 いずれ名のある武人か、そう予想していた趙雲の勘は当たっており、少女は自らを馬超と名乗ったのである。

 馬超と言えば、西涼の馬騰の娘であり、名の知れた武人でもある。
 その人が騎馬隊を率いているということは、こちらを救ってくれた軍は西涼のものかと思っていたのだが、馬超の口ぶりからどうにも違うらしい。
 厄介な事情でもあるのかとも思ったのだが、馬超がついた溜息から察するに、どうにも面倒な――趙雲からすれば、実に楽しそうな事情であるようだ。
 目的地である安定に向かうにしろ洛陽に戻るにしろ、少しは楽しみが出来たやもしれぬ、と趙雲はまだ見ぬご主人様と出会うのを楽しみだと感じていた。


 
 そうして。
 数は劣るにしろ勢いと練度で勝っている馬超が率いていた隊は、難なくこちらを追撃していた部隊を撃退した。
 前方へ出て敵を攪乱する隊と騎射によってそれを援護する隊。
 それぞれに連携を取りながら、まるで盤上で行われる遊戯の如くに敵を討ち取っていく様から、部隊の指揮官の力量が分かるというものだ。
 そんな錬磨の部隊を前にしてか、敵軍の多くは戦場に散る前に逃げ出したこともあり、彼らが統率の取れていない――それこそ寄せ集めだということが見て取れた。

 洛陽から発した軍。
 寄せ集められた兵達。
 そして彼らが追っていた二人の女性。
 趙雲の中で、徐々にではあるが今回の追撃の全容が形作られていった。

「さっ、着いたぞ」

 そして、趙雲が本格的に思考へ沈もうとする直前。
 唐突に聞こえた馬超の声に顔を上げれば、既に残敵掃討や周囲の警戒に割いた以外の兵がその場に集っていた。
 ざっと見て二百ほど。
 その全てが騎馬であるらしいということから、周囲に放っている数も含めれば総数は三、四百ほどか、と大体の当たりを付けていた趙雲は、ふと見慣れぬ旗を見つけた。

 牙旗、または牙門旗とも呼ばれるそれは、軍を率いる将が己の居場所、また敵軍に対して武威を示すという意味で用いられることが多い。
 そのため、必然的にそれはよく見られることとなり、有名なものになれば民の間でもその噂が流布されるものなのだが。
 情報通を名乗る趙雲でも、その旗に見覚えは無かった。


 端を黄色で彩った白地の布。
 その中央、円の中に緑色の龍のような模様の中心にある、『十』の一文字。
 その牙門旗が、戦場の中において高々と風ではためいていた。





 **





「さて……」

 そう呟いた俺は、目の前にいる五人へと視線を走らした。
 その全員が女性であり、見目麗しいというかぶっちゃけ美人で可愛い人ばかりなので少々失礼かとも思ったのだが、先ほどには襲われそうになった人もいるみたいなのでその安否の確認も兼ねているのだ――と誰に対してでもなく言い訳しておく。
 ぐるりと見渡しても大きな傷があるようでもなく、また衣服が特別乱れている人もいるようでもないのでそこだけは安堵した。
 
 

 砂煙を確認した董卓軍は、それが洛陽方面からのものということもあり、偵察隊を出そうという決断へと至った。
 何進大将軍から洛陽への呼び出しを受けた直後に、その目的地から迫る何かしらの問題とあって、その対応を間違える訳にはいかないという賈駆の判断である。
 もしこれが何かしらの勢力の罠であり、覆せないほどの大軍勢がこちらを潰すために動いているのだとすれば、敵軍がこちらを捕捉する前に地の利のある領地へと帰還し、対策を練らなければいけないのだ。

 故に、偵察隊という名目ながらも、いざという時に敵軍と一戦して壁と成りうるだけの戦力を、捻出しなければならないのであるが。
 あろうことか、賈駆はその偵察隊の大将――指揮官を俺に任せると言ってきたのである。
 元々、将軍の一人としてそれに行かなければならないか、と思ってはいたのだが、まさか先だって言われた一軍を任せられる将軍になってくれ、と言う言葉を早速実践する機会が訪れてしまったのである。
 董卓と賈駆が本隊を取り纏め、俺が前線で指揮をして各判断を下す。
 言葉だけでは簡単そうなことなのに、いざしてみれば難解極まるその判断を、董卓軍軍師である賈駆は俺へと迫ったのであった。

 とは言うものの。
 敵軍の可能性がある勢力の規模も分からない以上、一応の名目であった偵察は本目的でもある。
 その規模を確認し、もしこちらの脅威となりながらも撃滅出来うるのであれば安全に領地へ帰還するためにも一戦を辞さない、その意図を忘れる訳にはいかないのだ。

 故に。
 偵察を主目的とし、かといっていざという時には壁として機能するだけの戦力がいる偵察隊において、賈駆の、無理はない程度に、という有り難い言葉と共に選抜された将は、俺を筆頭に馬超、呂布、張遼、牛輔、李粛という、下手をすればこれだけの面子で一軍が編成出来るんじゃね、と言わんばかりの面々であった。
 預けられた兵は、騎兵ばかりで三百。
 これをそれぞれ俺と馬超、呂布と牛輔、張遼と李粛という三つの部隊で割る形となった。
 呂布が率いる隊には追撃している軍を攻め立てよ、と。
 張遼が率いる隊には追撃してくる軍の攪乱、及びその撤退先の確認を。
 そして俺が率いることになっている隊は、馬超にその半数を預けて追撃されている人達の救援を、ということになった。

 まあ、結果としてだけ見ればこちらの損害は特になく、助けた人達にも大きな怪我もなさそうであった。
 一応の安全と状況の確認として、牛輔と李粛がそれぞれ五十騎ずつほどを連れて洛陽の様子を確認に行っているぐらいだが、これも問題があればすぐに戻ってくるようにと厳命しているので大丈夫だろう。



 そうして一応の安全を確保出来たとした俺達は、先ほど助けた五人の女性を前にした。
 敵軍に対して一人で奮戦していた女性を中心とした三人と、か弱げな少女を守るように立つ女性の二人という形で分かれている。
 二人の方は、どうにもこちらを警戒しているようで、少女を守る女性からは刺すような視線がどうにもきつい。

「助けていただいた礼がまだだったな。我が名は趙子龍、此度の救援、真に感謝する」

「程立と申しますですよ。助けて頂き、ありがとうなのですよお兄さん」

「戯志才……いえ、郭奉考といいます。助けて頂いたことには、礼を言っておきましょう」

「……なんかえらく凄いビッグネームばかりが来たな」

「びっぐねーむ?」

「いや、こっちの話だから気にしないで下さい、程立殿。……ごほん、俺の名前は北郷一刀。一応この部隊の指揮官ということになってるよ。とりあえず、間に合ってよかった」

 趙雲と程立と郭嘉などという、これからの時代に多大すぎる影響を及ぼし残していく面々の名前が耳に入ったことが幾分か信じられないのだが、それでも初めて董卓やら呂布の名前を聞いたときよりは衝撃が少ない。
 何か変な方向で成長しているらしい自分に驚きつつも、そればかりではいかないのだと奮い立たせて俺は口を開いた。
 
「ふむ……馬家の長女殿が救援に来たから西涼の軍かと思いきや、今や天下に名高き天の御遣い殿を擁する董家の軍であったとは……。いやいや、この偶然というものに感謝するべきやもしれぬな」

「偶然、で済めば星を見ることなど意味無いのですよ、星ちゃん」

「そもそも、この状況を予想して逃げていたのだから、こうなることはある意味必然とも言えるのですけどね」

 そんな俺の名前を聞くと覚えがあったのか、すぐさまに俺が董家の将ということを理解する当たりに趙雲が情報に通じているのがよく知れる。
 そして、そんな趙雲の言葉にすぐさまに反応する程立と郭嘉に、彼女達もまたその名に恥じぬ人物なのだと理解した。

 こちらの方向へと逃げれば助けが来る。
 太陽を掲げる夢を見たとして曹操に出仕した程立――後に程昱と名を変える少女と、病にて若くして世を去り曹操にその才を惜しまれた郭嘉という少女。
 出会ってすぐなためにその人となりを知る由もない俺でさえ、彼女達がある確信を持ってそう逃げたのだということが理解出来ると共に、董卓軍か或いは馬騰軍が助けに入るであろうことまで予測していた、ということに畏怖を覚えた。
 
 もし董卓軍も馬騰軍も洛陽へと動かなければ?
 その可能性もあった筈なのに、彼女達は集められるだけの情報と世の情勢を鑑みただけで、今の状況を半ば確信していたのである。
 畏怖――恐れるなと言う方が馬鹿らしいほどに、俺は背筋を振るわせた。

 

「……そなた達は、私達を討ちに来たのではないのですか?」

「ッ、気を緩めてはなりません、伯和様ッ!? こやつらがこちらの素性を聞けば、いつ剣を向けてくるやも知れませぬ!」

「で、でも、時雨……天の御遣い様がいるのだし、他の方達も悪い人には見えませんよ? ……それといつも真名で呼んで、って言っているのに時雨はいつになったら呼んでくれるの?」

「し、しかし伯和様の御真名を呼ぶなどと、私には勿体なき――ではなくッ!? こやつらも武門の端くれ、何大将軍の命さえあればすぐさまにこちらへと剣を向けるに決まっているのですッ! 信じるに値しないのですよッ!?」

「……なんだか、散々に言われてないか?」

「まあ朝廷ん中でいろいろしとった人らから見たら、そんなもんちゃうか? 宦官と何進の対立は深いゆう話やから、そうなっても仕方がないと思うで」

 ぶるり、と寒気すら覚える畏怖へ思考を飛ばしていると、ふと聞こえた声に無意識に意識を取られる。
 緊張すら覚える状況の最中、突如として聞こえたその声は酷く暖かいものに感じられた。
 か細い声ながらも、確かにはっきりと耳へと届いたその声の出所を探れば、女性の後ろへと隠れる――もとい、女性が後ろへと隠すようにした少女からのものであるらしい。
 女性の方は警戒心丸出しで、こちらが下手なことをすればそのまま噛みついてくるのではないかと思わせるのに対し、少女の方は少しずつではあるがこちらへの警戒心を解いてくれているみたいである。
 それが気にくわないのか、それに比例して女性の警戒心が増大するのだから善し悪しもあるのだが。

 それでも少女の言うことももっともだと思ったのか、凄く嫌そうで忌々しそうな顔をしながらも、女性は張遼と話していた俺へと顔を向けた。
 
「……伯和様の言うとおり、貴殿達に救われたのもまた事実。仕方なく、一応は感謝しておいてやろう」

「……感謝しておいてやる、とか初めて言われたぞ、俺」

「……うちも、そんなん言う奴初めて見たわ」

「中々面白いお姉さんなのですねー」

「……あなたがそれを言うの、風?」

 全然感謝などしていない物言いに、危うく脱力しかけてしまう。
 隣にいた張遼も同じなようで、俺と同じ酷く疲れた顔付きを眺めてみれば、程立の一言に反応した郭嘉まで同じ顔付きとなる。
 それだけで彼女がどれだけ苦労しているのかが分かるような気がした――あまり分かりたくなかった。
 
「……それはそうとして、あんた達は一体誰なんだ? 見たところ、良いところの出みたいだけど……」

 疲れた三人で奇妙な連帯感が生まれようとした頃、それまで黙っていた馬超の一言に意識を戻される。
 確かに趙雲達からはその名を聞いたが、彼女達からは聞いた覚えがない。
 とりあえず助けられた、という重いから誰何という問いすら忘れていたのだから、それも当然ではあるのだが――趙雲達は自ら名乗ったのだし。

 それにしても、と俺は少女と女性へと視線をやる。
 馬超の言うとおり、彼女達が纏うその服は、元の世界だろうとこの世界だろうと服装というものにとんと無頓着な俺でさえ、上質なものを用いて作られたものだということが分かる。
 俺が纏う聖フランチェスカ学園の制服は、その材質にポリエステルを用いているために日光が反射して輝いているように見えるのだが、彼女達が纏うその服は繊維の一本一本が輝いているようであった。
 この時代にはシルクロードもあったのだろうから、もしかしたらそこから得られた上質なものを用いているのかもしれないのだが、いざそうなってしまうと彼女達が一体何者なのかという疑問がいやに大きくなる。
 
 シルクロードの途中にある豪族の娘――洛陽から涼州方面に逃げていたのも実家に逃げるためか、とも思ったのだが、もしそうなら涼州に根を張る馬家である馬超が知らないはずもない。
 馬超のことだからそういった面倒なことは知らないようにしている可能性もあるが、そうだとしても少女と女性の反応を見るにそれもないだろう。

 大きな商人の娘――可能性としてはこれが一番な気もするのだが、もしそういう話になるのなら彼女達だけが逃げるというのも理解出来ない。
 これだけ上質な服を作れるほど大きな商人であるならば、幾人かは護衛を雇っていてもおかしくはないものである。
 女性がそうではないか、と言われればそこまでだが、女性が纏う服は護衛と言うよりもどちらかと言うと文官――安定に残る王方などが着ているものに近いのだ。
 その服の下に暗器を仕込んでいる、という可能性もあるが、それなら趙雲達の手助けなどいらないだろう。

 朝廷に仕える関係者の娘――この時代であるならば、それこそ宦官や位の高い将軍などの娘である可能性もある。
 この時代の宦官は張譲、将軍であるならば何進や皇甫嵩などが洛陽で名を知られているが、もしそういった人物の娘であるならば、いよいよをもって護衛がいてもおかしくない。
 特に宦官と将軍などの対立は顕著であり、そのどちらだとしても護衛がいて当然なのである。
 


 考えれば考えるほどに難解になっていく彼女達の正体に、俺は考えることを止めた。
 考えても埒があかないということもあるし、本人から聞いたほうが早いということもある。
 女性がそれを言わせない、ということも考えられたが、それならそれで構わないし別にそこまでして聞かなければならないということもない。
 そもそも、先に考えた可能性だとしてもそれ以外だとしても、これまで男なのだと思っていた三国時代の武将の面々が女性な世界に紛れ込んだ時以外の驚きなどはそうそうないだろう。
 
 まあ、もしこの見た目優しそうで儚げそうな董卓みたいな少女が曹操だとか孫策だとか、果てには張譲だとか何進だとか袁紹だとしても驚くことはない……と思う。
 何でこの時点でここに、なんて驚きはあるかもしれないが、それでもそれもさしたる問題ではない。
 もっとも、もし少女が漢王朝現皇帝である幽帝だ、などと言われたらさすがに驚くことになるだろうが、その可能性も皆無に等しいだろう。



 と、そこまで思い至った時、俺はあることを思い出した。
 董卓のみならず各諸侯が何進の命で洛陽に呼び出された時、洛陽で何が起こっていたのか。
 その混乱の最中、洛陽から連れ出され、かつ洛陽へと向かっていた董卓が保護した人物は一体誰なのか、を。




  **





「……ごめん、もう一度どういうことなのか説明してもらえる?」

「いや、俺にも何でこんなことになったのかさっぱりなんだけど……」

 一応の安全を確保した、という俺からの報告を受けて合流した董卓本軍と俺達は、目の前で起こっていることに中々復帰出来なかった。
 俺を含む偵察隊として出ていた面々はすでに一度経験済みなために復活も早いのだが、後から合流した面々――特に賈駆にとっては想像を絶するものだったらしい。
 痛むのか、こめかみを押さえる賈駆に弱々しい印象を抱きながらも、何故かその背後に何かしらの力というかオーラというか、そういったものが見えているのは気のせいなのだと思いたかった。

「……ボクは、何て言ったんだっけ?」

「……前方に迫る不明勢力を確認し、驚異となるようなら速やかに伝令を入れるべし。もし本隊が逃げられないと判断した場合は、壁となってこれを防げ」

「うん、よろしい。概ね間違ってはないわね。……でもね?」

「お、落ち着けよ、詠。ちょっと顔が怖いぞ?」

「うん? 大丈夫、ボクは落ち着いて――いられるかァァァァァッ!? 何てもんを拾ってくるのよ、あんたはッ!? 人ッ?! 人を拾ってくるのは恋だけで十分なのよッ!」

「ひ、ひぃッ!」

 全然気のせいではありませんでした、はい。
 全身から、それこそ全ての毛穴から吹き出しているのではなかろうかと言えるほどの怒気をまき散らしながら、賈駆は俺へと詰め寄った。
 その顔がまるで閻魔の如く、般若の如くであったために本能的反射から情けない声が出てしまったのだが、それを恥ずかしいとはこの時の俺はどうしても思えなかった――むしろ恐怖で気絶してくれた方が何倍も良かった。
 そうすれば、目の前に迫る恐怖も、そして知っていながらも防げなかった事実から目を背けることも出来たのに。



 一体全体これからどうなるのか、どうしようか等と恐怖を目前としながら考えていた俺だったが、賈駆の声を聞いたある人物――とは言っても、今現在賈駆の中で問題となっている片割れの女性であるのだが、彼女が声を高らかにした。

「もの扱いとはどういう了見だ、小娘ッ!? このお方をどなたと心得る、漢王朝第十二代皇帝霊帝様のご息女、劉協様にあらせられるぞッ! 者共、頭が高いッ、控――」

「し、時雨ッ、何てことを言っているのですかッ!? み、皆さん、時雨の言ったことには従わなくていいですからねッ!」

「へ、へぅ……は、ははー?」

「ああッ、そ、そんなことしなくていいんですって董卓様ッ!? もう、時雨のせいですからねッ、どうするんですかッ!?」

「し、しかし、伯和様ッ!? こやつらはあなたをものと言っ――」

「そんなことは良いんですッ!」

「そ、そんなことですとッ?!」

 こちらへと噛みつかんばかりに声を荒げていた女性であったが、それに従おうとした董卓を見てか慌てて止めた少女――劉協の言葉に、押される形となる。
 女性――そう言えば未だ名を聞いてはいないのだが、彼女も劉協には弱いのか、端から見ている分には妹に怒られる姉か、娘に怒られる母のようであって、これが自分に全く関係ないのなら笑いたくなる光景である。
 現状は実に笑えないものであるが。

 劉協。
 現皇帝の霊帝の子として陳留王に封じられ、後に暗殺される弘農王である劉弁の後を継ぎ献帝となる、漢王朝におけるラストエンペラーである。
 最終的には魏に皇位を禅譲して漢王朝は終焉を迎えるのだが、それ以前に彼――この世界では彼女だが、彼女を保護したことから董卓は権勢を誇ることとなる。
 反対に言うのならば、劉協を迎えて権勢を誇ったからこそ董卓は死ぬことになるのだが。
 これを成さないために洛陽へ出征するのを反対し、出征に当たって時間を延ばし、といろいろしてきたのだが、結局の所、済し崩し的に迎えることになってしまったのは事実である。

 タイミングが早すぎる、と思わないでも無いが、そもそも俺という歴史の異端がいる時点でその差違を認識しておくべきだったのは、俺の手落ちである。
 結局の所、こうなってしまった以上、董卓が洛陽で権勢を得るのは必然になってしまったと言って良い。
 権勢を得る事無く洛陽を去る、という可能性もあるのだろうが、賈駆の性格からして恐らくそれもあるまい。
 今は混乱しているが、落ち着いてしまえば知謀に優れる彼女のことだ、すぐさまにこれからなぞるべき道筋を導き出すことだろう。

 参った、と俺は人知れず溜息をつく。
 視線は、未だぎゃあぎゃあと騒ぐ劉協と女性を見ているが、心はここにあらずであった。
 本当に次代の皇帝かあれ、等と思考の片隅に置きながら、俺はこれからどうしようと再び溜息をついた。



 本当に。
 どうすればいいんだろう。





[18488] 三十二話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/11/16 14:54



「さて、と……そろそろ何があったのか説明してもらってもいいかしら?」

 董卓が率いる本隊と合流した俺達は、色々な混乱――助けた少女が後の献帝である劉協ということもあってか、一応の進路を洛陽へと向けた。
 本当であれば馬車みたいなものがあれば一番いいのだが、そういったものが用意されている訳もなく、そもそもの段階で作ってすらいないので劉協達は今現在馬に乗って貰っている。
 とは言っても、劉協が馬に乗れるのか、という疑問はもう一人の女性――お付きの女性とでも呼んでおこうか――の前に跨る感じで解決済みである。
 元々劉協も女性の方も細身であるためか、さしたる問題もなく馬に乗っていた。

 そうして洛陽を再び目指すことになった俺達は、張遼が率いる騎馬隊に周囲の警戒を任せながら安全を確認して進んでいった。
 偵察隊との戦闘によって洛陽へと逃げ帰った連中が本隊を連れて帰ってくるのではないか、と危惧していたのだが、そういった危険もなく影すら見えないことから酷く不安になる。
 気にしすぎ、と笑う馬超を頼もしく思いながらも、俺は確信めいた何かを感じていた。
 堪、と言い換えても間違いではないソレが、酷く俺へと警戒を繰り返すのだ。

 そうして俺がこれからのことに警戒心を巡らしていると、不意に隣にいた賈駆が声を発する。
 その行く先は俺――では無く、明らかに俺を挟んだ反対側にいる劉協達であり、それは彼女達も理解する所であった。

「そう……ですね、ここまで来れば周囲も安全でしょうし、話すにもいい頃合いでしょう」

「時雨……」

「大丈夫ですよ、伯和様。あなたが信じた彼らを、私も信じます。それに彼らが伯和様に何をしようとも、私が命をかけてお守り致しますので」

「何もしないよ。何だったら、天の御遣いという名に誓ってもいい」

「おいおい、そもそもその呼び名をあまり重要視していないご主人様がそれを言っても、あまり意味ないと思うぞ?」

「いや、翠……そこは黙っていて欲しかった」

 そんな俺達のやりとりにくすくすと笑みを零す劉協に温かい視線を投げた後、女性はこちらへと視線を改めた。
 その色は、劉協を守る色でも、ましてやこちらを警戒する色でもない。
 俺が知る中でも形容し難いものであるのだが、あえて例えるならば――闇、というものを知っているものだと思う。

「……まず、私の名を知らぬのも不便でしょうから名乗りを。我が姓は李、名は儒、字は文優。涼州安定が生まれにして、漢王朝に仕えるものでもあります」

 そういってチラリとこちらを見る女性――李儒の視線に含まれたものを見るに、安定を勢力下におく董卓軍というものを警戒しているようであった。
 確かに、董卓が安定を勢力下とした経緯を知らないでいるのなら、一介の太守としては強大な勢力を誇る董卓が劉協という駒を用いてさらなる飛躍を目指さないとも言えないのである。  
 李儒が危惧するのはそこであるのだろう、その意を汲んだ董卓が首を横に振ると幾分か安心したようで、少しばかり肩の力を抜いたみたいであった。

 劉協が、俺が知る歴史を歩んできたのだとしたら、その道程は茨のものだったのだろう。
 あの幼い身躯でどれだけの権謀術数に迷い、流されてきたのかは俺の理解の外であるのだが、劉協が李儒を信じることと、李儒が劉協を守ることはそういったことあってのことだと思う。
 何進と宦官の対立に巻き込まれ、幼い劉協を守るということがどれだけ大変なことであるのか。
 李儒の瞳の色が、それを物語っていた。



 それにしても、と俺は首を傾げた。
 安定生まれで李家って何か聞き覚えがあるようなないような。
 名門の家柄の筈なのに、何故かそんなことを感じさせない元気印な――それに不似合いなほどに豊満な肉体を持って別の意味で兵士を元気にさせそうな女の子がいた気がするのだが。
 と、そこまで考えた俺の思考を汲み取ってか、前方が何やら騒がしくなってきていたようである。
 しかも、徐々にその騒がしさがこちらへと近づいてきているような気がするのは気のせいだろうか?

 そうして。
 意を決したかのように口を開いた李儒を遮って、ソレは現れた。

「まずは始めに説明を――」

「大変大変大変だよーッ!? 洛陽が――って、お姉ちゃんッ?! お姉ちゃんが何でこんな所にいるのさッ?!」

「……陽菜、もう少し落ち着きを持ちなさいと以前から言っている筈でしょう? そもそも、私がここにいてあなたが困ることなど無いはず。少しは落ち着きなさい」

「う、うん、ごめんなさい……。あー、それにしてもびっくりした。ここでお姉ちゃんに会うなんて思いもしなかったもん」

 あーうん本当にびっくりしたー、なんて呟きながら、騒がしくなってきたその張本人である李粛は大きく肩で息をした。
 ……というかお姉ちゃん?
 以前姉がいると聞いた気がしないでもないが、まさか李粛の姉が李儒であったなどとは思わなかった。
 そもそも元いた世界で二人が兄弟姉妹などと、大きくみれば血縁関係であったなどという話はないことから、全く知らない人物がいるのだとばかりに思っていたのだが、どうやら外れていたらしい。
 この流れで実は李確が父親だ、とか言わないだろうなと俺はふと思っていた。
 や、だって同じ李の姓だし有り得てもおかしくはないのだけども、いきなりそんなこと言われても困るから今の内に心構えだけしておこうかなと思いまして。
 まあ、それも結局は無駄の所に終わるのだが。

 李儒はそんな騒がしい李粛に慣れているのか、さすが姉だ、と言わんばかりの落ち着きを見せながら李粛を宥める。
 太陽のように朗らかな李粛と、月夜に振る雨のようにしっとりとした李儒。
 陰陽という言葉を体現するかのような二人に、本当に姉妹なのかと疑いそうであるのだが。
 息をして大きく動く肩に連動し、これまた大きく揺れる李粛の胸へと向けられる李儒の視線が、羨ましそうに――どうして妹の李粛だけがこれだけ育っていて自分はこんなのなのか、とばかりに妬ましそうな視線を自身の胸と交互に見やる肉親特有のものを見れば、それも信じられるものであった。
 
 そうして李粛と李儒へ視線を向けていると――段々と李粛のその自己主張の激しい部分へと向かう割合が増えていくと、ぎろり、とばかりに李儒に睨まれてしまう。
 それに加えて、何故か背後やら横から周囲から向けられる視線が増えてきたのをひしひしと感じつつ、俺は話を変えるためにと慌てて口を開いた。 

「そ、それで、武禪殿? 一体何をそんなに慌てておいででしたのか?」

「……」

「……もしや、お忘れとは言わないでしょうね?」

「えっ、い、いや僕がそんなこと言うわけないじゃん、北郷さんったらもう……ああッ、そうだったッ!?」

 自分は忘れてなんかいない、そう言った直後にさも思い出したとばかりに手を打つ李粛に、俺のみならず彼女の姉である李儒の溜息が重なる。
 まったくもう、とばかりに復活した李儒に、やはり姉だから慣れているのだな、と感想を抱きつつ、俺は李粛に先を促し――その言葉に驚愕した。

「それで、武禪殿? 一体何が――」



「た、大変なんだッ! ら、洛陽が……洛陽が燃えているんだよッ!」





  **





「おーほっほっほっ! 何進さんの姿は見えませんが、この火事は宦官を討つための絶好の好機ですわッ! 猪々子さん、斗詩さん、やっておしまいなさい!」

「あらほらっさっさーッ! ってな訳で、行くぞ、斗詩ッ! うおりゃぁぁぁぁ!」

「あっ、文ちゃん、先に陛下と皇族の人達の保護を――って、聞いてないし……。はぁ、麗羽様ものりのりだし、行くしかないのかぁ」

 轟々、と。
 洛陽の街、その全てを燃やし尽くさんとするかのように燃え上がる炎を前にして、黄金色の豊かな髪をいくつもの螺旋状に編み込んでいる女性――袁紹の両横に控えていた二人の人物が飛び出した。
 その男とは思えない小柄な躯と、ひらひらとした腰布、そして自らの性別を強調するかのように膨らんでいる胸元から、その人物らが女性だということを知らしめていた。

 身の丈ほどもある大剣を振り回す猪々子と呼ばれた少女――文醜は、走り出した勢いを利用して、およそ少女が振るに似つかわしくない大剣『斬山刀』を、軽々と横へと振るった。
 狭い通路で振るうには些か不釣り合いなそれは、如何に名将名人と言えども大きく振るうのは難しい。
 洛陽の街中、城へと至る通路を閉じるかのように待ち構えていた兵士達はそう考え、その切っ先が壁なり家なりに止められたときに襲えばいいだろう、そう考えていた。
 だが、彼らの予想は大きく外れることとなる。
 飛び込んだ勢いそのままに斬山刀を振るった文醜は、あろうことか剣の切っ先が壁へと触れると力のままに振り切ったのである。
 ガリガリ、と壁を削り、剣筋を残すように迫っていた斬山刀に、振れないだろうと考えていた兵士達が反応できる筈もなく、その驚愕のままに彼らは身体を分断された。

 だが、その一振りで仕留め損ねた二人の兵士が、斬山刀を振り切って体勢を崩していた文醜の頭上へと剣を振りかざす。
 刀身に炎が揺らめき、その揺らめきが文醜の頭蓋へと振り落とされようとするが、それも横から飛び込んできた影によって未遂へと終わる。
 蒼とも黒ともいえる髪をはためかせて、もう一人の少女――顔良は、文醜と同じく少女が振るに似つかわしくない大槌『金光鉄槌』を、その重さを感じさせる訳でもなく振るった。

 音もなく、と表現するのが正解とでも言うように振るわれた大槌は、しかして確かに兵士を――二人とも巻き込みながら振るわれる。
 まるで弾力があるかのようにはじき飛ばされた二人の兵士は、通路の壁に打ち付けられたまま、動くことは無かった。

「へへっ、助かったぜ、斗詩」

「もう、文ちゃんったら……ちゃんと気をつけないと駄目でしょ。もう少しで危ない所だったんだから」

 薄い緑の髪を揺らしながら、照れたように鼻をこする文醜に、顔良も口では厳しく言いつつもその顔はどこか安心したような色が混ざっていた。
 軽口を言いつつも周囲を警戒することは忘れない二人に、主たる袁紹は満足気に頷いた。

「おーほっほっほっ! 三国一の名家であるこのわたくしが、宦官如きに負けるはずがございませんッ! 全軍、突撃しなさい!」

 そして。
 まるで前方の障害が除かれるのを待ち構えていたかのような袁紹の指示に、彼女の後背に控えていた大量の兵士達が一斉に動き始める。
 皆一様にある目的――洛陽にて権力を占める宦官の排除を目的として動く兵士達は、袁紹、文醜、顔良と同じ黄金色の鎧を纏い、怒濤の如く押し進んでいった。
 その先頭に翻るのは、黄金色の中にあって一際目立つ蒼銀の一房であったが、その髪を持つ人物――少女は気負った風でもなく、ただただ真っ直ぐに目的地を目指した。
 多くの人の視界を炎という赤が占めるのに対し、その一区画だけは黄金色が占めていたのである。





 そんな黄金色の集団へと、一人の少女が視線を向けていた。
 炎によって生じた風になびく髪は視界を埋める色と同じ金の色で、頭部の両横にて螺旋で纏められた髪がふわふわと揺れていた。
 その髪の色に反するかのように、身に纏う衣服と鎧は黒を基調としたものでまとめられており、髪の合間から覗く眼光と合わさって酷く冷徹に――強靱に映った。

「か、華琳様ッ! 皇帝陛下はおろか、皇族の方々の姿、どこにも確認出来ませんッ!?」

「加えて申し上げますなら、袁家の軍が宦官のみならず、その疑い有りとする者達まで手にかけはじめており、宮城の中は阿鼻叫喚の絵図となっております。続けて皇帝の捜索をすることは可能ですが、火の周り具合からしてこの辺が頃合いかと……」

 そうして袁紹の軍を――炎に包まれていく城と街並みを眺めていた少女の背後で、二人の人物が臣下の礼を取って声を発した。
 獣の耳のような装飾のついた頭巾を被る少女――荀彧は、先ほど自らが命じられた指示に対する報告を矢継ぎ早に発した。
 炎によって蹂躙される城において、自分達が朝廷に叛するわけではなく皇帝とその一族の身の安否を願って兵を出した、とするためにそれらを探していたのだが、城のどこを探しても見つかることは無かったのである。
 これだけの大火であるならば必ず皇后やその子息である劉協や劉弁は側近に守られて安全な位置へ脱している、と荀彧は考えていたのだが、いざそう出来る場所へと兵を発しても帰ってくる解は全て不発であったのである。
 洛陽の城門付近で逃げ回る民へ話を聞いてもそれらしき人物は見たことがない、と返ってくれば、いよいよをもってその所在は掴めなかった。

 荀彧と同じように皇帝とその親族の捜索を命じられた蒼髪を持つ女性――夏候淵も、荀彧と同じような意見を発した。
 火が回りきる前にこれだけ探したにも関わらず、姿形はおろかその所在さえ掴めぬとあっては、これ以上炎の中にいれば少なからずの損害が出る、と夏候淵は遠巻きに主へと伝えたのであった。
 無論、そういった夏候淵の思惑をくみ取れないほど、少女は無能では無かった。

「そう……桂花と秋蘭がそう言うのであれば、これ以上の捜索も無意味と終わるでしょうね。ふむ……では、桂花は民の避難を誘導している季衣の、秋蘭は抵抗する宦官を攻めている春蘭の補佐へと回って頂戴。桂花は飛び火しない位置へときちんと誘導、秋蘭はあまり奥まで行かずに頃合いを見て春蘭を連れて帰ってきて。頃合いを見て、一旦洛陽から出るわ」

「はッ!」

「承知いたしました」

 そう応えて自らの主の命を成すためにその場を離れていった荀彧と夏候淵の背中を見送って、少女はその視線を再び燃えさかる城へと向けた。
 古くから王都、帝都として多くの人が集まり栄えてきた洛陽にとって、そこにある城とはその時代とも言うべき存在であった。
 古代の王らがここを目指し、ここで政務をし、ここで息絶えていったということを考えても、その少女の考えはあながち間違ってはいないだろう。
 それがどうだ。
 それだけの時代を築いてきた洛陽でさえ、今こうして炎に巻かれて消えゆく運命にあるというのだ。
 その事実に、少女――後の世に覇王とも呼ばれる曹操は、口端を歪めていた。



「時代が変わる、か……。おもしろい、そのうねりがどこを中心とするのかは分からないけど、きっとそれも大きなものとなる。多くの将が、英雄が、諸侯が、徳を求め、願いを求め、権力を求め、富を求め、力を求め――覇を求める。その時こそ――」

 そう呟いた曹操は、炎の揺らめきが反射する金の髪を翻しながら、声たかだかと宣言――天に対する宣戦布告かのように声を高めた。



「ふふ……。我は天道を歩む者、曹孟徳ッ! 天命は我に有り。――さあ、英雄諸侯よ。これから訪れるであろう戦乱の世で、共に舞おうではないか!」





  **





「でぇぇぇりゃああぁぁぁッ!」

 高く振り上げられた剣は、彼女の怒声とも取れる気合いの声によって加速したかの如くの剣速で振り落とされた。
 女性が扱うには少々大きいと言わざるを得ないソレは、前方に構えられた剣を断ち切り、そのままの勢いで鉄を――そしてその中身である宦官側の兵士をも両断した。
 斬鉄、とも呼べるそれはしかして全くの別物のようであり、彼女が振るう太刀筋自体が凶器でもあった。

「この七星餓狼に切れぬものなど無いわァァッ! 命が惜しくない者は、夏候元譲の前にその首をさらすがいいッ、残らず叩き斬ってくれるわッ! ……む?」

 そうして、『七星餓狼』と呼ぶ幅広の剣の刃についた血を一振りして除いた彼女は、ふと何かに気付いたかのように周囲をきょろきょろと見渡した。
 そうして周囲を確認し終えたのか、顎に手を寄せて彼女はぽつりと呟いた。

「うむむ、兵達とはぐれてしまったか……。全くあいつらめ、周囲を見ずに進むからだ」

 少し考えるそぶりを見せた彼女――曹操から春蘭とも呼ばれる夏候惇は、納得がいったかのようにうむうむと頷いた。
 なお、その言に反して夏候惇の配下である兵達が一人突っ走った彼女を捜している、ということなど夏候惇は知る由も無い。

 そうして再び思考するようにうむむ、と呟いた夏候惇は、何かに閃いたかのように顔を輝かせた。

「そろそろ秋蘭達も、皇帝陛下達を見つけ出したころだろう。宦官の兵達の姿も見えなくなったことだし、一度戻るのもいいのかもしれぬな」

 うんうんそうだそうしよう、とばかりに頷いた夏候惇は、主である曹操の元に戻ろうと先ほど来た道とは反対の方向――城の奥へと向かってその脚を動かしていった。
 戻るのであれば来た道を戻るのが一番である筈なのに、夏候惇はそれに気付くこともなく、またそれを指摘する人物もいないために、奥へ奥へとその歩みを進めていった――



 ――その先で不意に感じた気配に、夏候惇は反射的に剣を構えていた。



「ぐうぅッ!?」

 己の脳天をたたき割るかのように振り落とされたソレを、なんとか眼前で防いだ夏候惇は、それを振るう人物の腹へと向けて足蹴りを行う。
 体勢的に不利だったためかそれも結局は当たることは無かったのだが、それでもこちらの体勢を整えることが出来たのは僥倖であった。
 すぐさまに体勢を立て直した夏候惇は、後方へと跳躍して蹴りを避けた人物へと一足の間に飛びかかり、その剣を振るった。
鉄と鉄がぶつかり合う鈍く固い音が周囲に響き、夏候惇の剣は振るわれたソレ――十文字の槍によって防がれてしまう。
だが、互いに押しつけ合うように武器を重ね合わせた結果、夏候惇は十文字の槍を振るう人物を間近で見ることとなった。

「なッ!? 女、だと……ッ?!」

「なぁッ!? お、女だって……ッ?!」

 そしてそれは相手も同じであるのだが。
 顔を突き合わせた結果、言葉は違えど同じ意味を発する相手に、夏候惇は無理矢理に剣を押しのけることでその場を後退した。

 緑を基調とした上衣に、ひらひらとした白の腰布。
 それらの衣服に包まれた身体は、実に女性らしさを含んだものであり、女である夏候惇からみても中々に魅力溢れるものであった。
 一つに纏められた栗色の長い髪の奥から除く瞳には、確固とした意志が覗くようであった。

「中々やるな、貴様ッ! 宦官の賊徒如きに、これだけの武人がいるとは思わなかったぞ!」

「へん、あんたこそ、あれを止められるとは思ってもみなかったぜ。何進の兵って言うからどれだけかと思えば、結構やるもんじゃないか」

 そう言いながら、二人は再びそれぞれの獲物を構える。
 夏候惇は、剣の切っ先を相手に向けるようにして顔の横まで持ち上げた。
 突くにしても、振り下ろすにしても、横へ薙ぐにしても、両手で持たれたそれは並大抵の武人に止められるものでは無い、と夏候惇は確信していた。
 事実、止められたのも曹操や許緒の己が知る中でも最上位の武人ぐらいなのだが、目の前の人物はその中に含まれるほどであることも、また夏候惇は確信していた。

 穂先を下へ向けて構える目の前の相手に、ぞくりと背筋が震える。
 その切っ先、そして視線が自分の胸や喉元などの急所へと迫るのをひしひしと感じながら、夏候惇は知らず口端を釣り上げていた。
 


「我が身、我が剣は曹武の大剣なりッ! 姓は夏候、名は惇、字は元譲、押して参るッ!」

「西涼の錦、馬孟起ッ! 悪をも貫くこの銀閃、止められるものなら止めてみやがれッ!」
 

 
 そして。
 今まさに互いが互いを食いちぎらんとする獣のように跳躍しようとした二人の他に、別の人物達がその場へと現れたのである。



「止めろ、翠ッ!」

「止めるんだ、姉者」



[18488] 三十三話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/11/21 15:47





 振り下ろされた剣は相手の脳髄を。
 突き上げられた槍の穂先は相手の喉元を。

 あと一秒でも声を上げるのが遅れていたのなら、勢いのままに振り切れられてその軌跡を朱に染めていたであろうそれぞれの切っ先は、寸で――まさしく首の皮一枚と言っていいぐらいの所で止められていた。
 あのままであればどうなっていたのか、なんて考えたくもないけれども、結局の所は相打ちか、或いは彼女達の武人としての反応によって継続されていたかのどちらかだっただろう。
 本当に、間に合って良かったと思えた。

 そして、驚いた顔のままにこちらを見る馬超と。 
 俺とほぼ同じタイミングで部屋を挟んで反対側から現れた水色の髪の女性へと顔を向ける夏候惇と名乗った女性は、殆ど同じタイミングで呟き、俺と水色の髪の女性を脱力させた。

「……なんで止めるんだよ、ご主人様?」

「な、なんで秋蘭がここに……?」

「なんで、じゃないだろ、翠……」

「なんで、ではないだろう、姉者……」



 李粛から洛陽が燃えているとの情報を受けた董卓軍は、その内実が分からないにせよ、民の救出と事態把握のために再び兵を出すことに決めた。
 洛陽から逃げてきた劉協や趙雲達に話を聞いても、彼女達が洛陽を脱する前は火災が起こる兆候は無かったと言うのだ。
 となれば、自然発火などと生易しいものではない――人為的なものを予測するのは当然であった。
 それが劉協達を狙ったものなのか、それとも全く別のものなのかは分からないが、分からないまま現状に巻き込まれるのは実に不味い。
 そう判断した賈駆は、先ほどまで偵察隊となっていた騎馬隊を、再び洛陽へと発することと決めたのであった。

 再び指揮官として偵察隊を率いることになった俺は、とりあえずはと先に洛陽にて活動していた牛輔と合流することに決めた。
 李粛が本隊に洛陽炎上の情報を持ってきた時間から考えても、洛陽に残った彼ならある程度の情報を得ているだろうと考えてのことだった。

 だが。

 どうにか牛輔と合流した俺達は、そこで意味が理解出来ない情報を耳にすることとなる。


 宦官の筆頭である張譲と、大将軍である何進の姿が見えない。


 どのような立場にせよ、官軍の長たり得る二人の消息が掴めないとあって、宦官と何進の軍兵――私兵達は動くことが出来なかったのである。
 宦官は張譲が実質の最高実力者であったためか、動きを取るための指揮者を取り決めることが出来ず。
 何進の勢力も、何進が傍へと仕えさせていた副官格たる男の所在も掴めないとあっては、その軍の手綱を誰も御せることが出来なかったのである。

 故に。
 民を守るべき存在である官軍は動くことなく。
 洛陽に住まう一握りの有志や、何進の呼びかけに応じて洛陽へと集まりつつあった諸侯の一部が、炎に包まれ行く洛陽を救うために行動を行っていたのである。

 そんな現状にあって、俺達もそのように動くべき、と声が上がったこともあり、俺はそれぞれに指示を下した。

 呂布、張遼は火の燃え広がっていく進行方向にある建物を破壊し、燃える火種を断つことをまず指示した。
 元の世界にいた頃、時代劇などで見たことがある程度なのだが、燃えるものを破壊してそれ以上火災が広がるのを防ぐ破壊消火、という手法を取るためである。
燃えている範囲が水を用いて消火するには規模が大きすぎることもあるし、そもそもそれだけの水が確保出来るか怪しい現状であっては、それが一番効果的であると取ってのことであった。
 牛輔にその指揮と半数程度の指揮を任せて、俺は次の指示へと移った。

 馬超は俺と共に、城内部にて略奪暴行をしているものがいないかどうかの確認と、逃げ遅れた人がいるようならその救助を、ということになった。
 火事場泥棒、なんて言葉もあるぐらいだ。
 これだけの大火で洛陽の街全体が混乱に陥っている現状であれば、そういった輩が出てきてもおかしくはないし、いざ死ぬともなれば人間どんな行動を取るのか予測が付かない。
 そうして城の中へと入っていった俺達であった――その直後に、馬超が夏候惇へと斬りかかったのである。
 
  

「す、すまぬ、てっきり宦官の兵がまだ残っているものと思ってだな……」

「こ、こっちこそ済まなかったな……。何進の兵がまた襲ってきたのかと思って……いや、本当に悪い」

 そうして。
 それまでの経緯を一通り――劉協とその側近である李需を保護している、という部分以外を説明し終えた俺は、内心で安堵していた。
 彼女達がこちらと敵対する立場ではない、ということもあるが、何より彼女達と戦わなくていい、ということが一番大きい。
 馬超と切り結んだ女性――夏候惇は、俺が知る限りでは後の曹魏において一の武力を誇る猛将である。
 馬超も後の蜀漢において五虎将軍という大役を担うだけの、夏候惇に劣らぬ武力を持つことは俺も知っているのだが、それでも勝てるか、という話になってくれば分からないものがある。
  
 さらには、夏候惇のことを姉と呼んだ水色の髪を持つ女性のこともある。
 この現場に着いたのは同時であったが、腰に剣をぶら下げている俺と違い、向こうも手にこそ剣を持っていてもその腰には弓がぶら下がっているのだ。
 屋内では弓を使うには不便、ということもあるのだろうが、使い込まれていると一目見て分かるその弓を見れば、彼女が剣よりも弓の方が扱えるという理解に至る。
 そして、夏候惇の妹――あるいは縁戚で、かつ弓の扱いが上手い。
 そういった人物に、俺は心当たりがあった。

「姉者がいきり立ったようで、どうにも迷惑をかけたようだな。そうだ、名乗っておこう。私は夏候淵、字は妙才という。あちらの姉者――夏候惇の妹にあたる。重ね重ね、どうも済まなかったな」

「いや、幸いどちらにも怪我はないみたいだし……それにこういった状況だ、大きな問題にならなくてよかったよ。俺は北郷一刀、それで向こうが――」

「――馬超、だろう? 西涼の馬騰の娘、馬超がなぜ洛陽になどと思ったものだが……。なるほど、お前が北郷だということなら納得出来るな」

 そういって、どんな噂を聞いていたのかは知らないが水色の髪の女性――夏候淵は、じろじろと俺の顔へと視線をやっていた。
 顔の右半分はその髪によって隠されているが、笑みによって崩された残された半面からは好意的そうな印象が見て取れた。
 だが、その隠された右目かは知らないが、どうにも値踏みというか観察されているというか、そういった視線を少しでも感じてしまえばそれも信じ切れるものではないが。

 そして、夏候淵という名を聞いてしまえば、今という状況がいかに不味いのかを理解してしまう。
 いかに馬超が夏候惇に勝てるとしても、もう一人猛将が――しかも、あの曹操の旗揚げからその名を知らしめる夏候淵がいるとすれば、それはもはや絶望的であった。
 もし馬超が夏候惇を押さえたとしても、夏候淵が俺へと矛先を向けてしまえば俺としては速攻で押さえられる自身があるし、そうなってしまえばいかに馬超と言えども逆転は難しいだろう。
 
 どうする、どうやってこの窮地を脱する?
 そういった俺の不安やら焦燥やらが顔に出ていたのか、些か不本意だと言わんばかりに夏候淵は口を開いた。

「お前が危惧することは分かるが、それでもこのような場所で手出しはせんよ。そもそも、そのような命も無いし、お前達を相手にする理由もないのでな」

「……そう言ってもらえると、こちらとしても幾分か安心出来るよ」

「ふふ、まあそういうことにしておこうか。……こちらにも炎と煙が回ってきたようだな、一旦外に出よう。姉者、一旦外に出よう。馬超殿も、それで構わないか?」

「あたしとしては、ご主人様が良いって言うなら……」

 確かに、見れば視界の端に黒い煙がちらほらと見かけるようになり、炎が近いのか徐々に熱くなってきていた。
 何かが燃える焦げ臭い匂いが鼻にまで辿り着き始め、俺は迷うことなく頷いていた。





  **





「……空気が変わってきたな。雨が降るやもしれん」

 そうして燃えさかる城から脱した俺達は、街の一角へと出た。
 すでに呂布達が廻った後なのか、ぐるりと見渡すだけで周囲の建物が破壊されているのが確認出来た。
 これが平時であれば非難が集中するどころか、暴動すら起こっても不思議でもないのだが、最早瓦礫と言ってもおかしくはないそれらの持ち主は、この場には残っていないみたいであった。
 まあ、燃えている城が目の前にあるのに、のんびりしている訳もないのだが。

 そうして、逃げ遅れた人達を探していた牛輔の隊の兵士に、状況の確認と各部隊との連絡を任せた俺の背後で、夏候淵が空を見上げながらぽつりと呟いた。

「雨が降れば火も消えるけど……そんなもの、分かるものなのか?」

「まあ大体は、だがな。弓を射るのに気象や風などは要だからな、自然と身にも付くさ」

「そうだぞッ、秋蘭は凄いんだッ! 雨が降る前に天幕の準備を手配出来るぐらいに、凄いんだからなッ!」

 まるで、自分が偉いとも、妹の手柄は姉である自分のもの――いや、あれは妹がどれだけ凄いのかを自慢する姉馬鹿のようでもあるのだが、えっへん、と言わんばかりに胸を張る夏候惇に、幾分かほんわかとした気分になる。
 何て言うか、こう……馬鹿可愛いとでも言おうか。
 見た目俺と同年代か上の筈なのに、そうやって胸を張る彼女が幼い子供に見えてくるようで、何とも不思議な気持ちとなってくる。
 ちらりと横を見れば、夏候淵も同じ気持ちなのか、先ほどまでの引き締まった表情を幾分か緩ませて、姉である夏候惇へと視線を向けていた。

「……ご主人様ッ、夏候淵の言葉を信じるなら、雨が降る前に一旦他の奴らと合流した方がよくないか? 降ってきてからだったら、連絡も取りにくくなるし、動くのも大変になるだろうし。とりあえず、あたし達が出来ることは終わったみたいだしな」

「あ、ああ、そうだな……。よし、そういうことだから、夏候淵殿、夏候惇殿、俺達は先に戻ることにするよ」

「む、そうか。……我らが主も天の御遣いに興味があるみたいでな、一度、顔を合わせてもらおうとも思ったのだが……そういうことなら仕方がない」

「むむ、良いではないか、北郷とやら。華琳様に会ってからでも、戻るのは遅くはないだろう?」

「いや……二人の言葉は嬉しいけど、俺達も待たせている人達がいるからな。それに、今ここで出会わなくても、出会うべき天命があるとしたら、きっとその時に出会えるさ。それまで楽しみにしておくと伝えておいてくれよ――」

 そうして。
 何か段々と可愛らしくなってきて、頭を撫でたら失礼に当たるのかな、と若干危ない方向へと傾き始めていた俺に、語尾を強めた馬超が進言をした。
 その視線がなんだかじくじくと突き刺すようなものだったので、俺は慌てて背筋を正したのでだが、それでも馬超は許してくれないのか、ますます視線を強めたようであった。
 
 そんな俺達に苦笑しつつ、実に残念そうに主である華琳という人物と出会って欲しかった、という夏候淵に、それでも引き下がれないのか、夏候惇は半ば押しつけるように言った。
 確かに、俺も彼女達が華琳様と呼ぶ――夏候惇と夏候淵の主と言えば一人しか思いつかないのだが、その人物には出会いたいと思う。
 だが、その人物に出会いに赴く、それだけの余裕が今の状況にあるのかと問われれば、あるとも断言出来ない現状なのだから、今回ばかりは縁がなかったとして諦めざるを得ないのである。

 そうか、と本当に残念そうにする夏候惇に申し訳ないという気持ちを抱きつつ、俺はその場を離れ――ようとした時に、その声が聞こえた。



「伝える必要は無いわ。あなたの言葉で言うのなら、今が出会うべき天命、なのでしょうし」



 華が咲く声、とはこの声のことを言うのであろうか。
 そういった感想を抱けるほどの声は、しかして凜としたものを含んでおり――そして、他者を圧倒するかのような覇王とも、英雄とも取れる自身に溢れていた。
 
 初めて出会う、初めて聞く。
 確かに、俺が知りうる中では聞き覚えのない初めて耳にするその声は――何故だか不意に懐かしさを運んできて、俺は反射的に声の聞こえた方向へと顔を向けていた。

 炎によって生じた風に揺れる二房の金髪。
 身に纏う鎧と衣服は、小柄な身躯を包みながらも威圧感を醸し出す漆黒に彩られており、彼女の持つ雰囲気と印象によって、それもさらに引き立てられていた。
 こちらへと向けられた、自信と、威圧と、そして覇王という自覚を兼ね備えたその視線を真っ正面から受けた時――不意に、目の奥が痛んだ気がした。



  *



『もう……俺の役目はこれでお終いだろうから』

 それは、暗い森の中。
 遙か高い夜空には、こちらを包むような淡い光を放つ満月があった。
 彼方から聞こえる喧噪は/賑やかな声は一体何によるものだったか。
 覚えにないその光景は/脳裏に走るその映像は、何だか酷く悲しくて。

『……お終いにしなければ良いじゃない』

 目の前の少女が紡ぐ声も、酷く悲しそうに震えていた。
 その細く、暗闇で腕の中に抱いた柔らかい肩は、彼女一人で支えているものには儚く、弱々しいもので。
 共に支えることが出来ればと、俺は確かに願った気がする。

『それは無理だよ。――の夢が叶ったことで、――の物語は終焉を迎えたんだ……。その物語を見ていた俺も、終焉を迎えなくちゃいけない……』

 身を削り。
 心を削り。
 時間を削り。
 己自身の存在をも削り、俺はその願いを叶えた。
 けどそれは、全ての終わりでもあって。
 
『……逝かないで』

『ごめんよ……、――』

 未練が無い、と言えば嘘になるけど。
 それでも、俺がそう思えるだけ幸せであって、――が、みんなが幸せであってくれるなら未練なんて無いと思えたんだ。

『さよなら……誇り高き王……』

 全てを任せる、なんて言葉は――ならただの逃げだ、なんて言うだろうけど。
 みんながいて、――がいて、そして多くの英雄がいるのだから、きっと大丈夫。
 だからこそ、俺は時代を生きることが出来たんだ。

『さよなら……寂しがり屋の女の子』

 きっと。
 その先の時代に、多くの笑顔があることを信じて。
 ――、君が本当の笑顔で過ごせる日々があると信じて。

『さよなら……』

 そうして。
 ――の夢を叶えるという願いが叶って、願いという枠が空いたこともあって。
 薄れ行く意識と存在の中、最後に言葉を紡ぎながら俺は一体何を願ったのだろうか。
 


『……愛していたよ、華琳――――』



 ただ、朧気で確かなことは言えないけども。
 もう一度、彼女と共に。
 そう、願っていた気がする。
 


 *



「華琳様ッ、どうしてここに?」

「ッ……」

 深く深く、意識の底にまでたどり着いていた俺の思考は、夏候惇の声によって急速に表面へと引っ張り上げられた。
 今の感覚――脳裏に流れ出た映像は何だったのか。
 その場所も、目の前にいたであろう少女も見たことは無いはずなのに、どうして彼女を愛おしいと言ったのか。
 その答えがこの場で見つかる筈もなく、俺は頭を振ってその考えを思考の外へと追い出していた。

 頭を振ったことによって眩暈にも似た倦怠感が身体を包むが、意識を表面へと――前方の人物へと向けてしまえば、それも彼女の持つ雰囲気によって霧散してしまう。
 それだけの存在を――覇王としての存在を、彼女は持っていた。

「どうして、というのはこちらの台詞なのだけど、春蘭? 秋蘭を向かわせたのにいつまで経っても帰ってこないから、何処で迷子になっているのかと思えば……城中の制圧を任せたのに、何で反対側から出てきているのかしら?」

「そ、それはですねッ、……うぅ、秋蘭」

「姉者可愛――いや、華琳様、これには少々訳がございまして……」

「別に説明は不要よ、秋蘭。大体のことは理解しているつもり」

 そう言ってニヤリ、というのが正しい表現である笑顔を夏候惇へ向けた少女を見る限り、どうにもわざと夏候惇を責めたのだということが分かる。
 ふふ、なんて言いながら涙目になっている夏候惇をうっとりとしながら見ている辺り、そういう性格――性癖なのだろう。
 同じようにうっとりとしそうになった顔を引き締めた夏候淵を見る限り、彼女もそういった人種なんだと理解した。
 


 そうして。
 夏候惇を虐められたことで満足したのか、先ほどよりも幾分か生気が満ちているような表情のまま、少女はこちらへと視線を向け直した。

「我が名は曹孟徳。私の部下が世話になったようね」

「いや……こちらも世話になったみたいだからな、お互い様さ。……俺の名前は北郷、北郷一刀。お会い出来て光栄だよ、曹操殿」

「あら……私の名前を知っているのね?」

「黄巾の乱平定に功を上げ、名を上げた西園八校尉の一人、曹孟徳殿、だろ? 情報を集めていれば自然と聞く名前だし、黄巾の乱のことはこっちも関係あるしね。……そっちとしても、俺の名前を聞いて驚かない所を見ると、同じなんだろう?」 

 そう言う俺に対して、少女――曹操は、幾分か驚いた顔を一瞬だけ表面へと出し、すぐにそれを引っ込めた。
 代わりに出てきたのは、先ほど夏候惇へと向けたのは別質のにやりとした笑いであり、その瞳は獲物を探るかのように細められていた。

 ぴりぴりとした空気が――辺りの空気を圧縮したかのように息苦しくなっていく感じが、目の前のそれほど大きくない少女から発せられているかと思うと、背筋が冷たくなる。
 今俺の目の前にいるのはあの曹孟徳なのだと、いやでも実感出来た。
 


「……ふふ、まあいいわ。今日は顔合わせだけということにしておきましょうか、そちらも急ぎの用件があるみたいだしね。……春蘭、秋蘭、急ぎ戻り兵を纏め、洛陽から出るわよ」

「はッ!」

「はっ! ……では北郷、それに馬超、また機会があれば、な」
 
 そして。
 一通り俺を見て満足したのか――俺なんかを見て満足というのもおかしなものだが、不意に笑みを含めた曹操は、こちらの言葉を待つ間もなく身を翻した。
 短く答えた夏候惇はその背を追って歩き出し、夏候淵もその横へと並び――曹操の後ろへと控えるように歩いていった。

「……なんだか、凄い奴だったな。覇気、っていうのかよく分かんないけど、そういったもんが滲み出ているようだったよ」

「ああ……あれが、曹操、か……」

 曹操の雰囲気に当てられてか、半ば呆然とした馬超の呟きに、俺も呆然としながら答える。
 ただその内実は決して同じものではなく、俺としては自分の知識からのものであったが。

 曹操、字は孟徳。
 後に曹魏の礎、その主ともなる人物ではあるが、この時代では彼――いや、この世界では彼女であるが、未だ大きな勢力を築くには至っていないらしい。
 それは、洛陽の騒乱が落ち着きつつある現状にも関わらず洛陽を脱する、ということをする辺りから窺い知れた。
 
 洛陽は、きっと混乱と戦乱と動乱の中心地となる。

 それは、俺が知る歴史の上から見ても当然の帰結であり、きっと董卓がその中心となるのだろうけど。
 それを知らない曹操からすれば、そのような未来が待ち構えている洛陽という中で、信頼も出来ない他軍の将と馴れ合うことも判断しただけなんだろう。
 だが、それを即座にはじき出した彼女の思考と、すぐに実行へと移す力。 
 それらと共に、確かな戦略眼、そして権謀を知り得ているということに、俺は彼女へ対して畏怖を抱かずにはいられなかった。


 きっと。
 曹孟徳は、俺の――董卓軍の前へと立ちはだかるであろう、その確信と共に。

 



  **





 そうして。
 曹操達と別れた俺と馬超は、洛陽の民の避難誘導をしていた牛輔達と合流し、そのまま民を率いて洛陽郊外へと陣を張っていた董卓軍本隊と合流した。
 既に情報を聞きつけていたのか、そこには多くの民達がおり、それらの多くがその状況に絶望していた。
 
 洛陽が。
 漢王朝の皇帝が住まう城が燃えている。
 
 火事によって何かを失った、等という話ではない。
 その火事から民を救い、洛陽を救い、そして洛陽を復興させるであろうのが、漢王朝ではないことが問題なのだ。
 今回の火事によって、漢王朝に最早力など無いことは証明された。
 大将軍たる何進、朝廷を取り仕切る宦官の兵、どちらをとっても火に追われ煙に巻かれる民の心配などせず、己達が欲を果たすために動いていたのは洛陽の民ならば誰でも目にしていると言ってもいい。
 
 そういった民達を救い、守ったのは漢王朝では無く、その臣下とも言える諸侯達なのだ。
 中央の力が弱まり、地方において諸侯の力が強まる。
 今回の事態は、それを明確にするには十分なものであった。

 故に。
 何進も宦官もその勢力を弱めた今、地方における諸侯達の狙いはただ一つとなる。
 すなわち――その権力を引き継ぐ、ただそれのみである。


 
 そして。
 それにもっとも近い人物は一体誰になるのか、と言うと――



 ――霊帝の次代の皇帝候補でもあった劉協を保護した董仲頴、その人であった。 










[18488] 三十四話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/12/03 13:07





「……これは、不味いことになるぞ」

 ざあざあ、と降りしきる雨に打たれながら、牛輔はたまらず空を仰いだ。
 開けた――それまで屋根があったであろうその隙間から覗く空は、まるで彼の心を表しているかのようでもあった。
 それまで晴天だった空は、つい先まで燃えさかっていた炎の煙を吸い込んだかの如く黒く濁っていた。

 ふと、雨粒が眼に入ったことから、牛輔は視線を下――真っ黒に焦げている床だった場所へと戻した。
 天井があった場所を支えていたのであろう太い柱の黒こげになったものや、本棚であったと思われる黒こげの板などが視界に入る中、牛輔はどうしてもソレへと視線がいった。

 部屋の中央に二つ、そして入口付近に一つ倒れているソレは、周囲の状況と比例して真っ黒に焦げて――いや、真っ黒に焦げた燃え滓だけが残っていた。
 一つは、その長い全体を何かを抱えるようにして丸まったもの。
 一つは、何かを求めるように五つの先端までも伸ばされた一本の棒を持つもの。
 一つは、長い全体から二本の棒を投げ出したもの。

 ソレら――三体の黒こげの遺体を目の当たりにして、牛輔は知らず身体を強張らせていた。

「……姿も見えず、連絡をも取れぬと思っていれば、まさか……まさかッ、こんなところで息絶えられているとは……ッ」

 そう呟きながら、牛輔は若干の期待を――この三体の遺体が、自らの想像した者達とは違うものだという期待を込めて、今一度それらに視線をやった。

 最早、目鼻が何処なのかさえ分からぬ程に燃えてしまっていた一体の遺体の頭部には、炎熱によってその姿形こそ若干の差異はあれど、見覚えのある冠が灰によってくすんでいた。
 安定の元太守――くそ太守とも言い換えられる人物を迎えに洛陽に赴いた際に、一度だけその御身を拝見出来たことがある牛輔にとって、それは実に記憶に残っていた。
 遺体の各所に残る装飾品の数々も、その遺体が牛輔が危惧していた人物――霊帝だということを知らしめていた。

 そうして視線を移せば、これまた実に見覚えのある剣が目に入る。
 あの剣は、自分が送ったものだ――事実を言えば、くそ太守に命じられて鍛冶に打たせた宝石を散りばめた剣を送ったに過ぎぬのだが、その送ったときの顔は今でも覚えている。
 そういったものを貰い慣れている彼の人物でも驚くほどに装飾されたそれは、その人物の気を引くことになり、その剣を即座に腰へと座らせたのは、牛輔の目の前であったのだ。
 だが、その装飾も最早灰にまみれ、その輝きを失っていた。
 張譲――まるで自らのものだという風にその剣に伸ばされた腕を見るに、この遺体がそうであるのだろう。

 そして、牛輔は最後の遺体へと視線を移す。
 その遺体は、霊帝のように冠がある訳でも、張譲のように見覚えのある剣がある訳でも無かったが、一つだけ――その指に嵌められていた指輪が、生前のその人物を表すものであった。
 成り上がり。
 妹が霊帝の寵愛を受け、そしてその権力を利用して諸侯豪族の頂点となったその人物は、その名に恥じぬぐらいに自らを飾っていた。
 それが己を誇示するためか、或いはただ自らの欲を叶えたためなのかは今となっては知れないが、それでも、彼女は己の飾っていた。
 当然、それは牛輔もしるとこであり、その指輪を彼女が嵌めていたのを見たこともあった。
 何進――どうして大将軍がここにいるのか、と思っても既にどうにもならない現実に、牛輔は再び空を仰いだ。



 漢王朝皇帝である霊帝。
 漢王朝を実質取り仕切る宦官の中でも一の実力者である張譲。
 漢王朝の軍部を纏め、地方の諸侯豪族の頂点でもあった何進。

 それらの遺体が何故このような城の一角――それも、人が来ないような角にあったのかは、最早どうなっても知る由もない。
 だが、一つだけ言えることがある、とばかりに、牛輔は雨に顔を打たれながらぽつりと呟いた。



「……これは、不味いことになる」





  **





「此度のこと、漢王朝霊帝の子女として、また洛陽に住まう者として、真にありがとうございました。貴殿らの働きが無ければ、この城のみならず洛陽の街全てが灰燼へと帰していたでしょう」

「あ、頭を上げてください、劉協様ッ!? わ、私達は困っている人達を助けるという当然のことをしたまでで、そこまで特別なことは――」

「私も、助けられた当然のこととして感謝しているに過ぎません、董卓様。なにとぞ、この感謝を受け入れていただけるよう、お願いいたします」

「へ、へぅ…………は、はい」

「ほぅ……良かったぁ」

 ざあざあ、と。
 夏候淵の言葉の通りに降り出した雨は、恵みの雨とも言えた。
 それ以上燃える範囲が広がらないようにと破壊消火を試みてはみたものの、城を壊すわけにもいかず、壊すにしても範囲が広すぎた。
 そんなこともあって、街がそれ以上燃えないようには出来たが、城の全焼は免れないかもしれないと思っていた時に降り出した雨は、どうにもならない消火活動を手助けするかのように炎を小さくしていった。
 そうなってしまえば――さらには雨が降ったことによって少ないながらも水の確保も出来たとあってか、城の中で燻っていた炎をその全てが消されることになり、ここに至ってようやく洛陽を包まんとしていた炎は消火出来たのであった。

 ただ、消えたからそれで終わり、という訳にもいかない。
 董卓軍軍師である賈駆は、牛輔に城の中での被害状況の確認と霊帝などの再捜索を、李粛に街の被害状況と仮設天幕を立てるための場所の確保を命じた。
 彼ら二人には散々動いて貰っていたのに休めないではないか、という声も上がったのだが――主に俺から――現状こんな事態になると思っていなかったこともあって将が足りず、また董卓軍に参入して日の浅い彼らに信頼度の高い仕事を任せては、不満に思う将兵がいるかもしれないと言われてしまえば、俺としては強く反対と言える訳はなかった。
 なおかつ、牛輔と李粛本人にそれでいい、と言われればどうにも言えなかった。

 こうして、彼らの状況の確認を任せた俺達は、李需の案内によって通らされた一室にて劉協から頭を下げられたのである。



 しかし、なんとも花のように笑う少女であろうか。
 董卓もまた花のように可憐で、という言葉が似合う美を付けても間違いではない少女であるのだが、そんな彼女を前にしても些か衰えることのないその可憐さは如何なるものなのか。
 その豊かな金色の髪に映えるかのように微笑んだ少女は、しかしてすぐさまにその笑みを引き締めた。

「趙雲様、程立様、郭嘉様の三人も、その武と智によって救って頂き、誠にありがとうございました。いかような恩賞をも与えます故、何かご希望のものがあれば――」

「――いや、せっかくですがご遠慮しておこう。我々もそこな董卓殿と同じく困っている者を助けただけのこと。感謝こそ受け入れど、恩賞などとても受け入れませんな」

「星ちゃんの言うとおりですかねー。ちょっともったいない気もしますが、ここは遠慮しておきます」

「……それに、我々に恩賞を与えるような余裕があるのなら、街の復興と城の再建へそれを向けるべきでしょう。民は家々を失い、商人は命にも等しき品物や財産を失い、そして洛陽は明日を失う……、それだけは避けねばならないでしょう」

 初め趙雲と程立の言葉に、董卓にしたように言葉を発そうとした劉協ではあったが、それも郭嘉の言葉にしゅんと項垂れてしまう。
 その言葉が過ちであれば劉協も抵抗したであろうが、郭嘉の言葉は当然のことであり、これからの劉協にとっての課題でもあるのだ。
 それを知っているからこそ彼女も項垂れるのであろうし、だからといって感謝の念だけでは不足と思ったのだろう。
 何か恩賞の代わりになるようなものは無かったか、とわたわたと慌て考える劉協から視線を移せば、何故か趙雲と視線がぶつかった。
 さらに別の視線を感じてしまえば、程立と郭嘉までもがこちらへと――俺へと視線を飛ばしていた。

 そして。
 そのことを確認した趙雲は、にやりと口端を歪めたかと思うと、そのままに言葉を発した。



「――では、代わりと言ってはなんですが、一つだけご提案がございます」





  **





「……はぁ」

 そうして俺は、つい二日前ほどのことを思い出して溜息を漏らした。
 ふと顔を上げればあの大火の時から降り続いていた雨はようやく止んだようで、空の端々に濁った雲の切れ端を見つけてはみるが久方ぶりに見た気もする陽光が実に眩しかった。
 これが何事にも巻き込まれていない状況であれば大変喜ばしいものではあるのだが、俺を取り巻く現状で言えば諸手を挙げて喜べる状態でも無いので実に難しいものである。
 とは言っても、洛陽を灰燼へと帰そうとしていた炎は雨によって消火され、それも晴れたことによってようやく復興作業が本格化するのは目出度いことであるのだが。

 結局の所、董卓軍は洛陽での混乱を収めた後に、そのまま洛陽へ駐屯することとなった。
 これは劉協たっての願いであり、何進と宦官の勢力の大半が何進の副官でもあった袁紹と西園八校尉の曹操に掃討されてしまったとあっては、頼れる勢力が助けてもらった董卓軍ぐらいしかないのである。
 無論、そんな風に願い出た劉協――洛陽の民からも街を救った英雄として駐屯を請われてしまえば、董卓としては首を横に振るわけもいかなかった。
 結果として、状況は俺が危惧していたほうへと流れてしまったと言えよう。

「……はぁ」

 だが、それでも見方を変えてみれば、この時期に洛陽を事実上制圧下に置くことがメリットになることもある。
 この時代、いかに名家である袁紹や後に魏の礎となる曹操でさえ確固たる勢力を築くには未だ遠いものであった。
 俺が集められた情報からでも、曹操は陳留の張莫の協力を得て兵を維持しているようなものだし、袁紹にしても各地の豪族を束ねるといった首魁的な存在であったのだ。
 そういった確固たる基盤を持たない各諸侯豪族を差し置いて、人と富と情報とが集まる漢王朝の都たる洛陽を得たのは、これから待ち受ける未来において、一筋の光明であったのかもしれない。

「……はぁ」

 だが、それでも俺の心は晴れなかった――もっと言えば、何でこんな面倒なことに、という思いで一杯だった。
 それはと言うもの、ある三人が理由でもあるのだが。

「……先ほどからそんなに溜息をつかれてどうなされた、北郷殿? 何か気にかかることでもあるのかな?」

「気になることがあるにしても、風達を前にして溜息三連発では、何やら風達がその原因みたいですよねー。そんなこと、あるはずもないんですけども」

「まあ、風の言うことはあれですけど、それでも目の前で溜息をつかれては気になりますね。我々でよければですが、話していただければ少しは心も軽くなるやも知れませんよ?」

「……あなた方がそれを言いますか」

 その三人――趙雲、程立、郭嘉は口端をにやりとしながらそう言い切った。
 言い切ってくれやがったのである。



「おやおや、北郷殿は我々に他意があるとおっしゃるのか? この戦乱の世、我らが智勇を振るうにふさわしい主を得るために旅をする我らが、路銀を稼ぎたいがために貴殿の客将となるのがそんなに疑わしいと?」

「そこまでは言っていませんが、それでも路銀を稼ぐだけならば、わざわざ俺の客将とならんでもよろしいでしょうに……。そもそも、路銀が欲しいだけならば、あの時劉協様からの恩賞を断ることなく受けていれば問題無かったでしょうに」

「そうは言ってもですねー、あそこで劉協ちゃんから恩賞を受け取っていれば、後々何か面倒が起きた時が面倒ですしねー。それを恩として無理難題を言われて困りますしねー」

「……まあ、主とした勢力が漢王朝の権力を背景にしていたとしたら、そういった面倒が起こる可能性もあるかもしれませんが、それでもそこまで気にするものではないと思いますけどね」

「まあ本音を言わせてもらえば、貴殿――天の御遣い殿のことを知りたかった、というのが大きいのですがね」

「あー、まあ……好きにしてください」

 どうにもこの三人には口で勝てるような気がしない、と思った俺は、再び溜息をついた。



 結局の所、趙雲が劉協に押した提案といえば、恩賞をもらう代わりとして董卓軍へ客将として雇いあげるようにと口添えすることであったのだ。
 劉協側からすればただでさえ必要な国庫を開くことなく、董卓軍からすれば少しでも人手が必要であり、趙雲達からすれば路銀を稼ぐことが出来る――これは建前で、本音で言えば天の御遣いである俺を知るためであると、後に郭嘉に聞いて知ったのだが。

 そんなこともあって、董卓と賈駆が洛陽の実力者や朝廷の有力者との会談を続けている現状、趙雲達は暫定的にではあるが俺の配下ということになったのである。
 これは様々な要素も絡んでくるのだが、大きなものとしては彼女達の目的が天の御遣いである俺ということもあって、なら近くにいさせれば面倒なことを気にしなくていい、という賈駆の判断なのだが――俺としては実に面倒くさいことこの上なかった。

 彼女達が一応俺預かりの客将になったことで、馬超は俺の副官から董卓軍の客将ということになったのだ。
 それだけならばそれほど困ることは無いのだが、何事にも真面目に動いてくれた馬超と違って、この三人――郭嘉以外の趙雲と程立は実に扱いにくい。
 それぞれ仕事は早いのだが、それに取り掛かるまでに時間がかかったり、かといってそれが全てではなく時たまさっさと仕事を片付けたりするものだから、こちらとしてもその対応が実に難しいのであった。
 
 まあそれでもこちらが忙しいということは理解しているようで、仕事が滞らないようにしてくれているのだから、多くは言うまい。
 郭嘉を秘書、趙雲と程立がそれぞれ武官と文官を繋ぐ連絡係り兼実働部隊という役割でようやっと回り始めた頃、洛陽の街はようやく落ち着きを取り戻し始めたのであった。




  **






「……はぁ」

 とは言っても、それだけで仕事が楽になるなど到底有り得ない訳で。
 知らず知らずのうちに溜息が零れていた。

「……お疲れのところ悪いのだけれど、溜息で見送られるこちらの身にもなってくれるかしら?」

「そうだぞッ北郷ッ、華琳様の顔を見ながら溜息などと、失礼なことをするではないぞッ! まあ、溜息が出るほど可憐なのは認めるがなッ!」

「あ、ああ、これはすみません、曹操殿、夏候惇殿。まいったな、そんなつもりじゃないんですけど……」

 そうして何度目かは分からない溜息をつくと、それを見咎めたかのように――若干苛立ちが混じったような声で、隣で馬に跨る曹操が声を上げた。
 じと、と目を細める彼女の向こうで夏候惇が声を荒げると、俺は慌てて頭を下げた。

「……まあ、忙しいのは分かるから、今回だけは目を瞑りましょう。ただ……次は無いわよ?」

 覇王としての威圧を醸し出しながら凄む曹操に、俺はコクコクと頷くほか無かったのである。

 董卓軍が洛陽に駐屯することに決まった後、洛陽の街と民を守ったとして郊外に陣地を構築して野営していた曹操にも、劉協から同じ要望があったと曹操は言っていた。
 だが、彼女自身、董卓と違い確固たる根拠地を持たない――あえて言えば陳留がそうとも言えるが、実質的にそこを収めるのは曹操の親友でもある張莫であるためか、長期的に軍を維持することは大きな負担となるのだ。
 そういったこともあって、曹操は家々を失った洛陽の民に炊き出しを行い、陣地を構築するために用いていた資材などは街の復興のために惜しげもなく放出したのである。
 
 それら一連の行動は、洛陽という街において曹操の名を大いに上げることとなり、初め一千ほどであった彼女の軍勢も、いざ陳留へ帰還するというころになれば曹操を慕い付き従おうとする民で膨れるほどであった。
 その多くは家々を失った難民であったが、そういった人々を受け入れたという噂は、洛陽という街の特色上、瞬く間に各地へと広がることだろう。
 そして、その噂を聞いた難民たる民達が救いを求めて曹操の下へ――そういった好循環が生み出されるこということを、曹操は狙っていたのだろうか。
 不敵に。
 覇王のように笑う彼女からは、それを掴むことは出来なかった。

「それにしても、天の人々というのは皆お前のように勤勉なのか? 幾度か朝廷の文官と話すことがあったが、お前が一番仕事をしていると心配していたぞ」

「えー、まあ夏候淵殿の言うとおりですかね。俺が特別というわけではないですが、それでも勤勉だったと思いますよ」

「ん? いまいち曖昧な物言いだな、知らないわけではなかろうに」

「ああ……俺は父と母を幼い頃に亡くしていますので、そういった働く人というのを身近では見たことがないのですよ」

 爺ちゃんは勤勉という感じでは無かったしなぁ。
 むしろ働いているのを見たこともない――いや、俺がここに来る原因ともなった倉庫にある骨董品やらを売ったり、また別の骨董品を買ったりして生計を立てていたらしいのだが、そういったことをしているのを見たことがないので、何とも言えないのであった。
 
 そんな俺の言葉に負い目を感じたのか、言葉に詰まる夏候惇と夏候淵に苦笑を返す。
 この時代では決して珍しいことでもないのだろうが、自分達がそういったことに踏む込むのは躊躇われたのか、バツの悪そうな顔をしていた。
 

 ただ一人、曹孟徳を除いては。


「そう……ならば、私に仕える気は無いか、本郷一刀よ? 天の御遣いという名が広まった時期を考えれば、董卓の下にいるのは父祖代々の臣であるという訳でもないのでしょう? ともすれば、董卓にそこまで忠を立てる必要もない。さらには、あなたの能力があれば私達が今より飛躍することは間違いないでしょう。……私は、優秀な人材が好きなのよ」

 そう言って、こちらへと堂々と手を伸ばす曹操にしばし呆然とする――見惚れてしまう。
 それがさも当然であるかのように突き出された手を見つめ――俺は首を振った。

「……曹操殿に優秀と認められることは大変嬉しいのですが、お誘いは受けることは出来ません」

「何故、と聞いても?」

「初めこの地で途方に暮れていた俺を拾ってくれたのが、月――董卓だからです」

「……」

「……」

「……それだけ?」

「はい、それだけです。夏候惇殿と夏候淵殿が曹操殿に仕えられるのも、曹操殿が曹操殿だから、でしょう? 人とは意外と単純なものなのですよ、曹操殿」

 俺の言葉に、うむそうだな、と頷く夏候惇に視線を移さぬままに、俺は曹操の視線を真っ向から受け止めた。
 視線に含まれる意図が、俺の言葉がどこまで本気で事実なのかを探っているようであったためだ。
 しばしの間見詰め合った後、曹操はふっと口端を緩めた。

「そう……ならば仕方ないでしょう。でも覚えておきなさい。私は諦めが悪いわよ?」

「委細承知、心得ておきましょう」

「ふふ」

 華の咲くような笑い声とは裏腹に、獲物を狙い済ませた獣のように細められた瞳から視線を外さずに、俺も笑うかのように口端を歪める。
 とはいっても、曹操という覇王の気に押されて実際に笑えているかどうかなどは自分では分からず、心中なんとも情けない気持ちではあるのだが。
 そんな俺の心中を知ってか知らずか――なんとなくばれているような気もするが、笑みを収めた曹操はくるりと馬首を翻した。

 それにつられて視線を移せば、いつの間にか俺達は城門まで来ていたらしい。
 帰還の挨拶に城まで来た彼女達を送っていたのだから、結構な距離を歩いていたみたいだった。
 
「では、北郷……また会いましょう。願わくば、その時こそ私の下に膝をついてくれればいいのだけど」

「それは確約出来ませんけどね。願わくば、次にお会いするのが戦場では無いことを祈っておきます」

「ふふ……その時に振るわれるであろう天の采配、楽しみにしているわ」

 俺の受け答えが気に入ったのか、実に上機嫌に曹操は諦めの悪い言葉を吐いた。
 諦めの悪い――というか、獲物を狙う笑みのまま笑った曹操は、すぐさまにその笑みを収めて凜とした表情とした。

「春蘭、秋蘭、帰還するわ」

「はっ! 北郷、次に会うときを楽しみにしているぞッ!」

「はっ……ではな、北郷。次に会うときは共に戦えることを楽しみにしている」

 そうして馬を歩かせ始めた曹操の脇を、夏候惇と夏候淵の姉妹が固めて馬を駆る。
 二人ともに会うことを楽しみと言われた俺は、そこにどんな意図があるにせよ嬉しいと感じることとなり、それを隠さぬままに微笑んだ。

「はい、お二人とも、次にお会いできるのを楽しみにしておきましょう。帰路の安全を」

 そして俺の言葉を受けて頷いた二人は、先に進んでいた曹操に追いつくために馬を駆けさせていった。





「ふぅ……何というか、凄い人達だったな」

 そうして曹操一行を見送った俺は、馬を厩舎へと預けて遅めの昼食を取るために街を歩いていた。
 覇王たる曹操と、その片腕――二人いるのなら両腕ともなる夏候惇と夏候淵という人物達は、俺が知る歴史において名を馳せた人物達と同じ存在なのだということがいやでも理解出来た。
 董卓と賈駆も君主たる風格を備えているが、彼女達はそういったものを脱しているようにも見えたのである。
 董卓達が劣っているとは言わないが、やはりあれが後の世にも名を残す人物たる由縁か、と思わずにはいられなかった。



 そんな空腹には些か堪える思考をしつつ、俺は何を食べようかなどとも考えていた。 

 いつまで洛陽にいることになるのかは未だ分からないが、いざ何かしらがあった時に対応できるようにと時間があれば――殆ど皆無に等しいのだが、街を歩くようにしていることもあって、何件か食事を取れる店には目星を付けている。
 昨日は肉まんを食べたし、一昨日は青椒牛肉絲を食べたし。
 そんなことを考えながら歩いていると、ふと視界の端で上手そうにラーメンを食べている人達を見た。
 スープを喉を鳴らしながら飲む男性、麺があるままに一気に啜る男性、肉厚チャーシューにかぶりつく子供達。
 その光景に自然とつばを飲み込んでいた俺は、記憶の中にあるラーメンを出してくれる行きつけの店への道筋を、脳裏に思い描いて道を歩いていた――



「控えなさいッ!」



 ――そんな俺の耳に、怒声が入り込んだ。







[18488] 三十五話
Name: クルセイド◆ba5a1630 ID:bc2f3587
Date: 2010/12/08 15:44


「むー」

「……」

 洛陽の街中。
 先の大火において荒廃していた街中の一部は、洛陽に駐屯することになった董卓や西園八校尉である曹操からの物資によって徐々にではあるが、元の形となるべく復興が始まっていた。
 あれだけの大火に襲われながらも既に復興、そしてその先を見据えて生きている洛陽の民達へ視線をやりながら、その女性は――その女性達は歩いていた。

 豊かに流れる黒髪は先端だけを軽く纏められ、その艶かしい輝きを含めてみれば、ともすれば漆黒の宝玉とも取れる見栄えであった。
 その髪が流れるは浅黒く日に焼けた肌であり、肌の大部分を露出する服に身を包まれていながらも下品な所は一つも無く、その肌と髪は一つの至宝のようでもあった。
 瞳を覆う眼鏡が、日光を反射してきらりと光る。

「むー」

「……」

 そんな女性の隣を歩く女性も、また同じように黒く日に焼けた肌をしていた。
 違う点といえば、その肌を流れるのが漆黒の髪ではなく桃色の髪といったところか。
 先の女性のように纏めることはせず流せるに任せた桃色の髪は、その豊満な肉体の曲線を惜しみなく現している服の上を流れていた。

 桃色の髪の女性は、睨むかのように黒髪の女性を見ていた。

「むー」

「……はぁ。いい加減、納得してくれると助かるのだけれど、雪蓮? 今この時に騒ぎを起こす訳にはいかないのよ――」

「――んっもう、冥淋ったらそればっかりじゃない! あーあ、私も暴れたかったなぁ」

「……暴れて袁紹に目をつけられたらどうするの? 今の私達の勢力ではそれに太刀打ち出来る筈もないし、袁術までもがそれに付け入ってしまえば、孫呉の復興など夢のまた夢よ」

「むー……それは分かってるんだけどさぁ」

 そうむくれるように呟いて、雪蓮と呼ばれた桃色の髪の女性――孫策は視線を街へと移した。
 彼女が視線を向けた先では、木材を肩に担ぐ男達が一山に詰まれた木材の上に次から次へと木材を置いていた。
 その後に汗を拭った彼らは、笑い合いながら昼食に何を食べようかなどと話をして雑踏へと姿を消していく。

 さらに視線を移せば、昼の掻き入れ時ということもあってか、飯店の恰幅のいい女性が声を上げて客を呼び込んでいた。
 その横で照れながらも声を上げている少女は娘だろうか、彼女目当てで通っていそうな少年達が店へと入っていった。

 そうやって視線を移せばそこら中に活気が――笑顔が見られた。
 その光景を少し見つめた孫策はくるりと体ごと黒髪の女性へと向けると、不満を隠すことなく表した。

「だってさぁ、いくら袁術ちゃんからの命令とはいえ、洛陽で朝廷や民を助けるのは後々の私達にとって有益なことなのに、冥淋ったら軍を洛陽目前で止めるんだもん。しかもその理由が面倒事に巻き込まれないようにするためだなんて、そりゃ不満も溜まるわよ。祭だってそうみたいだったし」

「あの方はいつもああではなかったか?」

「あー……まあ、それは否定しないけど」

 そう言って孫策は、洛陽から少しばかり離れた地にて構築された陣地に置き去りにしてきた祭という女性――黄蓋のことを思い出した。
 確かに彼女も自分と同じく軍を止めた冥淋に文句を言っていた筈だ、と孫策は苦笑した。

「……それに、雪蓮や祭殿の不満も分かるが、今回洛陽に来た最大の理由は橋公に会うことなのを忘れないで頂戴。彼は――」

「――洛陽においての母様、ひいては孫呉にとって最大の協力者、でしょ? それぐらいは私だって分かるわよ」

「ならその不満を橋公には見せないで頂戴ね。あちらに敵愾心を持たれてしまっては私達の――陽蓮様の願いが遠のいてしまうのだから」

「むー……仕方ない、か。今回は冥淋の言うとおりにしてあげるわ」

「これからもずっと私の言うことを少しでも聞いてくれればとても助かるんだけど――」

「何かあっちの方が騒がしくない、冥淋? ちょっと見てくるわ」

「――って、人の話を聞きなさい、雪蓮ッ! ……ッ、ああもうッ!?」

 そうして彼女達の歩む先の方、人の頭によって構成された黒いざわめきに孫策が気づいた。
 ざわざわと聞こえる声の中に、少女やら老人やら兵やらの言葉が聞こえた孫策は、ふと思いつくものがあって――彼女の堪に引っかかるものがあって、背後からの声を無視してそちらのほうへと足を速めた。

 そんな孫策の背中を見送った黒髪の女性――周喩は、明らかに面倒事っぽいそのざわめきを数瞬呆然としながら見た後、先に飛び込んだ孫策の後を追って自らもその面倒事へと身を投げた――





 ――そして、今の現状による頭痛に眉を顰めた。

「控えなさいッ! 帝都洛陽での狼藉、この孫伯符が許さないわッ! そも、民を守るべき兵がその矛先を無力な老人と女子供に向けるとは何事かッ、恥を知りなさいッ!」

 痛む頭を抑えて横になりたい気分だが、周喩はその魅力的な考えを即座に頭を振って捨て、前へと視線を向けた。
 視線の先には孫策の背が、その向こう――孫策の前左右を囲むようにいる三人の兵は、その装備からどこの軍かを知ることは出来なかったが、袖口に巻かれた布に『董』の一文字が書かれているのを見るに洛陽に駐屯する董卓軍のものか。
 洛陽という大拠点ともいえる地を制した驕りか、にやにやと笑う兵達の視線はいやに下卑ており、その視線が自分や孫策に注がれているのが理解出来た。
 そして、自分達を通り越して、その背中にまでも。

「はっはっは、孫だか伯符だか知らんが、我々は何も矛先を向けたわけではないぞ。そこな老人が我々を酒へと誘い、その肴――おっと、我々を持て成すためにと自らの孫娘共に酌をさせようとしたに過ぎん。お主の言葉こそが間違いだと何故気づかん?」

 そう言いながらその笑みを深める正面の兵に、周喩は嫌悪感を――生理的な拒否感を抱いた。
 ちらりと背中を――そこに匿う一人の老人と二人の少女へと視線を移せば、老人こそ好々爺という印象を抱ける人物であるが、その孫娘という二人の少女は酷く幼かった。
 白を基調とした服を纏う少女達は、双子であるのか髪の一本からその目立ち鼻、体型に至るまでの全てがそっくりであった。
 幼いながらの美を備えたその風貌は、将来成長した姿を楽しみにさせた。
 そして、そういった趣味を持つ人物からしてみれば酷く甘い果実に見えるのだろう。
 後ろの少女達へ視線を向ける兵達は、これから待ち受けているであろう狂宴を待ち望むかのように一層笑みを深めた。

「ちょっとあんたッ、御爺ちゃんはそんなこと言ってないもんッ! それに、あんた達の相手なんかこっちから願い下さげなんだからッ、勝手に自分達で勃ててなさいよッ!」

「しょ、小橋、それに大橋や、わしのことはいいから、早くここから離れなさい……孫策殿と周喩殿も早く。あなた方にもしものことがあれば、わしはあの世で文台様に顔向け出来ぬ……ッ!」

「残念ですが橋公よ、あなたのそのお言葉は、例えあなたが陽蓮様――文台様の古くからのお知り合いとはいえ聞くことは出来ませんな。そもそも、そこの馬鹿娘のせいで我々も無関係では無くなりましたですし」

「ちょっとー、冥淋は私ばかりが悪いって言うの? 明らかに悪いのはこいつらじゃない」

「それはそうだけど、事をここまで大きくしたのはあなたのせいでしょう、雪蓮? 一発もぶん殴らずに事を収めてくれれば、こんな面倒なことにならずにすんだのに……」

 ぶーぶー、と文句をたれる孫策から視線をずらせば、正面に陣取る兵の頬には赤く腫れた痕が見える。
 嫌がる少女達――小橋と大橋と呼ばれた少女達の腕を取り、あまつさえ彼女達の祖父であり自分達孫呉の協力者でもある橋公を蹴飛ばしたのを、ちょうど駆けつけた孫策が殴ったのだ。
 吹っ飛んでいく兵と、明らかに殴ったであろう体勢で止まる孫策に、周喩は頭痛を抑えることが出来なかった――それと共に、少しだけ安堵した。
 これが戦場で昂ぶっていた孫策でなくてよかった、と。
 昂ぶっていた彼女であったならば、その殴った威力で兵の首がもげていた可能性もあったのかもしれない。
 もしそうなってしまえば、他国の――しかも、洛陽を実質勢力下においた董卓軍の兵を殺したということでどんな圧力がかかるか、とても判断出来るものではなかったのだ。
 少しだけ、殴られた兵には悪いが安堵した。

「あ、あの……ここは私が引き受けますので、周喩様達は小橋ちゃんと御爺ちゃんを連れてここから離れてください。元はといえば、私があの人達にぶつかったのが悪いんですから……」

「あー、大橋ちゃんだっけ? ごめん、それ無理っぽいわ」

 そんな孫策の言葉と共にそちらへと視線を向ければ、先ほどまでこちらを眺めていただけだった三人の兵達がじりじりと距離を詰め始めていた。
 その動きに孫策も腰の剣――南海覇王に手を伸ばすが、敵地ともいえる洛陽の街ということを理解しているのか、それを抜くという行為を戸惑っているようであった。
 それが自分達を恐れていると勘違いしたのか、兵達は一層笑みを深くしてこちらへと近づいてきていた。

 そして、その腕がこちらへ向けて伸ばされ――



「はい、そこまで」



 ――孫策に触れる直前、鞘に納まれた剣によって防がれることとなった。





  **





「あっ、おっちゃん! 一体何の騒ぎだい?」

 曹操達を見送った後、昼食を取ろうとしていた時に聞こえた怒声が気になった俺は、その声の出所を探していると顔見知りに出くわした。
 目星を付けていた店――先日食べた重厚な肉まんを出している店の店主であるのだが、俺はその後姿へと声をかけてその横へと並んだ。

「あ、ああ、北郷様じゃないですか!? 北郷様、どうにかなりませんかねぇ、あの娘達を助けてあげて下さいよ」

「一体何の騒ぎ――」

「はっはっは、孫だか伯符だか知らんが、我々は何も矛先を向けたわけではないぞ。そこな老人が我々を酒へと誘い、その肴――おっと、我々を持て成すために自らの孫娘共に酌をさせようとしたに過ぎん。お主の言葉こそが間違いだと何故気づかん?」

 そこまで言いかけた俺の言葉を遮って、おっちゃんの言葉と共に向けていた視線の先で兵の格好をした一人が声を上げる。
 その言葉を聴いてようやく全体を見てみれば、どうやら三人の兵士達が二人の女性と二人の少女――その容姿から双子の少女と老人を囲んでいる、ということであった。
 それだけを見るのならば、不穏分子の可能性がある女性達を兵士達が追い詰めた、と見ることも出来るのだが……兵士の言葉を聞く限りどうにもその通りではないらしい。

 腕に『董』の文字が入った布を巻きつけているあたり、俺達が洛陽に入った後に董卓軍に参入した――吸収した宦官か何進の勢力の残党であるらしい。
 その多くを吸収することによって爆発的に増えた兵士の全てに鎧が配給出来ないこともあって、俺が黄巾から思いついた案であったのだが、今回はそれが仇になる形か。
 あれだけこれ見よがしに見せてしまえば、こちらは無関係であると言うことも出来なかった。

「――あー、了解、何となく事態は把握出来たかも」

「だったら北郷様、あの娘達を助けてやってあげて下さいよ。あの娘達、あのままだとどうなっちまうことか……」

 そう言って呟くおっちゃんから視線を外してみれば、周囲の人々もみな同じように悔しそうな顔をしていた。
 力がない、だから彼女達を助けられない。
 それが悔しくて、そして董卓軍への感情が悪化する、と。
 そこまで想像出来た俺は、おっちゃんに気づかれないように密かに溜息をついた。
 本当に、こういう輩はどこにでも湧いて出るものなんだな、と。
 前回は姜維が巻き込まれていた場面に遭遇したが、今度は一体どうなってしまうのか。
 再び溜息をついた俺は、着ていた聖フランチェスカの制服を脱いでおっちゃんへと渡した。

「おっちゃん、これを持って城の門まで兵を呼びに行ってきてくれないか? 俺のこれなら話が通じると思うから」

 確か今日の門の警備は徐晃だったはずだ。
 俺が天の御遣いとも呼ばれる要素でもあるこの制服であれば、きっと徐晃も気づいてくれるだろうし、俺が赴けるほど余裕がない状況なのだと彼女なら理解してくれるだろう。
 そんな俺のことを信じてくれたのか、おっちゃんはやや慌てるようにその服を受け取ると、一目散に城へと向けて駆けていった。

「さて……はい、そこまで」

 それを見送った俺は、くるりと身体の向きを変える。
 その視線の先では、女性達を囲んでいた兵士達がじりじりとその距離を詰めていた。
 ああ、今回はどんな面倒になるのだろう、と。
 そんなことを考えながら、俺は女性達へと手を伸ばしている兵士達の間へと、鞘をはめたまま剣を突き出していた。



「ああ? 何なんだ、あんたは? 関係無い奴は口出ししないでもらいたいねぇ」

 いきなり突きつけられた剣に唖然としていた女性と兵士達だったが、先に兵士達の方が復活したか、それまで女性と少女達へと向いていた視線と意識が俺へと向けられる。
 邪魔をするな、という意思と明らかな敵意を向けられるが、それを極力無視する方向に努めて俺は口を開いた。

「まあ確かにこの現場にはあまり関係無いけどさ、かといって目の前で女の子達が困っているのを見逃すことも出来なくてね。悪いんだけど、ここいらで手打ちにしてもらえないかな?」

「くっ……くくく、ふはっはっはッ! 聞いたかよ、おい。この小僧、それで俺達が引くと思ってやがるぜ。一丁前に剣など持ち寄って、英雄気取りか小僧よ? ほら、命が惜しくばさっさと消えるがいい」

「そうだぜ、坊ちゃんはお家に帰って母ちゃんのおっぱいでも吸ってりゃいい」

「この女共のおっぱいは、俺らが万遍無く吸ってやるからな。お前にゃ分け前はねえのよ」

「……駄目だこりゃ」

 ひゃはは、と下卑た笑みを浮かべる兵士達に、俺は頭が痛むのを抑えられなかった。
 こいつらは本当に董卓軍の兵士なのだろうか、と思わずにはいられないほど崩れた兵士達に、俺はふとコクが吸収した宦官と何進の残党は賊崩れや元黄巾賊が多いと言っていたのを思い出した。
 確かに、目の前で笑い声を上げる兵士達を見ていればそれが事実である、と理解することが出来た。

 だが。
 この時の俺は、目の前の兵士達へと意識は向いていなかった。
 その意識は後ろ――先ほどからずっと黙っている桃色の髪の女性へと向かっていたのだ。
 兵士達が笑い声を上げた頃から背後の彼女から受ける重圧がまるで何かの生き物――それこそ龍に心臓を掴まれているのではないか、と思えるほどの重圧に、俺は知らず剣を握る手に力を入れていた。
 ここに着いてからその顔やら服装はちらっとしか確認出来ていないが、うろ覚えのそれだけでもそういった重圧を感じるような女性では無いと思っていたのだが。
 そこまで考えて、俺はふと首を傾げ――るわけにはいかないので、疑問だけ心の中で浮かべた。

 
 そう言えば、はじめここに辿り着いた時に兵士が呼んでいた女性の名はなんだったか、と。
 

「ほら小僧、命が欲しくば早くそこをどけるがいい。今なら我々に意見したことを不問にしておいてやろ――う? ッ、グハァァァッ!?」

 そんなことを考えていた俺は、いよいよ俺をどかそうと伸ばされた兵士の腕に対応出来なかった――否、反射で動いてしまった。
 まあつまりはである。
 こう、伸ばされた腕をそのまま手前に引き寄せてですね、肩に担ぐようにした勢いのままにぶん投げた――これまた見事に一本背負いを決め込んでしまったのである。



「……」

「うっわー、これまた見事に決めちゃったわねえ。完璧に目回しているわよ、これ」

「……あぁ、やっちまった」

 ドシンッ、と地面に強かに打ちつけることになった兵士は、その不意の衝撃に耐えることなく意識を手放すこととなった。
 剣術だけでなく体術も鍛えておいたほうがいい。
 そういう李粛と呂布の言葉に従って鍛えておいたおかげか、特に意識したわけでもなく技が出てくるあたりそれも正解と言えよう。 
 そう思えば彼女達には感謝しても感謝しきれない――組み手の時にふよんふよんと揺れる李粛の胸とか、いつもと同じく無防備に身体を押し付けてくる呂布に精神的に四苦八苦したことを除けば、だが。

「こ……こ、この野郎ッ、やりやがったなッ!?」

「か、構わねぇッ、この小僧を殺して女共を無理矢理にでも連れていっちまおうぜッ!」

 仲間をのされて逆上した残りの兵士が、共にその腰にある剣を抜く。
 ジャキン、と歪な音をもって抜かれたそれは、日の光を反射して鈍い光を放っていた。

「なあッ、ぬ、抜きやがったッ!?」

「き……きゃあああぁぁぁっ!」

 それと同時に、周囲から悲鳴とも怒声とも取れる声が上がり始める。
 我知らずとその場を離れていく者。
 巻き込まれるのを嫌がり距離をとる者。
 それすら関せず動かずに事の次第を見守る者。
 そういった風に周囲が動き始めていく中で、俺は鞘をつけたまま剣を構えた。

「ちょ、ちょっとあなた、そのままで戦うつもりッ!?」

「無論ですよ。こんな些細なことで徒に命を散らすものでもないでしょう。叩きのめして、城へ届ければそれで解決です」

 そんな俺に戸惑ったのか、はたまた不思議に思ったのかは分からないが、背後にいた桃色の髪の女性から上げられた声に、俺は努めて冷静に振舞った。
 まあ、冷静に振舞ったところで、その中身である心臓などはバクバクと早鐘を鳴らしているし、背中にはいやな汗もかいているのだが。
 死の恐怖が目の前に迫っているとしても、女性やら女の子にいいところを見せたいと思うのは男の性なのか、と空気も読まずに疑問に思ってしまった。

「……んふふー、なら私も助太刀しちゃうわね? これで二対二、全く問題はないわ」

「ちょ、ちょっと雪蓮ッ! 問題を起こさないっていう問題は一体何処へいったのッ!?」

「んもー、冥淋は考えすぎなんだって。向こうは彼と私達が目的、こっちは向こうを止めるのが目的、ならお互いに協力したほうがいいのは考えなくても分かることでしょ? お互いに問題が解決出来ればそれでいいじゃない」

「いいじゃない、じゃないでしょッ、雪蓮ッ! 少しはこちらの話も――」

「――ほら、来るわよ。 あなたも、死なないように頑張ってね?」

「承知、そちらも気をつけて下さいよ?」

「当然ッ!」

「って、話を聞けこの馬鹿娘ッ!? あなたもあおらないで頂戴ッ!」

 桃色の髪の女性――雪蓮と呼ばれた女性は、にやりと笑ったかと思うと、その腰にぶら下げていた剣を手にとった。
 俺と同じく鞘から刀身を抜き放たない所を見ると、叩きのめすということに賛同してくれたらしい。
 その光景に、俺は内心安堵した。

 もし俺がこの兵士達を斬ることになれば、それは洛陽の安全を守る側としてそれを乱す者達を成敗した、で片がつく。
 だが、見た感じ洛陽の者ではない彼女達がそれを成してしまえば、それで片がつく筈が無いのだ。
 それこそ、軍として報復なり攻撃なりを検討しなければいけないのかもしれない。
 そういったことを踏まえて事態を見てみれば、殺さずに兵士達を捕らえることが正解なのかもしれないと、そう思ったのである。

 黒髪の女性――冥淋と呼ばれていた女性の声を無視して、俺達は斬りかかってくる兵士達と相対した。
 その動きは、一騎当千の武人達から鍛えられてきた側からすれば蝿が止まるのではないか、と思えるほどであり、さしたる驚異でも無い。
 ただ、その刀身が抜き身であるということに気をやりながら、俺は鞘付きの剣を振るった。

 振り下ろされる剣を弾き、そのままの勢いを持ってしてがら空きとなった胴へと剣を振るう。
 これが抜き身であるならばそのまま胴を二つに分断していたのであろうが、鞘が付いたままの剣は、鈍い音と何かが軋む音を発してその身体へとめり込んだ。

 ドゴッ、という自分であれば出来るだけ――極力貰いたくない音を響かせた兵士は、その痛みに耐えることなく地面へと崩れ落ちていった。
 剣が直撃した部分を抑えながら呻いているので、意識はあるようだ。
 これならば城へと連れて行った後に事情を聞くことも出来るだろう、と思考した所で、俺は雪蓮と呼ばれた女性の方を見た。
 
 丁度、彼女が下からすくい上げるように振るわれた剣が兵士の顎に直撃したところで、仰け反った兵士はそのまま後ろへ倒れたかと思うと、気絶でもしているのか動くことは無かった。
 ふん、と鼻を鳴らした彼女は、くるりと振り向いたかと思うと、にっこりと笑いながら俺と視線を合わせた。
 よくよく考えてみれば、今回の騒動で初めて彼女の顔を正面から見た気もする。
 その空とも澄み切った湖とも言える深い蒼の瞳に見つめられ――俺は、またも瞳の奥が痛んだ気がした。


 *


『はは……母様の顔がちらついているわ』

 戦いを終えた俺達は、――が呼んでいると聞いて彼女の下へと駆けていた。
 戦を終えたばかりの疲労など関係無い。
 例えこの身が壊れても、俺は一刻も、一秒のみならず一瞬でも早く彼女の下へと駆けていった。
 彼女の下へと行けば、いつもと変わらぬ笑顔が俺達を待っていてくれるのだと。
 あの出来事……俺の目の前で――が毒矢で撃たれたことなど嘘のように、笑っていてくれるのだと信じて。

 そして。
 俺達を迎えた彼女は……そう言う――の顔は死人のように青ざめていて。
 彼女の言葉と共に、最後はそう遠くないことを告げていた。

『呉の未来は、あなたたち二人に掛かってる……二人仲良く、協力しあって……呉の民を守っていきなさい……』

 そう弱々しく、囁くように言葉を発した――は、力の無い俺と――の妹の手を、そっと重ね合わせた。
 それに答える彼女の声はどこか震えていて。
 共に答えた俺の声も、知らずのうちに震えていた。

『任せとけ……!』

『うん……見守って、ごほっ……おくからね……』

 それに満足したのか、咳き込みながらも言葉を発した――の顔はどこか満足気で。
 これからその身を、その命を、その魂を失おうとしている者のものとは思えなかった。

『はは……もう……時間が無いみたい……』

『――……!』

 だから。
 俺は信じることは出来なかった。
 信じられなかった。
 信じたくなかった。

『一刀……楽しい……日々、だった、ね……』

『ああ……楽しかったよな……! 酒飲んで怒られたり、釣りしたり……! でもさ、――! 俺はもっと、もっとおまえと居たかった! もっと楽しく、笑いあっていたかった! ……なのに……どうしてだよ! なんで……なんで死んじゃうんだよ!』

 ――が死ぬということ。
 ――がいなくなるということ。
 ――が……――の笑顔が、もう二度と見られなくなることを。

 いたずらが見つかった時の、子供のような顔も。
 民を愛し、民に愛されてきたあの笑顔も。
 それを傷つける者にだけ向ける獣のような顔も。
 その裏にある、弱々しく甘える少女のような顔も。

 もう、二度と。

『人は、いつか死ぬもの……私、幸せだよ……楽しかったこと、思い浮かべて……死んで、いけるから』

 だけど、彼女はそれでも満足だと言う。
 そう言えば、俺達が悲しまないとでも思っているのだろうか。
 それとも。
 そう残すことで、俺達の心の中……魂に――が生きていけるように、であろうか。

 その真意は、最早伺い知ることは出来ないだろう。
 その心の奥は、最早――は話さないだろう。

 だけど。
 俺は、そう思うことが出来た。
 確かに、――の命は失われ、その魂は天へと召されるのだろう。
 だが、彼女が生きた証は、確かにここにある。
 確かに、俺達の中で生きていくのだ。

『さよ、なら……かず、と……あなたにあえて…………』

『――っ!』

 だから、俺は――の死を、――がいなくなることを受け入れよう。
 今すぐには無理かもしれないけど、きっとその事実を受け止めようと思う。

 だからな、――。
 今だけは。
 今だけは……泣くことを、許して欲しい。

 ――のことだ、泣き虫だとか言って俺を笑うかもしれないけど。
 今だけは、愛した人が逝くことを、悲しませて欲しい。

『……雪蓮ーーーーーっ!』

 そうして俺は、溢れる涙を堪えることなく彼女の名を呼ぶ。
 ゆっくりとその命を天へと昇らせる雪蓮の顔は、涙で滲みぼやけていたけど。
 最後に名を呼ばれ。

 雪蓮は、微笑んでいた気がする。



 そして俺は願う。
 涙を堪えることなく、ゆっくりとその温もりを失っていく雪蓮の顔を見つめながら。
 願わくば、再び笑顔の彼女に出会えるように、と。


 *


「一刀殿ッ! 状況は……どうやら、落ち着いているようですね」

「……ッ」

 唐突に聞こえた徐晃の声に、俺は沈みかけていた意識を急速に引っ張り上げられる。
 
 まただ。
 曹操と初めて出会った時に感じたものと同じ感覚。
 見たこともない景色で、見たこともない映像が流れるその感覚は、やはり俺の記憶にはないものであった。
 どうして俺が泣いているのかも、どうして目の前にいる女性が死ぬのかも、全く分からない。
 ただ言えることは、俺と彼女は親しい関係であった、ということぐらいか。
 
 何を馬鹿な、と俺は頭を振った。
 今日、この場所で初めて出会った女性を知っていて尚かつ親しい関係であるなどと、どうして言えることが出来よう。
 ただの気のせいだ、とばかりに俺は口を開いた。

「お疲れ様、琴音。とりあえず暴れていたのはこいつらだけみたいだけど、こういったことはこれからも起こりうることだから、何か対策を考えないといけないかもな」

「……私が引き受けた兵士の中にも、同じような素行の者がいるとのことですので、それは賛成ですね。早速ですが、こいつらを城へと連行した足で月様と詠様に意見してみます」

「うん、そうしてみてくれ。華雄殿や霞なんかには、俺の方から気をつけるように言っておくよ」

「分かりました、その件はお願いします。……ああ、そういえば」

「うん?」

「これをお返ししておきましょう。ふふ……いきなりこれを持った民が駆け込んできた時には何事かと思いましたが。警邏の時にこういう緊急度が分かるものを持っておけば、駆けつける優先度が分かっていいですね」

「うーん……そうだな、琴音の言うとおりだ。今度、草案を詠に出してみるよ」

 そうして徐晃から手渡されたそれ──聖フランチェスカの制服を受け取った。
 初めての試みであったのだが、それが上手くいったかと思うとほっとすると同時に、それに気づいてくれた徐晃に感謝する。
 とりあえず俺の知る将達なら気づいてくれるものとは思うのだが、一般の兵士や新規の将には難しいものがあるかもしれない。
 そう思った俺と徐晃の提案によって、この数日後から洛陽の街の警備体制は一変することとなるのだが、この時の俺には知るよしも無かった。



「へー、あなた、天の御遣いだったんだ」

 そうして、捕らえた兵士達──元兵士とも言える彼らを城へと連れて行くにあたっての注意事項を徐晃と話していた俺の背後から、ふと声がかかる。
 その声に反応してみれば、桃色の髪の女性とその背後に黒髪の女性、双子の少女と老人がいた。

「あー……うん、まあ、そう一般的にはそう呼ばれてるね。俺の名前は北郷一刀、今回はうちの兵達が迷惑をかけたみたいで……本当に申し訳ない」

「ああ、別にいいわよ。だってあなたは助けてくれたんだし、あのままだと面倒に巻き込まれたのは私達なんだし。おあいこ、ってことでいいと思わない?」

「……面倒に自ら身を投げ入れた人の言葉とは思えないわね、雪蓮? まあ……こちらも、迷惑をかけたようだな、北郷殿。申し遅れた、私は周喩、字は公瑾という」

「ああ、よろしく。……さすがは美周郎、その名は伊達じゃない、か」

「ん? 何か言ったか?」

「いや、何も」

 桃色の髪の女性に苦言をしながら、一歩黒髪の女性が前へと出る。
 そして名乗られた名前──周喩の名は、少しでも三国志をかじっていれば途端に思い出すものであり、それだけの人物が目の前にいるのだということに知らず俺は身体を強ばらせた。
 

 周喩、字は公瑾。
 孫堅の代から仕え、その子である孫策とは断金ともいえるほどの親交を結んだとされる人物である。
 その知略武略は数多の英傑が活躍した三国志の時代でも群を抜いており、その才をもって孫策と共に孫呉の礎を築いたとされている。
 
 そして、彼は──まあこの世界では彼女らしいが、その立派な風采から美周郎と呼ばれていたらしい。
 その時代の美という感覚は現代人の俺からしてみればどんなものなのかは理解出来ないが、今目の前にいる周喩を見れば、なるほど確かに美周郎だと思えるほどに、彼女は美しいと言えた。

 
 と、そこまで思い出して、俺はふと思った。
 周喩がここにいて、かつ彼女が真名を呼んでいることから非常に親しい間柄だと思われる桃色の髪の女性は、一体誰なのか、と。
 そんな俺の疑問をかぎ取ったのか、意中の彼女はにこーと笑いながら自ら名乗りを──小覇王と呼ばれるその名を上げた。



「んもー、誰も迷惑なんかかけてないのに、冥淋ったら気にしすぎなんだから。ああ、私の名前は孫策、字は伯符。面倒くさいから敬語は無し、呼び捨てで構わないわよ?」
 




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