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戦争の是非(下)  

2010年 12月 09日

◇正当防衛の戦争は容認されるのか。

私は、黄海での米韓軍事演習の終了時点で、「防衛戦争容認論」なるものを書きました。
この記事の主要な部分を以下に抜粋します。
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私は、防衛のための戦争は肯定します。
私たちの生活を守ることは当然の権利だからです。
凶悪な侵略行為には、十分な対抗処置を講じ、初動作を迅速にして、損害を小さくするために何にも優先して努力する必要があります。
私たちが正当に働き、正当に生活をしている国を搾取し、傷つけるなら、断固として戦うこと。それは、仏法の哲理に照らしても、間違いではないと信じます。(中略)
ただし、戦争をするなら条件があります。
1つに、今の日本であるということ。
2つに、粘り強い対話交渉、あるいは関係諸国、国連など、打つべき全ての手を打ち、それらが全て効果を出せないという条件での戦争です。(中略)
私は、理不尽な領海侵犯に対抗する海上保安庁の職員の皆様、また、有事の際に命を懸けて戦う自衛官の皆様に、心から敬意を表明し、感謝をいたします。
どうか、正義の名のもとに、適切な対応をして頂きたいと思います。
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改めて、この文章を見ると、私自身、この内容には欠陥があることが分りました。
今、私の心には、もっと気高く尊い考えが存在しています。
過去のことを申し上げれば、私は、正当防衛上の戦争を問題視したことはありません。
創価学会が唱える「国連主義」。その国連憲章で「自衛権」は公に認められています。
以下の3つの条件が当てはまれば、正当な防衛行為であり、国際世論から非難されるものではないからです。
1.急迫不正の侵害があること。(急迫性、違法性)
2.他にこれを排除して、国を防衛する手段がないこと。(必要性)
3.必要な限度にとどめること。(相当性、均衡性)
この権利を、行使するかどうかは別としても、その自衛のための戦争が問題となるなど、私は夢にも思っていないことでした。
私は、「悪に対する戦争行為は、正義」と考えていました。現実には、「正義の戦争」など存在していなかったし、さらに、「断固として戦う」という表現は、明らかに不適切な表現でした。
今、私は、
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「正義の戦争」はないのであり、「最後の最後まで、対話と誠意で解決をする」こと。
「それでも戦争になったらどうするのか」という気持ちを一切持たないこと。
戦争状態にある敵すら、味方に変えるという「平和への決意と行動」こそが、創価学会の根本思想であり、「戦争をしないで解決する」思想こそ宣揚されるべきことである。
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という考えに変わりました。
仏法、なかんずく創価学会の高度な視点から見れば、私の見方は小さく浅いものでした。今後は、池田先生の弟子の一人として、創価思想の観点から歩んでまいります。
さて、私は、長々と「戦争の是非」シリーズを書きました。
その理由は、私が、この考えに至るまでのプロセスを明らかにすることで、「正義の戦争」を訴える人々の心理が決して戦争を好んでの発言でもないし、むしろ、戦争を極端に嫌うが故に、「指一本、触らせないぞ!」との意志表示もあることを知っていただきたかったからです。そして、その心理を理解した上で、どのように接してあげるべきかを考える材料にしていただきたかった。
私の今回の意識の変化は、祈りだけも、読者の皆様のコメントだけでも得られなかったし、本部指導だけでも、池田先生の著作物だけでも得られなかったと感じています。
私の意識が変わるためには、この一連のプロセスの全てが必要でした。
ですから、皆様のご意見には、心から感謝しております。
ある人の善意の投稿で読んだ池田先生の著作には、
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仏法を好戦的と見るのも誤りなら、非暴力・無抵抗主義とするのも正しくないといえるでしょう。
ただし、(正当防衛は)過剰になってはならない。
最善の防衛は、相手を味方にすることです。
「法華経の兵法」の真髄は、ここにあるのです。
次善の策として、相手の攻撃力を、こちらの危険のない程度にまで弱めることです。
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と書かれてありました。
私は、この言葉に巡り合えなければ、最終的な今の納得には至らなかったと感じています。
危険な北朝鮮に対してすら、「味方に変える」努力をすること。「攻撃力を弱める」にはどうするのかを考え手を打つこと。この目を見張るような具体的な思想と方策によって、私は心から納得することができたのです。
読者の中には、「今さらなんだ。そんなことも知らないのか!」と思う人がいるかも知れない。
けれど、私のような分からず屋は、世の中に沢山います。否、一般的に見れば、私の過去の意見は、奇異なものではないと思います。
むしろ、創価思想は、理解に苦しむ内容を秘めていると感じます。
尚、私は、考えた末に、「防衛戦争容認論」なる記事を、全消去することにいたしました。
きっと、数日後には消えていることでしょう。ですから、今のうちに、私の低い境涯が書かせた記事を、しっかりご覧になっていただき、一笑に付していただければと思います。
皆さん、ご意見、ご忠告、誠にありがとうございました。
以上で、「戦争の是非」シリーズを終了します。
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by sokanomori | 2010-12-09 22:58 | 戦争・紛争 | Trackback | Comments(0)

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