赤木智弘の眼光紙背:第158回
飲酒運転の厳罰化に呼応する形で、売り上げを伸ばしつつある、アルコール1%未満の、ビールテイスト飲料(ノンアルコールビール)。
味や香りはもちろん、缶のデザインなどもビールに酷似しているために、未成年に売っていいのか、戸惑う小売店が多いのだという。(*1)
僕としては不思議で仕方がない。
「コーラやサイダーを子供に売っていいのか?」などと戸惑うことはないのに、コーラやサイダーと同じ炭酸飲料に過ぎないビールテイスト飲料を売ることに、一体なにを思い悩むのだろうか?
「1%未満」という括りで言えば、缶入りの甘酒や栄養ドリンクは、1%未満のアルコールを含んでいるが、これらを子供に販売することに戸惑う小売店はないし、それを咎める人もいない。
自分が子供の頃は「栄養ドリンクは子供が飲むものではない」という空気があった気もするが、それは「なんとなく大人の飲み物」という意識であって、アルコールを含むことが理由ではなかった。
原理原則で考えれば、僕たちは「何を口にしようが自由」である。
ご飯を口にしようが、ジュースを口にしようが、アルコールを口にしようが、毒薬を口にしようが、そのこと自体は僕たちの自由である。
しかし、毒薬を口にすれば生命の危機に至るので、毒薬は口にするべきではない。
アルコールは、酩酊による事故や事件。身体的には脳の萎縮。精神的にはアルコール依存などといった問題があり、心身ともに未熟な成長過程の子供が口にするべきでないと、多くの国で考えられており、ある程度の年齢まで口にしてはいけないという規制がされている。
20歳という年齢で線引きすることに明確な科学的根拠があるわけではないし、大人になったからといってアルコールの悪影響がなくなるわけではないが、それでも僕たちの自由を一時的に奪うに足る理由はあると、僕は考えている。
そのように、原則自由で、それ相応の理由があるときに規制が許されるという考え方であれば、ビールテイスト飲料を子供に販売することに対して戸惑う理由など、まったくないことは明白である。
しかしながら、ビールテイスト飲料になじむことは、同時に飲酒への掛け橋になると考え、飲ませたくない人達がいることも理解できる。では、その根拠を子供に対してしっかり説明できるのだろうか?
かつて、テレビの討論番組で、ひとりの若者が「どうして人を殺してはいけないのか?」という疑問を口にしたことが、広く話題になった。
多くの大人たちはこの疑問に対して、真っ正面から答えることができなかったし、また「そんな疑問を持つこと自体、どこかおかしいのだ」と、若者を変人か犯罪予備軍であるかのような扱いをする者もあった。
作家の大江健三郎は、朝日新聞のコラムで「まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」と論じた。(*2)
そしてその理由として、「子供は幼いなりに固有の誇りを持っているから」「人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直感にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子供は思っているだろう」と論じている。
つまり、人を殺してはいけないという感覚は、生きていく中で人間的成長として自然と身につく考え方であり、そこに対する疑問を口にすることは、自らがその成長を遂げていないと告白するのに等しいということである。と、大江は言っているのだろうと、僕は読んだ。
その上で疑問に思うのは、まず、日本においては、死刑制度が存在しており、8割程度の国民によって支持されている(*3)以上、「人を殺さないという直感」が我々に共有されているとは、まったく言えないということ。