国立歴史民俗博物館。略して「歴博」。印旛沼に近い千葉県佐倉市の丘陵地にオープンして27年になる。原始、古代から近代まで、日本の歴史と民俗について研究し、成果を展示する国内最大級の研究機関だ。
歴博でこの春、新しい展示をめぐり論争があった。沖縄戦の集団自決の説明文で、原案にあった旧日本軍の強制を示す記述をとりやめたことに沖縄などから抗議が寄せられた。歴博はいま記述を修正するかどうか検討している。
<論争は絶えない>
歴博を先日、訪ねてみた。「犠牲者のなかには、戦闘ばかりでなく、『集団自決』に追い込まれた人々もいた」。集団自決の異常事態がなぜ起きたか、この説明では分からない。
歴史のとらえ方は難しい。一人一人の体験や価値観、考え方により、百人百通りの歴史観があり得る。そこに摩擦が生じる。
米スミソニアン航空宇宙博物館の原爆展論争を思い出す。原爆の歴史を振り返る中で、広島、長崎の住民被害についても展示する予定で準備を進めた。ところが退役軍人団体などから「原爆使用の批判につながる」といった声が上がり、中止に追い込まれた。15年前の出来事だ。
ドイツでは1980年代半ば、「歴史家論争」と呼ばれる論争があった。ナチスによるユダヤ人虐殺は歴史上類例のない犯罪か、そうではなくカンボジア虐殺などほかの事件と同列に論じ得るものなのか、という議論だ。
ドイツ人がかつて犯した犯罪を相対化し、罪の意識を少しでも軽くしたい−。同列に論じ得ると主張した人たちには、そんな気持ちがあったといわれている。
<近代史博物館を>
論争は足元の長野県にもある。例えば先の戦争の末期、硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道中将の顕彰碑をめぐる問題だ。「平和主義者」として松代大本営跡地に碑を建てる計画が持ち上がり、軍人の碑が跡地にふさわしいかどうか、議論になっている。
振り返れば、1937年の盧溝橋事件から45年の敗戦に至った先の戦争について、私たちは定まった名前を持っていない。太平洋戦争、大東亜戦争、日中戦争、十五年戦争…。それぞれの呼び名がそれぞれの歴史観を引きずり、ぶつかる。歴博の沖縄戦記述の問題は、先の戦争をめぐる歴史認識論争の一部である。
きょうは旧日本軍が真珠湾を奇襲し、米国との戦争に入った日だ。あれから69年になるのに、国民が共有できる歴史観がいまだに確立されていない。
先の戦争にはアジアの国々を列強の植民地支配から解放する目的もあった−。日本は朝鮮半島でいいこともした−。国際的には通用しない見方が政治家の口から語られたりもする。
歴史認識を国民レベルで鍛える必要を痛感させられる。
手掛かりとして国立の近代歴史博物館をつくってはどうだろう。
国内には広島の原爆資料館、「平和の礎(いしじ)」で知られる沖縄の平和祈念資料館など、戦争のさまざまな局面を伝える博物館は幾つかある。だが先の戦争の全体像をとらえて内外にメッセージを発する国立の施設はない。
民間で特異な存在感を発揮しているのが靖国神社の遊就館だ。ここの展示にはアジアに対する加害の視点が欠けている。これでは内外の共感は得られない。
国立の博物館をつくるのはいいけれど、火に油を注ぐことにならないか−。そんな声が聞こえてきそうだ。
だが、私たちには確かな足掛かりが少なくとも一つある。憲法だ。平和主義、国民主権、基本的人権の尊重、の三大原則は国民大多数が支持している。
戦争の惨禍を経て平和憲法を持つに至った経過と、その後の歩み。この観点に立つ博物館なら可能なはずだ。異論が残る部分については両論併記とし、議論を重ねる中で一致できる部分を増やしていけばいい。
20年前、旧西ドイツは冷戦終結のチャンスをとらえて旧東ドイツとの統一を成し遂げた。戦争の歴史への反省に立ち、フランスなどとの和解を進めたことから道が開けた。世界の外交史の中でも特筆される成功物語だ。
日本はこれまで、旧日本軍の足跡が残る国々との確かな信頼関係を築いてきたとは言い難い。歴史館は日本がアジアで生きていくためのよりどころにもなる。
<広島と真珠湾と>
「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任がある」。昨年春、オバマ米大統領はプラハでの演説で述べた。今年の広島原爆の日、米国の駐日大使が初めて式典に出席した。歴史のとらえ返しは米国でも進んでいる。
来年は日米開戦70年の節目だ。8月6日に米大統領が広島を、12月8日に日本の首相が真珠湾を訪問すれば、実り多い年になる。