お返事がてら、ご紹介したいと思います。
なお、このブログは平成22年末日をもって、アカウントごと削除します。
過去のエントリに共感いただいている方には、申し訳ないですが、
バックアップサイトを作ろうと思いますので、
URLご入用ならば、メールでご連絡をお願いします。
また、コメントでは言い足りない文句やバッシングも、
そのほかの連絡など、全て、メールでどうぞ。
メールはこちらから
*****************************************************************
初めまして。ブログ村の人気エントリから参りました。
私はASの診断を受けており、定型の主人と暮らしています。
らんどせる様は「家族を不幸にしている」という指摘にショックを受けられたのですね。
今回、らんどせる様が、わざわざ記事にするほどショックを受けられたことにびっくりしました。
(無自覚だったのか、という驚きです)
>ASを勉強している、といいつつ、
>あまりにもASに対して無理解、と言うより、「AS者を毛嫌いしている」
私もこの方と同じ印象を受けていました。
らんどせる様ご自身に、そのような意図がない中、勝手な受け止め方をしてしまって申し訳ありませんが
あまりAS者に共感的・支持的なイメージは受けません。
他人が口出しをすることではありませんが、ブログタイトルにギョッとしてしまったことも事実です。
(思い入れのあるタイトルとのこと、なるほどと感じました。そのような由来があるのは良いですね)
以前旧ブログの内容を読ませていただき、自分が読むとしんどくなってしまうので、
自分が記事からダメージを受けないようにという意味で、飛ばないようにしていたブログでした。
>自分自身のアクション自体が家族に対する凶器である
ブログ中に散見する、感覚的な理解のなさからすると、そういう場面もあるかと思います。
相手に対する無理解がダメージを与えることは、定型同士でも起こりますが
AS者と定型者の場合は、感覚の差が大きいのだと思います。
少し前のエントリで、『生きづらさ』が理解出来ないと切り捨てられていたことは、
(これも、そのような意識で書かれたのではないでしょう、受け取る側の印象です)
自分が夫にこういう関わり方をされたら傷つくなーと思いながら読みました。
コメント欄に同じような意見がありましたので、繰り返しになりますが、
自分の場合の『生きづらさ』とは、家族・友人・学校や会社で出会う人などから、
自分で普通と思っていることを「おかしい」「人と違う」「どうしてできないの(努力が足りない、怠けている、ナメているからだ等)」と、周囲との差異を指摘されたり、自分で比較した時に生じる、相対的なものでした。
自分の何がおかしいのか、どこが人と違うのか、どうしたら「人並み」「人と同じ」レベルになるのか、様々な切り口から、納得のいく説明と、改善策を探し続けました。
(そして挫折し続けました)
専門の医師からAS診断と説明を受けて「これだったのか」と腑に落ちたのです。
ネット上には同じような「これだったのか」経験をされた方の体験談が多いですよね。
自分はそのような文章に触れると共感を覚えます。
また、主人と話していて、この『生きづらさ』が伝わったとき、ありがたくて泣きました。
それと、これは勝手な想像ですが、大人になってから発達障害を知った場合、
自分像の書き換えや、ショックの整理などのために、書いて整理したくなる気持ちも分かります。
ケネス君の本は、自分がAS未診断の時に文献の一つとして読んだことがあります。
彼は、彼のために療育環境を整える意思があり、理解と愛情を持って接する親切な大人に囲まれている「海外の」「10歳の」子供です。ですから、この日本社会で適応を期待され、成人するまで健常者として扱われてきた「成人になってから診断のついたAS」に対するエントリで引き合いに出すには、事情が異なるように思われます。
感覚が分からない場合は「そっちの感覚が間違ってるんじゃないのか、同じ自閉圏でもこの子は自分の意見と同じ側だろう」というアプローチより、自分に置き換えて、想像力を働かせて「相手はどんな感覚なんだろうか」と引き寄せてみられてはいかがでしょうか。
もちろん、ひとくちにASといっても同じ感覚とはかぎりませんし、目の前の相手とうまくやっていきたい場合に限ってですが。
否定的に捉えられる意見ばかり並べてしまいました。
このコメントは、世間様からは「一方的に理解を求めるなんてわがままだ」「これだから発達障害者は」と突き返される内容だと自覚しております。
らんどせる様もそのように扱っていただいて結構です。
また、この話題と関係のないエントリに、今後このようなコメントをつけることはいたしません。
今回は、ASのご家族とうまくやっていきたいという気持ちがおありだということに
良い意味で驚きを感じて、書き込ませて頂きました。
お気を悪くさせたら申し訳ありません。
乱文ご容赦下さいませ。
Posted by あおさ at 2010年12月08日 11:05
*****************************************************************
あおさ様、コメントありがとうございます。
たぶん、私が伝えたいことは上手に伝わっていなかったんだろうと思います。
うまく伝えようとしてきましたが、
自分の文章力のなさと、他者に対する配慮が足りなかったことを反省してます。
『生きづらさが判らない』・・・
『感覚過敏が判らない』・・・
私が『判らない』とずっと言って来たことは、『想像を越えた感覚』でした。
どんなに想像を働かせても辿り着けない感覚は、あります。
そこに到達するためには、どうしたら良いのか?
彼の感覚を得るには何をすれば良いのか?
そういうことを考えるうちに、
想像すること以外に他者の感覚を得る術は存在しない、ということが判りました。
例えば、誰かが何かを食べた。
とても美味しかった。
その美味しさを、言葉を尽くし、絵まで描いて、身振り手振りで伝える。
聞いたほうも、さぞ美味しかったんだろうな、と思う。
けれど、おそらく、食べない限りは『想像で美味しさが判る』だけで、
本当は判ってはいないんだよね、ということでした。
これでOKとしている方々は沢山います。
いや、普通はそうかも知れないです。
もっと想像してみてください・・・とか。
彼の気持ちになってみて・・・とか。
その程度の理解は、誰でもやってる。
特に、私が題材にしてきたのは、自分自身であるといってよい我が子のことです。
我が子の生命の代わりに、自分の命を差し出すことに抵抗のある親は、そうは居ないでしょう。
我が子ってのは、私にとっては自分自身です。
肉体も精神も同化して彼になれれば判るのに、
それが出来ないんですよね?歯がゆいよね?という問いかけでした。
私がずっと言いつづけてきたことは、
想像上の理解だけで果たして良いのか?もっと知りたくはないのか?
歯がゆくは無いか?諦めているのか?・・・
という自問自答の言葉でした。
『これだったのか!』という感覚は、妻から良く聞きますので、
それは理解できます。
ただ、それは成人して、生活上の引き出しが増えてから出来上がるもののような気もします。
私が育てているASの息子は、中学生になったばかりで、
カムアウトも未だ行っていません。
彼が、通知を受けたときに、直ちに『これだったのか!』と気付くのか?
おそらく、気付かないでしょう。
しかし、数年経って、成人したときに初めて、そういう感覚があるのではないかと思います。
他者の感覚を、自分の感覚として理解できる人間は居ないと思っています。
つまり、私の言葉でいえば、判らないわけです・・・
そういう意味では、例えばASが、定型の脳を想像を越える理解ができずに、
しかし、社会的多数である定型の社会で生活するには、
多くの辛い出来事があるだろうと『想像』します。
ただ、ASは、それを、『自分だから』辛い、と思うのか、判らないです。
定型と同じ脳なら、もっと辛くは無かったのに、と思う者もいるだろうけれど、
それもまた、ASが想像できうる範囲の理解であって、本当は判らない。
『想像すること』と、『判ること』は、私の中では全く違うこと。
想像なら出来ますとも。
判らない、とは、それ(想像)を上回る理解が出来ないことに対する言葉でした。
私は、ASの息子を持って、彼のことを判ろうと、
想像し、努力してきました。
誰よりも彼に関しては、おそらく、
我が妻よりも深く、『想像』してきた。
そして自分が、判ろうと努力した中で、
『真は判らない。思い描くのみ、ということが判った』
という自分自身の中の理解。
彼の目で見て、彼の耳で聞いて、彼の脳で感じなければ判りえない感覚がある、ということ。
彼の目で見たことを私の脳で感じ得るか?、ということです。
言葉で伝えられる感覚は、あくまでも想像の中での理解であって、
彼本人の脳で感じなければ、それは真から判ったことではない。
逆に、真には確かに判らないだろうけれど、
それを想像の中で何とか自分なりに理解して、接してきたつもりです。
歯がゆく思いながら。
私の家族は不幸らしいですが、それも、何処と比べて不幸なんでしょうか?
誰がそう判断するのか?
私がそう判断しなければならないのか?
それを受け入れるための要素は何なのか?
私の、いったい何をどれだけ知っているのか?
私たち家族の、脳で感じたことのうち、チリのような細部に渡って全てを、
感覚として理解できている方が判断しているのか?
遭ったこともないのに?
会話しても居ないのに?
どのくらい想像すれば、我が家族が不幸だと判るんですか?
家族が不幸だったことが判らない私は、想像力のカケラも無いということ?
不幸だと判断するその想像努力に、私の想像は追いついていないのでしょうか?
判る!という方ほど、判ってはいない。判ったつもりになっているだけです。
『つもり』=想像しているだけ。
思いを馳せて頑張ったという自己満足に浸っているだけだと思う。
想像上の感覚が確かに真理に合致している場合もあるでしょうが、
それを確認する術がない・・・
想像は想像でしかありません。
それ以外には、術は無いのもまた事実ですが。
想像上の理解で、遭ったこともない方に、文面でも初対面な方に、
『あなたの家族は不幸だ』と言われれば、必ず狼狽します。
『あなたはバカだ、死んだほうが良い』と言われたほうが、千倍も万倍もマシです。
私は、息子と同じ脳が欲しかった。
どう感じているのか?どう思っているのか?
欲しかったのは、『きっと辛いだろうな』という、想像上の理解をする脳ではなくて、
自分も同じく、等しく同じ脳で体験できる脳が欲しかった。
同じ脳を持っていれば、もっと判ったかもしれないし、
もっと判れば、もっと何かできるかも知れない。
しかし、残念ながら、(定型とかASとかを抜きにして)別々の脳を持っているわけで、
またまた残念ながら、その2つの脳を繋ぐ回線は、言葉でしかありません。
『私はアスペルガーだ』と自ら気付くものは、アスペルガーではない、
と思うこともまた、同じことで、
他者と比べて、困難が多い、ということは判る(想像できる)だろうけれど、
それもまた、想像上の理解でしか無いわけで、
自分は周囲と根底的に違う、と気付くことが出来る人間が、
AS、定型を問わず、存在するのでしょうか?
私はどうも、周囲と違うようだ。何が?どこが??
自分で気付くのは、これが関の山だと思うわけです。
他者の理解を想像でしか成しえない人間という動物が、
本当に判ろうとするその中で、『真実は判りえないんだ』と気付くことは、
私は、私の理解の中では重要であったと感じています。
しかし、(ここが伝わっていないかな)、
『判らないから、知らねーよ』
『知るかよ、わかんねーよ』
『判るわけねーだろ』
『ほんっとに判らないヤツだな!!』
などということとは真逆で、
『判らないということを冷静に理解して、想像力を愚直に働かせる、』ことを実践してきた。
何のために??
彼の生きる道を照らすため。
彼の未来のためでした。
書籍から得た知識もあるし、医師・心理士との会話から、また、
講演会などから得るものもある。
妻の感覚(言葉で伝わる範囲で)のうち、自分には無いな、と思う感覚、
そして、それを『言葉にして』伝えて、その中で出来ることを、
粛々と実施してきた。
ブログも、情報収集が当初の目的だったし、
コメントを削除・承認制にしなかったことも、
コメントがコメントを呼んでくれて、さらに情報が増えるから、
という理由もありました。
(ブログのコメントはコントロールすべきではない、とも思う人間でもありますが・・・)
しかし、これだけ言葉を尽くしても、きっと伝わらないんでしょう。
伝わったとしても、受け入れられるものではないのかも知れません。
このブログ自体が、世間のASに対する凶器であったならば、
いや、少なくとも、誰かに対して凶器となり得るブログであるならば、
そういう危険な発信は直ちに、止めなければなりません。
ご指摘、ご意見、
ありがとうございました。
私は子どもに関わる仕事をしている関係で、発達障害を知るために様々なブログを読ませて頂いています。
こちらのブログを読ませて頂くようになったのはつい最近の事ですが、過去に遡って読んでみて、こんな旦那様、お父様をお持ちでなんて幸せな奥様とお子さんなんだろう…と思うばかりでした。
こんなにも真摯に発達障害と向き合って理解しようとし、学ばれている方の文章が凶器と受け取れてしまうなんて…またひとつ発達障害の難しさを知った気がします。
私にはブログからはご家族に対する愛情しか感じられなかったので、そういった意見のコメントが複数寄せられていることに本当にびっくりしました。
本当にお互いを理解し合うって難しいんですね。難しいなんてレベルでは無く、らんどせるさんのおっしゃる通り、想像することしかできないのですよね…そして想像しきれない部分がなんて多いのか。
私はらんどせるさんのブログをまだまだ読んでいたいです。
それだけは伝えたくてコメントさせていただきました。
今回の件と、この一ヶ月のブログ村での出来事で
「そもそもの言葉に対する感受性の決定的違い」を
感じてしまいました。
それは両者の間に深く横たわる溝なのかもしれません。
私は今までいろんな成人当事者様のお陰で
ようやくわが子を肯定的に理解していこうと思えるようになったところに、今回の一連のやり取りを
見て、忘れていた不安やマイナスの感情でいっぱいになってしまいました。
アスペルガーだろうが、定型だろうが、
人としてやってはいけない事は同じなはずです。
また当事者の親にダメージを与えば、その子供にも
影響が及ぶでしょう。
どうしたら先々の影響も考えず、感情的な言葉を投げつける事が出来るのか?
私もわが子を理解したい一心でいろいろ努力していますが、完全にわかるというのは無理だと思います。ただお互いにわかろうとする気持ちを大事に
するしかないと考えています。
私にはらんどせるさんの言葉よりも
否定的ならんどせるさんへのコメントのほうが
凶器に思えました。
「場が変われば、常識も変わる」
ということだと思います。
自分が間違っているとは思えないのに、多数から糾弾され、凶器呼ばわりされる。
あなたの周囲の人は不幸だと一方的に言われる。
つらいでしょう??きついでしょう??
それはアスペの人間が日常的に味わっている理不尽さと同種のものなんです。
とても残念です・・。
とても傷つき悩まれていたようだったので
思わずコメしてしまいましたが
なんだか・・申し訳ありませんでした。
私にも子供がいます。
発達障害です。苦労はしているようですが
「自分が大好き 幸せ!」と言ってくれる子に育ってくれました。
発達障害という枠にとらわれすぎず
人間として・・育てたつもりです。
先日は私自身感情的にきつい言葉を書いてしまい
反省しました。
申し訳ありません・・。
とても楽しみにしていたらんどせるさんの記事が
読めなくなるのは本当に残念です。
らんどせるさんのお家は
きっと幸せだと
私は勝手に思っています。
元気出して下さいね。
もう会えないかもしれませんが
応援しています。
ギャラリーの方はお好きに批判して下さい。)
らんどせる様
記事でのご返信をありがとうございました。
先に述べておきますが、これ以降のやりとりは控えさせていただきたいです。
(記事でつるし上げていただく分には結構です、反応はできませんが、いくらでもどうぞ)
さて、長文で胸の裡を伝えて頂くことで、文章の背景が分かった部分があります。
初めに、「不幸だと言うんですか?」のくだりは、誰に向けられたものか分かりませんが
私はらんどせる様のご家族が不幸かどうかは、他人が決めて良いものではないと考えます。
個人的な意見としては、【不幸だとは思いません】。ただらんどせる様が発する「多数派として当然の言葉」が凶器になる可能性がある、と書きました。その気持ちは変わりません。
それについてショックを受けられたなら、謝ります。
コメント欄に書かれていた、多数派と少数派が入れ替わったケースだ、というのが全てだと思います。
普段は多数派であるらんどせる様が、ブログ村/アスペルガー村の村人として、少数派の立場に立ち、多数派の人々からの言葉を向けられた事、実社会ではありえない逆転現象です。
家族の幸不幸について。
「おまえのような人間(発達障害者)を家族に持って、家族は、気の毒だ」
このようなまなざし・雰囲気・言葉は、世間のあちこちに「当然のこと」として溢れています。
悪意や偏見だけではなく、多数派同士の共感的理解として、「ああ、お気の毒に」と思われる場合もあると思います。
今回はたまたま、らんどせる様が、少数派として【家族を】気の毒に思われる立場に立たされた。珍しい事です。
「お前がいることは家族の不幸だ」というフレーズは、障害を持った人間が一生立ちむかっていかなくてはいけない、世間様の声です。
しかし幸・不幸は世間様が決めてよいものではなく、自分が決めて、自分と大切な家族の幸せを守り通すものです。他の誰に不幸と決めつけられても、呑むべきではない言葉だと思います。
(繰り返しますが、私個人はらんどせる様の家族が【不幸】だとは思いません。)
そして冒頭部分から
『想像上の理解だけで果たして良いのか?もっと知りたくはないのか?
歯がゆくは無いか?諦めているのか?・・・
という自問自答の言葉でした。』という部分の言葉は、言葉がストレートに伝わってきました。
私が前回のコメントで「想像したら」と申し上げたのは、【皮肉】です。
発達障害者は、成人する過程で、想像しても分からないものに対して「想像力を働かせたら分かるはず」という言葉を何度も向けられます。
どれだけ想像しても分からない、分かりたいのに分かれないつらさ。
せめて愛する対象には、心を寄せたいのに、届かない、身もだえするような歯がゆさ。
強い「愛情」というものがあっても、乗り越えられない理解の壁。
その前でつまづき、苦しむ経験は、人を愛したAS者にとっては「当たり前のこと」です。
らんどせる様が、愛するご子息に感じる「分かることができないつらさ」は、少数派の人間が、愛着を持った多数派の人に対して感じるであろう絶望と似ているように感じます。
そして今回、私は『それを軽々と乗り越える力のある身体(脳)に恵まれているのだから、らんどせる様は「できるのにやらない」のだ』と思っていたのです。
でもらんどせる様は、「本当はできるのに分からないという理解でとどめている」のではなく、ご家族に対して「分かりたいけれど分かることができない」のですね。
(伝わっていないかな)と書かれていた部分が、伝わりました。
【分からないのは怠慢、甘え、愛情不足】
この、多数派から向けられる声に傷つきながら、自分も当然のように、「多数派」としてらんどせる様に対して同じ刃を向けていました。
お詫び申し上げます。
言葉は難しいです。
らんどせる様の言葉の背後に、どのようなものがあるのか、私に推し量ることはできません。
そして、らんどせる様が使う「多数派の言葉」のチョイスは、(伝わっていないかな)というところで書かれていた罵倒のような、定型者の方が使う言葉と同じなのです。
【普段、多数派の人から浴びせられる、心ない辛辣な言葉を、自分の家族からも掛けられて、パニックに陥る。親との溝が深まる】
これは、自分が親との関係で苦しんできた理解の壁です。
言葉の裏にあるその人の思いを推し量る・自分とその人のこれまでの関係性で理解する、ということが難しく、言葉の言い回しやフレーズに率直に反応してしまうのです。
このこじれた父親との関係は、主人が間に入って「通訳」「解説」してくれることで、結び直されてきました。
言葉が凶器であるので、ブログを中止する。
ネット上では、らんどせる様のお心のままになされば良いと思います。
しかしご家庭でも、同じ「言葉」を使ってコミュニケーションするのですよね。
実社会・ネット社会には、このコメント欄で「あおさ」に向けられたような感想を武器にして、少数派の人間を非難する人が沢山います。
多数派のふりに失敗して、本来の自分自身を見せてしまうと、集中砲火を浴びます。
多数派の感覚の言葉が心に突き刺さるたび、「言葉を武器として感じる感性(パニックの種)」が育ってゆきます。
(今回は、この展開を予想したうえで書いたので心の防御はできていますが、やはりダメージは受けます。自業自得です。それでもらんどせる様に伝えたいと思ったのです。)
自分の場合、刺さった言葉で爆発するようになったのは、中学〜高校生あたりです。
この言葉の地雷を撤去するには、「相手のことを分かることができない」という前提に立ち、相手がどう感じたか聴き、自分の気持ちと考えを率直に伝える以外にないと思います。
「分からない、けれど分かりたい」
「分からない、けれど大切なんだ」
記事からは、このようなメッセージがとても力強く伝わってきました。
誤解を解く作業(言葉の地雷撤去作業)は愛情なくしてはできないことで、世間の人がそういう手間の掛かる作業を少数派の人間にほどこしてくれることはほぼありません。
特に発達障害者が成人するまでは、ご家族の役割が大きいと思います。
コメント欄で「あおさ」は非常識、らんどせるさん大変でしたね、という言葉が掛けられると、きっとホッとすると思います。
(私個人の感覚では、その「多数派としての当然の感覚」から発せられたいたわりの声が、本当にらんどせる様の親としての苦悩に届くものなのか、疑問が残りますが…。)
「分からない」という絶望は、深く愛する道につながっていると感じます。
らんどせる様が家族を大切に思うのなら、その「分からない」という前提に立って、時にはご家族の盾になり、時にはうっでぃさんのように多数派と少数派の間に立ち、「多数派として当然の感覚」に対峙していただきたいと願います。
最後に、前回の感想で主人に「分かってもらった」経験を書きましたが、これは日々のステージの中で時々振ってくるボーナスポイントのようなもので、私たち家族を支える軸ではありません。
私が一番ありがたかったのは、「分からないことで相手を不幸にしているのでは」と悩んだときに掛けられた「むりに分かろうとしなくてもいい」という意味合いの言葉です。
家族を支えているのは「分かりたいけど分からない。申し訳ない。それでも一緒にいたい。一緒にいられることが幸せだ。大事なんだ。」という、お互いの気持ちです。
この場は削除して、共感が得られる方同士で共有し合うとという決断をなさったのですね。把握しました。
(私はこれ以上触れたくないので、メールを送ることはしません。できましたら、私や、私以外の発達障害者から受けた声を「批判やバッシング」と切り捨てるのではなく、一人の人間の意見として受け取って頂けますように。)