それは見慣れた光景であった。やや色褪せた白い天井、あざやかな白いカーテン。少々古めの大型エアコン。
少なくとも、横浜基地の自室には当たらないものばかりであった。
「帰って来たんだな……」
男はそう呟きながら身を起こす。目の前には、茶色の洋服ダンスと取っ手にかけられたかつての制服。
様々なものに目が行き、懐かしさが込み上げてきた。しかし、あるものが目に入った時、彼は、大きな違和感に気づく。そこにあるはずのものが無く。無いはずのものがあったのである。
「冥夜がいない……?しかも、これって……?」
首にかけられたDog Tag。そこには、『国連太平洋総軍第11軍横浜基地』の名と『白銀 武 少尉』の名が確かに刻まれていた。
そして、白銀にその違和感を気付かせた元凶。壁にかけられたカレンダーは、たしかに10月22日を示していた。
「おいおい……。国連軍の制服まで付いてきたのかよ……」
かつてともに戦いし少女の姿が無いと言う事実。そして、自分が戦いの世界に身を置いていたという証の制服。
彼にとって記憶も姿形もそのまま、この平和な世界へと帰って来たということになる。散って行った仲間たちのことを覚えていることは、うれしくもあったが、どこか複雑であった。
いや、無意識にそう思うことで予想される現実から目を背けようとしていたのかもしれない。
「純夏も部屋に居ないみたいだな……」
窓からすぐ隣の幼馴染の部屋に視線を向け、着なれた軍服からかつて着込んでいた制服に着替える。鍛え抜かれた体には少々きついところもあったが、むしろ身体に合い、見てくれは良くなっているだろう。
「しかし、国連の制服もこっちじゃただのコスプレだな。それにしても、あいつは……?」
部屋の様子、家の様子は記憶にあるものと変わりは無い。ならば、なぜあの気高き少女が傍らに居ないのであろうか?
白銀は、記憶を手繰りながら考えたが、結論は出ない。そして、違和感にも気付く。
彼は、たしかに仲間をこの手で撃った。過酷な宿命を背負い、それから逃げることなくその生涯を終えた気高く、美しき少女、御剣冥夜を。
そして、幼き日より常に傍らにあった幼馴染、鑑純夏のその最後をたしかに看取ったのだ。
しかし、なぜ自分はあそこまで、涙を流したのであろうか?
彼女たちは、尊い存在と呼べる仲間であり、自分の一部と言えるほどの無くてはならない友人である。
それでも、それだけの理由であそこまで慟哭することがあるのであろうか?
仲間の死を受け入れることは、かつての上官、伊隅みちるの気高き最後をその心に刻み込んだことで、自らの心に刻みつけたはずなのだ。
失いたくない二人。いや、かつての仲間たちの死に涙をすることを自分は許さない。そう、決意したはずであった。
(でも、純夏はなぜ自我を取り戻したんだ?)
今も忘れることのできない、幼馴染を襲った死すらも生ぬるい悲劇。そして、壊れてしまった彼女を救うために犠牲となった世界。
そのことは、覚えている。彼女を救うための犠牲とは、単なる建前でしかない。すべては、自分の愚かさが招いた悲劇なのだ。
その世界も自分の帰還とともに再構成され、幼馴染と恩師。そして、50億の人々を襲った悲劇も忘却されたはずなのである。
戦いの記憶もある。散って行った仲間たちの記憶も。だが、なにか大切なものを失っているようにも感じる。
そして、なにより感じる、この現実への違和感。
(――静かすぎる)
周囲から、人が生活を営む音、気配、暖かさ。それらが何一つ感じられないことが。
「俺は……、帰って来たはずだよな?」
白銀は、そう呟きながら階段を降りる。リビングは、かつて自分が暮らした家の造りと寸分の違いもない。そして、きれいに清掃され埃などもない。
両親は、旅行に出かけているのだから前もって掃除ぐらいはしているはず。そう結論付けた。
――鼓動。
リビングから玄関へと向かう白銀は、高揚感が全身をつつみこむことを自覚した。意識はしていなかったが、本能は分かっていたのであろう。
――この眼前に広がる光景が、現実であることを……。
広がる廃墟群。破壊の限りを尽くされたその地にあって、動くものは無く、ただ風の舞いあがる音だけが耳をついた。それは、かつて自分が暮らした平和な世界の景色以上に親近感を抱くことのできる景色であった。
「はは、戻って来たのか……。喜んでいいのか、悪いのか……」
そう軽口をたたく白銀であったが、その表情を他人が見れば、喜びと判断するであろう。悲しげな喜びであることはすぐにわかるであろうが……。
そして、周囲見回す白銀が感じる違和感。それは、記憶への違和感と同様のものであった。
(しかし、どういうことなんだ?)
先ほど部屋から見た光景。それがなければ、もう少し早く気付いていたのだろう。幼き時より共に過ごした、唯一無二の親友。鑑純夏の生家が自身の実家と共に健在であったのだ。
「たしかに、撃震はあるけど……。リアクションに困るな、これは。……新たな展開ってやつなのか?」
鑑家と白銀家の門前に倒れる巨大な鉄塊。それは、この世界における人類の剣であり、盾でもある。戦術歩行戦闘機と呼ばれる兵器であった。
白銀の記憶にある限りでは、鑑家を押しつぶす形で白銀と邂逅していたのだが……。
「初めは、純夏の家が押しつぶされているのを見て、笑っていたよな……俺」
思い出すと申し訳なくなってくるが、初めの彼は、御世辞にも歴史に残る衛士の片鱗など欠片も見せていなかった。
かつての平和な世界おいては、ごく平均的な頭脳と体力であっても、この世界においてただの役立たずであった。成長を見せたはずの前の世界においても、自分は、恩師に、上官に、仲間たちに助けられ、生きながらえることができたのであった。
「……やめよう。自嘲したところであいつらは喜ばない……。それにしても……」
かつて、この位置からでも見えていたはずの建物が無い。自分にとって、第二の生家と呼べる場所、国連軍横浜基地が本来あるはずの場所は、荒れ果てた小高い丘のままであり、整地の為の重機が、数台動いているだけであった。
「……まだ、工事中ってことは……、でも俺は間違いなく死んでいるんだよな……」
この世界の白銀は、すでに死亡しているはずであり、身元を証明する手段もない。
(Dog Tagや軍服の階級章を見せたところで、逆に怪しまれるだけだよなあ……)
横浜基地が無いということは、香月夕呼はおそらく帝都にいると思われるが、こ
のまま不用意に動けば、多摩川沿いに展開している部隊に捕まる。
横浜がこのありさまであり、戦術機の残骸が転がる以上、ここは、BETAの侵略を受けている世界であることは、間違いない。ならば、恩師であり、数多の世界で白銀が最も頼みとする女性、香月夕呼と接触しないことにはどうにもならない。
そう結論付けた白銀に耳に瓦礫を踏み崩す音が届いた。今まで気づくことのなかった、複数の人の気配に白銀は慌てて背後へと目を向けた。
「えっ……!?」
思わず声を上げた白銀の眼に飛び込んでくる光景。言葉にならない衝撃が彼を襲っていた。
白銀の介入を待たずして、世界はすでに動き始めていたのである……。