震度7の揺れが阪神地方を襲った。1995年1月17日早朝のことだ。死者6千人を超える大震災。被災地には、全国から延べ130万人を超える人々が応援に駆けつけた。
早瀬昇(はやせ・のぼる)(55)は、大阪ボランティア協会の事務局長だった。18日昼ごろから、事務所の電話が鳴り続けた。
「何か手伝わせてほしい」
「ほっとかれへん」
そんな声にこたえようと、協会はすぐに、被害の大きかった兵庫県西宮市の教会に間借りし、前線本部を設けた。
がれきの片付けや水くみ、炊き出し。仕事は山ほどあった。
開設当初280人のボランティアが来て指示を待つ行列ができた。早瀬はその晩、考えた。
ボランティア一人ひとりに指示を出そうとするから無理が出る。各人の意思を尊重しよう。
考案したのが「ポストイット方式」だ。壁に活動内容や必要人数などを張り出す。ボランティアは、やりたい活動を見つけたら、自分の名前を書いた付箋(ふせん)を張ればいい。こうして、応援を必要とする場所と、個々のやる気が結びついた。
「ボランティア元年」
95年はこう呼ばれている。
◇
震災から間もなく、日本船舶振興会の職員で、ボランティア支援を担当する黒澤司(くろさわ・つかさ)(54)が、早瀬のもとを訪れた。
黒澤は寝袋を担いで神戸市に入り、支援が必要なボランティア団体を探し歩いていた。
日本船舶振興会は笹川良一(ささかわ・りょういち)が設立。旧運輸省との関係が深かった。同会は競艇の収益金を財源に、官僚が天下りする複数の団体などへ活動費の一部を出してきた。ギャンブルの売り上げを元にした、こうした支援の在り方には批判の声も上がった。
こうした意見を背景に、良一の三男で理事長だった陽平(ようへい)(71)は震災の2年前、ボランティア団体にも支援を始めた。
「ギャンブルのお金は受け取れない」。黒澤は現場で追い返されることもたびたびだった。
めげずに被災地のボランティア団体に足を運び、「このお金は使われてこそ意味を持ちます」と訴え続けた。登山靴を履き、携帯電話を手に、がれきの撤去作業が進む街を歩いた。
被災地に張ったテントに泊まり、被災した人の言葉に必死に耳を傾けた。手帳と地図には、避難所や仮設住宅の様子、ボランティア団体の課題などが細かく書き込まれていった。
そんな黒澤の姿を見た早瀬は、実感した。
「ネットワークは、フットワークの足し算なんだ」
お年寄りの世話をするボランティア団体の一員だった中村順子(なかむら・じゅんこ)(63)は震災から数カ月後、黒澤に相談を持ちかけた。
「仮設住宅の一角に、お年寄りが語り合える場所を作りたい。でも、お金がないの」
自治体は、そうした細かな住民のニーズまではつかんでいない。一律の分配が求められる義援金は、小さなボランティア団体には届いていなかった。
黒澤は、中村の申し出を快諾。ほどなく、各地の仮設住宅の敷地にパラソルやいすが置かれ、井戸端会議が始まった。
◇
お金という血液が、組織に流れ込み、活動が広がっていく。
行政の対応の限界が浮き彫りになる一方で、震災は、市民の潜在的な力を広く知らしめた。
こうした市民活動の盛り上がりを受けて、98年3月、NPO法が成立。日本船舶振興会は震災後の96年から、「日本財団」の通称でNPOの支援により力を入れるようになった。
2008年に日本船舶振興会を辞めた黒澤は、宮城県で林業に従事する傍ら、災害があると現地に駆けつける日々を送る。
バブル後の不況は「失われた20年」といわれる。だがそれは同時に、市民活動が成熟に向かう時期でもあった。
営利を目的とせず、福祉や教育、街づくりなど様々な分野で活動するNPO法人は、4万を超えた。行政や企業と並ぶ、社会を支える「第三の柱」として今、育ちつつある。
そんなNPO活動を通して社会の問題に向き合い、行動する人々を訪ねた。(小室浩幸)
(このシリーズは小室、編集委員・隈元信一、秋山訓子が担当します。文中敬称略)