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                            かけはし2004.05.3号

ユーロとドル--今日の世界資本主義の安定化しえない構造(上)

ミシェル・ユソン



 一九九九年一月に導入されたユーロは大方の予想に反し、二〇〇一年までにドルに対して三〇%も下落した。そしてそれ以降、今日までに四〇%近く上昇した。それは、全世界からの大量の資金流入が持続することによってのみ成立するアメリカ経済の「強さ」に依拠した今日の世界資本主義の、きわめて不安定で持続可能性が欠如した現実を象徴している。筆者のミシェル・ユソンはフランスATTAC科学評議会のメンバー。



 現在の世界経済を特徴づけているのは、逆説と誤解である。本稿は、危機そのものを論じるというよりも、ますます不安定さを増している矛盾の構造に光を当てることを意図したものである。

ユーロ下落の構造と結果

 欧州建設の概念全体は、単一通貨は強い通貨としてのみ作り出すことができるという公理に基礎を置いているが、実際には反対のことが起こっている。マーストリヒトの基準を守ることに集中した十年間は、一九九二年に通貨投機の危機とともに始まったが、この危機によって、ユーロあるいは同等通貨のバスケットは、ドルとの関係で強くなるのを妨げられることはなく、一九九五年には一・三一ドルまで価値を高めた。しかし一九九九年一月のユーロ導入の時点では、ユーロは一・一八ドルの価値しかなかった。ユーロの下落は続き、二〇〇一年には〇・九〇ドルにまで、事実上三〇%下落した。
 いったい何が起こったのか。欧州当局がユーロの減価を計画的に行ったという兆候はなく、下落は驚きもって迎えられ、かなり関心を集めた。実際には、ユーロが下落したのではなく、ドルが上昇したのであった。米国経済が提供するハイリターンによる好循環のおかげをこうむったのである。米国は、連続的な金融危機(メキシコ、アジア、ロシア)によって打撃を受けた他の国々を逃れた資本の避難所の役割を果たした。米国のダイナミズムは、「ニュー・エコノミー」の呪文にもとづいて貿易赤字を膨れ上がらせたが、貿易赤字は恒常的な資本の流入によって容易に埋め合わされた。
 欧州の側では、一九九七〜二〇〇一年の景気上昇を経験したが、これはユーロの下落に後押しされたもので、いわゆる「競争的デフレ」政策がもたらした惨状を結果論的に好評価することを可能にし、これが欧州の新しい規範となった。欧州の輸出が為替レートの変動にどのように反応したかを検証することが可能である。
 フランス産業省の研究によれば、ドルに対する為替レートの一〇%の変動は、「三年後に特定部門の生産に大きな影響を与える。電子機器などの広範な部門に二〜三%程度の影響を与え、衣服や靴などの小規模部門には八〜一〇%に及ぶ影響を与える」。さらに、ドルの価値の上昇は、最も雇用を提供する部門の活動にとって有利である。したがって、ユーロの価値の下落が欧州の輸出を全体として後押しし、経済の回復を助けたことは驚くべきことではない。
 米国と欧州の間で、ある種の労働の分業が確立されたように思われる。米国の経済成長は、一方の側の強い需要と他方の側の高い競争力を基礎にして外国貿易を通じて欧州に伝えられている。日本を巻き込んだ三角関係のゲームを論じることも可能だろう。日本は不況に落ち込んでいるが、その理由の一つに円の過大評価がある。日本は大幅貿易黒字を続けているが、もはやそれは輸出商品の競争力によるものではなく、国内成長率が事実上ゼロになっているためである。
 これらの黒字は米国と「ニュー・エコノミー」への資本流出とつり合い、ヨーロッパと世界の残りの部分は米国の赤字を埋めることに巻き込まれている。この図式はすでに大いにアンバランスであるが、このことを心配している論者は少ない。なぜなら、少なくとも生産性の大きな上昇が記録されて以来、「ニュー・エコノミー」は大いなる希望の支えだからである。これを世界経済にまで一般化することが、豊かさを行き渡らせる確実な基礎を与える、と主張されている。

ニュー・エコノミーの限界

 「ニュー・エコノミー」の概念が現れたのは、多くの経済法則の矛盾が明らかになった特殊な局面(一九九六〜二〇〇一年、持続期間は短かった)においてであった。失業が減っても賃金は刺激されず、株式市場の成長は実体経済と関係なくあいまいに持続し、米国経済は持続的成長の秘密を見つけたかのように思われた。
 この構造は確かに、米国が日本や欧州にはっきり差をつける成長率を記録することを可能にし、技術と兵器生産という二つの戦略的領域で覇権を再確立することを可能にした。しかし、この構造は最初から矛盾したものであった。なぜなら、(まさに予告的な記事の中で)英国のエコノミスト、ワイン・ゴッドレーが挙げた「七つの持続不可能なプロセス」をともなっているからである。簡単に要約すると、次の通りである。
一、個人貯蓄のマイナスになるまでの下落。
二、民間部門への純貸付フローの上昇。
三、実通貨供給量の成長率の上昇。
四、利益(またはGDP)の成長をはるかに超える率での資産価格の上昇。
五、財政黒字の増加。
六、経常収支赤字の増加。
七、米国のGDPに比較した対外純債務の増加。
 実際、基礎的会計学から逃れる道は存在しない。どんな国でも、純債務と金融能力は釣り合っていなければならず、この法則を逃れる「新しい」経済は存在しない。個人貯蓄の不足は世界の他の部分からの資本の流入か、財政赤字によってカバーされる必要がある。ニュー・エコノミーの時期の米国の構造は、次のように要約することができる。
一、投資の強い増加。
二、家計が所得の一〇〇パーセントを消費するようになるまでの家計貯蓄の規則的低下。
三、個人貯蓄の不足をカバーするには十分でない連邦予算黒字。
四、貿易赤字の拡大と、大量の資本流入。
 「ニュー・エコノミー」は、供給(生産性の上昇と技術進歩)だけでなく需要もかかわりを持つ。一九九五年から二〇〇〇年にかけて、消費の成長が所得を毎年一ポイント近く上回り続ければ、どんな経済でも良い成長率を記録するであろう。一九九〇年代の米国の相対的に持続的な成長は、二つの重要な要因、すなわち家計消費の成長と投資ブームにもとづいていた。しかし、この方程式を満足させたのは、国内資本調達によってではなく、毎年GDPの一%近い傾向的な貿易赤字拡大によってであった。
 次のように言うことができる。すなわち、資本蓄積と家計の負債は、その大きな部分が、日本および欧州からだけでなく金融危機後の新興国からの、規則的な資本流入によって埋められた。この資本の運動は、ドルを弱めるはずの赤字にもかかわらずドルを強くするのに貢献するほど強力なものであった。すでに見たように、ドルの上昇は欧州の輸出を後押しし、ユーロの成功の(逆説的な)条件の一つとなった。
 欧州が新たな成長を開始することを可能にする相対的な協調関係に到達したように見える。一部のエコノミストは、いまやユーロを持つに至った欧州連合は、新しい技術に投資さえすれば、世界経済の新たな機関車になることができる、とまで言っている。ミシェル・アグリエッタのようなニュー・エコノミーの性急すぎる理論家は、世界の残りの部分にとって拡大の障害となる基本的に非対称的な性格を無視しているのである。
 盛んに言い立てられている「知識の経済」の領域における立ち遅れに関するすべての議論は、現実を無視している。欧州資本はハイテクに投資されているが、それは大西洋の反対側においてなのである。皮肉をこめて、次のように言うことができる。米国は、たとえ本人が希望しても欧州連合への加入を許されないであろう。なぜなら、米国は、欧州諸国が自らに課している基準を全く満たしていないからである。
 「ニュー・エコノミー」がぶつかった二番目の障害は、極めて古典的な利潤率の決定に関連する問題である。利潤率の低下は、「ニュー・エコノミー」がスタートしたわずか一年後から始まった。ハイテク投資のコストは資本の有機的構成の上昇をもたらし、賃金の分け前を増加させた。金融に関しては望ましい条件であるにもかかわらず、利潤に関する非常に「古い」制約が、「新しい」経済の小さな波が当たって砕ける岩をもたらした。要するに、長続きできないものは長続きしないのであり、株式市場の下落が、あらゆる幻想を打ち壊したのである。

ブッシュの戦争とドル下落

 9・11を口実にして、ブッシュ政権は、未曾有の負債がもたらす破局を避けるための一連の対策を取った。一つの目的に集中した新しい戦略に向けて、大きな転換が行われた。その目的とは、どんな犠牲を払っても、たとえ世界の残りの部分へ不況を輸出することになったとしても、米国の成長を維持することである。行われた一連の決定が、この新しい方向を物語っている。まず、京都議定書を拒否し、米国経済の利益を他の考慮事項より優先させることを明言した。
 一方的であるだけでなく、他国に課してきた自由貿易主義になりふりかまわず矛盾して、米国は鉄鋼輸入に対して典型的な保護主義的政策を取り、農業関連ビジネスに対して新たな補助金を追加した。続いて予算政策を根本的に転換し、急速な増大を続ける赤字容認路線に転換した。これは部分的には軍事支出の増大のためであるが、第一に富裕層への減税を考慮したものである(たとえば、配当への所得税免除)。通貨レベルに関しても、ドルの価値をユーロに対して下落させるという、明確な決定が行われた。言いかえると、米国は、輸出競争力を高めて(ある程度)赤字を減らすために貿易攻勢を選択したのである。
 ドルとユーロ(または、同等通貨のバスケット)の為替レートは、過去三十年間にかなり広い変動幅を経てきた。主要に五つの段階に分けることができる。
一、一九七一年のドル危機から始まる第一段階。金との交換停止後、一九七〇年代を通じてドルは価値を下落させた。
二、一九八〇〜八五年の第二段階。欧州通貨に対してドルが強まった。
三、一九八五年のプラザ合意に始まる第三段階。ドル以外の通貨、主として円とマルクの価値を強制的に価値を高めることが合意された。この事実上のドル切り下げ以降、ドルの交換比率は大きく変動したが、低いレベルに留まった。
四、一九九六年から始まる第四段階。ユーロに参加する欧州通貨の急激な上昇が見られた。この傾向は、一九九九年一月一日のユーロ創設まで逆転することはなかった。
五、二〇〇二年前半に始まる第五段階。ドルが下落し始めた。二〇〇二年二月から二〇〇三年十月の間に、ユーロはドルに対して三分の一以上高くなった。

ユーロ上昇と地中海クラブ

 ドルに対して三〇%も価値を下げた後、ユーロは上昇し始めた。これは欧州経済の健全性を示す兆候だったのだろうか。強力な通貨の信奉者にとっては、こんなことは当然であり、強いユーロはインフレの輸入に対する保護を提供する、ということになろう。しかし、一歩下がってみれば、情勢は非常に不安定であり、強い通貨は強い経済を意味しないのである。ユーロの復活は欧州経済の成長鈍化と符合しており、不況が差し迫っているのである。
 ユーロ創設のために行われたあらゆる努力は、単一通貨の期待される利点によって正当化されるはずであった。それによって真の欧州マクロ経済政策を展開することがついに可能になり、それによって成長と雇用がもたらされる、と言われたものである。
 これが実現して一九九七〜二〇〇一年の間にもし一千万の雇用が創出されていれば、感銘を受けたことだろう。しかし、これは幻想であった。欧州の輸出を刺激したのは、大いにユーロの価値の下落のおかげであった。これはまるで、欧州全体に(加盟各国に対して逸脱行為として非難されてきた)「競争的通貨切り下げ」政策が適用されたようなものである。したがって、まさにこの特定の時期が、統合基準の論理を受け入れると同時に雇用に有利な政策を行うことが可能である、という誤った印象を与えている。
 ドルの価値の下落を中心にした米国の貿易攻勢に直面して、欧州建設の前途に大きな真空が待ち構えている。単一通貨は存在しているが、為替レート政策は存在していない。ドルに対するユーロの望ましいレートはいくらなのか。欧州中央銀行は、インフレ目標二%に関しては目を光らせているが、信じ難いかもしれないが、為替レートに関しては何の目標もなく、出資条約のどこにも何も書かれていないのである。
 ユーロの主要機能が、実は通貨としてではなく、むしろ賃金を規制する道具として考えられたことを示しているのかもしれない。いずれにしても、ユーロがドルと競争することができる真の国際通貨になろうとしているのであれば、為替レートと金利の領域における一貫した政策が必要である。言いかえれば、必要なことは、通貨(およびその他)に関する米国の命令に対して自律的なヨーロッパ的議論であろう。
 欧州内部では、この転換はある巨大な逆説に光を当てた。すなわち、ドイツ経済が元気がないことが欧州全体の危機を覆い隠すのに役立っているという逆説である。ユーロ導入前の数年間は、金融ブルジョアジーは、信頼性を弱める通貨がユーロに参加することを懸念していた。軽蔑的に「地中海クラブ」と呼ばれていた南ヨーロッパ諸国(スペイン、イタリア、ポルトガル、ギリシャ)をユーロ・ゾーンから除外し、ユーロ・ゾーンは最初はフランとマルクを中核として構築すべきであると主張されていた。ドルの下落の前の欧州の危機が長引いていたときには、このオプションが真剣に予測されていた。「国家主権」の防衛を重視したユーロ批判は、将来の欧州中央銀行はドイツ銀行の欧州版に過ぎないと主張していた。
 実際には、再統一によってドイツのヘゲモニーの衰退が始まった。再統一によってドイツ経済は国内市場に集中することになり、目覚しい過去の工業的余力は消え去り、それとともにドイツ経済の優位性も消え去った。「地中海クラブ」が設立当初からユーロ・ゾーンに参加できたのは、まさにこの相対的弱体化のためである。
 そして今日では、ドイツは隣国に強制してきたマネタリズム的論理の最初の犠牲者になっている。ドイツは為替レートを高すぎるレベルに永遠に固定され、為替レートに対して役割を演じることができず、実質コストを調整するために経済にブレーキをかけ、社会的モデルを修正することを余儀なくされている。この競争原理は、ドイツを重要な顧客としているすべての隣国に擬似不況の雰囲気を拡大させている。(つづく)


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