自転車と歩行者の事故がここ10年で3・7倍に急増する中、自転車側に高額賠償を命じる判決が相次ぐなど、影響がじわりと広がっている。こうした問題を取り上げた毎日新聞のキャンペーン「銀輪の死角」に、手紙やファクス、メールなどで多くの反響が寄せられた。当事者や読者の体験と思いを紹介するとともに、識者インタビューを交えながら、自転車にも歩行者にも優しい社会のあり方を考える。【馬場直子、北村和巳、森禎行】
福岡市の東にある福岡県篠栗(ささぐり)町の職場まで約7キロの道のりを毎日、自転車で約25分かけて通勤する内海さんは、車に何度もひやりとさせられ、ついに今年9月、事故に遭った。「日本は交通弱者への配慮が足りない。車は自転車に、自転車は歩行者に、もっと気を配るべきだ」と訴える。
学生時代から自転車好き。「乗ると心身がすっきりする」と言う。だが、交通ルールに従って車道左側を自転車で走りながら実感するのは、車のドライバーの自転車に対する認識不足だ。追い越せずにいらいらしている車からクラクションを鳴らされたり、幅寄せされたり。「歩道を走れ」と怒鳴られたこともあった。
危険を感じて大通りを避け、ヘルメットもかぶるようにした。それでも9月、交差点を左折しようとしたワゴン車と歩道の縁石に自転車ごと挟まれ、右手足に打撲の軽傷を負った。身をもって危険を知り「自分の子に『交通ルール通り車道を走るように』と指導することは、正直できない」と話す。
以前に1年滞在した米国では、歩行者や自転車を無理に追い越す車はなかった。「日本は意識の面で(米国に)負けている気がする。もう少し、弱者に優しい社会になってほしい」と語った。
9月上旬、名古屋市内で自転車に乗っていた自営業の男性は、別の自転車と衝突して頭を打って以来、物事に集中できなくなった。相手は保険に加入していなかった。症状は今後どうなるのか、治療が必要なら相手に費用を負担してもらえるのか、将来に不安を抱える。
事故は、自転車で取引先に向かう途中で起きた。JR名古屋駅近くの交差点で高齢男性の自転車と衝突した。男性によると、歩道から車道に出て横断歩道を横切ろうとしたところ、右側から渡り始めようとした相手の自転車とぶつかり転倒、後頭部を路面に強く打ち付けたという。
自分で費用を負担して病院の診断を受けた結果、異常はないと言われた。しかし、考え事をしようとしてもまとまらず、興奮すると頭がズキズキ痛む。
精密検査を受けたいが、ためらっている。治療費を相手に負担してもらえるか分からないからだ。交渉は誰も助けてくれず、当事者同士で何度か話をしたが、白熱してくると頭痛がして、十分な話し合いはできていない。
自転車事故は責任があいまいになることも実感した。「相手が保険に入っていたら、(その後の処理は)もっと簡単だったはず。車の事故なら、みんな保険で対処されるのに」と、肩を落とした。
勤めていた会社を20年前に退職した井上さんは、大阪府寝屋川市内で自転車の交通ルール違反に対する声掛け運動を続けている。これまでに無灯火で約5000人、信号無視で約2000人に対し、ルールを守るよう注意した。
「小さな積み重ねだが、ルールを定着させ、他人を思いやる気持ちを広めたい」と力を込める。
退職後、街を歩く余裕ができて気付いたのは、自転車の無謀運転が多いことだった。犯罪や非行の防止に取り組む法務省の「社会を明るくする運動」に参加したが、青少年に社会のルールを守らせるには、身近な交通ルールの順守を徹底させることから始めるのが効果的だと考えた。
当初、自宅周辺が中心だった活動範囲は、02年にボランティア団体をつくって以降、市内全域に広がった。協力する仲間は現在約30人。自転車の夜間点灯を呼び掛ける縦15センチ、横30センチのプレートを手作りし、活動時に乗る自転車の前かごに張っているほか、学校の自転車置き場や自転車販売店の店頭に張るよう要請している。
こわもての男性に肩をつかまれたこともある。それでも「モラル低下を嘆くのは簡単だが、『あかんもんはあかん』と声を出す勇気が大切」と話した。
自転車は道路交通法上、車と同じ「車両」なので、車道の左側を走るのが原則。「歩道通行可」の標識がある場合や、13歳未満か70歳以上の人が運転する場合、路上駐車で車道がふさがれるなどやむを得ない場合には歩道を走れるが、車道寄りを徐行しなければならない。徐行とは、すぐに止まれるスピードのことで時速7キロ前後とされる。
自転車用通路には(1)車道や歩道と柵や縁石で分けた「自転車道」(2)車道に線を引くなどして区切った「自転車レーン」(3)歩行者も通れる「自転車歩行者道」(歩道の一種)--がある。(1)と(3)は道路の左右どちらを走るか決まりはないが、対面通行を避けるため左側通行が望ましい。(2)は車線の一種なので左側通行しかできない。
自動車には、事故で相手を死傷させた場合に備えて強制的に加入させられる自動車損害賠償責任(自賠責)保険があるが、自転車にはない。自転車専用の保険は団体向けなどに限られており、自転車事故で相手を死傷させたり物を壊した場合に備えるには、任意加入の「個人賠償責任保険」がある。火災保険や自動車保険などの特約として付けるのが一般的。保険料や補償上限額は、保険の種類による。自分のけがに備えるには「傷害保険」がある。
これらとは別に、自転車店で、資格を持つ整備士が安全と認めた自転車に張る「TSマーク」には、自分や相手が死傷した場合に備えた保険が付く。有効期間は1年だが、整備料も含み1000~1500円程度払えば、対人死傷で最高2000万円を補償する。
自転車事故は交通事故全体の2割、出合い頭事故に限ると4割を占める。自転車の走行秩序が乱れているからで、その原因は走行環境の不備。対策は何より自転車の走行スペース確保だ。従来、国は車の事故・渋滞対策に手いっぱいで、自転車に手が回らなかった。
道路交通法の改正は、自転車が自由に歩道を走っていたので、ルールを明確にし無秩序状態改善の入り口にしようとした。取り締まりの上でも重要だった。
自転車の利用者は子供から高齢者までいて、使い方もさまざま。これは日本の文化で、「大人の乗り物」とされる欧州と異なる。車道走行が原則だが、一律化は非現実的。歩行者優先を徹底して例外的に歩道を走らせることは必要で、悪いことではない。
04年から車の交通量が減る一方、道路建設は進んでおり、走行空間の再配分が可能になっている。長期的には自転車の走行スペースは生み出される。
交通ルール教育は時間がかかるが、繰り返していけば必ず状況は改善する。学校でもう少し時間をとってもらい、指導者を含め体系的に取り組めればいい。警察の取り締まりも不可欠だが、社会が受け入れるかという問題があり、現時点では「悪質な違反を許さない」というやり方が正解だ。
道交法改正時、自転車にも反則金納付の行政処分を行う「交通反則通告制度」の導入を探る議論があったが、大量の違反を一律に取り締まる状況ではないと判断した。今考えると実現しておけばよかったかもしれない。大々的な対策の中でなら社会も受け入れた可能性がある。(談)
◆読者の主な声
歩行者の感じる怖さと不安を記事にしてもらい感謝している。近所に小中高校があるが、(自転車を)横並びで運転するなどマナーが悪い。社会人になる前に教育すべきだ。
近所の高齢者が歩行中に自転車事故に遭い、重傷でつえが手放せず職も失った。相手は逃げて泣き寝入りだ。高齢者や幼児、障害者の人たちにも安全で安心な歩道にしてほしい。
車道を走る自転車の「右側通行」が危ない。通勤時は狭い車道の左側を自転車で走っているが、正面から逆走の自転車、後ろから自動車という恐怖をほぼ毎日体験している。
自動車免許を持たない未成年に法律をどう伝えるかが問題。学校の授業に入れるべきだ。習わないまま「道路交通法に違反した」として処分や罰金を出しても、反発が出る。
夫が自動車事故を起こしたので、自分は事故を起こすまいと自転車を使っている。乗って初めて、学生などの運転マナーの悪さを感じた。警察の指導が甘いのも問題だ。
罰則がないと、人は守らない。歩きたばこに条例で過料を科す形を、自転車にも取り入れるべきだ。取り締まり要員が必要になるが、雇用創出にもつながるはずだ。
自転車には体を守るエアバッグがないなど、多くの利用者は車道走行を危険と感じている。取り締まりだけでなく、自転車と自動車、歩行者がすみ分ける道路整備が欠かせない。
道路交通法で「原則車道走行」とのことだが、車道を走ると大阪府警から「危険なので自転車は歩道走行を」と指導される。法律と現状に差があり、「原則車道」に違和感がある。
自賠責保険の自転車への導入は賛成だが課題もある。ナンバーがないし事故後に走り去る人が多い。自転車販売時に保険料を徴収し自治体が管理すれば効果的かもしれない。
自転車の自賠責保険導入に反対だ。手軽に使えるものなのに(制度で縛ると)利用促進を制限する。加入手続きが煩雑なら廃棄自転車も増える。大規模な制度は不要だ。
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1919 街路の構造や、維持・修繕・工事方法などを定める「街路構造令」が制定され、自転車道の設置を規定
38 旧東京市板橋区に自転車道を設置
58 道路の新設や改築の際に道路構造の基準を定める「道路構造令」制定。自転車の車道通行量に応じて車道幅を広くするほか、自転車や荷車などのため「緩速車道」も規定
59 自転車産業協会が建設相(当時)に自転車専用道路設置の要望書提出
60 道路の交通安全や交通円滑化を図るための「道路交通法(道交法)」制定。自転車の車道走行を規定
70 道交法改正。自転車は公安委員会が指定する歩道を通行可能に
〃 道路構造令改正。自転車・歩行者とも通行できる「自転車歩行者道」を規定
〃 「自転車道の整備等に関する法律」制定
78 道交法改正。自転車の歩道通行の要件規定
98 「自転車利用環境整備モデル都市」を指定
2001 道路構造令改正。自動車と自転車の交通量の多い道路での自転車道の原則設置を規定
07 道交法改正(08年施行)。児童や高齢者、やむを得ない場合の自転車の歩道通行容認
08 「自転車通行環境整備モデル地区」を指定
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■人物略歴
元警視総監。警察庁交通局長時代の07年、自転車の歩道走行ルールを明確化する道路交通法改正に携わった
毎日新聞 2010年11月7日 東京朝刊