時代の風

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時代の風:日中の情勢に思う=東京大教授・加藤陽子

 ◇1930年代に似た空気

 文章を書くことは孤独なものなので、読者からのお便りや読み巧者がインターネットに上げた読後感などは、私の一番の宝物とあいなる。

 最近いただく感想で突出して多いのは、現在の国内外の状況をみると、「満州事変から日中戦争へ」(岩波新書)で描いた1930年代の雰囲気が今と似ていて怖い、というものだ。歴史は繰り返さない。しかし、世界不況と国際秩序の変動期にあって、社会の構造や制度がそれに追いつけない時、国民は心情のレベルで国内外の情勢に対応するようになる、とのパターンが似ているのかもしれない。

 この本で私は、31年の満州事変から33年の国際連盟脱退に至る過程で、日本がいかなる主張を連盟で展開していたかを書いた。日本と中国が激しく争ったのは、満州事変に先立つこと25年前、日露戦争の後で日本がロシアから継承した諸権益をめぐる条約の解釈だった。今年起きた尖閣問題の背景にも、78年の日中平和友好条約交渉時の未処理案件や解釈の違いがあるのだろう。こちらは32年前のことではあるが。

 満州事変を、その計画者・関東軍の意図から説明するのは簡単だ。将来に予想される対ソ戦を有利に戦えるように、国境線を北へ上げておく、これに尽きる。だが、真の意図を隠しつつ、昭和戦前期の陸軍が国民を説得するのに用いた論理の肝は、中国への不満をあおるところにあった。いわく、中国は、日本が日露戦争によって正当に獲得した満州の特殊権益に関する条約を守らない国である、と。陸軍は時局講演会などで、中国側の条約違反の最たる例として、「併行線」問題を取り上げるのが常だった。

 では、併行線問題とは何だったのか。日本の権益の柱・南満州鉄道に関し、この満鉄に併行して走る幹線鉄道や支線を中国は敷設できないとの条約があったのに、中国は違反する鉄道を敷設したのだと非難する日本の主張である。条約を守る日本、守らない中国、との二項対立で、陸軍は国民をあおっていった。

 本問題につき、リットン報告書と連盟が下した結論をみておこう。報告書は、日本側が主張するような、併行線を禁ずる条約(・・)は存在しないと断じた。ただ、05年末、日中間で開かれた北京会議の議事録中に発言(・・)の記載がある、と指摘していた。この結論は史料からも支持できる。全権・小村寿太郎や同時代の外務当局は、この併行線問題に言及する際には、必ず「北京会議録に存する明文(・・)」と、正確に呼んでいたのである。

 満州問題の危機を国民に説く際、陸軍は中国側の条約違反を喧伝(けんでん)し、黒白(こくびゃく)をつけるための外交論争に自ら入っていき、そして敗北した。明治の外務当局に自覚されていた正確な知見は、昭和の陸軍当局には継承されなかったと考えざるをえない。もっとも、別の推測も可能だ。当初は国民を欺いているとの自覚のあった当事者も、しだいに自らの宣伝を信じるようになった、との見立てである。これについては、鶴見俊輔氏の「思い出袋」(岩波新書)が深い。「自分だけだまさずに他人をだますのはむずかしい。日本の政治家はそこまでかしこくない」と。この感慨を抱いた当時の鶴見氏19歳、41年秋のことである。

 30年代と今の空気が似ていると気づいた読者であれば、そのきな臭さの一半が、今の中国の外交姿勢に起因していることにも気づくだろう。現在の中国は、外交に黒白をつける思想を持ち込んでいるといわざるをえない。日本の戦争によって最も惨禍を被った国だからこそ、日本の過誤の過程を最もよく見てきたはずではなかったのか。

 むろん、私たち自らを顧みる必要があるのはいうまでもない。そのような時にお薦めの本を2冊挙げておこう。まずは、日中友好に大きく貢献し、中国大使も歴任した中江要介氏の「アジア外交 動と静」(蒼天社出版)。6名の気鋭の若手研究者による行き届いたインタビューの記録である。中江氏は言う。中国側が感情を害する案件が生じた時など、慌てずに「中国はこんなことで怒るのか」という点のみを、情報として蓄積すればよいのだと。外務当局の重厚な知恵は若手の手で、しかと後世に伝授された。

 2冊目には、70年代生まれの若手による刮目(かつもく)すべき批評を挙げたい。大澤信亮氏の「神的批評」(新潮社)である。批評の主たる対象は、宮沢賢治、柳田国男、北大路魯山人の3巨人。彼らはそれぞれの時代において、「生きるとはどういうことか」という、一見するとやぼな問いに、いかに深く向き合っていたのか。

 人間は、「食」という行為を内蔵された肉体をもって生まれてくる。食べることは奪うことであり、殺すことでもあるならば、人間の身体は、暴力を初期設定されて生まれ落ちてくるともいいうる。

 では、そのような存在としての人間は、弱い者がさらに弱い者をたたく暴力の悪循環を断ち切るために、いかにすべきか。賢治が格闘していた問いを、大澤氏はこのように掘り当てた。著者の眼差(まなざ)しには、ありふれた現実を回転させ、真に世界を変えるに足る力がある。3巨人もまた、しかと現代によみがえった。=毎週日曜日に掲載

毎日新聞 2010年12月5日 東京朝刊

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