明けぬ夜の闇の中で
〜セレイン・メネス〜
 
 

 私はガレキの中を歩いている。
 あたりにはねっとりとからみつくような濃白色の霧が立ちこめて、私の手足の動きにあわせて体のまわりで渦をまく。
 かつては舗装された道路だったはずの、砕けたアスファルトやコンクリートの上を歩いているが、不思議とブーツの音も、踏みつけられたコンクリートの破片がたてるはずの乾いた音も、聞こえない。
 あたりはまるで音のない世界のように静まりかえり、その静かさが耳に痛いほどだ。

 …………これは夢だ。

 歩きながら霧の向こうを見通そうとしている私は、はっきりとそれを意識する。
 これは夢。いつも見る夢。
 私はこの先に待つものがなんであるか、知っている。
 私を待っているのは、1人の少女。
 死んでしまった、かわいそうなあの娘。
 知っているのは、ただ“レラ”という名前だけ。ファミリーネームも知らず、それが本名かどうかすら、私は知らなかった。
 私はまた、ここでレラと会う。この夢の中で。いつものように。

 敵も味方も、知っている者も知らない者も、あまりにも多くの者たちが私のまわりで死んでいった。だが、私は彼らを夢に見たことなどほとんどなかった。少なくともこれまでは。
 ……これは私の悔恨のゆえか、それとも、罪の意識のせいか。
 だが夢の中のレラは、私を責めたてるどころか、私を憐れむ。命を落とした自分よりも、私のほうがかわいそうだと。
 夢の中のレラは、気がつかない。言葉よりも、彼女のその姿こそが、私を責め続けているのだと。そしてそれは苦しみをもたらすと同時に、苦しいがゆえに救いでもあるのだと。

 私は大きなビルの残骸をゆっくりと回りこむ。その先でレラは私を待っている。あの時と同じ姿で。
 そしてまた私に言うのだ。

『ねえセレイン。アタシ、アンタに会えて良かったって、ほんとにそう思ってるんだよ』

 私には、その言葉を受け入れることができない……。
 
 

Chapter,1 『私の戦場』
 

 アフターコロニー196年、10月。
 シャア・アズナブルの反乱、そしてあの銀河系外での“アル=イー=クイス”と名乗る敵との最後の戦いから、すでに半年がすぎた。
 人類が滅びる危機、あるいは地球の最後、などといった状況ではなくなったものの、誰もが予想していた通りに、地球圏はいまだ平和にはほど遠く、長い戦いの混沌からぬけだしてはいない。
 カトルのウィナー家やロームフェラ財団、多少なりとも工業力を残していたサイド3(いまではジオン共和国と呼ばれているが)などの被害の少なかったコロニーの尽力も、まださほど効果をあらわしていないといっていい。
 地球では多くの難民たちがあふれ、瓦礫と廃墟の中から新たな自治組織が無数に生まれつづけている。そして、それ以上の数の、他人を踏みつけてでも生きようとする輩の集団が跳梁しつつある。
 小さなレベルでの“平和”は、もちろんある。各地で復興に従事する者たちの顔には、確かにかつてはなかった笑顔が浮かび、子供たちの子供らしくはしゃぎまわる姿もみかけるようになった。そして聖女ジュリアの行く先々で、人々は未来への希望を新たにする。
 だが、かつてムゲ=ゾルバドス帝国の影響下にあったころトレーズ・クシュリナーダが語ったように、凄惨な殺し合いはなくなったわけではなかったし、自分たちが生きるために必死で、他人のことを気にかける余裕がない者たちが大部分なのも、また確かだ。そして、まさしくあの男の言葉通り、パンの一切れ、ミルクの一杯が手に入らないがために、争い、死んでいく者たちがいることも……。
 かつての私ならば、そういった者たちが死んでいくことを気にはしても、とくになんの感慨も抱かなかったに違いない。戦う力のなき者は、その気力のなき者は、自らの望む死も、ましてや生も、手に入れられない。私の駆け抜けてきた道は、そういう道だったのだから。しかし今は……“マーチ・ウインド”でのあの戦いの日々をへた今は、多少考え方が変わってきているのが、自分でもわかる。
 “平和”……。
 地球圏が“平和”と呼べる状態になるには、まだ数年以上の時間が必要だと、ブライト・ノア大佐たちは言っていた。
 あくまで地球の危機を救うという目的のためだけに集まった独立戦隊であった“マーチ・ウインド”は、今から4ヶ月前に解散した。そして、ロームフェラや月、コロニーとの協力の中で、解放戦線やカラバ、OZの構成員も含めた地球圏治安管理機構(“EARTH Security Management Organization”E.S.M.O.)として再編成されつつある。一部ではイズモ……“出雲”と呼ぶ者もいるそうだが、私はその意味を知らない。

 E.S.M.O.は連邦やかつてのOZにかわる政治体ではなく、あくまでも軍事力を行使して争乱を防止するための、一時的な治安組織だ。ドモンや甲児たちは去ったが、もともと軍属にあった連中はその多くが組織に残留し、そして私もまた残っている。私は結局、まだ戦うことをやめてはいないのだ。
 かつてジャブローでレラは私に、「この戦いが終わったらどうするのか」と聞いたが、なんのことはない。地球の危機を脱してもいまだなお、戦いなど終わってはいないのだから、まだ答えなどでるわけがない。いや、あるいは確かに戦いは終わっていて、今の私の行動こそが、間違っているのかもしれない。
 『クライシス・ジャンキー』。
 『自傷癖あり』。
 あの戦いのあと、私はレディ・アンのすすめで、OZの兵士向けのカウンセリングを受けた。そのとき私に出された診断が、それだった。 レディ・アンは困惑した顔で、「OZの士官なら除隊勧告をする所だが……」とつぶやいた。幸いにして(あるいは不幸にして、かもしれないが)、E.S.M.O.への編入時に、その記録は参照されなかったようだ。
 だが、私にとっては、どうでもいいことだ。戦い続ける以外に、どんな生き方が選べるというのか。選択肢など、ないに等しいというのに。
 


 所々ひび割れたむきだしのコンクリートの壁に、オレンジ色の光が波のようにゆるやかに揺れている。建材にも使われるプラ・コンクリートを切りだした分厚い板に、幾重かのブランケットをしきつめただけの固いベッドから私は身を起こし、朝だというのに薄暗い窓をながめた。
 ザーッというノイズのような音、窓を叩く水滴の音で、雨がふっているのだと知れる。私は小さくためいきをもらし、ベッドに腰かけて炎がゆれるオイルランプへと視線を泳がせる。こんな日は、比較的平穏に一日が終わるのが常だ。今日の出動はないかもしれない。
 この建物には、昔はさぞかし大勢の人間たちが住んでいたのであろうが、今は地上3階までが残っているだけの、ただの倒壊したビルにすぎない。いまにも崩れそうだったこの建物に強化プラスチックを吹きつけて補強し、我々E.S.M.O.が使用しているのだ。
 発電装置も据えつけられ電気も通っているが、私の部屋にはライトがなかった。こんな所では、備品が足りないと文句をいっても始まらない。別にライトがなくても命にかかわることではない。それに、ゆらゆらと揺れるランプの光をながめるのも、私は嫌いではなかった。

 グレートブリテン島北部。かつてハイランドと呼ばれていたあたりにある、アルウェリという小さな街。それがいまの私の任地だ。
 アルウェリという名前はグラドス人がつけたものだと、私はここにきてから聞いた。それがどういう意味の言葉なのか、ここがかつてなんという街だったのか(あるいはその一部だったのか)、私は知らないし、特に知りたいとも思わない。それは今のこの街には、そして無論私にも、何の意味もないことだ。
 いまここで暮らしている人間たちのうち9割は、別の場所から連れてこられた人々だったという。そう、彼らは4年前のあの日、衛星軌道上からの攻撃で地上の都市や街の7割が焼かれたあの日、生き残ったが住む場所を失った人々だった。
 ムゲ帝国の戦後の管理体制は血と恐怖によって成立していたが、少なくとも、生き残った者たちを、そしてただ生きていくことだけを望む人々を、それ以上無意味に殺すようなことはそれほどは(あくまでもそれほどは、だ)多くはなかった。彼らは比較的被害の軽微だった地域に街をつくりなおし、そこに周囲の地域の人々を集めたのだ。アルウェリは難民の街であり、3年近くの間、ムゲ帝国の規定したB級市民とC級市民の暮らす街だった。

 この街は、銀河帝国軍の無差別攻撃の中でも、3分の1は破壊をまぬがれたと聞く。戦後、いまだ立場の逆転をよしとしない異星人ゲリラや、武器を持った盗賊のような集団が目をつけるのは、このような多少なりとも“人の暮らし”を残しながら、しかも暴力に対する抵抗力のない街だった。そしてもちろん、我々が治安維持のためにここに派遣された理由は、そういった連中から街の人々と街の復興作業を守るためだ。
 ここが今の私の戦場というわけだが、そういつもいつもそんな連中が襲ってくるわけもない。我々の任務には、周辺地域も含めた治安の維持、つまり余計な紛争、争乱の抑止力たることも含まれている。
 警察としての機能を求める声もあるが、たかが中隊規模の頭数の我々に、そんなことはできようはずもない。なんとかしてやりたいとは思うが、現実には自警団とやらにがんばってもらうほかはないのが現状だ。
 我々がこれだけの人数で任務をこなせるのは、優れた機動兵器を有し、補給が確保されているからという、ただその一点につきた。我々の“敵”が持つ機動兵器はといえば、その多くが一年戦争時代の旧式であったし、整備状態も良いはずがない(かつて反帝国ゲリラであった我々が、まさにそうだったように)。そしてそれすらもごく一部であり、基本的には重火器を持つ人間、あるいは武装した装甲車両を相手にしている。我々がこれまで繰り広げてきた戦いからすれば、その規模はくらべるべくもない。だから、戦闘に勝利するのは容易だ。しかし人手が必要な事柄となると、話はおのずと別になる。さらに、我々は戦闘以外の技能を持ってはいない。つまり、そういうことだった。

 この地に赴任してから、すでに約一月がすぎた。哨戒任務のための出動はほぼ毎日のようにあったが、戦闘になったのは数えるほどだ。私がここへくる前のこの部隊の機体は、トラゴス2機とジェガン1機、エアリーズ1機。それに作業用として使われている装甲の状態が悪いザク2が1機。たいした戦力ではないが、現在ではそれに我々の新型機2機が加わることで、とりあえず形にはなっている状態だ。
 そう、我々の、である。まったく、なんということだろう。E.S.M.O.への参加と地上での治安維持任務の希望を申しでた私に、この地への赴任を言い渡したのはアムロ・レイ少佐だったが、まさかそこにもう1人加わっていようとは。それも、考え得る限りもっとも最悪な人事だ。よりによって、マーチウインドを離れた後にもあの男、リッシュ・グリスウェルと一緒とは。
 もちろんこれは偶然ではない。“本人の強い要望により”私と同じ任務、私と同じ任地になったのだと、後にアムロ少佐が教えてくれた。そのとき私は、半分本当に自失状態になりつつも、私に選択権はなかったのか、と問いただした。詰問口調になってしまったのは、しかたのない所だろう。私はニュータイプと言われる少佐を尊敬しているし、現在残っている数少ない理知的組織の1つであるE.S.M.O.のやりようにも、ある程度信頼を置いている。だがそれを差し引いてもなお、私は声を荒げずにはいられなかったのだ。
 しかし……私に返ってきたのは、「そうか、君にも確認するべきだったな」という生返事に比べればマシという程度の無意味な言葉と、少佐の後ろにいたベルトーチカの含み笑いだけだった。まったく、なんということだ。
 そしてそれ以後、現在にいたるまでその状況は改善されておらず、私は任務とは関係のない所で強い疲労を感じる日々をすごしている。
 この地へ赴任して驚いたことは、もう一つある。それはここの駐留部隊長であるユーリヒコフ少佐が、もとジオンの軍人であったことだ。ハマーンのアクシズや、シャアのネオ・ジオンとは違う、ジオン公国の軍人であった男だ。
 長い戦いの結果、あまりにも大勢の人々が死にすぎた地球圏は、特に地上では深刻な人材不足に悩まされている。それを考えれば不思議ではないことであるし、私はジオンの独立戦争のときはまだほんの子供で、いまさらジオンと聞いた所で特に特別な感情を抱くいわれもない。それにしても、どういう経緯でそうなったのかは知らないが、思いきった人事ではある。おそらくレディ・アンの采配だろう。
 


 しばらく雨のうちつける窓を眺めたあと、私はベッドサイドのテーブルの上からグリーンティーのボトルを取り、透き通った緑色の液体を口に含んだ。苦みがあるものの、口の中がスッキリして寝起きのいやな感じを消してくれる。
 私がグリーンティーを飲むようになったのは、マーチ・ウインドで初めて口にしてからだった。誰かにすすめられて飲んでみたのだと記憶しているが、いつだったのか、誰にだったのかは、覚えていない。しかし、最近では好みの飲み物の一つになっている。アイスでもホットでも飲める上、コーヒーよりも後味が残らないのが、気に入っている理由だ。
 私はもう一口飲んでから、ボトルのキャップをしめ、テーブルに戻した。
 昨夜、またレラの夢を見た。そのせいか途中で目が覚めたまま眠れなくなり、再び眠りについたのは明け方だった。いまでもときどき、こうしたことがある。だから私は、夜もランプを灯したままにするのが、習慣となっていた。
 目を覚ました時に真っ暗だと、自分はもしかしたらもう死んでいるのではないか、と思うことがある。レラや、多くの私の知っている(あるいは知っていたと言うべきか)死者たちと、同じように。それがたまらなく嫌だったのだ。自分が死に恐怖しているのではなく、心のどこかでそのことに、自分が死んだのだということに、安堵しているのではないか、と思うことが。
 ランプの小さな炎から目をそらし、無機質で冷たい数字を表示している時計をみた。時間は午前7時半。少し寝すぎたらしい。あと30分ほどでミーティングが始まるから、今日はまともに朝食をとる余裕はない。後で栄養バーでも食べておけばいいかと思いながら、私は固いベッドから降り、洗面台へと向かった。
 ドアが叩かれる音がしたのは、その時だった。

「誰だ?」
 閉じたままのドアの前に立ち、来訪者へ声をかける。
「よ、おはようセレイン」
「…………」
 その無意味に陽気な声を聞いて、私はいっきに気が滅入るのを感じた。ただでさえ陰うつな朝だというのに、なんだってあいつが私の部屋へくるのだ?
「おーい、俺だ、リッシュだ。開けてくれよ」
 ドアの向こうに立っているはずの、ニヤけた顔を思い浮かべ、私は罵声をあびせたくなるのをぐっとこらえる。奴のおかげでもう十分すぎるほど、他の隊員から余計な勘ぐりを受けている。これ以上、無責任なうわさ話を増やしてやることはない。
「……何の用だ」
「おいおい、何を怒ってるんだよ。とりあえず開けてくれないか」
「何の用だと聞いている。そこで話せ」
「冷たいな、まったく。お前、飯を食い損ねただろう。バンとサラダをもってきてやったぜ。それと、ミルクもだ。なあ、開けてくれてもいいんじゃないか?」
「……ちょっと待ってろ」
 私は大きくためいきをついてから、そうこたえた。

 とりあえず顔を洗い、Tシャツとパンツに着がえてから、ゆっくりとドアの所へと戻る。開閉スイッチに触れると、シュッという圧搾空気の音をたて、ドアが開いた。
 ゆうに数分はたっていたはずだが、グリスウェルはまるでいまきたばかりとでも言うような顔つきで、ドアの前に立っていた。予想と寸分たがわぬ姿に、私はまた、ためいきをついた。
「ん? どうした?」
「……なんでもない」
「しかしお前が寝すごすなんて珍しいな。体調でも悪いのか?」
「余計なお世話だ」
 差しだされたトレーを受け取り、広くはない部屋の中ほどにあるテーブルへ置く。
「おい、勝手に入ってくるんじゃない!」
 私が振り向いたときドアは閉まったが、グリスウェルはその向こう側ではなく、しっかりこちら側に立っていた。
「1人で朝食ってのもさみしいだろ。つきあってやるよ」
「遠慮しておく」
「ま、そういいなさんな」
「私は、遠慮しておくと言ったんだ」
「いやいや、遠慮するなよ」
「……遠回しな言い方で理解できないというのなら、はっきり言ってやる。嫌だ。朝っぱらから貴様の顔を見ていたくはない」
「そう怒るなよ、セレイン。朝からそれじゃ、せっかくの美人がだいなしってもんだ。まぁしかめっ面はいつものことだが……」
「…………」
 なんだってこいつは、こうも平然と人の言葉を無視できるのだろう。以前からいらだたしく思っていたが、今日ほどうんざりしたことはない。こいつがもし本当に自分で口にしているように私が好きなのだというのなら、もう少し私の言葉を尊重するそぶりがあっても良さそうなものだ。
「……と俺は思うんだけどな」
 しかも、私が聞いているかどうかなど構いもせずに、しゃべり続ける。なんて奴だ。
「……栄養バーですませずに済んだことは、とりあえず感謝しておく。以上だ。わかったらさっさと出ていけ」
「そりゃないぜ、セレイン」
「なにがだ」
 私はグリスウェルの情けなさそうな顔と、トレー上の朝食の、とても私1人では必要としないような量を見ながら、嫌な予感が広がっていくのを感じる。
「俺もまだ食ってないんだ」
 まったく、何故私は別の任地への配置転換を申し出なかったのだろう。私はまた、ちいさくためいきをついた。これ以上何か言っても、こちらが疲れるだけだろう。追いだすことはあきらめて、おとなしく朝食をとるほうが懸命かもしれない。
 私が黙ったのを肯定ととったのだろう、奴はさっさとスツールに腰かけパンをちぎり始める。
「どうしたセレイン、食わないと時間がなくなっちまうぜ?」
 まったく、なんという朝だ。

 奴はどうでもいいことを次から次へと話しかけてきたが、私はそれらをすべて無視して食事を続けた。こいつは普段からふざけた態度をくずさない。そのくせ、時々妙に真面目な顔で、話しかけてきたりする。とらえどころのない男だった。
 いつだったか奴が私にいったことがある。私が張り詰めた糸のようだと。ひっぱっても生半可な力ではそれ以上伸びることはないが、限界がくると突然切れてしまうだろうと。
『なあ……笑えよ、セレイン。こう、口の端をもちあげて、ニコッとさ。お前は確かに強い。そいつは誰もが認めるだろう。だがその強さってのは、あやうい強さだ。お前の強さは、お前の脆さと紙一重だぜ。お前も、もうそれをわかってるんだろ』
 そう、確かにそのころの私には、それが事実であることがわかりつつあった。
 確か、銀河帝国の勢力圏を突破しつつ、クスコの遺跡へと向かっていたころだ。マーチ・ウインドでの戦いは(そしてレラとの出会いと別れは)私というもののあり方を確かに変えていた。私は自分が強いなどと思ったことはなかったが、弱いとも思っていなかった。しかし、この時私は、自分の“弱さ”について意識するようになっていたのだ。だがそれを人に指摘されるとは、思ってもみなかった。
 リッシュ・グリスウェルという男は、まったく奇妙な男だ。
 私はいまだに、必要な場合以外の人との付き合いは敬遠しがちだ。それが態度にでてしまうから、誰もそれほど私にかかわってくることはない。だがこいつだけは例外だった。マーチ・ウインドでもそうだったし、そしてもちろん、今でもそうだ。最近ではそれにかなり慣れてきてしまっているのが、自分でも腹立たしい。
 とはいえ奴のペースに巻き込まれると、疲れるのは間違いない。時にはまともなことも言うにせよ、大体の場合においては迷惑きわまりない男なのだ。

 ふとミルクのカップを取ろうと顔をあげたとき、ニヤニヤと笑いながらこちらを見ている奴と視線があった。
「……なんだ」
「いやぁ、物思いにふけってるセレインってのも、なかなかこう、いいもんだな」
「…………」
「朝からこうだと、今日はいい日になりそうだ。で、何考えてたんだ?」
「なんでもない。貴様には関係のないことだ」
「そういうなよ。教えてくれたっていいだろう。なんだか真剣に考えてる顔つきだったぜ?」
「貴様の知ったことじゃない」
「ふむ……その反応の仕方からすると、食事のことを考えてたってわけじゃ、なさそうだな。とすると……」
「……ていけ」
「あん?」
「でていけ! いますぐに!」
「おいおい、まだパンが残ってるってのに……」
 私はやつに最後までしゃべらせたりはしなかった。スツールからけりあげて無理やり立たせると、ジャケットの胸元を掴み、ドアまで引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと待てよ、おいセレイン!」
 無言でドアを開け、私は文字どおりこの男を部屋から叩きだした。向かいの壁に衝突した頭をさすりながら情けない声をだすグリスウェルへ向けて、奴が食べかけていたパンをほうり投げてやる。まだ何か言おうとする奴の目の前で、シュッとドアが閉じた。
「……ふぅ」
 私は閉じたドアに背中からよりかかり、ためいきをついた。いったい、今日は朝から何度ためいきをついたことだろう。

 奴には、私が何を考えていたか、わからなかったと思いたい。
 万が一にも、私が奴自身のことを考えていたなどと知ったら(たとえそれがどのような内容でも、だ)、いったいどうなったことか。私はそれを想像してしまい、思わず身震いする。あいつはときどき、妙にするどくこちらの考えを見透かすような時があるのだ。
 あのニヤけた男が、見かけ通りの存在ではないと私が気づいたのは、いつだっただろう。そう……あれは、あいつに殴られた時だったかもしれない。私に惚れたと公言してはばからないあの男が、私に手をあげたのは、あれが最初で、そして今のところは最後だった。
 レラ……かわいそうなあの娘が死んだ、あの時……。
 レラの死という現実に錯乱しかけていた私を、あいつは殴りつけることで現実に引き戻してくれた。そう、あいつは思いっきり、手加減なしで私を殴った。殴られた私自身よりも、見ていた甲児たちの方があわてたくらいに。その痛みは、あの時の心の痛みとともにいまも残っている。

 長い長い、生と死の綱渡りのような生活の中で、狂気に追い立てられる日々の中で、肉体の痛みだけが、いつも私を現実の世界へつなぎとめ、引き戻す鎖の役目を果たしてきた。あいつはそれを知らなかったはずなのに、それをしたのだ。
 そのしばらく後に、1人で私の部屋へやってきた時もそうだ。
 他人へのやさしさは多くの場合同情から生まれる。そして同情とは、自分が相手よりも(どのような意味でも)優位にたっている場合にあらわれる感情だ。だが……あいつのはそうではなかった。あいつの言葉は、同情などではなく、あいつの経験が言わせた言葉、間違いなくあいつの背負っているものが口にさせた言葉だった。それは、どんななぐさめの言葉よりも、私の胸を刺した。その時の私には、なぜだかそれが、少しだけ救いに思えた。
 


(なぁ、レラ。あの戦いの中に身を投じていた時は、苦しくはあったとしても、世の中はなんと単純だったことだろう。敵を倒すこと。戦いの中で生き残ること。それだけを考えていればよかった。だが今は……もうそんな時代ではなくなった。時は急速に移り変わっていくというのに、私はいまだあの頃のままだ。……お前なら、何を考え、何を想い日々を過ごすんだ……?)

 私は無意識のうちに、手首にまいた色とりどりのビーズでできたブレスレットを指先でもて遊んでいた。かつて髪飾りだったそれは、レラの遺品だ。もちろん、レラが死んだときに身につけていたものではない。あの娘の体も、身につけていたものも、何一つ回収されてはいないのだから。カンザスシティのあの娘の墓にも、もちろん遺体など入ってはいない。これはアーガマのレラの部屋にあった物の一つで、私が唯一、私の手もとに残しておくことを望んだものだった。
 おかしな気分だった。降りしきる雨が窓をたたくその音の、重苦しく陰うつなリズムと湿った空気のせいかもしれない。私はいつのまにかベッドに腰かけて、物思いにふけってしまっていた。
 時計を見る。もうあまり時間がない。私はまたグリーンティーのボトルをとり、中身を半分ほど飲みほしてから、ハンガーにつるしてあったスラックスとジャケットをとって、ベッドにほうり投げた。
 

 私が着がえをすませ、ブリーフィングに利用される部屋へと入ったときには、すでにすべての隊員が集合を終えていた。
「おはようございます、少尉」
「少尉、朝食とってないんじゃないんですか?」
 隊員たちがそう声をかけてくる。年齢で言えば彼らの方が私よりもずっと上なのだが、あの戦い以来、そういうことを気にする者はいない。私もゲリラ時代にすでに自分の年齢を考えるのはやめている。我々のような人間にとっては、生き抜いてきた戦いの数だけが、他人を見るときの規準になる。
「いや、大丈夫だ」
 そう答えながら私は、グリスウェルがニヤニヤと笑いながらこちらを見ているのを意識する。
「ならいいがな」
 と別の声。私は声の方に向きなおり、敬礼する。
「おはようございます、少佐」
「ン、嫌な天気だな、今日は」
 ユーリヒコフ少佐はそう言いながら、返礼した右腕をさすった。
 少佐が戦場で負傷したとき、やはり今日のような雨が降っていたと、以前聞いたことがある。1年戦争が膠着状態にあった頃、連邦軍がしかけたゲリラ戦でのことだという。おそらく、その時負傷した右腕が、うずくのに違いない。私の腹の傷のように。
「全員揃っているようだな」
「は、問題ありません」
 グリスウェルが返答する。
 もともとOZの1級特尉だった奴は、E.S.M.O.では大尉待遇だ。この部隊では少佐についで階級が高い。もともとゲリラから解放戦線へと参加した私は階級をもっていなかったが、E.S.M.O.への編入と同時に少尉に任官されている。
「よし、さっそく始めよう。全員席についてくれ」
 少佐の緊張を含んだ言葉から、何かあったのだとわかった。どうやら、今日は平穏には終わりそうもない。

 to be continue

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