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日本のこころ大正ロマンの銀山温泉

銀山温泉にまつわる物語

銀山発見

銀山温泉

加賀の国金沢の人 儀賀市郎左衛門という人が、康正2年(1456年)8月14日、松島や塩釜を経て出羽の国湯殿山を参拝しようと思い、銀山越えの軽井沢という村里に泊まった。

ところがその晩、不思議なことに衣冠束帯で左手に弓を持った老人が夢枕に現れ、市郎左衛門に銀鉱石のありかを告げた。彼は翌朝この不思議な老人の夢告のとおり滝の水の流れに銀鉱石を発見、その流れというのは、今の八ツ堀橋の上流付近という。

彼はその晩、上柳渡戸村に泊まり、宿の主人から黒く光る石が笠頭山に沢山あることを教えられ、宿の主人の案内でその山の鉱石を拾い集め金沢に帰郷した。その足で山師作兵エに品質の鑑定をしてもらったところ、鉱石に問吹した作兵エは、素晴らしい良質の銀鉱石だったため、人夫30人を連れて来て銀鉱石の採掘にとりかかったと伝えられている。

銀山は、ゴールドラッシュならぬシルバーラッシュの時代もあり、盛りには四万八千軒の軒を並べ、『野も山も町屋となり、花の江戸にひとし』とその盛況ぶりを表現している。(寛永年中)

銀山温泉の今日の隆盛を創り上げた大石田の二氏

佐藤茂兵衛

銀山電気株式会社

氏は大石田町の素封家というよりも、代々佐藤茂兵衛を襲名する本件屈指の多額納税者である。その豊かな財力を以って、地方開発に尽力した。村山銀行、村山電気株式会社の創立などはその一端である。

大正の初め、将来の産業開発は電力からと考え、銀山温泉白銀の滝と同温泉の落差、銀山川の水量に着目して、銀山電気株式会社を創立、発電所を設置した。事業所が同温泉にある関係で、温泉開発にはあらゆる協力を惜しまなかった。現在の白銀の滝の対岸に胸像を建立して氏の徳を讃えたが、銅像であったため、大東亜戦争に金属回収の憂き目に遭い、供出されたまま台座だけ残して留守になっているのは真に残念なことである。

田中 豊

銀山発電所

氏は幼少より俊才の誉れ高く、青雲の志をいだき、遠く長崎に蘭学を学び、(I垣?)医学を身につけ故郷に錦を飾った。氏は前記佐藤茂兵衛氏の先々代の目にとまり女婿となった。従って佐藤茂兵衛氏の叔父分にあたる。年少の甥茂兵衛氏のよき相談相手でもあったが、大石田町に医院を開業すると共に、多くの英才を養成して医学報国を志し、学資を出して養成した若い医者たちのために、山形市香澄町に全誠堂病院を建て、彼らの独立のために資し、併せて医学報国を実践した。彼は養成した若い学徒がそれぞれ立派な医者になったことを見届けると、医業は彼らに譲り、すっぱりと医者をやめ、佐藤家の事業を助け、同家の経営するすべての会社の専務取締役として縦横の手腕をふるった。

名実共に佐藤家の最高顧問兼大番頭でもあり大黒柱でもあった。銀山電気株式会社の発電所が同温泉に開設されるや、同温泉の開発に佐藤氏と共にあらゆる協力を惜しまなかった。特に白銀公園の整備開園は翁のすぐれた構想と実行力、そしてまたその私財によったものであるし、『銀山の銀と温泉』の著書を通じて全国に銀山温泉を紹介したのも同氏である。

田中氏が家督を長子一策氏に譲った後に、最上川畔と銀山温泉にささやかな家を建てて、両邸を往復して温泉の開発に尽力した。

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