客席数は100。来春、20周年を迎える小さな演芸場は、上方文化の「粋」を発信する拠点に成長した。法善寺、千日前、道頓堀のあるミナミのド真ん中で、笑いと拍手が絶えない。「道頓堀五座がなくなり、まちがどんどん変わった。だからこそ、うちのホールがなかったらあかんと思うようになった。ホールを守るのも、まちを守るのも一緒の話」
父の鉄三郎さん(78年死去)が営んだ旅館「上方」がホールの前身。道頓堀五座で活躍する役者や噺(はなし)家の定宿で、父自身も「上方藤四郎」の名で芸能評を書き、川柳を詠んだ。しかし「文化の発信地」は衰退していく。89年に廃業した時、落語家の桂米朝さんが持ちかけてきた。「若手芸人の研さんの場を作れんやろか」。人の縁を切りたくない、という師匠の思いだった。
右も左も分からぬまま、旅館の跡地に「上方ビル」を建て4階をホールに。楽屋は旅館の一間からふすまや欄間、柱を移築した。こけら落としは米朝さんらが花を添えたが、経営は苦難の連続。10年たって、ようやく座席の8割が埋まるようになった。早稲田大と連携して始めた「上方文化再生フォーラム」は開催4年目になる。
文化の再興はまちづくりと一体だ。芸事の衰退とともにミナミは変わっていた。凶悪犯罪が発生し、パチンコ屋やたこ焼きの露店が並び、風俗店の看板ばかり。商店街の理事長として「このまちは『ほんまもん』を追い求めなあかん」と思っていた。06年10月、ビルの1階に「芸の神さん」を祭る社を建立。さらに「正月の音」を響かせようと獅子舞や太鼓、振舞い酒も始めた。にぎわいが、まちの光になりつつある。
「ホールを運営しながら、『不変』を後世に伝える重要性に気づいた。落語は昔からの社会秩序を分かりやすく教えてくれる。親を大切にし、目上の人に敬語を使う……」
ホールが隔月で発行しているインフォメーションの表紙に、必ず載せる一句がある。
想い出は 灯ともし頃の 法善寺
旅館の玄関に掲げられていた父の佳作。「ミナミは門前町として栄えてきた。『寺の心』が伝わるまちをつくりたい。手本は東京の浅草」。芸事、人情、信仰が庶民の暮らしに根付くまち。それがミナミだと思う。【田辺一城】
毎日新聞 2010年11月30日 地方版