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〈あのころ新潟野球新時代〉92年夏、唯一”ゴジラ松井”と真っ向勝負

2010年08月02日

■鋭い目・威圧感・・・今も鮮明 <あのころ 新潟野球新時代>

写真甲子園のマウンドに立った竹内さん。星稜打線を相手に完投した=1992年8月11日、阪神甲子園球場
写真当時のユニホームを手にする竹内さん=三条市

 巨人軍の中心打者から海を渡り、メジャーリーガーとして、ロサンゼルス・エンゼルスで活躍する松井秀喜。名門ニューヨーク・ヤンキースの一員として出場した昨年のワールドシリーズではMVPも獲得した。

 そんな松井の甲子園での話題となると、決まって出てくる出来事がある。「5打席連続敬遠」――。

 1992年8月16日、阪神甲子園球場は騒然とした雰囲気に包まれていた。2回戦で松井率いる星稜(石川)に挑んだのは、明徳義塾(高知)だった。だが、松井は1度もバットを振ることなく夢の舞台から姿を消す。ストライクは1球も投じられなかった。

 「松井フィーバー」で沸いた92年の甲子園で、松井と「勝負」した投手は1人だけ。1回戦で星稜と対戦した長岡向陵のエース竹内正人さん(36)。今は、大光銀行三条支店に勤める営業マンだ。

 接戦続きの新潟大会を制し、初出場を決めた甲子園。組み合わせ抽選会で、主将が星稜のくじを引いた瞬間、「会場がドッと沸いた」のを覚えている。「一番引いてほしくないところだった」。だが、「一番注目されている相手とやれるんだから、いいじゃないか」という監督の一言で、吹っ切れた。

 身長170センチ。上手投げだったが、小さな体でも甲子園に行くためと、高校入学後に下手投げに転向した。ストライクゾーンを目いっぱい使い、変化球で打ち取る投球が持ち味だった。

 苦手だったのが左打者。左の強打者、松井との対戦が決まった翌日から、徹底的にビデオで研究した。当時の松井は「バットが下から出てくる印象」だった。「内角のボールで上体を起こし、外角のボールを引っかけさせよう」。チーム全員で決めた。

 8月11日、第4試合。松井に打席が回った。「スタンドの沸き方、声援が違う」。観客は松井が打つことを期待している、と感じた。が、「すごい注目の中で投げている。気持ちよかった」。

 打席に立った松井の鋭い目つき、威圧感……。「あの雰囲気は今でも覚えている。他の打者とは全く違っていた」。それでも「ナンバーワンの打者。勝負したい」。監督からも「敬遠しなければいけない場面以外は、思い切って投げろ」と指示されていた。

 第1打席は打たれた瞬間に「入った」と思ったが、浜風に戻されてライトフライ。第2打席は粘られた末に四球。そして迎えた5回の第3打席。0―1でリードされていた。1死一、二塁。「真ん中に甘く入った」直球をとらえた打球は右中間を切り裂いた。三塁打。「打球が見えないくらい速かった」

 その後の2打席は外野フライに抑えたが、5回の一打で流れは星稜に傾き、0―11で敗退した。

 5日後、越路町(当時、現長岡市)の自宅に戻った竹内さんは居間で、甲子園のテレビ中継を見ていた。「えらいことになったな」。自分が脅威を感じたスラッガーは、バットを振る機会を与えられることはなかった。

 星稜対明徳義塾戦が終了すると、自宅の電話が鳴った。「5連続敬遠をどう思うか」。スポーツ新聞の記者からだった。「ルールにのっとった作戦。間違いではない。ただ、選手のことを考えると複雑です」

 個人的には、「明徳(義塾)の作戦にすごみすら感じた。勝利への執念があった」。自分にはできない作戦だとも思った。だが、勝負したことに後悔は全くなかった。

 それ以降、「5打席連続敬遠」に関する取材を受けることや、新聞やテレビで「松井と真っ向勝負した投手」と取り上げられることもあった。そのたびにこう答えた。「自分たちは松井を抑えて流れを呼び込みたかった。『向陵の野球』をやっただけです」

 今でも、テレビで松井を見るとつい目を止める。「最高の打者とやれたこと、一期一会に感謝したい」と思う。

 大学では準硬式野球、今は会社のチームで軟式野球を続ける。松井の活躍に、「まだ若い連中には負けられない」と自分を奮い立たせる。

 高校野球で学んだのは、仲間の尊さと、努力することの大切さ、ベストを尽くし、その場から逃げない……。それが、野球以外にもつながっていると感じている。(柄谷雅紀)


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