蓮華寺事件・小樽問答・政界進出
30年1月23日、大阪で創価学会西日本三支部の連合総会が開かれ、関西の日蓮正宗寺院の全住職が参加した。が、日蓮正宗の三大末寺の一つ、大阪市北区の蓮華寺住職崎尾正道は参加しなかった。
戸田は28年、寺院再建の申し入れを崎尾に断わられたこともあって激怒し、翌日から創価学会員十数人をして連日、蓮華寺を囲ませ、参拝にくる信者を追い返した。この指揮は大阪支部長・白木義一郎がとった。崎尾はこのピケに対し、創価学会員に貸与した本尊の返納をせまって逆襲した。
戸田はこれに手をやき、近畿地方の日蓮正宗の住職に圧力をかけて、連名で、崎尾に辞職勧告を送りつけさせた。また前述した「狸祭り事件」の小笠原慈聞もすっかり戸田に飼いならされ、崎尾の追放推進に一肌脱いでいる。さらに戸田は、本山宗務院にも意向を通じ、わずか信徒7人という滋賀県妙静寺への、崎尾に対する転任命令を出させた。この間、本山宗務院庶務部長・細井精道(のちの日蓮正宗第66世法主・細井日達)が崎尾追い出しに尽力した。細井は私立開成中学夜間部で戸田と同級であり、死没前の数年間を除いては創価学会派と目されていた僧侶だった。
が、蓮華寺側の抵抗は奏効し、翌31年6月、本山との話し合いの結果、崎尾が両寺の住職を兼ねることで事件は一応落着した(第一次蓮華寺事件)。
3月11日、北海道小樽市で日蓮宗との間に、「小樽問答」とよばれる公開の討論会が開かれた。創価学会は前年以来、北海道での布教に力を入れ、また日蓮宗を邪宗と決めつけて折伏攻撃していたから、一信徒の帰属をめぐっての論争が容易に創価学会対日蓮宗の宗論に発展したのである。
戸田はこれを、創価学会の力を内外に宣伝する絶好の機会と考え、男子部第四部隊長・星野義雄を現地に飛ばして下調査させたうえ、石田次男、辻武寿、竜年光、池田らを日航機で小樽に送った。また勝敗を決する第三者の判定がないため、大声をあげた方が勝ちといったことを見てとり、会場の大半を埋めつくすほどの、会員の大量動員をかけ、自らも会場で指揮をとった。
討論は両者とも司会、2名の講師を立て、主張、反論、聴衆の質問、講師相互間の問答対決という順で行なうことに決められ、創価学会側は講師に小平芳平、辻武寿、司会に池田を立てて対決にのぞんだ。宗論は混乱のうちに終わったが、創価学会側は野次と拍手で日蓮宗側を圧倒し、勝利を叫んだ。のちに同会はこの結果を本やレコードにまとめ、最大限に利用した。
小樽問答における池田の司会は、創価学会側に立つものとはいえ、司会の名にそむく、かなりあこぎなものであった。
「小樽問答≠フ席上、学会側司会者として終始万丈の気焰を吐き、異彩を放ったのが池田参謀室長だ。特に開会にあたり小平、辻の両討論者を紹介するに先立ち自己の大確信を6、7分間にわたり一席ブッテ、身延派信徒の心胆を寒からしめたことである、それが終って『簡単ですが―――』と、結ぶあたり、すでに敵をのんでる不敵さ、肝っ玉のデカサに唯感嘆の声を禁じ得ない」(『聖教新聞』昭和30年3月20日)
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