反創価学会

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From:  22世紀

 池田の声は大きく、敵への説得力は論外としても、味方を沸かすには不足しなかった。彼の演説の効力は、反対者を自陣に引き入れる煽動にはなく、味方の意志の強化、再確認だけにあったが、組織をひきつぐ者としてはそれで十分用がたりた。
 4月23日の都道府県議選、同30日の市議選に創価学会は候補をはじめて立て、東京都議に理事長・小泉隆、横浜市議に財務部長・森田悌二、川崎市議に文化部長・鈴木一弘、東京各区議に竜年光、原島宏治、藤原行正など、計52名の当選をかちとった。
 この中で選挙は地割りが基本であると学ばれ、5月、東京にブロック制が実施され、以後、各地におよんだ。ブロック制は折伏―――入信の系統による基本組織(タテ線)とは別の、ヨコ線と呼ばれる地域別組織である。
 8月、全国45都市に600数十名を派遣する地方折伏が行われ、池田は札幌担当の主将に任じられた。札幌班は400世帯を折伏、入信させて第一位を獲得した。
 またこのころ、池田は蒲田駅近くの小林町に住宅を買った。借地で、建坪は23坪、四室で100万円、義父の白木薫次に頭金を借りたという。
 当時すでに池田は、戸田の手駒の一人として、運動を身をもって体験し、学ぶ段階をすぎ、立派な大幹部の端くれであった。いわば運動の徒弟から、戸田の利益が自分の利益に合致する協力者の一人にのし上がっていたのである。

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  • 2010.12.04 21:41:15
From:  22世紀

 蓮華寺事件・小樽問答・政界進出

 30年1月23日、大阪で創価学会西日本三支部の連合総会が開かれ、関西の日蓮正宗寺院の全住職が参加した。が、日蓮正宗の三大末寺の一つ、大阪市北区の蓮華寺住職崎尾正道は参加しなかった。
 戸田は28年、寺院再建の申し入れを崎尾に断わられたこともあって激怒し、翌日から創価学会員十数人をして連日、蓮華寺を囲ませ、参拝にくる信者を追い返した。この指揮は大阪支部長・白木義一郎がとった。崎尾はこのピケに対し、創価学会員に貸与した本尊の返納をせまって逆襲した。
 戸田はこれに手をやき、近畿地方の日蓮正宗の住職に圧力をかけて、連名で、崎尾に辞職勧告を送りつけさせた。また前述した「狸祭り事件」の小笠原慈聞もすっかり戸田に飼いならされ、崎尾の追放推進に一肌脱いでいる。さらに戸田は、本山宗務院にも意向を通じ、わずか信徒7人という滋賀県妙静寺への、崎尾に対する転任命令を出させた。この間、本山宗務院庶務部長・細井精道(のちの日蓮正宗第66世法主・細井日達)が崎尾追い出しに尽力した。細井は私立開成中学夜間部で戸田と同級であり、死没前の数年間を除いては創価学会派と目されていた僧侶だった。
 が、蓮華寺側の抵抗は奏効し、翌31年6月、本山との話し合いの結果、崎尾が両寺の住職を兼ねることで事件は一応落着した(第一次蓮華寺事件)。
 3月11日、北海道小樽市で日蓮宗との間に、「小樽問答」とよばれる公開の討論会が開かれた。創価学会は前年以来、北海道での布教に力を入れ、また日蓮宗を邪宗と決めつけて折伏攻撃していたから、一信徒の帰属をめぐっての論争が容易に創価学会対日蓮宗の宗論に発展したのである。
 戸田はこれを、創価学会の力を内外に宣伝する絶好の機会と考え、男子部第四部隊長・星野義雄を現地に飛ばして下調査させたうえ、石田次男、辻武寿、竜年光、池田らを日航機で小樽に送った。また勝敗を決する第三者の判定がないため、大声をあげた方が勝ちといったことを見てとり、会場の大半を埋めつくすほどの、会員の大量動員をかけ、自らも会場で指揮をとった。
 討論は両者とも司会、2名の講師を立て、主張、反論、聴衆の質問、講師相互間の問答対決という順で行なうことに決められ、創価学会側は講師に小平芳平、辻武寿、司会に池田を立てて対決にのぞんだ。宗論は混乱のうちに終わったが、創価学会側は野次と拍手で日蓮宗側を圧倒し、勝利を叫んだ。のちに同会はこの結果を本やレコードにまとめ、最大限に利用した。
 小樽問答における池田の司会は、創価学会側に立つものとはいえ、司会の名にそむく、かなりあこぎなものであった。
「小樽問答≠フ席上、学会側司会者として終始万丈の気焰を吐き、異彩を放ったのが池田参謀室長だ。特に開会にあたり小平、辻の両討論者を紹介するに先立ち自己の大確信を6、7分間にわたり一席ブッテ、身延派信徒の心胆を寒からしめたことである、それが終って『簡単ですが―――』と、結ぶあたり、すでに敵をのんでる不敵さ、肝っ玉のデカサに唯感嘆の声を禁じ得ない」(『聖教新聞』昭和30年3月20日)



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  • 2010.12.03 23:37:17
From:  22世紀

「ためしに、好きな男優は、ときいてみたら、たちどころに異口同音に、三船敏郎、と答えた。なるほど、では、もっと身近なところの男性では?と聞くと、これもたちどころ同音に、参謀室にいるような人、といった」
(佐木秋夫「『創価学会』の著者受難せり」『中央公論』昭和32年11月号)
 池田の外面は背が低く、色黒で、毛むくじゃら「とにかくカッコよくなかった」と、当時の女子部幹部はいっているが、それでも池田の会長就任間近の昭和35年、彼に背広を着せかけて、すいませんといわれたとき、「さびしかった」と語っている。
 池田は名誉会長に退いた後、複数の女性会員との情交を批判されることになるが、そのうちの一人との発端はこのころに始まる。彼はその女性に「(妻の)カネコがいなければなあ」との殺し文句を並べはじめていたという。
 また、ある女子部幹部は池田から有楽町のレストランに誘われ、「ぼくは孤独だと池田がいうのです。誰も味方がいない、助けてほしいって。私も若かったから、ボロボロ涙をこぼしてしまいました。池田は契りを結ぼうというのです」と当時を回顧している。この場合の「契りを結ぶ」はお互い運命共同体でいこう、との意味だったという。
 池田は男女を問わず、これはと思う幹部会員に働きかけ、自陣に組み入れようとした。多数派工作だが、彼は戸田の間近な死を予期していず、また彼は全身全霊を創価学会に投入して他に生活を持たなかったから、意識的工作というより、むしろ石田次男に対抗するための地盤の培養というにふさわしかった。石田の御書講義は流暢でいて歯切れよく、対して池田のそれは論旨が飛んで流れず、聞いていて気持ちがスッキリしないことが多かったという。当時の会員評によれば、石田は抜群の教学力と戸田の強引な引き、明晰な頭脳を持ってはいたが、大衆性にはやや欠けていた。池田は頭脳面で石田に劣ることを自覚していたから、対抗するためには経済面の掌握と自陣の強化しかなかったといえよう。
 11月22日、文化部が設置され、部長に男子第一部隊長・鈴木一弘が任命された。文化部は翌30年からの政治進出に向けての指導機関であった。
 12月13日、情報部が解消されて新たに渉外部が設置され、部長に池田が就任した。渉外部はようやく社会的に注目されはじめた創価学会のマスコミ対策機関であり、池田は早くも翌年2月16日、渉外部長として、『読売新聞』埼玉版の記事「はびこる創価学会 県下の信徒5,000名」に抗議するため、同紙の本社と浦和支局を訪問している。
 渉外部長は、池田が戸田の死没前、最終的に達成した最高の地位であり、以後、変化といえば栄転と兼任意外になかった池田のトントン拍子の出世も打ち止めになった。この渉外部長の職によって池田は本部部長の末席を汚し、そのランクは鈴木一弘に次ぐ第14位となった。


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  • 2010.12.02 22:17:03
From:  22世紀

 渉外部長・池田大作(ナンバー14)

 7月5日、全国主要20都市に幹部等250名を投入して行われる地方折伏のメンバーが発表され、池田は主将・柏原ヤス、副将・牛田寛の下で、札幌を担当した。
 8月23日、蒲田支部に副支部長制がしかれ、池田の義父・白木薫次はその副支部長に任じられた。池田の義母・白木静子もさきの席次にある通り、本部婦人部常任委員であり、池田の係累は白木の理事就任を機に、急激に抬頭していった。
 10月31日、戸田は男女青年部員10,000名の大石寺総登山を行い、近くの高校校庭で「大出陣式」を挙行した。ほぼこのころから、ジャーナリズムは創価学会の活動に注目しはじめ、大出陣式の模様も当時の雑誌によってルポされている。創価学会がどのように見られていたかをよく伝えていると思われるので、次に引用しよう。
「式は北条主任参謀と称する男の開会宣言にはじまり、『我ら精鋭、国士として東洋広宣流布のために死をとしてあくまで闘い抜かん』というような宣誓。それから数十流の部隊旗をつらねて分列行進に移れば、会長の戸田城聖が天皇気取りで白馬銀嶺号≠ノまたがり閲兵を行い、空には元加藤隼戦闘機隊中隊長黒江某が操縦する富士航空のセスナ機が飛んで、低空で頭上を旋回して機上からメッセージを投下。白鉢巻姿でナギナタもどきに登山杖を小脇にかいこんだ約4,000名の女子部隊は『・・・・・起て憂国の乙女らよ、使命果さん時は今、国士たる身のホマレもて、歴史の花と咲き咲かん・・・・・』等と部隊歌憂国の華≠大合唱―――というような、これが終戦後10年の現実か(?)と目をうたぐりたくなるような有さま」(『真相』昭和30年83号)
 戸田は軍隊組織が上意下達の集団行動にはもっとも効率的と考え、部隊や隊、分隊、参謀のほか、攻撃隊、偵察隊、輸送隊、軍楽隊、軍歌まがいの部隊歌まで作っていた。
 創価学会が短日月に急伸した理由のひとつに、戦後の日本での軍国調の再現が挙げられる。敗戦後、日中戦争以来の軍事的緊張感は急断され、多くの青年層は虚脱状態に陥っていた。創価学会はこれに応え、「死を賭しても」という緊迫感と精神の昂揚を彼らに与え、彼らを「邪宗」との闘争に導き、英雄的な陶酔感を味わわせた。池田も「身命を捧げて」といった言葉を多用している。
11月7日、青年部は後の文化祭の母体となる、世紀の祭典≠ニ銘打った体育大会を東京世田谷の日大グラウンドで開催した。このとき軍楽隊が誕生したが、池田はそのための楽器を買う費用にと、貯金から50,000円をおろし、醵出したという。
 戸田は偉丈夫といってよいほどに長身で、青年たちを集めては相撲をとらせることを好んだ。池田は運動という面ではまるで駄目で、戸田を喜ばせることが出来なかった。彼はそのような折り、多くの運動着に着替えることをせずに背広で通し、自分は「別格」という雰囲気を漂わせていたという。実際、彼の参謀室長という肩書は青年幹部中のエリートを意味し、女性会員から特別の目で見られたようである。若い女性幹部は参謀室員にあこがれていた。


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  • 2010.12.02 22:15:10
スレッド

[141]  Re:フライデー 12月10日号 

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From:  21世紀

> 投稿者:れいな 投稿日:2010年11月30日(火)13時59分39秒
> 創価学会が暴力団に5億円の金を用意!
> http://ameblo.jp/torushinohe/entry-10719415200.html
>
> 創価学会脱会推進委員会
>

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  • 2010.12.02 14:51:51
From:  22世紀

 理事・石田次男(ナンバー6)VS.池田(ナンバー40)

 5月3日、第10回春季総会が開かれ、戸田は理事の交替と理事長制の復活を定議し、理事長に小泉隆(蒲田支部長、企画部長)、理事に柏原ヤス(杉並支部長、指導監査部長)、石田次男(小岩支部長、聖教新聞社編集長)、白木薫次(蒲田支部矢口大地区部長)を任命した。それまでの理事8人のうち、和泉覚、森田悌二、馬場勝種、原島宏治、辻武寿、神尾武雄が落ち、新しく石田と白木が加わったわけである。
 この理事の交替は、少数精鋭による理事自身の活躍の促進と、石田を早期に最高首脳部に加え、その機構に慣れさせるという、戸田の二つの狙いを担っていた。石田にとっては二度目の最高の抜擢であり、少なくともこの時点では、戸田は後継者を石田と決めていたはずである。
 が、一面、小泉、白木の理事就任は蒲田グループの圧勝を意味し、本来が蒲田支部の出身で、白木を義父に持つ池田にとっても好材料であった。
 同月10日、池田、北条、森田、竜ら7名は論文審査を経て、そろって教学部教授に昇格した。が、その論文というのは、@永遠の生命に関する御聖訓について A広宣流布の予言と確信 B種熟脱を論ず の三題のうち一題を自由選択して四百字詰め十枚前後にまとめるという、きわめて簡単なもので、翌30年に行われた助師、講師に対する登用試験(第一次論文審査、第二次筆記試験、第三次口頭試問)に較べても、一段と安直な審査であった。
 7月、各種行事の際の本部幹部、支部幹部の席次が決定された。本部幹部の席次(兼任の場合は上位席につく)を当時の現役者の氏名を付して掲げておく。

〇会長      戸田城聖
〇理事長     小泉 隆
〇前筆頭理事   和泉 覚
〇理事      白木薫次、柏原ヤス、石田次男
〇本部婦人部長  石田つか
〇本部部長(年齢順)
 財務部長 森田悌二
 統監部長 原島宏治
 秘書部長 和泉美代
 青年部長 辻 武寿
 教学部長 小平芳平
 情報部長 山浦千鶴子
〇支部長(年齢順)
 志木支部長  谷田藤三
 築地支部長  馬場勝種
 城東支部長  臼井正男
 足立支部長  藤田健吉
 中野支部長  神尾武雄
 本郷支部長  笹木正信
 文京支部長  田中つぎ
 向島支部長  星生 務
  仙台・大阪・堺・八女支部長は年齢順に加わる
〇支部長待遇(年齢順)
 志木支部  谷田コト
 蒲田支部  板倉弘典
 鶴見支部  山本宗司
 鶴見支部  佐々木庄作
 小岩支部  富田作十
 杉並支部  志村林一
 向島支部  松山道義
〇本部婦人部常任委員(年齢順)
 杉並支部  北条克子
 蒲田支部  白木静子
 築地支部  岩田きん
 蒲田支部  小泉 綏
 築地支部  馬場修子
 文京支部  井上シマ子
〇秘書部員
〇両部長並びに参謀室
 男子部長  牛田 寛
 女子部長  森田秀子
 参謀室長  池田大作
 主任参謀  北条 浩
 参謀    竜 年光
 参謀    森田一哉
 参謀    石田栄子
 参謀    樋口トシ子
 参謀    北条弘子
  以下各支部の婦人部長、第1から第15までの男女各部長が続く。
 この席次は多分に名誉制度的なもので、実勢力を反映していないが、それにしても石田の第6位に対し、池田はおおよそ40位程度にとどまっていた。

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  • 2010.12.01 21:02:07
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サークルの紹介

日蓮正宗より破門され、新興宗教と化した創価学会、教祖のXディが現実に近づいている昨今、そろそろ正信に目覚める時です。多数の参加お待ちしています。携帯からも参加できます。

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