反射鏡

文字サイズ変更

反射鏡:映画が裁判官を変えたという仮説=論説委員・伊藤正志

 痴漢冤罪(えんざい)事件を描き、07年にヒットした周防正行監督の映画「それでもボクはやってない」は、裁判官や弁護士ら登場人物のリアルさや、法廷の正確な描き方が高く評価された。

 朝のラッシュ時に、女子中学生に痴漢と間違えられたフリーターが主人公だ。逮捕後、当番弁護士から示談を勧められるが拒否し、結局起訴される。裁判で冤罪を晴らすため、支援者らの協力で証拠のビデオを作製するなど、涙ぐましい無罪立証の努力を重ねる物語だ。

 この映画が、裁判官の冤罪事件に対する意識を変える一因になったとの見方を、裁判官出身の木谷明・法政大法科大学院教授が話していた。先月、東京都内で開かれた講演の場である。

 なるほど、裁判官は「逆さまの論理」に気づいたらしいと合点がいった。

 逆さまの説明の前に、木谷氏が示した冤罪事件をめぐる最高裁の動向分析を紹介したい。

 木谷氏は、かつて最高裁判事の補佐役である調査官を務めた経歴を持つ。裁判官の在任中は約30件もの無罪判決を出したが、そのまま確定するか、上級審で有罪に覆った例はないというすご腕だ。

 振り返ると、80年代、免田事件や財田川事件など死刑確定囚の再審無罪事件が相次いだ。

 だが、木谷氏によると、最高裁の冤罪事件救済の動きは、平成に入りピタリと止まった。その風向きが昨年以降、変わってきた兆しがあるというのだ。

 映画と同様に、満員電車で女子高生へ痴漢をしたとして強制わいせつ罪に問われた防衛医科大教授がいた。最高裁が実刑判決を破棄して逆転無罪を言い渡したのは昨年4月だ。

 また、今年4月、発生から半世紀近くたつ「名張毒ぶどう酒事件」で、奥西勝死刑囚の再審可能性に道を開く決定をした。

 さらにこの月、大阪で02年に2人を殺害したとして殺人罪などに問われた被告の死刑判決(2審)を「審理が尽くされていない」と破棄し、地裁に差し戻す決定もしたのだ。

 確かに続いた。木谷氏は「冤罪阻止に向けての必ずしも明確な動きではない」と断りながらも、最高裁の「変化」の要因に足利事件、裁判員裁判、そして「それでもボクはやってない」を挙げたのである。

 本来、法廷は、検察官が被告の有罪を立証する場である。被告が無罪の立証を強いられる場ではない。それが刑事裁判のルールである。そこが揺らげば「疑わしきは罰せず」の原則も遠のく。だが、実際の法廷では、立証の主体が映画のように「逆さま」になっている例が少なくないのではないか。映画は巧みにそこを描いた。

 キーワードは、プロが慣れゆえに陥る「思い込み」だと思う。

 例えば、裁判官は、検察官が「適切に容疑者を取り調べ、法と証拠に基づいて起訴している」と思い込んでいる。だから、自白調書を信用し、法廷での被告の声に耳をかさない。「無実の人が自白するはずがない」との思い込みもあるだろう。

 その結果が99%以上という驚異的な有罪率につながる。

 だが、現実には検察官が証拠に手を加えることが大阪地検特捜部の郵便不正事件で分かった。無実の人が自白することは、足利事件の菅家利和さんの例をみても明らかだ。他にも、密室での強引な取り調べを示す例は事欠かない。

 検察官も同じだ。事件の証拠は自分たちのものと思い込んでいる。ゆえに、被告に有利な証拠を開示しないという、はた目には不正義と映る行為をする。

 その典型が、現在、再審公判中の「布川事件」だ。67年に発生し、強盗殺人罪で2人の被告の無期懲役が確定した。被告らに有利な重要証拠があったのに、検察側は実に発生から30年以上も開示しなかった。

 集会で被告の1人の桜井昌司さんが「警察の捜査はもともと税金で賄われているのだから、証拠は国民のものだ」と憤っていた。もっともな話である。

 裁判員裁判で2件の死刑判決が出た。究極の刑罰の判断に「市民」がかかわることがいよいよ現実になったのだ。

 裁判員を絶対に冤罪に加担させない。それが、司法に携わるプロたちに課せられた最大の使命ではないだろうか。崩れた時、裁判員裁判は間違いなく存立の危機を迎える。

 そうならぬために、プロは「思い込み」を戒めてほしい。よく言われるが、真犯人を取り逃がしても無辜(むこ)を処罰してはならない。間違っても両立できると思い込まないことだ。

毎日新聞 2010年12月5日 東京朝刊

PR情報

 
共同購入型クーポンサイト「毎ポン」

おすすめ情報

注目ブランド