【蒋介石日記】第2部(9)重慶交渉 毛沢東と束の間の和平論じる
延安(陝西省)の根拠地にこもる毛沢東ら中国共産党の代表が、蒋介石の招きに応じて、空路、重慶に到着したのは、対日戦勝の興奮もまだ覚めやらない1945年8月28日の夕刻だった。
《午後5時、各院長(首相、国会議長ら)と会合の折、毛とハーレー(駐中国米大使)が飛行場に到着したとの報告を聞く》(同日の日記)
10月11日に共産党代表団が重慶をたつまでの実質43日間にわたって、国民、共産の両党首脳が、「内戦回避」など戦後中国の枠組みをめぐりマラソン会談を繰り広げた。会談形式は、代表団の実務協議などさまざまながら、蒋介石の日記では、毛沢東との直接会談が会食を含めて7回程度、行われたことが分かる。
結論から先にいえば、「双十協定」と呼ばれるこの交渉の合意は、発表後から雲行きが怪しくなり、46年6月以降の内戦拡大で最終的に吹き飛んでいる。当の国共両首脳のほか、仲介した米国、毛沢東の尻を押したソ連も、そんな結末は思い描いていたはずである。だが、国共両党ともに相手をねじ伏せる力はなく、「暫時の和平でも積極的に求めるべきだ」(45年8月23日の共産党中央政治局拡大会議)といった思惑で交渉は実現した。
蒋介石は交渉方針を、日記にこう記している。
《政治、軍事は包括的解決を図る。政治的要求には寛大に応じ得るも、軍事は厳格に統制して妥協しない》(8月28日)
交渉は、憲政体制への移行と共産党など諸党派の政治参加、共産党支配地域や共産党軍への対応が議題となる。実体は、中国の主導権を握り続けたい国民党と、対日戦で実力を蓄えた共産党の基盤拡大に向けた駆け引きにほかならなかった。
《正午から30分、毛沢東と会談。当面する困難につき解決の誠意を示すと、彼は「(共産党軍の編成で)28個師団の兵力を求めるだけだ」とのことだった》(9月12日の日記)
蒋介石は、「誠実」を旨に毛沢東と接したものの、5日後に国民党代表団の張群(後に行政院長など要職を歴任)から、共産党の兵力要求が「48個師団」だと報告を受けると、「果たして共匪の言うことか。兵力の半数削減は28個師団と言明しておきながら、信用の置けないことこの上ない」(9月17日の日記)と、不信感を露にしている。
合意取りまとめをはさんだ10月9日と10日夜の会談が、蒋介石の日記に比較的、詳しく記録されている。9日の会談はこんな模様だった。
蒋「国共両党の合作につきご高見を承りたい」
毛「(明確に答えず)」
蒋「両党は徹底して合作すべきだ。さもなくば、国家のみか共産党にも益はない。国内政策では軍隊(共産党軍)や地盤(解放区)の観念を捨て、政治や経済で競争すべきだ。共産党の活路はこれしかない」
続いて蒋介石は、第1期建設計画など中国の国家再建に共産党が全面参画するよう説得したが、毛沢東の口は終始、重かったらしい。「彼が心を動かしたかは分からないが、私の誠意は通じたはずだ」と結んでいる。
延安に戻った毛沢東は11日、「よかったのはまず(国民党と)対等の形式で協定が結べた点だ。これはかつてなかった」と政治局会議で報告した。
国民政府や蒋介石の権威はかろうじて保ったとはいえ、交渉は毛沢東の言う通り、共産党を対等の政治実体と認める結果となった。国民党支配の“終わりの始まり”である。蒋介石はしかし、10月末の月間総括欄では、「共産党がどんなに悪巧みをしても国の基本は万全だ」と、やがて来る内戦の結末を予想すらしない楽観論を残している。(米カリフォルニア州パロアルト 山本秀也)産経新聞
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【用語解説】双十協定
国民、共産両党首脳による重慶交渉(1945年8〜10月)の合意事項をまとめた会談紀要。辛亥革命を記念する双十節(10月10日)に取り交わされたので、この名がある。(1)蒋介石主導の長期合作と内戦の回避(2)国民政府が諸党派を集める政治協商会議の開催(3)軍隊の国軍化再編−などが主な合意内容。国共首脳の次の会談は、2005年4月に、胡錦濤・共産党総書記と連戦・国民党主席の間で北京で行われたが、台湾の民主化を背景に、60年前とは意味付けが完全に異なるものとなった。
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