(cache) 【蒋介石日記】第2部(8)日本降伏…「以徳報怨」の真意
【蒋介石日記】第2部(8)日本降伏…「以徳報怨」の真意


 ■道徳性より戦略的効果

 蒋介石は重慶放送のマイクに向かうと、前日に自ら筆を執ったラジオ演説の原稿を読み始めた。1945年8月15日の午前10時。「われわれは抗戦に本日、勝利した」で始まったこの演説は、進むにつれて熱を帯びた。

 「われわれは報復を加えてはならず、さらに敵国の罪なき国民に汚辱を加えてはならない。(中略)もし以前の敵の暴行に暴行でこたえ、以前の誤った優越感に侮辱でこたえるなら、うらみがうらみを呼び永遠にとどまることがない」

 後に「以徳報怨」の名で知られるようになるラジオ演説は、戦後の日本との関係でほとんど神話に近い蒋介石像を日本人に植え付ける結果となった。台湾を訪れた日本の政財界人が、「蒋総統の以徳報怨」をたたえる“儀式”は、李登輝政権発足後の90年代の半ばまでは確実に続いていた。

 終戦前後の日記を読むと、蒋介石の目はすでに戦いに敗れた日本を超え戦後の国内外情勢にくぎ付けだったことが分かる。

 国内での懸案は、政治の主導権を狙う中国共産党の策動や満州(中国東北部)に侵攻したソ連軍の居座りなどだった。終戦翌月の9月17日には、「敵軍が正式に投降した日から内外情勢が複雑化し、環境は悪化している。抗戦の最中には思いも及ばなかったことだ」と、早くも嘆いている。

 中国を取り巻く国際情勢では、米ソ対立のにおいを的確にかぎ取り、複雑な思いを抑えて米国の側に立った蒋介石の決意が読み取れる。対米連帯に国益を見いだすという考えは、広島、長崎への原爆投下に対する所感に表れている。

 《この原子爆弾はこのたびの世界大戦を解決した唯一の原動力である。同時に、向こう10年は、世界の戦禍を解決する要素となろう。科学の力は偉大であり、神の知恵をもってしてもこれほどの発明はあり得たか。わが国が受けた恩恵はことさらに大きかった》(45年8月末の月間総括欄)

 広島への核使用では、前年の同じころの衡陽(湖南省)陥落を挙げ、「(日本への)報いがこれほど速やかに現れたとは」(8月8日)とも書いている。きのこ雲に快哉を叫んだ翌週に「以徳報怨」を呼びかけたわけで、演説を道徳性の観点でのみ論じる当否は言うまでもなかろう。

 ただ、蒋介石が、日本の軍事プレゼンスが空白化した国内情勢を見越して、民衆レベルの報復による混乱を避け、寛大な対日姿勢を示す戦略的利点を見抜いていたことは確かだ。自身、演説について、8月18日の週間総括欄で「今後の世界平和と中日関係に莫大なる影響があるはずだ」と戦略的効果を予見していた。

 もっとも、国民には報復を禁じても、対日戦勝の喜びを繰り返しつづる欲求は抑え難かった。45年12月31日の日記は「中華民国最大の敵だった日本帝国主義はすでに消え去った。神に感謝す」の一言で結ばれている。

 蒋介石は自ら率いた北伐を済南事件(28年)で日本軍に阻まれたとの思いから、事件後、日記の冒頭に「滅倭(日本を滅ぼす)」「雪恥(恥をそそぐ)」と書き続けてきた。日本への報復願望を心の糧としてきたわけで、対日戦勝後もその精神構造は変わらなかった。

 東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本が降伏文書に調印した9月2日の日記には、「50年来最大の国恥と私個人が長年受けた恥はそそがれた。しかし、古い恥はそそがれても新たな恥にまた染まる」と書き残している。

 蒋介石は、思うに任せない内外情勢に怒って、「雪恥」の2文字を翌日からまた書き続けた。新たな怒りは、台北移転後に「大陸反攻」を叫ぶ原動力に転化されて、台湾全土を巻き込んでゆく。

 (米カリフォルニア州パロアルト 山本秀也)産経新聞                    ◇

【用語解説】「以徳報怨」演説

 蒋介石が対日戦争の勝利を告げたラジオ演説。「抗戦勝利を全国の軍民および全世界の人士に告げる書」が正式名称。10分程度の比較的短い演説で、「中華民族の徳性」として「旧悪を思わず」「他人に善をなす」を挙げ、投降した日本将兵や居留民に対する報復や侮辱を戒めた。「以徳報怨」は論語(憲問編)が出典とされ、「怨みに報いるに徳をもってする」という意味だが、演説の中で、直接この言葉が使われたわけではない。