(cache) 西安事件の謎 蒋介石日記で判明 蒋・周会談は2度/掃討放棄、言質与えず
西安事件の謎 蒋介石日記で判明 蒋・周会談は2度/掃討放棄、言質与えず


 中国現代史の謎を残す西安事件(1936年12月)に関する蒋介石自身の詳細な記録が、米スタンフォード大学で新たに公開された蒋介石日記の中から見つかった。これにより、事件の重要局面となった蒋介石と中国共産党代表、周恩来との会談は、蒋介石が監禁されていた現地で2度行われ、周恩来が共産党掃討作戦の完全放棄を口頭で確約するよう迫ったのに対し、蒋介石は「言わないことに決めた」と、言質を与えることを拒んでいたことが分かった。(米カリフォルニア州パロアルト 山本秀也)産経新聞

 国民、共産両党の提携(第二次国共合作)による挙国抗日に道を開いた西安事件をめぐっては、蒋介石の身柄解放に至った交渉の細部などに、なお謎が残っている。このうち、解放直前に行われて、国共合作への転換点を知るうえで重要な蒋介石と周恩来の直接会談の日時や回数、内容についても諸説が流れていた。

 今回、公開された蒋介石日記によると、周恩来が西安市内の監禁先に蒋介石を訪ねたのは12月24日午後10時過ぎと同月25日午前10時過ぎの2回。

 最初の会談は、周恩来が「蒋夫人(宋美齢)に会う流れの中で、蒋先生と一度会えればよい」と強く要請して実現した。蒋介石が就寝中だったため、短時間だったもよう。双方が握手を交わした後で、蒋介石が「何かあれば漢卿(西安事件を起こした張学良の字(あざな))に詳しく話してほしい」と述べた程度で終了した。

 翌日の会談では、周恩来は「共産党に対する掃討作戦は以後行わないと蒋先生に直接、言ってもらいたい」と作戦放棄の言質を取ろうとした。蒋介石はしかし、共産党が国家統一の破壊をやめることなどを条件に、さらなる掃討作戦を見送り共産党軍を容認する可能性に触れるにとどまった。

 蒋介石はこの直後、監禁を解かれ西安を離れた。

 西安事件の経緯については、蒋介石自身が「西安半月記」として記録を公表していたものの、周恩来との会談部分は完全に欠落していた。張学良も台湾での軟禁を解かれた後、事件に関するインタビューで、蒋・周会談への言及は控えていた。

 蒋介石日記は、遺族から寄託を受けたスタンフォード大学内のフーバー研究所が昨年から段階的に公開を開始し、先月から、新たに1932〜45年の分が公開された。

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【用語解説】西安事件

 中国で国民党と共産党との内戦(第一次国共内戦)が続いていた1936年12月に、陝西省北部の根拠地に立てこもる共産党軍(紅軍)の掃討を命じられた張学良ら軍人が、作戦督励のために西安入りした国民政府指導者の蒋介石を監禁し、内戦をやめ一致して、日本の軍事圧力に抵抗する路線(挙国抗日)に転換するよう迫った。事件を境に、国共両党の提携(第二次国共合作)が成立して、共産党は壊滅の危機を脱した。張学良は事件後、半世紀の間、軟禁された。