【蒋介石日記】第2部(5)宋美齢訪米 国会演説で世論魅了
蒋介石夫人の宋美齢は1943年2月18日の午後、ワシントンのキャピトルヒル(米連邦議会議事堂)を訪れ、連邦議員を前に熱弁を振るった。
「私は少女の時に、この国に来て、米国の皆さんに囲まれて育った。おかげで皆さんの言葉をしっかり身に付けられて、本日ここに来ても、わが家に帰った気持ちです」
上院本会議場での演説で、宋美齢は流暢(りゅうちょう)な英語を使ったのみならず、中国人女性として米国の価値観を共有していることをアピールしつつ、話しだした。
「私だけではない。仮に米中両国の人々が互いの言葉で語り合えれば、徹頭徹尾、両国民は同じ目的のために戦っているのだと語ることでしょう」
自由のために戦う米国と中国−。宋美齢の訴えかけに満場の議員らは万雷の拍手でこたえた。
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宋美齢の演説に先立つ41年12月8日、重慶で国民政府を率いていた蒋介石は、日本による真珠湾攻撃(同年12月8日)の知らせに快哉(かいさい)を叫んだ。
《午前4時に董顕光から電話。倭寇(日本軍の蔑称(べっしょう))は午前1時にハワイの真珠湾を爆撃したという。(中略)抗戦政略の成就は本日頂点に達したのだ》(同日の日記、時刻は当時の重慶時間)
董顕光とは国民党中央宣伝部の中核的存在で、南京事件など日中戦争に関する対外政治宣伝を取り仕切った人物だ。「徹底抗戦すれば、国際情勢が最終的に変化して日本は敗れる」(38年1月12日)と政略を練ってきた蒋介石にすれば、日米開戦はまさに、「成就」と呼ぶべき一大事だった。
だが、蒋介石の期待は簡単に実現しない。「米国が中国を助けるのは義務、責任、必要であり、権利や恩恵の施しではない」(41年5月21日)と考える蒋にとり、米国からの武器供与や借款、ビルマ戦線での協力ぶりは期待外れの連続だった。
こうした中で、今で言う「帰国子女」の宋美齢が「病気療養」を名目に42年11月に渡米する。皮膚の慢性疾患や背骨の痛みなど体調不良は事実ながら、宣伝畑の董顕光も同行した43年7月までの長期滞在は、米中接近を演出する転機となった。
ニューヨークでの療養を終えてワシントン入りした宋美齢は、国会演説に続いて、ホワイトハウスでルーズベルト米大統領と会談するなど、首脳並みの外交を演じた。
重慶に残った蒋介石は宋美齢の国会演説の狙いを、「米国民を太平洋地域の政治、経済問題に引き付けること」(43年2月12日)と事前に記すなど気にかけていた。ワシントンでの活動が伝わると、こう評価している。
《米上下両院で妻が演説し、かつてない歓迎を受けた由だ。10年来の修養と研鑽(けんさん)が実を結んだ。米国の対中認識もこれで一歩進むだろう》(同年2月20日)
《記者200人余が集まったホワイトハウスでの記者会見はよかった。ただ、神の許されることはすべてなし得るという大統領の発言は上滑りだった》(同月21日)
重慶に対する米政府の支援政策の揺れには実のところ、多分に蒋介石個人に対する不信感が影響していた。それは、終戦前後の対延安(中国共産党)接近や戦後の台湾政策にまで影を落とす。
ともあれ、宋美齢の訪米は米国を中国に引き付ける点で成功、蒋介石としては西安事件での救出交渉に宋が乗り込んで以来、2度にわたって妻に助けられる形となった。(米カリフォルニア州パロアルト 山本秀也)産経新聞
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【用語解説】宋美齢
蒋介石夫人。キリスト教徒の実業家、宋嘉樹の4番目の子として上海で生まれ、少女時代を長く米国で過ごした。1927年に蒋と結婚。蒋の婚姻はこれで4度目。長姉の宋靄齢は中国政財界の大立者、孔祥煕と、次姉の宋慶齢は革命家、孫文とそれぞれ結婚し、「宋家3姉妹」として中国現代史を彩った。内戦で国民党が敗れると台湾に移り、75年の蒋死去後は、生活の基盤を米国に置いた。2003年10月に滞在先のニューヨークで、100歳を超えて死去。正確な生年は不明ながら、1943年の訪米当時には、40代の前半だったことになる。
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