(cache) 【蒋介石日記】第2部(2)西安事件(下)約束一転、張学良を拘束
【蒋介石日記】第2部(2)西安事件(下)約束一転、張学良を拘束


 西安事件(1936年12月)の第2幕は事件を引き起こした張学良の処遇である。李登輝政権下の台湾で軟禁が解かれるまで半世紀あまり続く長い舞台は同月25日午後、蒋介石夫妻と同じ飛行機に乗って西安を後にしたところで、幕が上がった。

 張学良は経由地の洛陽で蒋夫妻と別れ、事件の交渉役だった宋子文(宋美齢の兄)に伴われて12月26日午後に南京到着、そのまま宋邸に身柄を預けられた。蒋介石は帰京翌日の27日夜、張学良を招いている。この時のムードは決して悪くなかった。

 《私は懇切な言葉で彼を慰めた。軍法会議後に特赦とする方針を率直に説明し、罪より功を図る考えを伝えると、彼は胸を張って帰っていった》(27日の日記)

 雲行きが怪しくなったのは一夜明けた28日、国民政府閣僚らを集め張学良の処分を協議してからだ。「多くは漢卿(張学良)を今、西北に戻すべきではないという意見だった。ただ、子文だけが友人の信は失えないとして自由の身に戻すよう訴えた」(28日の日記)

 張学良の処遇を決断したのは軍法会議を2日後に控えた29日のことだ。同日の日記には、「西北には戻さないことに決めた」とある。反乱部隊となった配下の東北軍が待つ西北地方の古都、西安には張学良を帰さないという拘束方針である。

 《前の求め(西安事件解決の合意)がひとつでも守られなければ、それを口実に(張は)また反乱を起こすに違いない。(中略)西北を赤化するに任せれば、国防の拠点を失うばかりか、中華民族発祥の地が永遠に失われる》(同日の日記)

 陝西省の黄土高原に残る中華民族の始祖神話まで引いてはいるものの、蒋介石が前言を翻して長期拘束を決めた理由は、張学良ら離反武装勢力と中国共産党との合流への懸念にほかならない。

 その後の事態はすでに知られている通り、「有罪−特赦−軟禁」の順で展開した。

 12月31日に南京で開かれた軍法会議は、「上官暴行脅迫罪」で張学良に懲役10年の有罪判決を下した。特赦は即日請求され4日後に認められた。

 張学良との約束通りだったのはここまでだ。特赦と同時に「厳重管束」という名の新たな拘束令が付記され、張の運命は暗転した。37年1月13日の日記には、張学良が最初の幽閉先となる蒋介石の故郷、渓口(浙江省)に移された、とある。

 1月末の月間総括欄では、蒋介石は「漢卿は死ぬのを怖がって意気消沈している」と溜飲を下げ、自由を奪った判断を「間違っていなかった」と自賛した。西安で自分が味わった恐怖感をじわじわ与えて悦に入る独裁者の表情が行間にはにじむ。

 張学良を約束通り自由の身とした場合の政治、軍事的な懸念はあり得たとしても、張学良に対する過酷な処分に、こうした蒋介石の個人的な憎悪が大きく影響していたことは疑う余地がない。

 西安事件の序曲となった張学良に対する蒋介石の不信は事件の約3カ月前あたりから、「漢卿がソ連や共産党と気脈を通じて中央から離反する気配だ」(36年9月26日の週間総括欄)などと日記に頻繁に記されていた。

 張学良が晩年に認めた通り、自身や配下の東北軍には共産党の浸透工作が進んでおり、それこそ軍法会議で断罪すべきものだった。量刑の5倍もの長期にわたる拘禁生活を一片の命令で張学良に強いて恥じない鉄面皮ぶりは、趙紫陽元総書記を死ぬまで自宅に幽閉した今日の北京当局にも通じる中国式権威支配の伝統を浮き彫りにしている。(米カリフォルニア州パロアルト 山本秀也 産経新聞)

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【用語解説】張学良

 現代中国の軍人。奉天軍閥を率いた父、張作霖が日本の謀略で爆殺されたことを境に民族主義的な傾向を強めた。配下の東北軍を指揮して蒋介石を監禁、挙国抗日を迫った西安事件(1936年)により、90年に台北で名誉回復されるまで中国、台湾の各地で軟禁状態に置かれてきた。晩年は、妻の趙一荻とともにハワイで過ごし、2001年10月に100歳で死去している。