【蒋介石日記】第2部(4)汪兆銘暗殺計画 「親日政権」促した皮肉
フランス統治下のハノイ市コロン街。1939年3月21日未明、重慶を離れて仏領インドシナに身を寄せていた国民政府の元ナンバー2、汪兆銘の洋館に、ブローニングの銃声が響いた。蒋介石が放った刺客団によるテロだった。異変に気づいて身を伏せた汪は難を逃れたものの、階上の寝室にいた側近の曽仲鳴が銃弾3発を浴びて、搬送先の病院で絶命した。
◇
中国国民党の副総裁を務め党内左派の重鎮だった汪兆銘の重慶脱出は、この暗殺未遂事件の3カ月前の38年12月だった。同月9日には汪が主席を兼ねる国防最高会議で、蒋介石は厳しい戦局が続く日本との戦いについて意見を交わしたばかりであり、汪が雲南ルートで仏印に逃れたことに当初は困惑を隠せなかった。
≪汪先生がひそかに雲南へ飛んだことは想定外だった。国難と未曾有の危機に当たって、共産党との提携(第二次国共合作)を望まないという口実ですべてを顧みずに去ったことは、革命党員の取るべき行動だろうか≫(12月21日の日記)
情報収集により汪の離反が確実と判明するや、困惑は激怒に変わる。
12月24日の日記には、「汪には党と国を裏切る謀略があり、売国の宣言を発する決意だと分かった」と記している。「売国の宣言」とは、近衛内閣の「東亜新秩序声明」に呼応して、同月29日に汪が表明した、「和平、反共、救国」の対日指針(いわゆる「艶電」)を指しているようである。
日記での汪兆銘の呼称は事態の推移を映して、「汪先生」から「汪逆」(逆賊の汪)などに変わった。後に汪死去の消息に触れた日記(44年11月11日)でも、「漢奸(売国奴)汪兆銘が倭(日本の蔑称(べっしょう))の名古屋で病死した」とし、死後も汪への憎悪を隠さなかった。
話を戻そう。
蒋介石は離反した汪兆銘に対し、国民党除名処分を発表する一方、密使を送って翻意を促す硬軟両様の対応を続けた。国民政府特務機関である軍事委員会調査統計局(軍統局)を率いる戴笠に暗殺の密命を下したのは、翻意の望みなしとみた39年2月中旬とされる。
仏印に潜入した特務団は手始めに出入りのフランス菓子屋を脅して毒入りケーキを届けさせ、汪兆銘の毒殺を試みたとの話も伝えられる。日記ではむろん確認できない。
ハノイの露天商に変装して菓子屋の若い衆を脅した特務は、曽仲鳴の射殺犯でもある王魯翹。国民政府が台湾に拠点を移した後、台北で警察局長を務めた人物である。
暗殺失敗の報告を受けた蒋介石は、39年4月3日にこう記している。
≪安南(ベトナム)での汪殺害には失敗したが、これで敵(日本)は汪のたくらみがカラ売りに等しい計略であることを悟ったのではないか≫
実際は、汪は事件に衝撃を受け逆に、親日政権樹立の腹を固め、同じく事態の切迫に気づいた日本の手引きで上海に移っている。蒋介石の暗殺指令がその読みとは裏腹に、親日政権樹立を促したのは皮肉というほかない。
汪兆銘政権の結末は歴史が示す通りだ。蒋介石が汪に張った「漢奸」というレッテルが、中国、台湾で公式に再検証される動きは当面、ない。
汪の死後を託されるなど政権を支えた陳公博や周仏海らが、日本の戦局悪化をみて重慶側とひそかに通じたこともすでに明らかになっている。
蒋介石が内容には触れないまま、「逆賊の周仏海が使者を遣(よこ)してひそかに連絡してきた」と、初めて南京−重慶間の接触を書きとどめたのは40年3月30日。汪兆銘政権発足の日のことだった。(米カリフォルニア州パロアルト 山本秀也)
◇
【用語解説】汪兆銘政権
重慶の国民党を除名された汪兆銘が日中戦争下の1940年3月、中国に親日政権の誕生を期待する日本の要請に応じて、樹立した南京国民政府。国父・孫文の遺志を継ぐ正統政権を名乗った。日本は同政権との「日華基本条約」「日華同盟条約」などで和平実現を図ったものの、政権は、日本の戦局悪化や汪の死去で力を失い、日本降伏後の45年8月に解体された。政権に参加した中国要人は後に「漢奸」として投獄され、処刑されている。
|