(cache) 【蒋介石日記】第2部(7)蒋経国への冷遇一転 交換日記で“帝王学”施す
【蒋介石日記】第2部(7)蒋経国への冷遇一転 交換日記で“帝王学”施す


 蒋介石の日記帳に2通の手紙がはさみ込まれている。いずれも、長男の蒋経国が、1939年の初めに寄せた私信だ。

 最初の手紙は1月4日付。前月の38年12月12日に故郷の渓口(浙江省)に日本軍機が来襲して寓居(ぐうきょ)が被災したことについて、こう報告している。

 ≪生母は足と腰に数発、弾を受け、崩れた壁の下敷きとなりました。救護の人もなく翌日昼から私が掘り始めましたが、15日に対面したときの惨状には泣き崩れました≫

 蒋経国の生母、すなわち蒋介石の最初の妻だった毛福梅の死を伝える手紙だった。蒋と毛は、経国を授かりながら、早くから関係が冷め、別居の末、21年に離婚していた。

 この最初の手紙では、生母の葬儀を内輪で済ませたものの、適当な墓所がなく近在の廟堂(びょうどう)に棺を預けたとしている。2通目の手紙(39年2月5日付)で、埋葬費や親類らへの見舞金の処理を、蒋経国が報告していることから、後始末の費用を父が届けたのは確かだ。

 蒋経国は、蒋介石の反共政策のあおりで、留学していたソ連国内に留め置かれ、中ソ関係の好転を受けて、37年4月、約12年ぶりに帰国した。

 だが、毛福梅との間に生まれた経国より、血がつながっていない二男の蒋緯国を偏愛した蒋介石は、この帰国を素直に喜んではいない。杭州(浙江省)での最初の対面を記した37年4月19日の日記には、「経国と午後会う。杭州には昨日着いたが、すぐに会う気がしなかった」とあるほどだ。

 ソ連時代に結ばれたロシア人妻、ファイナ(中国名・蒋方良)を伴って故郷に戻ったとき、蒋経国は27歳。母の遭難は、地方官吏として赴任した江西省の片田舎から帰省中のできごとだった。

 蒋緯国は、経国の帰国決定(36年11月5日に通告)とほぼ入れ違いにドイツに軍事留学し、帰国後も軍歴を重ね、台湾で陸軍上将(大将)に昇進した。堂々たる経歴だ。

 幼少期から成人後まであれほど蒋緯国に目をかけた蒋介石が後のどのあたりで、後継の国民党指導者となる経国に将来を託す気になったのかは謎といってよいだろう。

 日記を追うと、38年末の雑記欄で、蒋介石は、「経児の見解は明晰(めいせき)で常識も豊かなようだ」と、まず経国の才に着目している。息子への言及が多い中で、最も鮮烈な変化は44年1月2日の日記に示された経国、緯国に対する評価の逆転だろう。

 ≪この子(経国)は偏狭な道に陥ることなく、賢く中庸の道に進む術を心得ている。(中略)緯児は威張っていて、董顕光(国民党宣伝部高官)を偉そうに怒鳴ったのを思い出すと抑え難い≫

 この評価は蒋介石が経国に日記を持って来させて読んだ上での所感だ。むろん、これだけでは、何があったのかは分からない。

 ただ、翌日(1月3日)には、「父子で日記を見せ合うことが倫理と修養に最も有益だと経児に話した」とあり、蒋介石が父子の交換日記という特異な方法で、蒋経国に“帝王学”を施したことが浮かび上がる。

 84年、台湾特務機関が依頼した殺し屋に暗殺された在米ジャーナリストの江南は、災いを招いた著書、「蒋経国伝」で後継問題について、「蒋氏は40年代から、蒋経国の育成を心がけ始めたというのが事実に近いのではないか」と述べている。

 終戦後、満州(中国東北部)問題の処理で難航する対ソ交渉を蒋介石から託されたのは蒋経国。「経国を訪ソさせ、スターリンとの会談で最後の決着を図る」(45年11月9日の日記)という記述には、もはや強い信頼感だけがあふれていた。(米カリフォルニア州パロアルト 山本秀也)産経新聞

                   ◇

【プロフィル】蒋経国

 1910年4月、浙江省奉化県で生まれ、25年にモスクワ留学。共産主義に一時傾倒し、実質的な抑留が解けた37年に帰国した。江西省で行政経験を積み、国民党の政治工作畑に転じた。49年の台湾移転後は青年組織と特務工作を掌握し、行政院長(首相)を経て、蒋介石の死後、国民党主席、総統を歴任した。88年1月に台北で死去。蒋方良との間に3男1女、江西省で関係を持った章亜若との間に2男を設けた。