【蒋介石日記】第2部(3)南京陥落 軍紀弛緩、自国民を陵辱
北京郊外の盧溝橋での武力衝突(1937年7月)に端を発した日中戦争は、西安事件で挙国抗日路線への転換を迫られた蒋介石に、軍事面などでの準備が整わない状態で、日本との対決を迫る結果となった。
上海、杭州から首都南京を目指す日本軍を前に蒋介石は37年11月中旬、重慶への遷都を決断。12月7日に南京を離れ、南京陥落の13日には「南京なお戦闘中と聞く。包囲に屈しないわが将兵の壮烈な犠牲である」と残存兵力の抵抗をたたえた。
だが、南京防衛をめぐる蒋介石の決意は激しく揺れたことが、日記からは浮かび上がってくる。
遷都決断後の11月16日にも「戦車と弾薬は南京に多数残す」と防衛への未練を引きずっていて、翌17日には「南京を固守すべきか放棄すべきかためらう」と煩悶(はんもん)。国父・孫文が眠る中山陵に別れの参拝を終えた蒋介石は「南京城は守ることができなくても守らないわけにはゆかないのだ」(26日)と軍事的判断を捨て防衛に再び傾いたとも取れる言葉を記している。
蒋介石が浮足立った最大の理由は、上海近郊の防衛線が破られて以後の中国軍の敗勢にある。
11月20日の週間総括欄では、(1)上海の緒戦で敵撃滅に大兵力を投じなかった(2)上海〜南京間の警備司令、張治中(後に共産党政権に参加、「愛国将軍」となる)を過信して、虹口(上海市内)の奪取に失敗した(3)蘇州河(同)南岸からの撤退がまずかった−などと、その敗因を分析している。
負け戦以上に蒋介石を悩ませたのが敗走する中国軍の軍紀弛緩(しかん)である。
《南京〜杭州間の交通と通信は途絶。敗残兵の略奪が頻発、わが軍の死命を制するものとなっている。戦う力は甚だ弱いうえ、士気が振るわず、敵よりも自らに敗れている》(11月22日の日記)
《抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(中略)敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦(ごうかん)など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ》(11月30日の月間総括欄)
士気低下については、南京防衛の任務を全うせず兵を置き去りにして南京を脱出した唐生智(南京衛戍司令長官)ら高級将校に対しても、「南京から撤退した各師団長と会見。当時の実情は痛憤の極みで、私の人選の誤りだ。唐生智などは終始国を誤る輩である」(12月30日)と容赦がない。
いずれにせよ、上海で敗れて以来、保護すべき一般国民を相手に略奪や暴行を重ねる自国軍に南京防衛を託すのを蒋介石がためらい、悩んだことだけは間違いなかろう。
南京陥落後は、日本軍による捕虜処断や暴行など南京事件を示すとみられる記述(38年1月22日の日記)がみられる。
《南京での倭寇(日本軍への蔑称(べっしょう))による殺人や強姦は、日本を深みに落として進退窮まらせるに至らないまま、わが同胞の苦痛を極めることになった》
この後にある「軍隊と学校では毎朝、男女同胞が受けた恥辱の事実を講じるべし」(同年5月13日の日記)といった記述を重ね合わせると、南京事件に代表される日本軍の軍紀問題を教育や対外宣伝を通じて重点的に取り上げて、政治的打撃を与えようという蒋介石の深謀を早い段階から読み取れるかもしれない。
(米カリフォルニア州パロアルト 山本秀也)
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【用語解説】南京事件
日中戦争下の1937年(昭和12年)12月、中国の首都だった南京で、日本軍による占領後に中国兵捕虜の殺害や市民に対する略奪、暴行が行われた。中国側が犠牲者数を「30万人」だとして日本の歴史責任を追及する一方、日本側では被害者数や殺害時の状況をめぐる異論が多く、事件は日中間の政治問題となっている。
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