思い込みの必要性と弊害

「疑似科学やオカルト… なぜ、だまされるのか?」という記事があった.
http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/081121/sty0811210813001-n1.htm
(たどれなくなっていたらゴメンなさい).
この記事の最後は,このような文章で閉じられている.
『楽して得を取りたいという「欲得」と「思い込み」、それに「非合理的思考」が結合するとき、人はとめどもなく危うい「だまし」の深みにはまっていく、と安斎さんは警告する。』

では,思い込むことは悪いことなのだろうか?
単純に思い込むことをやめれば良いのだろうか?

僕はそうではないと考えている.人の社会は非合理的思考を伴った思い込みを必要としており,単純に思い込むことをやめることなどできないと考えられるからである.疑似科学による被害を軽減することの難しさは,そもそも人の社会が思い込みによって成り立っているところにあるのではないだろうか.
例えば.
お金という本来は紙くずであるものがくずでないのは,他人がお金の価値を信じてくれるからだ.車の運転で左側の車線を安心して走れるのは,自分が守っているルールを他人も守ると思い込んでも事故にあわないからだ.他人と言葉によるコミュニケーションができるのは,自分が語る言葉が,相手の中に自分の意図を再現できると信じても大丈夫だからだ.こういった思い込みには,本来は論理的裏付けなどどこにもない.時間が経って,結果的に大丈夫だったという経験則があるだけである.
人の社会は思い込み(論理的な裏付けがない状態でも信じられること)を当たり前に必要としている.その都度,信じることの論理性を疑っていたら,協力によって成り立つ社会の機能性は著しく低下してしまう.この基本的な状況を認識した上で,疑似科学を信じることの弊害を軽減する方法を模索することが重要なのではないだろうか.

こういった主張を,数理モデルの構築と認知実験を組み合わせた研究によって客観的に評価したいと常々考えている.そうしなければ,ここに書く程度の主張はどこまで行ってもたわごとの域を出ない.

ということで,上の主張を非論理的に思い込むようなことはくれぐれもしないように.
研究 | comments (2) | -

「思い込みの必要性と弊害」の評価です。

Comments

masa | 2009/01/25 09:23 PM
形式論理的に考えると、、、

A=「欲得」
B=「思い込み」
C=「非合理的思考」
D=「だまし」の深みにはまる

A & B & C -> D

ということを主張しているようなので、Bだけが真であってもAかCの真偽が不明ならば何もいえない。というのが結論のようにはみえるのだが。。。

通常このような形式の主張は、AとBとCが均等の割合でDが真になる原因のようにとらえられてしまう人間の認知機構はどのようなものだろうか。。。

はて。
hash | 2009/01/22 10:18 AM
その相互思いこみの体系が「制度」だね

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