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2010年12月4日(土)付

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臨時国会閉幕―酷評を甘受し続けるのか

与野党が対決姿勢でにらみ合ったまま、臨時国会が幕を閉じた。徹底した議論を通じて合意を見いだす「熟議の国会」。法案ごとに多数派形成を図る「部分連合」。国会のねじれを契機と[記事全文]

取材テープ―提出命令、高裁で是正を

報道や取材の自由を考えるうえで見過ごせない裁判が、大阪高裁で審理されている。「朝まで生テレビ!」の田原総一朗氏に対し、神戸地裁が10月、取材内容の録音テープを訴訟の証拠として提出するよう命じ[記事全文]

臨時国会閉幕―酷評を甘受し続けるのか

 与野党が対決姿勢でにらみ合ったまま、臨時国会が幕を閉じた。

 徹底した議論を通じて合意を見いだす「熟議の国会」。法案ごとに多数派形成を図る「部分連合」。国会のねじれを契機とした新しい「政治のかたち」は見えてこなかった。

 国民が望む国会の姿にはほど遠い。与野党双方に猛省を促したい。

 補正予算を除き、今国会でも実に多くの重要法案がまともに議論すら行われず先送りされた。

 政治主導確立法案、地球温暖化対策基本法案、地域主権改革関連法案、労働者派遣法改正案、郵政改革法案……。いずれも民主党政権の目玉政策のはずだが、政権交代から15カ月もたつのに中ぶらりんが続いている。

 「動かない政治」「結論を出せない政治」に、もどかしさを禁じ得ない。

 朝鮮王朝時代の文書を韓国に引き渡す日韓図書協定の先送りも残念だった。今年は韓国併合100年の節目にあたり、格好の外交成果となりえた。これすら合意できない与野党の感度の鈍さが情けない。

 党派を超えて取り組まなければいけない消費税引き上げや年金を含む社会保障制度改革をめぐっても、与野党協議の機運は生まれなかった。

 一義的な責任はもちろん政権与党にある。小沢一郎・元民主党代表の国会招致に二の足を踏み、尖閣諸島や北方領土をめぐる外交問題で後手に回り、閣僚の失言も頻発した。

 閣僚の問責決議案を連発した野党の対応も、政略優先に傾きすぎだった。政権への打撃ばかりを狙う姿勢には、ねじれ国会で重い責任を共有しようという意識はまったく感じられない。

 民主党はいまだ政権運営に習熟できず、自民党も二大政党の一翼を担うにはあまりに粗末な姿をさらし続ける。荒涼たる政治の風景である。

 政治不信という現象は民主主義社会には常につきまとう。しかし、歴史的な政権交代という信頼回復の絶好機すら生かすことができないまま、有権者の幻滅だけが深々と広がっていく。

 年明けの通常国会でどう出直すか、与野党ともがけっぷちである。

 菅直人首相は通常国会に先立つ来年度予算編成を通じて、政権が目指すものを国民に明確に示す責任がある。「何をやりたいのかわからない」という酷評にいつまで甘んじているのか。

 与党からの歳出増圧力は強く、各省の予算要求の絞り込みも不十分だ。限られた財源をどの政策に投入するか、厳しい決断を避けて通れない。

 民主党政権が一からつくる初めての本予算であるが、首相はラストチャンスのつもりで指導力を発揮すべきだ。それができなければ、政権はいよいよ存亡の危機に追い込まれると覚悟しなければならない。

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取材テープ―提出命令、高裁で是正を

 報道や取材の自由を考えるうえで見過ごせない裁判が、大阪高裁で審理されている。「朝まで生テレビ!」の田原総一朗氏に対し、神戸地裁が10月、取材内容の録音テープを訴訟の証拠として提出するよう命じた。不服とする田原氏が即時抗告したのだ。

 番組で氏は、北朝鮮拉致被害者の有本恵子さんらについて「外務省も生きていないことは分かっている」と発言した。これを受け、恵子さんの両親が損害賠償を求めて提訴した。

 田原氏も両親の気持ちを傷つけたことを謝罪した。だが、発言は取材に基づく自らの見解だなどと争っている。訴訟手続き上、まずテープ提出の当否に決着をつけることになった。

 やましい点がないのなら、堂々と取材の中身を明らかにすればいい。そう思う人もいるかもしれない。しかしそれは重大な問題を引き起こす。

 報道にあたっては、その元となる発言をしたり資料を提供したりした人の氏名や立場を示すのが基本だ。一方で「情報源を明らかにしない」「取材内容は参考にとどめる」「公にする時は相談する」といった約束を交わすこともある。ほかに方法がなく、奥深い報道に必要と判断した場合だ。

 田原氏の取材も同様だった。ところが訴訟になり、発言の根拠を説明する必要が生じた。やむなく外務省幹部の取材テープから関連部分を書き起こし提出したところ、地裁は「文書を出したのだからテープを出すのも一緒だ」と全面公開を命じた。

 きわめて乱暴な理屈である。

 テープには拉致問題以外の取材内容も含まれているというし、全体のやり取りや声から取材相手が分かってしまう可能性は高い。そうなれば、その人物が苦境に立たされるのはもちろん、取材活動一般に対する不信や取材に応じることへのためらいが、世の中に広がる事態も十分考えられる。

 取材の自由とは取材者のためにあるのではない。取材と報道によって必要な情報が社会で共有される。それは、人々がものを考える際の材料になり、民主主義の発展に役立つ。最高裁がこれまでの裁判で、取材の自由は十分尊重されねばならないと述べ、取材源の秘密には重要な社会的価値があると判断してきたのはそのためだ。

 地裁はこうした本質を理解していないと言わざるを得ない。高裁は、取材や表現の自由の重要性に思いを致し、適切な結論を導き出してほしい。

 表現の自由がすべてに優先すると言うつもりはない。別の、より大きな価値に譲らねばならない時もある。

 その優劣や軽重を判断するには、成熟した市民社会と正しい情報に基づく討議が必要だ。そうした社会を築いていくために大切なもの、それが表現の自由なのである。

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