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ブント・ワークショップ・イン北陸での講演から
理念通りには世界はつくりかえられない
リチャード・ローティ左翼の希望   荒 岱介
  2003-9-25
  トロツキーと野生の蘭
  新左翼のスタンス
  善のイデア論
  右翼と左翼の違い
  福音書よりは党宣言を読め
  対話不可能なのはどうしてか
  プラグマティズムの真理観
トロツキーと野生の蘭
 リチャード・ローティは今すごく注目を浴びている思想家です。日本での第一人者は野家啓一さんで、東北大学文学部学部長の人です。野家さんはアメリカに留学した時に、スタンフォード大学でローティの教えを受けた。それまでマッハ主義や現象学の影響を強く受けていたのが、ローティの教えを受けて考えが変わり、プラグマティズムが正しいと思うようになったようです。

 廣松渉没後8周年の集会のあと、野家さんはナチュラルヒストリーと言うけど、自分をどう規定しているんですかと聞いてみたら、自分は「リベラル・アイロニスト」だと言っていた。その時はぼくは「アイロニスト」という言葉の意味が分からなくて、皮肉屋なのかなと思ったけど、実はローティ主義の意味で使っていたんですね。ローティが「リベラル・アイロニスト」と自分のことを言っているのにあわせて、野家さんも自己規定していたわけです。

 廣松渉さんも、アメリカのプラグマティストのデューイに影響を受けています。

 人間はすべてニュートン力学ならニュートン力学のパラダイム、量子力学なら量子力学のパラダイムの中で物事を考えています。文化にもいろいろあって、キリスト教徒はキリスト教、イスラム教徒はイスラム教の文化の中で正しいとされる価値を省察し実践している。プラグマティズムはそのパラダイムを省察します。他人の入り込んでいるパラダイムを暴いていくのがプラグマティストの方法なのですが、そこが廣松さんと同じなのです。

 真理とか本質が実在するという考え方に人間は憧れます。しかしデューイを引き継ぐローティはそれを批判している。現象の背後には本質があるというのは、特定のパラダイムの中で生み出されたものを実在化させたに過ぎない。プラトンの時代から人間はそういうことに憧れてきたけど、それがおかしいと言うのです。ローティに言わせると科学主義も一つのパラダイム的なもので、科学を極めた者がそれを知らない人に対し何か精神的な優位に立つと思い込んでいるだけのことだという。そんなのは錯認にすぎず、真なるものは進化論的に生み出されているものだという。これだけでもローティを学ぶ意義は十分にあります。

 人間は古来いろいろな宗教的な真理や科学的な真理を求め、それが実在すると考えてきた。それはすべて限りある人間が、超人間的な地平に立ちたいという、極めて人間的な感情の中で生み出されたものです。こうしてドグマに囚われてきた人間の落ち込む陥穽を暴いていく。マルクス主義も含めて宗教的な真理や信念におち込む、人間のパラドックスを暴いているわけです。

 しかも今でこそ左翼パラダイムを暴くローティですが、元々はトロツキストでした。ぼくら新左翼は60年代後半から70年代にかけてトロツキーを読んだけど、同じようなところから出発した。ローティの両親は有名なトロツキストの活動家で、リチャード少年も10代でトロツキズムに目覚めた、そこから彼は転換したわけですね。

 10代前半の時にトロツキーを崇めた彼は、10代後半にシカゴ大学に入ったときにはダーウィンの進化論やデューイの哲学を学んで、考え方を変えていた。元々強烈なトロツキストだったという点ではネオコンと同じですが、そこで転向した理由を学ぶ必要があると思います。「トロツキーと野生の蘭」という文章に紹介された生い立ちでは、次のように言っています。

 彼が12歳の頃、両親の書棚の『レオン・トロツキー裁判(The Case of Leon Trotsky)』と『無罪(Not Guilty)』を聖書のように思っていた。当時彼の父は、ジョン・デューイを委員長とする調査委員会の広報担当として、トロツキーに有罪判決が出された1936年のモスクワ裁判が不当ではないかという調査をしていました。トロツキーはロシア革命の指導者で、赤軍の軍事委員長をしていたのがレーニンの死後スターリンと対立してロシアを追われた。レーニンの後継者はスターリンになり、1940年トロツキーはメキシコでスターリンの放った刺客ラモン・メルカデェルにピッケルで頭を割られて死んでしまう。トロツキー裁判を調査していたデューイとローティの父は、すごいディープなところでトロツキズムを見ていたわけです。

 12歳のときローティは労働者保護同盟(The Workers Defense League)の事務所で報道発表の原稿を運ぶ仕事をします。労働組合の運動に関わることで彼は、人間であることにおいて肝心なのは、社会的不正に対する闘いに人生を捧げることだと考えるようになったと告白しています。本当に子供の頃から社会正義を求め、トロツキズムを真理として信奉していたわけです。

 そのローティは、青年期の興味が野生の蘭に移ったといいます。彼のいた地域の山々にはおよそ40種類の蘭が自生しており、そのうちの17種類を見つけることができたと誇らしげに書いています。野生の蘭は珍しく、見つけるのはかなり難儀であったために、野生の蘭が自生している場所、学名、開花する時期を知っているのは、そのあたりで自分だけだという自負を持ったと言います。純粋無垢な野生の蘭は、花屋に陳列されている見栄えがよい雑種の熱帯産の蘭よりも精神的に価値が高いという信念をもった。「知的かつ霊的なスノッブであると同時に、人類の味方でもある道――オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士である道――を欲していた」と。

 そのときはローティ少年も、自分にとって他の人間は知らないことを知っている喜びを感じていた。野生の蘭についての秘密を知っているのは自分だけで、その世界では一歩真理に近づいている。そういう感情とトロツキズムへの信奉で自分の世界を作った。それがシカゴ大学に入って間違っていると思うようになったというのです。

 つまりローティのマルクス主義批判は、マルクス主義の外側から言っているわけではない。単に外在的に反マルクス主義を言うだけなら、ほとんど価値はありません。そうではなくすごくディープなトロツキストであったのが、内在的にマルクス主義の誤りを突きだしていった。その経歴からアメリカで読まれているわけです。

 ローティは民主党の左派を支持するけど、70年代のある時期にアメリカ中流階級の理想主義は行き詰まったともいいます。カーター大統領とクリントン大統領の政権下で、民主党は労働組合から遠ざかり、富の再配分を話題にしなくなった。「中道」と呼ばれる不毛の真空地帯へ移って生き延びようとしたけど、そうすることで所得と富の配分の問題を放棄した。ローティに言わせると、これは知識人が一体化でき労働組合が支持できる一翼からはずれたことを意味する。その結果民主党と共和党のどちらを選ぶかという問題は、「皮肉な嘘つき」と「怯えて沈黙するもの」の違いだけになってしまったと言います。

新左翼のスタンス

 それに抗して左翼が力を取り戻すためにはどうすべきか。ローティはここで新左翼のスタンスを変えない限りは展望がないといいます。多くのアメリカ人の学生と教師の中に、自分たちの国を完成することを夢みている左翼よりも、自分たちの国を傍観者のように嫌悪感を抱いて嘲笑している左翼がいる。彼らはアメリカを許せないと思っており、アメリカを完成することは不可能であると考えている。そういう態度が現実の変革へのシニシズムを招いているというのです。

 「この〈左翼〉のメンバーたちは、自分たちの国から一歩退き、自分たちの国を『理論化(theorize)』する。つまりこの〈左翼〉のメンバーたちは、現実の政治よりも文化の政治を優先させ、社会的正義にかなうように民主主義の制度が創り直されるかもしれないという、まさにそのような考え方をばかにする。そうして彼らは希望よりも知識を優先させるのである」と。

 こういう左翼は具体的なことをやらないとローティは批判します。理念とか文化ということだけを問題にし、現実に対してはすごくシニカルになっていく。これに対してローティが評価するのは、労働組合などで一個一個改良するような試みです。実際の矛盾に対し闘うことが必要で、住民運動などを一個一個積み重ねていくことに意義がある。

 ローティはアメリカ主義を掲げていますが、手放しでアメリカを絶賛しているわけではない。現実のアメリカは矛盾のかたまりであって、それに対してシニカルにかまえるのではなく変えていこう、というのが左翼のとるべきスタンスだというのです。新左翼は理論化すること、行為者よりも観察者になることを望むけど、求められるのは観察者の立場を捨てて行為者たることであると。およそ現実に興味をなくしてしまい、やれデリダだ、やれフーコーだドゥルーズだと言い続けるのをやめろと言っています。実際の変革には関係ないのに、喫茶店などにたむろして、お前フーコーを読んだかとか、ボードリヤールはどうだとか言う人たちがいるでしょう。こういう態度をやめて、一個一個のことを具体的に改良していくべきだと呼びかけているのです。

 クリントン時代には国連のことにも言及しています。「軍指導者や良心のかけらもない超富裕層に対処するために、国連を活性化させることができる見込みはほんのわずかしかないことは私も認める。しかし、そこにしか、何らかの公正なグローバル社会を実現できる見込みはないのではないだろうか」。国連の役割に限界があるのを認めても、だからといって軽視しないで、富の再分配などによる社会的公正を実現するのに活用せよといっているのです。

 ローティの主張は「富の再分配」であって、ノージックの言う「機会の均等」ではありません。結果において所得格差が100対1とかいうのはおかしいというのです。

 「以上の見解は、哲学教授としての資格においてわたしが抱いている見解ではなくて、たんに衰退の途上にある国のことを憂う一市民としての見解にすぎない。わが母国が世界史的な意義をもつのは、ひとえにグローバルな平等主義的ユートピアの先導者の役割に身を投じたからである。しかし、わが国はもはやそうしなくなっており、したがって、その魂を失う危機に瀕している。ホイットマンとデューイの著作活動に生気を与えていた精神はもはや存在しない」。

 1930〜40年代のアメリカで、ホイットマンは詩人としてアメリカを謳い、自由と多様性の国として完成しようとした。自由と多様性のために専制を批判し、一党独裁を否定するアメリカを開花させていった。そういうアメリカの民主主義が失われつつあると90年代のローティが憂いているわけです。しかしそこでニヒルになってすべてを否定するのではなく、あくまでも具体的な改良のビジョンを示そうとするのが彼のスタンスです。だから欠陥や限界があるのは分かっていても、国連の役割に期待する。理想を掲げ、超時空的な組織でやろうとしても、実際には思ったとおりにならないことを人類の歴史は示してきた。理想を掲げて現実をネグレクトするのではなく、現実の中での改良に展望を託していく、そういうことを言い続けているわけです。左翼の中には自分の国を絶対に認めないという立場がある。しかし自分の国を良くするために闘っているはずじゃないか。改良のためには、良くしようとする対象を全否定したり憎んでいてはできない。希望を持って、アメリカの現状がいけないなら良くしていくべきだと言います。

 60年代にベトナム戦争を契機に登場した新左翼の考えでは、あんなやつは左翼じゃないからだめとか、本当の左翼は違うといってどんどん自分を純化していきます。体制を根底から変えて下部構造をくつがえさない限り革命できないと訴える。そういう設計主義的なオール・オア・ナッシングこそがだめなわけです。

 今の新左翼を批判するタームとして、文化左翼というのがあります。ソ連・東欧が崩壊したあと、新左翼は抽象化された言葉との闘いを言っているだけだ。フーコーだったらパストラール権力とか、ボードリヤールだったらシュミラークルと言うでしょう。ファルゴセントリズムというのもあります。ファルス(男根)とロゴス(言葉、理性)とセントリズム(中心主義)の合成語で、家父長制や男性的権威を中心に世界の秩序ができあがっている。それに対して、それは言葉の上でタームと闘っているだけだと批判します。

 言葉をターム化してこれとの闘いを訴えても、現実にやれることはほとんどない。シュミラークルとかパストラールという指摘が全部間違っているわけではないけど、現実の変革のためにどれだけの力を持てるのか。カルチャーの中に抑圧があるのは認めるけど、具体的な同一労働・同一賃金や、男女の経済における同権を問題にできなくなっていることの方が問題であるという立場です。文化左翼が具体的な不公平をなくしていく闘いから召還して、理念の世界に引きこもっていることを批判してるわけです。

善のイデア論

 ローティが評価するのは、ダーウィン、デューイ、ホイットマン、ヴィトゲンシュタイン、ニーチェ、トーマス・クーン、デリダなどです。一言で言うと進化論と相対主義の人間を認める。これに対してプラトン、デカルト、ロック、カント、マルクス、レーニン、ハーバーマスのように、普遍的真理がある、ないしはあるべきだと言っている人はだめだと言います。人間の思考は自然や社会に対する人間の適応行為であり、絶対普遍の真理などはない、それを超越的な真理にしてしまうところにあやまりがあるのだと言うのです。

 「ためしてガッテン」というテレビ番組がありますが、あのように人間は、自分の生活にとり有用とされるものを一つ一つ検証し、価値を与えていきます。人間の判断的措定はすべて有用なものを取捨選択した結果になるわけです。そういう道具主義で考えていくと、一つ一つの判断はすべて相対主義的な妥当性です。生活世界とは違うところに学があると考えていくのは錯認である。生活世界では下世話なことばかりがあるけれど、俺は違うんだ、学問に志しているんだとか、だから偉いんだとか、そういうエリート意識を持ちたいのも、有限な人間だからこそ超越的なものに憧れる、実に人間的心理の産物だと批判するわけです。

 プラトンが善のイデアを唱えたときに、そういう錯認が始まったというのです。プラトンは生成消滅して変転する現象界を超える、永遠不動の実在があると言う。それが善のイデアだけど、美と善のイデアに達するとき霊魂は真に揺るぎない知識を得る。イデアの認識に至る道筋が弁証法、ディアレクティケーであるといいます。みんなが見ているのは実在の影に過ぎないという、有名な「洞窟の比喩」の話です。

 しかしプラグマティズムの解いているところでは、真理を求めて勉学しても、普遍の真理には到達しない。真理とされるものは、実はすべてパラダイムの中にしか存在しない。当該の共同体の中で妥当とされていることがあるだけで、不滅の真理とかいうのは転倒しているのです。そしてまさしくそういう転倒を生み出すのが人間の文化だと言うのです。

 人類史の中で真理とされてきたものはたくさんある。西洋と東洋では宗教も違うし、科学こそ普遍的な真理だと思っている人もいます。ニュートン力学なら中世の神学との論争を経てパラダイムを作った。しかし相対性理論や量子力学が出てくれば、また見直されてくる。真理とされているものをたどっていくと、最終的には言語行為の中で人間が措定したものとしか言えなくなります。人間はプラトン以来、イデアを求める旅に出てしまい、いろいろなものを真理としてあがめ続けてきた。「知は力なり」という発想は、そういう優劣の感情から生まれたわけです。そういうことをローティは見透かしている。その点ではものすごく平等主義で、自分に対しても同じ基準で見透かしている。それが民主主義の精神だとなります。前衛―大衆理論の立場にたちたい人間の、コンプレックスの表出のような優越感とかを見透かしているんですね。

右翼と左翼の違い

 ローティの右翼・左翼の分け方も見ておきます。「〜でなければならない」と考え、理念と現実を対比させては「あいつは本当の左翼じゃない」などと、差異を強調するのが左翼の習性です。これに対して「アメリカ国家の誇り」という文章で、ローティは次のように言っています。

 「〈左翼〉、希望の政党は、アメリカの道徳的アイデンティティが保持されねばならないというよりも、これから完成されるべきものと見なしている。〈右翼〉は、アメリカがすでに道徳的アイデンティティを持っていると考え、そのアイデンティティをそのままにしておくことを望んでいる。〈右翼〉は、経済的・政治的変化を恐れ、それゆえ簡単に金持ちで権力のある人々――そのような変化を未然に防ぐことによって、利己的利益が満たされる人々――の人質になってしまう」。

 現状を改良したいという人はみな左翼で仲間だと言うのです。現状に満足し、これ以上手を入れなくていいと考えているのが右翼。左翼というのは永久革命で、現状に対して改良を続ける人たちの総称だということになります。コンサバというのも一つの思想のことではなく、改良に反対するスタンスを言うだけです。

 左翼の設計主義では「こうでなければならない」と勝手に措定します。しかし何々であるべきだといっても、理念以外に実は何もあるわけではないのです。自分が決めていることを社会的な決まりであるかのように思うのは、物象化の機制にすぎない。そうやって人を何々でないから間違っていると批判するのが、いわゆる左翼です。これに対しローティの言う左翼はすごく広義になって、ジョンソン大統領もパートタイム左翼だと言う。  ローティは「1945年から1964年の間に『社会主義者』を自称するアメリカ人を呼ぶ時、『旧左翼(Old Left)』という言葉を使うべきではないと思う。1900年から1964年の間、弱者を強者から守るために立憲民主主義の枠組みの中で奮闘していたすべてのアメリカ人を包括して、『改良主義的左翼(reformist Left)』という言葉を使用するようわたしは提案する。この言葉には『共産主義者』や『社会主義者』を自称する多くの人々だけでなく、そのどちらをも自称することなど夢にも考えていなかった多くの人々も含まれる」と言います。

 こういう論じ方がすごい。あんなの左翼じゃないとか、あんなのナンセンスだという考えをやめろと言う。そうではなく改良を試みるならみんないいじゃないかと。

 「わたしが述べている『改良主義的左翼』という言葉の意味では、ウッドロウ・ウィルソン大統領――ユージン・デブズを刑務所に拘禁したが、しかしルイス・ブランダイスを最高裁判事に任命した大統領――はパートタイム左翼と見なされる。フランクリン・デラノウ・ルーズベルト大統領――福祉国家の基礎を創り、労働者が労働組合に加入することをうながす一方、アフリカ系アメリカ人に頑固に背を向けた大統領――も、パートタイム左翼と見なされる。リンドン・ジョンソン大統領もパートタイム左翼と見なされる」という具合です。

 こういう主張にナンセンスとか言いたくなってくる人もいるでしょう。だけど実際にアメリカを良くするために行動した人は認めようと言っているわけです。日本の新左翼では佐藤栄作も左翼と見なされるなんて新左翼に言ったら、血相をかえて反論されるのは目に見えてます。だけどそういうのは、実は自分の主義に染まって酔っているだけだとなります。わーわー言うその自分に酔っているだけで、気持ちの満足を言ってるだけです。そういうのは人間の根本的なところでの、自己憐憫やら自己満足の気持ちに突き動かされているだけで、現実を変革しようと思ったら、その逆に差異を強調していくことに意味はないと考えるわけです。

 「ジョンソン大統領は、ベトナムの子どもたちを何十万も虐殺することを黙認したが、アメリカ合衆国の貧しい子どもたちのために、以前のどの大統領よりも多くのことをした」。つまりどこまで改革をやれば左翼なのかは、あくまでもその人の主観的な判断の中にあるだけで、あいつは左翼じゃないとか反革命とかすべて恣意的な基準です。本質主義的に革命と反革命の区別は引き出されないのです。

 「『改良主義左翼』というわたしの言葉は、〈右翼〉が恐れ憎んでいたほとんどの人々を含み、そうすることでマルクス主義者が左翼と自由主義者の間に引こうとした境界線を不明瞭にしようとするものである」。

 左翼を自認する人々が相手を自由主義者とかブルジョア民主主義とか言って、すべて私利私欲で動いているやつらと描き出すのに反対する。つまりは自分たちだけが一番いいと考えていく、左翼のパラダイムそのものがおかしいというわけです。社会をよくしようとするのが左翼で、改良に反対するのが右翼という線だけを引いて、それ以上にこいつは左翼じゃないなどという自己満足はやめにしようと言う。このへんがすごいですね。

 ローティは改良主義の夢と希望でアメリカを満たしたいと思っているわけです。哲学的には反本質主義の相対主義だというけど、決して何でもいいと思っているわけではないのです。アメリカという国を、世界で考えられる限り最も人権が尊重された民主主義社会として完成させていきたい。そのためには連帯できる部分とはすべて連帯しようという立場です。その逆に新左翼の運動は、あいつは左翼じゃないと言って次々と境界線を設けていく発想を取ってきた。レーニン主義の「哲学の党派性」はその典型だけど、そんなふうに凝り固まることで実際の力を得たのか。むしろ社会的にはどんどん孤立しながら、教義の絶対性だけを自己満足的に主張していくにすぎなかった、そういうのは終わりにしようといっているのです。

 だから連帯がローティのタームになります。尊大にならず、自分が一番偉いとか思わないで人々とコミュニケーションしていく。一緒にやっていく人間を増やす中で、こちらの考えも変わる。あるいは自分が卓越した考えだと思うなら、具体的な連帯や討論の中で検証されていけばよい。そういうやり方をした方が、独善的に「我々のみが唯一絶対」とかいうよりもはるかにいいじゃないかと言うわけです。

福音書よりは党宣言を読め

 何とかでなければならない、あんなのはマルクス主義者じゃないと言って境界線を作る凝り固まった考えで他者を排除するのは、自分のカタルシスにはなるかも知れないけど、他者を全部否定の対象にして何が出来るのか。そんなことは実際には無力な理念主義者の、人を批判して溜飲を下げるだけのナルシズムでしかないというこの主張こそ、われわれは見倣うべきだと思います。

 「いかなる誤りも犯さず、いつでも正しい側にいて、圧制者や不当な戦争の謝罪をしたことのないような人々を求めるならば、そのような完璧な人間はほとんどいないだろう。私たちアメリカ人は、マルクス主義によってそのような完璧性を求めるようになった。マルクス主義者は、革命的プロレタリアートのみが徳を体現できること、ブルジョア改良主義者は『客観的に反動的』であること、マルクスのシナリオを真剣に受け取ることができないならば、それは闇の力と共謀している証しであることを示唆した。ポール・ティリッヒ(Paul Tillich)たちが正確に見抜いていたように、マルクス主義は社会変革をもたらすための世俗主義的プログラムというよりは宗教だった。すべての原理主義のセクトのように、マルクス主義は完璧性を強調していた」。

 そうやって絶対善と絶対悪の二者択一という世界に入り込んでいったのは、宗教的世界に過ぎないわけです。実際は世の中の役に立たないとローティは見透かします。世界を良くしていくことができないがゆえに、自分たちだけの世界で自己満足している。世界を変革できないのは自分たちの無力性の現れなのに、反対に世界の方が間違っているから自分らの主張が受け入れられないのだと錯認していくのです。

 けれどもローティは、新左翼に対しても決して希望を与えないわけではありません。「〈新左翼の反=反共主義〉と『アメリカ』を『k』と綴る〈新左翼〉の逆効果をもたらす習慣は、〈新左翼〉が成し遂げたことに比べれば重要ではない。〈新左翼〉は、アメリカ人をベトナム戦争から救うことによってアメリカ人が道徳的アイデンティティを失わないように助けてくれたのかも知れないのである」。

 ここでローティは新左翼は考え方においては間違っているけど、アメリカのベトナム戦争を終わらせるためには貢献したと評価します。新左翼はすべてだめと言うのではなく、行動の成果は評価するのです。

 しかもそこでは福音書と党宣言を比較してこんなふうにもいいます。「福音書の言葉も『共産党宣言』に劣らずたしかに勇気とインスピレーションを与えてきたといってよい。しかし、多くの点で、若者に与える書物としては、『共産党宣言』の方が『新約聖書』よりふさわしい。なぜなら『新約聖書』は、その来世主義の点で、すなわち、個々人と神との関係――われわれが個人として救われる見込み――の問題を、無用の苦しみを終わらせようとする協同的な努力への参画から切り離すことができると示唆する点で、道徳的な弱点をもっているからである。福音書の多くの箇所で、奴隷所有者たちに対しては奴隷をむち打ちつづけてもかまわないということが、富裕な人びとに対しては貧しい人びとを飢えたままにしておいてもかまわないということが、示唆されている。なぜなら、そういう人間の罪も主キリストを受け容れた結果として許され、そうである以上、どのみちそういう者たちも天国に行くことになるからである」。

 宗教的救済の下に現実の矛盾を繰り込む、言ってみれば「善人なおもて往生す、まして悪人をや」みたいなことは良くないと言っているわけです。福音書は現実から逃避する体系を作ってしまう。そんなのに対しては『共産党宣言』の方が、現実の変革に向かう分だけいいというわけです。このスタンスも見倣うべきものだと思います。

 その結果、新左翼のなれの果てとしての「文化〈左翼〉は理論について議論するのを一時停止すべきである」「文化〈左翼〉はその哲学習慣をやめるよう心がけるべきである」とも言ってます。マルクスやレーニンの教義なんてものは読むのをやめて、もっと具体的なことをやれと言ってるわけです。具体的な実践をやってくれ。現実に起きていることに立ち向かおう。それをおっぽり出して理論に走るのはやめろというのは、なんだかフォイエルバッハ・テーゼを思いおこさせます。

対話不可能なのはどうしてか

 グラン・ワークショップでは学際的知のクロスオーバーをかかげてやってきました。最初一水会の鈴木邦男さんを呼ぼうとしたときに「何で鈴木邦男を呼ぶんだ」とか、「あんなのは右翼だ、ファシストだ」といって反対する人がいました。本質主義的な左翼思想から反対されたわけだけど、実際話していくと鈴木邦男さんは、何か特別反革命の思想を持っているわけではない。むしろ彼の感情は、独善的な考えを持った左翼が日本を蹂躙し、国家が支配されていくことへのアンチの感情です。あとは天皇制でも何でも国民投票で決めればいいと言っていました。あの人の気持ちとしては、反ナチスとか反スターリン主義という感情と同じなんですね。

 実際話していくと分かるけど、討論ができないのは自己愛だけしか感じられない塩見孝也さんなどの方です。そもそも相手にしゃべらせない。「おいちょっと待て。お前の言いたいことはこういうことだろう」とか言う(笑)。

 「オレには愛のモラルがある、お前にはない」「オレは人類の幸福の秘訣を知っている、しかしお前は分かっていない」とか言い続けるのです。そのナンセンスが自分では分かっていない。

 ローティは次のようにも言っています。「われわれはもはや、道徳と分別とのカントによる区別を採用できない。無条件で文化横断的な道徳的責務、不変で歴史に左右されない人間本性の内に根ざしているような責務があるという考えとは手を切らなければならない」。汝なすべしというカントの定言命法と手を切れということですが、「汝の行為の格律が道徳律と一致するように行為せよ」という場合の、普遍的道徳などはないというスタンスなのです。「真理は実在の内在的本性への一致である」というスローガンは、時代遅れになったプラトン主義者のジャーゴン(業界用語)に過ぎないのだ、人類共通の真理を求めても答えなどないという主張です。

 デューイの考え方を引いて、ローティは真理は発見されるのかどうかの論争にもふれています。

 「見出される、すなわち発見されると常識が見なしている事柄の多くは、実際には作り出される。すなわち発明されるのだと、われわれいわゆる『相対主義者』は主張していると述べてみてもよいかもしれない。たとえば科学的真理や道徳的真理は、何らかの意味で外部にあって人間によって認識されるのを待っているという意味において『客観的』であると敵対者は言う。だから敵対者のプラトン主義者やカント主義者がわれわれを『相対主義者』だと呼ぶことに倦むと、今度はわれわれを『主観主義者』あるいは『社会構築主義者』と呼ぶようになる。敵対者の状況描写によれば、人間の外側に由来すると思われているものが、実際には人間の内側に由来するのだということを発見したとわれわれは主張していることになる。敵対者の考えでは、以前は客観的であると考えられていたことが、実はたんに主観的なものであったことが判明したとわれわれは言っている」。

 そういう分節の仕方に次のように反論します。
 「われわれ反プラトン主義者は、問題のこのような定式化を受け入れてはならない。もし受け入れたなら、深刻な窮地に立たされることになろう。もし、作り出すことと見出すことという区別を額面どおり受け取るなら、敵対者たちはわれわれに対して次のようなやっかいな問いを発することができるだろう。すなわち、『客観的であると考えられていた物事が、現実には主観的である、すなわちわれわれがそれを発明したのだ、という驚くべき事実を、われわれは発見したのか、それとも発明したのか?』。もし、そうした事実を発見したなどと言い、真理は主観的であるというのは客観的事実である、と主張するなら、自己矛盾に陥る危険にさらされる。もし、そうした事実を発明したのだと言うなら、たんに勝手な思いつきを言っているにすぎないとみなされる。というのも、われわれの発明を真剣に受け止めるべき理由が誰にあるだろうか」。

 たしかに真理は発明されるのか発見されるのかが、哲学上の論争事項になってきました。反本質主義者は真理の客観性などないというスタンスを取ります。そうすると真理の主観性なる主張そのものも、お前の恣意的な言説に過ぎないじゃないかと反駁される。そうやって自分自身の真理論を無根拠にされていくことを回避する必要があると言ってるのです。

 敵対者の使う語彙を拒否しろ、あらゆる語彙は文化の中にあるだけで、その文化で考え続けるなという戦略をとっているわけです。パラダイムの中で背理を押しつけられるくらいなら、問いかけそのものを拒否するというスタンスです。

 プラトン主義と形而上学を回避し、真理は人間が作り出したものにすぎないと言います。けれども真理は人間が作り出したという主張そのものは、究極的なところでは基礎付けの可能性を持たないのです。基礎付け主義に反対するのが、彼が「ポストモダンの魔術師」と呼ばれるゆえんとなります。

 これと対極にあるのが新左翼の法則実在論です。革マル派の『解放』を読んでも廣松さんや熊野純彦さんを批判しようとして、かえって何も分からなくなっている。相手の主張を無理矢理「弁証法的理性を有した物質の自己運動論」という自分の主張にあてはめようとして、かえって廣松さんが何を言おうとしているのかも理解できなくしているのがよくわかります。自分たちがどういうことを主張しているのかを見据えていくのがパラダイム論だけど、新左翼の主義者にはそれができないわけです。真理なるものは言葉の中にあることで、カテゴライズ化して人間はしゃべっているだけだからということが、そもそもわからないわけです。言葉の連なりを価値化して、そこに本質があると思いこむ。それが人間の持って生まれた本能であることを、ヴィトゲンシュタインなどと同じくローティは看破しています。

プラグマティズムの真理観

 デカルトにしてもロックにしても、人間の本質は何かとか、真理を極めようとか考えてきました。そういう考え方をローティは全部拒否します。プラグマティストの考え方はある意味すごい唯物論的で、形而上学をすべて拒否したところで即物的人間存在に迫ろうとします。所与の環境に対処するために最善を尽くす、苦痛を減らし快を享受するために努力するのが人間です。そのために道具を発明し、言葉も生み出してきた。ハーバーマスは言葉を通じたコミュニケーション的行為に意味を見いだすけど、言葉それ自体が快楽と苦痛の体系の中で意味を持つからコミュニケーションもできるわけです。

 「われわれは言語の外部に踏み出ることはけっしてできず、言語による記述に媒介されることなく現実を捉えることはけっしてできない。現象と実在のギリシャ的区別には疑念が抱かれるべきであり、その区別は、『世界についてのより無益な記述』と、『より有益な記述』といった区別などで置き換えられるべきだということである」。

 人間が言語を媒介にして世界を分節する存在である限り、現象と実在のギリシャ的区別を超えることはできない。その限りでできることは、無益で意味のない記述と有益な記述を区別することだけだとローティは言ってるわけです。人間が環境に対応し生活している以上、有効なことと意味がないことを峻別すべきだというのが最後の区分になるわけです。

 「宇宙を素粒子の分散と相互作用として考えるなら、われわれは人間の必要性の上に越え出てそれを見下しているような気になる。自分が少しばかり人間以上のものとなり、自分自身の人間性から距離を取って、どこでもない場所から自分を見たように思われてくる。われわれ反本質主義者にとっては、素粒子の相のもとに自分自身を見るなら、人間の有限性を回避したことになると考えたくなってしまうのは、神性を創造してその神的生活に与っているといま一度主張しようと試みるからにすぎない。そうした試みはすべて、神であろうとする必要性はいまひとつの人間的必要に過ぎないという難点を持っている。あらゆる人間の必要性を、そういう必要性を一つとしてもたない何者かの観点から見ようと企てるのは、それ自身いまひとつの人間の企てにすぎない」。真理を究めたいという欲望を人間が持つことをローティは見越しながら、それこそが神になりたい感情なのだと言ってるわけです。

 無限存在の観点からすべてを見ようと企てるのは、人間の限界をこえて神の観点に立ちたいという欲望に過ぎない。神性を創造して、その神的省察に自分たちが与していると思いたがるのが、まさしく人間存在であるとローティは看破しているのです。現代物理学で素粒子論みたいな立場を言うときも、何か客観的な真理をいうことで優位に立つと思って世界を見下す、そういう欲望を人間は持つというわけです。

 有限である人間は無限を想定し、無限なるものの目から見ればといって真理を語ります。神性という人間の外に出たものから人間を見るという欲望が、いくつもの学問や哲学を作ってきました。物理学こそ真理だと思っている人間にとっては、詩的想像力の侍女とか言われると頭に来ると思います。科学や哲学はすごく崇高と思っている人は、そうではない映画とか詩とか小説はくだらないものだと思いたがります。けれども実際に人間の生活に寄与してきたのは小説の方だったりするのです。

 映画とか小説とか歌の方が実際の人間の生活に影響を与え、知恵や勇気をもたらしてきた。人間が何か困ったときに、「雑草のようにたくましく生きるんだ」とかいう気持ちを与えてきたのは小説であって、カントの「汝の行為の格律が」なんてのはほとんど影響していないのです。映画の中のシーンやワールドカップやメジャーリーグの選手の活躍の方が、人間の生活にとって多くの有用性を与えてきたのは事実でしょう。

 素粒子物理学や科学と言われているものが、人間に広いパースペクティブを与えたことは認める。そういう道具的効用はあると言っているのです。しかしそれは人間の見方を広げたり技術的有用性があったということであって、それ以上の真理ではないというわけです。

 科学は人間の知らないような何かに触れたいという感覚を満足させているだけで、あとは技術的応用性という効能だけだという真理観になります。現象の背後にある真理が素粒子物理学なのではなく、クォークがどうしたというのも、生活にとって役立つから受け入れられているわけです。それを超克して人間の有限性を超えたいという欲望に駆られていることは認めるけど、だからといって神の視点に立てるわけではないことを見透かすべきだとなります。

 つまり人間は超越論的でもなければ叡智的でもないと言っている。これがプラグマティズムのすごいところです。こういうプラグマティズムがアメリカを支えているんですね。ブッシュのような連中も実際上の軍事的有用性から戦争を始め、反戦勢力も実際の矛盾をなくすために理念ではなく現実と戦っている。真理を求めるものは、それも人間的欲望だと言われるとナンセンスとか言いたがるけど、そこを見透かしていく必要があるわけです。

 デューイやローティは真理に向かっていくような考え方には一切価値を置かなかった。ないしはトロツキズムに真理があるというのを内在的に超えていった。実際のアメリカのあり方、人々の生活を向上させ、人間と人間の関係を良くしていくことに努力を費やす。学問にも価値を認めるけど、学問のための学問、ためにするような真理の追求は自己満足にすぎないという、そういうスタンスこそわれわれは学ぶべきだと思います。

 自分たちはヘーゲル『精神現象学』やマルクス『資本論』を読んで、隣には「試してガッテン」を見ている人がいる。そんなやつはバカで自分は世界を言い当てていると思うのはナルシズムなんですね。どっちが実際に人間の生活にとって有用なのかということは、どっちが偉いかとかいうことではないんですね。

 以上から、ワシントンでの反戦闘争に集まった人の何割かがローティ主義者です。50万人集まった部分の大半は、極左過激派の主張ではなく、現実の変革を問題にしている人達です。ブッシュのアメリカとは違う側面として、この社会改良運動のあることを知っておいた方がいい。

 こういう人達とコミュニケーションを取りながら、日本の反体制運動を刷新すべきだと思います。マルクス・レーニン主義をいまもって掲げている人たちが日本の新左翼運動ですが、もう少し開かれたところから、ブントは「自由と多様性」を価値とする運動を作ったほうがよい。

 僕はローティをもともと知っていたわけではありません。「ブントの言っていることはローティと同じだ」と言われて、読んでみたのです。しかしああなるほどなと思いました。今までギブソンのアフォーダンスとかコールバーグとかアメリカの思想に学んできたけど、それをこえて実践的に生かす道が、ここから見えてくると思いますよ。
あら・たいすけ 社会運動家。新左翼の代表的イデオローグ。著書に『左翼思想のパラダイム・チェンジ』『行動するエチカ』『環境革命の世紀へ』『破天荒伝』『大逆のゲリラ』『反体制的考察』などがある。