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神様のみ旨から見たイエス様の生涯と今、終末期であるこの時代に下さった神様の警告!米国キリスト教会十字架を外す運動!
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2002年5月21日、「ワシントン・タイムズ」創刊二十周年祝賀晩餐会における創設者記念講演文と、2003年4月18日(グッドフライデー:キリスト受難日) 〜 20日(イースター:復活祭)、米国で 120以上のキリスト教会が、十字架を降ろした写真です。 |
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尊敬する内外の貴賓の皆様! 今日、このように『ワシントン・タイムズ』の創刊二十周年を迎えてみると、私にとっては、とても感慨深いものがあります。 一九八二年五月、ニューヨークのマンハッタン連邦法廷において、私が、無念な思いで宗教裁判、人種裁判を受けていた渦中に、天の命令に従って、『ワシントン・タイムズ』創刊のための最終決定をなした記憶が、鮮やかによみがえります。 世界共産主義の波が、怒涛のように全世界を席巻し、米国さえも、これに対して、なすすべがないという時でした。 私は、民主世界の最後の砦であり、第二イスラエル圏のキリスト教国家である米国を共産主義から守り、キリスト教を中心として、天が立てようとされた平和の理想世界、すなわち地上、天上天国を創建しなければならないという、天の崇高なみ旨に従ったのです。それは、決して新聞社をつくってお金をもうけようという思いからではありませんでした。 これまで、ワシントン・タイムズだけでも、十数億ドル以上を投入しましたが、決して、そのことで後悔したり、だれかを恨んだりしたこともありません。それが、天と人類のための真の愛の実践であったからです。 私が米国に来てから、すでに三十年が過ぎました。今では、私の年齢も八十二歳になり、″還故郷″の時が来たということを感じています。 最後に私は、第二イスラエル圏国家である米国と人類の前に、神様と霊界の実相に対するメッセージを、はっきりと伝えて差し上げてから出発しようと思います。 このメッセージは、単純なレバレンド・ムーン個人のメッセージではありません。天が、人類の守るべきメッセージとして、この時代に下さるものです。 天のみ旨について見てみると、今まで人類は、無知な状態で生きてきました。その第一は、神様に対する無知であり、第二は、私たちが死ねば、選択の余地なく、いやが応でも、そこに行って暮らさなければならない場所、霊界に対する無知でした。 しかし、今は、人類歴史の終末を迎え、すでに天上においては、四大聖人をはじめとする数多くの教団の指導者が、私の教えである「統一原理」を、真なる真理として受け入れました。 今、彼らは、真なる新しい家庭編成のための祝福結婚を通して、地上の弟子と子孫に再臨協助することに総動員され、役事することを始めました。 第二イスラエル圏であるキリスト教国家の米国のためには、特別に霊界から、イエス様を中心とする四大聖人と、歴史上にその名を知られる弟子たちが、それぞれ百二十人ずつ選抜されて、統一された連合戦線を構築しました。 今、彼らは、地上再臨を通して、「超宗教超国家連合」と「超NGO(非政府組織)連合」の活動を本格化させ、この地上に平和世界を完成しようとしています。 彼らは、真の父母の思想である「ために生きる生活」、すなわち真の愛の実践でなければ、人類の将来はないと叫んでいます。 従って、私は、「神様のみ旨から見たイエス様の生涯と、今、終末期であるこの時代に下さった神様の警告」という題目で、米国と人類の前に、この最も貴いメッセージを伝えることによって、今日の記念の辞に代えようと思います。 イエス様の十字架の摂理を注意深く見れば、右側の強盗と左側の強盗、イエス様とバラバ、このように種がまかれました。歴史の種は、そのようにまかれたのです。 ここで、″まいたとおりに刈り取られる″ということが(歴史の)原則であるとするならば、最初に現れたものは、イエス様を中心とする″右側の強盗と左側の強盗の型″である右翼世界と左翼世界、すなわち民主圏と共産圏であり、その次に現れたものが、イエス様の十字架を中心として登場した″バラバ型″であるイスラム教圏です。 イエス様によって福を受けることができるようになった″バラバ型″のイスラム教は、キリスト教の対峙勢力を中心として出発したのです。 このように(その種を)まかれた歴史は、世界の形態が四大陣営に結束するという、結果的な時代の運勢に入っていくようになりました。 アラブ圏のナセル(ガマル・アデル・ナセル〔一九一八〜一九七〇〕。一九五六年から一九七〇年までエジプト大統領)は、イスラム教圏を統合して、アラブ統一国家の夢を抱きました。片やキリスト教は、「すべての宗教を統合しよう。」と叫びながら、世界的な新しい趨勢に入りつつあります。 このような世界的な傾向を見詰める時、悲運として植えられた歴史が、今、初めて神様を中心とした善の結果として現れているということを知ることができます。 終末時代になれば、このような現象は、より一層、顕著なものとなり、最初にまいたものは、その姿のとおりに実を結んで刈り取られるようになるのです。これは、摂理の法度によって(そのように)現れざるを得ない、不可避的な現象です。すなわち、″真の愛主義″である″真の父母思想″によって、統一が成されるのです。 |
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民主世界が内的ならば、共産世界は外的です。右翼が内的ならば、左翼は外的です。 それ故に、今後、来るべきメシヤは、神様を尊重する民主世界の内的基盤の上に来られ、外的な環境圏を吸収し、主流のキリスト教文明圏を中心として、様々な文明圏を統合する運動をしなければなりません。歴史の最後には、このような運動が展開するのです。 このようなことを「偶然である。」と言うことはできません。そのような動機が植えられたので、そのような結果が結ばれるのです。 十字架で亡くなられたイエス様は、強盗殺人犯である右側の強盗とともに亡くなられました。 もし、右側の強盗が、その場にいなければ、イエス様は、地上に対して、そして人間に対して、関係を結びうる何らの因縁も捜し出すことができませんでした。 しかし、右側の強盗が、死ぬ立場にあったのにもかかわらず、イエス様の側に立ってイエス様を擁護したのです。 人類歴史上、イエス様の側に立った最後の人は、だれであったのでしょうか? それは、ペテロでもなく、イエス様の父母でもなく、イスラエルの国でもなく、ユダヤ教徒でもありませんでした。ただ一人、右側の強盗だったのです。 死の場において、自分の因縁を通告し、死を乗り越えて、イエス様の前に全幅の希望をかけた、ただ一人の人がいたのですが、その人が、まさしく右側の強盗であったというのです。 もし、右側の強盗がいなければ、イエス様が再び復活なさって、地上摂理の因縁を再開させることはできなかったという事実を、皆様は知らなければなりません。 四千年歴史を締めくくり、三十数年間の生涯を締めくくるその場において、ただ一人でしたが、初めてイエス様と因縁を結び、死の道に同参してまでも、イエス様を希望の主体として侍ることができた人が、右側の強盗だったのです。 彼が中心になっているという事実は、彼が使徒たちよりも勝っているということを示してくれています。 ″ペテロよりも勝っている″というのです。 なぜならば、右側の強盗は、内容は知りませんでしたが、死の場において、その生命が尽きる時まで、イエス様に侍ることのできる方向性を備えたからです。 しかし、ペテロやヤコブのような十二使徒たちは、内容を知っていながらも、そして、一つの方向性を備えると宣誓までした者たちでありながらも、最後まで、その方向性を備えることができませんでした。 それ故に、右側の強盗が、人類歴史上において、地を身代わりして、未来を再起させることのできる中心的な存在になったという事実を、皆様は知らなければなりません。 聖書を見た時に、イエス様が、個人的、家庭的、民族的、国家的な条件を立てて、サタンと闘って完全に勝利したことがあったでしょうか? 勝利することができなかったのです。 イエス様の前にあっても屈服しなかったサタンが、ましてやイエス様を信仰する人に対して屈服すると思いますか? 六千年間、神様の御前で讒訴し、神様のみ旨を蹂躙して、神様の摂理を台なしにしてきた、偽りの知恵の大王であるサタンが、イエス様を信仰する人が、「退け。」と言ったからといって、退くと思いますか? そのためには、相続権が伴わなければならないのです。 私たちには、歴史的な相続権がなければなりません。アダムからノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イエス様以後までの伝統と基盤を受け継いで、歴史的な祭物を身代わりした相続者にならなければなりません。 そのようにして、サタンに、「おまえは、歴史路程において、ノアに敗れ、ヤコブに敗れ、モーセに屈伏したのではないか? わたしは、彼ら全員の勝利の基盤の上に立っているのであり、摂理歴史のすべての伝統を相続したのだから退きなさい、このサタンめ!」と叫んでこそ、退くようになっているのです。 |
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無条件に「サタンよ、退け!」と、いくらでも祈祷してみて下さい。六千年間、神様の御前に讒訴し、蹂躙しながら、復帰摂理を破綻させてきたサタンであるのに、「わたしは、イエス様を信仰しているので、退け。」と言ったからといって、容易に退くと思いますか? とんでもないことです。 「私は、間違いなく、歴史的な神様の心情を通して神様が捜し求めてこられた者である。私は、イエス様の神聖な聖体に接ぎ木された者である。」と言うことができなければなりません。 イエス様が、神様から受け継いだ相続の系譜、すなわちイエス様をこの地に送られる時までの四千年間の神様の心情的相続譜に載っていなければならないのです。 そうして、十字架上においてサタンに勝利するのではなく、十字架に架からずに屈服させて勝利しなければなりません。肉身をもって実体として復活しなければならないのです。 このような実体の相続者として認定された者であってこそ、天国に入っていくことができるのです。 今までのキリスト教は、霊肉の地上天国を願ってきたのではなく、肉的世界は放棄してしまい、霊的救援を目標として、霊的王国、霊的メシヤとしてイエス様に侍ってくる以外にありませんでした。 換言すれば、イスラエル民族には国があり、選民的国権を持つことができたのですが、今日、全世界のキリスト教は、第二イスラエルの霊的国家なのであって、主権国家、すなわち国はありません。キリスト教徒は、霊的第二イスラエル圏内に立っているので、肉的基盤を持つことができず、霊的基盤だけを持っているのです。 従って、霊肉を中心とした地上天国を完結しなければならないという、神様の本然のみ旨を成し遂げることができなかったので、主は再び来ざるをえないという事実を知らなければなりません。 今日、ここで、皆様に一つ宣言しようと思うことがあります。それは、十字架の場においては、神様が勝利されたのではなく、サタンが勝利したという事実です。 ゲツセマネの園で、イエス様が、「今は…‥やみの支配の時」(ルカによる福音書第二十二章53節)と宣布されたことを、皆様も記憶していらっしゃることでしょう。十字架の場は、神様が四千年間、準備してこられた国を失ってしまった場であり、洗礼ヨハネの一党と十二弟子、右側の強盗など、すべてを失ってしまった場になったということを知らなければなりません。 十字架上には、キリスト教がなかったということを知らなければなりません。 それでは、キリスト教は、いつ出発したのでしょうか? イエス様が、亡くなられてから三日目に復活され、四十日の間、自分に反対し、失ってしまった弟子たちに会われ、そうして聖霊が降臨した後に出発したのが、キリスト教であったということを知らなければなりません。 しかし、キリスト教徒たちは、二千年の間、十字架の道理ではなく、復活の道理によってキリスト教が生まれたということを知らずに、信仰してきたのです。このような事実を悟るならば、皆様は、すべて、悔い改めなければなりません。 イエス様が復活された基台の上から、キリスト教が始まったので、キリスト教は、霊的なキリスト教なのです。 イエス様のみ言について、調べてみましょう。 イエス様が、十字架に架けられて亡くなられることが、神様のみ旨を成し遂げることであったとすれば、ゲツセマネの園におけるイエス様の祈祷は、間違っていたことになります。メシヤとしての資格がない祈祷であった、ということになるのです。 それは、まったく驚くべき事実です。メシヤとして、一度ならず三度までも、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイによる福音書第二十六章39節)という祈祷をすることができるのかというのです。 もし、イエス様が亡くなられるために来られたのだとすれば、イスカリオテのユダに賞金を与えなければならないのではないでしょうか? しかし、イスカリオテのユダについて語られた「その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」(マタイによる福音書第十四章21節)というイエス様のみ言を、どのように解釈するのでしょうか? イエス様が、十字架上で亡くなられなければ、どのようになっていたでしょうか? イスラエルの国は、イエス様の教えに従って安定し、そのまま残されたはずでしょうし、ユダヤ教も、そのまま残るようになるであろうということを、イエス様は知っておられたのです。 しかし、ご自身が十字架で亡くなられれば、後世の数多くの人々が、十字架の道に従っていかなければならなくなるので、血を流さずしては、その道を行くことができないであろうし、数多くのキリスト教徒たちが苦労するであろうということ、また、主が再び来られても、苦労されるようになるであろうということを、イエス様は知っておられたのです。 それゆえに、ゲツセマネの園において、イエス様は、そのような祈祷をせざるをえなかったということを知らなければなりません。 今日、キリスト教徒たちは、イエス様も肉身を持っていらっしゃったので、死の苦痛が恐ろしくて、そのような祈祷をされたのだと言っています。しかし、イエス様は、それほどまでにつまらないメシヤであられたのでしょうか? |
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皆様。十字架上で命を落とされながら、「すべてが終わった」(ヨハネによる福音書第十九章30節)と言われたのは、どのような意味なのでしょうか? イエス様は、霊肉をすべて救援するための使命を持ってこられたのですが、基盤のないこの地上では、神様のみ旨を完全に成し遂げることはできないということを悟られたのです。 それゆえに、十字架を背負ってでも、霊的救援摂理の基台を残し、また、霊的救援摂理の出発をさせることができる条件を立てられるために、ご自身のすべてのものをささげて「すべてが終わった!」と言われたのです。 皆様は、このようなことを夢にも考えなかったことでしょう。神様のみ旨を成すために、サタンの国を滅亡させ、サタンの王権をなくし、人類を(神側に)取り戻そうとされた主が、このように悲惨に死んでいかれたという事実を今からでも知って、キリスト教とユダヤ教は悔い改めて、一つにならなければなりません。一つになって、再び来られる主を迎えることができる準備をしなければなりません。 真理は、理論に合わなければなりません。今こそ、盲目的な信仰の時代をはねのけ、新しい世界に向かって、この世界を収拾し、救援するために、全世界のキリスト教徒は、一つにまとまらなければならない時が来ました。それゆえに、「統一」という言葉が必要な時が来たということを知らなければなりません。 イエス様が亡くなられた後、三日間、苦しみを受けられたという事実は、何を意味するのでしょうか? 天地は、依然として死亡圏にあり、地獄も死亡圏の因縁を持っているために、イエス様が天地を主管なさるためには、この死亡圏を下にも超え、上にも超えなければならなかったのです。 それゆえに、地獄のような、いちばん底の境地に行って苦痛を受けたとしても、それを超え、生命の因縁を追求し、神様を慰労して差し上げることのできる希望の道を行かなければなりませんでした。 したがって、イエス様が、地獄のようなその環境を経ることによって、希望の天国に向かって再出発することのできる道がつくられたのであり、地上では、捨てられ、追われ、死の道を行かれたのですが、希望の道を後世に残しておくことができたのです。 ですから、イエス様は、三日路程を行かざるをえなかったのです。 三日間、イエス様は、地獄を見物するために行かれたのではありません。地獄を知らないイエス様ではあられません。 イエス様は、そこに行かれて判決(審判)を下し、死亡世界から生命の世界に行くことのできる道を開いておかれなければならなかったのです。そのようにして、死亡の地獄世界であるこの地上に、勝利の基盤を築かれたのであり、天国に行くことのできる起源を成しておかれたのです。 イエス様は、教団の前では異端者として、民族の前では「律法」の破壊分子として迫害を受けました。彼は、自分の氏族から追われ、家からさえも追い出されました。洗礼ヨハネの一党からも追われました。 それで、イエス様は荒野に出て行かれたのですが、そこではまた、サタンに追われたのです。 しかし、それだけでは終わりませんでした。後には、全体が動員されて、十字架の死の道、ゴルゴタの道に追いやったのです。 しかし、反逆者として追いやる民族に向かって、かえって涙を流されたイエス様でした。イエス様は、ユダヤ教団から異端者として扱われたのですが、イスラエルのいかなる祭司長よりも、彼らのために、より多くの血の涙を流された人でした。 その時代のだれ一人として、ご自身の味方になってくれる人がいなかったのですが、イエス様は、その時代の友でした。民族の反逆者として迫害されたのですが、民族の忠臣であられたのであり、教団の異端者として迫害されたのですが、教団の忠臣であられたのです。 イエス様の道は、始めから終わりまで、引き裂かれ、追われ、倒れ、十字架を背負われた凄惨な歩みでした。しかし、それだけであったでしょうか? むちを持った無謀な悪党たちによって追いやられるという、そのような境遇に追い込まれることもありました。 このような立場で、もし、イエス様がエリヤのような人であったならば、彼も、(預言者エリヤのように)「ただわたしだけ残りました」(列王紀上第十九章10節)という祈祷をしたことでしょう。 しかし、イエス様は、ゲツセマネの園で、三人の弟子を後ろにおいて祈祷されるとき、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイによる福音書第二十六章39節)と祈られました。このことが偉大であったのです。 自分の事情もただ一つであり、自らの一身は民族の祭物であり、人類の祭物であり、天倫の祭物であるということを知っていらっしゃったのです。 このようなことをご存じであったイエス様は、自分の悲しみも悲しみであるけれども、天の悲しみがどれほど大きいものであるかということを心配されました。その心のほうが、更に大きかったのです。 民族のために(ご自身が)現れたのにもかかわらず、民族の前に裏切られる、そのような自分自身を見詰められる天の悲しみのほうが、どれほど大きいだろうかということを、より心配されたのです。 イエス様は、天の皇太子であられ、万宇宙の主人公であられ、メシヤであられました。そのようなイエス様が、「凄惨な十字架で落命とは、どういうことでしょうか?」と言って嘆息しようと思われれば、この宇宙を動員して嘆息することもできたのです。 しかし、嘆息することのできない自分自身であるということを感じられたので、追われる立場に立つようになったことを、むしろ天の御前に″面目ない。″と思われたのです。 |
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教団を糾合し、民族を糾合して、天の王国を建設し、世界を父の懐に抱かせて差し上げなければならない責任を担われたイエス様は、その使命を残したまま十字架の道を行かれるようになるとき、恨むべきいかなるものも感じられませんでした。 イエス様が、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイによる福音書第二十六章39節)と祈祷されたのも、自らの一身が死ぬことが悲しかったからではありません。自らの一身の死によって、民族の悲しみと天の悲しみが加重されるということを知っておられたので、そのように祈祷されたのです。 イエス様は、自分が十字架で倒れれば、後代の世界人類の前に、加重されることになる十字架が残され、そのことによって、悲しみの歴史は終わることがないということをご存じでした。ゴルゴタの道が終わらないということをご存じであったのです。 そして、自分がゴルゴタの道を行けば、自分に従う人々もまた、ゴルゴタの道を歩まなければならないということをご存じでした。十字架だけでなく、もっと困難な道が残されるということをご存じであったイエス様であられたのです。 両手両足に釘が打ち込まれ、わきをやりで突き刺されて血を流す立場、いばらの冠をかぶる立場に立ったとしても、これが自分で終わらないということをご存じであったイエス様は、天に向かって「すべてが終わった」(ヨハネによる福音書第十九章30節)と言われました。 しかし、そのみ言は、人間世界において、十字架の道がすべて終わったということではありませんでした。十字架のために泣きながら案ずる心の訴えが、天と通じたということを示しているのです。 このように、イエス様は、数多くの預言者や烈士らが、天の前に犯したすべての過ちを背負われ、天を慰労して差し上げるために、自分自身を生きた祭物として天の前に捧げられたという事実を、私たちは知らなければなりません。 それでは、ここでイエス様に対された神様の心情は、どのようなものであられたのでしょうか? 死にゆくイエス様のその姿、天を案じながら十字架の峠を越えて行くその姿を見詰められるとき、人間世界に対する憤りがあるとするならば、これ以上の憤りはなかったはずであり、天の四千年間の歴史路程を見てみても、これよりも、より大きな憤りはなかったことでしょう。 しかし、イエス様ご自身は、死にゆくその中で、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書第二十三章34節)と言われました。 神様には、即座に、ノアの時以上の審判をしたいという思いがあられたのですが、イエス様が、民族を握り締めて亡くなられ、教団を握り締めて亡くなられ、十字架を握り締めて亡くなられたことによって、人間を捨てられることができず、そのまま握り締めてこられたのです。 このような心的な因縁が、後代の人間、残されたイスラエル民族と結ばれていたことによって、神様は、背反する後代の教団と人間たちを捨てられることができずに、支えてこられたのです。 四千年間、復活摂理を通して救援の役事をしてこられた神様は、イエス様を復活させる摂理だけでは、天上のみ旨と、地上のみ旨を合わせて完結させることができないので、新しい契約を立てられ、これをもって、天上と地上のみ旨を合わせて、約束なさった本然の園を取り戻す摂理をしてこられたということを、皆様は、よく知っていらっしゃることでしょう。 聖書を見ると、イエス様が与えられた杯と、割いて与えられたパンが、すなわち新しい契約であると、あります。 イエス様が昇天された後に、私たちは、そのイエス様の血と肉を受けたのですから、これは、すなわち成し遂げるべき全体の生命を身代わりすると同時に、全体の摂理を身代わりしたものであるということを、皆様は知らなければなりません。 イエス様の血と、イエス様の肉を受けるということは、何を象徴するのでしょうか? それは、イエス様一個人の血と肉を意味するのではありません。大きくは、″天と地″を意味するのであり、小さくは、″中心と個体″を意味するのです。 また、肉は″真理″を象徴し、血は″神霊″を象徴します。これらすべてのものを、イエス様は、私たちに何らの条件もなしに、下さったのです。 神様と人間の間にふさがってしまったものとは、何なのでしょうか? 天のみ旨が地上に現れ、地上の全体状況が、天のみ旨に帰結され、一つの目的をもって動かなければならないのですが、これが、ふさがってしまったのです。 イエス様が、新しい契約を立てていかれたので、彼が亡くなった後は、霊的な世界と肉的な世界が、人、すなわちイエス様に従う使徒を中心として連結されなければならない、という条件が残されました。 イエス様が亡くなられなければ、イエス様を中心として、天と地が連結され、一つになったはずでしたが、亡くなられることによって、イエス様が、天の条件を身代わりされるようになったのであり、聖霊が、地の条件を身代わりするようになったのです。 尊敬する貴賓の皆様! しかし、今は″時″になりました。神様が、六千年間、待ち続けてこられ、キリスト教徒が、二千年間、待ち望んできた超宗教、超国家、超NGO(非政府組織)圏次元の平和統一世界である地上、天上天国を建設しなければならない天の時が来ました。天運が、ついに到来したのです。 天上のイエス様と、ペテロ、ヤコブなどの弟子たちはもちろん、数千、数万の宗教指導者が一心一体となって、自由自在に地上に再臨し、真のご父母様に侍って、神様のみ旨である「天一国」、天と地が一つになって、永遠の平和を享受して暮らす天国を、必ずや、この地上に安着させることでしょう。 今や、第二イスラエル圏であるキリスト教国家の米国が、先頭に立つべき時が来ました。銃剣をもってしてではなく、真の愛と、真の生命と、真の血統を基盤とした、真の真理とために生きる真の愛で、全世界の人類を教え導かなければならない責任が、米国にあるという点を、私は、今日、この場を借りて満天下に宣布する次第です。 最後に、このような崇高な天命に従い、ワシントン・タイムズとUPIのような主要言論媒体も、これからは、超宗教的な側面と超思想的な側面を通じた汎人類教育に、より一層、積極的に乗り出してくださることをお願いする次第です。 併せて、霊界の指導者たちが送ったメッセージを収録した冊子を配布しましたので、熟読してくださるようお願いします。 ありがとうございました。 |
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