大阪万博のランドマークタワーや江戸東京博物館の設計で知られる建築家、菊竹清訓さん。妻のスミス睦子さんのお話も加え、その歩みをたどった。聞き手は現代家族の実態に詳しい、広告代理店、アサツーディ・ケイの岩村暢子・200Xファミリーデザイン室長。【構成・内藤麻里子、写真・藤原亜希】
◆聞き手・岩村暢子さん
岩村 小さいころから建築家になりたかったのですか。
菊竹 特に何も考えていませんでした。九州の地主の次男で、たまたま早稲田大の電気学科にいた兄に「数学と絵が得意なら、建築学科に入ったら」と勧められました。
岩村 建築家を目指して入ったわけではないのですね。
菊竹 在学中に広島の世界平和記念聖堂のコンペで、何を間違えたか入賞してしまった。それで、この道がいいのかなと思いました。首位が丹下健三先生たち、次が丹下先生の師匠である前川国男先生、そして僕なんですから。いいかげんです(笑い)。
岩村 その後、一番大変だったのは?
菊竹 25歳で独立した頃。何も仕事がなかった。この時、ブリヂストンの仕事をしました。祖父が創業時に資金援助をした縁でした。
岩村 古くなった母子寮や幼稚園を直す仕事でした。
菊竹 古材利用で建物を再生する厄介な仕事。最初は嫌でね。石橋正二郎社長(当時)は確固としたプランをお持ちで、従う以外なかったのです。そのうち面白くなってきた。今の建物は日本の建築の歴史的プロセスが造り上げたものだと気づき、古いものをどう生かし、何を新しい問題として実現するかを考えました。
岩村 先生の提唱された「とりかえ」というお考えは、そこから来ているのですか。建物の中で、不要になった機能の部分だけ取り換え再生させていく考え方ですね。
菊竹 はい。石橋さんがいらっしゃらなかったら、僕のあの建築理論はなかった。
岩村 嫌な仕事から学び、花を見つけられた。どうして発見できるのでしょう?
菊竹 最初からルールを決めないから。例えば大学を出た当時は、「コアシステム」という考え方がはやっていました。住宅でもビルでも、中心に広場や共用部分を取り、周囲に部屋や家を配置する。面白いと思い、随分見学した。でも、主従反対のような気がして賛成できない。というのは、日の当たらない部屋が一番重要だったりするんです。
岩村 何に根ざすべきだと思われたのですか。
菊竹 住む人が、何に幸せを感じるかということ。
岩村 ブリヂストンの古い母子寮を直した時は、何を幸せだと考えたのですか。
菊竹 以前の母子寮は、台所は共用で部屋がずらっと並んでいた。そういう家はお気の毒だと思い、独立した家を造るべきだと思いました。独立の中心は台所です。
岩村 台所を中心に、それぞれ独立した家庭が幸せだと考えたのですね。その後もさまざまな住宅で、その時々の家族がどうあるべきか、先見性をもって提案なさったように思います。今、日本の家族はばらばらですが。
菊竹 日本の建築家が家庭を作ってこなかったのだと思います。炊事場を大切にする家庭だったら、そこを中心にすべきなんですね。
岩村 これからの日本の家族を考えると、ポイントは何だとお考えですか。
菊竹 そうですねえ。僕の田舎ではいろりがあって、そこでお鍋でも何でも作っていた。大黒柱があり、主婦の座がある。子供たちも、いろりで何を料理しているか気にして寄ってくる。そういうのが原則ではないでしょうか。
岩村 最初に受賞したのが平和記念聖堂でした。その後も随分、慰霊碑の建築に携わっていらっしゃいますが、特別の思いがおありですか。
菊竹 それは感じません。神さまのお示しだと思います。僕は自分では一切考えないことがいいと思います。
先入観があると、自分勝手なことを言い始める。自分が建築をさんざんやってきたせいもありますけれど。人の話をよく聞くことです。その人の暮らし方を聞き、実現方法を考える。慰霊碑は、ここで過ごした兵士たちは生活をどう考えたかを思いました。
岩村 周りの人々は「先生はひらめきの人だ」とも言う。枕元にノートやペンがおいてあったそうですね。
菊竹 大体、ひらめきは使いものにならない。
岩村 何が大事ですか。
菊竹 ずーっと考え続けることです。僕は「海上都市」構想を言い始めて50年です。まだ本当のものは出てこない。批判がヒントになる。
岩村 批判がヒント?
菊竹 ええ。日本の大工さんは難しい制約や注文を受けて考え続け、ものすごくひらめく人たちです。何年も同じことを繰り返しながら改良を加えて完成していく。
岩村 先生はとらわれない方なんですね。
菊竹 とらわれないというか、白紙がいい。初めに決めてかかると、ものは作れないと思う。自然は環境の中で一番よさそうな形を実現しているわけでしょ。だから自然には教わることがある。
岩村 これからの若い人たちに伝えたいことは?
菊竹 だめだと言われることの中に、ゆっくり考えると、非常に貴重な問題を発見する。それが本物に近づいていく道ではないでしょうか。
睦子 没頭というのでしょうか、ものを考え始めると、それが終わるまで考えているようです。だから、きょうが何日か何曜日かも分からない。困ることも多いのです。大みそかに砂糖がなくなってしまい、近くのコンビニで買って来てって頼んだら、40分たっても帰ってこない。やっと帰ってきた時には、塩を2袋持っていました(笑い)。途中で何か別のことを考え始め、塩か砂糖か分からなくなり、自分で塩と決めたらしく、そしたら2種類あって両方買ってきたんですね。うちでは毎日のように、そんなことがあります。
岩村 その結果ひらめく。すごい思考の厚みですね。今の教育は、「だめだ」と言うと子供の芽をつぶすから、褒めて育てろといいます。
菊竹 それは違う。一つのとらわれた考え方ですね。子供は伸びていけません。
岩村 だめと言われること、制限があることが逆に人間を大きくするのですね。でも地主の家に生まれ、制限を受けない方向へ行く可能性もあったのに、そうならなかったのはなぜですか。
菊竹 戦争に負け、マッカーサーが農地を解放したからですよ。実家は没落しました。戦争に負けても、そんなことをされた国は他にない。マッカーサーは徹底的に日本をつぶしたかった。そのためには農地制度を根こそぎにすることが効果的だったのです。
岩村 この農業国で地主制度を壊滅させるということは、家族、地縁、祭りなどそれまでの文化の基本的なものを壊すことだったのですね。いま初めて気づきました。農地解放は日本の民主化を促したとだけ教えられてきました。
菊竹 違いますね。日本の基本を壊したのです。=次回の「聞きたい・この人の言葉」は12月28日掲載です。
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1928年 福岡県久留米市生まれ
47年 早稲田大理工学部建築学科入学
48年 広島の世界平和記念聖堂競技設計で入賞
50年 同大卒業。竹中工務店入社
52年 村野・森建築設計事務所に移る
53年 菊竹清訓建築設計事務所開設
58年 自宅「スカイハウス」建築
64年 出雲大社庁の舎で汎太平洋建築賞(アメリカ建築家協会主催)他
70年 万博のランドマークタワーで日本建築学会特別賞
71年 アメリカ建築家協会特別名誉会員
78年 作品と方法論でオーギュスト・ペレー賞(国際建築家連合主催)
79年 京都信用金庫の一連の作品で毎日芸術賞
94年 フランス建築アカデミー会員
98年 日本建築士会連合会会長(2002年から名誉会長)
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■人物略歴
1953年生まれ。法政大卒。食卓調査から現代人の実態に迫る。著書に「家族の勝手でしょ!」「『親の顔が見てみたい!』調査」。
毎日新聞 2010年11月30日 東京朝刊
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