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Amnesty Newsletter 2010年8月号よりFORCUS

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日本軍「慰安婦」問題とは

アジア太平洋戦争の約15年間に、日本軍は占領したアジア各地に軍専用の「慰安所」を作りました。そこへ植民地の朝鮮や台湾の女性たち、また中国やフィリピン、マレーシア、インドネシアなど現地の女性たちが、詐欺、誘拐、連行、公娼制度などによって連れていかれ、「慰安婦」として閉じこめられ、性暴力被害を受けました。
性暴力の傷は、その記憶が冷凍保存されると言われます。被害者は、鮮血が突然吹き出す苦しみ(PTSD:心的外傷後ストレス障害)を抱えています。とくに戦時下の性暴力は、平時のそれの何倍もの傷を残すといわれます。兵士は、意識的かどうかはともかく、女の性を公然と性拷問するからです。被害者は自己のアイデンティティを奪われ、家族や共同体のなかでも罪の意識から沈黙を強いられ、ばらばらにされます。しかし、加害者は公然と集団に戻ることができます。

声をあげる被害者たち

そのような日本軍隆奴隷制の被害当時者として、韓国で鋼1順(キム・ハクスン)さんが初めて名乗り出られてから、すでに19年が経ちます。被害者が長い沈黙をやぶって証言する勇気とその辛い体験は、本誌の面談で李玉善さんが語られているとおり、個人一人ひとりのものなのです。そして韓国にかぎっても、そのように名乗り出られた234人のうち154人がすでに亡くなり、生存者も平均85才という高齢です。名乗り出ることができないまま亡くなった方も、アジア各地に数多くいます。

一刻も早い解決にむけて

日本の未解決の戦後補償のなかでも、「慰安婦J問題はもっとも深刻であり、被害者が生存する間に解決が必要です。しかし解決がこれほど遅れているのは、政府にも国民にも性暴力への認識が薄いからといえます。表1からわかるように、国連の諸機関は、日本政府に対して法的な勧告を続けています。アムネスティも報告書を出し、キャンペーンを続けています。日本が「国民基金」で解決済みとしたり、戦争のせいにしたりできないのは明らかです。「人道に対する罪」は戦前にも慣習法として存在しており、強市U労働を禁止するILO条約も日本は批准していました。性暴力への認識を変えれば、「慰安婦」制度は性的な労働の強制であり、組織的な性犯罪行為です。
国家による謝罪と補償が被害者の尊厳の回復に資することになります。この問題の解決を促す地方自治体による意見書も、2008年の宝塚市に続いて各地からあがっています。一刻も早い解決にむけて行動しましょう。

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日本軍性奴隷制の被害者、李玉善ハルモニインタビュー

2010年2月26日(金)ナヌムの家にて収録
通訳:村山一兵(ナヌムの家 日本軍「慰安婦」歴史館研究員)
インタビュアー:山下明子(AI日本・「慰安婦」問題チーム コーディネーター)  ※「ハルモニ」とは朝鮮語で「おばあさん」という意味

山下:ハルモニ、私たちはアムネスティ・インターナショナルという国際人権団体です。日本政府に対して、一刻も早く日本軍「慰安婦」問題を解決するよう、求めています。今日は、私たちのニュースレターのためにお話を聴かせてください。
李玉善:わざわざおいでいただき、意図も分かり嬉しい。
山下:最初に伝えたいことがありますか。
李玉善:年をとり、このごろ頭で整理ができない。だから日本に行く(3月に新潟での証言集会)のも、本当は気が進まない。病も今は少し落ち着いている。自分の歴史で特にもう新しいことはない。でも、ナヌムの家(次ページの写真参照)でも一人ひとりが異なる歴史なので、一人ひとりが語るしかない。

ハルモニの歴史
山下
:そうですね。では、ハルモニの歴史を教えてください。

李玉善:15才で中国に連行された。1942年7月29日だ。この日だけは覚えている。文字が書けたら、(日記などで)書き付けていたろうから、どんなに良かったかと思う。
山下:学校に行けなかったのですか。
李玉善:釜山に生まれ、日本名はスズキ。オクソン。女なので名字だけの改名で済んだ。7才から学校にとても通いたかったのに、できなかった。13才まで家で弟の面倒をみて、それから他家に働きに行った。仕事は食堂のうどん屋での下働き。でも、叱られ殴られて辛かった。それから蔚山(ウルサン)の酒屋に売られて下働きをしたが、殴られ、悪口を言われた。ある日、使いに出され、その途中で拉致され、汽車で中国に連れていかれた。
山下:どうして中国だと分かったのですか。
李玉善:まずトムン(図個)という朝鮮と中国の境で降りて下晩寝たが、6人の女が一緒だった。そこから自分ともう一人が延吉(ヨンギル)に連れて行かれた。初めは飛行場(延吉東飛行場)で下働きをさせられたが、着の身着のままで、寒いし腹が減るし、不平を言ったら殴られた。それで、「家へ帰りたい」と訴えていたら、日本の軍人に「帰れる」と編され、喜んでついていったら慰安所だった。そこで初めて、自分がいるのは中国(満州)だと分かった。
山下:どんな「慰安所」でしたか。
李玉善:日本が管理している「慰安所」だった。日本の着物と帯を着せられた。「服を買ってやったのだ。借金を返せ、軍人の相手をしろ」と言われた。
山下:辛いでしょうがヽそこで強姦されたのですね。
李玉善:16才だった。最初の強姦のとき。
山下:何年、そこにいらっしゃったのですか。
李玉善:3年間そこにいた。「とみ子」と日本名で呼ばれた。名前の漢字など分からない。小さいボロボロの「慰安所」だったが後にレンガ造りになり女性も増えた。周りにも「慰安所」があったが、普通の人は入れない。兵隊と軍属だけ。日本人「慰安婦」も一人いたがt兵隊の相手はせず、慰安所の主人と肉などいいものを食べていた。残りは朝鮮人で、14才から17才くらい。私たちは差別されていた。いつも空腹で、豚草やヒエとかアワしか食べられなかった。それでもお腹が空くので美味しかった。
山下:外に出ることはできましたか。
李玉善:出ることはできたが、お金がないので結局出られなかった。お金など見たことも、もらったこともない。自分が(中国の)どこにいるのか分からなかったから、逃げることもできない。死のうと何度か思った。でも薬を買う金もなく、首をつろうにも、中国の家には木の梁がなくできなかった。
山下:軍人の様子はどうでしたか。
李玉善:ひどい人が多かった。私たちは殴られたり、刀で切られ、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなった。14才ぐらいの子が殺された。毒を飲んだ子も、入水自殺した子もいる。だから日本人が憎かった。でも、全部ではない。
山下:好きになった人がいるのですか。
李玉善:ヒロカワという、良い班長がいた。私が17、8才の頃、彼が日本に帰るとき、「一緒に行こう」と自分の時計をくれた。でも、時計は後で代理人に返した。彼は一人で日本に帰った。お互いの事情だから仕方がない。でも、本当に一緒に行きたかった。「慰安所」から抜け出したかった。日本で証言すると、日本人の悪口を言っていると誤解される。でも、日本人にも様々な人がいることは分かっている。

ナヌムの家。ソウル近郊にあるこのナヌムの家では、韓国の被害女性が共同生活している。現在、9名が暮らしており、日本軍「慰安婦」歴史館も併設されている。

解放、そして今に至るまで
山下:解放されたのは何時ですか。
李玉善:19才のときだが、解放されたと知らなかった。爆弾の音がして、私たちは、軍人に高い山に連れて行かれた。「待っていろ、食べ物を探してくる」と言われて、そこに捨てられた。何日も食べずに、犬のように逃げ回った後、延吉市内に降りてみると、そこにはもう軍人は誰もいなかった。お金もなく、ぼろばろの空き家に入って震えていた。それでまた山に入り、ヒエやじゃがいもなどを手に入れた。生きるために中国の老人や朝鮮人の障害者などと一緒になった人も多い。同じ「慰安所」にいた女性で、その後、唯―出会ったハ。オクチャ(日本名カツマル)も目が不自由な人と結婚していた。彼女は「慰安所」で出産したが、赤ん坊を持っていかれてしまった。
山下:玉善さん自身は、その後どうされたのですか。
李玉善:最初の夫は日本軍の小隊長だった朝鮮人で、19才の時に出会った。中国の革命の混乱の中、離ればなれになってしまった。10年ほど待ったが帰らないので、村人の薦めもあって29才のときキム・ギファンと再婚した。彼は7才年上の共産党員で、中国の軍隊や強制労働で苦労した、とても良い人だった。6才の時に北の平安道から中国に行った朝鮮人で、私が山で仁1れているのを助けてくれて、病院で手術した。
山下:その後、キム・ギファンさんが亡くなられたので、帰国されたのですね。お子さんはいらっしゃいますか。
李玉善:自分の子は産めなかった。「慰安所」の薬のせいだ。夫の前妻の子を、自分の子として育てた。夫が亡くなった後は息子夫婦と暮らしていた。孫もいる。
山下:2000年に帰国され、苦労はありませんでしたか。
李玉善:55年間、中国にいた。釜山の生家では死亡届けが出されていた。「慰安所」では日本語しか使えなかったので、日本語を覚えたが、文字を知らないので手紙を書けなかった。家族も亡くなり、国籍の回復に1年8カ月もかかった。ナヌムの家の助けによって回復できた。日本語も中国語ももうあまりできない。
山下:最後に私たちへのメッセージを頂けますか。
李玉善:私は被害者だけど、日本で話すときに申し訳ない気持ちになる。日本国がしたことだけど、聞いている人がしたわけではないから。でも、84才で昔の話をするのは大変になってきた。それでも自分が被害者だから、何度も何度も、口が痛くなるまで言うのだが、伝わらない。戦争は終わったが、今も戦争だと思う。私はまだ解放されていないから。たとえ謝罪と賠償を求めても、青春は帰らない。日本と韓国は近い。家族のようになれば、私は死ぬ前に息子と二緒に一つ屋根の下に住みたい。
山下:長時間、ありがとうございました。

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