2010年11月27日 14:34更新
ツイッターで「グッドデザイン賞」を批判したら、いろんな方から意見をもらった。
いわゆる著名な人からの幼稚としか思えないものから、いろんな批判、賛同、さまざま。
ある先輩から「一流になりたいなら、人の批判をしちゃだめだ」と言われたことがある。つまり「うまくやれ」ということだけれど、そんな器用なこと、僕にはできない。それどころか、間違ったことを無理矢理飲み込んで、その場をかわすことで成り立っていくことに嫌気がさしている。随分と前から。ダイナミックな大人が減った。場の空気を読めないのは迷惑だけれど、読みすぎると少しづつ、なにかにひずみがでて、正しいものが歪んできて、しまいにはそのゆがみにも気がつかなくなるような気がする。
グッドデザイン賞には、制度として誕生した意図は、大いに賛成できるけれど、もはやその創設の目的は達成している。
デザイン好きやデザイナー業界は、デザインを可愛がりすぎる。その政治的規模なものが今のグッドデザイン賞だ。
深澤直人さんが審査委員長となり、審査についての表明があった。AKB48がグッドデザインか??ということをツイッターでつぶやいたところ、「集客があったからグットデザインだ」などのおおよそまともに聞けない意見から様々あったけれど、そして、この受賞の背景を深澤さんは「デザインは形あるものは、その形の必然をより追い、他方では形や色のことではなく、無形の例えばシステムのようなものもデザインと呼ぶようになる」的なことを言っている。深く何度も読むとそんな気持ちにもなる。が、業界の使命があるとしたら、ひとつのは「守ること」もある。ファッションはそれがうまくできなかったように思う。時代や流行のせいにしがちだけれど、「ファッション」を守ってきたブランドだけが、結果、生き残った。消費者と社会を前後に背負いながらも、がんばっているメゾンだけが、今もあるとしたら、デザインは「形になったもの」であって欲しい。というか、業界の人は「デザイン」を「形のない方向」「見えない方向」に持っていって、なにか高尚な世界に包みたがるけれど、そんなことで成立するのは「吉岡徳仁」の世界であって、形に固執しているからこそ守られていたものが、その方向に向うことは、僕はとても危険だと思う。自由に無形に「デザイン」という言葉が変貌していくことで、新しく、可能性のあることを「デザイン」は手に入れたような気持ちになるだろうけれど、あらゆるデザイン業界の人の腹の底には、「デザインとは形のこと」という前提がある。その考えを解放してかっこよく進化していきたいと思う「デザイン」の正体とは、形のことであり、僕はそれは「守る」べきことだと思う。ファッションが「服」だけのことではないと、誰かが言い出したときから、「服としてのファッション」が薄まっていったようになってはいけないと思う。
「デザイン」とは、「考え」や「行為」など形のないものを、人間の創意で「形」にしたり「見える状態」になったものではないだろうか。だから、「考えの希薄」なものや、中身のないものは「デザイン」とは呼びたくなくなる。「デザイン」のプロとは、そうしたすばらしい思想や生活を豊かにしたいと思う気持ちを、生活用品などを通じて「形」に表現する人のことを言うのではないだろうか。そして、その「形」とは美しく、そして、新しくなければいけないと思う。デザイナーとは、なんでも依頼されるものを「形」にする仕事に成り下がってはいけないと思う。デザイナーとは「世の中を豊にする正しさを持つもの」かどうかを見極め、そういうことのみを「形に変えてあげる社会的な仕事」ではないだろうか。間違ったクライアントの依頼は「正し」ながら、新しさで表現していく仕事ではないだろうか。
ツイッターで僕が学んだことがひとつある。ツイッターは「意見を言う壇上」ではないということだ。意見を書けば、あらゆる人々からの意見を返されるとわかっているならば、それもいいかもしれない。考えを語るには、あまりにも秩序のない場である。その「自由さ」が最大の魅力であり、僕はそれを理解していなかったのだ。(反省)
ということで、再び、プログ再開である。