【コラム】脱北者2万人時代、「ハナ院」は今

 1992年、記者が北朝鮮を脱出した当時、脱北者はごく少数だった。一般人の脱北者はほとんどおらず、高官や留学生、軍人などが大部分だった。そのため、脱北者は特別な収容施設ではなく、国家安全企画部(現・国家情報院)の安家(安全家屋=大統領府や情報機関が秘密保持のために利用する家屋)に分散して収容され、調査を受けた後、韓国社会への一歩を踏み出した。

 当時の調査は非常に厳しく、定着支援のための教育もほとんど行われなかった。調査期間は最短3カ月、最長で6カ月以上に及んだ。厳格な調査や安家での生活は大きなストレスを感じた。しかし、今にして思えば、当時の生活がむしろ、自由な社会である韓国での生活に適応するため、役に立ったのではないかと思う。

 北朝鮮のような統制社会で暮らしていた人が、突然自由な社会で暮らすようになると、自分の思うままに行動してもよい、という錯覚に陥りやすくなる。「責任ある自由」というものを認識するまでには、かなり長い時間がかかった。無法地帯から来た脱北者たちが、法や秩序を学ばなければいけないというのは、至極当然のことだ。

 2000年初めに定着支援施設「ハナ院」が開設されたとき、友人に面会するため訪れたことがある。記者が韓国へ来たときに比べ、環境が非常に改善されていた。当時のハナ院には厳格さがなかった。毎晩ひそかに宴会が行われ、男女の交際も野放しにされ、入所者同士のけんかも一日おきに起こっていた。施設は良かったが、このような教育は、脱北者たちの定着のために決して役に立たない、と思った。

 ハナ院での教育が役に立ったと話す脱北者がいる一方、まったく逆のことを言う脱北者もいる。基本的な社会教育や、パソコン、英語、運転免許といった教育は、脱北者たちにとって、生きていくために欠かせないものだ。ハナ院での教育が役に立ったという人たちを見ると、大部分が韓国社会に早く適応しているように見えた。

 一方、ハナ院での教育が役に立たなかったという人たちの一部は、ハナ院を「監獄みたいだった」と表現し、物議を醸している。家族同士の面会や外出などが自由にできない、というのがその理由だった。しかし、だからといって、「監獄みたいだ」というのは、あまりにも行き過ぎた表現だと言わざるを得ない。

 ハナ院に問題がないわけではない。ハナ院で「補助教師」として指導に当たってきた脱北者たちが、一度に同院から追放された。脱北者たちが同郷の人に出会うと、韓国の人たちに言えない悩み事を気軽に打ち明けることができるため、補助教師が必要とされていたにもかかわらず、保安上の理由で解雇されたのだ。

 今、「ハナ院での教育はつまらない」と思う脱北者たちが少なくないが、それは長期間にわたる外国での逃避生活や、北朝鮮での統制から逃れ、一日も早く自由を享受したいという欲望が先に立つからだ。しかし、自由を享受する前に、韓国の社会について一つでも学ぼうとしなければ、韓国社会への定着は難しくなる。ハナ院での教育は、脱北者個人の趣向や要求よりも、公共の利益を優先せざるを得ず、ある程度の制約は避けて通ることはできないだろう。

 しかし、切迫した状況に置かれた脱北者たちの面会は、事前の通告や協議を通じて認めてほしいと思う。先に韓国へ来た先輩たちの体験談は、新たに韓国へ来た脱北者たちにとって、重要な情報になり得る。脱北者が2万人を超えた今、ハナ院の教育内容を見直すべきではないだろうか。

姜哲煥(カン・チョルファン)記者(北東アジア研究所研究員)

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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