コース周辺に熊が出没したとの情報が入りましたので、安全を考慮して当分の間中止とさせていただきます。
コース | 約10.4km |
所要時間 | 約3時間30分 |
-
関ケ原駅→本多忠勝陣跡→徳川家康最初陣跡→山内一豊陣跡→黒田長政・竹中重門陣跡(丸山)→決戦地→石田三成陣跡(笹尾山)→島津義弘陣跡→開戦地→徳川家康最後陣跡・歴史民俗資料館→東首塚・松平忠吉・井伊直政陣跡→関ケ原駅
●参加証明スタンプは、「民俗資料館」または「関ケ原駅」で受けてください。
※参加証明スタンプを受ける際には係員にお申しつけください。
※歴史民俗資料館
開館時間/9時〜16時30分(4月〜10月)9時〜16時(11月〜3月)
休館日/月曜日と祝日の翌日・12月29日〜1月3日
(開館時間等は変更になる場合があります。)
※関ケ原駅
営業時間/5時30分〜22時
窓口閉鎖時間/8時45分〜9時、11時〜11時30分
12時〜13時、14時30分〜15時10分
16時15分〜16時30分、17時20分〜17時45分
19時〜20時
(ダイヤ改正時、変更する事があります。)
<コースの見どころ>
●本多忠勝陣跡
徳川四天王の一人、軍監として参戦
生涯に数々の戦功を上げ、徳川四天王の一人に数えられた忠勝は、関ケ原合戦に監督役として参戦。つづら池西の伊勢街道に陣を構えました。南宮山の敵が攻め下りてこないことを見抜き、また東軍がおされ気味なのを見て進軍。小西隊、宇喜多隊、島津隊を攻めました。猛将らしく、島津隊の追撃で90もの首級を上げたと伝えられています。
●松平忠吉・井伊直政陣跡
徳川直臣の名に懸け、抜け駆けの開戦
東首塚の東側に標柱が立っています。松平・井伊隊は、この地に布陣しながら午前8時、密かに前進して抜け駆けの発砲。その後、島津隊へ攻撃をしかけました。東軍の勝利が確実になってからも島津隊の敗走を追撃し、忠吉・直政それぞれ負傷。直政はこのときの傷がもとで2年後死んだと伝えられています。
●床几場 徳川家康最後陣跡
進軍した東軍本営、首実検の場
家康は、午前11時頃桃配山からこのあたりへ軍を進めました。最初の陣地では戦況がよくつかめなかったこともありますが、あえて激戦地に近づくことで東軍の士気を高めたといわれています。戦いが終わると、家康はここで敵方の首実検を行ったといわれています。中央には土壇が、周囲には土塁が築かれています。これは天保12年(1841)、幕府の命令で領主・竹中家が作ったものと伝えられています。その頃は本丸の門があるなど立派で、参勤交代の大名が拝礼をして通行したといわれています。一帯は陣場野公園と呼ばれる町民の憩いの場でもあります。
●開戦地
天下分け目の戦いが発した地
北天満山を背にした西田運動広場の入口に、昭和6年に国の史跡に指定されたときの標柱が立っています。現在の標柱の位置は、ほ場整備によって史跡指定時よりも約200メートル北になっていますが、史跡指定時は合戦場のほぼ中央にあたり、東軍の福島正則が井伊隊の抜け駆けに怒って宇喜多隊を攻撃した場所と伝わります。この平地を武将たちが実際に駆け回ったと思うと感慨深いです。
JR東海テレフォンセンター TEL : 050-3772-3910(6:00〜24:00 年中無休)
【観光コースに対するお問い合わせ】
関ケ原町地域振興課 TEL : 0584-43-1112
コースマップ
※詳細は別紙のご案内(PDFファイル)をご覧ください。
[ファイルのダウンロード] sekigahara-e.pdf(1627KB)