バレーボールのルールの変遷
ホワイ君の質問に答える形で、せっかくバレーボールのルールなどについて調べたので、その他のことについてもまとめておきたいと思います。
◎初期の主なルール
①競技人数は両チーム同数なら何人でもよい。
②ネットの高さは約2m。
③コートの大きさ約7.62m×15.24m。
④ボールは中袋を皮かキャンバスでおおったもので、円周約63.5~68.8cm、重さ253~340g。
⑤ゲームは野球と同様九イニング制で、一イニングは両チームの一人ずつがサーブ権を失うまでか、あるいは三度サービスを続けるか、三人がサーブを打って三アウトになるかのいずれかである。
⑥サーブは二回打ってもよく、また約3.3m以上ボールをとばすことができれば味方が一度触れて相手に返してもよい。ただし失敗したら二回目はできない。
⑦得点はサーブに関係なくとれる。
⑧ネットから約1.21mのドリブルラインまでドリブルが許される。
⑨触球数の制限はない。
※このように当初のルールは非常におおらかで、狭い場所で大勢が楽しむことができ、 設備にもほとんどお金がかからず、しかも仲間意識やチームワークを育てるレクレーション的スポーツとして楽しまれていたことがうかがわれる。
◎その後のルールの変更
①ネットの高さ
2.1m(1900年)→2.3m(1912年)→2.4m(1917年)
②ローテーション制の導入。(1912年)
③サーブの回数を2回から1回に減らした。(1916年)
④点数制の変更
イニング制から21点制へ(1900年)→15点制(1917年)
⑤五人制から六人制へ。コートの大きさ約10.7m×18.3m(1918年)
⑥センターラインが設けられた(1921年)
⑦ボールに触れる回数が3回以内と規制。後衛の攻撃的プレイの禁止(1922年)
※これらのルール変更は、初期の頃は、競技自体をよりおもしろくするということも あるが、競技的要素をできるだけ緩和し、レクレーション的な性格を残そうという考えがあったようだ。
◎その後のバレーボールの歴史
1900年から1910年までの間に、カナダをはじめキューバ、ブラジルなどに普及していったバレーボールは、ヨーロッパ方面では第一次世界大戦(1914~18)で渡欧したアメリカ軍兵士によってフランスからイタリア、チェコスロバキア、ポーランド、ソ連へと普及していった。
アメリカに先立って、1925年には世界最初の組織体としてソ連バレーボール協会が創設され、「100万人のバレーボール」のスローガンのもと、着々と普及し、技術的にも大きな進歩をとげた。このようにして進歩した6人制バレーボールは第二次世界大戦中、ソ連軍兵士によって東欧諸国にもたらされ、かっての東欧圏バレーボール形成のきっかけとなった。この1920年代は各国にバレーボール協会次々に設立された。(創案国のアメリカは1928年)
1947年(第二次世界大戦直後)4月、パリで15カ国が参加して総会を開き、その席上国際バレーボール連盟が設立された。このとき、アメリカ式のルールを若干修正して、初めての国際ルールを制定した。
1949年、チェコスロバキアのプラハで第一回男子世界選手権大会が開催され、ソ連が初優勝した。女子の大会は1952年のソ連のモスクワ大会から創設され、やはりソ連が初優勝している。
オリンピックの正式種目になったのは、1957年のIOC(国際オリンピック委員会)総会の時で、実際にオリンピックの場に登場したのは、1964年の東京オリンピックからである。この大会では日本の活躍がめざましく、「東洋の魔女」の異名をとる女子チームが見事金メダル、男子も銅メダルをとり、さらに1972年のミュンヘン大会では男子も金メダルを獲得した。
その後1984年には二代目会長にルーベン・アコスタが就任し、日本からも松平康隆実行副会長以下多くの役員を国際バレーボール連盟に送りだしている。1986年には加盟国は163カ国に達し、陸上競技に次ぐ組織を有している。
※日本でのバレーボールの歴史については、前掲のホワイ君の質問に答える①をお読みください。
◎プレイ内容の変遷
<1920年代>
ヨーロッパに渡った当初のバレーボールは、レクレーションの域を出ない2~3の攻撃者が直上トスを打つといった単純なもの。
<1930年代>
1932年には全ソ選手権大会などが開かれ、攻撃技術も大きく変化し、それまでの直上トスからの攻撃から、オープン攻撃、バックトスからの攻撃、平行トスの攻撃などが生まれ、単発であるがブロックなども見られるようになった。攻撃方法などがかなり整備され、現在の基礎的な攻撃法が確立していった。
<1940年代>
アタック、ブロック、サーブの基本的な技術が形成された。1対1のブロック、正確なサーブなども見られるようになったが、レシーブ技術はまだ不安定でコンビネーション・プレイなどはほとんどなかった。
その後、各国とも攻撃法ばかりでなく、レシーブ技術の強化につとめ、1952年の第2回世界選手権大会(モスクワ)では、優勝したソ連のプレイには高さと力のバレーボールの中に初歩的なコンビネーション・プレイを使った戦法が見られた。
<1950年代以降>
ソ連を中心に著しい発展をつづける東欧圏では、次第に力と高さのソ連に対抗するための技術開発が進められるようになった。チェコスロバキアなどは次々と新しい技術の開発につとめ、速攻、フェイント、ブロックアウトなど技巧を要する戦術を編み出し、ついに1956年の第3回世界選手権大会(パリ)ではソ連を破って優勝した。この大会では中国が速攻を中心とした戦術を用いて、それまで東欧諸国に見られなかった新しいバレーボールを展開して話題となった。
1960年代までは、力のソ連、技のチェコスロバキア、高さと安全第一の東ドイツ、テンポとリズムのブラジルやルーマニア、速さとコンビネーションの日本という、五つの主流があった。そしておのおのの独特のスタイルを有して優れた成績をあげてきたが、以後はおのおのの流れに加えて、総合力と新しい技術を開発したチームが国際大会で上位を占めるようになってきた。
◎その後のルール変更
国際競技規則は、FIVB競技規則委員会により提案され、1947年4月パリにおける総会において決定し、その後、次のとおり、数次にわたり改正が加えられてきた。(6人制バレーボール競技規則より)
1947年 4月 (パリ) 制定
1995年11月 (フィレンツェ) 一部改正
1958年 3月 (モナコ) 〃
1959年10月 (ブタペスト) 〃
1961年 8月 (マルセイユ) 〃
1964年10月 (東京) 〃
1968年10月 (メキシコ) 〃
1972年 9月 (ミュンヘン) 〃
1976年 7月 (モントリオール) 〃
1980年 8月 (モスクワ) 全面改正
1984年 7月 (ロスアンゼルス)一部改正
1988年 9月 (ソウル) 〃
1992年 8月 (バルセロナ) 〃
1994年 9月 (アテネ) 〃
1996年 7月 (アトランタ) 〃
1998年10月 (東京) 〃
2000年 8月 (セビリア) 〃
◇東京オリンピック後の大きな(?)改正
「ブロックのワンタッチは触れる回数としてはカウントしない。」
ソ連も東ドイツも日本のコンビネーション・バレーを採り入れるようになった。特にドイツは力と高さに安定した技術をもって台頭し、1969年の第1回ワールドカップ、1970年の世界選手権大会(ソフィア)で優勝した。センター・ブロッカー・システムなどが見られるようになったのもこのころ。日本は1972年のミュンヘン・オリンピックで男子が金メダルを獲得してコンビネーション・バレーを完全なものとした。
◇ソウルオリンピック後の改正
「14対14になったときは、どちらかが2点差をつけるまで試合を続けるが、16 対16になったあとは、17点を先取したチームの勝ちとする。ただし、5セット マッチでは、フルセットで迎えた最終セットはラリーポイント制とし、どちらかが 2点差をつけるまで試合を続ける。」
試合の時間短縮を狙った初めてのルール改正といえる。
◇1998年の大きな改正
「リベロプレーヤーの出現」
バックプレーヤーとしていつでも誰とでも(若干の制限はあるが)交代できるというのは、かつての小学生バレーボールで採用されていたバックセンター固定制に少し似ている。その発想は・・・。低身長の人(レシーブの専門家)でも活躍できる場を作ったということかな? …プレイの中身まで変えてしまうようなルール改正ではないとは思うが・・。
◇2000年の大きな改正
「ラリーポイント制の導入」
中学校以上は25点までで2点差をつけるまで。(ただし第5セットは15点)
小学校は今年度から21点までのラリーポイント制になった。
※これこそ試合の時間短縮を狙った改正で、テレビの視聴率を上げるためと言われて いる。サイドアウト制とは明らかにプレイの中身まで変わっていくと思うが・・。
「ネットインサーブもOK」
※何のためにこのルールができたのか理解に苦しむ。
◎参考文献
「教室でする体育ー小学校編ー」 出原泰明 編
「スポーツ・体育ものがたり 13 ボール・スポーツ」 監修 山本邦夫 作者 水谷豊
「からだの知識・スポーツの知恵」 藤瀬孝・古城建一 編著
「先生なぜですか」ネット型球技編「0のことをなぜラブと呼ぶの?」 稲垣正浩 編著
「授業の役にたつ話・体育のとびら」 荒木豊ほか
「スポーツ文化研究レポート集」 麻生明見(編集則元志郎)
「スポーツ大百科」 財団法人 日本体育協会監修
「日本大百科全書」 小学館
「オリンピック事典」 日本オリンピック委員会監修
「6人制バレーボール競技規則」 財団法人 日本バレーボール協会
コメント