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2009年2月28日(土) 午後1時半~3時半
「慰安婦」問題・3市議会の「意見書」採択の経験に学ぶ集い
報 告:田中ひろみ (宝塚市:日本軍「慰安婦」被害女性と 共に歩む大阪・神戸・阪神連絡会)
小林久公(札幌市:元定山渓沿線町内会連絡協議会事務局長)
久保田圀夫(清瀬子どもと教育ネット)
会 場:早稲田大学国際会議室 3階 第3会議室
主 催:「慰安婦」問題解決オール連帯ネットワーク
連絡先:03-3362-6307(ピースボート)
<宝塚市・札幌市・清瀬市 3市議会の「意見書」採択の経験に学ぶ集い>
記録:古野恭代
2月28日、早稲田大学国際会議室で、「慰安婦」問題解決オール連帯ネットワークの主催で、「宝塚市・札幌市・清瀬市、3市議会の「意見書」採択の経験に学ぶ集い」が開かれた。宝塚市から田中ひろみさん、札幌市から小林久公さん、清瀬市から久保田圀夫さんが来られて報告してくださった。オール連帯共同代表の大森典子さんが司会を勤められた。
宝塚市田中ひろみさんの話:宝塚市民が「朝鮮問題」と取り組んだ歴史は決して短くない。(当日会場で販売された宝塚市「請願を実現する会」発行の冊子『請願採択!意見書可決!』に詳しい。)1980年に「朝鮮問題を考える宝塚市民の会」を作り、教祖や市職労、解放同盟、在日の人たちとともに、在日の無年金問題、通勤定期しか与えられない朝鮮学校生徒に学割を求める運動、朝鮮人初級学校閉鎖計画反対、朝鮮学校補助金削減反対の闘争に取り組み、署名運動を展開した。1990年半ばころ朝鮮学校生徒へのいやがらせが頻発したので、尼崎商工会に倣って、若者たちの民族音楽・踊りのまつりを年一回開催して共生のねがいを表現することにし、今も続いている。また、田中ひろみさんが差別克復のために書いた脚本、「海を越えてつながる私たち」を各地で上演し、それをソウルの水曜集会でも演じた。そのとき、ハルモニの一人が「謝罪の言葉を聞いてから死にたい」と云われたが、その後再訪したときその方は認知症のため高齢者施設に入っていると聞かされた。外国で慰安婦問題の真の解決を求める決議案が議会で可決されるニュースが入ってくるなか、一日も早く「慰安婦」被害女性にまごころを届けたいと、07年11月にはハルモニ2人を宝塚に招いてお話を聞く一方、政府の誠実な態度を求める請願署名運動を開始した。3ヵ月で1000筆を集め、請願は審議委員会の審査を経て市議会本会議に提出された。2008年3月26日、全国で始めて『日本軍「慰安婦」問題に対して、政府の誠実な対応を求める意見書』が市議会で採決され、首相・衆参両院議長宛に送られた。その後、抗議の電話やファックスが相次いだが、やがて内容が激励であるものに代わっていった。
現在、京阪神各地にこの運動は拡がっている。吹田市(会派割れでなかなか決議にいたらない)、箕面市(戸塚悦郎さんが08年9月8日に、市議会議長宛に「慰安婦」問題の解決を求める北摂ネットワーク箕面地区代表として陳情書を提出したが、まだ決議にはいたっていない。資料、戸塚悦郎先生記述『「慰安婦」問題の立法解決のために私たちにできること』によれば、当初、会員は戸塚さん一人だった)、京田辺市(男性が中心になった署名運動が行なわれている)、堺市(署名1万越えたが議会では可決できていない)、大阪市(戸塚悦郎先生を招いた集会、梅田での毎水曜1時間街頭ビラ撒き)、西宮市(駅前で毎水曜デモ、デモの歌あり)、神戸市(新長田で1月から毎水曜日1時間街頭に立ち始めた)など。関西地域で運動がこれまで広がっている原因の一つは、阪神淡路大震災と関係があるのではないか、と私は想像した。死者が6400人に上ったあの大震災の時、罹災者は神戸の朝鮮人学校で炊き出しを受けたと聞く。思えば、関東大震災のとき、同じ位の朝鮮人死者が出たが、それは罹災のためでなく、日本軍や一般人によって殺害されたものだった。この過去を、震災時、関西人は思い出して心から自分を恥じたのではないか。
司会から最後の一言をと云われた時、田中さんは、「侵略や植民地支配を克復してほしい」と云われた。「慰安婦」問題は、それだけが突出した問題ではなく、根深い差別意識から出ている。
札幌市小林久公さんの話:資料の記事によれば、2007年、札幌市内では日本軍「慰安婦」に関する各種の市民集会が連続して行なわれていた。「松井やより展」、ドキュメンタリー「俺の心は負けていない」の上映会、そして08年5月には、旅行代理店が社会還元事業としてナヌムの家からハルモニと研究員の村山さんを招いて市民集会を持ったり、G8に合わせて、「市民がつくる和解と平和の国際シンポジウム」が準備され、WAMの渡辺美奈さんのお話を聞いたりした。そのような集会では「市民に何ができるか」が議論された。
しかし、報告を始めるとき、小林さんは、「私のあだ名はコウモリです、付合うグループにあわせて態度を変えるから」と肩すかしを喰わせる話しぶりをされた。「肩書きに元定山渓沿線町内会連絡協議会事務局長としたのは、町内会の役員をしていたから」と云われる。町内会の役員らは地域のボスで、保守的だ。しかし、議員と親しい。政権交代への期待が高まってきたある日、戦後政権が交代しても変り映えしなかったことを思い出し、自分達が変わらなければダメだ、と思った。親しかった小田実にあるとき(亡くなられる少し前だが)、市民運動のルールは何かと聞いたら、「ひとりでもやろうと思ったらやる、やめるときも責任とらずにやめる、身勝手なものなんだ・・」という答えが返ってきた。
各国で次々と「慰安婦」問題が決議され、宝塚でも意見書が議会で採択されたことに励まされて、小林さんは札幌でも同じ事をしようと呼びかけたが、各団体にはそれぞれの取り組み課題があり実を結ばなかった。結局、一人でも、出来ることはやろうと考えた。札幌市議会の与党は民主党であり、公明が賛成すれば過半数になる。そこで「意見書採択」を決意し、町内会の呑み仲間だった民主党議員や公明党議員に話をし、意見書原案をオ-ル連帯のものを参考にしてまとめ、働きかけた。外国から云われているのに何の反応もしないでいていいのか、宝塚や清瀬に先例がある、と説明。かれらのなかにも、これは対立案件ではないので党議拘束がかからないから個人として賛成するという人もいた。反対派を刺激しないために、市議たちと定例議会までは市民からの請願運動を控えることを確認。こうして、9月の定例会に向けて各会派がそれぞれ意見書を作ったが、最終的には公明党案を中心に調整することになった。当初、政府への要望として4項目があげられていた。
1.政府は、各国の「慰安婦」被害者を招聘し、公聴会を開催すること。
2.政府は「慰安婦」被害者の事実を確認し、被害者にたいし閣議決定による謝罪を行なうこと。
3.政府は「慰安婦」問題解決のための法律をつくり、被害者の名誉回復と損害賠償を行なうこと。
4.学校や社会の教育において「慰安婦」問題の歴史を教え、国民が歴史を継承できるようにす
ること。
しかし、公明党との調整をする間に、1の「慰安婦」を招聘して公聴会を開くという項目が削られることになった。結局、2-4案が本会議三分の二で可決された。小林さんは1の削除をとても残念に思った。札幌では、このように、陳情や請願署名などなしに、議員が提案するやり方で「慰安婦」問題の意見書が議会で採択された。各々、自分に合ったやり方をとるのでいいのではないか、と小林さんは云う。司会の大森さんが市民へのフィードバックが必要なのでは、と聞くと、小林さんは、議決の1ヵ月後、市民集会を開き、「慰安婦」問題連絡会・札幌を立ち上げた。今後議会決議を実効あるものにするために政府に働きかけ、市庁サイドにも施策を求めてゆくことを決めた、と答えられた。また、在日女性で、水曜の昼30分間、自分の経営する喫茶店前に立って訴えている人がいる。小林さんが「止めたくなったらいつでも止めて」というと、「問題が解決するまで止めません」という言葉が返ってくるという。
清瀬市久保田圀夫さんの報告:エスペランティストだと自己紹介。バウネットジャパンが女性国際戦犯法廷を開いたとき、西野留美子さんの『「慰安婦」のはなし』のエスペラント訳を共同でし、国際シンポジウムで配った。久保田さんは「こどもと教育ネット」を通じて、地元教員組合と一緒に教育に関わる活動をしている。これまでに一斉テスト反対活動などもしてきた。
「慰安婦」問題を扱う以前に、清瀬市議会は2006年11月、沖縄集団自決に関する文科省の検定意見撤回を求める意見書を、自民反対・公明他賛成で採択している。この起動力となったのは「こども教育ネット」で、そのとき久保田さんは公明党議員とヒザをつき合わせて議論する機会があった。公明党の長老と云われるその人のお父さんは、華北で凄惨な戦争を体験なさった方だった。お父さんは、息子がコンバットなど、友達が見ている戦争ドラマを絶対に見せてくれなかった。子供の頃には不満に思ったが、父親の陣中日誌を読んでようやく意味がわかった、という。その議員は日誌を読んで、慰安婦も許せないと思うようになったと話されたそうだ。
久保田さんら教育ネットでは、07年6月、「慰安婦」決議を求める意見書を作るための資料集めをした。資料は議会各会派に配り、文教委員会で説明もした。これら資料のうち、第一次資料を私達は頂いたが、16頁にわたるもので、最初の頁、「慰安婦」年表のところには、1932年7月として、関東軍参謀部宣伝参考、「漢民族の特質」:「支那人は面子を重んじ、外見上婦人を大切にするが、強姦はすべての悪徳暴虐行為の中、その最悪なるものとして非常に重大なる社会問題としている。[匪賊や盗賊も]虚言・瞞着・略奪・強盗などは平気でやるが、強姦だけは滅多にやらぬ。」とある。現在、資料は第四次まで作られているそうだ。市議会定数は22名で、意見書採択には8名の自民クラブが反対し、共産党・公明党・風・自由民権など他はみな賛成だった。意見書には、日本政府が問題の真相糾明に誠意を欠き、被害者の女性に謝罪もせず充分な賠償も棚上げし、教科書からも記述を消し去ろうとする態度は恥ずべきもので、海外からも批判の声があがっている、と主張、真相糾明・陳謝と賠償、学校での教育、被害者の尊厳回復に努めることを求めた。意見書は2008年6月25日、賛成多数で可決された。
久保田さんの話は、その後、歴史教育のドイツとの比較の話になった。ポツダム宣言7条でドイツは教育方法を厳しく規制され、ナチズム・軍国主義教育を払拭し、民主主義を教えることが求められており、ホロコーストについても詳しく教えている。高校の歴史教科書は600頁、その200頁はナチスの歴史のみを扱っている。教科書の冒頭に、「歴史学習は暗記することではなく、討論し考えることだ」と書いてあるという。ドイツはいまでも時効なしで被害者に補償をしている。2003年までに一人一人に払った補償額の合計は604億4600万ユーロで、日本円で10兆円、これは日本の防衛予算の2年分に当たる。
こども教育ネットでは、中国大使館書記を招いて中国の歴史教育の話を聞いたことがあった。中国では小学校5,6年、中学校1-3年、高校1年の間、毎日歴史を学んでいる。1年39週あるから厖大な量になる。慰安婦についても写真が教科書に載っていてそれで学んでいる。一方日本はどうか?歴史を習うのは中学校2学年のみ。ある先生は、公民の国際問題のひとつとして「慰安婦」を教えた。そのときの感想文を久保田さんが読んで下さった。
Oさん(女子中学生)・・私は2年の時、松代大本営のことを調べたので、一応、「慰安婦」について知っていた。その時も酷いな、とは思ったけど、具体的な言葉とかではなく、数値上のものだったから、あまり実感が湧かなかった。けど、今日の授業を受けて、ただひたすらに怖いと思う。レイプされるとき、15歳の少女、私と同い年の子は何を思ったのか、こんなことがなかったら、幸せな人生だったかも知れないのに。この授業はやめないでほしい。つらいけれど、怖いけれど、私たちと同じ年頃の人にいったい何が起きたのか、知らなきゃいけない。絶対に。嫌なところを目隠しするように教育を受けて国を愛することに意味はあるのか。そもそも国を愛するって何だろう。おしつけられるものなのか。私たちはその時代には生きていなくて、関係ないと思うこともあったけど、やっぱり違うな。日本人であることは変えようがない。だから、日本人として日本のしたことを認めなければ。国同士が友好的になるといいと本当に思う。
K君・・こんな壮絶な話を聞いて、すごい気分が悪くなった。それをいまの人たちは知らず政治家たちはかくそうとする。こんなので愛国心なんて育めるかと思った。いまの人たちは昔を知らなさすぎると痛感した話だった。昔にしでかしたことをどんな形でもいいから知りたいと思った。絶対に忘れられない。忘れちゃいけない。昔にした罪を誰かが許しても決して忘れず正面から向き合うことがいまの人たちが出来るつぐないだと思った。政治家たちも都合よくかくそうとしないでほしい。こういった問題をもっと知って考えていきたい。
各地からこられた方の報告の時間・・・
目黒から来られた方(谷川さん?)・・・目黒区議会では、右翼が日の丸を議場に掲げて敬愛せよと陳情書を議会に出し通ってしまった。それを知って、皆でファックスしあい、25-30名で傍聴に押しかけ、議員を尋ね、陳情が採択されても実施は見合わせるよう動いた。うかうか賛成してしまった民主は了解。公明も戦時の記憶のために日の丸を受け入れられない人もいるのだから議場に掲げるのは止めた方がよいとの意見。結局実施見合わせとなった。
川崎市(川崎さん)・・・目下9条連が中心になって植民地・慰安婦問題解決のための連絡会を設け、6月議会に向け、水面下で市民団体と会合を持っている。川崎にはコリアンタウンがあり、80歳前後の人70名のトラヂの会もある。こことの交流もしてゆきたい。
最後に、韓国から来られたイ・ヨンスさんが、日本語で、力強い連帯の訴えをされた。
・・・宝塚からは「慰安婦」に対する尽きないまごころを学び、札幌からはたった一人でも出来ることから始める姿勢(戸塚先生も同じ)を、清瀬からは厳しい真実究明を市政につなげるやり方を学んだように思う。意見書提出に成功した上記3市の議会は、どこも、「絶対反対」が少数派だった。しかし、そうではない地方議会も少なくない。今後、市民としてもっと学習し、さまざまな人と力を合わせて地方議会に意見書提出権を行使させるまでもってゆきたい。