特定失踪者 全国470人、県関連16人
不可解な失跡をし、北朝鮮による拉致の疑いを否定できないとする「特定失踪(しっそう)者」を調べている民間団体「特定失踪者問題調査会」が、来年一月で発足から丸五年になる。現在の登録は約四百七十人。これまでに一人が政府の拉致認定を受けた一方で、死亡を含む二十三人の消息が国内で確認された。しかし、大半のケースは新たな情報がないままで、家族からは「忘れ去られるのではないか」と案じる声も出ている。 |
35人が「拉致濃厚」調査会活動5年
二〇〇二年、北朝鮮が日本人拉致を認め、被害者五人が帰国したのを機に、失踪者の家族が「拉致の可能性」を訴えるようになった。同会は原則として、家族らの申請をすべて受け付けている。
四百七十人は一九四八―二〇〇五年に失跡。そのうち名前を公表しているのは二百六十四人で、失踪場所や住所が兵庫県内とみられるのは十六人だ。
また、同会は、兵庫県関係の秋田美輪さん、金田龍光さん、清崎公正さんを含む三十五人を「拉致の可能性が濃厚」としている。家族らは警察に告発しており、兵庫県警など関係機関が拉致との関連の有無を調べている。
鳥取県米子市の松本京子さん=失踪時(29)=は政府が拉致と認定した。七七年十月二十一日夜、近所の人が松本さんと男二人が話すのを目撃。声をかけると、男に殴られ、男らは松本さんを連れて逃げたという。
一方、七八年に行方不明になった東京都の小学校教諭石川千佳子さん=当時(29)=については、元警備員の男が〇四年、殺害したと自首した。
七三年に失跡した加西市出身の男性(59)は、〇三年に家族が特定失踪者に申請したが、報道で知った本人が実家に連絡。男性は家出していた女性と親しくなり、石川県内で暮らしていたという。
同会の荒木和博代表(51)は「家族の高齢化が進んでいる。調査は十分にできていないが、孤立無援の家族の支えにはなっている。取り組みを進めて拉致被害の全容を明らかにしたい」と話している。
(高田康夫、黒田勝俊、宮沢之祐)
「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」代表 李英和・関西大学教授の話
北朝鮮による日本人拉致の多くは一九七六―八六年に日本海沿岸で集中した。被害者は百人前後ではないか。特定失踪者全員が拉致被害者とは考えにくい。精査して北朝鮮との交渉にあたらないと、本当の被害者の解放が遅れることになる。
兵庫県関連の特定失踪者
敬称略。年齢は失踪時のもの
(1)失踪時期 (2)当時の住所(住所表記は現行)
(3)職業 |
 |
▼尾崎隆生(27)
(1)1960年11月
(2)神戸市中央区琴ノ緒町
(3)会社員
京都府宮津市出身。地元の旧制中学を卒業し、府内で数回の転職後、神戸市内のネクタイを扱う会社に就職。1960年11月2日、カメラを持って「遊びに行く」と社員寮から出かけた。同4日、勤務先から宮津の実家に欠勤の連絡があった。
|
 |
▼金姫順(18)
(1)1960年12月ごろ
(2)神戸市中央区元町通
(3)アルバイト
在日韓国人2世で、通名の金村英子で生活。神戸中学のころから仲がよかった在日の女友達2人と一緒に家出した。富山県か新潟県かで滞在したらしい。「いい仕事があるから」と、友達2人と別れたという。洋裁が得意だった。
|
 |
▼仲村克巳(26)
(1)1969年8月ごろ
(2)西宮市田代町?
(3)牛乳販売
沖縄県中城村出身。高校卒業後、神戸製鋼所に就職。転職後、西宮球場外野席下の牛乳販売店で働いていたが、1969年9月、下宿の大家から妹に「1カ月帰っていない」と連絡があった。部屋に「8月2日神戸へ行く」とのメモがあった。
|
 |
▼古川文夫(18)
(1)1970年2月
(2)尼崎市下坂部
(3)大工見習
北陸方面へ遊びに行くと家を出て、数日後、「あと3日ほどで帰る」と電話してきたが、帰宅しなかった。その後、石川県の消印で質札の入った封書が届き、質草は本人のカメラなどだった。ぜんそくの発作で呼吸困難になることがあった。
|
 |
▼島脇文内(23)
(1)1974年2月ごろ
(2)神戸市垂水区中道
(3)会社員
淡路市富島出身。県立兵庫工業高校卒業後、日本エヤーブレーキに就職。西神工場で勤めていたが、出社しなくなり失踪が発覚。寮の部屋は鍵がかかっておらず、食べ残しのみかんもあった。背広の内ポケットに現金30万円が入っていた。
|
 |
▼清崎公正(41)
(1)1974年6月15日
(2)尼崎市浜
(3)建築会社経営
朝、銀行に行くのを妻が見送った。そのまま帰宅せず、引き出した50万円は自宅近くの作業場にあった。唯一なくなっていたライトバンは数カ月後、尼崎市内で発見された。三重県から尼崎に出て大工の修業をし、独立。妻と娘2人がいた。
|
 |
▼萩本喜彦(35)
(1)1975年4月4日
(2)高砂市中島
(3)会社員
午後10時前、神戸製鋼所の夜勤に自転車で向かうが、出社せず。幼い子3人と妻を残し失踪した。事故の痕跡はなかった。失踪後に「倒れていた男性を病院に運んだ」とはがきが届いたが、その後の連絡はなく、差出人も実在しなかった。
|
 |
▼金田龍光(26か27)
(1)1979年ごろ
(2)神戸市東灘区
(3)ラーメン店店員
政府認定されている田中実さん=1978年失踪、当時(28)=と同じ神戸市東灘区のラーメン店に勤務。当時の店の経営者は、田中さんを拉致したと指摘されている在日朝鮮人。田中さんと一緒にオーストリアで働くとして上京後、消息不明に。
|
 |
▼松本義明(37)
(1)1979年9月20日
(2)大阪市北区豊崎
(3)貿易会社経営
神戸商業高校を卒業し、日本郵船や複数の貿易会社に勤めた後、独立。神戸市灘区で営まれた母の葬儀に出た後、家族と連絡が途絶えた。英語が堪能で、雑貨の買い付けのため、東南アジアを中心に海外出張を繰り返していた。
|
 |
▼広田公一(30)
(1)1984年7月21日
(2)尼崎市武庫元町
(3)団体職員
西脇市出身。「大山(鳥取県)に行く」と、家族に言い残して行方不明に。山ろくの駐車場にあった車の中に、岡山県内の観光地や喫茶店に寄ったことを記したメモがあった。遭難とみて米子署などが捜索したが、見つからなかった。
|
 |
▼秋田美輪(21)
(1)1985年12月4日
(2)川西市湯山台
(3)神戸松蔭女子学院大生
午後8時ごろ「友人宅へ泊まる」と、自宅の母に電話をしてきたが、実際には訪ねておらず、翌5日朝、豊岡市竹野町の海岸で靴とかばんが見つかった。波打ち際から約1メートルの砂浜にきっちりとそろえて置かれていた。足跡も残っていた。
|
 |
▼西安義行(21)
(1)1987年3月15日
(2)丹波市市島町与戸
(3)無職
篠山産業高校を卒業後に勤めた地元の釣り具会社を約1年半で辞め、新しい就職先を探していた。高校時代の友人の車に乗せてもらい、京都・舞鶴方面へドライブに出かけたが、夕方、JR綾部駅近くで車を降りた後、消息が途絶えた。
|
 |
▼森本規容子(18)
(1)1991年9月22日
(2)西宮市
(3)会社員
西宮南高校を卒業後、尼崎市内の会社に勤めていた。「梅田(大阪市)の書店に行く」と言って自宅を出たまま行方不明になった。軽装だった。21日の夜には、友人と電話で話し、次の週末に映画を見に行く約束をしていた。
|
 |
▼福本勝利(22)
(1)1995年5月11日
(2)滋賀県長浜市神照町
(3)契約社員
高砂市出身。滋賀県虎姫町の金属加工工場で働き始めた初日の昼休みに、同僚に食堂の場所を聞いたまま行方不明になった。5年前に脳腫瘍(しゅよう)の手術を受けており、摂取をしなければならなかった薬はロッカーに残っていた。
|
 |
▼加藤小百合(33)
(1)1997年8月18日
(2)神戸市灘区六甲台
(3)パート社員
家のお手伝いさんと昼食を取った後、午後1時ごろ、軽装のまま自宅を出て行方不明になった。3人の子どもはいずれもまだ小学生だった。失踪後、郵便貯金の口座から約400万円が引き出されていた。夫と離婚の話が出ていた。
|
 |
▼高見到(43)
(1)2003年10月5日
(2)尼崎市南塚口町
(3)大阪府職員
6日に無断欠勤をしたことで、父親や上司らが自宅マンションを訪ねると、いなくなっていた。運転免許証や健康保険証は室内にあり、財布や定期券がなくなっていた。5日午後に、自宅近くの銀行で現金21万円を引き出していた。
|
|