心疾患のリスクを高めるとされるトランス脂肪酸について、消費者庁は10月、食品事業者に自主的な表示を求める指針案を公表した。今後は義務化を検討するというが、そもそもトランス脂肪酸は日本人にとって脅威ではない。まずは、健康にどんな影響を与えているのか調査が必要で、表示の義務化は尚早だと思う。
トランス脂肪酸は油脂の一種。液体の植物油をマーガリンやショートニングなどの固体に加工する時に生じる。ケーキ、ドーナツ、パン、マヨネーズ、クリーム類に多く含まれ、サクサクした食感が出る。取り過ぎると動脈硬化や心疾患のリスクが高くなることから、世界保健機関(WHO)は03年、1日当たりの摂取量を総エネルギー量の1%未満(日本人は2グラム前後に相当)となるよう勧告した。
現状はどうか。食品安全委員会によると、日本人の平均摂取量はエネルギー比で約0.3~0.7%。1日の平均摂取量も約0.7グラムで、取り過ぎを心配する数字ではない。一方、米国は約5.8グラム(2.6%)と飛び抜けており、表示が義務化されている。
日本の消費者庁が求めるのは、食品100グラム当たりの含有量を包装紙やサイトで表示すること。しかし、本当に必要なのだろうか。
そもそも、動脈硬化や心疾患の発症を促す要因は、脂肪や塩分、アルコールの取り過ぎ、喫煙、肥満、高い血糖値、高血圧、ストレス、運動不足などたくさんある。トランス脂肪酸は一部に過ぎない。
しかも厚生労働省の人口動態統計によると、日本人の心疾患の年齢調整死亡率(年齢構成の違いを補正した死亡率)は男女とも90年代半ばから低下している。心疾患死亡率は米国、ドイツ、英国、スウェーデンなどに比べ、約3分の1~2分の1の低さだ。どうみても、トランス脂肪酸は日本人にとって緊急な脅威とはなっていない。
確かに、東京大学や女子栄養大学などの調査で女子学生の約1割、30~40代女性の約3割は、トランス脂肪酸が摂取エネルギーの1%を超えていた。ケーキなど菓子類を多く食べているためと推測される。しかし、日本の若い女性に心疾患は多くない。必要なのはむしろバランスのとれた食事の指導だろう。
食品安全委員会事務局次長として、トランス脂肪酸の問題を調べた一色賢司・北海道大教授(食品衛生学)は「トランス脂肪酸が欧米で関心を集めたのは脂肪全体の取り過ぎが問題になったからだ。トランス脂肪酸だけに目を奪われるのではなく、(悪玉コレステロールを増やすといわれる)飽和脂肪酸をはじめ脂肪全体の取り方を指導する方が効果的だ」と指摘する。
食の安全に関心の高い日本生活協同組合連合会でさえ「トランス脂肪酸が日本人の健康を脅かしているという科学的な根拠を示さないまま、表示だけが先行している唐突感がある」(安全政策推進室)と述べている。
カルシウムやビタミンCなどの栄養素は、厚労省の食事摂取基準に基づき、年代ごとに必要な摂取量や上限量の目安が示されている。しかし、トランス脂肪酸は日本独自の具体的な基準が決まっていない。そんな中で表示だけが先行すれば、含有量の数字が独り歩きし、トランス脂肪酸を過度に怖がる空気が生まれるのではないか。
つい最近、乳がんの摘出手術を受けた女性読者から次のような手紙をいただいた。「トランス脂肪酸が乳がんとも関係しているのではと心配です。マーガリンが使われている食パンを食べるだけで乳がんの再発が気になります」
トランス脂肪酸とがんの関連を示す明確なデータはないので、食パンくらいは気楽に食べましょうと伝えたい。私の周りにも、トランス脂肪酸に過剰な恐怖心をもつ人がいるが、「他の脂肪酸と同じように体内で消化、吸収され、蓄積するようなことはない」(欧州食品安全機関)のだ。
発足1年余りの消費者庁が実績を上げたい気持ちは理解できるが、功をあせって拙速な指針を決め、検査費用で製品のコストだけが上がるような事態は避けたい。トランス脂肪酸の危険性を過剰に伝えがちなマスコミも、もっと冷静になる必要性を痛感している。
最近は、外食産業やマーガリン業界などでトランス脂肪酸を減らす取り組みが進み、含有量をぎりぎりまで減らしたマーガリンも出ている。
こうした変化を踏まえ、食品安全委員会はトランス脂肪酸のリスク評価を独自に始めている。表示を決めるのは、その結果を待ってからでも遅くはないはずだ。
毎日新聞 2010年11月12日 0時05分
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