大浜五光 遺書 唯物協動共感論に到達した田村了悟伝に代えて
まえがき
私は日頃の元気さと主観からあと20年、91歳までは生きるつもりでした。もうひとつの理由は、唯物論者を自任する人間としてはおかしなことですが、子供の頃にみてもらった手相にこだわっていることです。
戦後、疎開先から戻った佐賀県の田舎で小学校の4年生から6年生の夏までをすごしていたのですが、そのころ村々を回って歩く「かっくんちゃん」という名物乞食じいさんがおりました。田圃の中を縦横に走るクリークに棲む雷魚の寄生虫のせいで肩に大きなコブができていて、夏はふんどしひとつ、冬でも浴衣一枚を荒縄で結び、手製の三味線を担いで門付けをしてまわるのです。しかもシンガーソングライターなのです。もう亡くなってはいますが、今では地元清酒のラべルに「田舎のべートーべン」という肩書が付けられているほどです。
彼は謝礼というか、お恵みに握り飯をもらうと、それを庭や道の上にころがして、当時は舗装道路なんてありません。土にまみれたそれを彼は食べるのです。しかもそれで腹痛もなにも起こさないのです。それだけでなく、彼は手相もみるのです。ある日、私の伯父さんの家にも回ってきました。大人も子供たちもかれを取り巻いています。なかなかの人気でした。
彼は私の手相もみてくれました。 「お前さんには金は溜まらんばい。ばってんが、73歳まで生くっばん」というものでした。その後、私には確かに金は溜まらないどころかなかなか収入もあがらない生活でしたから、これは当たっています。とするともうひとつの73歳までというのもあたっているにちがいないとつい思ってしまうのです。人生50年といわれた当時の73歳です。満では71歳でしょう。今では平均寿命は男でも88歳に近く、90歳代はめずらしくなくなっています。ですから私もとつい考えたがっていたわけです。
あと20年あればこんな私でもライフワークにしようとしている『唯物協動共感論に到達した田村了悟伝』を書き上げることはできるだろうと考えていました。それは唯物論の立場から宗教や観念哲学に代わる日常活動や感覚を豊かにしなければ、政治論や経済理論と官製芸術だけではとても資本主義と文明を乗り越えることはやはりできないだろうという反省に立ってのものです。階級社会(文明)の感動は虚しくまちがったもの、即ち逆立ちしたものであり、だから影像や言葉や音響や麻薬などで陶酔させるか錯覚させねば得られないものでしかありません。それでも一万年からの歴史があります。私らはそれを乗り越える自覚的感動を豊富にしていかなければならないと考えるのです。
しかし現実には昨年の10月末に胃ガン、余命4-6カ月との告知を受けました。書きあげようとしていたことはできなくなりました。しかしその核心部分である考え方と生き方については、詩やエッセーや他の小説でもすでに表現していますので、ここでは遺書と最近の詩とエッセーをまとめて、それに代わる最後の本とするにとどめざるをえなくなりました。ささやかな実践と作品でしかありませんが、もし他の人の探究にとってひとつの参考にでもなれば幸いだと残していく次第です。