おもいだすままに
第1回〜第5回


思い出すままに〈1〉





●はじめに
 私もいつの間にか満72歳を過ぎた。父(昭和32年、62歳で死去)の歳をとうに過ぎ、母(昭和51年、74歳で死去)の歳に近づいた。この際思い出すことや随想を順序不同に、気の向いたときに書いて、私がどんな人生を歩んできたかを、家族に知ってもらいたいと思う。昭和の世相を多少でも知ることができよう。
 

●名前のいわれ
 私は大正15年(1926年)1月25日北区堀船町で生まれたと戸籍謄本にある。しかし母が言うには本当は1月19日に生まれたのだという。当時はその位のずれはごく普通で、1ヶ月位ずらす人もいたらしい。そして生まれて間もなくこの豊島3丁目に引越し、以来70年も同じ地区に住んでいる。当時は東京府北豊島郡だったと思うが、昭和7年10月王子区と滝野川区が成立し〈東京市〉に編入された(『北区の歴史』による)。
 私は父、戸籍名 清次郎(本人は清太郎と称していた)、母、アキの三男として生まれた。私の前に男2人、女1人が生まれていたが、3人とも生後100日足らずで亡くなったという。
原因は母乳とわかり(母は乳脚気〔ちがっけ〕だった、と言っていた)、私は近くの人にももらい乳をして育てられた。これは大変な苦労だったらしい。(当時、粉ミルクや牛乳はなかったのだろうか。)
 母の郷里(富山県)の親戚に90歳を超す平兵衛さんという人がいて、その長命にあやかって一字もらい平三と名付けたという。4歳下の弟、庄三は四男の筈だが、町の分限者の名前をもらったという。兄弟二人とも三がつく。ところが、姓名判断で「雅男」がいいと言われ、わが家ではマサオと呼ばれて大きくなった。(私も改名されたが、もう大きくなっていて、通用しなかったという。)
 

●馬力にひかれる(?)
 わが家は豊川小学校通りの商店街で、草履(下駄)屋をやっていた。現在「臼倉米店」になっている場所だ。当時はまだ洋服が普及してなく、草履〔ぞうり〕や下駄をはく人が多かった。道幅は現在と同じだが、交通量は多く、トラック、馬力〔ばりき〕が行き来していた。(乗用車は殆ど通らず、トラックもフォードとか、シボレーとかの外車が多かった。)
 馬力というのは馬に荷車を引かせたもので、牛に引かせるものもあった。これが一番多く、道路には馬と牛の糞があちこちにころがっていた。余談だが、最近読んだ浅田次郎の「蒼穹の昴〔そうきゅうのすばる〕」の中に主人公が少年時代に糞を拾って歩いて家計を助けた(乾燥して燃料にする)とある。明治20年代の清国(現在の中華民国)の話であるが、東京にはいなかったようだ。
 3〜4歳の頃か、この通りの真ん中で大の字に転び、馬力にひかれそうになった。馬力ではなくトラックだったかも知れない。四つん這いになった上に車がおおいかぶさって、車輪で履いていた下駄が割れた。紙一重の所で助かったわけだ。店の中で仕事をしながら見ていた母親が、真っ青になって飛んできて抱き上げてくれた。
 これが私の物心のついた最初のおぼろげな記憶である。
 

●小学低学年の頃
 皇太子殿下(現在の天皇陛下)がお生まれになった時(昭和8年12月23日)、サイレンが鳴り、その断続的な鳴り方で、国中が待ち望んだ男児出生(女児ばかり4人も続いたあとだった)とわかった。
翌日学校は休みになり旗行列をすることになった。ところがいつも遊んでくれるガキ大将が「明日は学校へ行かなくても欠席にならないから、行くのはよそう」と言う。ガキ大将の言うことだから従わないわけにはゆかなかった。親にも内緒で登校しなかった。
 旗行列が賑やかに現れ、我々は横丁の影に隠れて、見送った。
 翌日、学校へ行くと友だちが「風邪をひいたのか?」と気づかってくれた。そして昨日は紅白のお供物(らくがんのような菓子で四大節【*】の日に出た)をもらったと知り、学校に行けばよかった、と後悔した。小学2年生だった。
 【*四大節:四方拝(1日1日)・紀元節(2月11日、現在の建国の日)・天長節(4月29日、現在のみどりの日)・明治節(11月3日、現在の文化の日)】
四大節の日は授業がなく、式典があった。御真影を飾り、その前で、校長先生がうやうやしく教育勅語を読むのである(それが長かった)。そしてお供物(おくもつ:菊の天皇陛下のご紋章〈紅〉と、桐の皇后陛下のご紋章〈白〉を型どったお菓子)をもらって帰るのである。
 

●豊川尋常小学校
 私が入学(昭和7年)した豊川尋常小学校は、明治初年の創立で歴史が古く、私は61回の卒業生だったと思う。空襲で全焼したあと、再び木造で建て直され、更に笑話40年頃になって鉄筋コンクリートの3階建てになった。この時、裏手にあったプールは表に移された(これは、恵子の指摘によるが、ひろ子に確かめたところ、私は出来たてのコンクリートが完全に乾燥していないような教室に入った、と言う)ここに2,000人以上の児童がいた。1学年6組(男、女各3組)で1クラスは62〜63人もいた。校門を入るとすぐに奉安殿があった。天皇、皇后両陛下の御真影〔ごしんえい〕と教育勅語〔きょういくちょくご〕が納められていた。四大節の式典にこれが出されるわけだ。児童らは毎朝奉安殿に最敬礼してから奥の教室へ進む。
 昭和6年の満州事変から、日本は泥沼の15年戦争には入って行くが、皇室崇拝は、国粋主義(軍国主義)の象徴だった。
 

●貧しかった日本
 小学生の頃を思い出してみると、わが家を含めて日本は貧しかった、とつくづく思う。幼稚園へ行く子は殆どいなかったし(私も行かなかった)、学習塾などはなかった。第一、家で勉強した記憶がない。宿題はあったと思うのだが、のんびりしたものだった。
 学校給食はなく、弁当を持参したが、おかずは貧弱だった。日の丸弁当というのがあり、白いご飯の真ん中に梅干し一つを入れたものだった。それは極端だが、海苔〔のり〕弁というのは普通だった。弁当箱の中程と上にサンドイッチ状に海苔を挟んで、おかか(鰹節)をまぶしてあった。鮭がのせてあれば上々だ(鮭と梅干しは安かった)。
 
 
 

(平成10年5月22日)


 
 

思い出すままに〈2〉

●時代の切れ目(節目)
 私の生まれは前回書いたように、大正15年1月25日だ。大正はこの年の12月25日で終わり、昭和になった。昭和元年は7日間しかなく、私は最後の大正っ子である。
 戦前は年齢を“数え”で言った。正月元旦になると、皆一斉に1つ歳をとった。だから私の年齢は昭和の年号と同じだった。
 小学1年の国語教科書(『読み方』と言った)の第1頁は「ハナ ハト マメ ミノ カラカサ カラスガイマス…」だった。中身も表紙も黒一色のモノクロームで「国定教科書」と書いてある。私たちはふざけてクニサダ教科書(侠客の国定忠治にひっかけて)と言ったりした。
 ところが次の年からがらりと明るいカラーの「サイタ サイタ サクラガサイタ…」に変わった。つまり私はモノクロ最後の年代だ。
 次は徴兵検査【*】だ。俗に兵隊検査と言ったが、これを受けた最後の年代になった。昭和20年3月に受けたと思う。敗色濃厚の日本は、兵力増強のため徴兵年齢を1年早めて19歳に改めた。(大佛次郎『敗戦日記』によると、「昭和19年10月18日に徴兵令が改正され、1年引き下げられて18歳からとなる。」とあり、私の記憶と1歳違う。徴兵年齢は満歳だったのかも)
 もし、1・2年早く生まれていれば、徴兵されて戦死していたかも知れない(事実、戦死者の殆どが大正生まれだ)。
 というわけで私は三つの大きな切れ目(節目)で過ごしたことになる。ただ、戦後の学制改革は私の卒業の2年あとで、切れ目ではなかった。 ついでに言うと、私の子供達はベビーブームからはずれ、従って“ 団塊の世代”に入らなかった。これは受験や就職、結婚の時に助かったのではないだろうか。
【*徴兵検査:戦前は国民皆兵といって、男はすべて決められた年齢になると徴兵検査を受け、合格すると軍隊に入らなければならない。逃げることはできなかった。
(現在でも韓国や台湾などでこの制度がある)】
 

●寒かった昔
 最近、地球の温暖化が問題になり、昨年12月、京都でこれに関する世界会議が開かれた。議長国の日本から、二酸化炭素の排出を削減する提案が出され、日本6%、米7%、EU8%(先進国全体で5%以上)が可決された。
 たしかに昔は寒かった。小学低学年の頃だったと思うが、真冬の朝礼のとき、半ズボン姿で校庭に立って先生の話を聞いていると、寒さがズック靴(運動靴)のゴム底からじわじわと這いあがってくる。片足を交互に浮かせたりして、早く話が終わってくれと祈ったものだ。その頃、革靴を履いている者はなく、全員ズック靴だった。革靴は持ってはいるが、よそ行きで、普段は履かなかった。
 しもやけで手の甲をはらしたり、ひびやあかぎれをしている子もいた。私は幸いかからなかったが、水仕事を手伝う女の子に多かったようだ。
 教室の暖房は石炭のダルマストーブが一基あるだけ。それで教室全体が暖まる筈がない。お弁当を暖める戸棚があり、下の方に豆タンを入れた箱が置かれた。食事の時は、当番が弁当箱のフタに薬罐〔やかん〕の湯を注いで廻った。
 

●チョコレートが当たる
 小学3・4年の頃か。新聞の広告欄に懸賞問題が出ているのを見つけた。問題は簡単で「レー□クレーム」の□の中にカナ文字を入れるものだった。考えるまでもなく商品名を入れればよく、問題といえる程のものではない。ハガキ(2枚で3銭、つまり1枚1銭5厘)にトの字を書いて投函した。
 すっかり忘れていたが、ある日学校から帰ると祖母(ノブと言った)が「平三、何か来ているよ」と言う。それはレートクレームから来た賞品の大きな板チョコだった。大喜びして弟と大切に少しずつ食べた。レートクレームの名前は覚えているが、これこそ懸賞の効果だ。それに板チョコなどめったに食べられない貴重品だったから。
 当時の菓子は小遣いで買う大きな黒い飴玉(2コで1銭)とか、きな粉をまぶしたあんこ玉(1銭)とか、おせんべい(2枚で1銭)の類の駄菓子だった。あんこ玉は、2つに割って中にかわり玉が入っていると、もう1コもらえた(かわり玉:なめていると色が変わる砂糖飴)
 めったに見かけなかったものの5厘銭がまだ通用していた。大きい2銭玉(現在の10円銅貨くらい)は時々使った(江戸川乱歩は『二銭銅貨』で文壇にデビューした)。今では信じられない貨幣価値である。
【注】100銭で1円ですぞ!)
 少し上等な菓子はキャラメルで、これは遠足の時にゆで卵と一緒に持たせてくれた。10粒入りが5銭で(これが普通)、20粒入りが10銭だった。森永ミルクキャラメルは現在も同じ意匠を売っていて懐かしい。
 

●少年倶楽部〔くらぶ〕
小学生の頃は家で勉強した記憶がないと前回書いたが、本はよく読んだ。特に『少年倶楽部』(講談社発行)を愛読した。この雑誌は50銭もして、私には大金だった。それで毎月10日の発売日の早朝、本屋(アルプス堂と言ったが、現在はない)の前で店が開くのを待った。漸く白いカーテンが開かれ、小母さんが顔をのぞかせる。待っているのは私だけ。買った本を丁寧にカバーして、それを1日か2日で1頁残らず読み尽くし、学校前の古本屋へ持っていく。すると20銭か25銭で買ってくれた。
 少年倶楽部は大正13年11月に創刊され、全盛期の昭和6年正月号は67万部を売ったという。初代講談社社長 野間清治の“おもしろくて為になる”を編集方針として、当代一流の売れっ子作家や、画家に書かせた。作家・画家も手を抜かずに全力投球で応えてくれた。これについては編集者の並々ならぬ努力があったことを尾崎の本【*】で知った。大家が書いてくれた作品や挿し絵〔さしえ〕を少年の視点からねばり強く書き直してもらった苦心談なども。
【*尾崎秀樹〔おざき ほっき〕『思い出の少年倶楽部時代』(講談社 平成9年刊)】 当時読み、今も覚えている作家と作品を思い出すと‥
 吉川英治『天兵童子』・佐藤紅緑【*】『英雄行進曲』
・大佛次郎『魔法の杖』・山中峰太郎『亜細亜〔アジア〕の曙』
・高垣眸〔ひとみ〕『怪傑黒頭巾』・江戸川乱歩『少年探偵団』
・海野十三〔うんのじゅうざ〕『浮かぶ飛行島』・南 洋一郎『吼える密林』
・池田宣政(南洋一郎と同一人物)『偉人や英雄伝』など。
 吉川英治は当時,朝日新聞に『宮本武蔵』を連載中で、書斎には次の作品を依頼しようとする記者、編集者であふれていたという(尾崎の本による)。
 川端康成、吉屋信子、西条八十も『少女倶楽部』に執筆していて、当時の大家が子供向に力を込めて書いてくれたことに感謝したい。
 【*佐藤紅緑〔こうろく〕は、詩人 サトウハチローと作家 佐藤愛子のお父さん】
 まさに血湧き肉躍る面白い読み物ばかりだったが、決して軍国主義一辺倒でなく、戦争を謳歌してはいなかった。
 挿し絵もすばらしかった。山口将吉郎、斉藤五百枝〔いおえ〕(男性)
鈴木御水、梁川剛一、樺島勝一、伊勢正義、河目梯二などが常連で、今でも目をつぶると、それぞれの絵が浮かんでくる。
 伊勢正義さんのご子息の正史さん(洋画家)とは油絵を通して顔見知りで、「お父さんの挿し絵は、子供の頃『少年倶楽部』でいつも拝見していました」と話したところ、大変喜んでくれたことがある。
 お堅い読み物の間に、佐々木邦のユーモア小説や、小山勝清の『彦一頓智ばなし』や、『滑稽大学』『滑稽和歌』などの息を抜く頁があった。
 そして漫画も人気絶頂だった。『のらくろ』(田河水泡)、『冒険ダン吉』(島田啓三)は、社会的なブームにもなっていた。
 『滑稽和歌』で、60年も経つ今でも覚えているのがある。
「腕時計 買ってもらったうれしさに 友走らせてタイムとるなり」
「腕時計 買ってもらったうれしさに ころんだ時も何時何分」

『少年倶楽部』は知らず知らずのうちに、正義、友情、努力、勇気、忍耐などの精神を培ってくれ、私の人格形成の大きな糧となった。

のらくろ←のらくろはこんな感じです。
 

●『魔法の杖』
 この連載小説は、尾崎氏の本(前述)によると、ジョン・バツカンの原作で、太田九郎作とある。私はずっと大佛次郎【*】作だと思っていた。 太田九郎とは何者か!?聞いたことのない名前だ。 それはともかく…
 少年が魔法の杖を手に入れ、危機一髪の時、杖を地面に突き立てて、呪文〔じゅもん〕をとなえると、パッと消え、忽ち南洋の海岸に立っている。そこは明るい青空と果てしない海が広がっている平和なソロモン諸島の海岸だった。‥といった具合の冒険小説で、毎号むさぼるように読み、空想にふけった。
 ところが‥わずか数年後、太平洋戦争で日米の激戦地になり、約2万人の日本兵が戦死、または餓死したガダルカナル島こそがそのソロモン諸島の1つだった。
【*大佛次郎〔おさらぎ じろう〕 本名 野尻清彦。既に大人向けの雑誌で『鞍馬天狗』シリーズは人気を博していたが、少年倶楽部の要請で『鞍馬天狗角兵衛獅子』を書いた(昭和2年〜3年連載)。ここで鞍馬天狗を慕う角兵衛獅子の杉作少年を登場させた。以後、映画では必ず杉作少年が出て、天狗と杉作のコンビは欠かせないものになった。戦後、美空ひばりの杉作で再映画化されたが、主題歌が大ヒットした。戦後は『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』などの歴史ものも書いた。 昭和39年、文化勲章を受章した。】
 

●こども図書館
 年上の友達に誘われて、こども図書館へ行ったことがある(たった一度だけ。子供の足では遠かった)。王子駅の北側のガードをくぐった所にあり、本館とは別の古い木造建物だった。狭い階段を上がると図書室があり、窓のすぐ傍らを省線電車(今のJR)が走っていた。ここで高垣眸の『豹〔ジャガー〕の目』を読みふけり、とうとう一冊読み通してしまった。友達は先に帰ってしまい、夕方になり、心細く、親が心配しているだろうな、と気になったものの面白くてやめられなかった。単行本を一日で読み切った忘れられない思い出である。
 この小説は以前(昭和2年新年号〜12月号)少年倶楽部に連載されたものだと、今回、尾崎氏(前述)の本で知った。
 
 
 

(平成10年6月10日)
       

思い出すままに〈3〉







●父のルーツは岡山
 今回はわが家のルーツについて調べたことを記す。父(清次郎)は自分の生まれが岡山だと言ったことがある。しかし岡山県なのか、岡山市なのか、どこで育ったのか言わなかった。いい思い出がなかったからだと思われる。
わが家は係累が少なく、複雑な家族関係でないものの、手掛かりが少ないので、昔聞いた話をつなぎ合わせて推理してみたい。
家系図
 父の生まれは、現在の岡山県倉敷市玉島と推理できる。何故なら、ここに中川家先祖代々の墓がある(あった?)からだ。行ったことはないが、広い墓地で、敷地内に三宅家の墓もある。中川と三宅は親戚と思われるが、関係はわからない。
 昭和10年か12年頃(はっきりしない)、この墓地を父が母に内緒で三宅巳三郎さんに、墓守をしてくれるという条件で200円か300円で譲り、(先方からの申し出だったかも知れないが)そのお金を遣ってしまった。それが母にばれ、怒った母が父と大げんかをしたのを、私は見ている。けんかの理由も、ぐちも母から聞いた。
 当時の200〜300円は、現在の60万円〜90万円位になると思う(物価を3,000倍として【*】)祖先の遺産を黙って売り、道楽に遣われては頭にくるのも無理はない(当時わが家は困っていた)。
 父は商売に身を入れず、『趣味人』といえば聞こえはいいが、色々な道楽に凝っていた。要するに“遊び好き”の人だった(子供の私から言いにくいことだが)。
 父が立派なお座敷で、夏の和服姿で将棋を指している写真があった。お相手は豊島の大地主だった。対等に付き合える身分ではないのに、格好をつけていた。
【*当時のハガキは1枚1銭5厘が現在50円で、3,333倍である。】

  三宅巳三郎さんは時々上京し、わが家へ立ち寄っている。子供の私の頭をなでてくれたことを覚えている。
 父の死後、30年も私は三宅巳三郎さん(のち、祥山と改名)と年賀状のやりとりをしていたが、昭和63年からぷっつり先方から来なくなった。それでもこちらから出していたが、平成4年になって息子さんから、父はなくなったという知らせがあった。4年も経っていた(私の記録に残っているが、息子さんの名前を書き忘れたのは残念)。
 念のため住所を記す(この玉島という地名が手掛かりになる)
  倉敷市玉島中央町1ー12ー10(エ08652ー6ー6453)
 三宅さんを訪ねれば(更にお寺と墓地を)、中川家と三宅家の関係や、祖父母、父、イサノのことがわかると思うのだが。

 それはさておき、父は現在の倉敷市で生まれ、小学校を出るとすぐ、地元か岡山の草履屋へ奉公(小僧)に出されたものと思う(明治43年、日露戦争の始まった年で、父13歳か)
 

●祖父 和三郎のこと
 祖父 和三郎は、位牌によると大正9年10月20日亡くなっている。48歳の若さで胃がんだった。逆算すると明治6年生まれで、清次郎は
26歳の時の子だ。清次郎と名付けたからには、上にもう1人いたのかも
知れない。
 和三郎は私の生まれる6年も前に亡くなっているので、勿論顔を合わせていない。しかし、写真が沢山あったので風貌は記憶に残っている。これらの写真はすべて硬い台紙付で函に入れてあったが、疎開【*】しなかったので戦災で焼けてしまった。惜しいことをした。
【*】疎開〔そかい〕:アメリカの空襲に備えて、田舎の縁故者に子供や、家財を預けること。わが家は間々田(栃木県)に家財を預けた(全くの他人)。

 和三郎は鐘紡に勤めていて(これが岡山工場かどうか、はっきりしないが)のち同社 熊本工場、更に東洋紡 東京工場と移っている(祖母ノブの生前の話)。
 先日、鐘紡本社に電話で問い合わせてみた。すると岡山工場は明治44年から昭和17年まで、熊本工場は明治35年から昭和16年まで操業したという返事だった。
 明治44年というと和三郎は39歳であり、途中入社だったのか、との疑念を持った。
 そこで図書館へ行き、絹川太一著『本邦綿糸紡績史』(全7卷)(昭和17年刊)という、ものものしい本を見つけた。それによると 鐘紡 岡山工場は『岡山紡績所』(明治14年旧岡山藩主らによって設立)を、明治44年、鐘紡が合併したものだとわかった。どうも和三郎は岡山紡績所にいたのを合併によってそのまま鐘紡社員になったのではなかろうか。

 この本によると、明治政府は国策(輸出産業)として綿紡織を奨励し、資金を援助したので、旧藩主らは無職となった武士を救うため、各地で紡績会社を設立した。岡山は綿花の栽培が盛んで、中でも玉島地区は良質の綿作地として有名だった。しかも良港にめぐまれ海上運搬に都合がよかった(のち、鉄道の完成で運搬は奪われたが)。
 それで『玉島紡績所』(明治16年〜27年)、『岡山紡績所』(明治14年〜44年)、『倉敷紡績所』(明治20年〜現在のクラボウ)などが出来た。
 工場の乱立から、全国で技術者の争奪戦が甚だしいものになり、明治
27年政府は引き抜き禁止令を出したりしている。
 

●祖母 ノブのこと
 祖母 ノブの生まれや育ちは全くわからない。小柄でおとなしい人だったと記憶している。息子の行状を見かねて嫁(アキ)の味方になり、世間から本当の母娘と見られる程だった。
 私は学校から帰ると、よく祖母に頼まれて毛抜きを使って、白い逆さまつ毛を抜いてやり喜ばれた。
 位牌によると、昭和10年7月17日亡くなっているが、病気やお葬式のことは覚えていない。
 ノブは熊本時代が嫌だったようだ。アキに筍が伸びてきて畳を持ち上げたとか、こんな大きなトンボが(と両手の人差し指で示し) 蚊帳の中に入ってきたとか、こぼしていたという。ノブは都会育ちだったのかも。
この頃、清次郎は岡山の奉公先に残されていたようだ。イサノはどこに?

 和三郎は、目をかけてくれていた上司に誘われ一緒に東洋紡に移った。ここで北区との縁ができた(現在キリンビール東京工場になっている)。社宅に、清次郎、イサノも引き取ったものと思われる。
 和三郎は学歴はないらしいが(一人息子をデッチ奉公に出すようでは、インテリではない)、東洋紡では課長クラスだったようだ。女工(当時の呼称)が2,000人もいる中で、社員は12〜3人で、その中の1人だった。
 賞与をもらった日の写真があった。口ひげを生やした羽織、袴の立派な男4、5人が、少し間隔を置いて、それぞれが巾着〔きんちゃく〕を手にして野外に立っている。巾着は錦織の立派な布で、中に金貨が入っていたという。金貨と言えば5円か10円で、かなりの額に見える。第一次世界大戦(大正3〜7年1914〜18年)の好況に沸いていた頃だったのかも知れない。
 戦前は上下の待遇格差が極端に大きかった。
 

●母、アキのこと
 母 アキの出身は、はっきりしている。アキの実家へ私は13−14歳の頃
行ったことがあるからだ。富山県中新川郡上市町だった。アキは水上家(祖父母の名前は失念した)の長女として、明治35年、生まれている。弟2人と妹3人(4人かも)がいたが、全員が死んで水上家は絶えた。
 家は通りに面していたものの、商売はしていなかった。裏庭の奥に蔵があった。便所に行くのに、長い廊下を行くので心細かった。祖父は、町の商店街で骨董屋をしているようなことを聞いた気がする。

 母は小学校を卒業していない。5年でやめ上京、東洋紡に入っている(逆算すると大正2年、12歳の時である)。
 当時、5年生と6年生が同じ教室で勉強していて、5年生限りでやめることを親から言われていた母は、6年生の分まで勉強してしまった。先生が6年生に質問しているのを5年生の母がよく答えたという。
 母は勉強家で、老年になっても新聞をよく読んでいた(連載小説も)。
 東洋紡でアキはよく働き、気もきいたので4年位経った頃(大正6〜7年)、組長か何かの役付きに抜擢された。工場で最年少の役付きで(16−17歳)、よくひやかされたり、からかわれたという。
 役付けになって最初の賞与の日、上役から「オイ水上、いくらもらった?」と聞かれ「ハイ!13円です」と元気よく返事した。予想より多かったので喜んでいたのだ。すると上役はケゲンな顔をして、「おかしいな、どれ見せてごらん」と書類を取り上げると「13円じゃないよ、31円じゃないか」と言った。驚いた母は暫しボーゼンとなったという。この話は何度もきかされた。

 余談だが、私が日本フエルトに入社して(昭和22年)王子工場の現場に配属された時所属の山本課長が私を自宅に何度か招んでくれた。ある時の雑談で、定年近い山本課長は「中川君、この家は1回の賞与で建てたんだよ」と言った。これには驚いた。その時の賞与は1,300円だったという。「すると、あとの賞与は?」と聞く私に「みんなの呑んじゃった、アッハッハ」(実際は貸家を持っていた)。
 あとで現場の古参工員にきくと、賞与100円もらう者はいなかったという。それ程上下の格差は大きかった(昭和12ー13年頃の話と思う)。

 和三郎は息子(清次郎)も同じ工場に入れたが、親しくしていた社宅の隣家の息子さんが東京高工(通称蔵前高工、のちの東京工大)に合格したときくや、息子にお前も学校へ行け、と責めた。「今更学校へ行けと言われても…」という話は父から直接きいた。
 和三郎は道楽をしないマジメ人間だったようだ。
 

●叔母、イサノのこと
 和三郎は、働き者で器量の良いアキに目を付け、息子の嫁に選んだようだ(あるいは清次郎が見染めたのかも)。
 大正8年(と推定される)、アキ(18歳)は、高給を捨て清次郎(22歳)と一緒になった。和三郎(舅)と暮らしたのは1年余りだった。

 清次郎に妹イサノがいる(私の叔母)。アキより年下らしい。アキが嫁入りした頃イサノは北区上中里の聖学院女学校(現在もある)に通っていた。当時、女学校へ行く人は珍しく、イサノは袴姿で颯爽と人力車で通っていた。田舎出のアキにその姿は別世界の人のようだった。

 イサノは大阪の堀川籐次郎に嫁ぎ、病弱だったが父より長生きして数年前に亡くなった。中川家と堀川家はどういう関係だったのか知らないが、東京の近衛師団に入隊していた籐次郎は休暇の時、よくわが家へ遊びに来ていたという。
 籐次郎、イサノのご夫婦に私は戦後二度お会いしている(私が奈良と大阪の堀川家を訪ねた)。
 イサノの子供(つまり私のいとこ)の晃、富士子さんとは現在も年賀状のやりとりをしている(2人は別々に上京した時、私の家に寄ったことがある)。
 

●和三郎の死と関東大震災
 和三郎は大正10年(享年48)亡くなったが、胃がんと判ったとき、当時東京で1、2と言われた南胃腸病院(現在もあるようだ)に入院させ個室で最高の手当をしたという。かなり金がかかったと父が自慢めいて話していたが、何、和三郎の貯めた金である。
 和三郎の死後、父は東洋紡を辞め、地元の『堀江味噌工場』へ番頭として就職した(父は字が達者で、ソロバンもうまかった)。堀江家は資産家で質屋などもやっていて名士だ。その主人が庄三さんだったかも知れない
 しかし、間もなくそこも辞め、草履屋をはじめたものと思われる。この推理の根拠は大正12年9月1日の関東大震災だ。その日、新しかった家は倒れなかったが、逃げ遅れたノブを父が連れ出し、裏へ出た時、路地がパッと割れ、溝ができたという(このノブの話を私も何度かきいた)。
 数日後、売れ残っていて2階に山のように積んであった下駄の在庫が忽ち売り切れた。あとから、あとから客がきて勝手に金を置いて品物を持って行ったという(これはアキの話)

 父は当時発明(?)に凝っていて(それで神経衰弱になった)、いくつかの実用新案をとり、その中の1つのサンダル様の下駄を沢山作ったものの、さっぱり売れず困っていた(実用新案の出願料をかなり使っていた)。それが売れたのだから、ついている。
 

●佐野さんのこと
 梶原(堀船町)に佐野さんの店(乾物屋)があった。この店には子供の頃、何度も連れて行かれた。佐野家とわが家は親戚以上の、長く深い付き合いだった(東洋紡時代かららしい)。佐野家に新吾、良吾、東吾の3人の息子さんと三越に勤める娘さんもいた。佐野さんが、父と母の仲人をしてくれ、父母が新吾さんの仲人を、そして新吾さん夫婦が私たちの仲人をしてくれた。新吾さんの時は頼まれ仲人ではなく、父が豊島の『オモイデ写真館』の主人の妹さんを世話した本当の仲人である。
 そして三男の東吾さんは、私の将来を大きく変えてくれた大恩人である。このことは後で書くが、3人ともすでに故人になっている。
 
 
 

(平成10年6月16日)

思い出すままに〈4〉





●少年時代の遊びと映画会
 少年時代の遊びは、メンコ、ベーゴマ、ビー玉、竹トンボ、竹馬(お正月)などで、外で遊ぶことが多かった。メンコは低学年で、竹トンボと竹馬は自分で作った。
 ベーゴマはシートで床〔とこ〕を作り、3〜5人でコマを力一ぱい回す。自分のコマが相手のコマをはじき出せば、そのコマがもらえるゲームだ。勝つために自分のコマを舗装道路の路面や、コンクリート塀にこすって角が鋭くなるように磨く。
 ビー玉は、遠くの相手の玉をめがけて、自分の玉を滑り投げ、当たれば勝ちとなり、もらえる。私はビー玉が得意で、勝った玉が直径30センチ位の樽にいっぱいになった。
 夏の一日、校庭で映画会があった。白い布を張ってスクリーンにし、暗くなるのを待って始まる。一般の人も来ている。娯楽の少ない時なので、絶大な愉しみだった。漫画と、衛生などの教育映画だったが、漫画が始まると、ワアーという大歓声が上がる。しかし、スクリーンが風でふくらみ画面がゆがむのが欠点だった。
 そういえば、わが家に手回しの映写機があった。フィルムは3〜4mの漫画一本だけ。途中から始まり、途中で終わるのだが、友達を呼んで何度も見せた(いつ、どこで買ってもらったものか、全く覚えていない)。
 
 

●夏休み
 夏休みになると、ほとんど毎日荒川の水練場へ通った。荒川放水路と土手の間にあった用水池で、かなり大きい長方形のものだった。この端の方をロープで仕切り、中央にヤグラを立てて監視員が見張っている。浅いところに柱をヨコに組んだバタ足の練習台があった。1時間近く経つと、監視員は全員を池から上げて休ませ、事故がないようにしていた。夏休み中使える定期を買い、これを入口で見せると、日付の所に捺印してくれた。 泳げない者は白帽で、クロールでも平泳ぎでも何でもいいから25m泳げると三寸になり、長さ3寸(約10センチ)の黒線を縫いつける。私は三寸になった。
 ここは古式泳法で、平泳ぎはカエル足ではなく、アオリ足だった。そのくせがついて、私はカエル足がうまくできない。
 池の深い方の底はヘドロで、もぐると足首までずぶっと入り、抜けにくい。水はきれいでなく、今考えると不衛生だった。水道の洗眼器はあったものの、私は目を悪くした。

 プールは学校になく、王子5丁目に民営のがあった。2時間5銭もした。何度か行ったことがあるが、子供用(10m)と大人用(25m)があり、子供用は超満員だった。面白いことに風呂があり褌〔ふんどし〕のまま入る(当時は大人も子供も皆、褌で、パンツをはいている者は殆どいなかった)。冷えた体を温めることができた。

 水練場へ行かない日には釣りに行った(殆ど毎日出歩くので、真っ黒に日焼けした)。
 釣りは“川向こう”へ行く。つまり荒川放水路の向こう側、足立区で、当時は田んぼが多く、小川や用水池があちこちにあった。釣れるのは口ぼそ(ハヤ)で、たまに鮒がかかった。
 餌は細いミミズで釣り道具屋で買う。太いミミズはダメだ。浮きががほんの少し左右に動き出すが、これは魚が餌をなめているのでまだ早い。竿を手にじっと待つと、やがて浮きの動きが大きくなり、ぐっと沈む。その瞬間に竿を上げるのだが、このタイミングが合わないと釣れない。この呼吸がむずかしいが、釣れた時の感触はこたえられない。
 ボーボーというまるでトラック数台が鳴らす警笛のような食用蛙の大合唱が聞こえる。東京でこんな田園風景があったのだ。
 1度母をだましたことがある。全く釣れなかったある日、帰りに釣り道具屋で鮒を買い持ち帰った。母は驚き喜んで近所の人に見せて歩いた。余りのことに白状してしまったが、母のあきれた顔……悪いことをした。

 高学年になってからは、釣りでなく“ビンド” を使った。ガラスでできた筒状のもので、魚が入ると出られなくなる。糠をフライパンで煎り(強烈な香りがする)、茶筒に入れて持っていく。これをビンドの内側に振りつけて、川の中に沈める。暫く経ってからそっと引き上げると、口ぼそが沢山入っていた。沢山とれるので面白くない。

 “かい堀り”もたまにはした。小川を土でせき止め、バケツで水をかい出して魚をとる。水をかい出していると、いつの間にかヒルが脚に吸い付いている。吸いついたばかりのヒルは引っ張ってもなかなかとれない。ゴム紐のように伸びるが口を離さない。血をたらふく吸ったヒルは、腹がふくらんでいてすぐとれる。
 ある時、縦縞模様の平べったい幅が1センチもある大きなヒルが、タテに波うたせてやってきたのを見つけ、ぞっとしたのを覚えている。

 トンボ取りもたまにはした。近くのドック(運河)でやる。ドックは戦後埋められて道路と豊島公園になっている。昔の面影は全くないが、公園の修理工事の時、ドックの石垣が現れ、懐かしかった。
 ドックは深い石垣に囲まれ、お城の壕のようだった。水面まで、干潮の時は3〜4メートルもあった。この水面にトンボが集まってくる。細い竹竿の先にモチを塗って振り回すのだが、危険だった。
 

●遠足
 小学校での遠足を思い出してみた。
  1年 荒川土手(歩いていく。片道2キロ弱)
  2年 西新井大師(同、片道4キロ弱)
  3年 村山・山口貯水池(現在の狭山湖)
  4年 成田(鎌倉だったかも)
  5年 日光
  6年 伊勢神宮・奈良・京都(修学旅行)
 修学旅行は小学校の最後を飾る最大イベントで、このための費用は1年掛かりで貯めた。当時の小学校は月謝も教科書も有料だった。毎月、月謝の袋と、後援会の2種の袋に金を入れて学校へ出すのだが、修学旅行の袋をもう1つ出した。月謝は20銭だったと思う。後援会費で鉛筆や帳面をくれた。色川大吉の本【*】によると『小学国語読本』が7銭、『修身』が2銭、図画帳が2銭だったという。修学旅行費は7円だったと私の友達が覚えていた。
【*】色川大吉『ある昭和史』(中央公論社):筆者は大正14生まれで、私より1歳上だが、小学校は同級だったと思う。私は早生まれなので。

 修学旅行に伊勢神宮参拝が、どの学校にも入っていた。これは「神国日本」「天皇絶対思想」を子供たちに植え付けるためのものだった。戦前の日本は、神武天皇以前を“神代の時代”と称し、古代史の研究を禁止し、津田左右吉博士(早大教授)の『神代史の研究』を発売禁止にした。
 神武天皇(日本書紀によれば約2,600年前だが、600年位サバをよんでいる)以前を神代というのはおかしな話で、神様ばかりで人がいなかったのか。
 この時期の中国は前漢と後漢の境目で、生臭い人間の戦いが繰り返されていたし、秦の始皇帝の兵馬俑は2,200年前に作られている。エジプトのピラミッドに至っては約4,500年も前の建造物だ。『神代』などとは噴飯もので、戦前の日本がまさに“神がかり”的だったということだ。
 それはさておき、修学旅行での思い出がたった1つある。それは京都で「千枚漬け」をお土産に買って帰ったことだった(羊羹や八橋でなく)。
これを両親が“気がきく”とほめてくれたのだ。薄く丸い樽状のものに入っていて、50銭もした。実は千枚漬けがどんなものか知らず、友達につられて買ったのだった。
 

●そろばん
 家で勉強はしなかったが、そろばん塾に約3年間熱心に通った。初級の時は毎日。中・上級では週3回、1日も休まなかった。

 こんなことがあった。ある夏、家族で大森へ海水浴へ行った時だ。塾のことが気になり出し、親に話すと、まだ間に合うからと陽が高いのに急に引き上げて帰った。両親も子供の意向を尊重してくれたのだ。
 お陰で高小(高等小学校)のとき、商工会議所の3級に合格した。試験は易しすぎ、こんなことなら2級を受ければよかった、と思った程だった。
 そろばんに熱中できたのは石井先生と古沢孝君のお陰だ。石井先生は実にえらい教育者で、こういう先生に巡り会えたのは幸運だった。
 

●竹馬〔ちくば〕会珠算塾
 小学5年の頃と思うが、仲良しの同級生古沢孝君に誘われて、竹馬会珠算塾に通い出した。歩いて10分位のところにあった。この塾は石井先生(大恩人であるのに、むずかしいお名前で失念してしまった)おひとりでやっていて、月謝はいらない。いつ入ってもいいし、やめてもいい。申込書はいらないし、名前もきかれない。無論出席はとらない。生徒は600人位いたときいた(これをたったおひとりで教えていた!)。
 教室は2つあり、2軒長屋の片方は畳敷きのままの初心者用。もう片方は土間に机と椅子がある中・上級用だった(家主が無償で提供しているときいた)。

 初級用の部屋は6畳と4畳半の2間続きだが、超満員でとても入りきれず、1坪位の土間から外まであふれている(その数は50人以上か)。冬でも窓が外されていて、窓からのぞいている者もいる。
 その外の道には食べ物の露店が2、3軒並び、まるで縁日のようだ。 門前市をなす、とはこのことだそろばんを口実に小遣いをもらい、買い食いして帰る子もいた。私もよくフライ(1本1銭)をよく食べたが、揚げたてのフライは空き腹にうまかった。
 早く行かないと、中に入れないので30分前には行くが、正座していると足がしびれてくる(人数が多いので、あぐらをかいていられない)。
おまじないにおでこにつばをつける。汚れた指でつばをつけるのだから、おでこが皆丸く汚れている。

 石井先生のお住まいは、教室のすぐ裏手にあり、中間に土俵があった(先生は相撲好き)、勤め先は教室から道を挟んだ斜め前の「松沢運送」だった。先生が仕事をしている姿が窓越しに見られた。
 4時半になると、先生は立ち上がり教室へ向かってくる(会社は先生のために勤務時間を短縮してくれていた)。それを見張っている生徒の合図で一斉に割り算の九九を唱えはじめる。まるでお経のように。裏口から入ってきた先生もそれに合わせる。
“二一天作の五、二進の一進。三一三十の一、三二六十の二、三進の一進。”江戸時代からの日本の九九である。二の算は二つ、三の算は三つ…九の算は九つである。60年経つのに、まだ覚えている。

 先生は冬でも下着1枚で、壁の額には「夏の暑いは昔から、暑いというは我侭気侭〔わがまま、きまま〕」と自筆で書いてある。
 先生は背が低く、小太りだった(40歳台後半だったろうか)。
 九九が終わると、教室はシーンとなる。先生は押入の前に下がっている大ソロバンで「一銭なり、一銭なり、一銭なり……。一ぱいになったら、払って上の玉を下げる」(当時は五つ玉)とはじめる。1年間全く同じことの繰り返しである。割り算、掛け算も毎日同じことの繰り返しだ。生徒は膝の上で自分のソロバンで同じことをする。
 九の算まで終わると、毎日テストがある。受けたい人は先生を囲んで丸い輪を作って座る。先生の出した問題の答えを膝のソロバンで見せる。 先生にハイ!と指をさされれば正解、不正解の者は立って座を外す。最後まで残れば合格で進級する。といっても証書をくれるわけではないが、2銭の菓子券を何枚かくれる。
 だから、いきなり三の算をうけてもいいし、何の算をうけてもいい。

 九の算に合格すると、はじめて名前をきかれ、中級の2ケタ組(隣の教室)に行ける。下から桜・梅・竹・松組とあり、暗算、見取り暗算、見取り算、伝票算が加わってむずかしくなる。進級するごとに合格証書がもらえる(名前だけでなく、文面も先生直筆の立派なものだった)。
 松組を突破するまでは大変だが、突破すると「級外」(10級)にランクされ、漸く自分の名札が掛けられる。長押〔なげし〕の下にぐるっと掛けられていて、その数は300枚位もあった。級外から4級までは白木で、3〜2級は黒塗り、1級は朱塗りの板だった。長い塾の歴史の中で何千人もいた塾生の中で1級は唯1人、武藤キミさんだった。この人はソロバン日本一になり、新聞の切り抜きが額に入れて掲げてあった。年齢も顔も知らないが、私には神様のように思えた。
 

●そ ば

 末席とはいえ、名札が掛けられた時のうれしさ、誇らしさはたとえようもなかった。更に9級、8級と進んだが、どういう事情か突然、竹馬会は解散になってしまった。8級で商工会議所の3級に楽に合格でき、レベルが高かった。

 先生は教科書は使わない。皆を見回しながら、でたらめの問題を出す。皆が一斉に「ゴメーサン!!(御明算)」といえば正解だ。生徒を叱ったことはないが、ジロッとにらむことがあり、怖かった。何しろ明日から来るな、と言われれば大変だから。

 上級になると、月1回位日曜日にも練習があった。それが雨の日や雪の日だったりすると、よく全員にそばをご馳走してくれた。授業が終わり、「今日は、そばがでるぞ!」という年長者の言葉に、どっと喊声〔かんせい〕が上がる。近くの『長寿庵』目指して一斉に走る。1階から2階まで占領してしまう(70〜80人近くいたろうか)。先生は来ない。これは先生のポケットマネーなのか、スポンサーから出たのだろうか。何回かご馳走になったが、寒いときの暖かいそばは実にうまかった(前述の色川大吉の本によると、昭和13年当時のかけそばは5銭だった)。
 ある時、遅い時間に教室の前を通りかかり、上級クラスをのぞいたことがある。なんと5ケタの暗算をやっているのには驚いた。私は2ケタと3ケタの混じりだった。今でも暗算は頭の中のソロバンをはじいてやる。
 そろばんを習熟したお陰で、数学が好きになったし、長い人生でどれ程の得をしたか知れない。石井先生には唯々感謝あるのみだ。
 

●王子隣保館
 竹馬会は解散になってしまったが、3級をとった方がいいと思い、少し遠いが『王子隣保館』へ古沢君と移った。授業料は要るが、公共の施設なので、高くはなかった筈だ(忘れた)。
 入ってすぐ競技会があり、忘れられない出来事があった。割り算の時だった。先生がTハイ!それまでUと言った時、私は5題目の答えが出ていて、つい、それを答案用紙に書いてしまった。それを目ざとく見つけた若い先生は、つかつかと私の所へ来て、物も言わず、いきなり鉛筆で2題の答えにサッと横棒を引いて離れていった。その早業にあっけにとられ、ボー然とした。こちらが悪いというものの2題も消すとは。(この冷たい仕打ちは私が新参者だったせいだろうか)
ところが、4題出来た者は1人もいなかった。4題でも1等だったのだ。何とも後味が悪かった(割り算が早かったのは、二一天作の五の九九のお陰だ)。
 その先生は、読み上げ算を読みながら、指を使わずサックをつけた鉛筆で立ったまま、教室の中間で珠をはじく。私たちが2本の指でやっとなのに、それは神業のようだった。憎らしい先生だったが、これには恐れ入った。
 この先生は近くの八百屋さんで、野菜を大八車で引いている姿を見たことがある。

(平成10年7月14日)


思い出すままに〈5〉





●草履屋から食堂へ
 わが家が草履屋から食堂へ商売替えをしたのは何時だったろうか。
昭和8年か9年頃と思われるが、はっきりしない。その直前だったと思うが、税務署から差し押さえを食ったことがある。学校から帰り、2階に上がると、タンスなどに小さな紙がベタベタ貼られている。触ってはいけないと祖母のノブが言った。他人の借金の連帯保証をしたためだった。
 商売替えした理由は、洋風化により草履の時代ではない、と見切りをつけたのか。差し押さえも原因になったのかも知れないが、食堂とは思い切った発想である。
 店の名前は『さくら食堂』だったと思う。開店直後らしい写真があった。店内を華々しく飾り付け、両親と近所の人がカメラに向かって手を振っていた(写真は残念ながら戦災で焼失)。
 はじめはコックを雇っていたが、そのうちに父が料理を覚え、コックを解雇して自分で料理した。父にはそういう器用さがあった。しかし、残念ながら、コツコツ地道にやれない性格で(神経衰弱の後遺症だと母は言う)、次第に母に任せきりになり、2、3年でつぶれてしまった。世の中が昭和4年(1929年)からの世界大恐慌からまだ完全に抜け出していなかったこともあったろう。
食堂を畳んで、すぐ近くの善光寺の裏手に引っ込んだ。
【注:1932年(昭和7年)の秋頃からようやく恐慌を抜け出した日本資本主義は、33年、34年と景気回復の坂を上り続けた。日本が列国に先んじて景気回復に向かったのは、軍事費の増大と時局匡救費の放出にともなう財政インフレと、金輸出再禁止以後の為替安を利したダンピング輸出に基づくものであった‥‥遠山茂樹他2氏著『昭和史』岩波新書、P99)】
 

●雪の富山へ
 裏手に引き込んだ時期に、母の郷里(富山)の父(私には祖父)の病気が長引き、わが家へ引き取ることになった。祖母はすでに亡く、母の妹たち(3〜4人)は何れも20歳前の若さで結核で死んでいた。
 弟2人の内の上の清は草履屋の時、わが家へ呼んで手伝わせたがやはり結核になり、郷里へ帰って死んでしまった。下の弟の保だけが、唯1人生き残っていたが、独身で、東京の建築現場で働いていて住所不定だった。
 そんな事情から母が引き取ることになったと思う。
 清の死について母は強く責任を感じていたようで、時々「清はいい子だった」と私に悔んでいた。
【注:結核が遺伝によるものでなく、〈結核菌〉による伝染病であることは知られていた。大正2年財団法人 結核予防協会が発足し(私もお世話になったことがある)、大正8年『結核予防法』が公布された。しかし、安静、清潔、栄養、大気など自然回復力による外は効果的な治療法がなく、社会病(国民病)と言われるほどに蔓延し、その勢いは昭和20年前後まで衰えることがなかった。明治以降今日まで1,000万人以上の結核死亡者を記録している。
 結核のもたらした悲劇は、徳富蘆花の『不如帰』〔ほととぎす〕(明治31年)が有名だが、自身も結核で死んだ石川啄木は『悲しき頑具』(明治45年)で、
《呼吸〔いき〕すれば 胸の中にて鳴る音あり 凩〔こがらし〕よりも さびしきその音!》《今日もまた 胸に痛みあり 死ぬならば ふるさとに行きて 死なむと思う》
と詠っている。福田真人:『結核の文化史』(名古屋大学 1995刊)より】

 正月休みか、3月の春休みか覚えていないが、一家4人で出発した。
北陸線の滑川〔なめりかわ〕で降り、地鉄(富山地方鉄道)に乗り換えて、上市駅まで行った(多分夜行だったろう)。上市は北アルプス剱岳〔つるぎだけ〕の登山口でもあるが、この時雪が2〜3メートルも積もっていた。
 母の実家は町外れにあったが、雪に埋まっていて2階屋が平屋のようになっていた。
 雪に埋まった薄暗い1階に病人(祖父)は寝ていた。光が射さず、(晴天の日は少ないが)風も入らない部屋で、結核菌がはびこるのもうなずけた。
 私と庄三は金ボタンが沢山付いたオーバー(当時の東京では、ごく普通の格好)を着ていたが、近所の子供から「ヤァ、ジンタ(巡査)さんがきた!」とはやし立てられた。
すぐ近くに上市川の広い河原があり、その土手で竹のスキーを片足につけて遊んだ。
 何日かいて病人を列車で東京まで運んだ。当時の客車は3等車(窓の下に赤い横線が引いてある)と2等車(青い線)があったが、その境目に半分が3等車、半分が2等車という車輌があった。仕切はなく、2等席に病人を、私たちは3等席に乗って、看病しながら上野まで運んだ。
 祖父は、東京に何度かきたことがあるという。母が国立博物館へ案内したところ、仏像や、鎧、刀などの前で、ウーンとうなったまま動かなかったという(いかにも骨董屋らしい)。
しかし、豊島の裏長屋についてから、1ヶ月位で亡くなった。葬式は父の顔で盛大(?)に行われたのを覚えている。
 

●飲み屋を開く
 祖父の死から間もなく、今度は現在の豊島3丁目バス停前で一杯飲み屋を始めた(ここは現在『らーめん彌生亭』になっている)。
 母が掛けていた簡易保険が入り、資本にしたようだ。間口が3間位(約6メートル)もあり、分厚いカウンターがL字型になっていた。景気が良くなり、日産化学や近くの町工場の工員さんで結構はやった(私は、この商売がはずかしく、学校に出す家の職業欄には『飲食業』と書いた)。
 

●再び食堂に
 ところが、この店が王子〜西新井間の新しい道路にわずかに引っかかってしまった。家屋が引き下げられることになり、充分な補償金が出たらしい。
 店は少し狭くなったが、四つ角で場所が良くなり、食堂に改装した。店名を『亀屋食堂』とした。父が親しくしていた鶴屋食堂に呼応したものだった。

 昭和12年7月にはじまった日中戦争(はじめは北支事変、のち支那事変と呼んだ)は、13年に中支に拡大、前述の『昭和史』(遠山茂樹)にあったように、戦時景気が出てきた時だった。怠け者の父だったが、ここでもついていた。
 道路は形が出来、砂利が敷かれたが、ドック(運河)に橋が架からず、舗装もされず、戦後もずっと後まで放っておかれた。ここで近所の工員さんとよくキャッチボールをした。
 

●日記を書き始める
 小学6年のお正月(昭和13年)保さん(母の弟で私には叔父さんだが、母がやっさん、と呼ぶので私たちもやっさんと呼んでいた)が来て、浅草へ連れて行ってくれた。その帰りに何か買ってやると言われ、本屋で小型の『当用日記』(博文館)(50銭)を買ってもらった。この『当用日記』を鉛筆で一行も余さず毎日書いた。これが私の日記のつけ始めで、以来今日まで60年間、1日も休まず書いている(戦争中の空襲の中でも、戦後就職した後の出張先でも、海外旅行先でも)。
 翌年から中型の当用日記になり、工業学校では友達にならって『朝日日記』(朝日新聞社)にした。
 戦争末期には、日記の販売も中止になり、藁半紙(下級紙)を自分で綴じたノートに書いた。戦況を報じる新聞をスクラップして貼り付けたりした(これらが残っていれば貴重品だが、空襲で焼失した)。
 戦後は日記帳は買わず、コクヨの大学ノートにしている。この方が便利だ。1日5〜6行でもいいし、2頁使ってもいい。

日記を書く効用は……
@今日一日の出来事を思い返して反省する。
A書くことが億劫でなくなり、文章もうまくなる。字引を引くので漢字 を覚える。
B生きてきた記録が残る(誰も読んでくれないかも知れないが)
……などだが、あまり四角張らず気楽にはじめるといい。
 

●保さんのこと
 この際、日記の恩人でもある保〔やす〕さんについて書いておく。保さんは時々ふらっとわが家へ現れ、泊まっていくこともあった。無口だが、私たち兄弟を可愛がってくれた。
 建築現場で働く鳶(とび)職をしていたが、戦争中海軍に応召され、海防鑑に乗っていた。
 ある時台湾から大きな西瓜のような形のものを送ってきた。開けてみるとそれは砂糖だった。当時砂糖は貴重品だったので家中で大喜びした。
 その海防鑑(駆逐艦より小さい)はフィリピン沖で撃沈され、2日間漂流した末救われた(この時の話をよく聞いた)
 その後、九州の海軍病院に転送され療養している時に終戦となり復員した。
 再び鳶職として働いていたが、高い足場から落ちて怪我をし、結局それが原因で亡くなった。その臨終に母と私が立ち会った。私が「保さん!!保さん!!」と耳元で呼ぶと、声が届いたのか、保さんの目に涙がうっすら浮かんだ。
 結核からは免れたが、たった1人生まれた男の子にも赤ん坊の時死なれ、幸薄い一生だった。これで水上家は断絶した。
 

●哀しき中古自転車
 小学校の頃、自転車は貴重品だった。
 【注1】昭和10年頃、1ヶ月20円働いても自転車は80円もした。
    《遠藤一夫:『おやじの昭和』(ダイヤモンド社)》
 【注2】自転車を持っている人には税金がかかった。自転車税が廃止されたのは昭和     33年である。《『昭和2万日の全記録』(講談社)》
 しかし、自転車に乗ることが子供の間で流行した。皆、貸し自転車を利用したが、子供用はないのでTツッコミUという斜め乗り(三角乗り)をした。サドルに座っては足が届かないからだが、かえってバランスをとるのがむずかしかった。
 何とか乗れるようになると、両親に自転車を買ってくれとねだった。 しつこくねだったものだから、とうとう子供用の中古自転車を買ってくれた。5円だったが、この金は母の着物か指輪を質入れしたものだった(両親がヒソヒソ話をしているのを聞いてしまった)。
 得意満面で、家の前の道路で友達の輪の中でこの自転車を漕ぎ始めたところ、突然ハンドルステムがフレームの継ぎ目からぽっきり折れてしまった。道路に放り出された私の目の前に小さなベアリングの粒が一面に飛び散っていた。羨望の目で見ていた子供らからドッという笑いが起きた。それは嘲笑のようで呆然とたたずむ私。実に情けなかった。
 ペンキで厚塗りしてあったが、この自転車は中古といえる代物でなく、古古もいいところの代物だったのだ。親にしつこくねだったバチが当たったのだと思った。
 

●小学校卒業
 家では勉強しなかったが、学校では先生の話をよくきき、通信簿【*】はいつも全甲か、乙一つだった(乙は体操)。体操は苦手で運動会は嫌いだった。といっても跳馬台や、鉄棒の逆上がりなどは人並みに出来た。
とにかく走るのが遅かった。
【*:当時の成績は、甲乙丙丁の4段階でつけられた。】
 ずっと『優等賞』(3人)をもらっていたが、6年ではその下の『勤勉賞』(やはり3人)だった。これは中学に進む者を優先させたからで、先生からそのような弁解じみた話を聞いた。しかし、私は別に何とも思わなかった。私も両親も中学へ行く気は全くなかったからだ。
 クラスの人数は62〜3人で、朝鮮人(当時の呼称)が2〜3人いたが、いじめたり、差別するようなことはなかった。中学へ進む者は3〜4人しかいなかったが、就職する者もごく少数で、殆どが高小(高等小学校ー現在の中学)へ進んだ(高小は義務教育ではない)。
 
 
 

(平成10年8月6日)



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