2010年11月24日11時21分
大延坪島から避難してきたお年寄りら=24日午前1時39分、韓国・仁川港、越田省吾撮影
韓国・延坪島で23日、北朝鮮による砲撃を受けて島内の避難所に身を寄せた住民たち=AP
【ソウル=箱田哲也、仁川(韓国西部)=金順姫】「ほこりだらけで横になることもできない。電気も通っておらず、ろうそくのあかりだけが頼りだ」。23日に北朝鮮側からの急襲を受けた大延坪島(テヨンピョンド)の住民らは、防空壕(ごう)などで不安な一夜を過ごした。仁川港には、避難する島民らの船が相次いで到着した。
同島を管轄する仁川市の統合防衛総合状況室や国防省によると、大延坪島と近くの小延坪島には合わせて1300〜1400人の住民が残されているとみられ、砲撃を受けた後、11カ所の防空壕などにいっせいに避難した。一部は夜になって自宅に戻ったが、高齢者ら約760人は避難施設で夜を明かしたという。
現地からの報道では、コンクリート構造の避難施設には電気もなく、住民らはプラスチックの板を敷いて、分厚いジャンパーを着て座ったまま夜明けを待った。避難施設にいる住民の一人は「いつまでここにいろ、という指示もなく、住民同士でおろおろしている。だれか責任をもって指示してくれる人がいればいいのに」と話した。
市や赤十字当局が23日夜からミネラルウオーターやカップラーメンを配り始めているが、十分にはいきわたっていないという。
島は軍の統制下にあるため具体的な住民の状況がつかめないとして、仁川市の宋永吉市長が23日夜、現場に急行。現場で避難民の支援や被害状況の調査にあたっている。
■「続けざまに爆弾、戦争かと」
仁川港には24日午前1時半ごろ、大延坪島からの避難民らを乗せた2隻の船が相次いで到着した。多くの島民らは疲れた表情で、足早に港を去っていった。1隻目で約35人、2隻目で十数人が避難してきたという。
妻と共に船で島を離れた男性は「たくさんの爆弾が落ちてきた。山も村も完全に火の海になった」と砲撃が始まった時の衝撃を語った。さらに「向こう(北朝鮮)は準備をしてから攻撃してきた。こちら(韓国)は遅かった」と話した。別の男性は「続けざまに爆弾が落ちてきて、戦争が起きたのかと思った」。
23日午後9時ごろ船で仁川港に着いたという女性(49)は電話取材に対し、「(砲撃開始当時は)村から少し離れた場所にいた。村のほうで急に黒い煙が上がり、村のあちこちに爆弾が落ちて火の海になった」と語った。
仁川港には23日から韓国のテレビ局の中継車がとまり、港の様子を断続的にリポートする姿が見られた。24日朝も岸壁やターミナルにはカメラマンや記者ら数十人が陣取り、大延坪島からの船を待ちかまえた。ターミナルの電光掲示板には、この日午後0時半の大延坪島行きは「欠航」と表示されていた。
■休暇ずれ込み、犠牲に
今回の北朝鮮の砲撃で、韓国海兵隊の2人の若い兵士が砲弾の破片を受けて命を落とした。3月の哨戒艦沈没事件でも犠牲者の大半が20代以下だった。若い命の相次ぐ受難に、韓国国内は重い空気に包まれている。
今回の砲撃で亡くなったのは、ソ・ジョンウさん(22)とムン・グァンウクさん(20)。
「明日の天気は良くないというが、船が出ることを祈る」。ソさんは砲撃を受ける前日の22日、ブログにこう記していた。現地報道によるとソさんは除隊前の2週間の長期休暇をとれたが、G20ソウルサミットや天候のため、なかなか休めなかった。23日、やっと休暇に入ろうと本土行きの船に乗り込む時に、北朝鮮の砲撃が始まった。ソさんは「北の奇襲」と判断し、部隊に戻ったところで帰らぬ人となった。
ムンさんは8月、大学を休学して入隊したばかりだった。ふだんから「海兵隊こそ男の象徴だ」と口癖のように話していた。3月の哨戒艦沈没事件では46人もの犠牲者が出たため、家族らは現場海域を守る海兵隊への入隊を思いとどまるよう説得した。ムンさんの妹は「兄は、むしろ海兵隊が誇らしいと、初心を貫き通した」と語った。