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[24299] いそしめ!信雄くん!(戦国時代もの・習作)
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/21 07:41
ペーパーマウンテンと申します。こちらの別の版で連載中なのですが、その作品がどうにも煮詰まってしまいました。そこで気分転換に以前ねたで書き始めたやつをふと書くと、妙に筆が進んでしましまして。現在投稿中のものを完結させるのが先だとは思うのですが、どうにも衝動が抑えられなくなってしまいました。あちらを優先するということで、こちらの更新は衝動的になるかと思います。

出来れば軽いのりで、テンポよく、20話程度で終わらせることが出来たらなと考えています。生暖かい、厳しい目で見ていただけると幸いです。よろしくご指導のほどお願いいたします。

ペーパーマウンテン



[24299] プロローグ
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/16 07:51
天正10年(ユリウス暦1582年)6月2日。日本の首都で軍事クーデターが発生した。羽柴筑前守秀吉の毛利攻め加勢のために丹波亀山城を発した老将明智(惟任)日向守光秀率いる1万3千の軍勢は、突如進路を変更。桂川を越えて京へと向かった。世に名高き『本能寺の変』である。水色桔梗の旗指物との知らせに、前の右大臣織田信長が「是非もなし」と呟いたかどうかはわからない。ただ、如何にもそんなことを言いそうな人物だったのは確かだ。本能寺は紅蓮の業火に包まれ、遺骸は見つからなかったという。妙覚寺に宿泊していた岐阜中将こと嫡子織田信忠は京都所司代村井長門守貞勝一族や、弟勝長らわずかな手勢とともに二条御所に篭ったが、すぐに父の後を追うことになる。水色桔梗の旗指物から逃れることが出来たのは、織田源五長益(信長弟)、水野惣兵衛忠重(三河刈谷城主)、そして赤子を抱いた前田玄以らわずかな人々だけであった。

織田政権の近畿管領職とでもいうべき老人の謀反の真意は定かではない。とにかくこのクーデターによって織田政権の首脳部は事実上崩壊したのは確かである。この頃、織田家の家督は岐阜城主織田信忠が相続していた。実権は未だ父の手にあったとはいえ、この若者が時期後継者であったことはまちがいない。チェザーレ・ボルジアが「私はあらゆることに備えをしてきたつもりだったが、まさか父(教皇アレクサンデル6世)が生死の境をさまよっている時に、自分も同じように死の床にあるのは予想外だった」と語ったように、トップがともにいなくなってしまったのだ。

ここで明智光秀がおかれた立場を考えてみよう。織田帝国の支配者と後継者は去った。残されたのは4つの方面軍と帝国の同盟者、そして京を抑えた謀反人である自分だ。織田家を簒奪する立場である自分は、否が応でもその5つとの戦いは避けられない。

4つの方面軍とはすなわち

備中高松城において毛利の大軍勢とにらみ合う羽柴筑前守秀吉(中国地方、山陽・山陰地方担当)
越中魚津城を囲み、信濃海津城主の森武蔵守長可と共に越後に攻め入らんとする柴田修理亮勝家(北陸地方担当)
関東管領として上野厩橋城で北条家と緊張関係にあった滝川左近将監一益(関東)
そして織田三七信孝を総大将とし、丹羽長秀(近江佐和山城主)が副将として補佐汁四国の「鳥なき里の蝙蝠」を討伐するために堺で集結中であった四国遠征軍

であり、同盟国とは堺でわずかの家臣と共に遊覧中であった三河・遠江・駿河3国の太守徳川家康である。この太守に対して明智光秀がいかなる対応を取ったかはよくわからない。突発的なことで家康一行への対応まで頭が回らなかったのか、手勢が少数であるためいつでも討ち取れると考えたのか。とにかく家康一行は、伊賀にルーツを持つ家臣服部半蔵正成の道案内と、茶屋四郎次郎清延の金子の力によって、甲賀から伊賀の山を越え(神君伊賀越え)何とか三河岡崎へと帰還することに成功した。

話を戻そう。普通に考えれば老人-明智光秀にはしばらく時間的猶予が存在した。四国討伐軍を除く3つの方面軍は前面の敵との戦いに専念せざるを得ないからである。そして四国方面軍は尾張や伊勢の兵を中心に集められた寄せ集めの軍であり、クーデターを知れば離散するのは目に見えていた。信長という絶対的なカリスマあっての織田家。その成長と共にあった光秀はそのことをよく理解していた。比較的まとまった軍勢と領地を持つ方面軍司令官の羽柴や柴田が軍を起こそうとしても、それまで押されっぱなしだった上杉・毛利・北条が黙って見過ごすはずがない。うまくいけば自滅してくれる-光秀は四国の長宗我部氏を加えた4家に使者を出し、それぞれ方面軍を挟み撃ちにすることを考えた。その中で毛利家に出した使者が誤って羽柴の手勢に捕らえられ「光秀謀反」を知ったのは巷間よく知られたところであるが、神ならぬ老人がそれを知るはずがない。

しかし老人は心中穏やかでいられなかったに違いない。いくら強弁したところで謀反人は謀反人。旧織田家家臣団のいずれかが「仇討ち」を掲げて京へと上ってくるだろう。大義名分なき権力者は、いずれ没落するのはこれまでの歴史が証明している。ならば自分はどうすればいいか。異様な興奮冷めやらぬ京の地で、かつての敵国たる上杉家や毛利家、そして旧織田家家臣団-縁戚の細川家・筒井家への書状の文案を書き連ねていた老人にとって、それは唯一の希望とも言えるものだった。

-安土-

琵琶湖を見下ろす安土山に築かれたかつての独裁者の居城。織田帝国の行政の中心であったそこには、広大な帝国領内から集められた莫大な資産-遺産が蓄えられていることは、政権の重臣であった光秀自身も承知していた。

-安土の金さえ手に入れば

老人も戦国の底辺から這い上がってきた人物。金のもたらす魅力と魔力は身にしみていた。安土にまともな留守居役がいないことも、老人の皮算用を楽なものにした。禁裏や寺社、そして京の有力な町衆に金を巻くことによって、当座の人気(最も早くやってくるであろう四国討伐軍を打ち破るまでの)-世論の支持を集めようと考えたのだ。安土の占領は道に落ちた金を拾うような話。ばら撒いたところで自分の懐が痛むわけではない。それに少しの金を惜しんで、結果的にすべてを失っては元も子もない。老いたりとはいえ、金柑頭の頭脳の冴え-物事に対する怜悧な考え方は健在であった。

だがここで予想外の事態が発生する。京の玄関口である瀬田川にかかる唐橋が、瀬田城主の山岡景隆・景佐兄弟によって焼き落とされたことにより進軍が遅れた明智左馬助率いる明智軍の接収部隊は、6月5日の明け方、安土の地で信じられないものを目にした。左馬助の急使から知らせを受けた光秀は、普段の怜悧な物腰からは想像できないほど取り乱し、何度も使者に尋ね返したという。

「・・・馬鹿な、そんなわけがあろうはずない・・・左馬助ともあろうものが、何かの間違いにちがいない」

脇息にもたれながら、蒼白になった顔を開いた左手で抑える光秀に、使者は淡々と同じ報告を繰り返した。


「-安土には北畠宰相以下4000余りの軍勢が立て籠っております。日向守様、ご指示を」



-これよりちょうど三日前-


南伊勢の松ヶ島城は天正8年(1580)に築かれたばかりの比較的新しい城である。それまで伊勢における織田家の支配拠点は、北畠親房によって築かれたという度会郡の田丸城であったが失火で消失。伊勢湾に面し、伊勢神宮の参道古道に面した交通の要所である松ヶ島に新たに城を築いたのだ。

未だ新しい床を踏みしめながら、尾張星崎城主の岡田長門守重善は主の急の呼び出しに首をかしげていた。城勤めの若侍はこの老人の姿を見るとあわてて道を譲り、畏敬の念のこもった視線を向けた。無理もない。この老人岡田長門守は小豆坂の戦い(1542)における「小豆坂の7本槍」の最後の生き残りであり、先代信秀時代から仕え続けている、いわば織田家の生き字引である。小豆坂の戦い当時、彼は38歳。後世名を成す「賤ヶ岳の七本槍」がすべて20代であることを考えると、その勇猛さはおのずと想像がつく。何より「あの」信長が不詳の息子の家老兼お目付け役としたことからも、その評価の高さが知れるというものだ。

「いったい何事でしょうな、あの馬鹿殿は」
「兄上、あれでも仮にも主ですぞ。言葉を慎まれたほうが」
「馬鹿を馬鹿といって何が悪い。実際馬鹿ではないか」

ぶつぶつとぐう垂れながら長門守の後をゆくのは、彼の息子の重孝と善同(よしあつ)。善同は一見兄の重孝をたしなめているようだが、その口ぶりからは主に対する忠誠は余り感じられない。未だ戦国の気質が色濃く残る中で育ってきた息子達には、有能とは言いがたい主に仕えるということがよほど気に入らないらしい。しかしここは城内。主への讒言は命取りになりかねないと長門守が息子をたしなめようとした時、角を曲がってきた人物とちょうど視線が合った。

「これは長門守様」
「玄蕃允殿」

若いながら妙に落ち着いた物腰の津川玄蕃允義冬は、長門守の姿を見ると軽く会釈をした。旧尾張守護家斯波家出身の彼は、もともとその血筋ゆえ織田家に召抱えられた。丹羽家を初めとした旧守護家出身の家臣を抱える織田家にとって、旧守護家の血筋を取り組むことは重要な政治的価値があったからだ。しかし彼は文武共に期待以上の才能を示し、信長を喜ばせた。また妻が北畠家出身ということもあり、義兄にあたるこの城の主を支えるために、岡田長門守と同じく家老として送り込まれたという経歴の持ち主である。長門守と並んで津川がそれだけ高い評価を受けていたということだが、同時にそれはこの二人をつけないとやっていけないと、この城の主の器量が不安がられていたということでもある(実際、彼には「前科」があった)。

「長門守様も御本所様より呼び出しを?」
「左様。玄蕃允殿は何かご存知か?」
「いや、ただ使者がすぐに来るようにと繰り返すばかりでして」

津川は困惑気に答えた。岡田長門守家が織田家譜代の家臣とすれば、津川家は親族衆。身内の悪口をその前で言うほど重孝と善同も馬鹿ではない。その減らず口を閉じて頭を下げた。

「上様から四国攻めへの加勢を命じられたのでしょうか?」
「ないともいえないが、判断の材料が少なすぎる。まさか気まぐれにわれらを呼び出されたわけではないのだろうが-」
「おお、長門守様!玄蕃允様も!」

津川の疑問に当たり障りのない答えを返した長門守は、突如挟まれたそのやけに明るい声に顔をしかめた。重孝と善同は無論のこと、滅多に感情を表さないとされる玄蕃允もあるひとつの共通した感情をその顔に浮かべた。すなわちそれは-嫌悪感である。

「ご足労をおかけしました。御本所様が広間でお待ちでございます。ささ、こちらへ」
「年寄りをあせらすでない勘兵衛」
「何をおっしゃいますか、小豆坂の七本槍たる長門守様ともあろうお方が」

歯の浮くようなお世辞を平然と吐くこの若者。名前を土方勘兵衛といい、御本所様の覚えめでたい近臣の一人である。単なる宮廷人にはとどまらない度胸のよさと口八丁手八丁の実務官僚の顔を持ち合わせるこの若者は急速に場内でその政治的地位を高めつつある。しかし長門守はこの若者のなんともいえない陰湿さが肌に合わなかった。本人も自身のそれは自覚しているのか、仰々しいほどに明るく振舞っている。それがますます気に入らない。

「ささ、とにかく広間へ」
「勘兵衛。この急な呼び出しについてそなた何か知らんか」
「いえ、それは・・・」

勘兵衛は珍しく語尾を濁す。その表情には困惑ともなんともつかぬ奇妙な色が浮かんでいることを、長門守は見逃さなかった。

「御本所様におかれましては、今朝方しばらく・・・その、混乱されたらしく。なにやらよくわからないことを呟かれまして。お会いになられれば『津川はまだか!岡田はまだか!』・・・ああいった具合でございまして」

懐から布を出して額の汗をぬぐう勘兵衛。よく見るとその表情はどこかうんざりした様子にも見えた。

そして主-御本所様と面会した4人は、おそらく始めて、あのいけ好かない勘兵衛に同情の念を覚えた。


-これよりおよそ半日前-


とりあえず私は誰かということを語る前に、言っておきたいことがある。


い・・・いや・・・ネットとかで、そういうSSは、目が腐るほど読んだことはあるけど・・・実際に経験すると、まったく理解を超えていたぜ・・・・

あ・・・ありのまま、今、この身に起こっている事を話すぜ!?

「俺は、賃貸住宅の自分の部屋の布団に入って、いつものように豚の様ないびきをかいて寝たんだ。そして起きたら、戦国時代だった」

な、何を言っているのか わからねーと思うが 

おれも 何がなんだか さっぱりわからんちんだぜ

頭がどうにかなりそうだ!

催眠術だとか、手の込んだ寝起きドッキリだとか、そんなチャチなもんじゃあ 断じてねぇ

もっと恐ろしいものの片鱗を、人生の不条理を味わっているぜ・・・


とにかく朝起きたら時代劇の世界だったんだ。テンプレにならないほうがおかしいんだよ。わめき散らし、やってきた妙に愛想のいい男を周囲を質問攻めにしたところによると、どうやら「俺」はこの城の城主らしい。鏡を持ってこさせると、そこには瓜実顔の、いかにも神経質そうな男の顔があった。うーん、どっかで見たことあるような・・・どこだったっけ?

そんな疑問を棚上げして(思考の棚上げは彼の十八番である)、俺は殿様気分を満喫した。俺がひとたび出歩けば、モーセのように人が割れ、小姓たちがカルガモの子供のように付いてくる。神戸電子専門学校のCMみたいだ。今時どんな高級クラブに言ってもこんな接待はしてもらえないぞ。うーん、いいな殿様。

といっても、いつまでも現実逃避していても仕方ない。とりあえず俺が今誰なのかを確認しなくては(冒頭の愛想のいいおっさんは妙に疲れた顔をして下がっていっちゃったし)とりあえずひょこひょこ付いてくる侍従の一人に、出来るだけ自然な感じで、さりげなく、それでいて城主の威厳を保ちながら尋ねてみよう。

「えー、ごふん。えー、今年は、せいれ・・・ではなく、元号は何だったかね?」

・・・うん。認めよう。俺こそが、誰もが認める大根役者だ。

突然「今何年?」と聞かれて、違和感を覚えないほうが変だ。聞かれた小姓たちは、顔を見合わせて(何言ってんだこいつ)と目で会話している。おい、俺は殿様だぞ。せめて上司の陰口は陰でやれ、影で。

「天正10年でございますが」

・・・天正?えーと、確か、陰謀大好きな最後の室町将軍が追放されたのが、天正元年だから、1573で・・・あー、

天正2年-1574
天正3年-1575
天正4年-1576

(中略)

天正9年-1581

だから、天正10年は、1582年か。ふーん


・・・あれ?


おお!本能寺の変があった年じゃん!キンカン頭がぷっつんして、本能寺でばっこーんした、日本史の大事件!

お~、こりゃなかなかおもろい時代だな。うまいこと立ち回れば、大名になれるかも・・・うっしっし。一国一城の主、悪くないね。男の憧れ、ミニ大奥で「殿、お止めください」「よいではないか、よいではないか」「あ~れ~」ゴッコが出来るかも・・・

うーん。ビバ戦国。ビバ一夫多妻。

ニヤニヤしている俺を、ますます胡散臭そうに見つめる小姓達。「馬鹿だと思っていたが、ここまでとは」「しッ聞こえるぞ!」というヒソヒソ話。はい、聞こえてます。小市民だから、何も言い返さないけど。部下の悪口で、いちいち切れてたら、それこそ鼎の軽重が問われるってもんだぜ。小心者だから怖くて言い返さないわけじゃないんだからね!

それにしても、この「俺」って、評判よくないみたいだね(本人の前で堂々と馬鹿って言うくらいだし)まぁ、心底嫌われてるわけじゃないみたいだけど。ほら、あれだよ。志村○んの馬鹿殿っぽい、愛される馬鹿?こっちに来てまだ初日だけど、向けられる視線や、家臣の態度からはそんな気配がする。

「で、今日は何月何日だ?」
「は、はぁ・・・6月2日で「ニャンだとおおおおおお!!!!!!」

小姓たちがひっくり返った。おお、見事な受身。褒めてつかわす・・・とか言ってる場合じゃねえ!

今日じゃん!今日じゃん!うおおお!!何たることだサンタルチア!!これで「信長にチクッて、褒めてもらおう作戦」は駄目になった!ちくしょー・・・こうなりゃサル・・・ハゲネズミだっけ?まぁいいや。ともかく、「秀吉に味方して、関が原で東軍に乗り換え大作戦」に変更だ!

ん?そうなると問題なのは、俺が誰であり、ここがどこかだな。ここはどこの城なんだろう。畿内だったら、やべえよな。すぐに旗幟を鮮明にしたら、間違いなく水色桔梗の旗指物に囲まれてフルボッコだし。もし畿内・・・河内・摂津・和泉だったら無論のこと、近江や若狭、大和あたりなら、大作家のご先祖に習って、日和見しよう。腹痛いとかいって・・・

俺が高度にしてアグレッシブな処世術ソロバンを素早く弾いていると、小姓達(ていうか、ひそひそ話はもっと小さい声でやれ)が俺の名前を会話の中で使ったのが聞こえた(そういや、肝心要の名前は確認してなかった)

「御本所様は、どうされたのだ?」
「さあね・・・まぁ三介殿だからのう」
「名門北畠も、お先真っ暗じゃ」


・・・・はい?


「・・・御本所さまって、俺のこと?」
「・・・はい」

こいつほんまに大丈夫か?という視線が盛大に向けられるが、俺はそれどころじゃなかった。頭の中で赤いサイレンがファンファン鳴り、盛大にエマージェンシーコールが鳴り響く。

「・・・ここ、伊勢の松ヶ島城?」
「・・・勿論です」

最終防衛ライン突破!

「・・・俺の親父って」
「先の右府さまですが・・・」

先の右府・・・前の右大臣、だよね。この時代に、そう呼ばれるのはただ一人

第六天魔王-織田信長

その息子で、三介と呼ばれて、おまけに北畠姓。ここは、伊勢の松ヶ島城


オーケー、おちつこう

しかし、頭の中では、どんどん嫌なキーワードが思い浮かんでくる

織田 北畠 伊賀侵攻 三家老惨殺 小牧長久手 単独講和 改易 能だけがとりえの、ゲームや小説なら、無能の代名詞のように扱われる、織田信長の息子 

ばらばらのピースをかけ集め、一つの・・・これだけは、絶対嫌な結論にたどりつく


「ぎゃああああああ!!!!!!よりにもよって、信雄かあああああああああ!!!」


「ご、御本所様がご乱心じゃー!!!」



時に、天正10年(1582)6月2日。彼-「北畠信意」(きたばたけ・のぶおき)が、本能寺と二条御所襲撃は6月2日の早朝であり、すでに父や兄が亡くなっていることに気がつくのには、もう少し時間がかかる。


いそしめ!信雄くん!


始まる・・・かもしれない。



[24299] 第1話「信意は走った」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/18 22:36
羽柴筑前守秀吉(後の豊臣秀吉)の中国大返しと並んで、本能寺の変における最大の疑問は、北畠宰相こと織田信雄(当時は北畠信意と呼ばれていたが便宜上そう呼ぶ)の安土入城である。諸説によると彼は6月2日早朝の京の異変を、昼頃までには正確に把握していたという。信雄の家老津川義冬が織田信包(伊勢上野城主)に送った書状に寄れば、本能寺の変に関する情報と明智勢の動向は、全て信雄が直々に召抱えた忍びからの情報に拠っていたとある。

ここに疑問が残る。ご存知のように織田信雄といえば「三介殿のなさることよ」と長く嘲笑を受ける原因となった第1次天正伊賀の乱(1579)、そして伊賀の土豪勢力を根絶やしにした第2次天正伊賀の乱(1581)の中心人物である。織田信長が忍びを嫌っていたという俗説はさておくとしても、天下統一を前にして伊賀や甲賀を初めとした土着の土豪勢力は、統一政権にとって目障りな存在となっていたのだ。

話を元に戻そう。以前から敵対していた甲賀と並び伊賀を殲滅したことによって、織田家が忍びを召抱えることが難しくなったのは確かだ。その信雄が忍びを抱えていた-俗説をそのままここで語るつもりはない。しかしこれに違和感を覚えるのは私だけであろうか?

ここで比較のために堺にいた徳川家康を例に挙げよう。堺を漫遊していた家康一行が異変を知ったのは和泉国四条畷。中国攻めに向かう信長への挨拶のために長尾街道を京へと向かっていると、以前より昵懇にしていた京の商人、茶屋四郎次郎清延が駆けつけて知った。これが6月2日のことである。それと時を同じくして、まともな街道も整備されていない伊賀(反織田家感情の根強い)を越え、およそ家康一行よりも優に2倍以上はなれた場所にあって、信雄は同じ情報を得ていたのだ。いったい誰から?どうやって?真相は闇の中である-

『大逆転の日本史-織田信雄本能寺黒幕説を追う-』より

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いそしめ!信雄くん!(信意は走った)

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- 6月3日 近江国蒲生郡 安土城 摠見寺の境内 -

字はその人となりや書き手の精神状態を表すと言う。そんな格言が頭に浮かんだのかどうかは定かではないが、床机に陣取った安土城留守居役の蒲生賢秀は、机の上に広げられた二つの書状を前に首を傾げていた。

ひとつは明智日向守光秀からの書状。織田右府様(信長)、岐阜中将様(信忠)を討ち果たしたという内容に賢秀は「日向守殿は気でも狂われたのか」と疑ったが、勢田城主の山岡兄弟を初めとした情報で事実であることは証明されている。普段の日向守の文体は格式ばったものだが、高揚感からか「近江半国を与える」などという大言を吐いている。無論、そんな甘い言葉を信用する賢秀ではない。旧政権を否定することで新たな秩序を確立するしかない明智政権が、信長の娘婿である自分の息子を重用するはずがない。すぐさま破り捨てようとした賢秀だが、続いて届いた書状にその手を一旦止めた。

手紙の送り主は北畠中将。右府様の子息である三介殿からの手紙は、賢秀にある意味、明智からの手紙よりも衝撃を与えた。

「父上、これは明智の負けですな」
「忠三郎、迂闊なことを申すでない」
「明智の利点は時間です」

亡き信長より「その目尋常ならず」と評された嫡子忠三郎賦秀は、父の叱責が耳に入らないかのように滔々と自分の考えを述べ始めた。

「明智の謀反が衝動的なものだったのか、計画的なものだったのかは現状では不明ですが、北畠中将様がこの手紙を書かれたのは恐らく2日の昼。早朝の謀反がその日のうちに南伊勢にまで知れ渡っているなど、あまりにもお粗末といわざるをえません。情報の秘匿も出来ない明智に未来などあるはずがありません」

賢秀は渋い顔で腕を組んだ。常日頃、この息子の才気は何れ蒲生家の命取りになりかねないという予感を強めたからだ。それはともかく、少なくとも自分より頭の回転の早いであろう息子に言われずとも、その程度のことは賢秀も承知している。問題はその次、北畠中将の手紙の続きにある「命令」の内容とその是非だ。

「柴田、羽柴、神戸様、いずれがまず明智と対するかはまだ分かりませんが、軍勢を引き換えすか、立て直すまでには時間が必要でしょう。北畠中将様の後詰が得られるなら、安土籠城は可能です」

この時、安土留守居役の賢秀は、信長の室や子女を連れて自身の居城である近江日野城に引き上げるための準備を進めていた。織田帝国の中心、いわば心臓部である安土城だが、その留守居兵は日野城の兵を呼び寄せても1000にも満たない。これには信長や信忠という移動する政府首脳に、馬廻りや秘書官と言った政府高官の多くが随行していたことが原因である。いうまでも無く彼らの多くは京で果てており、安土にいるのは戦力にもならない兵ばかりと言う空城に等しいものであった。そもそも安土の城からして、安土山を利用して築城された山城ではあるが、籠城には極めて不向きなものであった。大手門から天主まで続く幅6メートル、直線約180メートルの道に象徴されるように、設計思想は行政庁としての役割が中心となっている。おまけに城の一部は琵琶湖に面しており、近江坂本に居城を持つ明智が、琵琶湖の水軍衆を味方に付ければ、あっという間に落城するだろう。

「北畠中将の後詰があるのであれば可能です。父上、最低でも一月、もしくは数週間でいいのです」

賢秀は苦りきった顔を息子に向けた。

「何を根拠にそのような事を・・・」
「京での異変よりまだ二日です。北畠中将がいかなる方法を用いてこの情報を得られたかは不明ですが、この文章によると中将は既に軍を起こしておられます。これが旗色を決めかねている近江の諸侯にいかなる意味を持つか、お分かりでしょう」
「・・・仮定では動けん。せめて北畠中将の兵が鈴鹿峠に陣取ってくれれば-」

その時、親子の目に喜色をあらわにしてこちらに駆け寄る兵士の顔が見えた。

「これで決まりですな」
「・・・好きにしろ」

賢秀は忌々しげに吐き捨てると、床机から立ち上がった。



-同時刻 近江志賀郡 猪飼昇貞(いのかい・のぶさだ)の邸宅-

日ノ本最大の淡水湖である琵琶湖にも水軍と呼ばれる武力集団は存在した。漁村の自衛集団などから発生した彼らは、海の水軍同様、交通料と引き換えに湖での安全な航海を保障した。今からすればとんでもない話だが、当時はこれが認められていたのである。その中でも近江志賀郡に本拠地を持つ堅田水軍は最大の勢力を誇っていた。六角氏から浅井氏、そして尾張の新興勢力織田氏へと陸の覇者を冷静な眼差しで見極めながら、その勢力を拡大。現在の棟梁である猪飼昇貞(いのかい・のぶさだ)は、信長より志賀郡の支配権と琵琶湖の水運・漁業を統轄する幅広い権限を認められていた。

その湖の王者の屋敷に、安土城と同じく北畠中将からの手紙が届いていた。日に焼けた浅黒い顔をしきりになでながら、棟梁猪飼昇貞はその手紙の内容に何度も何度も繰り返し目を通している。すでに鎧に身を固め、出陣の支度を終えていた息子の秀貞は、そんな父をこちらももどかしそうに見つめていた。

「・・・北畠中将はどうやってこれを知ることができたのか」

視線をせわしなく動かした後、昇貞は感心したようにつぶやいた。手紙の内容自体は驚くべきものではない。6月2日の早朝に明智日向守が謀反を起こし、先の右府と岐阜中将が戦死したこと。二条御所と本能寺で戦死したであろう側近や馬廻衆の名前。脱出に成功した著名な武将の名前が記されている。琵琶湖の水運を牛耳り、湖上交通を支配する昇貞にはすべて既知の情報である。問題はこれの差出人、そして書かれたであろう時刻だ。今は4日の深夜。ということは岐阜の松ヶ島にいた北畠中将は、2日の朝にはこれを知って、なおかつ手紙を書ける環境にあったということを意味している。それも「琵琶湖を支配する自分が2日かけて知りえた情報のすべて」を記したうえで。

昇貞は言い知れぬ不気味さをこの手紙から感じていた。「伊勢松ヶ島にいた人間が」「京で起こった変事を」「琵琶湖水運を使うことなく」「知ることができたのか」-答えは否だ。そのような方法、空を飛びでもしない限りあるはずがない。しかしそれではこの手紙の説明がつかない。現に手紙は今、自分の手の中にこうして存在しているのだ-

「父上、このような手紙を信じることはありません。相手はあの三介殿ですよ?たまたま書いたことがあたっただけかもしれません」
「・・・」
「父上、日向守様の恩義に答えるのはッ・・・」

昇貞は無言で息子秀貞の顔を殴りつけて黙らせた。織田家に所属してからの堅田水軍は、近畿管領ともいえる立場の明智家の配下として行動。中でも今、床でのびている秀貞は名前の通り明智光秀から一字を与えられ、明智姓を許されるほど重用されている。その息子が心情的に明智方への見方を主張するのは理解できた。しかしこの不気味な手紙を受け取って、尚且つ堅田水軍の棟梁として明智に無条件で味方するという選択は、昇貞には出来なかった。何より六角、浅井、織田と渡り歩いてきたその嗅覚が、明知に天下の目がないことをかぎつけ始めていた。少なくとも極秘であるはずの重要情報を、その日に南伊勢では(何らかの方法で)知ることが出来る状況にあった。とてもではないが明智とともに戦おうという気にはなれるはずがない。

「我ら堅田水軍は陸の権力争いにはかかわらぬ・・・意義があるものは?」

すでに猪飼の屋敷に集まっていた堅田衆-誇り高き湖の男たちは、沈黙で棟梁に答えた。



- 6月3日 伊勢と近江の国境 鈴鹿峠 -

伊勢から近江に繋がる鈴鹿峠。そこに笹竜胆-北畠家の紋が翻っていた。

「走れ、走れ、走れ、走れ!!止まると馬で蹴り飛ばすぞ!ほら走らんか!!」

北畠中将こと、北畠信意(信雄)は日の丸のついた扇子を両手に持ち、上下に激しく振りながら兵士を煽り立てていた。兵士達はそんな馬鹿殿・・・もとい、御本所様直々の声援に、その士気とやる気を盛大に削られながらも、安土に到着すれば金も米も取り放題という「空手形」を奮起の材料にして必死に走り続けていた。家老の津川玄蕃允義冬は、当然兵を休めるように進言したが、北畠信意は「まるで人が変わった」かのように義弟の忠告を断固として受け入れなかった。

「本所様、この速度では兵は使い物になりませんぞ。たとえ安土に間に合ったとしても、ただの動く的でしかありません」
「馬鹿野郎!ここまで来て安土に入らなきゃ、それこそ本末転倒だろうが・・・ほらそこ、寝るな!寝るなら安土に入ってからにしろ!安土に入れば金も飯も思うがままだ!!ほら走れ、走れ!!」
「そのような空手形を、もし右府様が存命でしたらただでは・・・」
「玄蕃」

信意は兵の士気を著しく損ねていた踊りを止めて、傍らの家老を振り返った。

「貴方・・・いや、貴様の心配は分かるが、とにかくここは私のいうとおりにしてくれ。とにかく安土へ、安土へ行かねばならんのだ。最近は御上も金欠病が深刻だ。安土の財宝を逆臣に渡しては、それこそ取り返しのつかないことになる」
「・・・恐れながら御本所様に申し上げます。私はその本所様の情報とやらをまだ信用してはおりません」

津川は膝をつき、意を決して義兄への換言を口にした。京での異変-明智謀反の情報は北畠家首脳を動揺させ、普段の冷静さを失わせた。信意がその勢いのまま安土への出兵を命じたため、岡田長門守や津川も反論できないまま追認したが、今は若干冷静に考えることが出来る。義兄が自分の情報に妄信的な確信を持っているのは会話の中で理解できたが、もしそれが虚報なら?不安と共に、主信長の顔を思い浮かべた津川は、腹が底から冷えるような恐怖を感じた。織田信長と言う人物は、二度の失敗は決して許さない君主だ。それは息子である彼とて同じだろう。今なら、この鈴鹿峠なら引き返すことは可能だ。

「玄蕃の忠言、嬉しく思うぞ」

自分より一回り上の義弟の諫言を黙って聞き終えると、信意は津川の両肩に手を置いた。津川が顔を上げると、信意はここ数年見せたことのないような屈託の無い笑顔を浮かべていた。何がそんなに嬉しいのかは津川にはわからなかったが。

「しかし、今だけは俺を信じて欲しい。父や兄が死んだのも、明智が謀反を起こしたのも事実なのだ」

頼む-そういって力強い目でこちらを見据えた主に、津川玄蕃允は首を振ることが出来なかった。

「と言うわけで・・・我が北畠の兵士たちよ!走れ走れ走れ走れ走れ!!ほらいけ、やれいけ、いけいけごーごー!!!」
「おやめください」

続けて行おうとした奇妙な踊りは全力で阻止したが。



- 6月4日 夕暮れ 安土城下 明智軍本陣 -

「なりません!力攻めだけはなりませんぞ殿!」
「ならば貴殿はこのまま安土を放置しろと言うのか」
「そうは言っていない。しかし力攻めは駄目だ!!」

安土城を包囲した明智軍6000を率いる明智左馬介秀満は、京より着陣した主君、明智日向守と共にあらわれた伊勢貞興の言動に腹立たしさを隠せなかった。旧織田政権の象徴にして、信長の子、伊勢北畠家当主の信意が籠城する安土を落とす絶好の好機にもかかわらず、それを直前になって止めろというのだ。左馬介は伊勢貞興を無視して、光秀に話し始めた。

「日向守様、既に城下を焼き払い城攻めの準備は整っております。あのような城もどき、我が明智の精兵にかかれば半日とかからず落としてご覧にいれます」
「それが駄目だといっているのだ!大体、誰の許可を得て城下を焼き払った!」

貞興の言葉に左馬介は鼻白ろんだ。城攻めの前哨戦として城下を焼き払うのは戦の定石ではないか。自分は何も責められるようなことはしていない。その思いが彼の態度を必要事情に片意地張ったものとしていた。貞興は貞興で、逆に左馬介の視野があまりに狭いことに苛立ちを隠せずにいた。これは左馬介と貞興のおかれた立場が違うからだろう。伊勢貞興は元々室町幕府の政所執事を世襲した伊勢氏の出身。足利義昭追放後に明智家に仕えた。旧幕府人脈を使い、京で寺社や禁裏を相手に世論対策を担当する貞興には、左馬介の行動は暴挙以外の何者でもなかった。

そして貞興の考えは大筋で光秀の意向に沿うものであった。前線指揮官として眼前の戦局のことだけを考えている左馬介と違い、光秀はこの戦いを謀反人から天下人として朝廷からお墨付きを得るための戦ととらえている。旧政権の首都を(圧倒的武力を背景にしたとはいえ)無血開城させることは、新政権が世論の支持を得ていると言う格好のデモンストレーションになりえた。しかし実際はどうか。市民は自分達が虐殺されたことは忘れても、僅かでも財産を没収されたことは忘れないものだ。旧首都の安土城下を焼き払ったと言う事実は、これ以上なく旧織田領の統治を難しくするだろう。そして何より、安土にある莫大な織田家の資産は、禁裏や寺社に対する工作を担当する貞興には喉から手が出るほど欲しいものであった。

「ですが日向守様、このまま安土を放置すれば、近江全体の統治に支障を来たします」

無論、秀満の言うことにも理があった。安土を包囲した明智軍は総勢5000。都の警備や機内の平定を考えればそれ以上の兵を裂くことは出来なかった。これに山本山城主の阿閉貞征・貞大親子ら、近江衆約1500が加わり、安土を包囲している。近江衆の参陣は当初想定していたよりも明らかに少なく、そして動きが鈍かった。明智政権が京や近江の世論の支持を未だ得ていないことが影響していたのは疑う余地は無い。象徴的なのは旧近江守護家の京極高次が安土に籠っている事だろう。没落の貴公子は当初明智軍への参陣を考えたが、北畠信意が安土へ入城したことを知ると、すぐさま安土へと入った。天正伊賀の乱以降、極端なまでにその言動が慎重-言い方を変えれば愚図になった「あの三介殿」の機敏な行動に、これは明智に勝ち目は無いと踏んだのだ。山崎城主の山崎方家も同じように考えた一人であり、一族郎党を引き連れ安土に入城。取るものもとらず伊勢から駆けつけた北畠の軍勢2千とあわせて4千弱という、明智方が予想だにしない大軍が安土に篭城していた。

泣きっ面に蜂とやらで、明智方には不運が続いた。近江水軍の中核であり光秀傘下の与力であるはずの堅田水軍の棟梁・猪飼昇貞が「武装中立」を宣言したのだ。湖から攻めれば安土城は一刻と持たないが、水軍が日和見を決め込んだとあらばその作戦は不可能となる。琵琶湖の物流を握る堅田水軍相手とあっては、明智勢も強気に出ることはできず、明智方の近江坂本城への物資搬入協力を条件に、武装中立を認めるしかなかった。明智方は知らないが、これには信意が(援軍欲しさに)堅田水軍を始め、見境なく近江の城主にばら撒いていた書状が大きく影響していた。「一字一句誤りや事実誤認のない正確な情報」が列挙された手紙と、北畠中将の安土籠城との知らせに、手紙の受け取り手の多くが「もう暫く様子を見よう」と日和見を決め込んだ。結果的にではあるが、信意の行動は近江における明智軍苦境の原因となっていたのである。

論争を続ける貞興と左馬介とは対照的に、光秀を含む明智軍首脳部は沈痛な雰囲気に包まれていった。現在の苦境をもたらし、近江平定を遅らせている原因はわかっている。目の前の丸裸の安土城に籠り、旧織田政権の象徴として抵抗の旗印となっている北畠信意-その人である。信意を討ち取らねば近江や伊勢の平定はありえないという左馬介の意見も、その先の領民の鎮撫に主眼を置く貞興もそれぞれに理があった。それゆえ両者は一歩も引かず、貴重な時間が無為に費やされることになる。光秀は心情的には貞興寄りだったが、親族衆の左馬介の意見も無碍には出来ず苦悩した。結果的に光秀が命じたのは「北畠中将と交渉し、伊勢へお引取り願う」という、両者の訴えを折衷した曖昧なものであった。

「あの三介殿のことだ。重臣にせっつかれての出陣で、戦は翻意ではないだろう。追いかけぬとあらば伊勢に引き上げるのではあるまいか」

光秀の発した淡い期待交じりの言葉は、明智軍首脳陣の共通した思いであった。


で、当の三介殿はというと

「よいか!あと6日、6日我慢すれば我らの勝利だ!すでに羽柴筑前守の軍勢は高松を立ち、畿内にとって返しておる!11日には摂津尼崎に到着するそうだ!後6日我慢せよ・・・何?光秀の軍使?会うぞ会うぞ!酒をじゃんじゃん飲ませて徹底的に歓待しろ!!・・・なんだ忠三郎、勘違いするな。本当に降伏するわけではない。和睦すると見せかけてのらりくらりと出来るだけ交渉を長引かせるのだ。6日我慢すれば羽柴の軍勢が来るんだからな・・・え?いや、それは・・・ほら。そうそう、忍びからの情報だ!とにかく俺を信じろ!」

まったくそんな期待にこたえるつもりが無かった。そこに痺れないし、憧れない。



安土に籠城した蒲生家以下の留守居役と北畠家の将兵は、「あの」三介殿のいうことだからと話半分に聞き流していたが、それでも何故か自信たっぷりに羽柴の後詰を力説する信意に、妙な違和感を覚えながらも籠城戦における心の支えとしていた。

明智勢と北畠中将以下の安土城籠城軍は3日にわたり交渉を続けた。明智方は何が何でも城内の財宝を、禁裏工作や世論対策のバラマキ財源のために必要としており、それを見透かした城方(蒲生賢秀)が徹底的に交渉を引き延ばしたのだ。一旦開城すると口にしたかと思えば、突如強気になり、また次の会談には「場内の説得のために時間が必要」などと、ぬらりくらりと言質を与えない蒲生賢秀に、明智軍の左馬介がぶち切れ、8日夜より攻城戦が開始された。

当初の時間稼ぎというもくろみはまんまと成功し、その上十分な休養を得た籠城側は士気高く、精鋭揃いの明智軍相手に奮戦した。後のない明智勢の攻撃もすざましく、一時は本丸付近まで侵入を許したが、見事に撃退に成功した。中でも信長の娘婿である蒲生忠三郎賦秀、北畠家老岡田長門守の二子、重孝と善同の活躍は目覚しく、「安土大手門の三勇士」としてその名を広く世間に知らしめることになる。


そして6月11日。安土の金を得られないまま、京で必死に禁裏への工作を続けていた光秀の下に、「ハゲネズミ」こと羽柴筑前守秀吉の軍勢が摂津尼崎へと入城したという凶報が届いた。



[24299] 第2話「信意は言い訳をした」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/19 06:38
池田勝入斎「何故北畠中将殿は本能寺の変の事をいち早く知ることが出来たのか?」
柴田修理亮「何故、北畠中将は筑前の動きを知っていたのだ?」
羽柴筑前守「何故三介殿は、私の家族が竹生島に隠れていることをご存知だったのだ?」
丹羽五郎左「何でも北畠中将は腕のいい忍びを召抱えておられるとか」
柴田修理亮「五郎左殿はそれを信じられるのか?」
丹羽五郎左「・・・」

世に言う「清洲会議」。その冒頭の一コマである。

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いそしめ!信雄くん!(信意は言い訳をした)

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摂津山崎の地を舞台に行われた合戦の合戦は、羽柴筑前守秀吉率いる反明智連合軍が勝利をおさめた。当然である。旧織田家の中国方面軍司令官の羽柴筑前守秀吉率いる連合軍4万に対し、明智方はその半分にも満たない7000あまりの兵しか動員できなかったためだ


時間を遡る。6月4日の深夜、日向守謀反の知らせを受けた羽柴筑前守は、既に交渉中だった毛利家との和平交渉において大胆な妥協を重ねて(すでに指示を仰ぐ上司は存在しない)即座に講和を成立させると、備中高松よりそっくりそのまま中国攻めの本隊約2万の兵を連れて姫路まで引き返した。世に言う「中国大返し」である。これに本来なら光秀貴下として中国遠征を準備中で、異変発生後は旗色を伺っていた摂津の諸将-茨城城主の中川清秀、高槻城主の高山右近、兵庫城主の池田勝入斎ら総勢9千余りの摂津衆が参陣。本来なら最も早く明智方と戦える位置にいながら、統制の乱れた軍の再編と明智光秀の婿津田信澄の討伐に手間取っていた織田三七信孝、丹羽長秀率いる四国遠征軍8000を加え、反明智連合軍の総勢は4万にも達していた。

一方、明智日向守はまるで坂を転がるように、敗北への道筋をたどった。安土の金蔵を使うと言う皮算用が御破算となったため禁裏工作の資金が続かず、旧室町幕府人脈を持つ伊勢貞興や先の関白近衛前久の奔走によってあるはずだった2度目、3度目の勅使を得ることが出来なかった。住宅税免除などで京の町衆を味方に付けようとしたが、財源の裏づけがないことを見透かされてこれも失敗。頼みの縁戚である丹後細川家や大和郡山の筒井家は、中立どころか京や奈良を伺う有様で、安土の北畠中将と同じく備えの兵を置かざるを得なかった。結果、兵力を分散せざるを得ない状況に追い込まれた明智勢が山崎の地に動員できたのは約7千。当初動員していた兵力の半分でしかなかった。

明智日向守は最後まで戦場に踏みとどまり、兵庫城主・池田勝入斎の嫡男池田元助(之助)に討ち取られた。


「安土の、金さえあれば・・・」


明智日向守光秀の最後の言葉である。




-さすがに悪いことしたかなぁ

どうも。さすがに罪悪感にさいなまれている信意(信雄)です。紛らわしいけど、勘弁してね。さて、突然ですがめちゃくちゃ教科書やスケートリンクの上で見覚えのある顔に睨まれています。こちらは氷上よりは顔がきつく、教科書よりはマイルドな印象だけど、まさにあのまんま。勘のいい方はすでにお気づきでしょう。三七殿こと、織田三七信孝さんです。ていうか睨まないでほしいなぁ・・・気持ちはわかるけど。そんなに睨まれると・・・感じちゃう。

「・・・」

額から一筋汗を流すと、信孝は視線をそらした。ふむ、相手の不穏な感情を読み取るとは。さすが信長の子。なんちゃってシンデレラボーイの俺とは出来が違うぜ。やるなお主。さてここは尾張は清洲のお城。織田家発祥の地であるこの城で、何故俺がこの同い年の異母兄弟と同じ部屋にカンヅメにされているかと言うと、それには説明が要るだろう。


説明しよう!現在清洲城では、織田帝国の後継者を決める会議が重臣達によって行われている。そのため候補者でもある自分と信孝は同じ部屋に詰め込まれているのだ!(別の部屋に入れると独自の工作をしていると疑われかねないため)


ここでは「重臣」と「清洲」っていうのがポイントだね。ここ、テストに出ないけど覚えといてね。


信長と兄さんが生きていたとき、織田一族を除く重臣と言えば、北陸方面軍の柴田勝家、中国方面軍の羽柴秀吉、近畿管領の明智光秀、関東管領の滝川一益の四人である。丹羽長秀は四国遠征軍の副将で少し格は落ちる。方面軍司令官は傘下の大名を指揮監督する立場にあり、いわば宿老も言えるべき立場にあたる。このうちクーデターを起こした明智が抜け、一度は追い返したが、二度目は関東の最大広域勢力の北条家の大軍を前にフルボっこ(神流川の戦い)となり、着の身着のままで本領の伊勢長島へと逃げ帰ってきた滝川一益が脱落。残ったのは羽柴秀吉と柴田勝家。会議の中心となるのはこの二人なのは言うまでもない。


羽柴秀吉は織田信長の能力至上主義を象徴するような人物とされる。小さな体のどこにそんな力があるのかと思わせる、あふれんばかりの創作意欲、農民から大名へとのし上がったバイタリティ。自身の欲望にはとことん忠実でありながら、いざと言う時には命を省みずに泥にまみれる覚悟を持ち、自分の運命を自ら切り開く底抜けの楽天思考の持ち主。まさに将来の天下人に相応しい。


それに対するは柴田勝家。自他共に認める織田家筆頭家老・・・のはずなんだが、この人物の出身はよくわからない。柴田だから守護家斯波氏出身だという説もあるが、これはいくらなんでもありえない。甕割り柴田の異名を取る猛将ではあるが、一向一揆で荒廃した越前を見事に治め、検地や刀狩といった後の豊臣政権の兵農分離に繋がる政策を先駆けて行ったという一面も持つ。そうした文武に優れた領国統治者であったことが、一度は弓を引いたとはいえ信長に重用され続けた理由だったのだろう。


羽柴と柴田、そのどちらが会議の主導権を握るか。世間や家中の追い風は明らかに羽柴へと吹いていた。次期織田政権の枠組みを決める会議において、旧主の仇を討ったという事実は、この小柄な男の何物にも変えがたい政治的武器となっている。とはいえ柴田勝家も黙って秀吉が勢力を伸ばすであろう現状を看過するような男ではない。越後上杉家への備えとして佐々政成を越中に留め、畠山旧臣の反乱に対応するため能登に留まった前田利家を除く配下の将を率い、光秀討伐の道中にあった勝家は、山崎合戦の顛末を聞くと、進路を尾張清洲に向けた。いずれ「清洲会議」のような重臣や一族が集まって、織田帝国の遺産相続の話し合いが行われるのは容易に想像のできる事態であり、会議の場所を定めることで主導権を握ろうとしたと思われる。

当然、舌から先に生まれたような秀吉も手をこまねいているはずがない。秀吉は後継者決定会議に参加する重臣に、若狭国主の丹羽長秀、摂津尼崎城主の池田勝入斎を参加させることを勝家に受け入れさせた。丹羽長秀は元々織田家の譜代ではなく、守護職斯波家の家臣の家柄。いわば尾張の旧支配層を代表している。安土城築城や琵琶湖水運の整備など、内政に手腕を発揮した人物だが、個性的な人材ぞろいの織田家の中にあっては影が薄くなるのはやむを得ず、方面軍の副将という立場に甘んじていた。一方、池田勝入斎は荒木村重の旧領を治める摂津諸侯のまとめ役ではあったたが、その他の人物に比べると明らかに格が落ちる。ただこの人物は織田信長の乳母兄弟であり、織田帝国の後継を定めるという点で言えば、他の国主(丹後の細川家、大和の筒井家等々)と比較すると、必ずしも資格がないわけではない。

両者は共に山崎の戦いで秀吉と共に戦っており、どちらかといえば親羽柴派の人物。この時点で会議の場は3:1となった。勝家は自身の正統主義で押し切れると考えていたとされるが、このあたりはよくわからない。既に会議の主導権は秀吉に握られていたと考えたほうが自然か。諸説あり、真偽のほどは定かではないが、この会議に堀秀政が同席したと言う記録がある。信長の小姓上がりの秘書官であった秀政は、まさに織田家の後継者会議を定める書記役に相応しい人物。同時に秀政は本能寺の変では備中高松に会って難を逃れ、山崎合戦で功を立てたというこれまた親羽柴派の人物。仇討ちに出遅れた勝家の外堀は、おそらく彼の考えている以上に埋められていた。


「・・・・・・」


それで蚊帳の外なのが、僕らというわけだ。何せ信長の子供で成人しているのは俺と信孝の二人だけ。普通に考えればこのどちらかが後継者になることが想定出来た。政治的失点の多い三介殿は当初から排除され、勝家は山崎合戦に従軍した三七信孝を推薦。これに秀吉が「超正統主義」ともいえる、まさかの三法師を擁立。丹羽・池田が賛成したことにより、織田家の後継者は亡き信忠の子、三法師に決定。秀吉VS勝家の宮廷闘争は、前者が完全勝利を収める・・・はずなんだけどね。



「勢いでやった。後悔はしている。だが反省はしない」
「・・・は、ははは・・・き、北畠中将殿はおもしろいことをおっしゃりますなあ」

ハゲネズミこと、羽柴筑前守秀吉は彼には珍しい引きつり笑いをしていた。後ろで頭巾をかぶった男が路上の雑巾を見るような視線で俺を見てくる。杖を持っていると言うことは、黒田官兵衛かな。おお、いいな。もっと俺を蔑んだ目で見てくれ。プリーズ。

「山崎はまるで無人の野を歩くようなものでした。これも一重に北畠中将殿が安土で光秀めと戦い続けてくれたお陰でございます。感謝致しますぞ」

さすが秀吉。直に精神を立て直しやがった。ただの色黒な小男ではない。それにしても歴史上の人物が目の前にいるって、何だかすっごく妙な気分だ。北畠の家臣団って皆モブキャラだしね。強いて言うならば、蒲生の嫡子ぐらいか。

「それに我が妻のねねや、母上を竹生島まで直々に出迎えに来てくださったとか」

いかにも人好きのする笑顔で俺の両手を握る秀吉。なるほど、人誑しと言われるわけだ。この笑顔で頼み事をされたら断ることは難しいだろう。ところであまり俺の手をにぎにぎするのは止めろ。俺にソッチの趣味はないから。

さて、話を本題に戻そうか。ここで俺の華麗なる処世術とチート知識(未来知識)に基づいた処世術を発表しよう。

①チート知識をフル活用して秀吉に犬のように媚を売るまくる
②秀吉が死んだ後は、同じくチート知識を活用して家康に猫のように媚を売りまくる

・・・なに?手抜き?もっと考えろ?ふふふ、甘いな。心理とは何時でも単純なものなのだよワトソン君。大体、元の体と頭が三介なのに中身(精神)が小市民の俺で上手くいくはずが無いのさ。はっはっは。

何とか安土城籠城戦をしのぎきった俺(小便を漏らしたことは秘密だぜ)は、早速未来知識を活用して秀吉に媚を売ることにした。明智光秀のクーデター発生を受けて、すぐさま近江で親明智の姿勢を明確にした中に阿閉(あつじ)貞征という人物がいる。旧浅井家臣で山本山城主の彼は、長浜城主の羽柴秀吉と領土紛争を抱えており、日頃遺恨を抱えている秀吉に意趣返しを目論んだのである。長浜城にいた秀吉の家族は琵琶湖の竹生島に難を逃れていた。そこでこのナイスガイな俺は琵琶湖水軍の協力を得て、俺自ら秀吉の家族を出迎えに赴いたのだ。わっはっは、何と完璧な俺の作戦。


-何故北畠中将は、自分の尼崎入りの日時を知ることが出来たのか・・・それにねねやかか様が竹生島に非難していることを誰から知りえたのか。羽柴家中に間者でも潜ませていたのか?いや、それは考えにくい。とにかく不自然な言動が多すぎる。北畠信意-案外馬鹿ではないのかもしれないが・・・危険だな。


「それにしましても北畠中将殿は優秀な忍びを召抱えておられて羨ましい限りです。最も、情報を生かすことのできた北畠中将殿のご器量あってのことでございますが」
「わっはっはっは!褒めるな褒めるな!もっと褒めろ!」

完璧な作戦は、完全な裏目となり、無用な警戒感を秀吉に植え付ける結果となっていたのだが、信意はそれを知らない。



数時間後。気まずい沈黙に支配されていた俺と三七は、小姓から重臣会議の終了を知らされた。さてその結果はというと-



[24299] 第3話「信意は織田姓を遠慮した」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/19 06:42
清洲会議はおよそ史実どおりの結論を得た。織田帝国の後継者には亡き岐阜中将の嫡男・三法師が、亡き主君の仇を討った羽柴筑前守の推薦により決定され、この赤子が織田宗家の家督を相続することが内定した。しかし3歳の赤子に織田帝国が統治できるはずが無く、ここで「織田帝国の後継者」と「織田家宗家の家督」が事実上分離された。三法師が成人するまでの間、織田家の家政運営は後継者を決定した先の4人-羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田勝入斎の重臣による合議によって行われることとなった。もっとも清洲会議以降、この4人が再び同じ場所に集まることはなかったのだが・・・

後継者と政権の枠組みが決まり、あとには誰しもが心待ちにしていた遺産相続の話が残った。突然、所有者がいなくなった領地がいくつも出来たのだ。ここでは重臣達は建前を無視し、本音むき出しで領地を奪いあった。その結果をおおまかではあるが記す。

・明智の領地であった丹波や山城は秀吉が、近江坂本は丹羽長秀が獲得。このように畿内で新たに発生した空白領地の多くが羽柴陣営で山分けされた。
・勝家は近江の秀吉旧領である長浜を得て畿内への足がかりを得、兄信忠の跡をついで岐阜城主となった織田三七信孝との経路を確保。もとより秀吉との折り合いの悪い伊勢長島城主の滝川一益(領地は得られず)との連絡を取ろうという意図が見え見えである。一方、一揆の多発で信濃海津城から地元へ帰り、地元国人領主と対立して東美濃を荒らしまわった森武蔵守長可はその領地を安堵された。国人領主は泣きを見たが、これには岐阜城主を牽制させようという秀吉の意向が透けて見える(長可は羽柴陣営である摂津国主池田勝入斎の娘婿)。

ざっとこんな具合に、羽柴陣営と柴田陣営がそれぞれの足場固めを進めることに成功した。ところで不思議なことに、会議にも出席せず正々堂々と信長の遺産を横領した人物については誰も口にしなかったことは注目に値する。命がけで伊賀を越え、岡崎に帰還したその人物-徳川家康は柴田勝家同様、光秀討伐の軍を起こしたが、勝家同様に山崎合戦の始末をその途上で知った。するとこの人物は律儀な同盟者の皮を殴り捨て、本能寺の変を切っ掛けに旧武田領で発生した一揆に付け込んで、甲斐一国と信濃の大半を我が物にせんとしていた。明らかな違法行為にもかかわらず、誰も織田家の「元」同盟者を批判しなかったのは、来るべき織田帝国の継承者を決める戦いにおいてその支持を期待したからである。

そして今回の一連の政変における行動で急速に株を上げた北畠信意は、尾張の信忠旧領を相続。これにより信意は、従来の南伊勢と伊賀をあわせて三国を治める太守となった。領国伊勢で発生した北畠具親の反乱を「なぜかその発生場所から人数まで特定したかのような具体的鎮圧作戦」に基づいて伊賀上野城主の叔父織田信包に鎮圧させながら、自身は兵を率いて安土城に籠城。明知軍の近江侵攻を遅らせ、山崎の合戦の勝利に貢献したことを考えると、尾張一国といえども「貰いすぎ」という批判はあたらないだろう。

「まったく、右を向いても左を向いても亡者ばかりで嫌になるね」

-あんたが言うな-

北畠家家老の津川義冬と岡田長門守の考えは見事に一致した。

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いそしめ!信雄くん!(信意は織田姓を遠慮した)

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清洲会議で最後まで揉めたのは三法師を「誰が」「どこで」育てるかという問題である。織田宗家と織田帝国が切り離されたとはいえ、この赤子は織田の正当なる継承者であり、養育係として彼を掌中に収める人物は、計り知れない政治的カードを持つことを意味していた。ここまで押されっぱなしだった柴田勝家は、当然秀吉の勢力圏には三法師を置きたくはない。秀吉もまたしかり。そこでつばぜり合いが生じることになった。そこで両陣営が引っぱってきたのが、秀吉陣営は北畠信意、柴田陣営は織田信孝である。共に三法師の叔父であり、織田信長の子供の中で成人し、独立した行動を取れる年齢の二人は確かに養育係には適任だった(羽柴秀勝は秀吉の義子であることから除外され、その他の子供はいまだ養育される側であった)。普通ならそこそこ優秀だった三七と「三介殿」では比べるまでもない・・・はずだったのだが、本能寺の変における安土籠城と一連の手紙攻勢によって北畠信意は旧織田家の中でその株を急速に上げていた。

「わずかな手勢を引き連れて敵地の眼前に乗り込み、亡き右府様の城を守り通した北畠中将こそ三法師の養育係にふさわしい」という秀吉の主張に重臣会議は紛糾。結果、丹羽や池田らが「バランスを取るため」として信孝の養育係を支持したため「安土城が修復するまで」という期間を区切った上で、三法師の居城は岐阜に決定した。もっとも羽柴側から岐阜城にお目付け役が派遣されることになり、柴田陣営は史実以上に譲歩を強いられることになった。


ところで清洲会議には様々なこぼれ話がある。たとえば北畠信意の織田姓への復姓問題。三七殿(信孝)も織田姓に戻った(北伊勢の神戸家を相続していたが、三好長康の養子になるため一時織田姓に復帰。本能寺の変により縁組が破談となり、そのまま織田姓を使用していた)ことですし、織田家の本拠地である清洲城主に居城を移されたこの機会に、織田に復姓されてはどうかという話が持ち上がったのだ。しかし信意はそれらの意見を一蹴。「私は北畠の人間であって織田の人間ではない」と木で鼻をくくったような答えを返すばかりであった。

これは様々な憶測を呼んだ。伊勢津城主となり伊勢南部を新たに支配することになった織田信包(信長の弟。伊勢の名門長野工藤氏を相続していたが織田姓に戻した)などは「三介殿は北畠家に遠慮しているのか?」と首をかしげた。ともかくこの話は「織田政権の後継者は三法師であることを天下に知らしめるため、あえて北畠の姓を維持されたのだ」という美談としてもてはやされたが、それは半分だけしか真意を言い当てていない。信意はこれで「自分は織田政権の跡取りになるつもりなど毛頭なく、三法師政権=羽柴政権に従いますよ」というメッセージを送ったというのが真相だ。実に涙ぐましいまでの媚びへつらいである。


「ふふふ、まさに完璧な俺の計画。自分の才能が恐ろしいぜ」


天罰覿面というべきか、報いはすぐさまやってきた。

-安土城修復費用の一部を北畠家が負担するものとする-

重臣会議の決定に、信意は目をむいて昏倒した。



①信意が兵を煽り立てるために「安土につけば金子と米は取り放題」と命じたこと
②明智勢に焼け出された町民に安土留守居役の蒲生賢秀が(勝手に)北畠中将名義で見舞金と米を配ったこと
③1と2により安土の金子は空っぽ。おまけに篭城戦のため、改修工事をしないと行政庁としての機能に致命的欠陥が残ることが想定される(たとえば石垣の崩落)
④このままでは三法師様を迎えることは出来ないが、安土の金蔵は「誰かさん」のお蔭で空っぽ
⑤来るべき戦に備えて、羽柴・柴田は無論、どの大名も金を使いたくない
⑥安土籠城の総責任者は北畠中将

「燃え尽きたぜ、真っ白にな・・・」

清洲城の居室で、北畠信意は書類の山に埋もれて真っ白に燃え尽きていた。しかし主の言動に一々動じる北畠家臣団ではない。最近、急に態度の変わった主の扱いを覚えてきた信意の近習土方勘兵衛は、新たに北畠家に召抱えられた佐久間不干斎にその操縦方法を教えていた。

「アホな事言ってないで、次の書類に目を通してください」
「土方、お前は鬼か!俺を過労死させるつもりだな!」
「御本所様。次はこちらです」
「佐久間!お前も俺の気持ちを裏切ったな!」
「・・・土方殿。こういった場合どう対応すれば」
「無視していただいて結構です」

平然と主をあしらう土方に、佐久間は困惑気味に頷いた。佐久間不干斎。そり上げた頭がいまだ青々としたこの若者は、かつての織田家重臣佐久間盛信の嫡子甚九郎信栄、その人である。織田家の畿内攻略の先兵として活躍したが、天正7年(1579年)に本願寺攻めでの失態や自身の茶道狂いを信長より責められて父と共に高野山に追放。各地を流浪していたが本能寺の変の数ヶ月前に帰参を許され、信忠に属した。信忠の死後は同じ芸道狂い(信意の能好きは有名だった)の信意に仕えたわけなのだが・・・書類の山を見るにつけ、不干斎に失敗だったかなという後悔の念がないわけではない。北畠は急な所領増加により事務官僚が圧倒的に不足しており、一時は父を支えて畿内を差配した経験を持ち、その上家柄はお墨付き(佐久間家は織田家譜代)という不干斎は、まさに「カモねぎ」であった。

-三介殿はもう少し、人情の機敏に疎い方であったはずだが

そりあげた頭をなでながら、不干斎は「信栄」時代に感じていた三介殿と目の間の書類に埋もれて呻く人物との差に違和感を感じていた。絶対的権力者であった信長の死が、不肖の息子の精神的な自立を促したということなのだろうか?そこまで考えてから不干斎は思わず自分自身を笑った。不肖の息子というなら、それは自分も同じだ。茶道具に狂って佐久間の家を没落させた自分が、同じく不肖の息子として嘲られていたはずの彼に(それも自分を追放した男の息子!)に仕えているというのだから。

-笑えない笑い話だな

不干斎はもう一度静かに、不恰好に笑った。



不肖の息子同士が傷をなめあい、当主を支える家臣達が一丸となって必死に新領土尾張の経営や安土石垣修復の代金を捻出しようと努力していた頃-その間にもハゲネズミVS甕割り柴田の暗闘は続いていた。


6月末-清洲会議の直後に織田信孝の仲介により柴田勝家と浅井未亡人・お市の方との婚儀が行われる。この婚儀によって勝家は織田家の親族衆となる。両者の婚姻にはお市の方に懸想していたとされる秀吉自身も深くかかわっていたことが近年明らかとなった。ライバルの柴田勝家に「織田家一族」という枷をはめることにより、その言動を封じ込めようとしたのではないかと考えられる。

7月3日-織田信孝、本能寺の焼け跡で収集した遺骨や信長所蔵の太刀を廟に納め、本能寺を信長の墓所と定める(後継者アピールか)
同月8日-羽柴秀吉、山城国で検地を実施。清洲会議の「重臣による合議制」を早速破棄する。新政権の主導権を自らが握ることを天下に誇示した。

8月-織田家中での主導権争いが激化。美濃(信孝)・尾張(北畠)の国境線が問題と・・・

「あ、いいよいいよ。信孝の主張を受け入れちゃって」

ならなかった。

津川玄蕃允・岡田長門守らは「周辺国になめられます」と諫言したが信意は取り合わなかった。この信意の決断をめぐって家中の評価は「大人の風格」「やはり地金が出てきた」と真っ二つに分かれた。実際には尾張の経営でてんてこ舞いであったことが大きい。なにせ突如降って湧いた領国。前任の領主や高級官吏の多くは本能寺の変で灰になっていた。引き継ぎなど一切なかったため、尾張の経営は事実上0からのスタート。そんな些細な領国紛争にかまっていられなかったのである。もっとぶっちゃけると、寝ぼけ眼でサインした書類が「信孝案の受け入れ」であり、いまさら引っ込めると岡田長門や津川に余計厳しく怒られるのが怖かったというのが真相である。



「で、親父の葬式はいつするの?」
「・・・あの、おそれながら北畠中将殿。その、親父というのは・・・」
「俺の親父に決まってるじゃん。織田の信長。筑前守、もうぼけたの?だとするとちょっと早くない?」
「いえ、その・・・なんと申しますか、親父という言葉と右府様があまりにも結びつかなかったものでして、はい」
「そうかな?」

将来の天下人の困った顔を見るというのもなかなか乙なものだ。秀吉の背後から黒田官兵衛が射殺さんばかりの視線でこちらを睨み付けているのでこの辺にしておくか。うん。

「三七は負けん気が強い。その気位の高い男がわざわざ本能寺の焼け跡をあさるようなまねをしたということは、こりゃ相当、甥に家督を持っていかれたのが気に入らなかったと見えます。他ならぬ筑前殿が親父の葬儀をするとあれば、清洲北畠家の織田一族はみな参列するように取り計らいましょう。いや、すでに日も経過していることを考えるとまずは100日法要が先ですかね?」

それまで笑っていた秀吉の目から感情の色が消えた。こっわ!小便ちびりそうだぜ。すぐに柔和な表情に戻ったが、一瞬だけ見せた、あの昆虫のような無機質な眼が人誑しの天才秀吉の地なんだろう。本当はこいつ、友達いないんじゃないの?怖いから言わないけど。そんなことをつらつらと考えながら「秀吉主導の信長葬儀」(信長政権の後継者のお披露儀式)への協力をしっかりと約束しておいた。織田一族を一人でも多く取り込みたい中で、この申し出は秀吉には渡りに船だろう。ついでにさりげなく「中将殿」と同格で呼ぼうとしていた秀吉に、同じく「筑前殿」で返す気配りを忘れない。官位は今は俺のほうが上だけど、どうせすぐに追い抜かれるだろうし。羽柴政権下での序列をはっきりさせておきたいのは俺も同じだ。この点に関しては秀吉と俺は利害が共通していた。

「三法師様は難しいでしょうなあ。三七が手放さないでしょうし。柴田殿は叔母上を使ってくるかもしれません」

秀吉なら当然その程度のことは予測済みだろうが、俺の話を興味深そうに聞いていた。話し上手は聞き上手という奴かな。相槌を挟む秀吉に、当たり障りのないチート知識(未来知識)を披露しながら「思ったより使える男」という印象を与えておく。ふふふ、イメージ戦略もバッチグーだぜ。

そんな信意の目には、黒田官兵衛が秀吉と同じ無機質な眼で自分を見ていたことに気がついていなかった。



9月11日-京・妙心寺において柴田勝家やお市の方が主催となり百日忌を行う。
翌12日-京・大徳寺において羽柴秀勝(信長四男。秀吉の養子)が中心となり百日忌を行う

11日は柴田派、12日は羽柴派の法要というわけだ。ちなみに約束どおり俺は叔父二人(織田長益・織田信包)の首根っこを捕まえて参列させた。後の有楽斎こと源五郎長益は、本能寺の変で二条御所から脱出できた数少ない一人である。命を永らえた代わりに「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」などとコケにされたのがよほど悔しかったのか「検地の用意で忙しい」「腹の調子が」などといちいち理由をつけて大徳寺行きを嫌がったが「愚だ愚だ言うと岐阜に送りつけるぞ」と脅しあげてつれてきた。すすけた背中の長益叔父さんの肩に手を回しながら、信包叔父さんが慰めていたのがなんとも印象的だったなぁ(遠い目)

法要が終わると、秀吉が側に近寄って(例の無機質な眼のまま)耳打ちをした。

「10月に右府様の葬儀を執り行う予定です。参列をお願いできますかな」
「無論」

俺は胸を大きくたたいて応じた。



10月3日-秀吉、従五位下左近衛少将に任ぜられる(宮中の警備を担当する官職)
10月8日-朝廷より信長に従一位太政大臣が追贈。

9日-京の警備が羽柴陣営によって強化(ここで秀吉が左近衛少将の地位にあることが意味を持つ)柴田派は京都の守護からはずされた(事実上のクーデター)


「はげねずみが!」

当然、柴田勝家は怒り狂った。しかしもう数カ月もしないうちに北国街道は雪で閉ざされる環境にあって軍事行動は事実上封じられていた。


13日-播磨から羽柴秀吉が上洛。翌日丹波亀山から羽柴秀勝が上洛。

15日-世紀の一大イベント「織田信長の葬儀」開催。



「なんだかどっちらけだよね」
「・・・御本所様、ここまで協力しておいて、いまさら何をおっしゃられるのです」
「だってあそこに入っているの、遺骨でも遺骸でもなくて、ただの親父の木像だろ?それをわざわざ死体に見立てて、1万の兵で警護して・・・これじゃ見世物にされているみたいだよ」

市民に混ざりながら葬列を見送っていた北畠信意は、岡田長門守にその不満を漏らした。確かに葬儀に協力するとはいった。しかしこれは想定の範囲外だ。親父といっても信長と彼とは血のつながりこそあれ、直接の面識はないため赤の他人である。しかしその赤の他人の死が、こうもあからさまに見世物にされることには不快の念を覚えた。葬列には故人をしのぶ気持ちというのは感じられず、お祭り騒ぎの喧騒しか感じられなかったからだ。

「少なくとも葬列とは故人を悼むものであるべきだ。長門守(岡田重善)もそう思わないか」
「まぁ確かに見世物ですな。しかしこれだけ人が集まったのは・・・」

岡田長門守が視線を周囲にやるまでもなく、葬儀の行列にはこの一世一代の見世物を見逃すまいと、多くの市民や野次馬が詰め掛けていた。その顔は一様に笑顔に満ちていた。

「右府様が慕われていたという何よりもの証明なのではありませんか」
「それはそうかもしれんが、これでは-」
「・・・はっはっはっは!」

唐突に笑い声を発した長門守に、信意は驚いてその顔を見返した。

「いや、申し訳ありません。ですが、何とも御先代の位牌に香を投げつけられた右府様らしい葬儀だと思いましてな」
「・・・ものは言いようだな、長門守」
「世間とはそんなものです。見方によって彼岸にも地獄にもなる。それが人生の妙というものですぞ?」

小豆坂七本槍の最後の生き残りである老人はそう言うと今度はいたずらっぽく笑う。その顔はひどく幼く、まるで少年のように見えた。


柴田勝家と羽柴秀吉が雌雄を決する『賤ヶ岳の戦い』は、すでに目前に迫っていた。




[24299] 第4話「信意はピンチになった」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2010/11/18 22:38
突然だが北畠左近衛中将信意、ピンチである。

「貴方は誰?」
「誰って、僕は君だけの愛の僕・・・ごめんなさいすいません許してください。ひれ伏して謝罪しますから、首筋に当てたそれを外してくださるとありがたいわけです、はい・・・」

今や天下御免のお調子者の首筋に薙刀を突きつけているこの女性。家中では千代御前と敬称されている北畠中将正室の雪姫である。大雑把に説明すると、この女性は6年前に織田信長の意向を受けた具豊(信意の前名)に父北畠具教を初めとした一族の殆どを殺害されている。要するに自分の亭主は自分の一族の敵なのだ。

北畠左近衛中将信意はわりと洒落にならない状況に陥っていた。

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いそしめ!信雄くん!(信意はピンチになった)

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面倒なので説明を端折ってきたが、そもそも信意の名乗る「北畠氏」とは何処の誰なのか。

説明しよう!北畠氏とは-村上源氏であり公卿であり武士であり伊勢国司であり守護大名であり戦国大名であるという、なんとも欲張りさんで盛りだくさんな伊勢の名門大名である。歴代北畠氏当主の中でも有名なのは南北朝時代に南朝の軍事的・理論的柱石だった北畠親房(1293-1354)とその子顕家(1318-1338)だろう。伊勢北畠氏は親房三男の顕能(あきよし)が南朝より伊勢国司に任ぜられたのを初めとする。南朝没落に伴い北朝=室町幕府に乗り換えたこの家は「ちゃっかり」と南伊勢の守護に任ぜられる。大河内・木造・星合らの庶流を出しながら着実にその勢力を南伊勢に確立すると、周辺諸国の守護大名が没落する中で「ちゃっかり」戦国大名への転身を遂げた。

そんな強かでしなやかな名門を中心に穏やかな平穏が保たれていた伊勢に「織田信長」という恐怖の大魔王が降臨したのが永禄11年(1568)。一度は撤退に追い込んだものの、結果的には降伏へと追い込まれた。ところでこの信長の伊勢攻めには大義が存在しない。美濃攻略には「道三の娘婿(領有権)&義父の敵討ち」、近江六角氏攻めには「義昭上洛の妨げ」という名分があったが、伊勢にはそれがない。あくまで純粋な「侵略行為」である。そこで信長は伊勢統治のために伝統的勢力の権威を徹底的に利用。現地の名門家に対して一族を送り込む手法を用いた。北伊勢の神戸氏には信孝(織田信孝)を、長野工藤氏には弟の信包を、そして北畠氏には茶筅丸(三介)である。

永禄12年(1569)11歳の茶筅丸と、具教の娘・雪姫との婚儀が行われる。そして、天正3年(1575)に織田家の圧力により北畠具教・具房親子は引退。茶筅丸は「北畠具豊」として北畠氏当主となった。こうして北畠氏はちゃっかり織田家大名への転身を遂げる・・・


とはいかなかった。公卿や旧守護大名家としての色合いを残す北畠氏は、流血を伴う大手術なくしての組織再編や意識改革は不可能である-果たして本当に不可能だったのかどうかは疑問が残るが、少なくとも天才的革命児でリアリストであった具豊の実の父、織田信長はそう考えた。



「御本所様が変なのです」

伊勢戸木城主の木造具政の唐突な物言いに、雪姫は目を丸くした。「三瀬の変」による粛清から逃れた北畠一門の重鎮は、雪姫からいえば叔父(雪姫の父具教の弟)にあたる。しかし実の叔父と姪という関係ではあったが、具政が織田信長の伊勢侵攻に内応したこともあり、関係は疎遠であった。その叔父が急に松ヶ島城まで赴いてきたのだ。雪姫ならずとも疑問に思うのは当然であろう。

「変、とは?」
「とにかく変なのです。頭の先から足の先まで、身振り手振りに喋り方-」
「それではまるで別人ではありませんか」
「ですから不敬を承知で変だと申し上げておるのです」

以前の信意は消極性と猜疑心の塊のような人間であった。織田政権の中での分家の当主としてならばそれでも問題はないと具政は考えていたが、本能寺の変-というよりもむしろその後の清洲会議によって北畠家を取り巻く環境は激変した。三法師という名誉当主のもと、羽柴秀吉と柴田勝家による織田帝国の政治的実権をめぐる宮廷闘争に否が応でも巻き込まれることになったのだ。ただでさえ旧北畠一門の重鎮として家中融和に腐心していた具政にとって、更なる頭痛の種となったのが、他ならぬ信意である。

「とにかく変なのです。御前様の言うようにまるで別人になられたような。明朗闊達で何事にも積極的という」
「よい傾向ではありませんか」
「それが危険なのです」

具政は眉間にしわを寄せた。信長が存命当時の織田家一門衆の序列は①信長②信忠(信長嫡男。織田家当主)③信意(北畠氏当主。現在は尾張国主)④信包(信長弟。伊勢津城主)⑤信孝(岐阜城主)⑥津田信澄(明智光秀の娘婿。本能寺の変直後に信孝によって誅殺される)⑥長益(信長弟)・・・と続く。信意は序列4番の信包、6番の長益を与力大名とし、なおかつ自身も有力な後継者の資格であった(信忠と信意は同腹の兄弟)。羽柴にしろ柴田にしろ、織田家と直接的な血縁関係にはない。形の上ではともかく、実質的には織田家を傀儡(名誉会長)に祭り上げたい勢力には、今の北畠家は一言で言うと「大きすぎる」のだ。信意の急な性格の変化と合わせて考えると、具政は気が気でなかった。柴田・羽柴が両立している現状のままならいいが、どちらかの勝利が確定した段階で「排除」される事態が容易に想像されたからだ。


実の兄具教と敵対し、北畠一門でありながら織田家に内応したこともあって、現代における木造具政の評判は悪い。しかしこの老人の行動は彼なりに北畠氏の将来を考えてのものであった。政変の中心である京に近い位置的環境にありながら、いつしか伊勢の田舎大名であることに満足していた北畠氏は、中央政府(義昭=織田政権)にとって目障りかつ危険な存在となっていた。それと同じ臭いを、具政は現在の信意に感じていたのだ。

「それで私に何をしろと?」

雪姫は冷やかな視線を叔父に向ける。だが軽蔑され、裏切り者と罵られようとも、具政には北畠の家名を存続させるために尽力してきたと言う自負がある。

「この松ヶ島城から清洲への政庁の移転が始まります。当然その際、信意様はこちらに立ち寄られるはずです。そこで御前に、信意様の真意を確かめていただきたいのです」
「・・・北畠の当主として生きるのか。それともそれ以上を望むのかを尋ねろと?」
「御意」

畳に両の拳をついて深く頭を下げた叔父に、雪姫は静かに目を細めた。



「いやいやいやいや、だから何度も言うけど僕は北畠左近衛中将信意だって、いや本当に。正味の話で。自慢じゃないけど、頭の先から足のつめ先のささくれまで、何処を切っても北畠信意だといえるから、うん」
「・・・それじゃあ確かめてみようかしら」
「まってまってまって、いまの冗談、うん冗談。羽毛布団の中の羽ぐらい軽い冗談なの、うん冗談。だからびっくりするぐらい忘れて欲しいと希望しますのですはい」

木造具政の言っていた「変」の意味がわかったと、雪姫は険しい表情の下で、おそらく叔父が感じたであろうものと同じ心労を覚えていた。変どころの騒ぎではない。これではまるで『別人』ではないか。

「ほ、ほら見てここ。安土籠城で頭を怪我したんだ(*砲弾の音に驚いて石垣に頭をぶつけた)だから記憶が混濁してるんだよきっと!うん。だからその物騒なものを私の首筋から除けていただけますと、信意は感謝すると思う次第でありまして『黙りなさい』はい!路傍の地蔵のように黙りますです!」

-誰だこれ

雪姫は頭を抱えた。


一方で信意はというと「雪姫って言うくらいだからやっぱり肌白いなぁ」などと・・・まぁ、命の危機にもかかわらず、頭のネジが12本から13本ほど緩んだことを考えていた。いや、生命の危機だからこそ、現実逃避をしていたというべきか。北畠氏の悲劇の歴史を知る信意は、まさか雪姫が生きているとは考えてもいなかった。てっきり彼女は三瀬の変で自害したものだと思い込んでいたのだ。

だから-つい口が滑ったのだ。

「えーと、なんで生きているの?」
「・・・よほど右府様(信長)の後を追われたいようですね」
「あ、ごっめん!冗談、冗談だから!その、口が滑ったから・・・あ!ちょっと切れてない?皮一枚ぐらい切ったでしょ、ねえ?!」


雪姫は薙刀の柄で信意の頭を殴って黙らせた。




天正4年(1576)11月25日。元伊勢国司北畠具教は隠遁先の三瀬御所で元家臣により暗殺される。これが惨劇の始まりであった。世に言う「三瀬の変」である。長野具藤(具教次男)・北畠親成(具教三男)が田丸城で暗殺されたのを初め、堀内御所や霧山御所において北畠家中の主要一族や家臣がことごとく誅殺。三瀬御所では徳松丸・亀松丸(共に具教の子)を初めとした婦女子にいたるまで惨殺された。また暗殺の実行部隊に北畠家臣を使ったやり方は世間の批判を受けた。

しかしこの事件は「織田家が北畠家を乗っ取るために北畠一族や譜代の家臣を誅殺した」というような単純な話ではない。北畠一族の中でも木造具政を初めとして庶流の田丸氏・星合氏などは粛清を逃れている。むしろ「北畠家中の反織田勢力」が排除されたと考えたほうが自然だろう。事実、上洛を目指す武田徳栄軒信玄と北畠家中の反織田勢力が連絡を取っていたとされる。ちゃっかり大名北畠家も200年以上続くとそれなりのしがらみと、名門としての意地が生まれていた。何処の馬の骨ともわからない、それも平氏を自称する織田家に、村上源氏の名門北畠氏が膝を屈するのか。そんな鬱屈した感情が充満していたところに、もしも「甲斐の虎」から次のような手紙が送られたとすれば-

-我ら源氏(武田氏は源氏)が手を組み、横暴を極める平入道(平清盛=信長)を討とうではないか-

そんな手紙が実際にあったのかどうかわからない。しかし謀略の鬼、徳栄軒信玄ならその程度のことは書きかねない。この誘いが、織田家に押さえつけられた北畠譜代の家臣や三瀬の隠居にはどう写るか。結果的にはその意地が彼らの-雪姫の父具教の命取りになった。


「父や弟の事に関しては遺恨がないと申せば嘘になります。ですが私とて北畠の女。道理のわからない女子のような恨み言を申し上げるつもりはありません」
「そ、そうか、いや、そうかそうか」

軽く皮が切れた首筋を押さえながら、信意は露骨に安堵のため息を漏らした。雪姫は一瞬表情を緩めたが、直に顔を引き締めた。静かなそのたたずまいからは、頭は下げれども、凛として媚びない気高さを感じさせる。信念とまでいってしまうと多少狭隘だが、自分というものをもっている女性だという印象を信意は受けた。大和撫子とは本来、このような女性を表現した言葉ではなかったのか。

「先ほども申し上げましたが、ずいぶんとご様子が変わられましたね」
「実はな、俺は俺であって俺ではない。そう、それは宇宙46億年の神秘と曼荼羅。とある不思議な力によって、未来から-」
「誰かある、頭の医師を呼びなさい」

殺される心配が無いとわかると、信意は早速調子に乗った。うむ、このボケに即座に対応するとは。やるな雪姫。

「どうやら血が止まったようだ」
「もう少し深く切りつけておけばよろしゅうございました」
「は、はは・・・しゃ、洒落になってないからやめような」
「・・・ひとつ、後本所様にお尋ねしたきことがございます」
「なんだ?スリーサイズは秘密だぞ?」
「信意様は-」

それまでの人を閉ざす信意とは違う態度に影響されたのか、雪姫は好奇心に後押しされ、いつもなら決して口に出来ないようなことを信意に尋ねる。それは今の信意にしか答えられない-それゆえに質問どころか口にすることすら憚るような内容のものであった。

「信意様は何を、感じられました」
「また唐突だな。感じるも何も、何に対してだね?」
「先の明智の乱によって、織田家では右府様を初め、兄君の岐阜中将様(信忠)、叔父上の津田殿(又三郎長利)、そして源三郎様(織田勝長。信長五男)が亡くなられました。家臣の中でも村井様、森様を初めとして多くの方々が」
「・・・そうだな」
「もう一度お尋ねします。何を、感じられました」

何だ、そのとんでもなく地雷臭のする質問は。信意は腋の下に盛大に汗をかき始めた。下手なことを言えば問答無用で、さきほどとは違い無言で切られることは容易に想像できた。それがわかったからこそ、信意も正直に答えた。

「わからん」
「・・・わからない、とは?」
「急なことで感情の整理がつかない-と言い逃れするつもりじゃない。悲しいとか、悔しいとか、恨みとか、とにかくそんな言葉や感情じゃ、今の気持ちを言い表せないんだよ。何と言ったらいいのかな・・・なにかこう、事態が大きすぎて、現実のことじゃ、自分の事ではないような気がしてね。まるで本の中の出来事を眺めているような、そんな感じなんだ。それに家族といっても、ある意味他人以上に遠い存在でもあったから」

嘘は言っていない。転生なんて馬鹿なこと、現実のこととして直ぐ受け入れられるほうが人間としておかしいし、信長や信忠は実際他人である。第一、今の信意は彼らと話したどころか、顔を直接見たことも無いのだ。

雪姫は信意の独白に静かに耳を済ませていた。その沈黙が怖く信意が黙って頷いていると、すくっと立ち上がる音が聞こえた。


「・・・私も三瀬のことを聞かされた時には、同じように感じました」


掛ける言葉が見つからず、信意は無言で雪姫が退出するのを見送った。




「叔父上。中将様とお会いしてきました」
「・・・はッ」

具政は驚きのあまり、一瞬呆然としてしまったが、すぐに我に返って頭を下げた。一体どうしたことだろう。自分を「戸木殿」と呼ぶことはあっても、決して身内として接することのなかった御前様が。

「叔父上の言葉の意味がよくわかりました。まるで別人。私は南蛮人と話しているような気持ちになりました」
「・・・は」

まさか「そうでしょうとも」と頷くわけにもいかず、具政は短く答えた。

「右府様御生害で、北畠当主として、北畠信意としての自覚に目覚められたのでしょう。ですが叔父上のご懸念はもっとも。今のままでは、北畠のお家は、織田と言う名の腐肉を漁る羽柴と柴田の間で都合の言いように利用され、そして歴史の中へと消えていくことになるでしょう」
「それは・・・いや、しかし・・・」
「叔父上。顔をお上げください」

御前-雪姫の言葉に一瞬ためらいを見せた具政だが、再び促されて面を上げた。


「・・・ッ」

具政は今度こそ言葉を失った。


雪姫様が、三瀬の変以来、感情を表さなくなった雪姫が、静かに微笑んでいたのだ。


「・・・私は三瀬の様な事はもう見たくありません。ですが私は女の身。出来ることは限られています。ですからこそ叔父上に、私と同じ思いをお持ちの叔父上にお願いしたいのです。御本所様を支え、正すべきを正してあげてほしいのです」

思いもがけない言葉に、具政は動揺した。まさかそのような言葉を雪姫本人から掛けられるとは予想だにしていなかったからだ。

「今の北畠家には岡田長門守(重善)を初め、津川玄蕃允(義冬)殿、生駒蔵人(家長)殿、織田源五郎(長益)殿-そうそう叔父上のお子の大膳(長政)も。優秀な方々がそろっておられます。ですが信意様の危うさを正すことが出来るのは、一門衆であり、なおかつ『三瀬』について知る叔父上にしか出来ないことなのです」


お願いできますか、叔父上


木造具政は言葉ではなく、態度で意を表した。

畳にこぶしをつき、深く、深く頭を下げた老人の肩は、微かに震え続けていた。




[24299] 第5話「信意は締め上げられた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/21 07:24
癇の鋭そうなお顔-それが少年に対する少女の第一印象であった。この世に生を受けた時から人に傅かれて育ってきた少年は、そうあることが当然のように上座に腰掛けている。色白で華奢な身体つきや、その立ち振る舞いからは武術の心得があるようには見えない。そして案の定、少年の声は妙に甲高い、彼女を苛立たせるものであった。

『織田弾正(信長)が次子の茶筅である』
『北畠不智斎(具教)の次女雪と申します』
『雪か、よい名だな』

少年にとっては何気ない言葉だったのだろうが、その一言にこめられた無神経さと鈍感さが雪姫の癇に障った。形の上では同盟関係とはいえ北畠氏は織田家に臣従した。その意味がまだ完全には理解出来ていなかった少女は、侍女達の不安気な態度を尻目に、この鈍感な婚約者につれない答えを返した。

『さして珍しい名ではありません』

しかし、少年の鈍感さは、少女の想像をはるかに超えていた。

『なるほど。確かに私の茶筅という名に比べれば珍しくともないな』

雪姫は呆れた。あの愚鈍な兄具房でもここまで的外れな答えは返さないだろう。嫌味と理解できなかったのか、それともあえて気がつかない振りをしたのか。後者であるはずがなく、前者の究極系である少年の的外れな返答に、少女の落胆は深まった。

『だがよい名前だ。少なくとも、私はそう思った』

瓜実顔の少年はそう言って顔をぎこちなく綻ばせた。それが目の前の鈍感な少年が精一杯考えた上での気遣いの言葉であった事を少女が理解できるまでには、今しばらくの時間が必要であった。

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いそしめ!信雄くん!(信意は締め上げられた)

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織田信長の死によって最も貧乏くじを引かされたのは、甲斐府中城主の河尻肥前守であっただろう。わずか4ヶ月前に武田氏を滅ぼし、新たに甲斐の国主となった彼は支配を確立するまもなく織田政権の崩壊を知らされた。「織田」が滅んだことを知った武田旧臣は一挙に反乱を起こし、織田の代官を敗死させる。それを見て同じく武田旧領の信濃の織田方城主も、領土を放置して旧領の美濃や尾張に逃げ帰った。

空白地帯となった信濃・甲斐、そして上野をめぐり、徳川・北条、そして上杉による三つ巴の争奪戦が行われた。これを「天正壬午の乱」という。細かい経緯を省いて結果だけを先に言うなら、旧武田領の大半はかつての織田家の同盟者の手に落ちることになるのだが、その道のりは決して平坦なものではなかった。

数ヶ月前まで滅亡寸前だった上杉に北条・徳川と相対する実力はなく、早々に旧領の北信濃四郡を得て撤退。北条は5万近くの大軍を率いて武田旧領に侵攻。一時は信濃全域を治める勢いであった。しかし手勢1万足らずという徳川軍は巧みに正面衝突を避けながら、真田・依田ら地元領主の協力を得たゲリラ戦で北条軍の補給路を断ち、佐竹・宇都宮といった北関東諸将と手を結んで北条を背後から脅かした。これをうけて小田原では和平論が台頭。信濃のために本領関東を脅かすつもりのない北条家は、内々に徳川家との和睦と、それより一歩踏み込んだ軍事同盟の締結を徳川に打診した。西の憂いをなくし、北関東の反北条家勢力との戦いに専念するべきであるという北条美濃守(家康の学友)・板部岡江雪斎らの主張は、こう着状態に陥った信濃戦線を打開するための有力な打開策として検討されることになる。10月の後半-ちょうど京都において盛大な信長の葬儀が行われている頃には、両家の間では具体的な領土の取り決めの段階に入っていた。


「-漆塗と金箔張りの右府様の木像に、一万の兵か。筑前殿の派手好みは相変わらずだな」

遠江浜松城で北条方との交渉に神経を尖らせていた徳川家康は、上方での政局の展開の速さに思わず苦笑を漏らした。徳川家康はこの年(1582)39歳。多少奇異な感じがしないでもない。桶狭間の戦い(1560)以降22年の織田信長の人生がいかに濃密なものであったのかということだ。ちなみに現在、織田家の宰相の地位を争っている二人の年齢を上げてみると-羽柴秀吉45歳。柴田勝家60歳。15歳年下の、しかも中途採用の秀吉に頭を下げろといわれても、生え抜き叩き上げの勝家には無理な話だということがわかる。両雄並び立たず。何より徳川家には上方=織田政権の宰相争いには無関心でいられない『理由』が存在した。


「都では羽柴筑前こそ右府様の後継者との呼び声が高いご様子。清洲会議で三法師様支持に回られた丹羽様、池田様は無論のことですが、元々の傘下であった備前の宇喜多に加えて、旧明智派の丹後の細川家、大和の筒井家も羽柴方にお味方されるでしょう」

徳川の外交を取り仕切る石川伯耆守は、上方の政情を感情を交えず淡々と報告した。岡崎城主にして西三河衆筆頭の数正は、戦場での武功数知れずという武人としての顔と同時に、清洲同盟(織田家と徳川家の軍事同盟)の締結に奔走したことからわかるように、畳の上での戦にも長けている。本能寺の変以降も、家康は旧織田家中への人脈を有する石川伯耆守を上方の窓口兼情報収集役としていた。

「対する柴田方は、能登の前田、加賀の佐久間、越中の佐々ら元々の与力大名に加えて、佐々との結びつきが強い飛騨の姉小路氏、美濃の織田信孝様、そして北伊勢の滝川殿らがお味方する模様・・・状況的に考えますと上方をおさえる羽柴が圧倒的に有利かと。右府様の馬廻衆(親衛隊)や近習・小姓(秘書官)らの多くは明智に討たれましたが、旧織田政権の人物-この度近江佐和山城主となられた堀秀政や長谷川一秀殿、前田玄以殿らは、15日の右府様の葬儀への参列が確認されています。中間派諸将もその大部分が羽柴方とみてよろしいかと」

「伯耆守、何故三介殿-いや北畠中将殿の名前を挙げない」

石川伯耆守の報告を黙って聞いていた家康が口を挟んだ。尾張に南伊勢、そして伊賀を治める北畠信意は旧織田一族の有力大名であるだけではない。信意は織田家当主の信忠の同腹(母親が同じ生駒氏)の嫡出子であり、織田一族の中での地位は高い。また本能寺の変以降の一連の騒乱では「人が替わった」かのような機敏な動員を行い、安土城籠城戦で一躍株を上げた。彼の政治的ライバルである岐阜城主の織田信孝が柴田方に属する以上、彼が羽柴方に味方するのは当然である-そう見られていた。

「何故中将を羽柴側に加えないのだ。まさか柴田方につくわけが-」
「その可能性は高いと羽柴筑前殿は見ておられるようです」
「あの三介殿と三七殿が手を組むと?」

家康の疑問は当然であった。三七信孝と三介は同じ永禄元年(1558年)生まれだが、三介が次男、信孝が三男とされた。嫡男奇妙(信忠)と同腹であり事実上の正室生駒氏の産んだ三介が優遇されたのだろうが、これが「実は数日早く生まれていた」とされる信孝の闘争本能に火をつけた。秀吉と勝家が並び立たないように、三介と信孝も並び立たないというのが家康のみならず旧織田家中の見解であった。しかし石川伯耆守はそれを否定する噂を家康に伝えた。

「あくまで憶測に過ぎませんが、清洲会議の間、北畠中将は信孝様との和解の意を表されたという話があります。また岐阜と尾張国境における領土紛争において北畠中将家が先に妥協したのは、信孝様に和解を打診するためだと」

噂とは恐ろしいものだ。清洲会議の間、同じ部屋にいた信意と信孝が言い争いをしなかったことが(すくなくとも信意にそのつもりはなく、信孝は犬猿の中の信意が妙な視線を自分に送ることに困惑していた)あらぬ噂を呼び、単に書類を間違って決裁しただけのことが「和解の打診と織田家の団結を呼びかけた」という、根も葉もない噂に尾びれまで生やす結果になったのだから。


知らぬは信意ばかりなりである。


「信長殿の子供が集まって悪巧みを考えているというわけか」
「京-羽柴様はそのように考えておられます。柴田・羽柴ではなく『織田』の団結をもくろんでいるのではないかとお疑いなのです。そのため羽柴様は直々に北畠中将様に右府様の葬儀に参列されるように懇願したとか」

家康は顔を曇らせ、親指の爪を噛んだ。元より家康に「織田家の宰相争い」に参加するつもりはない(その資格もない)。彼が興味があったのは、北条との和睦によって徳川が得ることになる信濃・甲斐の地位が保全されるかどうかという一点に尽きた。信長より領主の地位を与えられた代官や城代は逃げ出したとはいえ、権力や統治の正当性はいまだ旧領主が有している。柴田と羽柴による権力闘争が終わると、その矛先が自分に向きかねないという危惧の念を家康は有していた。

「織田の団結・・・そのようなことあると思うか?」
「今の北畠中将様なら、あるいは-」

石川伯耆守はそこから先は口を濁した。羽柴と柴田の戦いに、北畠中将がどのように望むかは、この老練な外交官をもってしても想像ができなかった。


10月29日。北条家と徳川家の和睦が成立。北条は上野を、上杉は旧領の北信濃四郡を、そして徳川はそれ以外の信濃と甲斐を獲得した。また当初難航の予想された家康の娘督姫と、北条氏直との婚儀については、徳川方が急に軟化したことにより成立。こうして4ヶ月に及んだ旧武田領の戦いは幕を閉じた。(余談ではあるが、北条との領土交渉において上野真田領の扱いを頭越しに領地を決められたことに激怒した真田家が徳川から離反。真田と徳川の因縁の始まりとなる)

新たに得た領地の経営に力を尽くしながら、若き東海道の覇者の目は西へと向けられていた-




-10月30日 近江国安土城 摠見寺(石垣修復工事の普請監督所) - 

葬儀に出席した帰路に安土城を視察しようとしたら、会いたくもないし呼んでもない人間が京から俺の後を追ってきた。女ならうれしいけど、残念ながら彼らは男である。しかもかなり年をくった。くそッ、なんでだ?なんで俺の周りにはむさい男ばっかり近寄ってくるんだ!!


「北畠中将様には織田姓を名乗っていただきたいと、わが兄羽柴中将は申しております」
「・・・たしか弟君の秀長殿と申されましたな。羽柴殿にも申し上げたが、重ねて申し上げよう。不肖の息子の身で織田姓を名乗るのは、私にはあまりに荷が重過ぎる。なにとぞご遠慮させていただきたい」
「これは言葉を間違えました。名乗っていただかないと困るのです」

にこやかに「お前に選択肢はない」と言ってのける羽柴小一郎秀長に、キング・オブ・小心者の信意は、秀長が自分の一番苦手とするタイプであることを悟った。すなわち有無を言わさずに要求を押し通すタフな交渉人だ。そしてこういう人間は外堀と内堀を埋め、その上に橋を通し、なおかつ大軍で城を包囲してからでないとやってこない。

「安土城を守り通した岐阜中将様とは思えない気弱な物の言いようですな」
「小心ゆえ城を守り通すことができたのです、官兵衛殿」

表の羽柴秀長と裏の黒田官兵衛。羽柴家中の二枚カードをそろえてきたあたりに秀吉の本気が伺える。本気と書いて「マジ」と読むあれだ。そんな具合に現実逃避をしていると、黒田は中国地方の大大名・毛利氏との交渉を抜けてやってきましたと、わざわざ前置きしてから話し始めた。毛利との同盟より、俺の事案のほうが羽柴家にとって重要度が高いというわけか。


「聡明なる北畠中将にはすでにご理解しておられるでしょうが」

それにしても本当に近年まれに見る嫌な男である。有岡城で餓死してりゃよかったんだ。その横で平然と微笑んでる秀長さんはたいした男だよ、本当に。嫌味じゃなくて本心からそう思う。石垣の上から蹴落としてやろうか。

「三法師様の後見役の一人である前田玄以殿が、岐阜への入城を断られました」

あちゃーと、信意は額を押さえた。前田玄以は言うまでもなく二条御所から三法師を抱いて脱出した人物である。清洲会議において羽柴秀吉は安土城御殿修復までの間、織田信孝(柴田派)が岐阜城で三法師を養育する条件に、自身の指名した後見役を岐阜に送り込んだ。前田玄以はそのうちの一人である。玄以は中間派であると見られていたが、15日の信長の葬儀に参列するため京に上ったのが羽柴派への鞍替えと信孝には写ったらしい。そして柴田勝家の治める越前から近江に出る北国街道は雪に閉ざされている。

簡単に言えば「信孝は単独で秀吉に喧嘩を売った」のだ。


「あの馬鹿、なんちゅうことを・・・いや、兄として詫びる。玄以殿にはよろしくお伝えして、いや私からも詫びておこう。いや本当に申し訳ない」
「頭をお上げください。中将殿に頭を下げられては、私は兄に会わせる顔がなくなります」

その割にこれといってへりくだる様子のない秀長。うーむ、人物としての器がまるで違うことを認めざるを得ない。秀長の器がこの安土の山から見下ろせる満々と水をたたえた琵琶湖なら、俺は肥担桶から声を移す柄杓ぐらいの差がある。わっはっは。ここまで差をつけられるとかえって清々しいぜ。

「それで信孝の不始末と、私の織田への復姓にどのような関係が」
「兄の言葉をそのままお伝えします」

ひとつ咳払いをしてから、秀長は重々しく口を開いた。


「我がほしいのは『織田』であり『北畠』ではない-兄はそう申しておりました」


盛大に顔が引きつる信意。北畠姓を名乗り続けることで織田政権の跡目争いに参加するつもりがないことを必死にアピールしていたのに、当の秀吉から「お前の考えなどお見通しだぞ」と宣言されたのだ。以前一度だけ見た、あの鉛のような無機質な秀吉の眼を思い出し、信意は震え上がった。これではどちらが立場か上かわからない。

「つ、つまり・・・なんだ。つまり、信孝に対抗できる織田一族は私しかいないというわけか」

信意が恐る恐るたずねた言葉に、秀長と官兵衛は無言でうなずいた。織田姓を名乗る岐阜国主の織田信孝に対して、秀吉方には織田一族の中で対抗となる人物がいない。織田信包、織田長益など、いるにはいるが信長の息子である信孝とは役者が違う。だが信意が織田姓を名乗るとあれば話は違う。ただ織田を名乗るだけなら信孝にもできるが「同腹」-織田家の前当主信忠の同腹である信意が織田姓を名乗る意味は天と地ほども差がある。当然その先の、世論対策や旧織田家臣への多数派工作にも違いが出てくるだろう。

北畠中将が織田カードとしての自分の価値を正確に理解していると判断した官兵衛に対して、秀長は止めとなる一言を発した。

「兄上は三法師様に対する中将様の忠誠に感じ入っておられます。しかし、世間には中将様の努力を認めず、それどころかあろうことか根も葉もない噂を立てる輩もおりまして。例えば-そう、中将様は柴田様とご懇意だとか。兄上も心配しておられます」

(同時通訳-つまらん心配しとらんと、どっちに味方するかはっきりせんかいわれぇ)


信意、もう霜月(11月)だというのに汗だくである。


「・・・い、いや、その、あれ・・・いやあれだよ。うん。あれがそれしてあれなんだ。つまり、・・・家中の者とも相談してよく考えておこう」

「道中、くれぐれもお気をつけてお帰りください」

(同時通訳-月夜の晩ばかりじゃないからね)


秀長と官兵衛が立ち去った後、 摠見寺には白く燃え尽きた信意が座り込んでいた。


そして残念ながら-信意には幸いというべきか-優柔不断の塊のような彼がこの問題に決着を付けるのを待たずに事態は動いた。




[24299] 第6話「信意は準備を命じた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2010/11/21 07:23
- 11月1日 越前北ノ庄(柴田勝家の居城) -

「三七の馬鹿が」

織田家筆頭家老を持って自任する柴田修理亮勝家は、杯を呷りながら忌々しげに吐き捨てた。三七とは他ならぬ岐阜城主の織田信孝であり、旧主信長の息子を勝家は平然と呼び捨てにしている。かつては信長の信行を担いで信長と戦ったこともある老将は、たとえ主家筋とはいえども36以上も年下の、しかもろくに実績のない若者に対して、一人酒を飲む時にまで敬称をつけるほど大人しい人物ではなかった。

-早すぎる

勝家はじりじりとした焦燥感に追い詰められていた。老人を追い詰めるもの-それは政敵であるハゲネズミの策謀や、味方の頼りなさ、そしてかつての同盟国の道理も何もあったものではない侵略行為など多々存在する。しかし今最も老将の心を不安に駆らせるのは-

その時、軒先がミシリとしなる音が聞こえ、勝家は露骨に舌打ちをした。

白い悪魔。宇宙世紀の歴史を変え、幾多の少年の運命を狂わせることになるトリコロールの機動戦士。その名は・・・失礼。妙な電波が入った。しかし勝家を始め雪国の人々にとって見れば、まさにそれは天から降る白い悪魔以外の何者でもなかった。

悪魔の正体-その名を雪という。

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いそしめ!信雄くん!(信意は準備を命じた)

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「時間が-時間がない」

北ノ庄で勝家が一人呟いていたのと同じ頃、山城の山崎城(天王山城)では羽柴秀吉が同じ内容のことを千宗易相手に愚痴りながら茶を立てていた。だがこちらは勝家とは逆に待つ立場である。越前から近江に繋がる北国街道は12月には雪に閉ざされる。つまり柴田勝家は12月になると、柴田領の飛地である近江長浜、そして三法師を擁する織田信孝の美濃岐阜城との連携が取れなくなる。秀吉はそれを待っていた。待っていたが故に、勝家と同様に苛立ちを隠せずにいた。

「草の知らせでは雪はまだ一尺ほどしか積もっていない。今、岐阜や長浜を囲むのは容易だが、それでは勝家に背後を衝かれる」
「若狭の丹羽様や越後の上杉様はいかがなされております」
「五郎左(丹羽長秀)殿は私を支持してくれてはいるが、あの御仁の性格からして積極的に関わるつもりはないだろう。牽制がいいところだ。滅亡寸前だった上杉など、佐々相手にも苦戦する有様。まして勝家相手ではな」

秀吉が乱暴に立てた茶を、宗易は顔色一つ変えずに飲み干した。主人である秀吉の顔を立てるためといえば聞こえはいいが、その態度は今や織田家中最大の権力者となった秀吉に媚びているように受け取られかねない。しかし彼の行動や仕草にはそうした卑屈なものを、秀吉は何一つ感じることはなかった。

「宗易殿は悪人だな」
「私は所詮商人。織田家を乗っ取ろうとする羽柴様ほどではありません」

その言葉に秀吉は声を上げて大笑した。

「まったく、宗易殿にはかなわんな・・・それで此度はどんな土産話を聞かせてくれるのだ?」
「近日中に能登の前田利家様、越前大野の金森様、そして不破彦山(勝光)様の3名を代表とする使節団が上洛します。目的は羽柴と柴田の和解」

宗易好みという黒茶碗を撫でるように両の手で抱えながら、茶人は何気なく重大な事実を口にした。宗易がその茶碗を、まるで女子の肌を撫でるかのように慈しみながら触れるその手に秀吉はなにやらおぞましいものを感じたが、同時に彼の思考の中で大部分を占める理性をつかさどる頭脳は、利休の言う情報について考えをめぐらせていた。日ノ本一の商都・堺には全国から様々な情報が集まる。そして商人の値打ちはその情報の真偽を確かめる真偽眼と、商機をかぎわける嗅覚、そして決断力の三つである。利休のもたらす情報はいつでも正確で的を得たものであり、秀吉はその点に関してはこの茶人に対して絶対の信認を置いていた。

「焦っておられるのは柴田様も同じこと。前田玄以様のことで秀吉様が岐阜城を攻めるのではないかと考えておられるようです。しかし北国街道には既に雪が積もり始めている。後方の退路や補給路も定まらずに出陣するのは避けたいのが本音のご様子」
「それで又左(前田利家)か。勝家も芸がない」

勝家を嗤った秀吉だが、その顔には深い疲労が刻まれている。無理もない。本能寺の変以降、肉体的にも精神的にも走り詰めなのだ。ましてあと数ヶ月の内に、自分の手の届くところに天下が近づいている今は。それゆえ秀吉は待てない。あと1ヶ月、これから北国街道に雪が積もるまでの1ヶ月は、この小男には誰よりも長く感じられることだろう。

-この小男に勝ってもらわねばならない

それは宗易のみならず堺を治める有力商人の共通した見解である。堺はこのたびの羽柴と柴田の争いにおいては表面上の中立を保ちながら、羽柴の勝利を期待していた。理由は簡単である。旧織田家の中国方面軍司令官であった秀吉とは繋がりがあり、北陸方面軍の柴田勝家とは商いの伝が薄いからだ。とはいえ戦は商いと同じく水もの。気の利いた商人は両方に掛け金を掛けていた。そして宗易は掛け金を多少秀吉に多く掛けていただけの話だ。そのため秀吉の不安となっているもう一つの懸念についても、宗易は調べがついていた。


「北畠中将殿ですが-」

その言葉に、茶道具を片付けていた秀吉は明らかにこれまでとは違う反応をした。じろりと宗易を見据え、普段はあれほど姦しい口を開こうともしない。宗易が意図したわけではないのだが、秀吉の手には先ほど乱暴に茶を立てた『茶筅』が握られていた。

「北畠中将は家中の不和を何よりも案じておられます」
「不和、だと?」
「今回尾張を獲得され、家臣団が急増したことによって北畠家としての一体性が薄れることを恐れておられるのです。このところ木造具政や岡田長門守ら、旧北畠一族や織田家からの付家老と積極的に面談しておられることは、不安の裏返しです」
「・・・自分が織田を名乗ることで、旧北畠家臣団と織田家から出向した家臣団との間で亀裂が生じるかもしれない-というわけか。三瀬の変で一族や家臣を粛清した信意殿とは思えないな。いざとなればもう一度、粛清なり追放なりをすればよいではないか」
「強行策の利点と欠点を経験しているからこそとも言えます。今は衰えたとはいえ、北畠具親が反信意勢力として存在している現状が、中将殿の不安を裏付けているのでしょう」

宗易は黒茶碗を畳の上に置いた。やはりこれは茶室でも映える。たとえ黄金の茶室といえども、この茶碗の存在感が揺らぐことはないだろう。元瓦職人が創ったとは思えない茶碗の出来栄えに満足しながら、悪人は極悪人に語りかけた。

「茶道具は所詮茶道具でしかありません。その使い方を知り、価値を知るものが持たねば、たとえ高麗井戸といえども雑器と変わりありません」
「それくらいわかっておる」

秀吉はその小柄な体からは信じられない握力で、竹で出来た茶筅を握りつぶした。


「だがわしにはあれが、何の道具なのかすら解らないのだ」




- 11月8日 近江国安土城 摠見寺(石垣修復工事の普請監督所) - 


「すっごく、おおきいです」

「・・・また何をわけのわからない事を。仕事の邪魔ですから、さっさと退いて下さい」

運び込まれた巨石を前に恍惚とした表情で呟いた信意に、安土城石垣修復工事の監察のために清洲から足を運んだ土方勘兵衛は冷たく言い放った。最近、部下の扱いがどんどん雑になっているような気がする・・・土方、お前清洲に帰った覚えてろよ。ナニをこうして、ああして・・・ふふふ・・・・・・っは!津川、お前何時からそこにいた。

「最初からです」
「絶望した!部下の扱いがぞんざいな自分に絶望した!」

これ以上騒ぐと、気の荒い穴太衆の石工職人に蹴り出されそうなので自重する。

「それにしても金かかるよなぁ」

信意はため息をついた。石垣修復だけでも湯水の如く金と人と資材が必要だというのに、籠城戦で焼けた二の丸御殿(三法師の住居になる予定)の修理を考えると頭が絞られるように痛くなる。これで史実通りに廃城になったら俺は暴れるぞ。拗ねるぞ。そうなると面倒だぞ~・・・自分で言っておいてなんだが、大変空しい。町を焼かれた住人-中でも裕福層は伝を頼り、近隣の都市や商都に転出してしまっている。安土がかつての繁栄を取り戻すのはかなり難しいだろう。そして本格的な都市再建のための費用を出すほど北畠家は裕福ではない。

「羽柴殿がかつての石山本願寺跡に城を築くという話もあります。そうなればここは用済みですな」
「滝川ぁ・・・不吉だからそんなこと思ってもいわないでくれ」

付家老の滝川三郎兵衛の、割とリアルで的外れでもない未来予想図に信意は情けない声を上げた。彼は名前からわかるようにかつての織田家関東管領の滝川一益の養子(娘婿)であり、一益没落の原因となった神流川の戦いにも従軍している。いわば織田家からの出向組だが、彼は北畠氏一門の木造氏出身でもあることから、信意は北畠・織田融合の象徴として期待していた。


「それで、津川に滝川。雁首そろえて何の用だ」
「はっ。実は柴田と羽柴の和睦交渉についてですが-」
「あ、それ。ないない。絶対ない」

まるで明日の天気を予想するかのような軽い調子で断言した主に、津川と滝川は共にあんぐりと口をあけた。

「柴田は北国街道が雪解けになり、軍勢が動員できるようになる来年の4月頃まで戦いを延期したい。そのための時間稼ぎだ。そして時間稼ぎであることは羽柴にもわかっている」

チート知識(未来知識)万歳。てか、これがなかったら俺は確実に野垂れ死にだろう。知識も何もなく、実際の信雄みたいにやれる自身はないし。途中で秀次の代わりに粛清されるかもしれない。そんな未来は嫌だ。

「では羽柴様はどうしてその茶番にお付き合いを」
「待っているのだ、雪が降るのを。断言しよう。秀吉殿は街道が雪で閉ざされるのと同時に岐阜を囲んで三法師を取り戻すぞ。飛地の近江長浜や-三郎兵衛を前にしていうのは気が引けるが、滝川殿などを個別撃破するつもりなのだろう」

顔が曇る三郎兵衛。信意は三郎兵衛に命じて一益への呼びかけを続けさせていたが、一益は娘婿の誘いを受け入れる気配がない。同じ中途採用組みの秀吉の下に立つのが耐えられないのだろう。関東管領としての権勢を誇った頃が忘れられないのだと嘲笑することは簡単だが、それは若者の傲慢だ。何より「明日はわが身」である。

「とにかく12月になれば事態は動き出すだろう。それまでに尾張の検地を終えておきたいから、叔父上(長益。尾張検地奉行)には急ぐように伝えてくれ。それと津川」
「はっ」
「いざとなれば信包殿(伊勢津城主)と協力して(津川は松ヶ島城主)北伊勢の神戸領と伊勢長島城の滝川を牽制しろ。いざとなれば長島城を包囲してもかまわん。とにかくそのつもりで軍備を整えておいてくれ。尾張の兵でも牽制ぐらいはできるが、動員となると難しいだろうからな」

てきぱきと指示を下す信意は、先ほどまで妄言を並べ立てていた人間と同じ人物には見えない。少なくとも三郎兵衛はそう思った。



- 同時刻 山城 山崎城 -

「如何でございました」
「上々。又左は相変わらずいい男だ」

羽柴秀吉はそういうと大きく笑った。不思議な男である。これほど欲望の多い男が、これほど無邪気な笑い方をする。この笑いが自分に些か大胆な賭けをさせているのだと、千宗易は自分の中の美意識に釈明をした。美こそは彼の神の名前であり、それを広めるためには命すら惜しくはないと彼は考えていた。確信犯であるだけに、ある意味狂信者よりも性質が悪い。

秀吉は上機嫌で茶室へと入ってきた。この様子では柴田家の使者-前田利家、金森長可、不和勝光との会談で望むものを得ることに成功したようだ。

「又左はいいやつだ。勝家からの和平の申し入れにわしが賛成すると言うと、喜んでわしの手を握りおった」

友情と親父殿への義理の間で揺れていた槍の又左殿はさぞや安堵したことだろう。いうまでもないことではあるが、宗易は秀吉に念を押した。

「約束を守らない商人は信用されません」
「何、又左の顔を潰すようなことはしない。約束は守る。だが、停戦期限について向こうは来年までと考えているが、こちらは半月先までだという考え方の相違はあるがな」

秀吉は口を押さえ、堪えきれないという様子でくっくっくと低く笑った。いうまでもなく北陸道-中でも越前は全国有数の豪雪地帯として知られているが、それは軍を動かすことが困難になることを意味している。あと半月すれば、勝家は美濃や北伊勢で何か起ころうとも軍を動かすことが出来なくなる。

織田信孝が前田玄以を岐阜城より追放したという知らせは、秀吉を大いに喜ばせた。信孝の行為は、羽柴・柴田の対立を苦々しく思っていた中間派諸侯に対する格好の大義名分になりうる。「三法師様を政争の具にした信孝殿には、もはや後見役の資格はない」とでもいいながら岐阜を囲めば、三法師の身柄は抑えたも同然。既に西美濃衆への切り崩し工作は順調に進んでいる。あれほど待ち遠しかった時間が、天が自分に味方する感覚を秀吉は味わっていた。

「ところで秀吉様。北畠中将殿のことですが-」

宗易の立てた茶を口に運ぼうとしていた秀吉は、眉間にしわを寄せてその手を止めた。持て成しとは茶を美味しく味わう環境を整えるということ。宗易は未だその環境を秀吉に提供できているとは考えていなかった。

そして秀吉は

宗易の持て成しに、満面の笑みを浮かべながら茶を喫した。


これより半月後の12月2日。羽柴秀吉は総勢4万の大群を率いて近江へ出兵。柴田勝家の甥である柴田勝豊が城主を務める長浜城を包囲した。


ここに賎ヶ岳戦役が幕を開ける。




[24299] 第7話「信意は金欠になった」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2010/11/21 07:28
- 天正10年(1582年) 12月27日 美濃国 岐阜城 -

岐阜織田家(信孝家)家老の岡本平吉郎良勝と幸田彦衛門尉は、堅く閉じられた襖の前でまんじりともせずに鎮座していた。共に言葉を交わそうともしない。奥の部屋には主君信孝がいる。恐らくその人生で始めて味わうであろう敗北感と恥辱を噛み締めているはずだ。両者は最悪の事態に備えるために部屋の前に控えていた。主の身は心配ではあったが、仮にそれを許せば家老である自分達が責任を問われることになるからだ。

羽柴秀吉率いる軍勢は、柴田勝家の甥勝豊が拠る長浜城を無視して中山道を進み、この岐阜城を囲んだ。その時になり始めて柴田陣営は、柴田勝豊が秀吉に内応していた事を知った。陽気な謀略家の手は勝豊だけに留まらなかった。東美濃の森武蔵守はもとより羽柴陣営であることは覚悟していた信孝だったが、彼が頼りにしていた西美濃衆-稲葉一族や氏家行広らは、羽柴勢の動きと歩調を合わせて岐阜城を包囲。美濃国内に信孝の味方は存在していなかったのだ。羽柴方との和平と言う名の降伏が成立したのは今日27日。織田信孝は「三法師様を政争に巻き込んだ」という理由で後見役を解任され、三法師の身柄は信孝の母や娘と共に秀吉へと引き渡された。信孝の恥辱と屈辱は察して余りある。

唯一の救いがあるとすれば、北畠中将の軍勢が岐阜包囲に加わらなかったことだろう。嫡子腹というだけで兄とされた信意を、信孝は蛇蝎の如く嫌っている。もし北畠中将の旗印を岐阜城を包囲する軍勢の中に見つけていれば、この誇り高い主君はそれこそ自害しかねなかっただろうという見解で、岡本と幸田は意見の一致を見せた。

良勝は眉間に刻まれたしわを指で揉みほぐした。相変わらず奥の部屋からは物音一つせず、中にいる信孝の様子を伺うことは出来ない。人質まで差し出したとはいえ、信孝が本心からあの小男に屈服したわけではないことは、幼い頃からこの主君に仕えてきた二人には、主の心中が容易に想像出来た。

-もはやこれまでか

それゆえ良勝は主君に見切りをつけた。信孝の性格から考えて、彼が秀吉を認めることはありえないだろう。周囲を羽柴陣営に囲まれた岐阜城はいわば陸の孤島。後詰のない籠城がいかなる結末を迎えるかは明らか-そして信孝の乳母兄弟である幸田とは違い、良勝には信孝と心中するつもりはさらさらなかった。

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いそしめ!信雄くん!(信意は金欠だった)

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- 天正11年(1583年) 1月1日 北伊勢 亀山城 -

東海道は近江甲賀郡から鈴鹿峠を越え、北伊勢の険しい山々に通された街道を通り、四日市を通り抜け、桑名から海路を使い尾張熱田宿へと入る。鈴鹿峠と目と鼻の先に位置する伊勢亀山城が、東海道の要所であることは論を待たない。

綺麗に化粧をされた男の首を前に、伊勢亀山城主の関安芸守盛信は驚きを隠せずにいた。首の名は若藤左衛門。関氏の一族が城主を務める峯城の重臣であり、かつての織田家の宿老滝川左近将監に内応して峯城、そしてこの亀山城に滝川の軍勢を引き入れようとしていた男だ。清洲の北畠中将からの情報に対して、盛信は当初「何の謀か」と疑い信じなかった。しかし念のために籐左衛門の身辺を調査させると、藤左衛門と左近将監の使者が接触を重ねていることが明らかとなった。そこで息子の四郎一政に直接問い詰めさせた結果が、目の前の首というわけだ。

「北畠中将が優秀な忍を召抱えておいでだという噂、あながち嘘でもないのか。しかし三介-いや、中将様は何故我らにこの情報を」
「父上、そのような事は今は問題ではありますまい」

峯城から首を抱えて帰還した四郎一政は、父親に詰め寄った。藤左衛門を袈裟懸けに斬り捨てた興奮が冷め遣らぬのか、目が血走っている。関氏は柴田派の勢力が強い北伊勢にあって羽柴方であることを公言している。重臣を寝返らせた滝川左近将監の意図するところは明らかであった。すなわち時を置かずして、この亀山が滝川の軍勢に包囲されるということである。

「すでに滝川左近将監の軍勢は伊勢長島を発したとのこと。滝川の軍勢にこの城を囲まれる前に後詰の要請を」
「貴様に言われずとも既に出しておるわ。しかし近江衆は岐阜城攻めに出払っている。蒲生殿の後詰もすぐには望めないが-とにかくこうなっては正月どころではないな。いまさら滝川の眼を気にすることもなくなった。おい、陣触を-」


「申し上げます。織田信包、津川玄蕃允の軍勢が神戸城を包囲したとの知らせが」


暫くの沈黙の後、四郎一政はポツリと呟いた。

「北畠中将様は千里眼でもお持ちなのでしょうか」



- 天正11年(1583年) 1月3日 尾張 清洲城 -

あけおめ。ことよろ。信意です。いや~去年は色々あったね。天目山での甲斐武田家滅亡(3月)、明智光秀謀反による織田政権の崩壊(本能寺の変)に山崎合戦、そして清洲会議。安土で死にそうになり、秀吉に締め上げられ、秀長に脅迫され・・・色々あったよ、本当。

ところで今は正月どころの騒ぎではありません。金欠です。それも極度の。ギブミーマネー。ギブミーマネー。大事なことなので2回言いました。同情するなら金をくれ。

「信意殿。そんな身もふたもない事をおっしゃらないでください」
「ないのは事実だ。ないものはない、あるものはある。これ真理なり」

織田長益は苦笑いしながら泣きそうになった。新たに北畠家の領地となった尾張は裕福な土地ではあったが、新たな家臣の雇用に治水工事に司法業務に・・・とやるべき事は山ほどあり、経費は湯水の如く掛かった。本来なら昨年秋に収穫された年貢をそれに割り当てるはずだったのだが、安土の石垣修復工事(現在進行形)に全て持っていかれた。おかげで検地の費用にも四苦八苦するありさま。財政方として尾張の検地奉行を兼任する長益には頭の痛い話である。しかし信意はあくまで能天気だった。

「金とは不思議なもの。あれば色々と心配の種になるが、なければないで色々とやりようがある」
「全く同意できませんが、例えば何が?」
「羽柴殿から岐阜攻めへの動員を免除してもらった。大垣に兵は出したがな」

信意は胸を張って答えた。昨年12月、岐阜城包囲に加わるよう要請した羽柴家からの使者(前野長康)に対して信意は堂々と「金がないから無理」宣言。さすがにその回答は予想していなかったであろう前野はあんぐりと口をあけるしかなかった。表向きは「尾張の検地が未了であり軍の動員が難しいこと」を理由にしてはいたが、事実上のサボタージュである。普段の小心者バージョンの信意なら怖くて決してそんな決断は出来なかっただろうが、安土の工事費用を一人で背負わされているという現実に今頃-というか今更ながら腹が立ってきたのだ。まるでステゴザウルスなみの反応速度である。いや、ステゴザウルスの反応速度は知らないけど。

とはいえそこは元祖小心者の信意。保険を掛けることも怠らない。大垣城に2千の兵を後詰として送る一方、本領である南伊勢に動員を命じ、北伊勢に(秀吉の同意を得た上で)兵を進めた。伊勢長島城の滝川左近将監一益がこの正月に決起することはチート知識で裏付けされている。小さな節約をしながら、大きな恩を押し売りする-これが信意の真骨頂である。


「ふふふ、やはり金がないという厳然たる事実は強いな。自分の才能が恐ろしいぜ」
「才能云々はよくわかりかねますが、少なくとも自慢できる話ではありませんな」
「つれないな・・・お、どうした勘兵衛」

慌てて部屋に走りこんできた土方勘兵衛に、信意は暢気に尋ねた。

「は、羽柴の軍勢が南下して、この清洲に向かっております!」


信意は泡を吹いて卒倒した。




「やぁやぁ、北畠中将殿。ご無沙汰いたしておりますな」
「は、羽柴殿。さ、し、して、なに用でございますきゃな?」

噛んだ。どじっ娘メイドさんなら萌えるんだが、信意では可愛くともなんともない。秀吉はそんな信意を見ながら陽気な人好きのする笑い声を発した。

「いやなに。近くまで立ち寄ったから新年の挨拶に参ったまで」

2万の軍勢を引き連れてか。信意は引きつった笑みを浮かべた。今清洲には城下に入りきらなかった軍勢を含めて-小荷駄まで含めると3万近い羽柴の大軍が逗留している。秀吉の身に何かあれば、清洲は即火の海になるというわけだ。わっはっは、もう笑うしかないぜ。


「そちらの女人は-」
「北畠中将が正室の雪と申します」

って、雪ちゃん。何時の間に出てきたの。

「おお、こちらが御正室の千代御前様でしたか。これは失礼を致した。それがし羽柴左近衛少将秀吉と申しまする。北畠中将殿には何かと世話になっておりまして」
「羽柴殿、そのようなことを・・・というより頭をお挙げください」
「いやいや信意殿、なにをおっしゃいます。卑賤の身より成り上がったこの私が、恐れ多くも亡き岐阜中将様の遺子であらせられる三法師様の後見役でいられますのは、中将殿の支持と御支援あってのこと。この場を借りて感謝申し上げますぞ」

そう言ってまたもや大仰に頭を下げる秀吉。やめてまじて。俺の心臓的な意味で。とにかく雪姫をさがらせないと、この臭い芝居を止めそうにない。信意は雪姫を退出させた。すると秀吉とマンツーマン。なんですかこの罰ゲーム。後生だから勘弁してください。岐阜に兵を出さなかったことは土下座して誤るから。


「さて、信意殿。改めて感謝いたします。北伊勢の一件、聞きましたぞ」

秀吉は今度は大仰な仕草をしなかった。だが、それが怖い。そこに座っているだけなのに、周囲を圧倒する何かを醸し出している。清洲会議の時には感じなかった何かだ。これが天下人のオーラというものなのか。

「真に優秀な忍を召抱えておられるようで、羨ましい限りです。かの滝川左近将監も中将様の実力を持ってすれば赤子の手をひねるようなものですな。我が羽柴の軍勢も加わり昼夜となく攻めたてれば、長島は一週間と持ちますまい」

褒められて悪い気はしない。だが信意の心は一向に沸き立たない。


「そこで中将様に一つお願いがあるのですが」


来た、来たよこれ。


「滝川殿は、長島は手を付けず、そのまま放置していただきたいのです」
「・・・岐阜と同じ陸の孤島にしろというわけですな。そして岐阜では近すぎる」
「左様。見え透いた餌には、魚も食いつきませんからな。まして相手は池の主です」

くっくっくと口元を抑えて秀吉は悪い笑みを浮かべた。それが実に様になっている。


現状では羽柴陣営が圧倒的に優位にあるようだが、実際には秀吉はいくつかのアキレス腱を抱えている。対外的には西の毛利家と東の徳川。大国毛利家とは備前岡山の宇喜多家(羽柴傘下の大名)を初めとしていくつかの領土紛争を抱えており、必ずしも関係が良好とはいえない。中立を宣言する徳川家康とて、秀吉と勝家の争いが長引けば、尾張や美濃を(かつての信濃や甲斐のように)簒奪に動かないとも限らない。何より羽柴陣営は秀吉を中心とした連合勢力であり、一度でもケチがつけば、離反者が相次ぐことは容易に想像された。ちょうど今の勝家の立場に秀吉がなるわけだ。

自らの長所を最大限に生かすため、羽柴陣営は短期決戦を望んでいた。しかし老将柴田勝家に無傷のまま領国越前に籠られては、秀吉とも言えどもそう簡単に手出しはできない。何よりそれは秀吉が一番嫌がる長期戦になることを意味している。そのため秀吉は何としてでも勝家を北ノ庄の巣穴から引っ張り出さねばならなかった。

勝家を釣り出す餌が「織田信孝」であり、信孝を釣り出す餌が「滝川一益」である。

柴田勝家が清洲会議において、織田家の後継者に信孝を推した理由は自身が三七信孝の烏帽子親であったことも一因である。(そのため柴田色を嫌った丹羽と池田は三法師支持に動いた)。烏帽子親は成人した若者の後見役となるのが慣例であり、勝家は信孝の義父であるといっても過言ではない。だがそうした政治的背景を差し置いても、この老将は若者の才気を、その些か鼻につく生意気さを含めて愛していた。たとえ殆ど勝ち目がなくとも、信孝の軽率な行動が羽柴に付け入らせる隙を与えていたとしても、勝家にはかつて信行を切り捨てたように、信孝を切り捨てるという選択肢は存在しなかった。


-わしのように利で物事を判断するには、勝家はあまりにも年をとりすぎている


秀吉は勝家を分析し、信孝が窮地に陥ればその巣穴から必ず出てくると判断していた。そして今の信孝であれば秀吉の投げた餌に必ず食い付くだろう。ただ、一つだけ疑問が残る。勝家の釣り出し策は、官兵衛と小六、そして小一郎(秀長)しか知らぬこと。では何故、この馬鹿丸出しにしか見えない北畠中将はその策にたどり着くことが出来たのか。

言葉は正確に使うべきだな-どうやって知ることが出来たか。つまりそういうことだ。秀吉は釣り糸をたらして魚の反応を伺うことにした。


「実はもう一つお願いがございましてな。信孝殿との和睦の際、岐阜方より人質をお預かりしたのです。信孝様の姫君などはまだ幼く、御生母の坂氏は高齢。なにぶん急なことで大変心苦しいのではありますが、一行を清洲でお預かりいただけないでしょうか」

「あぁ、かまわないよ」


魚は毛ばりに飛びついた。




- 2月4日 越前北ノ庄城 -

「兵糧が凍らないように注意しろ。戦の前に腹を壊しては本末転倒だ。米一俵につき、使用する薪は-」
「火縄・火薬は油紙で包めと申し渡したであろうが!同じことを何度も言わせるな!」
「違う違う、それは丸岡城行きの荷ではない。責任者はどこだ!」

いまだ雪の残る(残るどころか降り続けている)北ノ庄では、その雪を掻き分けるようにして戦の準備が進められていた。昨年12月、和平を結ぶという舌の根も乾かないうちに羽柴秀吉は軍勢を動員。柴田勝家が軍を動かせない事情と、北国街道の雪が溶けるまでの時間稼ぎとして打診した和平の真意を見透かしたかのように柴田陣営への武力制裁を開始した。また正月に決起した滝川左近将監一益に対して、清洲の北畠信意は先んじて手を打ち、滝川は逆に伊勢長島へと追い詰められている。降伏するのも時間の問題だ。柴田陣営が個別撃破され、中間派諸将も羽柴になびく現状に、柴田勝家は雪解けを待つことなく出陣を強いられることになったのだ。


「まったく、松の内があけたばかりだと申しますのに」

正室であるお市の方が城内の喧騒にうんざりした様に呟いたのを聞いた勝家は、眉間にしわを寄せて険しい表情を浮かべた。

「お方様。そのようなことを申されては困ります。筑前(秀吉)はすでに信孝様を降し、三法師様を掌中に収めました。このまま悠長に雪解けを待っていては、我らは筑前(秀吉)の織田家乗っ取りを指をくわえて見ているしかなくなります」
「わかっておりますよ。ですが冬の間ぐらい静かにすごしたいと思うのは人情というもの。もっとも、猿に人の世を理解しろと申すほうが無理な話ではありましょうが」

綺麗な顔をして平然と毒を吐くあたりは兄君の右府様(信長)に似たのか-勝家は苦笑した。お市の方が羽柴秀吉を嫌っていた理由は判然としない。浅井家滅亡後、その旧領(小谷→長浜)を織田信長より与えられたのが浅井家攻略に貢献した羽柴秀吉であったこと、お市の方が腹を痛めた嫡男万福丸(実母に異説あり)を磔にしたこと等々。様々な想像は可能だが、それらはあくまで推測の域を出ない。もしかしたら単に気に入らなかっただけなのかもしれない。

「それにしても勝豊殿も頼りない。一戦もせぬうちに敵に城を明け渡すとは。そもそもなにゆえ病弱な勝豊殿に長浜をお預けになられたのですか」
「・・・馬鹿な息子ほど可愛いものです」

勝家はそれだけ言うと杯を呷る。柴田勝家と柴田勝豊との関係は複雑であった。勝豊は勝家の甥(姉の子)でありその養子として迎えられた。しかし生来病弱で、もう一人の養子勝政との後継者レースで劣勢を強いられていた。そしてどうやら勝豊は、叔父から近江長浜の領主に任ぜられたことを「見捨てられた」と受け取ったらしい。近江は羽柴勢力がひしめいており、自分は敵地の真ん中に僅かの手勢と共に取り残されたのだと。

「伊介(勝豊)のたわけが。信じておらねば、長浜を預けるわけがなかろうが」

近江長浜は北国街道から中山道へ通じる玄関口であり、琵琶湖に面する交通の要所。どうでもよい人物に長浜を預けるわけがなく、まして見捨てるはずがない。冷静に考えればわかることだ。しかし病に冒された勝豊はそこまで考えが至らず、そこを秀吉につかれた。


-わしも勘が鈍ったか

勝家は自問自答した。清洲会議以来-いや、そもそも日向守の謀反以来、自分は明らかに後手に回っている。主導権は常にあの小男の手にあり、自分はそれに翻弄されるばかりだ。畳の上での戦は奴のほうが上だと認めざるを得ない。だからといって勝家は、この戦において自分が秀吉に負けるという事態を考えてはいなかった。合戦とは常に思いもがけぬ不測の事態が発生するもの。畳の上での理屈や論理が、1発の銃弾や一人の勇者により容易く崩れ去る場面を、老将は何度も見てきた。

だが、不安がないわけではない。


「・・・どうかなされましたか?」

勝家の視線にお市の方は戸惑ったように微笑み返す。彼女こそ勝家の不安を象徴していた。合戦では無心でなくなったものが、眼前の敵に集中出来なくなったものが敗れる。恐怖や自己保身が胸中を支配すれば槍先は鈍り、眼前の敵は見えなくなる。

戦の準備に奔走する家臣に混じり、連れ子の姫君達が無邪気に騒ぐ声が聞こえてきた。還暦を向かえ、子には恵まれなかった自分に始めて出来た娘。


-老いたな


勝家は杯を強く握った。戦を前にしてそのような感傷に浸るなど、馬鹿馬鹿しい限りである。しかしこの感情が厭ではない自分自身に、勝家は焦っていた。こんな様では秀吉と戦うどころか上杉の小倅にも勝てないだろう。勝家の不安を感じたのか、お市の方が口を開いた。

「養源院様(浅井長政)が兄上と仲違いしたのも結局は些細な行き違いからでした。勝豊殿もそうですが、男という生き物はこの世が全て自分の思うとおりになると勘違いしておられる向きがあります」
「・・・何とも手厳しいお言葉ですな。女子の目には、男とはそんなに不自由な生き物に見えるのですか」
「男に限ったことではありません。私も結局は兄上のことを最後まで理解出来ませんでした。不自由な女の身だから申し上げるわけではありませんが、人間とは案外不自由なものなのです。言葉にしなければ伝わらないことはあるのですよ」

柴田勝家は白いものが多く混じった髭をしごきながら首を傾げた。

「そんなものかの?」
「ええ。そんなものです」

30近くも年齢が離れた妻に、この時代では既に老齢といっていい勝家が教え諭されている。夫婦の形とは(ましてや政略結婚)それこそ夫婦それぞれなのだろうが、なんとも奇妙な光景であることに間違いはなかった。


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