悲願のJリーグ初優勝を決め、胴上げされる名古屋ストイコビッチ監督=平塚競技場で
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ピクシー(妖精)の異名をとるストイコビッチ監督が1回、2回と宙を舞った。「よく頑張ってくれた」とねぎらう選手たちからの胴上げ。3回目の空を見たとき、指揮官の感情はピークに達した。こみ上げるものが抑えられない。涙を見せまいと、思わず両手で顔を覆った。
勝利への扉は、自らのタクトでこじ開けた。J2降格が決まった湘南相手に、決定機をつくれずにいた流れを断ち切ろうと、後半18分、スピードのある杉本を投入。その杉本の右クロスから玉田の決勝弾が生まれた。投入わずか3分後、采配(さいはい)がズバリ的中した。鹿島の結果を知った直後、勝利を知らせる笛に、今季一番のガッツポーズがさく裂。「われわれがナンバーワンだ」と、人さし指を天にかざした。
現役時代の背番号はエースナンバーの10。「10は好きな番号。2010年という特別な年に大きなことを成し遂げたい」。クラブ史上最長政権に突入した3年目、ピクシー監督は初めてタイトル獲得を明言して、シーズンに挑んだ。結果は有言実行。8月14日の浦和戦(豊田ス)に勝ち、首位に立ってから、1度もその座を譲らなかった。
「首位に立ってから優勝は常に意識していた」。下位相手に勝ち点を献上する勝負弱さは影を潜めた。連敗は1度もない。3引き分けは、2位の鹿島に比べて8つも少ない。勝利にこだわる攻撃的なスタイルで、1ステージ制となって最速の、3試合を残す段階での優勝。圧倒的な強さを見せた。
「選手として7年、監督として3年、このチームに10年間、かかわってきた」。選手時代の1995年の第2ステージでは、V川崎(現東京V)にホームで敗れて優勝を逃した苦い思い出も。勝つ難しさを知っているからこそ、ようやく手にした勝利の感触は格別。目頭を赤くして感慨をかみしめた。
指揮官として「名古屋に優勝をもたらす」と、強い信念を持ち続けた。10月2日の仙台戦(瑞穂陸)で通算48勝目。師と仰ぐベンゲル監督(現アーセナル監督)を上回った。そして11月20日、在任期間だけでなくクラブ史上ナンバーワンの地位を揺るぎないものに。選手としても愛され続けたピクシー監督が、第2の故郷と大切に思う名古屋グランパスに、輝かしい歴史の1ページを刻んだ。 (伊東朋子)
【ドラガン・ストイコビッチ】 1965年3月3日、旧ユーゴスラビア、現セルビアのニシュ生まれ。現役時代は母国の名門レッドスターで台頭し、元日本代表監督オシム氏の下、屈指の攻撃的MFとしてユーゴを8強に導いた1990年W杯の活躍で世界的に注目される。マルセイユ(フランス)などを経て94年にグランパスと契約。95年にJリーグ最優秀選手に輝き、2001年に引退で退団するまで2度の天皇杯優勝などに貢献。98年W杯出場も果たした。引退後はセルビア・モンテネグロ協会とレッドスターの会長を歴任。08年に監督としてグランパスに復帰した。愛称は「ピクシー(妖精)」。175センチ、72キロ。家族は妻と1男2女。45歳。
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