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help リーダーに追加 RSS 運転士だっせん物語

<<   作成日時 : 2008/10/13 18:36   >>

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 “今だから話せる”…と言って語られ聞かされる話題や出来事などは、どことなく時効めいたニュアンスを持ったことのように響く。最も、時効かどうかは別として、ほとんどが勝手な思い込みから表に出されるようだ。また、聞かされる方もそのつもりで聞くため、問題化することはないといえよう。かくいう私も、自身の勝手な思いから、今だから話せることを“運転士だっせん物語”としてここに紹介させていただく。
画像 私が西武鉄道に入社したのは、日本の経済が神武景気ともてはやされていながらも、再び深刻な不況が忍び寄った、“なべ底景気”といわれた1958(昭和33)年の春であった。この1958年には、テレビ受信契約の伸びとともに子どもたちに大人気を博した「月光仮面」がスタートし、日本の国民がおしなべて腰を振り回して遊んだフラフープが大流行した。また、熱狂的な“ミッチーブーム”を巻き起こした、皇太子(今上天皇)と正田美智子さん(同皇后)の婚約が決まった年でもあった。
 入社後4年目に、駅務員から車掌となって1年の経験後、憧れていた運転士への道(養成所入所)が訪れた。そして、晴れて電車運転士に登用となったのは1964(昭和39)年1月であった。この年はまた、名神高速道路(9月5日)と東海道新幹線(10月1日)が開通して高速化への幕開けとなった、日本の交通史上に一大エポックを画した年であった。
 そのときから運転士一筋32年(1974(昭和49)年以降電車運転士・電気機関士兼務)、無事に務め上げて1996(平成8)年の春に西武鉄道を退職した。
 無論、その長い間には悲喜こもごもながらも数々の事故や災害に遭遇もしたが、よくぞ乗り越えてこられたものだとしみじみ現役当時に思いを馳せ、振り返っては想う、秋の夜長のこの頃ではある。
 そんな鉄道員稼業の中で、大半の期間を過ごした乗務員時代を振り返ってその一端を、思いつくままに乱雑ながら述べてみることにいたします。


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 運転士として一本立ち(単独乗務)となって、私が最初に起こした事故は、車止めへの衝突であった。運転士となって半年余り、当初の緊張感もようやくほぐれ、電車の運転が面白くなりかけた丁度その頃の、ある小雨模様の日だった。朝のラッシュ輸送で池袋へ上った帰り、少し気持ちも軽くなって下り保谷止まりの各停(6両編成)を担当、保谷駅から保谷検車区(当時、現在は保谷電留線)へ入庫の時に起こしてしまった。
 当時(1964(昭和39)年)の西武鉄道では、西武初の新性能車の601系(ユニット制御、カルダン駆動、新形台車(FS−342)の採用)が新製登場し、701系(601系の更新形)も登場し始めていた頃で、自社所沢車両工場(2000(平成12)年廃止)初の新造車・501系(1954(昭和29)年〜)をはじめ、まだまだ国電の戦災復旧車や譲受改造車の旧形車両が大半を占め、幅をきかせていた。また、全在籍車両のブレーキシステムも、1969(昭和44)年の西武秩父線(吾野〜西武秩父間)の開業に合わせて登場した101系(電空併用・応荷重・発電抑速付電磁直通空気ブレーキシステム)までは、旧来の自動空気ブレーキ方式であった。
画像 当日の入庫車両は、片側運転台の制御車(クハ1411形)を先頭とした6両編成であった。庫内には櫛形の留置線が並び、終端には古レールを加工した車止めが設けられていた。車庫への入庫は起立運転(25km/h以下)が基本で、小雨が降っていたことから前方視界の確保のため、ワイパーの操作(手動式)に余念がなかった。その分ブレーキ操作にスキが生じていたともいえ、車止めの1b手前に停止(庫内が狭いため)するつもりで停止ブレーキを取ったが、後部から押される感じがして車止めに突き当たってしまった。
画像 連結器が車止めの鉄製ストッパー部分に突き当たって横方向に曲がり、電気連結器の一部を損傷させてしまった。初めての経験だったがため、パニック化した気持ちをどうにか抑えて行動したことといえば、関係個所へ衝突を連絡したくらいしか記憶にない。ただ、車止めが近づいていたので速度を低めていたため、大事に至らずに済んだのは不幸中の幸いでも。車止めの先には、1b幅ほどの職員通路を隔てて庫内と一般道路を遮るブロック塀が張り巡らしてあり、もし車止めを突き破っていたとしたら、と後になって身の縮む思いを味わった。
 この事故に関しては、運転士経験半年という技量未熟故との判断でもあったのだろうか、上司からの注意程度で済んだと記憶している。しかし、この衝突事故(事故にはならなかったが、私にとっては大きな事故(事件)であった)は、後の私の30年余りにわたる乗務員生活を支える資となった、不変の礎(反省の原点)であった。

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 運転士になる教習課程等で、教師や先輩諸氏から運転の四原則を教えられた。@信号を見る A信号に従う B速度を守る C機器を正しく扱う…の4つで、覚えるには簡単であった。されど、運転士稼業を続けていく間に機会あるごとに、簡単な語句とは裏腹にその処し方は容易でないことを知らされた。
 運転士になって、1年余りを過ぎた頃のある日の日中、停止信号(赤)を示していた出発信号機を突っ走ってしまったのだ。準急電車(上り池袋行き)を担当していたときで、通過駅である富士見台の出発信号機が“赤”のままだったのである。“ままだった”というのは、富士見台駅ではホーム(島式)の両端に近接して踏切道があって、交通に及ぼす影響を少なくするために踏切の遮断時機が各停と通過の電車別に調整(各停は遅く、通過は早めに)されていた。そのため、出発信号機は停止現示を定位としていて、通過電車に対しては駅側で通過押しボタンを取り扱うことにより、通過電車が駅に近づくことで自動的に出発信号機に進行を指示する信号を現示する方式であった。また、各停に対しては、ホームに電車が入って一定時間が経つと、出発信号機は進行を示す(踏切遮断後)ことになっていた。
 当日は、場内信号機が注意信号(橙黄色)現示であった(出発信号機が赤であることを予め示す)ことから、先行電車がある場合も考えられるが、あそらく駅側で通過押しボタンの操作を失念しているのではと思い、注意を促すつもりで気笛を鳴らしながら所定速度に減速(当時注意信号は55km/h以下)して駅ホームに近づいていった。そのときは、気笛に気付いてそのうち押しボタンを操作してくれるだろうと思いつつ、停止するのを躊躇していた。また、次駅の中村橋は指呼の間にあって、しかも直線で見通しが良いため前方に電車がなかったことも視野に入っていて、駅員の操作に期待しつつもついつい見込み運転をしてしまっていたのだ。
画像 気付いたときには、停止現示の出発信号機が眼前に迫っていた。非常ブレーキを取っても停まりきれない、前方区間はクリアーだ、踏切も人は渡っていない、と思ったときには赤信号を突破して通過していた。
 当時は、まだATSの設備などはなく、停止信号も難なく無視できてしまったのだ。まさしく、運転の四原則すべてを見事(?)に無視してしまったのである。運転士にとって最も悪質な行為をしてしまったとの念が、準急電車の運転を続けている途上でじわじわと心身を締めつけてきた。脂汗とともに、駅から関係個所へ連絡が行っているのではないだろうか、車内で乗客が見ていたのではないだろうか、ホームにいた乗客は…さまざまなことが脳裏を駆け巡っていた。終着の池袋駅に到着しても、気持ちはほとんど上の空であった。
 幸いといおうか、運が良かったというべきか(不謹慎ながら)、その後は何事もなく何時ものように過ぎていった。しかし、後悔の念はその後になっても消えず、退職した身の今でも思い起こすたびに心苦しさに襲われる。
 当時、惰性と憶測に走ってしまったあのときの運転には、入社時の最初に配属された駅が富士見台であったという背景があった。当時の富士見台駅のような中間駅(待ち合わせや貨物取扱のない駅)では、これといった日常的な運転取扱はなく、配置駅員も少なかった。そのため、共同で駅員一人一人が駅務を何役もこなしていた状況にあって、富士見台駅でも通過押しボタンを操作する人の特定はなかった。そのこともあって、通過電車に対する押しボタンの操作を忘れたり、気付いて慌てて操作したりで何度も通過電車を停めてしまい、その都度乗務員に頭を下げていたという台所事情を知っていたがため、あの禍を呼び込む素地を私は持っていたといえるのだ。如何に運転の四原則を守り抜くことが大変で難しいかを、はね除けることができなかったあのときの憶測に思い知らされた。
 今まで胸に秘めてきた、私だけが知る(今、話してしまったが)この信号無視の件は、その後の信号機に対する私の信念を大きく変えた起点となり、改めて運転の四原則を体に染み込ませる契機となったばかりでなく、その後の長い私の乗務員生活に糧となっていった。

○ ○ ○ ・ ・ ・ 
 私が運転士になった当初は、池袋線(配属線区)では所沢〜吾野間(当時、飯能〜吾野間は“吾野線”と通称していた)は閉そく方式が、旧来のタブレット式であった。運転室のヒンジドア(出入り側扉)内側の側面には、タブレットを納めたキャリヤを掛けて置くステーが取り付けてあったが、自動閉そく式に変わった後も電車によっては相当後まで、無用の何とかではないがその名残を留めていた。“この金具は何ですか?”と、タブレット閉そく式の時代を知らない若い運転士たちからはよく聞かれもした。その時代に身を置いたことがある私にとっては、懐かしい想い出の一つとして残っている。
 タブレット閉そく式の特徴といえば、単線区間故の列車衝突事故を防ぐ上から、隣り合う駅間のタブレットが異なる(本体は同一形状の砲金製円盤で、その中心部に穿たれた形状(穴の形)が異なる)ことにあった。駅間ごとに定められた種類(形状)のタブレットを携帯しなければ、その区間を運転してはならない定めとなっていた。ただ、列車運転とタブレット携帯との間には機械的・電気的な連動(関連)が存在しないため、タブレットの授受(駅長〜運転士間)にあたっては指差確認称呼がきつく義務づけられていた。
 ちなみにタブレットの種類には4種あって、その形状により第1種「○(まる)」、第2種「□(しかく・よんかく)」、第3種「△(さんかく)」、第4種「Ο(だえん)」がある。

画像

 運転取扱にあたって、タブレットの授受が指差確認称呼によって確実に行われているか、ときには本社の運転課員による抜き打ちの点検が行われた。勿論これは、タブレット閉そく式は列車運転の安全を確保する根幹であることを踏まえての、一種のカンフル剤的な効果を狙ってのことだったのは確かだ。このタブレット授受の取扱い例を示せば、次のようであったと記憶する。
 駅に停車した運転士は、携帯してきたキャリヤの収納部分に入っているタブレットをその開口部分(収納部分の中央に開けられた丸穴)から指差し、後方駅名(タブレットを受け取った駅)と種類を「××駅 さんかく」と確認・称呼して駅長に渡す。運転士からタブレットを受け取った駅長は、そのタブレットを同様に指差して「××駅 さんかく」と復唱して確認・称呼した後、電車を運転させる次区間に対するタブレットを指差して前方駅名と種類を「**駅 だえん」と確認・称呼して運転士に渡す。受け取った運転士は、同様に指差して「**駅 だえん」と復唱して確認・称呼し、所定個所にキャリヤを掛ける。こうした一連のタブレット授受が行われて、はじめて運転開始の準備が整うこととなる。
 ただ、この一連の取扱も毎日のこととなれば、惰性に陥る懸念がなくもないことから、安全運転上の根幹が揺るがないよう抜き打ちの点検がときには行われたのだ。
 その本社課員による抜き打ちの点検が、図らずも私の担当する電車で突然行われることとなった。すなわち、タブレット授受にあたって所定の取扱が確実に行われているか、所沢〜吾野間のタブレット閉そく式区間全駅を対象とした点検であった。無論、駅側に対しての点検ではあったが、運転士の私としても内心穏やかでなかったことを覚えている。
 点検の実施方法は、本社課員がキャリヤに間違った(異種)タブレットを故意に納めて運転士の私に渡し、本社課員は客室に乗車(姿を隠して)していて授受の状況を点検するというものだった。ただ、全ての駅に対して異種のタブレットを渡すのではなく、その時は全14区間15駅中8駅であった。その選定の如何については、私には知る由もなかったが、全ての駅に対する点検だったことに変わりはない。
 そうした点検の中で、異種のタブレットを渡され、確認もせずに受け取ってしまった駅が4駅(半分)あった。ほとんどの場合が、受け取るや否やキャリヤを肩に掛けて、スタコラと駅事務室に戻っていってしまった。その後をつけていく本社課員との間で交わされた対応や、その後の対処については私のあずかり知らぬところであった。間違ったタブレットを渡した(返した)私としては、何とも面映ゆい、申し訳ないような気持ちであったのを、今も強烈に覚えている。とにかく、どちらにとっても精神衛生上穏やかでなかったことは否めない事実だった。
画像 そうしたタブレット授受にあたって、異種のタブレットを受け取った駅長(助役)さんたちの、私に向けた対応にも気が滅入った。その中で私が一番困惑したのは、終着の吾野駅でのことだった。当時、吾野駅長を務めていたのは、社内でも謹厳実直で通り、私にすれば父親に相当するほどの初老の人であった。何時もと同じ要領で、タブレットを駅長に返却した。その刹那であった。タブレットを基本手順通りに受け取った駅長が、やにわにキャリヤを私に突きつけて「運転士君、これはどうしたんだね! タブレットが違ってるぞ!」「これは大変なことだよ 運転士君…」と、浅黒い顔に青筋が立つほどに激高した。
 それまでは客室からすぐに姿を見せていた本社課員が、その時に限ってなかなか姿を見せなかったのだ。多分、実直な駅長のこと故その成り行き次第を見届けるつもりだったのではと、後で思ったりもしたが。
 ようやく現れた本社課員の説明に、その時に見せた駅長の歪みかけた口元の半笑いの顔が、40年経った今でも忘れられない。同時に、私の意図したことではなかったにしろ、今では物故してしまった真面目一徹の大先輩を欺いてしまったことに申し訳なさを痛感してしまうのである。
 なにはともあれ、ここで本音を申せば、タブレット授受の抜き打ち点検のことよりも、そのために各駅で少しずつ遅れを取っていた運転時分を回復することの方が、私にとっては大変であった。今となっては遠い昔の懐かしい想い出となっているが、真面目(?)な私が最も担当したくなかった乗務であったことには間違いない。もっともこれは、私が“だっせん”させられた話ではあるが…。

○ ○ ○ ・ ・ ・
 西武鉄道におけるATS設備の導入は、全線が自動閉そく式化された1969(昭和44)年からであった。その前年の夏、池袋線の西所沢駅構内で場内信号機(色灯式)の停止信号を冒進してきた上り電車(6両編成)が、上り線上で入換作業中の電気機関車(E71形)と正面衝突し、双方とも前面部を大破して、電車の乗客5人が負傷する事故が起きていた。もう少し早くATSが…と惜しまれた事故であったが、ATSの設備後には列車同士の衝突事故は皆無となっていただけに、頷けるところではあった。
 とはいっても、すぐれもののATSではあるが、所詮は乗務員に対する支援設備としての位置づけでしかなく、あくまで安全運転を担う主体は運転士自身であることを、安全関連教育等の場を通してその点のわきまえを刷り込まされた。しかし、そのATSに、導入当初に居合わせた運転士は振り回された。駅に停車するときや、停止信号で停止するときに、不用意なATSの作用(動作)により非常ブレーキがかかり、その時の急停止で毎日のように乗客の皆様に迷惑をかけていたのだ。
 導入当初の車両は、自動ブレーキ車が大半を占めていた上に、制輪子に鋳鉄や合成の材質のものを使用した車両が混用され、しかも車種や編成が多岐にわたっていたことから、ブレーキの機能が乗客の多少や速度によって大きく左右されていた。そのため、電車の減速度とATSの停止パターンとの調整が、当初のデータ不足などもあって満遍なくカバーできていなかったことが、ATSの不用意な作用の背景にはあった。
 そうした、ATSによる不用意な急停車もようやく鳴りを潜め始めた1970(昭和45)年の正月2日に、私にその不用意な急停車が大泉学園駅停車時に起きた。大泉学園に停車のブレーキを施しつつ、所定停止位置へ近づいていった。停止目標まで、あと10bほどの距離に迫っていたときであった。急ブレーキが、圧力空気の急排出される独特の音と同時に、一気に停止したからたまらない。降りようとドアに向かっていたであろう乗客たちの、雪崩かかるような乱れた足音やざわめきが車内から聞こえていた。
 停止寸前で、速度も3〜5km/hと低く、しかも鋳鉄制輪子使用の車両であったから、急停車時の衝撃(低速度になるほど鋳鉄制輪子の摩擦係数は高くなる)も可成り大きかったのではと思いながら、車掌へドア開扉の連絡を行った。その直後であった。運転室付近は降車した乗客たちに囲まれ、“下手くそ”“危ないじゃないか”“もっとしっかり運転しろ”などなど…罵声が飛び、怒気が渦巻いていた。釈明や説明不要…ただただ平身低頭あるのみであった。まさに、穴があったら入りたい心境だった。
 乗客のもっともな怒りも収まって、ようやく出発できたのは5分近くも経ってからであった。迷惑を及ぼしたであろう駅係員の、乗客への対応を得てこその5分ほどで済んだアクシデントだった。後に知ったことだが、油の敷かれた電車の床(新年を迎えるにあたって床には予め新しく油が敷かれてあった)に急停車時の衝撃で倒れ、せっかくの晴れ着が台無しになった、どうしてくれるのかといった苦情とともに、駅へ詰め寄った乗客もいて、会社では弁償(洗濯代)を行ったと聞く。
 とにかく、正月早々のこととあって、滑り出しが良くない年だと嘆いたことを覚えている。新年を迎えると今でも、あの時の情景がふと頭を過ぎることがある。

○ ○ ○ ・ ・ ・ 
 乗客を乗せてその日一日を安全に走らせる電車を、車庫や駅構内から出庫させる乗務員にとって欠かせないのが、営業線に出た電車が何事もなく輸送につけるよう、定められた通りに確実な車両点検(出庫点検)を行うことである。
 冬のある早朝、曇天ながらようやく空が白みはじめた頃、担当する池袋行き上り急行電車8両編成を出庫するために、飯能駅構内の側線で点検作業を実施していた。池袋方から定められた手順に従って点検を進め、後部寄り(飯能方)の7両目の車両(付随車)の点検に入ろうとしていたとき、室内灯が最後部車両を含めて点灯していないことに気付いた。発電機を点検すると、音無し(回転音)であった。すでに点検を済ませた他車両の発電機は、正常に回転(発電)していたことから推してスイッチ類の不整備ではないとして、当該発電機の関係機器(接触器やヒューズなど)を点検したところ異状はなかった。さては、停電でもしたのかと、何気なく仰いだ屋根上の架線。そこには、架線を突いているはずのパンタグラフが消えていた。
画像 上昇していなかったのだ。担当の編成には4基のパンタグラフがあったが、1個所のスイッチ操作で全てのパンタグラフを上昇(要所定空気圧力)させることができ、スイッチ操作後には全パンタグラフの上昇を目視確認することに定められていた。勿論、目視確認は行ったが、ただその時はまだ薄暗いこともあって、後方の上昇は確認できていなかった。本来なら、そうした状況のときは点検途中で上昇確認すべきであったのに、それを怠っていたのだ。勿論、そうした状況でなくても、各パンタグラフ毎の点検・確認は定められていた。
 そのときは、室内灯の不点灯につい意識が向かってしまい、パンタグラフの点検をおろそかにしてしまっていたのだ。そもそも、他の車両の室内灯は点灯していたから停電であるばずもなく、ただただ室内灯が点灯していなかったことで短絡的な思い込み(停電)に走ってしまったのは、運転士になってそこそこの経験を経ていた私としては汗顔の至りであった。
 このことが、電車を遅らせたわけでもなく、迷惑を及ぼしたことでもなかったが、私自身に対しては許し難いこととしてやり切れない気持ちから、自分を責め抜いた出来事であった。余計な点検などで時間を費やしたりしたあまりの不甲斐なさに、その日一日は空模様同様に気持ちは曇天のままであった。

○ ○ ○ ・ ・ ・
 乗務員生活34年に間に、車掌〜電車運転士〜電気機関士として過ごしてきたが、最も長い間就いていたのは電気機関士職であった。今、西武鉄道では、老朽化などから電気機関車(E31形)が消えようとしており、電気機関士という職名もやがては消えていくのではないだろうか。
 私が乗務員になった当時(1962(昭和37)年)の西武鉄道では、電気機関士の職は資格上では車掌を含めた乗務員の最上位職にあった。その電気機関士になるには、これといった登用試験があったわけではなかった。電車運転士としての日頃の執務態度や技倆などが総合的に勘案された上で、ほぼ10年前後の経験年数を目安に、慣例的に登用が図られてきたようだ。
 そうした経過の下で私も、電車運転士経験10年を経て電気機関士見習に登用された。約4ヵ月の見習期間を経て合格とみなされ、晴れて1974(昭和49)年10月1日に最も憧れていた電気機関士に命じられた。受け取った辞令には「副主任電気機関士兼鉄道係員養成所指導操縦者を命ずる」、と長い肩書きが躍っていた。ただ、その辞令の裏には、電気機関士見習当時の大きな出来事(事故)が隠されていた。

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 電気機関士見習となって2ヵ月余りが過ぎ、貨物列車の運転や入換がようやく意に沿いはじめた頃で、面白くなりかけた、技量的にもさも向上したかのように感じていた頃であった。国鉄との貨物の連絡運輸(輸送)を行っていた西武鉄道は、当時、国鉄〜西武相互間の貨車の受け渡し(連絡中継)を山手貨物の池袋駅と中央線の国分寺駅の2駅で行っていた。
 西武の池袋駅では当時、国鉄との連絡中継作業も含め、朝の入換は50分にも及ぶ長時間作業であった。ただ、定例化した入換作業がほとんどだったため、入換にあたって乗務員〜操車係員との間では、細かい打ち合わせは行われていなかった。本来は、1作業・1通告が入換作業にあたっての基本だが、手旗合図方式(無線機による入換は1976(昭和51)年以降)では入換作業の支障を避けるため、作業開始前に行う入換方法を相互に打ち合わせる際にまとめて一度に行い、内容が輻輳するときには複数回に分けて作業途上でその都度乗務員に通告するのを原則としていた。しかし、当時の池袋駅では、そうした打ち合わせさえもなかったのが実情だった。ある程度の池袋駅での入換作業の内容については、その概要を指導機関士から前以て聞かされてはきたが、まだ場数の経験も少ない見習の身としては不安を抱いての入換作業であった。
 そうした状況の下で、指導機関士の指導に従いながら、入換(E851形電気機関車による)に専念していたときであった。渡り線を通って別線での連結作業に入るとき、その渡り線上で連結していた貨車(緩急車1両+化学製剤積載のタンク車1両)のうちタンク車を走行中に解放(途中解放)したらしく、悲しいことに見習の身の経験不足は何ともし難く、重いタンク車が解放されたことによる牽引の重量変化(軽減)を感じ取ることができず、そのことには全く気付かなかった。指導機関士も、入換作業に慣れてきたと思ったのであろうか、そのことに言及はなかった。しかも、急かせるが如くに打ち振られる手旗の合図に従うのに汲汲としていて、持っている(連結)貨車を把握する余裕も失せていた。 
 別線で貨車1両を連結し、元の個所へ渡り線を再び通って直る(戻る)ときだった。表示された連結合図を、タンク車が渡り線上に解放してあることなど気付いていなかったのだから、当然の如くに元の個所にある貨車への連結と思い、速度を向上させた。ほどなくして出された節制合図(速度を落とせ)、何でこんなところでとブレーキを取る間もなく、赤色旗が打ち振られたときには大音響とともに渡り線上にあったタンク車に激突していた。このときの衝撃で、他の貨車には被害はなかったものの、機関車の直後に連結されていた軽い緩急車(ワフ101形)がサンドイッチにされ、損傷してしまった。
 駅構内の側線と本線路とを隔てた向かい側に、西武鉄道の本社社屋が建っていた。朝の9時半頃とあって、大半の本社員は出勤していたであろう、衝突時の衝撃音とその煽りでもうもうと立ち昇った黒い塵埃の煙に、本社の窓という窓から何事かとこちらを凝視する顔、顔、顔。まさに、さらし首にでもあったような心境だった。このような状態を、穴があったら入りたいというのだろうと思いながらも、いたたまれない気持ちを実感した出来事だった。

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 見習中の不祥事は指導者の責任とされていながらも、指導機関士の大先輩には私の不用意から多大なご迷惑をおかけしてしまった。この見習中の苦い経験は、私のその後の22年にわたる機関士生活に、乗務員の最上位職としての自覚と技倆の錬磨を与えてくれた大きな収穫であった。同時に、電気機関士職を無事故で全うし終えたことで、ご迷惑をおかけしたかつての指導機関士の大先輩に万分の一でも恩返しができたかなと、遠いあの日の出来事を偲んでは思ったりもしている昨今である。

 40年も鉄道一筋に携わってくれば、それこそさまざまな場面に出くわすのは当然の成り行きである。良いこととともに、“だっせん”もほどほどに経験した。そんな“だっせん”を、雨降って地固まるの例えではないが、長い乗務員生活における支えとして、また、安全運転への糧として役立ててきた。
 数々諸々の失敗も、職(会社)を退き長い年月を経るにつれ、懐かしくも思え、想い出へと変わってきた。だからこその、今だから話せる出来事を“運転士だっせん物語”と題して、ここに紹介させていただいた次第です。
  (終)

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