憲法をどう考えるか
2000年11月29日
仙谷 由人
「憲法をどう考えるか」というテーマで、ここ最近、考えてきたことをお話させていただきます。お手元に「憲法をどう考えるか」というレジュメがあると思いますが、思いつきを書いてみたものです。「国家と憲法」という書面に、5枚の新聞記事のコピーを付けてあります。これは、「国家と憲法」のところに書いてありますが、先般、「衆議院欧州各国憲法調査」に参加した時の感想文を、地元新聞へ寄稿したものです。もう1つは、「ドイツ共和国基本法」の、国家主権のあり様を巡る部分を抜き刷りしてまいりました。
さらに、『二十世紀をどう見るか』(野田宣雄著 文春新書)の、初めの部分だけ刷ってまいりました。本日のテーマにもなりますが、一民族一文化、一つの国家という国民国家の時代が、グローバライゼーションの下で終わり、多民族多文化、あるいはそういう広い領域を支配する権力ができつつあるのだろうと、また、そういうふうにならないと整理がつかない、ということが書かれています。結論は、「中世への回帰」が始まる。そして、「皇帝なき帝国の時代」が再び始まる、ということです。なかなか面白く、知的刺激を受ける本です。一度、お呼びしまして、お話を聞いてみたいと思っております。それから、本日の日経新聞に、神野(直彦 東京大学教授)先生の「国土の多極化、いまこそ推進」という論文で、いわゆるサブシディアリティというか、分権型統治のシステムというのが、これからは非常に大事だということを主張されている。この論文にも出てきますが、「ケインズ的福祉国家」の行き詰まりというのは、左のほうにポジションを取っている神野先生と、右のほうにポジションを取っている野田さんが、結論として、ものの見事にほとんど同じような見通しを持っているということです。筒井(信隆 衆議院議員)論になんとなく合うのかなと思って、神野先生の論文を抜き刷りしてまいりました。そんなところが資料です。
本日申し上げたいことは、近代主権国家、あるいは国民国家・民族国家と言われてきた、我々が生きている国家が変容を余儀なくされているということです。国民国家というのは、一国内での、経済成長の追及、豊かさの追求、平等の追求、人権保障というような側面を持っていたし、そこに国家目標を掲げて国民を収斂していくということが近代主権国家の最重要テーマでありました。したがって、国民国家がこのテーマ追求を途中で止められない以上、経済発展のための市場の拡大、自由な経済活動の拡大のために、ボーダレス化やグローバライゼーションを追求するという矛盾に行きつつある。
ヨーロッパは、第一次世界大戦後のウィーン会議によって、民族自決の原則の下に(必ずしも原則どおりいっていないスイス、オーストリアというような国家形態もありますが)、オーストリア・ハンガリー帝国が解体され、一民族一国家という国民国家ができたわけです。ただ、その単位が小さかったために、その単位以上の発展はのぞめなかった。石炭・鉄鋼共同体に始まるECが、なによりも戦争を回避するための枠組みとして共同体を構想した、ということにもあるように、経済の成長と、戦争をなくすという目的のために、国境をだんだん低くしてきた。とりわけ経済の成長のためには、ある程度の広域化が必要だということで、現時点ではヨーロッパ連合(EU)まで行き着いて、さらにはこのEUがますます拡大しようとしている。
加えて、通貨の発行権という、国家主権にとって最もとは言いませんが大事な、極めて基本的な主権国家の要素を移譲するところまで来ているということです。
今度はボーダレス化、グローバル化で、経済の一体性、相互浸透性を域内で強めれば強めるほど、今度は国民国家の経済的な一体性がなくなっていく、というパラドキシカル(逆説的)な関係に、国民国家自身が入っていっている。
特に、国際的な親会社・子会社の関係等にある会社において、脱税、節税が目に余るため、国際的な能力を持った、つまり語学ができて国際的企業税法に基づく税務調査ができる専門官を増やして欲しい、という要望が、今年、国税労組から入ってきました。税の世界から見ると、特に徴税する側からみると、グローバル化、ボーダレス化というのは極めて悩ましい。
さらに、そこにIT化という電子商取引の分野が入ってくるわけです。現時点での国民国家の枠組みでは捉えきれない問題が相当出てくるのではないのだろうか。
あるいは企業側から言えば、徴税権の関係は、税率なり、実効税率を、EUであればEU域内では平準化しなければ、企業の空洞化になっていき、徴税をし得る本店の減少につながるというようなことになっていくのだろうと思います。
しかし、現時点で本社がEUにある会社でも、EU域外の税率の低い地域に企業を置いていくということも、当然のことながら考えるわけです。経済発展のための施策が、ブーメランのようにどんどん返ってきて、悩ましい関係になってきているのだろう、ということが基本にあります。
そして、そのことが社会福祉制度や、経済政策を財政出動型で取ることの意味について、深刻な問題を与えてくる。いわば、国家がいままでやってきたことについての捉え直しというのが今まさに問題になってきています。そういう基本認識を持つと、21世紀は確実にその傾向が強くなる。そういうときに、我々が民族国家、主権国家として位置付けてきた憲法はどうなるのか、あるいはどういうふうに考えなければならないのかというのが、21世紀のグラウンドデザインの憲法的な課題として出てくる。
そこで、「憲法をどう考えるか」の1枚目ですが、近代主権国家のおさらいをしますと、憲法は近代主権国家に固有のものである。つまり、コンスティチューショナル・ローというのは、近代主権国家の成立とともに、「憲法」という概念が作られたという意味です。そして、近代主権国家は、これはイディアルティップスでありますけれども、近代市民革命によってつくられたものである。
近代市民革命というのは、絶対主義的な王権に対する抵抗の戦いというものがあって結実したものである。したがって、近代主権国家は、自由、平等、博愛というフランス革命のスローガンのように、そういう自然権的な人権を国家権力の侵害から守る、ということが極めて大きなコンセプトでありました。
2つ目の、「代表なければ課税なし」という議会の考え方があります。フランス革命と同様に、とりわけアメリカ独立革命では、この「代表なければ課税なし」という議会が必要で、主として立法もそうですが、その中で税をどう決めるかというのが議会であった。
国家権力を3つ大きく言えば、行政、立法、司法ということですが、これを分立させるという構成、あるいは相互牽制をする仕組みをビルトインする、というのも近代主権国家の特徴の一つです。
さらに加えて、政治権力は、(大統領制、議院内閣制と両方ありますが、いずれにしても)国民の投票(=選挙)に基づき、いわゆるデモクラシー(=民主主義)といった仕組みで形成される。反対から言えば、政治権力のレジティマシ?(=正統性)というのは、王権にあったり、天にあるのではなくて、国民にあり、その政治権力の形成は投票に基づく、という考え方ができる。すべてイデオロギーと言えばイデオロギーですし、擬制であると言えば擬制であるわけですが、そういう考え方を採ってきたわけです。
したがって、憲法は国家権力対人民の権利や行動、あるいは構成する国家権力が国民の意思に基づくという構成を採っておりますから、憲法というものが国家の権力行使についての基本法である。「憲法は国家権力に対する猜疑の体系である」というのは、トマス・ジェファーソンの言葉ですが、法治主義というのは、法律があればなんでもやっていいという話ではなくて、むしろ権力行使は法律に基づかなければならない。その法律が議会で作られる、というところに法の支配、法治主義の考え方がある。こういう権力分立、そして民主主義と言われる選挙による政治権力の形成、そして形成された権力も、議会で作られる法律に基づいてのみ権力行使が許される、というのが基本であります。
さらに、自然権的人権というのは、権力がどのように頑張っても侵すことのできない「天賦人権の権利」という構成を採っており、容易なことではこの人権を侵害することはできないというのが、いわば古典的な近代国家であり、理想型としての近代国家であったと考えられます。
そして、近代主権国家をもう少し違う角度、つまり機能的な角度から見てみますと、主権国家というのは明確に国境によって限定された領土を持っている。さらには、権力の背後には物理的な強制手段があります。これは警察力、軍事力を独占することで、国家権力にさせる、というのが近代主権国家であります。日本は、豊臣秀吉の刀狩りから始まったわけですが、いずれにしても、中央集権的な国家権力以外に、警察力、軍事力を持つことができないというのが、明治維新政府の、疑似近代国家と言ってもいいでしょう。そういう近代国家というのは、物理的な強制手段、暴力装置を独占するというところに、徴税権や裁判権の現実的な機能を担保する根拠があるわけです。
裁判をしても、それを執行しようと思ったら、強制することができないというのは、国家権力を国家権力たらしめないということであります。暴力装置が独占をされ、それを行使するについては法律に基づいて決められた基準に則り、さらにその行使する主体は国民の投票で選ばれる、という構成を採って、暴力装置の使用、あるいは、その威嚇の下に行う強制手段を正当化してきたということです。
野田さんの本によると、もう少し文化論的な角度から見ていて、第一次世界大戦後、国際連盟がつくられますが、その基になったウィーン会議に、アメリカの大統領ウィルソンが乗り込んで、民族自決の原則を高々と宣言するということであります。その一方で、当時のロシア革命を成功させたレーニンも、民族自決の原則を主張しました。
片や自由主義インターナショナルを主導するウィルソンと、片や社会主義インターナショナル(コミンテルン)を主導するレーニンが、民族自決を言うことによって、自らの陣営に引き入れようとしたという、非常に逆説的な関係が存在したということです。いずれにしても、民族自決の原則というのは、第二次世界大戦後の、植民地の独立にまで、ある意味で輝かしい普遍的原理であるかのような色彩を持って現れた。
このことが、国民国家・民族国家(ネーションステイツ)こそが統治の、あるいは人々の誇りと生活の豊かさを担保するものである、ということであった。
そして、主権国家、国民国家は、自らが支配する領土全体に同一の言語と文化を普及させようとする衝動に駆られた政治組織である、というふうに野田さんは書いています。そして、この政治的支配の領域と、言語文化の領域を一致させることに全力を注いだ。なぜそうしたかというと、均質な労働力を求める工業化社会がそれを求めたのだということであります。そのために、国民国家・民族国家というのは、教育を画一的に行い、あるいは画一的な教育を行うことを重要な任務としました。つまり産業革命以降行われた工業化こそが、国民国家の出現を要求をした。その要求とは、同一民族内で、同一言語を話せる人をできるだけ多くし、文化を普遍化して、工業化社会に適応する労働力を作り上げようということでした。
(日本の場合でも、鹿児島弁と東北弁の違いとか同一民族内でもいろいろ言語の違いはあります。スイスは、カントン(邦)という州のようなものが分立していて、同一言語同一文化ではないという地域がその国内にある。フランスでも、アルザス地方のように、違った言語が使われている地域もあります。)
10番に「第一次世界大戦後」と書いてありますが、これは厳密に言えば第二次世界大戦後のイギリス労働党内閣、アトリー内閣の「ゆりかごから墓場まで」の政策と言ったほうがいいのかもしれません。ワイマール共和国が、社会権保障というのを憲法に書き込んだということがあって、考え方としては近代主権国家が、ハイエク的、アダム・スミス的純粋自由主義イデオロギーに染め上げられた政策から、世代的な労働力、あるいは日々の労働力の再生産を円滑になさしめるという観点(これは労働力の再生産と関係があると私は見ていますが)、へ移っていった。「原生的労働関係」(と講学上言いましたが、無茶苦茶にこき使って搾取する。つまり、奴隷労働)から、「近代的な労使関係」へに移ったので、長時間労働や、安全衛生を考慮しない酷使ということから変わっていかざるを得なくなりました。そこで、中長期的に労働力の再生産を考えなければならないという反省、または、労働者の抵抗というのがあって、労働基本権、生存権、または生存権の中の福祉といった社会権規定を、国家が充実させ、保障するというところへ入ってくる。それが、第二次世界大戦後、各国の憲法の中にも相当盛られてきた社会権規定、生存権規定ということであります。 その目指すところは、当然のことながら福祉国家であります。
経済社会的、法律的、憲法的な概観をすれば、この主権国家というのは、一国内の経済の成長と社会福祉、社会保障制度の創設樹立を目標とした、というのが1990年までの、あるいは2000年までの歴史というものであっただろうと考えております。
そこから21世紀はどうなるのか、という問題が我々に迫られた問題です。これは憲法論的、国家論的に考えると、社会保障制度をどのように維持するのか、またはしないのか、あるいは社会保障的な制度として、国民国家内部で保障してきた諸権利を、今後、我々がどう位置付けるのかというのは、特に、財政との絡みが出てくるため、相当大きなテーマになります。
それを別の問題として考えるとすれば、その外側と言いますか、法律論的、国家論的には、「国家と憲法」のレジュメで書きましたように、主権国家は変わらざるを得ない、というふうに思います。それは、国際連合ができた時点でも、そのことの萌芽は相当見えるわけです。そして、EUができると、よりそのことははっきりしてきたと考えております。
ドイツ憲法の23条というのは、ヨーロッパ連合の規定です。23条1項の2つ目の文章には「連邦は、そのために」と書いてあります。「そのために」というのは、「ヨーロッパ連合の発展のために」ということで、「連邦参議院の同意を必要とする法律によって、主権的権利を委譲することができる」という、主権委譲の規定が書かれております。
さらに24条には、「連邦は法律によって主権的権利を国際機関に委譲することができる。」さらに、「州が国家的権限の行使及び国家的任務の遂行の権限を有するときには、州は連邦政府の同意を得て、国境近隣関係の制度に関する主権的権利を委譲することができる」と書いてあります。
24条2項というのは、コソボ介入を合憲判断したときに連邦憲法裁判所が根拠法規にした条文です。「連邦は、平和を維持するために、相互集団安全保障制度に加入することができる。その場合、連邦は、ヨーロッパ及び世界諸国民間に平和的で永続的な秩序をもたらし、かつ確保するような主権的権利の制限に同意する」。つまり、相互集団安全保障制度(理想的に言えばOSCE(欧州安全保障協力機構)の軍事部門。それはできていないわけですが)、NATOに代替をさせるということです。
その場合には、ドイツの国家主権の行使としてではなくて、相互集団安全保障機構の中の軍事力の行使とか、ある場合には人権侵害に対する救済措置や介入という言い分になりますが、そこで軍事行動を取る。つまり、ドイツの主権は制限されているけれども、NATOとしては行動を取る、ということです。
こういう軍事的な主権を含めて、主権的権利を国際機構、国際機関に委譲する、というような規定が、憲法上盛られている。よく考えると、国連憲章の中でもその種の規定があったような気がいたします。厳密に言えば、国家主権と国際機関の関係というのは、憲法上に規定するべきことなのかわからないというよりも、規定するべきだろうと思います。そこは、あまりズルズルと引き伸ばす話ではないのだろうと考えます。
「国家と憲法」というレジュメに書いてありますのは、アジアにはまだヨーロッパのような緊張緩和や、戦争をしなくてもいい客観的な環境ができたとは言えない状況があることは重々わかりつつ、ヨーロッパではフランスが兵役の義務を廃止するという事態、ドイツは民間代替勤務者が3割〜4割を占めるという事態、イタリアも兵役拒否を裁判所に申し出れば簡単にできてしまう事態があります。
つまり、国家間の戦争、特にヨーロッパの民族国家同士の戦争というのは、ないことが当たり前という雰囲気が横溢しているという状況の下では、兵役の義務なり、軍事力の位置付け、行使というものについて、相当考え方が変わってこざるを得ない。それにもかかわらず、軍事力というのは警察力ともども、国内的には国家主権(例えば司法権の行使の最終的な担保であったり、あるいは徴税権の行使)の根拠であったりするわけですから、容易に主権国家が軍事の問題というものを放棄することにはならない。つまり、非武装中立のような考え方は、主権国家を残す以上、論理的にはあり得ないと思います。その場合に、軍事力をどう位置付けるかというのが、まさに憲法的な問題になってくるということでしょう。したがって、そういう観点から日本の現憲法9条の規定をどうするのか、ということは考えるべきであります。いわゆる政治論で9条を変えるとこうなるという話とか、9条がいままでこういう役割を果たしてきたと議論することも、政治の世界に生きているわけですからそれも大事なことでありますが、国家論的に考えた場合に軍事の問題というのはどう位置付けるのか、位置付けるとすれば、ごく当たり前の国家の法体系として、基本法、憲法に位置付けを明確にしたほうがいいという考え方もあると思います。
先般ヨーロッパへ行きまして、自然環境保全の問題、生命倫理の問題、あるいは外国人庇護の問題というようなものが、新しい権利と言えば新しい権利でありますが、グローバライズされた経済社会の環境、あるいは生命倫理の分野というのは、まさに今回の国会で議論したクローンの問題に端的に現れるわけです。その問題を医療、あるいは生物医学の領域との関係で、憲法上位置付ける必要があるのではないかということが、いま考えられているわけです。
もう1つの問題は、民主主義にかかわる問題です。国民国家が、ある種、戦後を遂げざるを得ないというときに、民主主義をどのように再構成、再構築するのかという問題は、各国とも相当悩み深い話であります。やはり、1つの方向は国際的な機関、機構に主権を委譲したり、せざるを得ないということを認めつつ、一方では、人々の生活が人々の直接的な意思によって決められる仕組み(これは行政情報の公開の問題であったり、住民投票や国民投票の問題であったり、あるいはオンブズマンの制度であったり、いずれにしても)を、コミュニティで再構成するという試みが強くなっていることは間違いないわけです。
つまり道州制の導入や、連邦制というものが考えられます。しかし、イタリアは、道州制、連邦制を導入するという憲法改正案を何回も提起しながら(いまもそれが国会で議論されているはずですが)、どうもうまくいかないようです。イタリアでうまくいかない理由は2つあるようです。
1つは、イタリアの場合、道州制、連邦制をやりすぎますと、北部から見れば、北部同盟の問題のように、分離独立をしたいという声が出てくる要素があるようです。一方、南部のほうから見れば、特に、財政的、経済的な問題なのですが、中央集権的な権力による調整がないと、我々は生きていけないという意思が強いようです。
ドイツ憲法の70条以下ですが、73条は連邦の専属的立法分野、74条は競合的立法分野、それから分権的な規定は財政のところだけですが書かれています。このように、憲法上立法分野と書くか、権限の範囲というふうに書くか、連邦分権制を採るとすれば、これまた統治の機構の問題としては、憲法上きちんと規定をするということであります。
全き連邦制、あるいはイディアルティップスとの連邦制というのは、州憲法を持ち、州にも最高裁判所があります。ここに、専属的立法のところで書かれていること以外は、憲法を持つ、裁判所を持つ、というようなことを行うというのが州であれ、邦であれ、そういう1つの近代国家としての形を、ほとんど備えるということであります。
私は、ここ最近、学生時代から久しぶりに憲法に触わりました。日本の場合には憲法論議、つまり国家論というレベルの考え方が、憲法9条だけに焦点化したということもあって、新たな21世紀のグローバライズされた社会にふさわしい(今の日本の財政赤字に象徴されるような事態をもたらした)統治の仕組み、あるいは反対から見ますと民主主義の実態というものを、憲法論的な観点からあまり議論をしてこなかったのではないのだろうか。現時点から言うと、1周遅れか2周遅れのトップランナーか、ラストランナーになってきているのではないかと思います。
私は新聞記事にも書きましたが、我々が新しい憲法を構想する、国家論を構想するということが、日本においてまだまだ熟していません。これから我々がそのような議論をするときに、いわゆる国民国家的な議論も必要でありますが、私自身は、アジアにおいて日本が、他の民族とどのように共生していくのかということは、理想型であれ書くべきだろうと思います。
それから、自然環境との共生、自然環境保全についての我々の立場ということも書くべきだろうと思います。安全保障についても、ないがしろにはできない。ここは、概ね言葉の上で一致する話としては、やはり国連を相当重視した位置付けの下に、我々の理想としては地域的な安全保障機構をつくるということ、その中に積極的に関与するということを、憲法上も何らかの格好で謳う必要があると思います。
それから、先ほど申しました分権論です。分権連邦国家というものなくしては(神野先生の論文ももう一つ我々は理解し難い難しいことが書いてありますが)、たぶん出口は、グローバライズに適応しつつ、生活の安全・安心、あるいは最終的な担保ということを考えると、地域におけるシュンペーター的なのか何かわかりませんが、地方政府をつくっていかざるを得ないと思います。
もう1つ軍事と平和の関係では、理想的すぎるのかもわかりませんが、アジアということを考えた場合に、私は、デモクラティック・アジアを目指してみたいということを言いつづけてきたのであります。『パックス・デモクラティア 冷戦後世界への原理』(ブルース・ラセット著 鴨武彦訳)という本がありますが、民主主義の政治体制を持つ国家同士は戦争をしたことがないとか、しないとか、ほとんどないとか、起こりにくいとか、そういう政治学的な論理のようです。全く同じことを、ドイツのカントが言い始めたという説、あるいはギリシャのアリストテレスもそのようなことを唱えていたという説もあります。 現在、韓国駐日大使の崔相竜(チェ・サンヨン)氏も民主平和の理論を、世界政治学会の基調講演のときに言っておりました。この間も彼に会って聞きましたら、民主平和の理論の重要性を話しておりました。なぜかというと、国内的に民主的なシステムを持つ国は、国内的な紛争やあらゆる懸案を議論と多数決によって決めていく、という内的な制約が国際関係の問題処理にも働くからであります。
もう1つは、民主主義の政治体制を持つ国は、政治的な意思決定が外から見えやすく、その透明性が高いからです。つまり、他の国から見てどういう政治的な意思決定がされるかということの予測可能性が高く、そのことが紛争を防止するのだ、という理由のようであります。
そういう、わりと理想的な議論でありますが、これからの憲法を考える上で、そのようなアジアをつくるのだということを前文に書くのかどうかわかりませんが、そういうこともある程度考えられるのかなと思いながら最近この本を読んでいました。以上、生煮えで雑ぱくな話になりましたが、以上です。