プロレス記者の独り言

取材歴25年の大ベテラン・川野辺記者のブログです。豊富な知識・経験をもとにプロレスの醍醐味を書き尽くします。

色褪せていた馳浩

スポーツ2010年11月19日 11:39 | フォルダ : 

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 馳浩が行くところ総て栄光に満ち溢れていた。
 1983年(昭和58年)にアマチュア全日本学生選手権グレコローマン90キロ級で優勝、1984年(昭和59年)同級の全日本選手権で優勝してロサンゼルス五輪に出場。翌年8月、母校専修大学の先輩・長州力に誘われるまま教職員(金沢・星稜高校の国語教師)の座を投げ打ってプロレス転向。それも契約金・支度金ゼロ。「プロになる以上、金はリングで稼ぐ」の思いが強かった。
 馳が入団した団体はジャパン・プロレス。当時ジャパン・プロレスはジャイアント馬場が率いる全日本プロレスを主戦場としていた関係で馳は御大・馬場からプロレスの手ほどきを受けることになる。その後、ジャパン・プロレスは新日本プロレスに参戦、馳は闘魂・アントニオ猪木からも教えを受け、馬場・猪木からプロレスのコーチを受けたという稀な存在だ。いかに馳が将来を嘱望されていたか分かろうかというものだ。
 1986年(昭和61年)海外修行に出発。プエルトリコ、カナダ・カルガリーで修行生活に入った馳だが、ただ単なるプロレス修行をしていただけではなかった。どうやってプロレスの興行を盛り上げていくか、どのようにしてスター選手を育てていくか、さらには試合をヒートアップさせるかといったノウハウを馳は研究もしていく。
 カナダ・カルガリーで馳の面倒を見、コーチ役だったミスター・ヒト氏(故安達勝治)は「いろんな若い人を見てきたが馳は一人でプロレス団体ができる。試合のマッチメークからどのような選手を招聘し、どのような試合で興行を盛り上げていくか、さらにレフェリングまで任せられる。言葉も英語、スペイン語とOKだしね」と修行中の馳を褒めちぎっていたものだ。
 海外武者修行を終え1987年(昭和62年)12月27日、日本デビュー戦の凱旋帰国試合で小林邦昭のIWGPジュニア王座に挑戦。見事な北斗原爆固め(ノーザンライトスープレックス)で史上初となる王座戴冠を成し遂げた。その後もIWGPタッグ王座を獲得、順風満帆なプロレス生活を送っていたが1995年(平成7年)7月、突如として参議院選挙に出馬して初当選、さらに衆議院に鞍替えし4期務めているように馳の行くところは常に光り輝いている。
 栄光に満ち溢れた馳。信じられないことだが、色褪せていた時があったのだ。1986年2月28日、プエルトリコで海外デビューを迎えた時だった。現地のコミッショナーから「リングネームはどうする?」と問われ、迷うことなく「HIRO HASE」と提出した。そして試合、リングアナウンサーが思い切りコール。「イロー アセー」そうです。プエルトリコはスペイン語が主流。スペイン語ではHは発音しないことに気づいた馳だが、もう後の祭り。栄光に満ち溢れた馳が唯一「色褪せていた時」でした。

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川野辺修のプロフィル 1973年入社。プロレス・格闘技取材歴25年以上。5000大会、5万試合以上を取材。テレビ朝日「ワー
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