道は自ら拓く

11月 20th, 2010

珍しく暗い記事を何本か書いてしまった。
何が言いたいかというと、道は自ら拓く物であるということ。

コーチングに近い形の個人指導を音楽のレッスンとして受けていた私は
「運も才能のうち」という大思想の元で育ってきている。
そしてその「運」を手繰り寄せるのも自分自身。

在籍した3つの高校のうち、マトモに通えたのは1つ目だけ。
最初の高校からは2年生の時に学区外への転居により除籍された。
除籍された後も何人かの先生とは連絡を取っており、
変わらぬご指導を戴き、感謝している。

私が転校してわずか1ヶ月で次の学校に通えなくなったことを知り、
最初の高校で担任だった先生は
私の転校を強く止めなかったことをしばし後悔していたそうだ。
今でも連絡を取り合う当時のクラスメイトが先生が吐露したのを聴いたそう。

私も進学のためとはいえ、魂を売った責任は自分にある。
私への虐待の主犯である父親の元に親権を移したからだ。
(親の離婚時は一旦母にした。)
父に移したのは進学の費用の心配から。
当時の私の教育費は月に10万近く、母では払えなかったから。
父は自営業だったことも有り、お金の心配は無かったし。

父は県外に仕事で滞在することも多く、
私もそちらについていくことにした。
そうなると学校も転校しないといけない。
試験を受けてちゃんと合格して入学した。

でも、たった1ヶ月後、父の気が変わってしまったのである。
父はそのマンションの家賃を払うのをやめてしまい、
そのマンションに寄り付かなくなったのだ。
すぐに手持ちのお金は尽きた。

バイトを始めたが金額なんてたかが知れている。
食うにも困るのは時間の問題だった。
米が無くなって、麦100%のご飯をほんの少し、とか、
それでもご馳走だった。
レッスンも当然行けない。
後悔してももう遅い。

知り合いの先生(3つ目に行くことになる高校の先生)の勧めで
児童福祉施設で保護してもらえないか相談に行った。
慌てて担任の先生(2つ目の高校)と教頭先生が飛んできた。
父親も県外から呼び出されて飛んできた。
でも、担任と教頭は働ける年齢(当時16歳)なんだから働けと言った。
父は施設なんて世間体が悪いから入れることに同意は出来ないと。
児童相談所の職員の方にはすまなさそうに謝られた。

中学の友人のお母様には寮のある準看学校を勧められた。
でも、職安で探して唯一見つけた寮付の仕事に就くことにした。
なんと東海地方には1件も無く、大阪まで行くことに。
この時やっと17歳になったばかり。
せめて同じ中卒でも18歳になっていたらもっと仕事は選べたのに。

大阪では何とか高校に戻るべく、
両親の住む、私も元々いた県の教育委員会に
何度も何度も電話をして訴えた。
大検も申し込んで受検した。
安い給料から必死に捻出したお金で。

教育委員会が動いた。
なんと、教育委員会に私のことを知る先生がいたのだ。
中学の時の隣のクラスの担任の先生が異動でいた。
そして1つ目の高校の先生も口添えしてくれ、
さらに児童相談所に相談を勧めてくれた先生の高校で
私を受け入れてくれることになったのだ。
県内では初の事例。
前例が全く無いことだった。
しかも、全日制高校で。

ここまでされたら父は拒否できない。
既に裁判所では父に親権があると決まってしまっている。
私が大阪に行っていた4ヶ月の間にすべて終わっていた。
教育委員会や高校からも圧力が掛かる。
見栄っ張りな父にとって
「しっかりしたお嬢さん」と役所から褒められて拒否は出来なかった。

ま、その後も波乱はあって、
レッスン代を出してもらえず、高校に内緒でこっそりアルバイトもした。
そんなのは序の口で、
大学の推薦合格後に父がお金を払うのが嫌だと言い出して
高校と大学を巻き込んで大騒ぎにもなった。
合格したら入学する条件の学校長推薦。
父はレッスンを中断している私が受かるとは思っていなかったらしい。
「勝手に金を借りて来い」とサラ金の前で車から降ろされた。
そのままでは高校に迷惑(翌年から推薦できなくなる)が掛かる。
私はせっかく入れてもらった3つ目の高校を退学することにした。
退学したら大学の推薦入学の受験資格そのものが消滅するので
高校に迷惑をかけずに辞退できる、ただそれだけの理由。
一応、母にも退学する旨報告した。
退学用紙も記入し、私は翌日の手続きを待つだけになった時、
母からの提案があった。

「明日昼逃げしなさい」
高校には退学を取りやめる旨を連絡し、学校を休んだ。
父が仕事に出かけた後、母の車で私の荷物を全部母の家に運んだ。
そしてその翌日から母の家から高校に通うことに。

大学の入学手続きのお金は母がどこからか借りてきた。
高校に最後まで通って卒業することを望み、母は私に貸してくれた。
父に二度と会わないことを条件に、私は再び母の元に帰った。
私はその日以来14年間、一度も父に会っていない。
スクールカウンセラーさんにIQ127と言われたのはこの頃。
最初の高校の頃に同じテストをしていたらもっと出来たと思う。

大学のその後の学費や生活費は本当に大変だった。
再び裁判所で親権と養育費のことで大揉め。
父はとうとう養育費を踏み倒して逃げた。
自営業だったため、差し押さえも出来ず、手をこまねいた。

私は借りられるだけの奨学金や貸付をフルで借りた。
そして仕送りなしで自活して一人暮らしを始めた。

代償は大きかった。
音大に行くことにこだわったために、私は音楽を失った。
学費が高く、バイトに明け暮れ、全く練習時間は取れない。
研修旅行もお金が出せずに行けなかった。
バイトが出来ないと破綻するため、教職課程も諦めた。
バイトも普通のバイトだけでは追いつかず、水商売にも。
お酒を全く受け付けない私には辛い仕事だ。
無理矢理ウイスキーの水割りを飲まされ、
わずかグラス半分で黄疸が出て寝込んだ。

最初の高校の先輩だった当時の彼氏が
「俺の実家貧乏だから学費全額免除だよ?」と私に言った時、
私は自分の無知を一瞬後悔した。
彼は私が合格圏にいた某国立大学の学生だったのだけど、
当時は国立大学は親の所得で簡単に授業料が免除されていた。
しかも、寮費はわずか数千円。
うちの大学では成績優秀者しか免除制度は無かった。
全く練習できない環境の私なんてお呼びじゃない。
大人しく国立大の工学部か理学部にしておけば、
借金も背負わずに済み、音楽も趣味としてなら続けられただろうから。

音大卒後、私には山のように借入金が残った。
その借金を返すため、私はがむしゃらに働いた。

トラブルもいっぱいあったけれど、止まっている暇は無かった。
自分の蒔いた種を刈り取ることで必死だったから。

そんなある日、妹が地元のスーパーで父と鉢合わせした。
父はそれが私なのか妹なのか分からず、
「お前はどっちだ?」と叫んだらしい。
「は?娘の顔も分からないの?」と吐き捨てた妹に父は
「その口の利き方はMIKIじゃないな」と言ったとか。
(私は確かにそんな口の利き方しない。)
当時私は23歳、妹は18歳。
私が最後に父にあったのが18歳だったのにね。
(しかも私たち姉妹は似てない。)
その直後、父は走って逃げたんだそうだ。
それ以来(いや、元々)音信不通である。
養育費はもちろん踏み倒したまま。

妹は両親の離婚時小学生だった。
元々姉妹の仲は良くない。
私だけ虐待されて、妹も私をなじり続けていたし。
今は全く連絡を取っていない。
昔はマイミクにいたんだけど、
一度退会したみたいで今のIDは知らない。

母とも障害のことで大揉めし、1年前から連絡を取っていない。
早い話が勘当されたんだけど。

私の最後のIQ検査(WAIS)の結果は120だけど、
実はあれ、ちょっと不正確かもしれない。
2年ほど英語のみで生活していた直後で、
日本語に対して反応が悪かった時期の物だから。
同時期にやった非言語性のみの別のIQテストはもっと良かったらしいし。

頭を何かにぶつけて「IQ120になった」という話は夢があっていいですね。ぶつけたら良くなった、ということであれば、高次脳機能「障害」と呼べるのかどうか。

頭を殴られて、打って、IQが良くなったとかふざけたことを言う人には
「どうぞ自由に試してください、自分自身の頭で」と言いたい。

「今日こそ本当に殺される」
何度そう覚悟したか。
あの方はその心境が分からないのなら、仕方ない。

私は頭の形が大きく変わるくらい激しく何度も殴られた。
バトミントンのラケットなんて木製だったフレームがバキバキに折れた。
ハンガーや木刀で殴られたりも日常茶飯事。
真冬に水を頭からかけられたことも。
頭だけじゃなくて全身に受けた虐待の痕は今も身体に残る。

殴られることに理由なんて要らない。
食事中に「今笑っただろ」くらいの言いがかりで殴られるんだから。

こんなこと私の友達は誰も知らない。
私は普段こんな話しないし。
こんな話、聴いて楽しい人なんていないと思う。

私は今幸せ。
もう私を殴る人はいない。
私には帰る家と充分な食べ物がある。
多くは無くても充分な友人に囲まれ、私は安らぎを得ている。


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