☆ 昭 和 天 皇 ☆
1975年当時の天皇と皇后=⇒拡大画像
1960年代前半の天皇と皇后のスナップ写真
昭和天皇(追号〔ついごう=人の死後、生前の徳や功績をたたえて贈る名。諡〔おくりな〕)は、1901(明治34)年4月29日、大正天皇の第1皇男子として東京・青山の東宮御所で誕生、御名を裕仁(ひろひと)、称号を宮(みちのみや)と称し、1911(明治45)年7月30日、明治天皇の崩御により皇太子となった。
学習院初等科入学当時の昭和天皇(右)=⇒拡大画像
1921(大正10)年3月から6か月間、ヨーロッパ諸国を訪問、帰国後、同年11月25日からは大正天皇の病気のため摂政に就任した。
1924(大正13)年1月26日、久邇宮邦彦(くにのみやくによし=久邇宮朝彦親王の第3王子で、1891〔明治24〕年久邇宮家2代を継ぎ、1899〔明治32〕年薩摩(さつま)鹿児島藩主島津家11代当主島津久光(ひさみつ)の長男で第12代当主となる島津忠義の子島津俔子〔ちかこ〕と結婚、後、1923〔大正12〕年陸軍大将・軍事参議官)王の第1女子良子(ながこ。1903年~2000年)女王と結婚(昭和天皇の妃候補には、良子のほか、一条朝子〔ときこ。公爵 一条実輝〈さねてる〉の子で、後に伏見宮博恭〈ひろやす〉と結婚〕、と梨本方子〔まさこ〕の3人がいた)、1926(大正15)年12月25日、大正天皇の崩御(ほうぎょ=天皇・皇后・皇太后・太皇太后を敬ってその死をいう語)により践祚(せんそ=天皇の位を受け継ぐこと)、第124代の天皇に就任、1928(昭和3)年11月に、京都において即位の礼と大嘗祭(だいじょうさい=天皇の即位後最初の新嘗祭〔しんじようさい〕で一代一度の祭事)の大礼が執り行われた(元号は昭和に)。
皇太子妃の決定をめぐったこのとき起きた紛争が宮中某重大事件である。事件は、皇太子裕仁と良子との婚約が成立したのは1919(大正8)年6月であるが、翌年になり、良子の母方の島津家に色覚異常の血統があることが判明したことに起因するものであった。
すなわち1920(大正9)年5月初旬、たまたま学習院の身体(体格)検査で、良子の兄の久邇宮朝融(あさあきら)が色弱であることが発見され、島津家には色盲の遺伝子があることが医学雑誌に掲載されたのである。良子の母は島津家の出身であった。その記事を読んだ、当時、政界に隠然とした影響力を行使していたばかりか、陸軍省内を始めとして貴族院、宮中などに直系の人物を配置して発言権を維持していた元老山縣有朋(やまがたありとも=治政府を主導し、1889〔明治22〕年、1898〔明治31〕年の2度内閣総理大臣に就任した典型的な藩閥政治家)の主治医平井政遒(まさる=元軍医総監)が山縣に報告、皇室に色覚異常(色盲遺伝)の血統が入ることをおそれた山縣は、これを原敬首相(はらたかし=1856~1921。新聞記者・外交官などを経て大阪毎日新聞社社長に就任、後に立憲政友会創立に参加して政治家を歩み、逓信大臣や内務大臣を務め、政友会総裁となり、1918〔大正7〕年に寺内内閣のあと最初の政党内閣を組織し、「平民宰相」〔藩閥政治が支配的だった明治・大正期に、東北出身の新聞記者だった原が首相になったことからこう呼ばれた〕と称されたが、1921〔大正10〕年11月4日東京駅頭で鉄道員の中岡艮一〔こんいち=無期懲役となるが、1934〔昭和9〕年恩赦で出所〕に刺殺され、66歳で死去)と中村雄次郎(1852~1928)宮内大臣に知らせた上で、久邇宮家に婚約辞退(破棄)を求めた。
久邇宮家はこれに強く反発し、また、東宮(とうぐう)御学問所御用掛(がかり)倫理担当(良子の妃教育の教師)で、当時帝王学の権威であった杉浦重剛(しげたけ)らは、(「綸言〔りんげん〕汗〔あせ〕の如「ごと」し」=君主の言は一度発せられたら取り消し難いこと)として、婚約取消しは人倫(じんりん=人と人との間の道徳的秩序)に反するとともに、元老
加えて、宮中で薩摩閥が強くなることを恐れた山縣らの長州と薩摩両派の権力争いや、頭山満(1855~1944。とうやまみつる=自由民権運動に参加したのち国家主義に転じ、大アジア主義を唱えて大陸進出に暗躍し、黒竜会・大陸浪人などを支配する右翼の巨頭的存在となった)、北一輝(1883~1937。きたいっき=2・26事件に連座して死刑になる)らの民間国家主義(国家をすべてに優先する最高の存在あるいは目標と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想)団体の激しい山縣攻撃などとも相俟って、事態は、深刻な政治問題になる。
結局、1921(大正10)年2月10日、宮内省(1869〔明治2〕年に設置された宮中事務をつかさどる官庁。現・宮内庁)と内務省(1873〔明治6〕年に設置された警察・地方行政などを統轄した中央官庁で、国民統制機関の中枢となった)から合同で「皇太子妃内定に特段の変更なし」と発表されて落着するが、中村宮内相は責任を負って辞任、他方、山縣は、いっさいの官職栄典の返上を申し出る事態と相成った(山縣の返上は却下されたが、枢密院議長辞任。なお、このときのことを、良子女王の妹である故・大谷智子は「どう慰めていいか分からずただ黙っているだけでした」との回想を残している)。
事件決着の契機になったのが、大正天皇の「科学といえども、間違うまちがうことがあると、朕は聞いておる」の一声であった。なお、この一件は当然、皇太子裕仁の耳には入るが、裕仁は「良子姫がよい。ほかのものでは困る」漏らしたといわれている(皇室の表現には「絶対」という言葉を使うことができなかったので、「ほかのものでは困る」とは、「良子でなければならぬ」という意味であった。なお、良子皇后は在位期間歴代最長を記録した)。
結婚直後の天皇と皇后=⇒拡大画像
結婚の翌年の1925(大正14)年12月12日に長第1皇女(おうじょ=天皇の女の子)照宮(成子内親王)が誕生、続いて1927(昭和2)年9月10日、2女の久宮(祐子内親王)が生れたが、久宮は後半年足らずで病死する。その後、1929(昭和4)年9月30日に第3皇女孝宮(和子内親王=⇒鷹司和子)が、1931(昭和6)年3月7日に第4皇女順宮(厚子内親王=⇒池田厚子)と皇女が続いたことから、世継ぎを心配した側近から、「側室」問題が持ち上がったわけである。国民も“日嗣の御子(ひつぎのみこ=皇太子の尊称)”の誕生を待望していたこととも相俟って、「世継ぎの男の子を生んで頂くため、側室(そくしつ=身分の高い人について、「そばめ」や「めかけ」に対して使うこと言葉)を置かれたら」と元宮内大臣が動き、何人かの候補者まで内密に選ばれた。
だが天皇は、「一夫一婦は人倫(人のみち)の大本(おおもと=物事の根本にあたる最も大切な事柄)」という信念と、皇后良子に対する思いやりから、この申し出を断固はねのけた(なお、皇室史上側室を初めて置かなかったのは大正天皇である。つまり大正天皇によって天皇家の「一夫一婦制」が確立されたことになる)。
そして、1933(昭和8)年12月23日に誕生した第1皇子(おうじ=天皇の男の子。継宮明仁親王=⇒今上天皇明仁 )が誕生することになる(その後、1935〔昭和10〕年11月28日に第2皇子の義宮正仁(常陸宮)が、そして1939〔昭和14〕年3月2日に第5皇女・清宮〔貴子内親王=⇒島津貴子〕が誕生する)。
生後2カ月の明仁親王
1928(昭和3)年6月4日の張作霖爆殺事件(張作霖〔ちょうさくりん〕が関東軍の謀略により奉天〔ほうてん〕駅の近くで列車を爆破され、死亡した事件)では、田中義一首相の対応を叱責し、1936(昭和11)年の2・26(ににろく)事件で重臣などが殺害されるとこれに激怒し、自ら先頭に立って鎮圧すると意志を示した。
1930(昭和10)年4月6日に来日した満州国皇帝愛親覚羅溥儀と天皇裕仁=拡大画像
1937(昭和12)年の日中戦争勃発後、事変拡大には反対し和平工作を支持しているが、結局、拡大阻止はままならず、1941(昭和16)年10月の東条英機内閣成立にも同意し、侵略戦争に突き進んでいくことになる。
大元帥(全軍を統率する総大将で、日本では、旧陸海軍を統帥した天皇の称)裕仁=⇒拡大画像
戦時中、高松宮(1913〔大正2〕大正天皇の第3皇子光宮〔てるのみや〕宣仁〔のぶひと〕親王が有栖川宮〔ありすがわのみや〕の前称高松宮の称号を賜って興した宮家で、有栖川宮の祭祀〔さいし〕を継承した)や近衛文麿などの終戦意見に対しても大日本帝国憲法順守(国体堅持)や一撃講和論を支持して積極的な動きを見せなかったが、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下、さらにはソ連の参戦といった状況から1945(昭和20)年8月14日の御前会議(最高戦争指導会議)で聖断を下し、8月15日正午、「玉音放送」で国民に敗戦を告げた。
同年9月27日、GHQ最高司令官マッカーサーを訪問し、その際の写真は国民に衝撃を与えた。
マッカーサーは日本占領当初、「日本は4等国に転落した」と言って日本人を悔しがらせたが、それを日本国民が認識したのが1945年9月29日付で朝日・毎日・読売の3各紙に掲載されたこの写真(撮影は9月27日)である。開襟シャツ(軍服)でしかも襟元のボタンを外すというラフなスタイルで、手を腰に当てリラックス(ふんぞり返っている)マッカーサーと背が低く、モーニングで直立不動姿のやや猫背である天皇ヒロヒトとの好対照なツーショットは、現人神の天皇の「メンツ」「威厳」を失わせるに十分であり、戦勝国と敗戦国との現実をものの見事に表現している。
翌1946(昭和21)年1月1日「人間宣言」を行い、以後、国内各地を行幸(ぎょうこう)した。
1946(昭和21)年11月3日日本国憲法公布により、かつて大日本帝国憲法下で主権者として統治権を総覧した天皇裕仁は「象徴天皇」となるが、同日、新憲法公布記念祝賀都民大会が、天皇・皇后が列席して宮城前で挙行され、約10万人が参加して行われた。
この間、戦争責任をとるとして退位を3度表明したといわれているが、その後は憲法上の国事行為の外、生物学の研究を行う。
1950(昭和25)年11月17日、「明治大学創立70周年記念式典」に臨席した昭和天皇(天皇は「明治大学が70年にわたり、多数の人材を社会におくり文化の発展に寄与したことを喜びますと」祝辞した)。
1950(昭和25)年3月19日、愛媛県の興居島(ごごしま)で“ゆむし”(日本各地の沿岸の砂泥底に U 字形の穴を掘ってすむ体長10~30センチメートルのユムシ綱に属する環形動物の総称で、タイやカレイなどの釣り餌〔え〕にする)を採取される天皇=拡大画像
興居島から帰途、愛媛県松山市の新田学園(中・高)で貝類の標本を閲覧==拡大画像
1952(昭和27)年5月3日、皇居前で行われた「独立危険記念式典」での天皇と皇后。「天皇は、沈思熟慮、あえて自らを励まして、負荷の重きにたえんことを期し」と述べ、政界にくすぶっていた「退位説」に終止符を打った。
1964(昭和39)年東京オリンピックに、1970(昭和45)年には大阪万国博覧会に出席。
1971(昭和46)年9月から訪欧、1975(昭和50)年10月には訪米するが、太平洋戦争唯一の地上戦(沖縄戦)が行われ、多大の被害を出した沖縄への訪問は行われなかった。
1976(昭和51)年と1986(昭和61)年に、在位50年と在位60年を記念する式典が行われた。
1987(昭和62)年9月に宮内庁病院に慢性すい炎で入院、腸の通過障害をなくすための手術を受け、一度は快復したが、翌1988(昭和63)年9月19日、再び体調を崩す。
以後療養に努めたが、十二指腸乳頭周囲腫瘍により1989(昭和64)年1月7日午前6時33分、吹上御所において87歳で崩御(ほうぎょ=天皇・皇后・皇太后・太皇太后を敬ってその死をいう語)。
大喪に礼が終わった翌日の1989(昭和64)年2月25日から3月15日まで、東京・新宿御苑(信濃国高遠城〔現・長野県上伊那郡高遠町〕主内藤氏の下屋敷跡で、新宿区と渋谷区にまたがる環境庁所管の国民公園)の斎場殿は天皇の遺影が掲げられ、一般に解放された。
☆天皇在位60周年記念式典☆
万歳するのは中曽根康弘首相
政府主催の天皇在位60周年記念式典が1986(昭和61)年4月29日午後、東京・両国の国技館に天皇陛下のほか皇太子殿下、常陸宮夫妻が臨席、閣僚、衆参国会議員(大半が自民党と新自由クラブの国会議員で社会、共産両党は欠席。公明党からは竹入委員長、矢野書記長らが出席、民社党は大内書記長、小平常任顧問らが出席したが、塚本民社党委員長と江田社民連代表は、新幹線の乱れなどの事情で式典に間に合わなかった)、及び各国大使や各省庁などが推薦した各界の代表など約6,000人が出席して行われた。
式典は午後2時半すぎ、君が代斉唱のあと、中曽根首相が昭和史を簡単に振り返り「陛下の御地位は、戦後、統治権の総攬者から日本国の象徴、日本国民統合の象徴へと変化したが、国民統合の中心である大切な柱としてのお立場は変わることなく、陛下と国民を結ぶ敬愛と信頼の紐帯(ちゅうたい=ひもとおび。転じて、物と物、人と人とを結びつける役割を果たす大事なもの)は、いよいよ固くなっている」と式辞を述べた後、坂田衆院、木村参院の両院議長、矢口最高裁長官、在日外交団長のピエール・ネルソン・コフィ・コートジボアール大使が祝辞を述べ、さらに、東京放送児童合唱団が、天皇が誕生した時代(1901年=明治34年)に作られた「箱根八里」(作詞:鳥居 忱/作曲:瀧 廉太郎)等が合唱された。
在位60年の記念式典を終えて4月29日夕、皇居に帰った天皇は、「式典は大変な警戒の中で行われたが、各界を代表する人たちが多数集まってくれ、総理はじめ心のこもった祝辞を寄せてくれて感無量であった」と、感想を侍従(じじゅう=天皇および皇后の側近で奉仕の仕事をつかさどる宮内庁侍従職の職員)に述べた。
記念式典に先立つ一般参賀には、午前中に約6万3,200人、午後の記帳者を含めて約8万1,000人が皇居を訪れた。
なお、総評、部落解放同盟、キリスト教関係団体などが主催する「天皇在位60周年記念式典反対・民主主義と天皇を考える4・29中央集会」が同日正午すぎから、千代田区永田町の社会文化会館で開かれ、約1,000人が参加、社会党の山本政弘副委員長は「天皇が開戦の詔勅を出さなければ、多数の人が死ぬことも殺されることもなかった」と天皇の戦争責任に触れたうえ靖国神社の公式参拝や国家秘密法(スパイ防止法)制定を進めようとする中曽根首相の「戦後政治の総決算」路線を批判した上で、「日本・日本人・日本国家のアイデンティティーを天皇制に求め、強い国家をつくろうと呼びかける中曽根内閣に対し、私たちは憲法を守り、生存権・生活権を守ってあらゆる思想・信条の自由の保障を訴え、強権的政治の身勝手な天皇の政治利用に今後も反対していく」とのアピールを採択した。
また、ゲリラ事件が相次いだ。