|
11月の海に足を浸すことを考えている。砂浜に荷物を置いて裸足になり、既に冬が始まった海に一歩踏み出す。白く打ち寄せる波が無感情にわたしを濡らす。実際のわたしはきっとその冷たさに怯んで、苦笑いをしながら乾いたタオルで足を拭くのだろう。でももしかしたら、と思う。もしかしたらわたしはそのまま歩みでて、誘われるように海の底へ向かってしまうのではないだろうか。海の底はきっとおやだやで、暗くて、誰もいない。深海へのあこがれがふたたびふつふつとわき上がる。海の底を目指すことはとてもよいアイディアのように思え、そしてできることならそうしてしまいたいと思う。想像の中では全てが甘美だ。現実のものではないということは、なんと美しいのだろう。まだ海に向かってすらいないのに、足首が波を感じている。払うべき砂など存在しない。わたしは狂気の中にいる。死ぬ前に心から愛する人に出会えた、それだけでもう十分だ。
夜ごと続く悪夢の中で、誰かが悲鳴を上げている。ある夜には、静かな闇に包まれた町のはずれにわたしを探す誰かの泣き叫ぶ声だけが鋭く響いていた。わたしは部屋の電気を消したままひどく怯えている。その人になら何をされても許すだろうなどといった決意はとても美しいと思う。現実ものではないのだから。その証拠に暗い部屋の中でわたしはひどく震えている。ドアを開け階段を降り会いに行かなければ。そう思いながらわたしは一歩も動くことができないでいる。情けない女め、お前には覚悟など全くできていないくせに。やがて電話が鳴り響き、その音にわたしは凍り付く。鳴り止まない電子音に、意を決して受話器をあげる。幼い男の子の声が言う。ぼくはうしろにいるひとにたのまれてかわりにでんわをかけているんだよ。少し考えてから、ねえきみのうしろにいる人に伝えてくれないかなとわたしは言う。あのね。次の声を出そうと息を吸い込んだところでぼんやりと目が覚める。わたしは何を言おうとしていたのだろう。わたしには言葉などひとかけらも残っていないのに。そして違う夢の中にいる。次の夢の中で泣いていたのはわたしだった。長い間探し続けていた人に拒絶されたわたしは声を上げて泣いた。どれだけ叫んでもどれだけ求めても、そこにあるのは拒絶でしかなかった。嫌だ嫌だと声を上げながら今度は本当に目を覚ます。ぼろぼろと本物の涙が溢れ出す。大きな声を上げて泣くことができたらどんなに楽だろうと息を殺して泣き続ける。それでもそれが現実ではなくただの夢だったことに胸を撫で下ろした。しかしそれはもしかすると誰かの現実で、誰かというのはきっと過去や未来のわたしである。そのことに気づいたのは空が明るくなりはじめてからのことだった。 もう死んでもいいと思うひとつの理由と、もう死んでしまいたいと思ういくつかの理由と、しかし生きなければならない数えきれないほどの理由が存在している。わたしは今すぐにでも消えてなくなりたいと思う。しかし死に向かう理由はまだわたしを許してはくれない。生きなければならない理由が正気を繋ぎ止める。想像上の死などただ美しく見えるだけなのだとわたしに言う。想像の中では苦痛すら甘美だ。現実なら耐えられないくせに、絶対に耐えられないくせに。生きなければならない理由が嗤う。お前に悪夢を見せているのはお前自身だ。お前を探しているのも探されて怯えているのも、拒絶されて嘆いているのもそして拒絶しているのも、全てはお前自身なのだ。救いを求めても、誰もお前を救うことはない。お前が誰のことも救えないように。自分を憐れむ自分を嗤い、そしてやはり憐れんで自らを守ろうとしているお前は、嫌でもまだ生きなければならない。それが現実だ。狂気など鼻で嗤っておけ。愛などあきらめて生きろ。そんなもの早く忘れてしまえ。 11月の海へ行こうと思う。わたしは砂浜に荷物を置いて裸足になるだろう。そこから先に一歩踏み出すかどうかはまだわからない。たぶん踏み出すことをためらうのだろう。それが現実だ。おそらく両足は払うべき砂にまみれている。わたしは生きなければならないらしい。 それでも、と誰かが耳元で囁き続ける。それでも一歩足を踏み出せば済む話だ。その声はわたし自身の声だった。 |
|