新大西民子論
「定本・大西民子のうたと絵画」
目 次
1.大西民子のうたと絵画
うたと絵画(ゴッホ、ルオー、クレー、ムンク、モネ)の照応について論証。
岩手日報社『北の文学』52号(2006年5月刊)文芸評論入選作
2.大西民子のうたと絵画ノート
3.インターネット百科事典ウィキペディア「大西民子」投稿全文
4.大西民子の絵画のうた(抄出歌 137首)
5.新大西民子論(5)-大西民子随筆集 断章-
6.大西民子の幻想歌の本質と『ーまぼろしは見えなかったー大西民子随筆集』の書評
愛読書であったというウィル・デュラントの『哲学夜話』、作歌論を支えたライプニッツの『モナドロジー』について論究。
2007年第60回岩手県芸術祭文芸評論奨励賞受賞作(県民文芸作品集第38集2007年12月刊)
6.大西民子の幻想歌の本質と
『ーまぼろしは見えなかったー大西民子随筆集』の書評
本稿は『大西民子のうたと絵画』(岩手日報社『北の文学』52号、2006年5月刊)の続篇である。前稿では大西民子の絵画関連のうた137首のうち、70首について短歌と絵画の照応を明らかにした。これらの70首はゴッホ、ルオー、クレー、ムンク、モネの5人とクリムト、岡鹿之助を加えた7人であった。しかし大西民子の絵画のうたはこの7人を除いてもまだ67首ある。この137首全体を一望出来る位置に立ち、その絵画的な背景を明らかにすると共に、所謂幻想と呼ばれてきた短歌の実態を明らかにし、更にその幻想の本質に迫りたい。
時あたかも昨年5月には新装なった県立図書館が開館した。新しいこの図書館は、オンラインで蔵書の検索ができ、さらに国会図書館の、雑誌記事検索機能などと併用すると、必要な資料の入手が画期的にスピードアップした。前夜希望の図書を検索しておいて翌日出向けば午前中にはコピーを手に懸案の処理が片づいてしまう。こうして昭和20年代からの画集や『芸術新潮』、『美術手帖』や『短歌雑誌』を閲覧でき前稿の私の所論に確信を持つことが出来た。
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第一歌集『まぼろしの椅子』の名歌であり、大西の短歌の原点である
かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は ゴッホ「ゴーギャンの椅子」
が詠まれた頃の昭和28年(1953年)はゴッホ生誕100年の年であった。この生誕100年に向けてゴッホブームが盛り上がった。まず前々年の昭和26年には劇団民芸の三好十郎脚本、滝沢修主演の「炎の人ゴッホ」が新橋演舞場で上演され、好評のうちに再演、再々演を重ねる人気を博した。原作は式場隆三郎氏の『炎と色』であった。またこの公演に先立ち銀座松坂屋では「ゴッホ展」が開催され式場隆三郎氏所有の100余点の大判原色複製画が展示され連日の賑わいを見せたという。
また『芸術新潮』には小林秀雄氏の『ゴッホの手紙』が昭和26年1月号から掲載され、翌年の2月号まで全14回にわたった。ゴッホの「カラスのいる麦畑」の絵に感動し書き始められている。小林氏一流の声調を響かせて書かれていて「ゴッホの椅子」のくだりはこの7月号にあった。白黒の貼り込みの「ゴッホの椅子」の絵が1頁を占めていて、天気の悪い日には室内の椅子やらベットを描いたという文脈からは、冒頭の大西民子の名歌は生まれなかったと思う。これは27年7月単行本として新潮社から出版され読売文学賞を受賞している。
昭和28年のゴッホ生誕100年記念祭の『ゴッホ展』は5月、日本橋丸善ビルで開催され、ゴッホの大判原色複製画が100余点展示され、連日満員の盛況だったという。しかしこの『ゴッホ展目録』には、「ゴーギャンの椅子」も「ゴッホの椅子」も見当たらない。鮮やかなカラー版の「ゴッホの椅子」が登場するのは、同年の式場隆三郎氏の『ヴァン・ゴッホ』(新潮社)である。モンマルトルの新しく引っ越したアパートでの、ゴッホとテオの同居の叙述の中に貼り込まれている。「かたはらにおく幻の椅子・・・」の名歌、「・・・ゴッホ画集を借りて帰りぬ」の大西が友人から借用したというゴッホ画集はこれではないか。その前の頁には、これまた鮮やかなカラーの「アルルのゴッホの寝室」の絵がある。
この生誕100年に合わせて製作されたメトロ映画「炎の人ゴッホ」は昭和32年ようやく日本で初上映されている。あのカーク・ダグラスのゴッホとアンソニー・クインのゴーギャンの名演の映画である。私はビデオでゴーギャンのアルル到着の場面を固唾を呑んで見守った。ゴッホの先導でゴーギャンが2階の自分の部屋にはいると、壁の3面にそれぞれひまわりの絵が掛かっていた。全部で4点である。続いて階下のキッチン横のゴッホの仕事場のコーナーには、夥しいゴッホの絵の並んだ中にひときわ目立って「ゴッホの椅子」があった。私はこれで安堵した。当時はゴッホはゴーギャンの来訪を待ちながらこの2点の椅子を描いたということになっていた。ゴーギャンのために大枚を叩いて1ヶ月も前に2台のベッドと12脚の椅子を購入したのだった。映画の考証はその通りだった。
しかし近年の本ではそれが変わった。「ゴッホの椅子」や「ゴーギャンの椅子」はゴッホが耳を切ってゴーギャンがアルルを去ったあとに両方とも描かれたこととなったのである。通常の本では今もこれが通説となっている。美術書は一時いっせいに、この2つの「椅子」をゴッホの孤独を投影した「不在の椅子」と定義した。
ところが極く最近のシカゴ美術館のX線顕微鏡などの科学的な解析によってまた覆った。ゴーギャンが購入してアルルへ持ち込んだ20㍍のジュ―トの画布の切断面が精密に調べられた。こうして10㍍づつに分けて使用されたゴッホとゴーギャンのそれぞれのアルルでの絵の制作順番が確定されたのである。そして「ゴッホの椅子」も「ゴーギャンの椅子」も、まだゴーギャンがアルル滞在中に描かれたことがわかったのだ。
このゴッホ生誕100年祭のあった28年の10月には競うように「ルオー展」があった。『芸術新潮』の28年12月号は「ルオー特集号」で、しかも「ヴェロニカ」の表紙なのである。著名な福島氏夫妻らはルオーと親交があって、ルオーの絵は、随分日本も所有している。カラーや白黒の絵画と共に、パリのルオーの紹介がされている。そして昭和33年4月号は、『芸術新潮』の創刊100号記念号であったが、奇しくも「ルオー没特集号」なのである。表紙はルオーの「月光」の絵であった。
こういう美術背景は正しく『まぼろしの椅子』のゴッホの「椅子」やルオーの「ヴェロニカ」のうたや、『不文の掟』の「阿羅漢」に、対応するものではないだろうか。その他の画家では、昭和25年8月の「現代世界美術展」にピカソ、マティス、クレー、ドラン、デュフィ、ダリなどの顔ぶれが揃っている。パリかぶれの当時の日本では、これらの画家の紹介はさすがに早かった。
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大西民子の短歌の幻想性を論じた格好の一書を見つけた。『季刊現代短歌 雁』(1989年10月)の「特集 大西民子」である。篠弘、今野寿美、真鍋正男氏の三氏の論考と大西民子の自選100首、簡略な年譜、著書解題からなっている。
論題は
篠 弘「孤絶のユートピア」 8首/31首
今野寿美「たわめられた愛の姿」 3首/9首
真鍋正男「王様のいない夢」 4首/33首
大西民子「自選100首」 11首/100首
(数字は、絵画の歌/引用歌、文中も含む) である。
当時大西は65歳、既に『大西民子全歌集』の『風水』で迢空賞(1982年)を得ており、『自解100歌選』も出版されていた。また第8歌集『印度の果実』までが出版されていて総歌数は4078首、ここまでが検討の対象である。私が注目するのはまず引用歌に占める絵画のうたの多さである。複数以上が選んだうたは次の7首である。
篠・今・大 『まぼろしの椅子』
かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は ゴッホ「ゴーギャンの椅子」
篠・今・大 『不文の掟』
完きは一つとてなき阿羅漢のわらわらと起ちあがる夜無きや ルオー「プロ夫婦」
篠・大
夢のなかといへども髪をふりみだし人を追ひゐきながく忘れず ルオー「酔いどれ女」
篠・大
はばたきて降り来しは壁のモザイクの鳩なりしかば愕きて醒む ローマのモザイク「鳩」
真・大 『花溢れゐき』
藻の花のゆらぐと見ればいつの日も創(きず)持つ魚(うを)の遅れて泳ぐ クレー「世捨て人の庵」
真・大
ひとすぢの光の縄のわれを巻きまたゆるやかに戻りてゆけり クリムト「アデーレ・ブロッホバウアーの肖像Ⅰ」
真・大 『雲の地図』
もし馬となりゐるならばたてがみを風になびけて疾(と)く帰り来よ ムンク「疾走する馬」
篠氏は「孤絶のユートピア」という、突き放したような題のもと、31首の引用歌のうち8首の絵画のうたを揚げている。大西が100選でさえ、11首のうたを挙げていることを考えると異常に多い。いつもの手法と違い、冒頭を直近の『印度の果実』の、大西の退職の心境歌から始めている。そして『無数の耳』のうたの幻想歌の到達点、完成度を(何しろ『不文の掟』から4首、『無数の耳』から3首を引用)「孤絶のユートピア」と決めつけている。しかし全く素材が絵画であることを知らないばかりに、既成の空虚な多言を要し、持ち前の自説の収束で終わっている。
今野氏は「たわめられた愛の姿」という、従来の大西民子像を出ることはなかった。折角デュフィの水彩画にコメントしながらも、結局その展開を図らずに迫力なく終わっている。なおデュフィには海の絵と共に軽快な音楽会やピアノ、ヴァイオリンなどの楽器の絵があることも知っておいたほうがいい。
真鍋氏は頭初から夢と決めつけ「王様のいない夢」という、夢を象徴する沼、石、縄、魚、蛇、鳥・・・木などの素材に拘りながら羅列を重ね説得力のない論述に終わっている。3氏とも絵画が素材であることを知らないばかりに、夢だ幻想だと、尤もらしい解釈や説明の言葉が果てしもなく続くのである。これはもうナンセンスに近い。3氏にはウィトゲンシュタインの言う「生とは出会い、存在としての経験」の絵画との出会い、絵画の世界の認識がないのである。
絵画は言語と並ぶ、人間固有の思考表現手段であった。大西はその絵画と出会い、絵画を素材とし対象として、絵画の論理空間に踏み入った。冒頭の「かたはらにおく幻の椅子一つ・・・」の「ゴッホの椅子」、「ゴーギャンの椅子」がその端緒となった。間もなくそれが大西の作歌技法の一つとなった。画集に見入り、絵画が語るもの、絵画の論理空間に展開されているもの、語りえぬもの、示されているものを直感して繰り返しそこに踏み込んだ。それが大西の絵画のうたであり、幻想と言われる大西民子のうたの本質である。「ゴーギャンの椅子」を「不在の椅子」と直感し『まぼろしの椅子』を得た大西は、次に『不文の掟』でルオーの「ヴェロニカ、阿羅漢」を得てこの詠法をわがものとして開眼した。やがて絵画、画家への関心は西洋近代絵画全般に急速に拡がっていった。『無数の耳』ではムンクの生と愛と死、クレーの多彩な幻想へと画期的な展開を図った。既に述べたゴッホ、ルオー、クレー、ムンク、モネの5人は大西の人生の節目節目に共感をもって大切に詠み込まれていった。大西の短歌人生は破婚の人生などではなく、短歌と絵画が融合した密かな愉悦の生であった。『印度の果実』から『風の曼陀羅』、『光たばねて』へのゴッホとモネによる展開と収束は見事という他はない。これらの絵画のうたは、一歌集当たり約13首、『まぼろしの椅子』から『無数の耳』の28首をピークとして、最終歌集『光たばねて』まで終生読み継がれ、各歌集の秀歌の核心をなしている。
篠氏、今野氏も参照している大西民子の『自解100歌選』はこの3年ほど前に既に出版されていて、2氏は読んではいるのだが、その核心を掴んでいないのだ。かなりの画家の名前、絵画の話が登場していた。
大西民子は短歌に絵画を持ち込んで、絵画を詠い誰にもそれを知られずにきた。それをひとは夢といい幻想と呼んだのである。時々画家の実名が出てきても、ひとは気づかなかった。
なおこの「孤絶のユートピア」には、後日譚があった。後年の『短歌研究』の島田修二氏の「わがうたびとの記」の「大西民子③ー一途と回心ー」(1999年6月号)によると、追悼号として『短歌研究ー大西民子追悼特集Ⅱ』(1994年4月号)は出色の出来であったという。格調ある追悼記事と共に、当代きっての女流歌人4人の充実した追悼座談会が載っていた。
その前号の『短歌研究ー大西民子追悼特集Ⅰ』(1994年3月号)には篠氏が登場している。篠氏の追悼記事の弔題は「魔女の方向音痴」であり、こうである。平成4年(1992年)5月、『風の曼陀羅』で詩歌文学賞を受賞した大西民子と北上市のワシントンホテルのロビーで顔を合わせた。大西の死の1年半ほど前のことである。「・・・祝意を告げるわたくしに、立ち上がって両手で握手される。すでに彼女は、かなり足腰が弱っていた」。
篠氏は2年前「孤絶のユートピア」を書いた時に貰った書信を想い出したという。「・・・適切な評価に出会わなかった怨念が滲むものであった。身体の不調にも苛立っていた。秘められた彼女の心熱には、はかり知れないものがあった。めったに本音を吐かぬ魔女であった」と締め括っている。歌人の追悼記事としてはひとり異様な言葉であった。
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『大西民子随筆集ーまぼろしは見えなかったー』 アフォリズム風書評
2007年
・4月23日(大西民子の蔵書)
『まぼろしは見えなかったー大西民子随筆集ー』の口絵写真を見て驚くと同時に嬉しくなった。かなりの蔵書があるだろうことは知っていたが、身辺に及ぶ程だったのだ。一番古い本は、姉の『源氏物語』だという。私も源氏の本や絵巻の画集は一切捨てたことがない。そういえば3年ほど前、源氏の衛門の督柏木も知らない岡井某という歌人が、NHK短歌大会のTVに映って居ましたっけ。
・4月29日(『随筆集』を読んで)
本集の発刊によって大西自身による実像が明らかになった。69篇の随筆があり、家族や身辺の思い出、特にふるさと盛岡のことなどが屈託なく書かれていた。矢っ張り、篠弘氏をはじめ、大方
の従来の一面的な感情論の大西民子論(別居、破婚、孤独、葛藤、夢、幻想、欠落、・・・)はナンセンスだった。私は文中の絵画の記事と共に、さりげなく書かれた高文試験での哲学、倫理学の選択やライプニッツの「モナド論」、愛読書であったという、デュラントの『哲学夜話』に興味を覚えた。
・5月 1日(愛読書の『哲学夜話』)
今日は大西民子の愛読書だったというウィル・デュラント(陶山務訳)の『哲学夜話』が届いた。昭和15年5月、銀座数寄屋橋の第一書房発行で定價78銭である。プラトンからニーチェまで9人の哲学者の各章とベルグソン、ラッセルら当代の6人を1章とした10章構成、360余頁の本である。
私はまず、あの若きウィトゲンシュタインも学んだ、7人目のショーペンハウエルから読んでみた。天才論に続く芸術論のなかに、「人の肖像は、写真のような忠実さを目指してはならぬ。出来るかぎり、像をとおして、人間の本質的な、或いは普遍的な性質を表現することに努力すべきだ。」とあった。
私はアッと、あの奈良女高師での、前川佐美雄氏の短歌指導の言葉を憶い出した。これは偶然だろうか。この『哲学夜話』は昭和16年8月の4刷までに、4万9千部も出版されている。「芸術は直感と表現によって端的にその目標に到達できる。」そして「・・・芸術には天才が必要である。」と続いている。
前川氏はショーペンハウエルを読んでいて、これを知っていたのではないか。だからこれが大西の座右の愛読書なのではないか。 今月のこの5月8日は大西民子の誕生日である。私は今、このブログをこの盛岡から発信できることを誇りに思う。
・5月 3日(「私のアンダルシア」)
昨夜は奥州市胆沢区の畏友、岩渕正力氏から電話があった。恒例の4月29日の関山中尊寺の、西行祭短歌大会に入賞したという。高名な俳人なのだが短歌もよく詠んで、大会には必ず入賞する異能な男である。
この岩渕氏は以前から、大西民子の父の菅野佐介氏は戦前、胆沢町の隣の前沢町の警察署長をして居たと主張していた。前沢町に大西民子の足跡があるというのである。氏は2002年以来地元紙の「胆江日日新聞」に「いしぶみのこゑ」を隔週連載していて、その第22回が「大西民子の歌碑」(2003年5月28日付)だった。伊藤園の懸賞俳句の賞金を元手に、大宮の氷川の杜文化会館の大西の歌碑を探訪したのだ。「かたはらに置くまぼろしの椅子ひとつあくがれて待つ夜もなし今は」の歌碑の写真とともに、明晰で香気のある名文で大西民子を紹介していた。
私は数日前に読んだ、「大西民子随筆集」の「私のアンダルシア」(p.47)を全文読んでやった。大西はこの前沢町を、思い出の深い町といっている。
「アンダルシアの野とも岩手の野とも知れずジプシーは彷徨ひゆけりわが夢に」 (『まぼろしの椅子』)
はこの前沢町のお城跡の丘から西方の広大な胆沢野、奥羽山脈にいたる光景を詠んだのだと言っている。大西が女学校在学中に、大西の父はこの前沢町に転勤になった。大西は盛岡にひとり隣家のイタコさんの家に下宿して、時々父のところに帰ったのだ。この城跡の丘をよく散歩したのだという。
岩渕氏は深いため息をついた。電話は延々2時間にもおよんだ。大西民子の人と作品、文学精神の真価をまず岩手の人が知り、顕彰することを、その策を熱く説くのである。確かに大西民子のうたは、知れば必ず引き込まれる。しかし大西民子は盛岡でも、岩手県でもあまりにも知られていない。
・5月 7日(『哲学夜話』の笑い)
大西民子の誕生日は、明日の5月8日である。第一歌集『まぼろしの椅子』は、昭和31年4月1日が発行日である。奇しくもエイプリルフールの日であるが、当時の大西にそんな機知があったのだろうか。新刊の『まぼろしは見えなかったー大西民子随筆集ー』を読むとそうしたことさえ考えてしまうほど、素顔の大西は屈託がない。
昨年の2006年はその『まぼろしの椅子』から50年大西没後13年であった。『本随筆集』と『私の2篇の論考』によって、もはや従来の、別居、不安、葛藤、孤独、破婚、離婚、欠落などという、全く一面的な安易な感情論による大西民子論は幕引きである。今年の誕生日の大西はきっと微笑むのではないか。
その「笑い」について、デュラントの『哲学夜話』(p.47)で大西は「吾々は、避くべからざるものに面して笑い、死に面してさえも微笑する術を学びたい。」と書いている。 私はこの5月8日に間に合わすべく、この『哲学夜話』を読んだがそれは見つからなかった。大西はきっと別のショーペンハウエルも持っていたに違いない。
私がようやく見つけた、ショーペンハウエルの「笑い」には、「われわれをほとんど避けがたく、笑うべき道化に仕立てるのはものものしい相貌を帯びずにはいないその時どきの現在と渡り合うときのわれわれの真面目さである。ごく僅かの偉大な精神だけがこれを乗り越えて、笑うべき道化から笑う人間になっているのである。・・・笑う人間はどんな場合にも真理を味方につけている。」であった。
(9月2日追記、前記の大西民子の印象的な「吾々は避くべからざるものに面して笑い、死に面してさえも微笑する術を学びたい。」であるがこれは実はこの『哲学夜話』のウィル・デュラント自身の格調のある序論「哲学の効用について」のなかにあった。
先日、街頭の古書市で文庫本の棚を何気なく覗いていたら、ウィル・デュラントの文字が眼に飛び込んできた。講談社学術文庫の『西洋哲学物語』(上)・(下)村松正俊訳、1986年である。古い『哲学夜話』と比べるとこちらの方が遙かに読みやすい。買って帰って見ていたら、なんと上記の序論のなかにそれを発見したのである。そしてあれこれ比較してみるとこの『西洋哲学物語』は『哲学夜話』の丁度2倍ほどのボリュームがあることがわかった。またこの『西洋哲学物語』は昭和2年頃アルス社からも同じ村松氏の訳で上・下2巻で出版されている。しかしこの講談社文庫版にはその辺のいきさつの記載は全くないのである。今改めてこの『西洋哲学物語』で、ウィル・デュラントの奔放な「哲学物語」を読み直しているところである)。
・5月 8日(「岡鹿之助展」)
今日は大西民子の誕生日であるので静かに絵画のブログとしたい。この随筆集の「時代の子ー岡鹿之助展ー」(p.108)は絵画の話題に溢れている。岡鹿之助とならんでパウル・クレー、ゴッホが登場し、楽しげな会話体で関心の深さがわかる。周囲に絵画のわかる友人が居たのだ。私は本論でも紹介したが、大西は『自解100歌選』でこの岡鹿之助を日本人の画家で一番好きな画家だと言っていた。文中の「雪の発電所」(毎日美術賞)の翌年の
1957年(昭和32年)には盛岡の小岩井農場の「雪の牧場」の
絵を4点も描いているのだ。私はこの「雪の発電所」の絵でさえ、盛岡の米内発電所だと思ったほどだった。信州だと言うがそっくりなのである。
この岡鹿之助は大西ファンには必見であろう。静謐な雪の風景
画や、三色菫などの花の絵が、繊細な点描で描かれていて美しい。手頃な画集は『アサヒグラフ別冊美術特集岡鹿之助』(昭和60年2月刊)が最適である。現在ネット書店に2~3冊残っている。
なおこの岡鹿之助の師は岡田三郎助である。現在「朝日新聞岩手版」に「野の花 深沢紅子の生涯」が連載されているが、この深沢紅子の師でもあった。女子美術の教育、育成にも多大の功績があったという。
・5月 9日(「歌の挨拶」)
随筆集の「歌の挨拶」(p.222)も絵画が話題である。昭和48年の夏に慶応病院に入院中の師、木俣氏を新刊の美術全集を持って見舞ったという。画集は、ルオーとドガの2冊、この頃の新刊美術全集といえば、『現代世界美術全集全25巻』(昭和47年刊、集英社)である。大西は『自解100歌選』で、一番好きな画家は、ルオーだと言っていた。それぞれ80点ほどの絵があり、いい画集である。大西の心が隠っていたはずである。そして後に木俣氏のうたに、ようやく1首、辛うじてこのルオーの名を見つけたのである。
ところで昨年の『短歌研究』9月号の「近藤芳美追悼座談会」で馬場あき子氏が「近藤さんはブラックが好きだった。」という一言があって、私はエッと思った。近藤氏の「森くらくからまる網を逃れのがれ・・・吾の黒豹」にはかねてブラックの面影があると思っていたからだ。しかし司会の篠弘氏が、それに全く無関心で、すぐに話題を逸らしてしまう、アア情けない・・・。
しかしである。近藤氏が朝日歌壇を引退する時のインタビュー(2005年1月26日、朝日新聞朝刊)の写真では、自宅の書斎の壁を飾っていた絵は正しくルオーの「ミセレーレ」でしたよ。それこそ文字どおり真っ黒いルオーですよ。ことほど左様に歌壇は絵画に疎いのである。何故かこの程度なのですよ。大西民子も未だに呆れているに違いない。ほんとに無知と言っていい。
(2008.3.4追記)近藤氏の「ブラック礼讃」というエッセイを発見した。『世界美術全集33 ブラック・レジェ』(昭和53年7月刊、小学館)にあった。前出の馬場あき子氏の「近藤さんはブラックが好きだった。」は本当のようである。5000字ほどのこのエッセイは「ブラックはわたしの愛する近代画家のひとりである。・・・・」という書き出しで始まっている。ブラックへの興味は大学の建築学生時代の「バウハウス」の前衛建築雑誌(ドイツ版)や、その背後の前衛絵画(キュビズムのことらしい)が無意識的な素地となったという。昭和27年9月の「ブラック展」東京国立博物館)をみた近藤氏は、後でひとりで出かけた奥さんが版画の複製を求めて来、それが額に入って寝室を飾っているという。壺に女の横顔がギリシャの黒絵のように描かれた版画であるという。(写真はあるが版画は無題) その後に求めたブラックの画集は数冊、なかでも「小型円卓」や「女音楽師」が印象深いという。そして「断崖」を経てブラックの晩年に至る、-アトリエのなかの静物画やさらに晩年の田園風景、鍬や鋤の農機具や鳥の絵画の単純化された造形の象徴するもの-、-古典的な形や色の均斉と静謐さ、そこに重ねられた悲哀-これらはヨーロッパの知性の奥行きであると述べている。これが近藤氏のおおよそのブラックへの傾倒、讃美のようである。
・5月16日(「モナド論(1)」)
『大西民子随筆集』には、デュラントの『哲学夜話』のほかに私が興味を持った、もうひとつの名前があった。ライプニッツの「モナドの論」(p.51)である。但しライプニッツはこの『哲学夜話』には登場していない。
この随筆集の「円周を固めたい私」(p.48)で大西は珍しく自分の歌論を展開している。「私にとって歌とは、自分を統一するための手だて。」、「私はつねに私の円の中心に位置して、どんなに小さくとも、円がつねに全円であるように、つとめなければならない。」、「私自身は殆ど円の中心からうごくことがなくて円周の壁を中心に向かってひきよせる、運動のくりかえしである」。「混沌は混沌のままにたばね、闇は闇のままにきっちりと円周内にかこっておかねばならぬ。」と、繰り返しうたの求心性を説いている。まるでコンパスで、同心円を描いているような言葉である。学生時代から好きだったという哲学思想、ライプニッツの「モナド論」とは何だろうか。
・5月24日(「モナド論(2)」)
ルネ・デカルト(1596~1650)が、『方法序説』で提唱した命題、「我思う、ゆえに我あり」は人間の理性、自我、懐疑の自覚であり、ここに近代哲学の幕は切って落とされた。世界の実体は精神と物質に二分された。この存在の実体を、神というひとつの概念(汎神論)で括ったのがスピノザ(1632~1677)であり、無数の「モナド(単子)」としたのが、ライプニッツ(1646~1716)であった。ライプニッツは微積分、論理学から哲学にわたる万学の天才であった。デカルトの懐疑はライプニッツの『モナドロジー』の存在論の問いのなかに深い底流をなしている。「モナド」とは私でもある。
この哲学的な問いが、個別の私に向って「私とは何か」、「私の唯一性とは何か」と問い続けるとき、その答えは繰り返し出力として表現され、次第に形を帯び具体的なものとして、目に見えるものとなり、事実と化す。それが問いを引き起こす初期条件に組み込まれて、再び問いを求める。今度の問いの探究から第二次的な出力が生み出され、さらなる問いへの初期条件に組み込まれてゆく。かけがえのないことを問うことによって生みだされる、かけがえのない答えの応答。「私とは何か」を問うことで、なぜ私がそういう問いを問うているかが見えてくるのだ。これは前記の大西民子の歌論、歌風にどこか繋がっているのではないか。(参考文献『ライプニッツ』山内志朗2003年1月NHK出版)
・5月26日(「モナド論(3)」)
ライプニッツの「モナド論」を、もう少し別の角度から見ておきたい。以下は『世界の名著 スピノザ・ライプニッツ』(下村寅太郎昭和44年8月25日、中央公論社)からの引用である。こちらのほうが大西民子の作歌論、「円周を固めたい私」(p.48、『短歌新聞』昭和45年1月)に近いかもしれない。
「精神は不可分でそれ自身によって1でありながら、無限な多を表出する。あたかも、円の中心は点でありながら無限多の直径をふくむように、精神はそれ自身1でありながら、過去・現在・未来にわたる無限な表象をふくみうる。精神には実在的に多が内在するのではなく、精神は多を表現・表出する1である。この「表現」.「表出」の概念は、ライプニッツの『モナドロジー』のもっとも重要な根本概念である。」(この記述の2つ前からの1と多についての形而上学的概念のフレーズも重要)。
デカルト(1596~1650)によって確立された、ヨーロッパの理性的思考は、このライプニッツ(1646~1716)の「モナド論」を生みカント(1724~1803)、ショウペンハウアー(1788~1860)へと引き継がれた。ショウペンハウアーの『意志と表象の世界』を学んだ若きウィトゲンシュタイン(1889~1951)は、犀利で高度に純粋化された『論理哲学論考』を生み出したのだ。優れた思想家や作家、歌人の場合はその書いたものは、自分の意図以上の光芒を放つことが多いと思う。
・5月28日(大西民子の理性の所在)
私はこの断章のなかでこの『まぼろしは見えなかったー大西民子随筆集ー』から、主として大西民子の理性の所在を追求してきた。この理性への関心はかって書いた『大西民子のうたと絵画』の終章で、「大西の短歌が日常を詠っていながら心を打つのは、理性の高さ、芸術性の深さである。」と既に指摘しておいたことであった。当時はそれは直感であったが、この随筆集にそのいくつかの断簡を発見出来たことは幸せであった。大西民子の作歌論の背後には哲学的、倫理的な深い洞察のあることがわかったし、また絵画に対する深い理解と共感のあったことはすでに明らかにしたとおりである。これらのことは、従来のあまたの「大西民子論」には、全く欠落していたことである。
また実は大西の文章は、もう少し硬質で理知的かなと思っていたが実に柔らかである。これは大西の語り口そのままなのだという。しかし私は大西の次の憤怒の一首を忘れることができない。
ねんごろの見舞ひなりしが去りぎはに人のいのちを測る目をせり
(『風の曼陀羅』)
この目つきをした人物は誰か。私はこの人物を知った。S氏であった。 (了)