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■「知られざる“大阪城の抜け穴”」 2010/11/11 放送

 大阪城の地下に巨大な抜け穴が存在することはほとんど知られていません。

 「VOICE」の取材班が初めてその全貌を捉えました。

 歴史遺産の真下に誰が何の目的で造られたのか、大阪市も調査に乗り出しました。




 訪れる観光客は年間およそ600万人。

 秋の行楽シーズンともなると、大阪城は賑わいを増します。

 <観光客>
 「大阪の観光の名所でシンボルみたいなところはある」
 <オーストラリア人>
 「素晴らしい、驚くね。“秀吉”が日本を統一したんだろう」

 その大阪城に秘密の「抜け穴」があるのをご存知でしょうか?

 秀吉の時代ではありません。

 それは今から65年前だといいます。

 「抜け穴」を研究してきた元大阪城天守閣の館長、渡辺武(たける)さん。

 (Q.この下に何があったんですか?)
 <渡辺さん>
 「入口、『防空壕』の入口」

 つまり「抜け穴」とは「防空壕」だというのです。

 その入り口が、天守閣の南側にある「空堀」に残されているといいます。

 早速、大阪市立会いの下、「空堀」に下りてみることにしました。

 雑草が覆う「空堀」。

 石垣の片隅に穴があいているのが見えます。

 <渡辺さん>
 「ああこういう状態ですわ」
 (Q.これ造られたのは?)
 「昭和19年末か20年頭、終戦直前」

 撒きついたツルを刈ると、石垣をくり貫いてできた防空壕の入り口が姿を見せました。

 中は数メートル行ったところで埋まっているといいます。

 カメラで中を覗くと…

 <記者>
 「何か見える?」
 <カメラマン>
 「一応見えます。何か蓋がしてあるみたい…」

 やはり奥まで行けないのか…

 念のため、中の様子を探ることにしました。

 <記者>
 「ここは崩れてますね」

 一部はコンクリートがはがれ、土砂が入ってきています。

 よくみるとコンクリートの厚さは30センチ以上あり、本格的なつくりです。

 この先は行き止まりの筈ですが…

 <記者>
 「奥にまだ行けるんじゃないの…」

 中腰で進んでいくとその先には…

 <記者>
 「これ右に曲がっているな… まだあるぞ、うわー、まだある」

 カメラが捉えたのは、誰も知らない「大阪城の秘密通路」でした。

 <渡辺さん>
 「これはもの凄いもの造りよったなあ」


 大阪城「空堀」で見つかった防空壕。

 なぜここに造られたのでしょうか…

 そしてその全貌は・・・

 大阪市立ち会いの元、渡辺さんと探索を続けました。

 入口から12メートルほどで右に曲がった防空壕。

 さらに20メートルも続いていました。

 奥へ進むと雨水が溜まっているのか、水が増えてきます。

 コンクリート製で強固な造り。

 高さは2メートル程です。

 <記者>
 「これ扉の跡ですかね…」

 朽ちた木の杭は、実は扉の跡でした。

 そこかしこに残されていますが、なぜ設置されたのでしょうか?

 <渡辺さん>
 「これは部屋になっているんです。両方に扉があってね…」



 このような本格的な防空壕。

 造られたのは第二次大戦中にさかのぼります。

 1945年。

 アメリカ軍は日本の都市を激しく空襲する様になりました。

 大阪も例外ではなく特に陸軍の主要施設が密集していた大阪城周辺は、激しい爆撃をうけます。

 大阪城天守閣の横に残る古い建物。

 かつての中部軍管区司令部で近畿、中部などを統括していました。

 それだけではありません。

 陸軍の第4師団司令部、空襲警報を発令する通信本部なども置かれていました。

 奥田春美さん(90)も第二次大戦中、通信本部で働いた一人でした。

 <奥田さん>
 「B29がものすごい低空なんですよ。足がすくんで前に行けません」

 奥田さんは、当時、女子通信隊の一員として侵入してくる敵機の情報を集めていました。

 終戦間際には、通信隊の補充人員として300人もの女子が採用され、大阪城内で職務に
当たっていたのです。

 しかし、終戦直前には空襲の回数が増し、奥田さん自身も危ない目にあったと言います。

 <奥田さん>
 「友軍機がくれば青いランプがつく、敵機なら赤がつく」
 「京橋から玉造まで、全部で13(の1トン爆弾)落ちた」

 そこで造られたのが、緊急時に軍人が避難できる地下防空壕だったのです。



 再び「空堀」で見つかったあの防空壕。

 さらに先がありました。

 <渡辺さん>
 「案の定、別の入口に通じている」

 さらに進むと防空壕は左右に分かれ、片方は空堀の別の入口に、もう片方はさらに奥へと繋がっていました。

 天井には電球をつるすソケットも残されていました。

 <渡辺さん>
 「エ―」

 さらに左へ行くと・・・

 防空壕はそこで行き止まりになっていました。

 奥にはやはり扉があります。

 <記者>
 「これはが鉄(の扉)ですね」
 <渡辺さん>
 「ここが、第四師団司令部への入口ですね」

 このさび付いた鉄の扉から、そのまま師団司令部に出入りできたと考えられます。

 総合すると、「空堀」からの入口は2つ。

 防空壕は迷路のように第四師団司令部に繋がっていました。

 全長はおよそ60メートル。

 <渡辺さん>
 「これは驚いた。第2次大戦の戦争遺跡としては、これだけの防空壕は大阪市内にはないと思う。部屋が5室もあった」
 (Q.こんな規模とは思ってなかった?)
 「思ってなかったなあ…」

 防空壕の中は細かく扉で仕切られ、司令部が破壊された時には防空壕から指示を出すことができたといいます。

 石垣に掘られた65年前の抜け道。

 大阪市も調査の必要性を明らかにしました。

 <大阪市の担当者>
 「あれだけ大きいとは思っていなかった。関係元(国・教育委員会)といろいろ協力して連携を持って調査に臨みたい」

 ただ、「もっと巨大な防空壕があったはずだ」と渡辺さんはいいます。

 <渡辺さん>
 「2メートル角の防空壕をまっすぐ北へ天守閣の近くまで掘っていたはず」

 渡辺さんが行った聞き取り調査によると、空堀から天守閣方向に長さ124メートルの防空壕が掘られたといいます。

 さらに、軍司令部など4か所から深さ15メートルまで階段が造られ、空襲の際に避難できたといいます。

 かつての中部軍管区司令部の壁には、今でも入口の跡がはっきりと残されています。

 かつて女子通信員として勤務していた奥田さん。

 久しぶりに大阪城を訪れました。

 (Q.いろいろ思い出しますか?)
 <奥田さん>
 「うあー、懐かしいわー。軍司令部まだあるやん」

 ここに来ると65年前の記憶がよみがえると言います。

 <奥田さん>
 「女でもお国のために一生懸命やってきた。それは言える」
 「私たちのいた大阪城は、こんなんではなかった」

 かつて、ここが軍の要塞だったことを知る人はもうほんの一握り。

 65年前の「秘密の抜け穴」は、その事実を明確に物語っています。




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